《會員の發表文 他》:弐〔当HP:目次〕
平成二十二年七月以降の選擇評論につきましては、發表文と「讀書メモ」は同一ページに掲載してあります。 平成二十二年六月選擇評論: K.K讀書メモ:kknhk.pdf へのリンク 吉野櫻雲:發表文平成二十二年五月選擇評論: K.K讀書メモ:kk.kyuusinteki.pdf へのリンク 吉野櫻雲:發表文平成二十二年四月選擇評論: K.K讀書メモkkzokubutsuron.pdf へのリンク 吉野櫻雲:發表文平成二十二年三月選擇評論:全集第一巻所收『永井荷風』 K.K讀書メモkknagaikahuu.pdf へのリンク 吉野櫻雲:發表文平成二十二年二月選擇評論:全集第六巻所收『祝祭日に關し衆參両院議員に訴ふ』 K.K讀書メモkk.shukusaijitsu.pdf へのリンク 吉野櫻雲:發表文平成二十一年十二月~二十二年一月選擇評論:全集第二巻所收『藝術とはなにか』 K.K讀書メモgeijyutsu.pdf へのリンク 吉野櫻雲:發表文
平成二十一年十一月選擇評論:全集第一巻所收『民衆の心』 吉野櫻雲:
平成二十一年十月選擇評論:全集第二巻所收『謎の喪失』 K.K讀書メモnazonosoushitsu.pdf へのリンク 吉野櫻雲:發表文
平成二十一年九月選擇評論:全集第二巻所收『職業としての批評家』 K.K讀書メモshokugyoutositenohihyouka.pdf へのリンク
平成二十一年八月選擇評論:全集第二巻所收『文學の效用』 K.K讀書メモbunngakunokouyou.pdf へのリンク 吉野櫻雲:發表文
K.K讀書メモbungakushikan.pdf へのリンク
平成二十一年六月選擇評論:『反近代について』
吉野櫻雲:發表文
平成二十一年五月選擇評論:全集第六巻所收。 「新聞における『甘えの構造』」「新聞の思上り」「新聞への最後通牒」
平成二十一年四月選擇評論:全集第七巻所收『孤獨の人 朴正煕』
平成二十年十月~平成二十一年三月選擇評論:全集第三巻所收『人間・この劇的なるもの』 吉野櫻雲:發表文
平成二十年九月選擇評論:全集第三巻所收 *第一部:『漢字恐怖症を排す』*第二部:『國語問題と國民の熱意』*第三部:『覺書三』
平成二十年八月選擇評論:全集第五巻所收 『常識に還れ』『常識に還れ・續』 吉野櫻雲:發表文
平成二十年七月選擇評論:全集第六巻所收 『フィクションといふ事』 吉野櫻雲:發表文 《平成二十年六月二十二日:『福田恆存を讀む會』》 六月選擇評論::全集第五巻所收『飜譯論』 吉野櫻雲發表文 《平成二十年五月二十五日:『福田恆存を讀む會』 五月選擇評論::全集第七巻所收〔小林秀雄の「本居宣長」〕 K.K讀書メモmotoori.pdf へのリンク 吉野櫻雲發表文 《平成二十年四月二十七日:『福田恆存を讀む會』》 四月選擇評論:全集第三巻所收『戰爭と平和と』 吉野櫻雲發表文 《平成二十年三月二十三日:『福田恆存を讀む會』》 三月選擇評論:全集第七巻所收『言葉・言葉・言葉』 吉野櫻雲發表文 《平年二十月二十四日:『福田恆存を讀む會』》 二月:選擇評論:全集第六巻所收:『教育の普及は浮薄の普及なり』 吉野櫻雲發表文 《平成二十年一月二十七日:『福田恆存を讀む會』》 一月「選擇評論」:全集第六巻所載 『傳統技術保護に關し首相に訴ふ』(「潮」昭和四十一年四月號:五十五歳) 吉野櫻雲發表文 《平成十九年十二月十六日:『福田恆存を讀む會』》 十二月「選擇評論」:全集第四巻所載『文學以前』 《平成十九年十一月十一日:『福田恆存を讀む會』》 十一月:選擇評論:全集第二巻所載『チェーホフ』 *K.K女史 發表文(各節の要点・讀後感)chefofu.pdf へのリンク 吉野櫻雲發表文 《平成十九年十月十四日:『福田恆存を讀む會』》 十月:選擇評論:全集第二巻所載『理解といふこと』 《平成十九年九月二十三日:『福田恆存を讀む會』》 九月:選擇評論:全集第二巻所載:『告白といふこと』(「文藝」昭和二十七年七月號)及び『自己劇化と告白』(「文學界」同年十二月號:四十一歳) 《平成十九年八月十二日:『福田恆存を讀む會』》 (注:七月は颱風の爲取り止め) 八月:選擇評論:【全集第五巻所載:『進歩主義の自己欺瞞』(「文藝春秋」昭和三十五年一月號:四十九歳)】 *K.K女史感想文 《平成十九年五月二十七日・六月二十四日:『福田恆存を讀む會』》 五・六月:選擇評論:全集第三巻所載:『戀愛と人生』(「婦人畫報」昭和二十八年一~七月號:四十二歳) *K。K女史レポート 2kk.report.pdf へのリンク *K.K女史 發表文(讀書メモ) kkdokushomemo.pdf へのリンク 吉野櫻雲發表文 renaitojinsei.pdf へのリンク 四月:選擇評論:【全集第五巻所載『傳統にたいする心構』(新潮社版「日本文化研究」第八巻:昭和三十五年七月刊)四十九歳著】 吉野櫻雲發表文 ***************************** 【欄外:會員質疑にたいする説明として】 Ⅰ.「沈湎(ストレス状況)」と「實在感」との関聨・・・・吉野櫻雲發表文 〔略圖〕
以下、恆存評論より小生が理解する處を開陳します。 「沈湎」とは、空間的には「場」への居着き(距離間隔の狹小)を示す。そして時間的には、意識が過去に囚はれ、かつ附隨的には未來を「取り越し苦勞する」と言ふ性格を持つ。その状況下では、意識の振り子(假説的喩へ)は時間的に過去未來にたえず振り切れ、少しも現在に垂直交叉が出來ると言ふ状態にゐない(即ちストレス状況)。 故に以下のメカニズムからなる、「時間的全體感」⇒「實在感」の獲得から意識は遠く離れざるを得ない。此の事は小生も常々いたく感じる處である。なほ以下内容は別紙《恆存の「實在感」についての考察》からの抜粋につき當文を併せてご參照されたし。 ④意識の集中強烈化の効果的實行により「意識は、平面を横ばひする歴史(過去・現在・未來といふ時間的繼續)といふものに垂直に交はる」。即ち垂直交叉して「部分(現在)を部分として明確にとらへる」事が可能となる。 ↓ ⑤集中強烈化により、「意識的に部分(現在)としての自己を味はひ尽くす課程において、全體感(時間的全體感)が象徴的に甦る」。何故ならば「過去と未來とから切り放たれた現在だけが、過去・現在・未來といふ全體の象徴として存在してゐる」からである。「前後に暗黒があればこそ、その間の時間を光として感じることができる」即ち「意識は過去・現在・未來の全體を眺めわたせる地位にありながら、しかも限られた枠のなかだけしか見ようとしないから、その間の時間の経過を強烈に味はふことができる」(P532~3)のである。 ↓ ⑥さうした「時間的全體感」の獲得により、「(自分の肉體からそつと足をぬいて)上に脱け出た意識は、足下の現實が時々刻々に動いてゐることを(まざまざと)實感」(P532~3)する。即ち「實在感」が其處に成立する。 以上 注:平成十九年四月二十九日、二頁目の加筆及び修正(赤・黄・傍線部分) その上で、西歐近代の確立と超克とを説いたのである。明治以降日本の物質的近代化を「近代化」の全てと錯誤し、それのみで事足り得、精神的近代化缺如のいはゆる「近代適應異常」の日本に、恆存は警鐘を鳴らしたのである。まずは「精神の近代化(個人主義)」の確立を日本に説き、更に其處に留まらずに、個人主義(西歐近代自我)の限界からの脱皮として、「完成せる統一體としての人格」論を我々に提示したのである。 すでに危殆に瀕してゐる西歐近代自我(個人主義)に對して、「前近代」の精神性に留まつてゐる我々日本人はどうしたらいいか。それについて福田恆存はかく言ふ。 「西歐を先進國として、それに追いつかうといふ立場から、『アジアの前近代的な非人格性を否定し、西歐の近代精神たる個人主義を身につけろといふのではない。それこそ、私のいふ距離感の喪失にほかなりません。私はあくまで西歐の生きかたと私たちとの間の距離を認識しろといつてゐるのです。眼前にある西歐を、(中略)まず異質なものとしてとらへ、位置づけすること、さうすることによつて『日本および日本人』の獨立が可能になるでせう。それを日本人の個人主義の成立とみなす」(『日本および日本人』)と。 そして「日本人の個人主義」の型を以下の如き例への中で展開し、「完成せる統一體としての人格」論として提言するのである。 「一般の日本人は、自分の子供が戰場に駆り立てられ、殺されるのが嫌だからと言つて、戰爭に反對し、軍隊に反撥し、徴兵制度を否定する。が、これは『母親』の感情である。その点は『父親』でも同じであらう、が、『父親』は論理の筋道を立てる。國家(場面)といふフィクションを成り立たせるためは、子供が戰場に駆り立てられるのも止むを得ないと考へ、そのための制度もまたフィクションとして認める。が、彼にも感情がある。自分の子供だけは徴兵されないように小細工するかも知れぬ。私はそれもまた可と考へる。『父親』の人格の中には國民としての假面(役・自己劇化)と親としての假面と二つがあり、一人でその二役を演じ分けてゐるだけの事である。そして、その假面の使ひ分けを一つの完成した統一體として為し得るものが人格なのである。『私たちはしつかりしてゐない』という自覺が、『私たち』をしつかりさせてくれる別次元のフィクションとしての國家や防衛を要請するのである、要するに人格も法も國家も、すべてはフィクションなのであり、迫持(せりもち)、控へ壁などの備へによつて、その崩壊を防ぎ、努めてその維持を工夫しなければならぬものなのである」(P703全6『覺書』)(「テキスト十圖」:參照) 「問題は、すべてはフィクションであり、それを協力して造上げるのに一役買つてゐる國民の一人、公務員の一人、家族の一人といふ何役かを操る自分の中の集團的自己をひとつの堅固なフィクションとしての統一體たらしめる原動力は何かといふ事である。それは純粋な個人的自己であり、それがもし過去の歴史と大自然の生命力(時間的全體・空間的全體:小生注)に繫つてゐなければ、人格は崩壊する。現代の人間に最も欠けているものはその明確な意識ではないか」(全集六P703~4『覺書』)と。 二役のみならず何役(國民の一人、公務員の一人、家族の一人)、を操る「自己劇化」が出来得る人格として、「完成せる統一體としての人格」論がそこに登場するのである。 何役かを操る「自己劇化」を別な表現では、各場面場面で關係的眞實を生かしていくのだ、との内容で言つてゐる。その究極が「完成せる統一體としての人格」なのだと。以下恆存の文を索引しながらその内容を記載する。括弧内は小生注である。(「テキスト十圖及び十一圖」:參照)
そしてその行爲(宿命/自己劇化)の内に、「真の自由=實在感・全體感(必然感)=幸福感」が齎される。さうした演戯のプロセスの内に、演劇(時間藝術)と同じく、今なすべきことをしてゐる、又は「なさねばならぬことをしてゐる」と言ふ必然感、時間的全體感(實在感)が味はへるのである。そして自己劇化のとるべき最終目的的「迂路」が「全體・絶對」といふ事になる。 此處まで書いてきた時、さう言へば恆存の生き方にも将にこれが貫道してゐるのでは、とはたと小生は思ひ到つた。と同時に恆存の以下なる文章が浮かんできたのである。 「いはばコップから水を飲むことすら完成せる統一體の一構成分子たらしめることだ。文學者とは(中略)たんなる現實の素材に意味的聯關を與へるやう強烈な意識をもつて、その生活を主題的に統一して生きぬかうとする人間のことにほかならない」(全二P297『急進的文學論の位置づけ』)。 をはり 《平成十八年十二月十七日他(一・二月)『福田恆存を讀む會』》 十二月から二月迄:選擇評論: 全集第六巻所載:【『獨斷的な餘りに獨斷的な』(「新潮」昭和四十九年一~四、八、九、十一、十二月號及び五十年二、三月號:六十三~四歳)】 dokudankk.pdf へのリンク *會員生方氏の感想。 《平成十八年十一月十二日『福田恆存を讀む會』》 十一月:テーマ評論:
全集第六巻所載:【『教育改革に關し首相に訴ふ』(「潮」昭和四十一年六月號:五十五歳) 《平成十八年十月二十二日『福田恆存を讀む會』》
《平成十八年九月二十四日『福田恆存を讀む會』》十月:テーマ評論: 全集第五巻所載:【『論爭のすすめ』(「中央公論」昭和三十六年三月號:五十歳著作)】 *K.K女史 發表文(各節の要点・讀後感) ronsounosusume.pdf へのリンク *吉野櫻雲 發表文 九月:テーマ評論: 全集第七巻所載:【『シェイクスピア劇のせりふ』 (「季刊藝術」第四十三號:秋季號。昭和五十二年十月刊:六十六歳)】 *K.K女史 發表文(各節の要点・讀後感) 2kksheikusupia.pdf へのリンク *吉野櫻雲 發表文 《平成十八年八月二十七日『福田恆存を讀む會』》
八月:テーマ評論:【全集第七巻所載『醒めて踊れ』(「新潮」昭和五十一年八月號:六十五歳)】 sameteodore2.pdf へのリンク *吉野櫻雲 發表文 **************************************** *以下は會員生方氏發表文とそれに對する小生(吉野)の見解であります。 《會員「生方氏:發表文》(生方史郎の「古典派からのメッセージ」にも掲載) 《福田恆存の近代化論をめぐって》 さる八月の福田恆存読書会で、全集第七巻所収の「醒めて踊れ」が取り上げられた。演劇論的人間観に立って、日本人にとっての精神の「近代化」とは何かを論じたこの文章を読み、また、この読書会の世話役をしておられるY氏がまとめられた各種のレジュ読して、いくつか解明したい事柄に思い当たった。 Ⅰ 福田は、ロレンスを敷衍して、人間は集団的自我と個人的自我を持つと述べる。集団的自我とは、家族、企業、国など、様々の集団に属してその中で必要な役割を演じる自我であり、個人的自我とは、そうした集団に帰属させ得ない純粋な個人としての自我である。人間は、集団的自我によって世俗的な諸事つまりは政治、経済といった社会的な活動を行い、個人的自我において精神的な諸事つまりは文学や宗教に向き合う。福田の言葉で言えば「すすんで他と関はり合い、他を支配したり他に支配されたりすることを通して自己を生かさうとする」のが集団的自我であり、「おのれを完成せしめんとする」のが個人的自我である。 ルネサンスは古代地中海文明の実証精神の復元であるといわれる。しかしこの時代はまだ神に向き合う個人的自我は自我の大きな割合を占めていた。したがってルネサンスの実証精神とは、神に似せた人間の姿の追求であり、神への奉仕として現れたのである。一方ルネサンスは世俗的欲求の解放運動でもあった。肉体を悪と見なすことをやめ、肉体的、金銭的等々の世俗的な欲求をそれ自体として肯定した。世俗的欲求を解放し、世俗的問題を信仰の問題(個人的自我)から切り離し、世俗的手段によって解決しようとした。病気は祈祷によってではなく医学によって、貧困は慈悲によってではなく政治によって解決すべきだと考えられるようになる。個人的自我に対して集団的自我の領域が拡大され始めたのである。 十八世紀になると神は次第に希薄になった。人々の個人的自我は、それまで向き合っていた絶対者たる神を押しのけて、そこに自分自身を据え、自己主人公化が行われるようになった。個人主義が浸透し始めたのである。国家と宗教の分離も進んだ。英国は既に英国国教会を設立して政治のカトリックからの脱却を終えており、フランスもフランス革命によって政教分離した。実証精神は自然科学と産業技術を発展させ、集団的自我の領域がさらに拡大した。それまで個人的自我によってしか解決できないとされていたあらゆる問題(宗教に救いをも求めるしかないと思われていた問題)が、文明の進歩とともに政治、経済、科学技術によってやがて解決されると思われるようになったのである。福田の言葉を借りれば、「十八世紀が楽天主義の時代に見えるのは、個人の純粋性(=個人的自我)と支配・被支配の自己(=集団的自我)とのあいだの調和に合理化が行われ得ると信じられてゐたためであった。」 しかし十九世紀にはその楽観主義は裏切られる。資本主義の矛盾と呼ばれる問題や帝国主義の膨張は、人々に不安をもたらし、文明の未来を疑わせた。人々が国家や企業の中で演じなければならない役割はますます増大し、そうした集団的自我の拡大によって最小化した個人的自我は、もはや神を失い、自己を絶対化した。人々の個人的自我には、神意に基づく必然感や充実感は無く、自己満足とナルシシズムがそれらに取って代わった。ニーチェが「神は死んだ」と言った趣旨はまさにこのことであろう。生の充実を失った近代個人主義は行き詰まったまま現代に至っている。 福田は以上のような西洋の精神史の教訓から、西洋に追いつこうとした明治以降の日本の課題として私たちが考えなければならないポイントをふたつ挙げているように思われる。ひとつは、機械化、組織化、合理化というハードウェアの近代化に対応するソフトウェアすなわち精神面の近代化を図るべきであること。精神の近代化とは実証精神の貫徹である。近代日本は、西洋の物質文明を取り入れたが、物質文明の基礎であり彼らの精神史のエッセンスでもある実証精神を学んでいない、と福田は言う。「明治以降の日本人は、あらゆる物質的ないし肉体的なことに、すべて精神のベールをかぶせ、それをことごとく精神の発動として自己満足してきた」ことが、近代日本の大きな問題であると福田は述べる。特に社会的不満者としての文学者が持つ歪んだ劣等意識とその裏返しの特権意識や無責任性を厳しく糾弾している。「ぼくたちのうちに政治では救ひ得ぬどんな苦悩が存在してゐるというのか」と。今でも例えば日本の社会科学分野では、精神論に傾きがちな規範的言論が多く、事実やデータの累積や国際比較といった普遍性のある実証的方法が必ずしも主流になっていないと思われる。社会科学の基盤たる集団的自我と精神論の基盤たる個人的自我とのすり替えを行ってはならないのだ。集団的自我の領域の問題すなわち政治、経済、科学技術によって解決できる問題はそれら自身による解決を求めること、すなわち「カエサルのものはカエサルへ」を貫徹し、純粋に個人的自我の問題だけを文学や宗教や精神論の問題として扱うことこそ、西洋の実証精神であると福田は述べる。 実証主義の貫徹と関連して、福田は、言葉との距離を置けとも述べている。文明開化、自由、民主主義、グローバリゼーション…。これらの言葉に飲み込まれ、これらの言葉の起源や自分たちにとっての意味や距離の置き方などをよく吟味せずに、とにかくそれらに適応しなければいけないと、流行りものへの適応異常を繰り返してきたのが近代以降の日本の歴史である。自己と言葉との距離を最大限にせよ、と、福田は、それが演劇にも必須であることをふまえつつ繰り返し説いている。「醒めて踊れ」とはまさにこの趣旨である。福田は、西洋的実証精神を身につけよと訴えているが、同時に「西洋と距離を置け」と言っており、それができて初めて日本人の精神の近代化が成し遂げられることになると述べている。精神の近代化すなわち実証精神とは、対象との距離を置きそれを自由に統御する「精神の政治学」でもある。福田の言葉で言えば、「国民の一人、公務員の一人、家族の一人といふ何役かを操る自分の集団的自己をひとつの堅固なフィクションとしての統一体たらしめる」ことである。 西洋の精神史から私たち日本人が考えるべきもうひとつのポイントは、西洋近代の個人主義は行き詰まっており、これを超えるべきであるということだ。神を追放し自己を絶対化した近代西洋の個人主義は必然感と充実感に満ちた人生をもたらさなかった。個人的自我の上に自己を超えた絶対者を据えることで初めて人生はより良き宿命に満たされた人生の充実感を持つことができるのだ。福田曰く「・・・国民の一人、公務員の一人、家族の一人といふ何役かを操る自分の集団的自己をひとつの堅固なフィクションとしての統一体たらしめる原動力は何かといふことである。それは純粋な個人的自己であり、それがもし過去の歴史と大自然の生命力に繋がっていなければ、人格は崩壊する。」筆者が下線を引いた「過去の歴史と大自然の生命力」とは、まさに何らかの絶対的存在、自己を超えた存在のことであろう。しかし同時に、近代個人主義を乗り越えた「完成せる統一体としての人格」は、単に伝統に戻る復古主義では醸成し得ない。近代に(つまりは実証精神に)徹することでこそ近代は超克し得る、と福田が述べていることに私たちは注目すべきだ。福田は復古的ロマン主義者ではなく、あくまで現実的な戦略家として近代の超克をイメージしようとしているのである。 Ⅱ 福田の近代化論を以上のように理解したうえで、僕の疑問点の第一は、純粋な個人的自我が向き合う絶対者は、各自任意に立てればいいのか? という疑問である。極端なことを言えば、昨日はカトリックの神を拝み、今日は儒教的な天を信じ、明日は禅の空を押し頂くというような、「日替わりの絶対者」でもいいのか? いや、そうではあるまい。「過去の歴史と大自然の生命力」とは、その人の属する自然環境や風土や歴史を背景にした絶対者でなければならないのではないか。言い換えれば、共同体の倫理の基礎たり得る絶対者でなければならないのではないだろうか。それとも、日本人であっても、カトリック信者たることが必然であるのなら、カトリックの神と向き合えばいいのだろうか? また、たとえば学生時代に運命的に出会ったとすれば、禅と向き合うことも絶対者を持つことになるのだろうか? 個人個人がめいめい選ぶ絶対者は果たして絶対者といえるのだろうか? これと関連して、小室直樹氏は、「痛快!憲法学」(集英社)の中で、欧米の憲法にはキリスト教の基礎があり、憲法の基礎には絶対者が必要であることに気づいた明治の元勲たちが、天皇を絶対者にした「天皇教」を基礎に明治憲法を創案したと述べている。明治憲法の創案者たちは、共同体の倫理の基礎としての絶対者が必要であると気づいたのだろう。 僕の疑問点の第二は、集団的自我を統御しつつ絶対者と向き合う個人的自我、すなわち「完成せる統一体としての人格」を持つことが日本人にとって可能か、という疑問である。近代の超克はいかにして可能なのだろうか? いやそれ以前に、まず福田が掲げる第一の課題である精神の近代化すなわち実証精神を貫くことは可能なのだろうか? 実証精神とは、神に似せた人間の姿の追求であり、神への奉仕として現れたものだとすれば、絶対者の影が薄い日本の歴史と現実から、いかにして実証精神が生起し得るのか? 福田が言うように、日本において、言葉と距離を置くことが「小説では可能だが芝居では無理」だとすれば、実人生ではもっと難しいということにならないだろうか? 僕の疑問の第三は第二の問題と関連する。福田が「実証精神の欠如と距離感の喪失による適応異常」を問題としている日本の近代化を、日本の高い柔軟性との積極的な評価をする識者も内外に存在する。もし外来文明への鋭敏な反応(悪くとれば過剰反応ないし適応異常、良くとれば順応性ないし柔軟な日本的適応)が周辺文明の宿命だとすれば、そして、人間の精神ほど変えにくいものはないとすれば、小笠原泰氏が「なんとなく、日本人」(PHP新書)で説く「変えられぬもの」としての精神の政治学があってもいいのではないか。つまり、「変わりにくいもの」としての日本人の心性の本質を保守し活性化するような制度的枠組みの確保、危機的状況の回避である。小笠原氏の趣旨は、自己をよく認識し、アメリカと距離を置いた上で日本的な外来適応を意識的に円滑に行えということであろう。そうであれば、「醒めて踊れ」と述べる福田と同趣旨ではないか? 要は、私たちは、日本を封建的な遺制の残存する遅れた国とするような、或いは組織人として汗水流すビジネスマンを社畜と軽侮するような自己特権化のナルシシズム(個人的ナルシシズム)に酔う左傾知識人や、日本の特殊性こそ世界に冠たる美点だという日本賛美のナルシシズム(集団的ナルシシズム)に溺れる保守言論人に注意すべきなのだ。国を思う熱い心を持ちつつも、ナルシシズムではなく「醒めて踊れ」の実証精神で責任ある言論を行っている本物の思想家に耳を傾けるべきなのだ。本物の言論人と似而非の言論人を見分ける眼力もまた実証精神から生まれるものであろう。 平成一八(二〇〇六)年九月六日 平成十八年九月十三日 《『福田恆存の近代化論をめぐって』の感想》 吉野櫻雲 『福田恆存の近代化論をめぐって』を拜讀しました。小生の生硬な「發表文」と違ひ、大變解りやすく書かれてをられるかと存じ上げます。貴兄のHPにも掲載されてゐるとの事ですので、閲覽諸氏の恆存理解に一役を擔はれるものと期待してをります。 小生の思ふ處でありますが、恆存評論に對する發表文は出來るだけ原文に即して探究、出來るだけ論拠を示して表現する樣に心懸けてをります。讀む方との概念の食ひ違ひを生ぜしめないためには、自己の捉へた概念・觀念に出來るだけ置き換へない方がよいのではと思ひながら、平生發表文を書いてをります。(「テキスト圖」については恆存思想の圖的客體化と捉へてゐます) それはさておき、以下貴兄文の捉へ方と恆存の論、その相違と思しき點を上げさせて戴きます。尚、禪についての見解は小生のものであります。只小生の昨今、次囘のテーマ評論を再讀したり、かつ發表文を書く必要とかで時間がなく、取り急ぎ氣が附いた箇所のみを本日はお傳へ申し上げます。書き足りない分は『讀む會』ででも談論風發いたしたき所存であります。(文中括弧内は概ね吉野注。「P9圖」云々は「讀む會テキスト」頁を表す) *「ソフトウェアすなわち精神面の近代化を図るべきであること。精神の近代化とは実証精神の貫徹である」について・・・ *「福田の近代化論を以上のように理解したうえで、僕の疑問点の第一は、純粋な個人的自我が向き合う絶対者は、各自任意に立てればいいのか? という疑問である」について・・・ 2.「理想人間像(C)などとは一片の妄誕である。それは虚像にすぎない。それが妄誕にすぎぬと承知すること――ぼくたちにとつて、より厳密にいへば實證科學の時代に棲むぼくたちにとつて、それ以外に観念論や神秘思想を信仰する方法はありえないのだ。フローベールのリアリズムとはまさにそれである――・・・」『理想人間像について』(全二P475下~476上) 3.「神と語り、神と契約しうるのは個人であり、神は個人を通じて、その意思の実現を計る。個人は被表現者であるが、それを自覺するがゆゑに、神の意思を探り、それに合致する自由を保有する。(中略)他人が個人として完結してをり、彼のみの知る神との契約ある事を認めなければならない。・・・」(『自由と平和』全五P309上) 以上から考察するに、恆存は「絶對・全體」の概念を以下の樣に捉へてゐるものと存じます。 *「『過去の歴史と大自然の生命力』とは、その人の属する自然環境や風土や歴史を背景にした絶対者でなければならないのではないか」について・・・ *僕の疑問点の第二は、集団的自我を統御しつつ絶対者と向き合う個人的自我、すなわち「完成せる統一体としての人格」を持つことが日本人にとって可能か、という疑問である」について・・・ *「たとえば学生時代に運命的に出会ったとすれば、禅と向き合うことも絶対者を持つことになるのだろうか?」について・・・ *「近代の超克はいかにして可能なのだろうか?」について・・・
「カエサル(A)の事はカエサルに聞け」「處世術(A)で出來る事は處世術で」と同類的用語で捉えてゐると思はれます。即ち拙「テキスト:P八圖」で申しますと、西歐近代は「實證精神」によつて、「精神の政治學」ライン(AB分割線)が最下降し、其處に西歐近代の精華「個人主義・資本主義・民主主義等」の花が咲いたのだとのとらへ方と思はれる。(參照:『近代の宿命』) *「実証精神とは、神に似せた人間の姿の追求であり、神への奉仕として現れたものだとすれば、」について・・・ 〈参考:クリスト教の「連續性、一貫性」と歴史について〉
*「絶対者の影が薄い日本の歴史と現実から、いかにして実証精神が生起し得るのか?」について・・・ (參照:拙文「福田恆存における『全體・絶對』」 *「福田が言うように、日本において、言葉と距離を置くことが「小説では可能だが芝居では無理」だとすれば、実人生ではもっと難しいということにならないだろうか?」について・・・ 〔場(西歐近代)に適應正常する爲に=鮮やかな場の轉換(D1の至大化:場に沈湎しない)〕
そして、的確に「言葉との距離測定」をし、各場面場面に沈湎せず適應正常していく方法論として、評論『新漢語の問題』「シェイクスピア劇のせりふ」對談「反近代につひて」等で、それを述べてゐる(參照:拙文「演劇論と人生論の一致」:http://www.geocities.jp/sakuhinron/page016.html)。 《http://www.geocities.jp/sakuhinron/page062.html :拙HPから抜粋》 二役のみならず何役(國民の一人、公務員の一人、家族の一人)、を操る「自己劇化」が出来得る人格として、「完成せる統一體としての人格」論がそこに登場するのである。 *「僕の疑問の第三は」について・・・ 以上、短い時間での推考ですので、十分に説明しきれてゐないもどかしさが残ります。又氣が附きました點は後日にでも送信させて戴きます。 《平成十八年七月三十日『福田恆存を讀む會』》 七月:テーマ評論: 全集第一巻所載:【『現代人の救ひといふこと』(掲載誌不明:昭和二十二年三月中旬執筆)四十七歳】
《平成十八年六月二十五日『福田恆存を讀む會』》 六月:テーマ評論: 全集第四巻所載:【『個人主義からの逃避』(「文學界」:昭和三十二年一月號)四十七歳著】 前囘『シェイクスピア』では戯曲『マクベス』に先取される、西歐近代自我(個人主義)が持つ「自由=孤獨(宿命・關係喪失)」のアイロニーを探求しました。即ち近代理知(自由・自我解放)の裏にしのびこむ「解放されて仕へるべき何をも持たぬ自我の不安」と言ふ、近代が抱へる「負の側面」の問題を恆存評論に學んだ。恆存は、近代の「全體(神)喪失=宿命(關係)喪失」を衰退(「デクリネイション」)と見たのであります。 そして、今囘テーマ評論『個人主義からの逃避』はその續篇とも言へます。「負の側面」と同時に「正の側面」を備へた、「個人主義(近代自我)」に日本人はどう對處したか。果たしてその確立が出來得たのか否か。出來得なかつたとしたら、どの樣に日本はそれに「適應異常」してしまつたのか、それらの點をも含めて探求して行きたいと思ひます。 で、「正の側面」とは何か。一應以下の内容等が上げられるのではと存じます。 1. 個人主義も、西歐近代が持つ實證精神の精華(自由・平等・民主主義・資本主義・帝國主義等)の一つ。即ち「神に型どれる人間の概念の探求」としての結實。(P213下、及び以下『近代の宿命』文、「テキスト八圖」參照) 2. 個人主義は、神を喪つた「孤獨の寂しさに堪へる爲のいきかた」・「個人主義はその發想において、すでに孤獨のうちにあつた」(P203)・・・即ち「個人の強靱性」(『醒めて踊れ』參照)が養はれる手立てが其處にあつたと言へます。 3.孤獨感と同時に併せ持つ「存在感」確立の側面・・・「個人主義」とは神の代はりに自己の手による宿命(D1)演出。「もし、個人がそれ(宿命)を選びとらねばならぬものなら、その最後の仕あげも、個人が自分の手でやつてのけねばならぬ」(『人間・この・・』)。即ち「自己主張(表現)・自由意思:D2」によつて「人間如何に生くべきか」を探求する事。とは、實證精神(A:カエサル)で解決出來るものは實證精神(A:カエサル)で解決する旺盛なる意慾と言ふ事に繋がる。(以下參照:正負の二面性。傍線が負の側面)
****************************** 《會員「生方氏:發表文》(生方史郎の「古典派からのメッセージ」より) 福田恆存の演劇を味わう
ちょうど、劇団「昴」のこの演劇を拝見した翌日、「福田恆存を読む会」の例会があり、世話役であるY氏がまとめられたレジュメの中に、まさにこの演劇の主題と同趣旨の恆存の文章が引用されていた。すなわち福田恆存曰く、 「肉體の自律性は当然その反面に精神の自律性を前提とする。肉體、あるいは、物質で解決すべきことを、精神の重荷とするなかれ―精神には精神のみの解決しうる問題を当てがひ、その領域と大權とを縮小せしめるにしくはない。そのとき初めて精神は自律し、その權威は輝くであらう。 が、ぼくたち(注:近代日本人)は今日まで何と精神を神聖化し、さうすることによって精神の負担を重からしめ、結果として精神を侮辱してきたことか。肉體の自律性が確立してゐなかったからである。明治以降の日本人は、あらゆる物資的なこと、肉體的なことに、すべて精神のヴェイルをかぶせ、それをことごとく精神の發動として自己満足してきた。彼らは肉欲を肉欲として是認することを恐れ、それに精神的な戀愛の衣をかぶせた。物欲を物欲として是認することを恐れ、それに藝術愛や愛國心や愛他心や、その他の種々雑多な大義名分をかぶせた。」(福田恆存全集第二巻「肉體の自律性」より) 近代西洋は、物資文明を発達させることにより、肉体の領域のことは肉体で、物質の世界で解決できることは物質で、経済で解決できることは経済で、政治で解決できることは政治で、という具合に、精神の領域を精神にしか解決できない問題に特化し自律化させた。ところが、近代西洋文明を表層的に取り入れた近代日本は、肉体や物質や政治や経済で解決すべきことがらにまで、精神の衣を着せ、言い訳したり美化したりする。そこにこそ、指導者やインテリの偽善がはびこる余地がある。福田恆存は、自らの境遇や性欲を精神主義で正当化する田山花袋や島崎藤村ら日本の自然主義文学やその末裔である白樺派文学に特に強く偽善臭を嗅ぎ分けている。「私娼を買ふにも、頽廢のかげに純情を探し求めるのが目的」(福田全集第二巻「肉體の自律性」より)であるかのように自己正当化する田山花袋や島崎藤村の文学、「女中に手を出しておいて、その人權を認めるかどうかなどといふ『人道主義』的な苦惱」(福田全集第四巻「個人主義からの逃避」より)に苦しむ主人公を自分に重ね合わせて描く志賀直哉の「暗夜行路」など、ブンガクシャの特権意識にあぐらをかいた自己正当化と自己美化に近代日本文学は事欠かない。 《會員K.K發表文》 kojinshugikaranotouhi.pdf へのリンク 吉野櫻雲發表文 《平成十八年五月二十八日『福田恆存を讀む會』》 全集第二巻所載:『シェイクスピア』 【(四十七歳。「批評」第六十號:昭和二十二年四月刊(注:初作昭和十三年大学院時。「若氣の至りで『マクベス』を失敗作と断定」と「第二巻覺書」にて後述)】 《會員「生方氏:發表文》(生方史郎の「古典派からのメッセージ」より) さる日曜日には、先々月から参加させていただいている月例の福田恆存読書会に出かけました。今回は福田恆存全集第二巻所収の「シェイクスピア」が取り上げられました。ここで論じられているのはシェイクスピアの「マクベス」ですが、福田は、ルネサンスの自由を謳歌した想像力の天才・シェイクスピアが描くマクベスの内に、早くも、近代個人主義の病弊を見出しています。つまり、ルネサンスは人々を神の桎梏から解放しましたが、絶対者を失って自己を絶対化せざるを得なかった近代人の「宿命感覚を喪失した精神の空虚さ」をマクベスに見て取っているのです。キリスト教が西洋文明の中で占める巨大な位置を、我々日本人は過小にしか見ることができないのだ。福田のシェイクスピア論を読んで、そんな反省が頭をよぎった次第です。福田恆存はシェイクスピア劇の翻訳、演出でも大変優れた業績を残した人です。小生も啓発されて、今回初めてシェイクスピアの「ハムレット」(福田恆存訳・新潮文庫)を読みました。ぜひ実際に舞台で演じられるのを見たいと思わせる名台詞、名場面の数々です。福田は、シェイクスピア劇は単に机上で読まれるのではなく、実際に役者が日本語でしゃべるのだから、役者の意欲をかきたてるような台詞の「調子」を大事にして翻訳しなければならないと述べています。確かに彼の生き生きした日本語訳は、舞台でこそ真価を発揮することでしょう 《會員K.K發表文》 k.k sheikusupia.pdf へのリンク 《平成十八年四月十九日『福田恆存を讀む會』》 全集第二巻所載:【『ロレンスⅠ』(「展望」昭和二十二年五月號)】 (D・H・ロレンス著『現代人は愛しうるか――アポカリプス論――』まへがき) 《平成十八年三月二十一日『福田恆存を讀む會』》
全集第五巻所載:【『象徴を論ず』(「文藝春秋」昭和三十四年五月號)】
《會員「生方氏:發表文》(生方史郎の「古典派からのメッセージ」より) 今週の火曜日(春分の日)に、千葉県の本八幡で開かれた「福田恆存を読む会」に初めて参加させていただきました(「福田恆存を探求す」もご参照ください)。この会は、毎回一作づつ福田恆存の作品を読み合わせて理解を深めることを目的とした、福田ファンの自発的な集いです。平成15(2003)年からほぼ毎月開かれており、この日も四人の参加者が熱心に議論を交わしました。今回取り上げられたのは福田恆存全集第五巻所収の「象徴を論ず」(初出は文藝春秋の昭和35(1960)年5月号)という文章です。折しも皇室典範の問題が話題になる中、私たちひとりひとりが皇室との関りを問われている今、福田が皇室をどのように考えていたのか、興味津々で読みました。 福田の論点は三つほどあるように思います。まず、天皇の政治的位置づけ即ち憲法上の役割と、古代から続く文化的伝統としての天皇への国民感情は分けて考え、前者はできるだけ明確にすべきだという点です。現行憲法の「象徴」という天皇の位置づけは、政治的、法律的に極めて不明確であり、「元首」の方が政治上の性格・機能を明確に表わしていると述べています。曰く、「『象徴』といふものは無い。『元首』なら存在する。そして元首の性格も機能も歴史と共に変化する。その変化の要因を成すものは現実の政治であり、国民の政治意識である。」象徴などという政治的に不明確な言葉で天皇を憲法に位置づけると、戦前のような神格化や戦後のような皇室をスターやアイドルとして見る非人間化が起り、それらはいずれも「人間・天皇」と矛盾し、それを利用して政治権力を濫用する輩が出現しないとも限らないというわけです。小生はこの意見に賛成です。天皇は、政治的、法律的には、きちんと世界に通用する「元首」とすべきです。 では二番目の論点として、私たちは文化的伝統としての皇室とどう向き合うべきなのでしょうか。福田恆存はまず公平に自分自身の皇室体験、天皇への気持ちを表明しています。彼は、戦前の皇室神聖化の環境で育っていますが、「語義通りの君主に対する尊崇の気持ちは自分には無い」とはっきり述べています。大人になると共に、自然に皇室尊崇の念も臣下としての実感も失ったのは、「あたかも子どもの中で父母が父母としての権威を失ってゆくやうな全く自然な過程だった」のです。これは素朴な貴種尊崇の念を持ち得ないインテリの一般的な実感ではないでしょうか。一方、福田は、「といって天皇を憎む気持ちなど露ほども生じなかった」とも述べ、日本史に自虐的な或いは正義感ぶった左翼的な知識人とは一線を画しています。福田恆存のスタンスがもっとも良く現れているのは、「人々は神といふ言葉を『神のごときもの』の意に理解し、そのやうに天皇に感情移入してゐるのだ」「大衆が天皇に日本の神を求めているならそれはそれでよいではないか。もちろん私自身はさういふ感情を持ってゐないが、さうかといって、それを持ってゐる人が間違っているとは思はない。その人たちが私の感情や言動に干渉して来ない限り、何の支障も起らない。また天皇に対する感情や考へが違ふからといって、それだけで疎隔の感を抱いたり、同胞感や友情を失ったりはしない。相手も同様であらう。なぜなら、お互ひにとって天皇は排他的な絶対神ヤーヴェではないからだ。」といった一節です。ここに福田の日本文化の寛容性に対する理解と深い意味でのヒューマニズムがあります。インテリは大衆の英雄崇拝や貴種尊崇の感情を軽蔑しがちですが、人間が劇的なものであり、私たちは平板な日常に耐えるために英雄や貴種の演じる「演劇」や「儀式」を必要としていることをよく理解している福田は、英雄崇拝や貴種尊崇を決して否定しません。彼は、国民一般に、皇室とこう向き合うべきだとかこう考えるべきだとは言いません。しかし国民の皇室への尊敬を認め、その感情を尊重するのです(なお、日本人の皇室への尊崇の伝統について、神話や古代律令国家の人倫的理想から説き起こし、明治に至るまでの変遷について分析したものに、和辻哲郎の「日本倫理思想史(上・下)」(岩波書店)があります。皇室への尊敬だけでなく日本の倫理の伝統について頭の整理をするのに役立ちます)。 「象徴を論ず」の三つ目の論点は、貴族階級を失った戦後の天皇のあり方の不自然さへの疑問です。「天皇の、或いは一般に君主の、個人的性格は、貴族階級によって形づくられる。天皇は個人になり個人として生きる場所を、いはば私たちの社会を、貴族との交際のうちに見出す。」「かつて貴族階級に擁せられなかった君主といふものは無かった。現在君主国は二十七あって、(中略)おそらく貴族階級の無いところはほとんど無いであらう。」現在のように、周囲に語り合える人のいない、孤独な皇室のありかたに福田は疑問を呈していますが、小生にはこの指摘は新鮮でかつ首肯できるものでした。天皇が国民から隔絶してしまい、単にスターとして見られるのは、天皇の非人間化であり、一人の人間として語り合える階層を周囲に持たないのは不幸なことだと感じます。雅子妃のご病気もこうした孤独が背景にあるのではないでしょうか。小生はこれと関連して、「開かれた皇室」という議論にも疑問を感じます。今のマスコミ世論の品位があまりに低いからです。あの醜悪な週刊誌の世界に直接皇室を晒すようなことが賢明とはとても思えません。やはり選ばれた然るべき人たちとのコミュニティを形成する方が自然でしょう。また、仮に、皇位継承とからんで旧皇族の復帰が議論されるのであれば、それは、こうした健全な皇室コミュニティ形成の観点からも検討してはどうかと思いました。その際重要なのは、皇室の文化的伝統を考えるにあたってはあまり経済的なあれこれを気にすべきではないということです。カネがかかるから皇族を増やすな、といった俗論は廃すべきです。 さて、福田恆存に導かれて、皇室についてあれこれ考えてみましたが、「福田恆存を読む会」では、このように、今に生きる自分自身や日本人全体の問題を考える上での思考軸として福田を勉強したいという思いで皆さんが参加していました。単に趣味的、オタク的な読書会ではないことが小生には大変刺激になりました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~《平成十八年二月二十六日『福田恆存を讀む會』》
全集第七巻所載:【『問ひ質したき事ども』(「中央公論」昭和五十六年四月
號) 《平成十八年一月二十二日『福田恆存を讀む會』》
1.全集第六巻所載:【『續・生き甲斐といふ事』――補足として(昭和四十
六年一月刊)】 K.K女史(五十代)發表文
2.《全集第七巻所載:『近代日本知識人の典型(清水幾太郎を論ず)』(昭
和五十五年十月)》 K.K女史(五十代)發表文
《平成十七年十二月二十五日『福田恆存を讀む會』》
〔選擇評論〕 全集第六巻所載
【『生き甲斐といふ事』――利己心のすすめ(昭和四十四年七月刊)】
K.K女史(五十代)發表文
十二月:選擇評論:全集第六巻所載【『生き甲斐といふ事』――利己心のすすめ(昭和四
十四年七月刊)】 この評論も一見解つた樣に讀めさうだが、非常に難しい内容だと思ふ。ついでに言ふ
ならば「福田恆存」は日本人には難し過ぎて、あと四五十年経たねば解らないのでは、と 小生は最近思ふ事しきりである。 で、恆存は一方で「神なくして個人の権利を主張し得ない。それをあへてなすことは惡
徳である」(『近代の宿命』)と言ひ、ここでは正反對に副題で「利己心のすすめ」と言ふ。 この謎、是を日本人はどう捉へるかである。 それはさておき、当評論で恆存の言はんとしてゐる事は、やはり「西歐近代への適應異
常」から來る、「精神の政治学」の分割線が下方まで下がつてないと言ふ事なのでは。 換言すれば、「肉體の自律性と精神の自律性」峻別の問題である。この事柄は、更に二
十二年前の昭和二十二年著、『肉體の自律性』(P479全二)の文を、当評論の補足とし て取り上げた方が分かりやすいと思ふので此処に附記する。即ち日本人特有の「自己 欺瞞」が、当評論では戰後は「生き甲斐」追求に迄、變格活用されてしまつてゐると論及 してゐるのである。 「肉體の自律性は當然その反面に精神の自律性を前提とする。肉體、あるいは物質で
解決すべき事を、精神の重荷とするなかれ――精神には精神のみの解決しうる問題を あてがひ、その領域と大權とを縮小せしめるにしくはない。そのときはじめて精神は自律 し、その権威は輝くであらう。 が、ぼくたちは今日までなんと精神を神聖化し、さうすることによつて精神の負荷を重か
らしめ、結果として精神を侮辱してきたことか。肉體の自律性が確立してゐなかつたから である。明治以降の日本人はあらゆる物質的なこと、肉體的なことに、すべて精神のべ ールをかぶせ、それをことごとく精神の發動として自己満足してきた。かれらは肉慾を肉 慾として是認することをおそれ、それに精神的な衣をかぶせた。物慾を物慾として是認 することをおそれ、それに藝術愛(私小説家)や愛國心(戰前)や愛他心や、その他の主 種雑多な大義名分(「生き甲斐」も同)をかぶせた。・・・」(P479全二『肉體の自律性』:續 文も重要であるが、長いので省略。尚傍線及び括弧内は吉野注)(下欄「精神(B)主義 構圖」參照) 「肉體の自律性が確立してゐなかつた・・」以下の指摘、圖で現せば「テキストP9」、その
歪んだ日本の近代化(適應異常)を修正する手段として、恆存は「精神の政治学」分割 線の最下降を示唆するのである。当評論中の、日本人の「利己心Aを大義名分C"でご まかす僞善」云々も、集団的自我(A)が偏狭の爲「肉體の自律性が確立してゐなかつ た」事から発生して來る問題なのである。 そしてその「精神の政治學」の分割線下降の手段として「處世術(A)的概念)」で解決で
きるものは「處世術」で、と恆存は説くのである。「カエサルのものはカエサルで」と同じ謂 ひである。 日本は物質面のみの模倣(客體化)で済まして、精神(個人的自我:B)から、そこに潜在
する「カエサル(A)」的部分を搾り出して、集団的自我(A)に押し出して行くと言ふ西歐的 能動がなかつた。故に「精神の政治學」ラインが下降しなかつた、と言ふ事に繋がる。 〔当評論中解りにくい部分を他評論(右項)で補足〕
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
番外編:
《生き甲斐⇒全體感。と「皇室典範改正」の問題》
【恆存の評論(眼)から浮世を見れば・・・】 吉野櫻雲 發表
時間的全體感(C)=歴史(萬世一系の天皇制:男系天皇制)⇒D1宿命(傳統・文化・
型=祭祀・儀式)⇒國民(A・B所持)⇒D2(祭祀の)演戯⇒全體感・實在感獲得。と言ふ 流れ。 ・・・故に今般の「皇室典範改正」は日本國民の全體喪失即ち、全體感・實在感・生き甲
斐獲得機會の永遠喪失、即ち「ナショナルアイデンティティー」喪失に繋がり、しひては國 家存亡の危機にも相當する。 「萬世一系の天皇制:男系天皇制」は、文化を喪失してゐる戰後日本の最後の砦。
參照:「私たちの意識は平面を横ばいする歴史的現実(過去・現在・未来といふ時間的
継続:吉野注)の日常性からその無際限な平板さから起き上がらうとしてたへずあがい てゐる」「その(起き上がるための)行為が演戯(型=祭祀・儀式)」(P532)であり、か つ「儀式は、人間が個人であることをやめて、生命のもつとも根源的なものに帰つていく ための通路」(「人間・この劇的なるもの」P588)なのであつた。だが、その要素としての 祝日を戦後は換骨奪胎化してしまつたと言ふことなのである。(以下圖「全体感獲得の 構圖」:参照) 演戯(型=祭祀・儀式)」といふ、「型にしたがつた行動は、その一区切り 一区切りが必然であり、(中略)行動をそれ自体として純粋に味はひうるやうにしむけてく れる。そのときにおいてのみ、私たちは、すべてがとめどない因果のなかに埋れた日常 生活の、末梢的な部分品としての存在から脱却し、それ自身において完全な、生命その ものの根源につながることができるのだ」。 「私たちは、平生、自分を全体と調和せしめようとして、それができずに疲れはててゐ
る。いひかへれば、生理的には必然かもしれぬが、倫理的には偶然な事故にしかすぎ ぬ死以外に、何の完結も終止符もない人生に倦み疲れてゐるのだ。私たちの本能は、 すべてが終ることを欲してゐる。・・・・」(『人間・この劇的なるもの』) 《實在感・時間的全體感獲得の構圖》
《平成十七年十一月十三日『福田恆存を讀む會』》 〔選擇評論〕 全集第七巻所載:
【『新漢語の問題』――近代化試論(昭和五十四年十一月刊)】
K.K女史(五十代)發表文
【『新漢語の問題』――近代化試論(昭和五十四年十一月刊)】
『演劇的文化論』(昭和四十年三月著)では、演劇は誤魔化しが効かぬ性質であるが故
に、その反面「近代そのものの弱點(「全體」喪失)に對しては本質的な賦活力」も又演 劇にはその性質上内在してゐると。演劇の中にある「健康・秩序・有機性・全一性」がそ れなのである、と恆存は希望的観測を掲げる。それが「日本近代化の爲」に必要な要素 になるのだと・・・。 しかし「日本近代化論の爲の覺書」としての提言、に『演劇的文化論』では留まつてゐ
る。そして『新漢語の問題』でも「近代化試論」と副題に謳われてゐる。恆存は、「精神の 近代化」について、『新漢語の問題』(昭和五十四年)以前の「昭和五十一年」に既に以 下の如く論述してゐるのである。 *『日本の近代化とその自立』(「三百人劇場」講演:昭和五十一年三月~六月分)。『醒
めて踊れ』(同年七月著)。 小生には「精神の近代化」について、上記でかなり充分なる内容と思へるのだが、恆存
はそれではまだ充分に言ひ足りてはゐないらしく、『新漢語の問題』(昭和五十五年二月 刊)で「精神の近代化」を取り上げてゐる。しかもそれですらまだ、「近代化試論」なので ある。 では「日本近代化」本論はどの評論となるのであらうか・・・。しかし、「五十六年五月、七
十歳「腦梗塞」にて一ヶ月入院」後は、病後の爲纏まつた論作は無しなのである。恆存は 言ひ足りない部分をもつとしつかりしたものに書きたかつたのでは、しかし「腦梗塞」後 遺症でそれが果たせなかつた。と小生は推察する。 察するにその果たせなかつたものを、恆存は以下の樣に纏めたのだと思ふのである。
*上記で言ひ足りない部分を、遺言的に「全集第六巻『覺書』(昭和六十三年二月刊
行)」上で、「一體、この私が何が言ひたいのか」(P698)⇒「完成せる統一體としての 人格論」として以下の樣に展開してゐる。 箇条書きに、①(「個人主義の限界」)⇒②⇒③⇒④(「完成せる統一體としての人格
論」)として。 ①.『獨斷的なあまりに獨斷的な』(昭和四十九~五十年發表)
②『フィクションといふ事』(昭和四十五年十一月發表)
③.防衞論の進め方についての疑問(昭和五十五年五月刊行六十九歳)
④.「近代日本知識人の典型清水幾太郎を論ず」(同年九月發表)
といふ流れの中で、小生は【『新漢語の問題』――近代化試論】を捉へてみた。
《当評論:解りにくい問題に對する他評論及び小生論考文での補足》
《十月二十三日『福田恆存を讀む會』》
選擇評論:
全集第五巻所載:『演劇的文化論』(日本近代化論の爲の覺書)昭和四十
年三月著 『演劇的文化論』を讀むのは、これで四・五囘目にならうか。恆存の評論は他にも言へる
事だが、讀む度に新しい發見がある。今囘、より理解出來た事は「日本の土壌」が持つ 非近代の歪み(「テキスト」P9)が、如實に演劇には現象化すると言ふ事である。そして 他分野ではそれが誤魔化されてゐるが故に見えないと言ふ事。詳しくは③にて述べま す。 恆存のスタンスは身じろがない。「日本の近代史を『近代化に對する適應異常の歴史』と
して見直す事を提案する」(『適應異常について』)、と言つてゐる。即ち此處では、「日本 の明治以降の歴史を近代史とは見做しません。近代化史であります」と言つてるのであ る。 〔注:以下文中における主なる參照圖は、『福田恆存を讀む會:テキスト』のP8「甲図:西
欧十九世紀構図」、及びP9「乙図:日本的精神(B)主義構図(非近代)であります」。以 下文中では「テキスト00」と略〕 1.なぜ演劇か。・・・演劇の中にある「健康・秩序・有機性・全一性」。
2.「健康・秩序・有機性・全一性」とは。・・・別圖參照:『福田恆存を讀む會』テキストP1
1圖《演劇における関係の真実化》。 「テキストP9・P8」と「テキストP11」の相關關係。
3.恆存が言はんとしてゐる事。(纏め)
「近代國家の未成立」と「近代適應異常」、かてて加へてその事に對して自己欺瞞と
隠蔽がなされてゐるが爲に、政治・經濟・社會・藝術・文學等々、各分野に露呈してゐる 日本の非近代の歪みが日本人には見えない。分かりやすくその歪みを見える樣に圖化 すると、「テキストP9圖とP8圖」の差となる。 自然科學及び社會科學の分野において、日本は「P9圖=非近代」の状態で「P8圖
=近代」を真似ようとしたに相違なく、ただ演劇程「非近代」の實相は表面化しなかつた だけである。西歐の「科学製品は輸入」できた爲に、それ(物質的近代化)をもつて、近 代化が成就したと上記分野は錯覚した。科學製品(洋才)の奧にある「科學精神(洋魂) は移植できなかつた」(『近代日本文学の系譜』)爲に、「精神の近代化」未達成による 「非近代の歪み」には氣がつかなかつたのである。「科学製品は輸入」できた蔭に「P9 圖=非近代」の姿がそのまま残つてゐる事に氣がつかなかつた。その事を恆存は簡潔 にかう言つてゐる。「西洋に學ぶべきものはその近代しか無い。その近代を物にすれば 西洋は卒業だと言ふ明治人の和魂洋才主義に基づく西洋即近代説」(P412)が日本人 を淫していたと。(そして現在でも「和魂洋才主義」の非に氣がつかない保守派論客達が ゐるのである。) その問題が、物の見事に「演劇」では露出する。誤魔化しが効かぬ性質を演劇は持つ爲
に、最もそれが露出するのであると恆存は言ふ。「役者の日本人の『意=沈湎』が『姿』 を裏切る」と。(參照『醒めて踊れ』P397・P399) それを圖で説明するとかうなる。「P9圖=非近代」の人間が「P8圖=近代」の思想と行
爲(「近代自我」)を舞台上で演ずる無理、誤魔化しが如實にバレルのである。役者は一 應近代人「P8圖」の「せりふと動き」を覺え切る。しかしながら舞台上に出ると、非近代 日本人「P9圖」の「意」が演ずべき「P8圖」の「姿」を裏切つて舞台上に「P9圖」の姿が 出てしまう。「西洋的、近代的思考を經た内容のせりふともなれば、日本人の肉體と肉聲 には當然無理な姿勢を取らされる」とは、その事を言つてゐるのである。以下表「二項目 目*印」がその例である。その近代人的演戯が「P8圖=近代」俄仕込みの日本人(役 者)には出來ない。他部門では誤魔化しが効くが。(以上の内容は一見分かりそうで分 かりにくい部分である:「質疑應答」) 「日本の近代化といふ課程の中で一番貧乏くじを引かされてゐる」(P419)ゆゑんが其
處にあるのだ、と恆存は言ふ。 誤魔化しが効かぬ性質であるが故に、その反面「近代そのものの弱點(「全體」喪
失)に對しては本質的な賦活力」も又演劇にはその性質上内在してゐると。演劇の中に ある「健康・秩序・有機性・全一性」がそれなのである、と恆存は希望的観測を掲げる。 それが「日本近代化の爲」に必要な要素になるのだと・・・。 しかし「日本近代化論の爲の覺書」としての提言、に当評論では留まつてゐる。では「日
本近代化」本論はどの評論となるのであらうか・・・。察するにそれは以下になると思ふ。 *『日本の近代化とその自立』(「三百人劇場」講演:昭和五十一年三月~六月分)と『醒
めて踊れ』(同年七月著)。『新漢語の問題――近代化試論』(昭和五十五年二月刊)。 (注:五十六年五月、七十歳「腦梗塞」にて一ヶ月入院後は、纏まつた論作なし)
*上記で言ひ足りない部分を、遺言的に「全集第六巻『覺書』(昭和六十三年二月刊
行)」上で、「一體、この私が何が言ひたいのか」(P698)⇒「完成せる統一體としての 人格論」として以下の樣に展開してゐる。 箇条書きに、①(「個人主義の限界」)⇒②⇒③⇒④(「完成せる統一體としての人格
論」)として。 ①.『獨斷的なあまりに獨斷的な』(昭和四十九~五十年發表)
②『フィクションといふ事』(昭和四十五年十一月發表)
③.防衞論の進め方についての疑問(昭和五十五年五月刊行六十九歳)
④.「近代日本知識人の典型清水幾太郎を論ず」(同年九月發表)
《九月十九日『福田恆存を讀む會』》
選擇評論:全集第五巻所載:『平和の理念』
吉野櫻雲:纏め
【消極的言葉(概念)の積極的言葉(概念)に転化(自己欺瞞)する危險】
平和(消極的言葉)が人情(感情・好悪)を示す積極的な言葉(本能、集団的自我上の
言葉「いのちあつての物種」等)に擦り替へられ、絶對的価値へ転化する危險。即ち、人 情の自然(A:本能・エゴイズム・集団的自我)の絶對価値化。「生命第一主義」→「絶對 平和主義」(「平和」は「生命保存本能」の代用語:參照P126全五) 《參照:『當用憲法論』(p155上)及び小生感想文。「『人情の自然(A:エゴイズム・集団
的自我)だけでは國際社会は乗切れない・・・』云々とは。そして、ではどうすべき か。・・・・」》 〔自己欺瞞(擦り替へ)→「日本人の道徳感を頽廢に導いた元兇」(P326)〕
1.罪惡感(戰爭贖罪意識:A)の理想主義(B:憲法第九条)への擦り替へ(自己欺瞞)。
2.「生き残つた」と言ふエゴイズム(A)のヒューマニズム(B)への擦り替へ(自己欺
瞞)。 3.「平和・民主主義:政治的概念(A)」の「道徳的概念(B)」への擦り替へ(自己欺瞞)。
《何故日本においては、上記「自己欺瞞(擦り替へ)」の問題を含め「一元論的絶對主
義」が出現するか》 ・・・恆存は「近代國家の未成立」にその原因を指摘し、以下の樣に彼我の差を論ずるの
である。 《八月二十八日『福田恆存を讀む會』》
吉野櫻雲:感想
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
昨今やうやく「憲法改正」論が國民の間に定着し始めた。
しかし恆存の言ふ、日本は「言論も政治も外壓によつて動く」(參照:『言論の空しさ』)
しかない國、の論を證明するが如く、過去の「テポドン(北朝鮮の中距離弾道ミサイル) 打上げ實驗」や「霸權主義國:中國」の脅威、或いは「9.11テロ事件」・「イラク戰爭」 等、矢張り「外壓」に觸發されての「憲法改正」論が蠢きだした感が免れない。 それに引き替へ、福田恆存の「憲法改正」論はあくまでも「内發」によるがものである。そ
れも四十年も前に「日本國憲法(現行憲法)」の欺瞞性を指摘してゐる。 そのやうに、日本人が「外壓」と言ふ現象でしか危機を察知出來得ない國民性である
以上、昭和四十年當時、恆存の批評(クリティック)が本質論からクリティカル(危機的) な状況を探り當て(參照『批評精神について』)、それを見事に國民の眼前に呈示した が、外壓現象が訪れなかつた以上、見向きもされなかつた状況なのであつた。そして今 日「外壓」的現象が訪れれば、今度は見境ひもなく「憲法改正」論に「べたべたと引つ附 く」。 今後も恆存が言ふ、即ち「何にでもべたべた引つ付く自他未分の神道的生活態度」(參
照:『日本および日本人』)と言ふ日本的土壌が、「言葉との距離測定」の能力を日本人 から奪つてゐる、「憲法改正」論等にも見られるが如き、その土壌は變はらないのであら う。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
《現行憲法が「當用」なるが所以》:(P146~8)
「當用」:語意(さしあたって用いること。さしあたっての用事。当面の必要:大辞泉)
現行憲法の欺瞞性當用憲法(現行憲法)当用漢字
防波堤として「當用」護憲派(大江健三郎)・・・「戰爭と人権の防波堤」として。保守派・・・
國字、ローマ字化(アメリカ教育使節団:GHQのおもはく?)への防波堤(抵抗) 前進基地として「當用」護憲派(革新系)・・・「将来政権を取る爲の前進基地」として。革
新派・・・ローマ字化、假名文字化の前進基地 《(p155上)「人情の自然(A:エゴイズム・集団的自我)だけでは國際社会は乗切れな
い・・・」云々とは。そして、ではどうすべきか。・・・・》 「第四幕:このままでは最大の軍備をしても国は守れない」「第五幕:エピローグ」《日米
国民の防衛意思の差異》(『防衛論の進め方についての疑問』) 「問題は、すべてはフィクションであり、それを協力して造上げるのに一役買
つてゐる国民の一人、公務員の一人、家族の一人といふ何役かを操る自分の中
の集団的自己をひとつの堅固なフィクションとしての統一体たらしめる原動
力は何かといふ事である。
それは純粋な個人的自己であり、それがもし過去の歴史と大自然の生命力(とは、時間
的=「歴史」・空間的全体=「秋津島大和の國ぞ」叉は「神道的抽象熟語」では:吉野注) に繋つてゐなければ、人格は崩壊する。現代の人間に最も欠けているものはその明確 な意識ではないか」 そして、以下の重要項目へと繋がるのである。
《「完成せる統一体としての人格」論:付記文》
(国防問題は「国家意識、国家観、詰り国家と個人との関係と言ふ人間存在の根源に繋
がるもの」。そしてそれに適応する為の「完成せる統一体としての人格」論)(全集6:覚 書の「仮説(フィクション)論」より) 「一般の日本人は、自分の子供が戦場に駆り立てられ、殺されるのが嫌だからと言つ
て、戦争に反対し、軍隊に反発し、徴兵制度を否定する。が、これは『母親』の感情であ る。その点は『父親』でも同じであらう、が、『父親』は論理の筋道を立てる。国家(場面: 吉野注)といふフィクションを成り立たせるためは、子供が戦場に駆り立てられるのも止 むを得ないと考へ、そのための制度もまたフィクションとして認める。が、彼にも感情が ある。自分の子供だけは徴兵されないように小細工するかも知れぬ。私はそれもまた可 と考へる。『父親』の人格の中には国民としての仮面(役・自己劇化:吉野注)と親として の仮面と二つがあり、一人でその二役を演じ分けてゐるだけの事である。そして、その 仮面の使ひ分けを一つの完成した統一体として為し得るものが人格なのである。『私た ちはしつかりしてゐない』という自覚が、『私たち』をしつかりさせてくれる別次元のフィク ションとしての国家や防衛を要請するのである、要するに人格も法も国家も、すべてはフ ィクションなのであり、迫持(せりもち)、控へ壁などの備へによつて、その崩壊を防ぎ、 努めてその維持を工夫しなければならぬものなのである」(P703全6「覚書」)(別図:参 照」) 「問題は、すべてはフィクションであり、それを協力して造上げるのに一役買つてゐる国
民の一人、公務員の一人、家族の一人といふ何役かを操る自分の中の集団的自己をひ とつの堅固なフィクションとしての統一体たらしめる原動力は何かといふ事である。それ は純粋な個人的自己であり、それがもし過去の歴史と大自然の生命力(時間的全体・空 間的全体・C:吉野注)に?つてゐなければ、人格は崩壊する。現代の人間に最も欠けて いるものはその明確な意識ではないか」(P704全6「覚書」):(別図1:参照」) 此処過去の歴史と大自然の生命力(時間的全体・空間的全体)に?つてゐなければ、
人格は崩壊する。が最重要な項目である。 上記のフィクションを統一せしめるものとして、矢張り全体(C)即ち、過去の歴史と大自
然の生命力(時間的・空間的全体:吉野注)や「背後にある道徳:C」がその構図を支へ 得る「原動力」なのである、と恆存は言つてゐるのである。 故に「自己を何処か(絶対・全体C)に隠さねばならぬ」と言ふ文が持ち出されるのだ。さ
うした統一すべき「絶対・全体」或は主題がないから二役を演ずることが出来ないのであ る。二役のみならず何役かを操る「自己劇化」が出来得る人格として、「完成せる統一体 としての人格」論が登場するのである。 何役かを操る「自己劇化」を、恆存の別な表現で言へばかうなる。各場面で関係的真
実を生かしていくのだ。それが「完成せる統一体としての人格」なのだと。ではそれはどう 言ふ事かと言へば、 何役かを操る各場面でそこから発生する「(関係の)真実を生かすために一つのお面を
かぶる(役を演ずる・自己劇化:吉野注)」「演戯なしには人生は成り立たない。つまり仮 説なしには成り立たない」「真実といふのは、ひとつの関係の中にある。個々の実体より はその関係の方が先に存在している。人生といふものは、関係が真実なんで、一生涯自 分のおかれた関係の中でもつて動いてゐる。いろいろな関係を処理していき、それらの 集積された関係がその人の生涯といふもの。それを私は演戯だといふ」「われわれがこ しらへたものは、相対的であつて絶対ではないといふ原理をちやんと心得て、こいつを 絶対化(仮説の完璧化・築城の完璧化:吉野注)しようといふ努力」。《単「生き甲斐とい ふ事」対談「反近代につひて」(P195・199) 《六月二十六日『福田恆存を讀む會』》
現在日本の歴史認識が問題視され、勿論、中・韓からだが、戰前の軍國主義の復活
ではないかとの批判が喧しい。その具體例として、(1)小泉首相靖國神社參拜。(2)新 しい歴史教科書問題。を擧げてゐる。 これに對して、「朝日」等は相手の尻馬に乗つて、靖國參拜中止や新しい歴史教科書
の“追放”を叫び、專ら戰前の日本を惡と見なす“自虐史觀”の正当性を訴へてゐるやう に思はれる。はたして、それで良いのだらうか。大いに疑問とするところである。 さて、福田恆存には歴史をどう捉へ、歴史とどう附き合ふべきか、を説いた評論が少な
くない。その一つに『人間不在の歴史觀』があり、社會科學的史觀の弱點や誤謬を指摘 し、血の通つた人間の歴史觀がどういふものかを説いてゐる。恆存の論考の核といふ か、ものの見方、考へ方の“傾向”、“特質”を見ることができ、大變參考になる。その理 解によつて、現在私達が直面する現象(現實の諸問題)の本質に迫ることができればと 思ふ。(相馬會長:記述) *******************************
六月:選擇評論:全集第五巻所載『人間不在の歴史觀』
吉野櫻雲:發表文
《福田恆存は先の大戰(或いは「戰争」)をどのやうに捉へたか》(括弧内は吉野注)
*「大東亞戰爭は日本近代化の成果であり、同時に破綻であつて、それを前近代的な
ものと考へてゐる限り、近代の確立も克服もあつたものではない」「肯定と否定とは両立 させ得るもの」(『人間不在の歴史觀』全五P381~2) *「私はこの戰争(大東亜戦争)を明治開國以來、近代日本が辿らねばならなかつた一
つの運命とみてゐた」。「あれ(日露戰爭)以来、吾々は同じ事をやつてゐるのではない か、ここに血を流した父祖の絶望的な惨めさは、そのまま今(太平洋戦争中)の吾々の ものではないかと」。そしてその「同じ事」、絶望的な慘めさとは、「當時のヨーロッパ列強 (先進國)に對し背伸びして力を競はうとする明治の日本の苦しい立場を物語るもの」 (P385『軍の独走について』) 〔恆存は戰爭を以下の樣に捉へる〕
*戰爭=國家的エゴイズム=エゴイズム(國・個人)=惡=「聖戰」視は欺瞞。
「が、背に腹は變へられぬ時がある」(P385)=やむを得ぬ「必要惡」としての肯定。
そして、「戰爭」と共に「近代化」も恆存は「必要惡(ネセサリーイーブル)」
と他の評論にて書いてゐる。
以上から推察するに、このやうに纏める事が出來る。
大東亞戰爭は(日露戰爭をも含めて)日本が辿らざるをえなかつた、必要惡としての「近
代化(西歐化)」が招いた一つの経路(「運命」)であり、その結果として「軍は日本近代化 の防波堤」となり物質的近代化の「成果」に寄與した。ゆゑに「大東亞戰爭は日本近代 化の成果である」と。 そして「破綻」の方の原因は、日本は物質的近代化(西歐化)だけで終はりもう一つの更
に重要な「精神の近代化」を缺如した「適應異常」に因るものである、と。何故なら恆存 は「日本の近代史を『近代化に對する適應異常の歴史』として見直す事を提案する」 (『適應異常について』)、と言つてゐるのであるから。(『讀む會テキスト:甲図と乙図』の 違ひ。參照) 故に何處かに書いてあつたが「先の大戰は良いも悪いもない、失敗であつた」と言ふ事
になるのである。 以下の林房雄著『大東亞戰爭肯定論』と一見似てゐるが、植民地化(「東漸する西力」)
への抵抗(戰ひ)と、近代化(必要惡)の爲の戰爭と、同じやむを得ぬ戰ひでありながら、
概念的相違がそこにあるやうに小生には思へる。 恆存の「歴史觀」及び「大東亞戰争」見解
*「もともと私は大東亞戰争否定論の否定者。(中略)或は林(房雄)氏も私と
同じで、單なる否定論の否定を肯定論と銘打つただけかも知れません」(『人間
不在の歴史觀』)
*戰爭=國家的エゴイズム=エゴイズム(國・個人)=惡=「聖戰」視は欺瞞。
「が、背に腹は變へられぬ時がある」(P385)=やむを得ぬ「必要惡」としての肯定。
言ひ換へれば、日露戰爭も大東亞戰爭も「すべてを自分の問題として、自分がその中に
這入つて、歴史を生きながら押進めて行くといふ態度を持たねばならない」と言ふ事なの である。(『軍の獨走について』P389) 「自分がその中に這入つて」とは、氏の以下の文と繋がつていく。
「歴史家が時代や人物と共に生き、共に迷ふ心の持主でなければならぬのは、言ふ
までもなく歴史上の人物が、歴史そのものが、迷ひながら生きてゐるからです」『人間不 在の歴史觀』全五P381)
「歴史に附合へば附合ふ程、首尾一貫した因果の直線は曖昧薄弱になり、遂には崩
壊し去る。そして吾々の目の前に残されたのは點の連續であり、その間を結び附ける線 を設定する事が困難になる。(中略)が、歴史家はこの殆ど無意味な點の羅列にまで迫 らなければならぬ。その時、時間はずしりと音を立てて流れ、運命の重みが吾々に感じ られるであらう」(『乃木将軍と旅順攻略戦』P116) 上述の事柄を恆存の体驗的現象に顯はすとこのやうになる。
「その時私は感じたのです。あたかも明治以後の日本の歴史が眼前を、といふよりは自
分の身内を、一瞬のうちに通り過ぎるのを。そして、私はつくづく思ひ知りました、あれ以 来、吾々は同じ事をやつてゐるのではないか、ここに血を流した父祖の絶望的な惨めさ は、そのまま今(太平洋戦争中)の吾々のものではないかと」(P385『軍の独走につい て』) 即ちそれらは「近代日本が辿らねばならなかつた一つの運命」の糸で繋がつてゐるのだ
と。 たしか「 歴史の必然」とも恆存は他の評論で述べてゐる。 参考:別評論家の「大東亞戰争」見解
*小林秀雄:(要約)「反省したい奴は反省したらいい、俺はしない・・・。歴史的必然であ
る」的捉へ方。 *林房雄:「大東亞戰爭は東漸する西力に對する東亞百年戰争の終曲」(『大東亞戰爭
肯定論』) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
〔以下は「ヤフー掲示板」「小生ブログ」上に於ける吉野見解〕
中國は「覇権主義國家」なり!
中國をどのやうな概念で捉へるかで、「歴史カード」への對處は自ずと決まつてくる。即
ち「覇権主義國家」と捉へるか、それとも「日中友好条約」の辭儀通り「友好」的かつ善隣 的な國家として捉へるかで對し方が決まつてくるのである。 此處で事の本質を讀み違ひ、中國が繰り出す戰術的カード(「靖國參拜取り止め」)を受
け入れるなら、國の命運を左右し將來に悔恨を残す事になる。(小泉首相の參拜が國を 傾ける云々の、森元首相の發言とは全く反對の意味で) 中國が「覇権主義國家」であるのは今更詳しい檢證を要する必要のない明々白々たる
事實なのである。その戰術的「歴史カード」を「友好的外交」向上の爲のカードと讀み違 へる政治家は、余程の馬鹿かそれとも経済上の利權がらみ(選挙得票も然り)等の私利 私欲から、故意に己が眼を曇らせてゐるに相違ない。 「理屈と膏藥は何處にでも引つ附く」の喩へあり。中國が持ち掛ける「難癖」カードはそ
れが國際ルールに悖ると否とに拘はらず、役に立つと相場が決まれば、幾らでも屁理屈 を上乗せして繰り出される、北朝鮮も含めた野蛮國特有の變幻自在の「ジョーカー」の類 でしかない。中國の野蛮國性は「囚人臓器賣買」で金を稼ぐ唯物史觀國家特有の体質 に露見してゐるのである。 日本の政治家に中國を「覇権主義國家」と捉へる頭があるならば、「靖國參拜問題」は
「内政不干渉」の一言、外堀で食ひ止め、一歩たりともそれ以上門内に入れなければ良 いのである。政府内に見解が不統一かつ及び腰であるのを見て、高嗤ひしてゐる中國 共産党員の聲がこの國の政治家には耳に入らないのであらうか。 今、「内政不干渉」との謂ひで、小泉首相の「大手門」がきつちりと閉まつてゐるにも拘
はらず、敵に塩を賣るかの如く身内から「外堀」に橋を掛け渡す國賊的輩(中國の提燈 持ち)がゐる。それはまるで「大阪夏・冬の陣」で徳川に無理難題を吹つ掛けられ、「外 堀→内堀」と大阪城を丸裸にされ、ついには本丸を乘つ獲られてしまつた豊臣家の末路 を想起させる。無様な同一的姿を今日晒しつつある日本の現状が垣間見えるのである。 もし此處で一歩を譲り外堀を埋めれば次にどんな内堀攻略の「無理難題」が控へてゐる か充分に察しがつくであらうに。「A級戰犯→B級→C級」→「海底ガス田開發」→「沖ノ鳥 島」→「尖閣諸島」etcと。 我が國は「A級戦犯合祀」に到つた日本の「論理的必然」を主張し、後は「内政不干
渉」の論を貫けばよいのである。 「政・経」價値觀の主客転倒した政治家は自己保身に目も眩み、「日中友好条約」の「友
好」のお面の裏にある「覇権主義國家」中國の臭い芝居が見抜けないから、「賣國」的言 質を弄して厚顔無恥でゐられるのである。叉は、過去に取つた自己の言行に辻褄を合 はせるべき必要上、「恥の上塗り」をしながら鐵面皮に自己欺瞞の國士気取りをしてゐ るに過ぎない。そもそも今囘のケチの附け始めである「中曽根の靖國参拝取り止め」、 「河野洋平の從軍慰安婦肯定發言」がそのいい例である。評論家「潮匡人」も同質な事 を言つている「(過去の)失政の責任者(中曽根元首相)が現内閣を批判し『分祀』を説く 姿は滑稽きはまる」と。(參照:三島由紀夫は生前、中曽根を嫌つてゐた。それは中曽根 の愛國心のご都合主義、相對主義、欺瞞的な側面を見拔いてゐたからであらうか) 中曽根康弘も河野洋平も中川秀直も、そして「元首相」達も、よく考へてみるがいい。
先の大戰で亡くなつた英霊は、行く前からA級・B・C級を選んで死んだのではない。事後 法でしかも勝戰國のエゴイズムで裁かれたのである。 彼等は、「死んだら靖國に祀られる」と言はれ勇んで死地に赴き、死ねば死人に口なし
が故に、今度は生者の都合から死後分祀されてしまふ。その樣な「ナショナルアイデンテ ィティー」を喪失した、あやふやな國家の爲に果たして人は戰爭で死ねるであらうか。既 に戰ふ前からそのやうな國の勝敗は決してゐる。 日本國政治家の主張する「靖國參拜取り止め」は、結果として日本國民に「精神的荒
廢」以外の何物をももたらしはしないのである。物欲の爲に英霊を賣つた「精神の荒廢」 が行き着く先は・・・。 森元首相の今囘の言は、経済の爲に政治を中國に賣れと言つてゐる賣國的發言に等し
い。商(経済)によつて包囲された将に兵糧攻めの日本城(政治)が目の當たりに見え る。 と言ふ事で、ここは一番、やはり福田恆存の卓越した評論を顧みるべきではなからう
か。詳細は以下をご参照下されば幸ひであります。 http://blogs.yahoo.co.jp/sakuhinron/folder/69991.html
http://www.geocities.jp/sakuhinron/page036.html
《乃木将軍と旅順攻略戦》
http://www.geocities.jp/sakuhinron/page030.html
をはり
〔昭和三十九年五・六月著(五十四歳)〕
http://blogs.yahoo.co.jp/sakuhinron/3241425.html
中国による「歴史カード(戰爭謝罪)」を使つた反日の喧しい昨今、福田恆存は先の大戦
(或いは「戦争」)をどのやうに捉へたか。 恆存評論を索引としつつこの問題を考へてみたいと思ひます。
「 反省と言ふやつが、いつも人(國もだ!)を臆病にしてしまふ!
」(『ハムレット』)
【四月二十四日】テーマに對する會員及び關係者《参考意見》
四月:テーマ評論『西歐精神について』『適應異常について』
「ライブドア堀江氏による電波ジャックが意圖され、『正論』路線を行くフジサンケイグル
ープがおびやかされてゐる今日、福田恆存から學ぶべき問題として評論『西歐精神につ いて』(全集第四巻所載)『適應異常について』(全集第五巻所載)を、次囘のテーマ評論 として取り上げたいと思ひます」(相馬 記) 《参考意見》
吉野の觀點:
「ホリエモン」は上手く法の網の目を潜つた。(ヤフーブログ等にて三月上旬より書き込
み) しかし、「ホリエモン」の面相に殺伐たる精神性を見せられるにつけ、シェークスピアの格
調高き臺詞(せりふ)に想到せざるを得なくなる・・・。 「この堕落しきつた末世では罪に汚れた手も、黄金の鍍金(メッキ)をほどこせば、正義
を卻ける事もできよう。邪な手段で獲ち得た寶(たから)でも、ままあること、それで國寶 を買ひとつてしまへば、事はすむ。が、天ではさうはいかぬ。ごまかしは效かぬのだ。い かなる行ひも、あるがままに裁かれ、否も應もない」(福田恆存譯『ハムレット』第三幕第 三場:王位簒奪者「ボローニアス」の臺詞) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「ライブドア」堀江氏の精神性の低さが透けて見える。
堀江氏曰く。「投資家にとって邪道かどうかは関係ない。ずるいと言われても合法だった
ら許される。倫理観は時代で変わるから、ルール以外に(よりどころは)ない」(「産経新 聞」三月二日附け記事より) ・・・さうであらうか。
時代によつて変わらないのが「倫理」なのである。
「變化」と言ふ相対的なるものではなく、倫理は「神・佛・天」等の絶対価値がそれを背後
から支へ、権威づけているのである。故にそれは「不動」なのである。 此處に、堀江氏の精神性の低さが透けて見える。ただお金儲けへの「おつむの良さ」だ
けが。 そして福田恆存の言ふ、「日本人の西欧近代に對する適應異常」。その現象なるものの
一例が此處に露出してゐるのが分かる。 即ち、資本主義を「利潤追求(金儲け)の最高方法論」としか捉へぬ、日本人の西歐近
代に對する「適應異常」と、對するに、西欧近代が持つ「資本主義を発展せしめた社会 的主体は宗教改革の神」と言ふ、正統なる把握の違ひが。 別な言ひ方をすれば、「プロテンスタンティズムの倫理と資本主義の精神」。
資本主義を先導したものは、宗教改革「プロテンスタンティズムの倫理」なのだと言ふ視
點。 それが堀江氏のみならず、彼に似た人士には缺如してゐる、と言ふ事なのである。「公
器=放送・新聞」を乘取る行爲に、自己を背後から掣肘する「神の眼=倫理・良心」が喪 失されてゐる。そんなものをとうの昔から、持つてない彼の頭に問ふのも野暮な話だが。 ご参照は、
「自分と言葉(例:資本主義)との距離が測定出来ぬ人間は近代人ではない。いや人間
ではない」 「此處が解りにくい福田恆存」十二頁:《各例題に対する適応異常と適応正常化》。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
《恆存評論『西歐精神について』『適應異常について』等を索引にして本件を檢證する》
(一部文章、重複しますがお許しの程)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
*《會員「K.S 女史(二十代)」の觀點》:
「ライブドア堀江貴文社長による一大パフォーマンスについて」
このたびのライブドア堀江貴文社長による、企業買収・提携劇は
フジサンケイグループとライブドアの和解という結末に至りましたが、
結局のところ、散々世間をお騒がせし(売名行為ともいう)、和解へと
持ち込んで多額の資金提供も得るという、ライブドアの勝利だと
いえましょう。
個人的には、堀江氏の傲慢さ、金でなんでも解決できると豪語する
ふてぶてしさ、恐るべき国家観・公共性の欠如、氏の語る人生観の
軽薄さには、憤りに近いものさえ感じます。こんな軽薄人間が大手メディア、
司法、社会を揺さぶっているのですから。
しかし、フジサンケイの隠された密室体制(「ニッポン放送」を早期に
子会社化しないできたのは、利益をフジサンケイグループ幹部に集中させ
ておくため)を見抜き、法の網の目を潜り抜けて(法の未整備を突いた、
ある意味で研究熱心)一気にテレビ会社を押さえ込んだ、堀江氏の
作戦勝ちです。今回の堀江氏の一大パフォーマンスによって、法や大手
メディアの脆弱性が露呈したのです。
堀江氏は、この社会における様々な旧態依然体制を嫌悪し、それを
破壊しながら、自ら利を得ることに究極の快楽を感じつつ、その為には
命を懸けてもいいという、捨て身の恐ろしさを漂わせています。
効率、利便性、本能的欲求の満足を追求し、人間の徳目である
仁、義、信、礼を軽視、「国家」「伝統」を嘲笑する堀江氏の、ある意味
での強さ(人間関係、歴史の重さ、複雑さに囚われずに済むという)が
今のところ勝利を収めてきていると思いますが、今後も彼の思惑通り
(想定内)で済まされるとは思いません(そう、うまくいくものですか)。
兎も角、旧体制の中で安穏としてきた人達は考えを改めざるを得なく
なってきたことは確かなようです。
私個人としては、フジサンケイは左翼勢力と闘う唯一のメディアとして
今後も大いに奮闘してもらいたいし、応援を惜しみませんが、傲慢ホリエモン
ごときに狼狽しない、強固な信念と経営手腕を備えてほしいものです。
三月二十一日:《此處が解りにくい福田恆存》續 「マルクス主義は、個人主義の行き詰まりを克服したか?」
《此處が解りにくい福田恆存》(會員S氏からの提議)
S 氏曰く:
西尾幹二氏が『福田恆存歿後十年記念講演』で語り、後に『行動家・福田恆存の精神
を今に生かす』と題して、雑誌『諸君』(平成十七年二月号)に發表した論文の中に、次 のやうなマルクス主義についての論述がある。 (ィ)、「いかなるリベラリストよりも早く、福田氏はマルクスの脅威と魅力は同質であると
見拔いていた。いうまでもなくマルクス主義は、個人主義の行き詰まりを克服するという はっきりした方向性をもっていたから」 (ロ)、自由や平和はゼロの状態であって、生の目的にはなり得ない。全ての近代思想
はそこで躓いている。しかし、マルクス主義はこのパラドキシカルな自由の問題を解決し ているのです」 (ィ)(ロ)の以下の点について考察戴きたい。
(ィ)「福田氏はマルクスの脅威と魅力は同質であると見拔いていた」「マルクス主義は、
個人主義の行き詰まりを克服するというはっきりした方向性をもっていたから」 (ロ)「マルクス主義はこのパラドキシカルな自由の問題を解決しているのです」
(ィ)について。
「マルクスの脅威と魅力は同質・・・」とは・・・
「なにものかによつて自由を奪はれてゐること、それが人間の生き方」。その「自由がな
いと言ふ現状」、それを共産革命(マルキシズム)は最終目的と?んでゐるから。 對物質の問題としての自由。「物質的欲望の完全な満足」としての自由。「端的にいへば
自由とは快楽の自由」だとする人間の本性。要するに「精神の自由と言ふ課題は物質的 なそれによつて左右されうるといふ唯物辧證法」から、言論も學問も藝術もさうした「自 由がないと言ふ現状」を、共産革命(マルキシズム)はそれを最終目的と?んでゐるので あると恆存はいつてゐるのでは。(全三:P564『人間・この劇的』) 恆存は『近代の宿命』(全二:P457)ではかう言つてゐるが・・・。
「マルキシズムは個人主義をいかに科學的に分析し、歴史的に位置づけたにしても、そ
れ自身の歴史性(テキスト:P8)と相對性とをいまだに見ぬきえないでゐるかにみえる。 それは個人主義そのものを克服して出てきたものではけつしてない。ただ十八世紀的個 人主義(同P7文參照:「個人と社會との対立は社會の側から解決される」を注目)がそ れによつて否定されてゐるのにすぎず、その意味では個人主義もまた、十八世紀的な社 會改革の意圖を超えて出てきたものにほかならない」と。 即ち十九世紀「個人主義=近代自我」を克服してはゐないのだと。では、十九世紀「個
人主義」近代自我)とは、その「限界」とはどう言ふものか。・・・ それに関聨して、
「精神の政治學とは個人の純粋性と『支配=被支配の自己』とのあひだに、それぞれの
個性に応じた均衡を企てるものであるゆえに、もし社会(A)が自然のごとき合理性をも つてゐるならば、もはや政治学の用はなく科学がそれに代るべきである」(全2:P451 『近代の宿命』)・・・・ とは「社会(A)が合理性をもつてゐる」なら、科学で九十九匹(A)の問題はけりがつき、
「均衡」は不要となりBの領域は消える。マルクスの「科学的社会主義」でけりがつく。と 言ふことだらう。十八世紀の楽天的「合理主義・科学主義」はそれを素朴に信じられてゐ た時代。「いはば、個人と社会との対立は社会の側から解決されると」。それなら、「科學 的社会主義」の方が、と言ふ事であらう。しかし十九世紀になつて、そんな事は幻想でし かないと気が付いたと言ふ事。「社会(A)が合理性をもつてゐる」譯ではない事に。けり が付かない個人の純粋性(個人的自我)が存在してゐる事に。そして十九世紀個人主義 は、更に以下の樣なジレンマに陥つてゐる事にも気が付いたのである。 近代=「神(C)の死」即ち「神意(宿命:D1)喪失」⇒神の代はりに自己の手による宿命
(D1)演出⇒自己主張(表現)・自由意思(人間如何に生くべき)D2⇒自己完成(C”:自 己主人公化・自己全体化・自惚鏡)⇒自己陶酔・自己満足・自己絶対視・自己証明によ る「似非(D3)実在感」⇒自己喪失(自己への距離感喪失・適応異常)。 即ち「個人主義は個人の純粋性を(自己完成に繋がるものとして)擁護せん」としたが、
結局は上記の「特殊性」なるものに堕してしまつた。(『近代の宿命』) 十九世紀「個人主義=近代自我」はその限界を露呈し、尚かつ「Bの領域=一匹」の存
在は「神に從屬する純粹自我」として、どうしても否定する事が出來ない(ニーチェ・ドスト エフスキー・ロレンス・フローベール等が主張)。此處に巌として存在し「確かに、人間の うちには――ヨーロッパ人の心の内部には、神に従属させておかなければじつさいどう にもならぬ領域(B)が存在する」(同P458)事に西欧は逢着したのである。さうした西欧 十九世紀が、個人主義の限界から到達した結論(「神に從屬する自己」の存在)をマル キシズムは克服してはゐないのだと、上記の問題を恆存は言つてるのである。「行き詰 まりの克服」は十八世紀の個人主義についてのだと。・・・この邊の頁に大いにこの問題 の謎を解く鍵が。 (ロ)について。
「マルクス主義は、このパラドキシカルな自由の問題を解決」とは・・・
精神の自由の頂點においては(中略)他人を否定し、不要物と化する。物質的自由にお
いても、それは同様である。その極限においては、それは他人の否定を意味せざるを得 ない。他人は自分にとつて必要な物質を生産し提供する媒體に過ぎず、つねに物質に 置きかへられる金銭同様の抽象的存在に化してしまふのだ。資本主義においても社會 主義においてもその點に變はりはない」(『人間・この劇的』)。それならば、資本主義の 矛楯からマルクス主義への移行を必然と考へる、「科學的社會主義」が最良の方法論 だ。と言ふ事になるのでは。 參照:拙論:福田恆存の「個人主義」観
http://www.geocities.jp/sakuhinron/page037.html
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