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十二月「選擇評論」:全集第四巻所載『文學以前』(「新潮」昭和四十年二、三、七月號:五十四歳)。

 

 今囘小生の關心は、當評論の後半「三 自然と技術」の〔難解又は重要文〕:P405下~最終頁に注がれた。特に以下枠文から、注意が、アリストテレスの「自然論」と恆存の「完成せる統一體としての人格」論との關聯性に赴き、殆どその探究に時間が費やされてしまつた。

「(近代の個人萬歳の思想は)目的が人間の側にあるとすれば、それは抽象的な人間一般の中に宿るのではなく、具體的な個人個人の中に宿るのであつて、その結果、それぞれの個人が社會に對して自分の目的に奉仕し、それに役立つ樣になる事を期待するでせう。そして、その混亂を整理し、抑制する價値觀を吾々は持つてゐない。アリストテレスはそれを自然の意思のうちに見出し、それに合致する樣に社會生活を整へるのが政治や道徳の技術であると考へました。そのばあいにも、『技術は自然を模倣する』のであります。が、今日、吾々は自然の内に意思や目的を認めてゐない

 尚、小生の探究が的を射てゐるか否かは別として、加へていつもの通り、解説と言ふ「客體化」に難が附き纏ふ可能性が大となるかも知れないが、詳細については該當項目上にて述べさせて戴く。

 

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〔以下は、吉野櫻雲發表文〕

 

と言ふ事で、今評論も中々の難解にしてかつ手ごはく、そしてどの文章も重要なのであるが、特に以下内容文を此處に取り上げる事とする。更にいつもの如く難解なる内容については、手助けを他評論に仰ぐこととする。(以下文中傍線及び括弧内は概ね吉野附記。「P9圖」云々は「讀む會テキスト」頁を表す。「ABD2」等も同テキスト三頁を參照の程)

 

 

〔重要文〕:P397上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「純粋化と言ふ近代病の犠牲者」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。これは「テキストP8圖」を示し、「純粋化」とは實證精神の追究の餘り、西歐近代は「本末顛倒」を冒した事を示し、それは屡々例に擧げる以下の文章(傍線部分)のことであらう。

「現実のうちに正しく生きよう」といふ問題(『作品のリアリティーについて』より。全二P266~)

「自然を、現實を正しく認識するのは、自然のうちに、あるいは現實のうちに正しく生きようといふ目的のためにほかならない。近代が――ことに十九世紀が、この手段を目的から獨立せしめ、それ自体の自律性を獲得せしめたのである。

 現實を正しく認識しようといふのは、自分の目のまへに自分から離れたものとして眞實を設定しようといふことであり、現實のうちに正しく生きようといふのは、現實とのかかはりにおいてみずからが眞實にゐようといふことであつて、兩者はおのづから別個のことがらであ

 

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〔三 自然と技術〕

〔重要文〕:P401上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「アリストテレスは自然そのもののうちに技術(ART)を、或は技術的なるものを観てゐる樣に思はれます」

 

〔重要文〕:P403上下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

     「アリストテレスにとつて、自然は目的を持つてゐるものであり、形相因、目的因によつて突き動かされてゐるものなのです。彼は自然の部分部分がさうであると同時に、それが全體として完結をめざすものと考へました。それは人間の知的な行動におけるのと全く同樣です。邪魔さへ介入しなければ、いづれも完結への段階を一歩一歩踏み固めながら進んで行く」。

     アリストテレスは自然と技術との相關關係に及び、『一般的に言つて技術は一方では自然が完成にまで持ち來たらし得なかつたものを完成し、一方では自然を模倣する』と言ふ」。

     「アリストテレスは自然の缺陷を補ふものとして、或は自然の自己完成を助けるものとして人間の技術を意義附けながら、自然に對する技術の優位を決して認めてゐないといふ事です。詰まり、今日の自然科學の樣に、自然を飽くまで無目的の物質と見倣し、其れを人間にとつて目的的に役立たせる精神の所産としての技術といふごとき考へ方は全く無かつた。自然が既に立派な技術者なのですから、人間の技術は當然その延長線上にあり、その尖端の一部をなすものであります」

・・・上記①②③の重要文、特に傍線部分は次項目で取り上げる、恆存の「完成せる統一體としての人格」論にも關聯し、或はその影響を見る事が出來る。

 

〔難解又は重要文〕:P405下及び最終までも含む「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「(近代の個人萬歳の思想は)目的が人間の側にあるとすれば、それは抽象的な人間一般の中に宿るのではなく、具體的な個人個人の中に宿るのであつて、その結果、それぞれの個人が社會に對して自分の目的に奉仕し、それに役立つ樣になる事を期待するでせう。そして、その混亂を整理し、抑制する價値觀を吾々は持つてゐない。アリストテレスはそれを自然の意思のうちに見出し、それに合致する樣に社會生活を整へるのが政治や道徳の技術であると考へました。そのばあいにも、『技術は自然を模倣する』のであります。が、今日、吾々は自然の内に意思や目的を認めてゐない」~P404上云々・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。

 傍線部分は「個人主義」が内包する問題點のことを指摘してゐるのであり、それ以後の文については、別紙「パワーポイント圖」rekish.bunka.kata.new.pdf へのリンクを參照されたし。簡略すると、以下の樣になる。

自然(C)⇒自然に内在する目的因・意思の命令(天命・關係・宿命・D1)⇒「模倣D2」即ち「目的因の命(宿命)/自己劇化

 そしてこの樣にアリストテレスの「自然・技術」論を捉へる事が可能となると、又、上記文中その混亂を整理し、抑制する價値觀を吾々は持つてゐない。アリストテレスはそれを自然の意思のうちに見出し、それに合致する樣に社會生活を整へるのが政治や道徳の技術であると考へました」云々の文章に遭遇すると、おのづとそこから連想が生じて、以下の恆存の「全體(C)論」(「完成せる統一體としての人格」論)が小生には浮かんでくるのである。其處にはアリストテレスの影響が反映されてゐる樣に窺へる。特に該當と覺しきは「『私たちはしつかりしてゐない』という自覺が、『私たち』をしつかりさせてくれる別次元のフィクションとしての國家や防衛を要請する」の文である。尚影響を探るに當たつて、後半文にアリストテレスの言ふ「技術・ART」「模倣」を括弧注として挿入してみた。牽強附會にならぬ事を願ふ。

(注「完成せる統一體としての人格」論は「テキストP10圖」を參照)

 

全六『覺書六』から「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「一般の日本人は、自分の子供が戰場に駆り立てられ、殺されるのが嫌だからと言つて、戰爭に反對し、軍隊に反撥し、徴兵制度を否定する。が、これは『母親』の感情である。その点は『父親』でも同じであらう、が、『父親』は論理の筋道を立てる。國家(場面)といふフィクションを成り立たせるためは、子供が戰場に駆り立てられるのも止むを得ないと考へ、そのための制度もまたフィクションとして認める。が、彼にも感情がある。自分の子供だけは徴兵されないように小細工するかも知れぬ。私はそれもまた可と考へる。『父親』の人格の中には國民としての假面(役・自己劇化)と親としての假面と二つがあり、一人でその二役を演じ分けてゐるだけの事である。そして、その假面の使ひ分けを一つの完成した統一體として為し得るものが人格なのである。『私たちはしつかりしてゐない』という自覺が、『私たち』をしつかりさせてくれる別次元のフィクションとしての國家や防衛を要請するのである、要するに人格も法も國家も、すべてはフィクションなのであり、迫持(せりもち)、控へ壁などの備へによつて、その崩壊を防ぎ、努めてその維持を工夫しなければならぬものなのである」(P703全六『覺書』)(「テキスト十圖」:參照)

問題は、すべてはフィクションであり、それを協力して造上げるのに一役買つてゐる國民の一人、公務員の一人、家族の一人といふ何役かを操る(技術・ART)自分の中の集團的自己をひとつの堅固なフィクションとしての統一體たらしめる原動力(技術・ART)は何かといふ事である。それは純粋な個人的自己(技術・ART)であり、それがもし過去の歴史と大自然の生命力(時間的全體・空間的全體)に繫つてゐなければ(模倣)、人格は崩壊する。現代の人間に最も欠けているものはその明確な意識ではないか」(全六P703~4『覺書』)

 

 詰まり、小生はかう言ふ事を言ひたいのである。

アリストテレスの言ふ「自然:C」に内在する「目的因」=「自己實現の意思」(P403下)には、「時間的全體感」「空間的全體感」も含まれると、恆存は観てゐると。そしてアリストテレスの言ふ樣に、その獲得の手段は技術(ART)であり、「自然を模倣する」事によつて、それが可能となると言ふ事を、無論恆存も承認してゐるのであると。

そして、「時間的全體感」の獲得手段としての技術(ART)は、「DYNAMIC ART(動的時間藝術)即ち音楽、詩、劇」であり、「空間的全體感」の獲得手段としての技術(ART)は、「STATIC ART(靜的造形美術)」(P394)である、と恆存は捉へてゐる。

そして更に加へて、恆存はかう言ふ風にも考へてゐるのである。上記文「完成せる統一體としての人格」論で言ふ、何役かを操る」行動、即ち換言すれば「關係(D2)と言ふ眞實を生かす」行動も、當然の事、上記の「劇(動的時間藝術)」と同じ「技術(ART)」の範疇に入り、かつ「技術は自然を模倣する」役目を果たすのだと。それ故にその行動によつて、劇の「演戯」と同じく時間的全體感」を獲得し、其處に「實在感」を得る事が可能になると、その樣にアリストテレスの「自然論」を恆存は自己の思想中に肉化してゐるのである

その意味からしても、上文中の「大自然」は、アリストテレスの「自然」に通ずるものがあると見る事が出來る。

なぜ小生がその樣に連想していくかと言ふと、當評論最終部分「アリストテレスが考へてゐた技術が何を意味するかについて、その自然觀を背景にして説いて參りましたが、それを藝術に限つた場合、どうなるかについては、いづれ『詩學』を手掛として考へて見たいと思ひます」の文が氣になつたからである。

恆存は當評論連載後、傍線部分の展開をしてゐない樣に思へる。その爲に、恆存は『覺書六』(全六P705附近)の記載が必要になつたと考へられる。 

小生としては、傍線部分がない爲に『覺書六』の内容も考慮に入れて、それを上記の樣に憶測してみた迄である。小生の記憶違ひかも知れないので、該當評論があれば教えて戴きたい。

 

ついでに言へば、以下の「科學」云々なる文も當然の事、恆存は「技術(ART)」の意味を含めて使用してゐると思へる。

「科學、一にも二にも科學――その發達の可能性に期待する以外、ぼくはなんの希望ももちえない」(全二P512『白く塗りたる墓』)

「科學、一にも二にも科學――その發達の可能性」とは、即ち科學(A)の事は科學A)でと言ふ事なのであらう。「カエサル(A)のことはカエサルA)に聞け」「處世術(A)の事は處世術A)で對處」といふ事であり、この二つも同樣「技術(ART)」なのであり、「技術は自然を模倣する」なのである

前文でも書いたが、アリストテレスの「自然・技術」論を以下の樣に捉へる事が可能となると、アリストテレス、恆存、チェーホフ、三者の共通項を下欄表の樣に並列する事も可能となる。

自然(C)⇒自然に内在する目的因・意思の命令(天命・關係・宿命・D1)⇒「模倣D2」即ち「目的因の命(宿命)/自己劇化

 

〔三者の「C:全體・絶對」、「D1:關係・宿命・天命」、「A:集團的自我」、「D2:自己劇化」の比較〕

各文人別

 

(出典評論)

全體・絶對(C)

 

關係・宿命・天命(D1)

 

集團的自我(A)

宿命(關係)/自己劇化(D2)

アリストテレス

 

『文學以前』

自然

自然に内在する「目的因」・「意思」が命ずる、

天命(D1)的概念

技術(ART)

「技術は自然を模倣する」 。

「模倣D2」即ち

目的因(宿命)/自己劇化

恆存

(參考:「全6覺書」他)

絶對・全體

誠實

「カエサル(A)のことはカエサルに聞け

「處世術(A)の事は處世術で對處」。

「關係(D2)と言ふ眞實を生かす」=フイクション

チェーホフ

(全二P179『チェーホフ』)

拙文『口邊に苦笑』(P7)

「空家(神不在)」にたへる。

 

「無執着」

「底意のない眼」「直接な・清純な・素朴な」氣持で「人や自然に附合ふ」

科學・實證精神(A)の徹底による「科學(A)と藝術(B)との一致」。

D1/自己劇化

・・・D1の命に基づき「稚児のごとき無我の純粋な人間」を演戯

 

尚、チェーホフとアリストテレスとの關聯性については、恆存評論に書かれてるものはないやうに思ふ。

しかしチェーホフは、科學・實證精神の徹底。即ち「科學(A)と藝術(B)との一致」化によつて藝術(B)の純化「直接な・清純な・素朴な」氣持)に基づき「稚児のごとき無我の純粋な人間」であり、それは恆存の思想と共通するものがある。

恆存がよく言ふ「カエサル(A)のことはカエサルに聞け」、「處世術(A)の事は處世術で對處」がそれに關聯する。 二人とも科學(A)と藝術(B)とは對立しないと捉へてゐたのである。それについて恆存はかう書いてゐる(傍線參照)。

「チェーホフが考へてゐたのは科學と藝術との一致にほかならぬ、かれは書簡や作品のいたるところでそれを口にしてゐた。兩者が對立し抗爭すると考へるのは『人間どもの迷妄』であつて兩者それ自身のあひだにはなんの『爭ふべき理由』もなく、むしろ『同一の仇敵――悪魔』にむかつてたたかひを挑んでゐるのだといふ。(一八八九年五月十五日スヴォーリンあて)」と。

これは恆存の論と背理しない。そして、この樣に二人が共通して捉へてゐたとも言へる傍線部分を、敢へて深讀みするならば、科學も藝術も「技術(ART)」と捉へ、「技術は自然を模倣する」と考へたアリストテレスの論に、二人はごく近くにゐると指摘する事が出來る。

 

をはり

平成十九年十二月十六日

〔当HP:目次〕