平成二十二年五月二十三日
『福田恆存を讀む會』
發表者 吉野櫻雲
五月選擇評論:全集第二巻所收『急進的文學論の位置づけ』(「花」昭和二十三年一月號:三十七歳著)。
今評論もさうであるが、鷗外を語る恆存の文章は難解である。その爲、本文を解讀するに窮し、「まへがき」を書く迄の餘力がなかつた。
ただ今評論の主題(副題?)、「中野重治」の「急進的文學論」を含めた左翼小説家批評家の冒す弊害とは、簡略すると、以下枠文「それらの科學が充分にその責任をはたしえないでゐるがために、文學の領域(B)で粗笨な公式的イデオロギー(唯物論・唯物史觀?)がいともかんたんに現實を料理し、作品や文學史を裁斷してゐるのだ」を、物語つてゐるのであらう。よつて此處にあへて轉載しておく。
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〔難解又は重要文〕:P297下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 ②「(明治の現實は)なまの素材としては混亂してをり、なんの意味をもたぬ現實に主題的完成を與へるのが文學の意圖であるとすれば、明治日本の現實がその作家たちに美的完成を許さぬほど混亂してゐたといふ事實を、ぼくたちはまづみとめてかからねばならない。存在そのものが混亂していたばかりではなく、意識も、意識と存在との關聯そのものも、ほとんど收拾つかぬほどの混亂を呈してゐた。その混亂の樣相を如實に描きだすことこそ今日の歴史學、あるいは社會科學の任務であらう。それらの科學が充分にその責任をはたしえないでゐるがために、文學の領域(B)で粗笨(そほん)な公式的イデオロギー(唯物論・唯物史觀?)がいともかんたんに現實を料理し、作品や文學史を裁斷してゐるのだ」。 |
*今評論選擇理由・・・川上會員より。
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參照:〔以下はメール文〕 *今囘、「完成せる統一體」、「完成體」、「文學において課されてゐる精神的完成の大業」、などの表現が、多く用ゐられてゐます。恆存の、「完成」とは何をいつているのか。 |
*引き續き川上會員より、LEADING(READING)へ・・・。
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〔以下は、吉野櫻雲發表文〕
と言ふ事で、今評論も中々の難解にしてかつ手ごはく、そしてどの文章も重要なのであるが、特に以下内容文を此處に取り上げる事とする。更にいつもの如く難解なる内容については、手助けを他評論に仰ぐこととする。(以下文中傍線及び括弧内は概ね吉野附記。「P9圖」云々は「讀む會テキスト」頁を表す。「A・B・D2」等も同テキスト三頁を參照の程)
〔難解又は重要文〕:P296上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「もしすべての個人的倫理(B)の解説を、社會的現實(A)のうちにえようとする(唯物論・唯物史觀?)ならば、すなはちひとたびさういふ方式を採用しようときめたならば、むしろその徹底を期するべきである。鷗外が『家庭生活(A)、官吏生活(A)、それから政治生活(A)、すべてを貫いて結局のところ・・・・ふるいものに屈服し』さうすることによつてしか、かれの文學的完成をはかることができなかつた理由――そこに當時の歴史的、政治的、社會的現實の必然的な在りかたが發見せられなければならず、ぼくたちがそこに眼をつけた以上、鷗外の態度を單純に『屈服』などとのんきな方言はできぬはずである」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。此處は難しい表現なので自己用に分かり易く(?)言ひ換へてみた。
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「すべての個人的倫理(B)の解説を、社會的現實(A)のうちにえようとする(唯物論・唯物史觀?)ならば」、鷗外の場合についても「かれの文學的完成(B)をはかることができなかつた理由」(=個人的倫理の解説B)を探り、「當時の歴史的(A)、政治的(A)、社會的現實(A)の必然的な在りかた」の内に、その理由を發見するのでなければならない(=その理由を社會的現實(A)のうちにえようとするのでなければならない)」。さうした論理的整合性を追はないのならば、其處には矛盾が生じ、結局は左翼批評家(進歩的知識人)の逢着する「自己撞着」としか、それは表し樣がなくなつてしまふ(參照圖:『日本の知識階級』nihontekiseishinshugikouzu.pdf へのリンク)。 |
と、恆存は謂はんとしてゐるのではなからうかと・・。
そしてその點を詳らかに檢證したならば、鷗外の態度は單純な「屈服」などといふものではなく、その反對で「かれの『屈服』こそはまさにはげしい鬪爭の逆説にほかならぬ」(P298上)事が解る筈だ、と恆存は言はんとしてゐるのであらう。
その問題を追究してゐるのが、評論『自己劇化と告白』と言へる。⇒參照〔難解又は重要文〕:P297下~8上項目。よつてこの「屈服」の問題は其處で取り上げることとしたい。
〔難解又は重要文〕:P296上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「文學(B及びE)は現實(A)を秩序づけ、その混亂に形式(E)を與へ、なまのままではなんの聯關も内容ももたぬ現實に意味と目的とを賦與することによつて、ひとつの完成にまでもつてゆく。すでに存在するものを認識し記述し反映するのではなく、表現することによつてはじめてその現實性を自他ともに納得しうるやうにととのへること――藝術的完成とはまさにそれなのだ。文學における、あるいは精神の領域におけるたたかひとは、したがつて、さもなければ無意味であり存在しえないやうな現實の不安定性に眞實の保證を與へようとする意思的なこころみにほかならぬ。(中略)藝術の責任はただそれを美的完成にまでもちきたらすことにのみある」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。此處の文章は、特に傍線部分が〔難解又は重要文〕:P297下項目の以下文と關聯する内容と捉へる事が出來るので、其處で探究する事にしたい。
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〔難解又は重要文〕:P297下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 ②「(明治の現實は)なまの素材としては混亂してをり、なんの意味をもたぬ現實に主題的完成を與へるのが文學の意圖であるとすれば、明治日本の現實がその作家たちに美的完成を許さぬほど混亂してゐたといふ事實を、ぼくたちはまづみとめてかからねばならない。存在そのものが混亂していたばかりではなく、意識も、意識と存在との關聯そのものも、ほとんど收拾つかぬほどの混亂を呈してゐた。その混亂の樣相を如實に描きだすことこそ今日の歴史學、あるいは社會科學の任務であらう。それらの科學が充分にその責任をはたしえないでゐるがために、文學の領域(B)で粗笨な公式的イデオロギー(唯物論・唯物史觀?)がいともかんたんに現實を料理し、作品や文學史を裁斷してゐるのだ」 |
ただ、「表現することによつてはじめてその現實性を自他ともに納得しうるやうにととのへること――藝術的完成とはまさにそれなのだ」の文は、以下文章を想起させるものがあるので、その事を此處に書き留めておきたい。
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「われわれが敵(自己を超えたる場:C)としてなにを選んだかによつて、そしてそれといかにたたかふ(宿命/自己劇化)かによつて、はじめて自己は(創作對象に)表現せられるのだ」(『自己劇化と告白』P412)⇒別紙(PP2頁圖warewaregatekitositenaniwo.pdf へのリンク) |
【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】
〔難解又は重要文〕:P297上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「たれもが自分の生活になんらかの意味づけを欲し、見事な主題の抽出を願望してゐるのである。精神上のたたかひとはこの主題の發見と維持との以外のなにものであらうか。この主題の形式にいささかでも役立ちうる事實を自己の生活において強調するやうに生きること、同時にあらゆるささいな事實をもなんとかしてこの主題のもとに組いれやうとこころみること――それ以外に精神のたたかひは考へられない。いはばコップから水を飲むことすら完成せる統一體の一構成分子たらしめることだ。文學者とはあらゆるひとにさきだつて――といふのはあらゆるひとになりかはつて――専門家として、たんなる現實の素材に意味的聯關を與へるやう強烈な意識をもつて、その生活を主題的に統一して生きぬかうとする人間のことにほかならない。存在が意識を決定する。もちろんだ――が、この大前提のうへに立つて、逆に意識をもつて、存在を選擇し決定してゆかうといふのが文學者のしごとである。それが精神のたたかひなのだ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。此の邊もなかなかに難解である。よつて、別けて解讀を試みてみたい。
*「たれもが自分の生活になんらかの意味づけを欲し、見事な主題の抽出を願望してゐるのである」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。それについては以下の文が參考になるのでは。
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拙發表文《恆存の「實在感」についての考察》 〔日常生活には缺如してゐる「實在感」「全體感」「必然感」について〕 ① 私達の意識は、平面を横ばひする歴史(過去・現在・未來といふ時間的繼續)的現實の日常性から、その無際限な平板さから、起きあがらうとして、たえずあがいてゐる。そのための行爲が演戯である」(全三P532『人間・この劇的なるもの』)。 ② 「私たちは、平生、自分を全體と調和せしめようとして、それができずに疲れはててゐる(全體感・實在感の缺如)。いひかへれば、生理的には必然かもしれぬが、倫理的には偶然な事故にしかすぎぬ死以外に、何の完結も終止符もない人生に倦み疲れてゐるのだ。私たちの本能は、すべてが終ることを慾してゐる」(全三P584『人間・この劇的なるもの』)。 |
*「精神上のたたかひとはこの主題の發見と維持との以外のなにものであらうか」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「主題の發見」とは「われわれが敵(自己を超えたる場:C)としてなにを選んだか」と言ふことであらう。「維持」とは「宿命/自己劇化」と言ふ事であらう。
「精神上のたたかひ」とは、以下の文が參考になるのでは・・。
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別紙(PP2頁圖warewaregatekitositenaniwo.pdf へのリンク)の「われわれが敵(自己を超えたる場:C)としてなにを選んだかによつて、そしてそれといかにたたかふ(宿命/自己劇化)かによつて、はじめて自己は(創作對象に)表現せられるのだ」(『自己劇化と告白』P412)と言ふ事になる。そしてその樣式(型E)が、鷗外(鴎外)においては「歴史小説・史傳」と言ふ事なのである。ougai.pdf へのリンク |
恆存評論(『自己劇化と告白』他)に據れば、鷗外における、「主題の發見」「維持:宿命/自己劇化」とは、「大主題(C)⇒天命(D1宿命:至誠)⇒「維持:宿命/自己劇化」:中主題(樣式・型)⇒小主題(各作品)」の内容をそれは示してゐて、詳しくは以下の樣になる。⇒參照:別紙(PP圖warewaregatekitositenaniwo.pdf へのリンク)
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各文人別 「われわれが」 |
大主題(C)の發見:「敵(自己を超えたる場)」 |
「新限定」 (天命・關係・宿命) 「としてなにを選んだか(宿命選擇)によつて」 |
中主題(文學)の創造:「そしてそれといかにたたかふ(宿命/自己劇化)かによつて、自己が表現せられる」 =E樣式 |
小主題の創作 「表現せられる(創作對象に)」 即ち「現實的客體化」 |
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森鷗外 |
「背後の道徳」 |
天命(儒教道徳=至誠・武士道) |
歴史小説・史傳 |
義=仇討ち=『護持院原の敵討』・ 忠=切腹=『堺事件』・ 孝=『高瀬舟』・ 全般=『渋江抽斎』等々 |
*「この主題の形式にいささかでも役立ちうる事實を自己の生活において強調するやうに生きること、同時にあらゆるささいな事實をもなんとかしてこの主題のもとに組いれやうとこころみること――それ以外に精神のたたかひは考へられない。いはばコップから水を飲むことすら完成せる統一體の一構成分子たらしめることだ。文學者とはあらゆるひとにさきだつて――といふのはあらゆるひとになりかはつて――専門家として、たんなる現實の素材に意味的聯關を與へるやう強烈な意識をもつて、その生活を主題的に統一して生きぬかうとする人間のことにほかならない」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。是は恆存の主論「完成せる統一體としての人格」論kanseiserutouitsutai.pdf へのリンクの事を言つてゐる樣に小生には思へる。更に關聯した文章を加へるなら、「ハムレットは、これが宿命であると納得のいく行爲の連續によつて、自己の生涯を滿たしたいと慾して」ゐた、といふことになる。
尚、「ささいな事實をもなんとかしてこの主題のもとに組いれやうとこころみること――それ以外に精神のたたかひは考へられない」の、「ささいな事實をもなんとかしてこの主題のもとに組いれやうとこころみる」とは、鷗外においては、彼の文學(樣式・型=「史傳」)的活動においては、以下の事(傍線部分)を物語つてゐる樣に小生には思へるのである。
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「彼はもはや現實の調整も構成も意に介しない。あるがままに見、あるがままに語らうとする。(中略)一蘭学者が某月某日、某職の辞令を拝した事實のはうが、はるかに大切なのである。このささやかな事實のうちに鷗外の自我はかへつて安定の場所を得る。そこに彼は人間、自我の運命のはかなさを蔽ひ庇ふ堅固な盾を見いだす。これは自己主張といふがごときものではない。鷗外は自己の保證(實在感?)を求めて平凡な實生活上の事實に縋つたのである」(『近代日本文學の系譜』全一P23)。「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 |
*そして、「存在が意識を決定する(唯物論・唯物史觀?:P296下參照)。もちろんだ――が、この大前提のうへに立つて、逆に意識(B)をもつて、存在(A)を選擇し決定してゆかうといふのが文學者のしごとである。それが精神(B)のたたかひなのだ」とは、意識(B精神)が敵として選んだ、「自己を超えたる場(C)」から生ずる關係(D1)と言ふ眞實を生かすべく、「宿命/自己劇化」を演ずると言ふ事であらうか。即ち、鷗外においては、「大主題(C)⇒天命(D1宿命:至誠)⇒「維持:宿命/自己劇化」:中主題(樣式・型)⇒小主題(各作品)」を示す〔參照:別紙(PP圖nihontekiseishinshugikouzu.pdf へのリンク)〕。此處にも「ハムレットは、これが宿命であると納得のいく行爲の連續によつて、自己の生涯を滿たしたいと慾して」ゐた、の文が適用出來さうだ。
【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】
〔難解又は重要文〕:P297下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
①
「存在が意識を決定するといふテーゼ(唯物論・唯物史觀?P296下參照)を適用し、精神のたたかひの
軌跡を逆にたどつて、なまの現實といふ岩盤につきあたらうといふこころみは、いつたいなにをいみするのか」。
〔難解又は重要文〕:P297下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
②「なまの素材としては混亂してをり、なんの意味をもたぬ現實に主題的完成を與へるのが文學の意圖であるとすれば、明治日本の現實がその作家たちに美的完成を許さぬほど混亂してゐたといふ事實を、ぼくたちはまづみとめてかからねばならない。存在そのものが混亂していたばかりではなく、意識も、意識と存在との關聯そのものも、ほとんど收拾つかぬほどの混亂を呈してゐた。その混亂の樣相を如實に描きだすことこそ今日の歴史學、あるいは社會科學の任務であらう。それらの科學が充分にその責任をはたしえないでゐるがために、文學の領域(B)で粗笨な公式的イデオロギー(唯物史觀?)がいともかんたんに現實を料理し、作品や文學史を裁斷してゐるのだ」。
・・・①②は何を言はんとしてゐるのであらうか。此の邊もなかなかに難解である。よつて、別けて解讀を試みてみたい。
*「精神のたたかひの軌跡を逆にたどつて、なまの現實といふ岩盤につきあたらうといふこころみ」。及び
*「なまの素材としては混亂してをり、なんの意味をもたぬ現實に主題的完成を與へるのが文學の意圖」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。それについては以下枠文が參考になるのでは。先述要約すると、明治日本の現實は「なまの素材としては混亂してをり」、その樣な「樣式のないところに眞の人間生活(別紙右圖P1-4rekisi.bunka.kata.pdf へのリンク)はありえない。――それはたんに動物の生存(同左圖)にほかならない」。「なんとかしてこの素材のままの現實に樣式を與へなければならぬ」。その樣式(E)を與へる手段の一つが「文學(小説):E」であると言ふ事なのである。そして文學(小説)と言ふ樣式(型E)によつて「現實に主題的完成を與へる」ougai.pdf へのリンクのだと(追加參照⇒別紙主題的完成圖:P2圖warewaregatekitositenaniwo.pdf へのリンク)。何故ならば、「素材のままの現實(明治)に樣式を與へなければならぬ。それが藝術家に課せられた任務」なのであると、恆存は謂ふのである。加筆すると、恆存は明治をも「それはたんに動物の生存(同左圖P1-4rekisi.bunka.kata.pdf へのリンク)にほかならない」と見てゐる樣だ(以下枠文參照)。明治は現代よりはずつと「E:樣式・型・仕来り」が存在していたにもかかはらずだ・・。
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拙發表文:『永井荷風』より 〔難解又は重要文〕:P220上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 「いま(明治も現代も)の世の中は現實が素材のまま(P1-4rekisi.bunka.kata.pdf へのリンク)なまの姿を現してゐるので、これを整理し、これに衣裳をまとはせる樣式(E)といふものが缺けてゐるのです。樣式のないところに眞の人間生活(同右圖)はありえない。――それはたんに動物の生存(同左圖)にほかならない。僕たちはなんとかしてこの素材のままの現實に樣式を與へなければならぬ。それが現代の政治家、事業家、學者、藝術家、すべての人に課せられた任務なのです。荷風の青少年期をおくつた明治二十年代、三十年代とはまさにかういふ時代であつたといへませう」。 |
鷗外に於ける「樣式(型E)⇒現實に主題的完成を與へる」が、別紙(PP2頁圖ougai.pdf へのリンク)の「われわれが敵(自己を超えたる場:C)としてなにを選んだかによつて、そしてそれといかにたたかふ(宿命/自己劇化)かによつて、はじめて自己は(創作對象に)表現せられるのだ」と言ふ事になる。そしてその樣式(型E)が、「歴史小説・史傳」と言ふ事なのである。
*「明治日本の現實がその作家たちに美的完成を許さぬほど混亂してゐたといふ事實を、ぼくたちはまづみとめてかからねばならない。存在(A)そのものが混亂していたばかりではなく、意識(B?)も、意識と存在との關聯そのものも、ほとんど收拾つかぬほどの混亂を呈してゐた」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。察するに、それは以下①②邊りの消息を物語つてゐるのではなからうか。
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拙發表文:第一囘『人間・この劇的なるもの』より「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *無限定性の自己=「解放されて仕へるべき何をも持たぬ自我の不安」=統一體を形つくつていた一つの世界の崩壊期(明治・戰後の現代)。 *無限定性の自己といふ名の、江戸幕府瓦解が招いた「規範喪失」は、二葉亭四迷、鷗外、漱石、彼ら明治人を苦しめた。彼らの人生或はその創作の主題にそれは大きく關係した。維新後の精神的空白(「全體」を喪失したがための)が齎す、集團的自我上への表現せられるべきものの不在に繋がつたのである(要約)。と、恆存は『獨斷的な餘りに獨斷的な』等の評論にて論述してゐる。 |
「存在(A)そのものが混亂していたばかりではなく、意識(B?)も、意識と存在との關聯そのものも、ほとんど收拾つかぬほどの混亂を呈してゐた」とは、以下枠文の傍線部分を指しているのではなからうか。先述要約すると、「存在A」としての、西歐近代適應異常(經濟的適應異常・政治的適應異常:A)の爲に、意識(B)即ち「明治の知識階級は政治活動(A)や社會活動(A)のうちに自己を生かすことを惡と見なさざるを得なかつた」と言ふ事になる。
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〔恆存が書く「自然主義作家・私小説家」に至る流れ。及びその似非實在感〕(拙發表文:『獨斷的な餘りに獨斷的な』より)「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *江戸幕府瓦解(文化政策的な儒教倫理C”の崩壊)⇒規範(D1)喪失⇒無限定性の自己(D1・關係・宿命喪失)⇒宗教改革の神に先導された西歐の資本主義と異なり、「近代日本(明治)は資本主義をはじめから利己的な惡徳として發展せしめる以外に道はなかつた(經濟的適應異常)。天皇と國家とのためにといふ名目を除外しては。(中略)近代日本の帝國主義(A)は自己を限界づけるなにもの(國際主義:B)ももたなかつた(政治的適應異常)。のみならず、天皇や國家の権威は強者の惡徳を正當化した」⇒したがつて「明治の知識階級は政治活動(A)や社會活動(A)のうちに自己を生かすことを惡と見なさざるを得なかつた」のである⇒加へるに利己心に對する後ろめたさ(日本人の習俗性と封建道徳の残滓)⇒爲に、「完全に私を放棄して政治に身を挺するか(「下級武士の和魂洋才」)、さもなければ頑強に私を固執(自己絶對視)して一點に立ちすくむか(自然主義作家及び知識階級)」の二者擇一⇒それが故の、自然主義作家がした實生活(A)から文學(B)への逃避。即ち「文學すらも文明開化の出世主義のネガティーブな吐け口になつてゐた」。⇒自己に忠實(D2:自己表現)⇒C”:自己完成といふ名の自己絶對視・自己正當化⇒D3:自分でする自己確認即ちセルフ・アイデンティフィケイション(虚妄の實感)・似非實在感。 參照:別紙(PP4頁圖P1-4rekisi.bunka.kata.pdf へのリンク)「PP及び『近代の宿命』(全二P463)『私小説的現實について』(全一P571~3) |
*「その混亂の樣相を如實に描きだすことこそ今日の歴史學(A)、あるいは社會科學(A)の任務であらう。それらの科學(A)が充分にその責任をはたしえないでゐるがために、文學の領域(B)で粗笨な公式的イデオロギー(唯物史觀?)がいともかんたんに現實を料理し、作品や文學史を裁斷してゐるのだ」・・・とは、今日の歴史學者、社會科學者が、明治の物質的近代化及び「和魂洋才」を讚美するのみで、上記枠文を含め恆存が指摘する「文明開化の混亂」「西歐近代への適應異常=精神の近代化缺如」を彼等は如實に描きだしてゐない、と言ふ事を此の文は指すのであらう。「司馬遼太郎」「中西輝政」等の罪はまさに此の邊に歸すると言へる。明治は「存在(A)そのものが混亂していたばかりではなく、意識(B?)も、意識と存在との關聯そのものも、ほとんど收拾つかぬほどの混亂を呈してゐた」とは、彼等及び「保守派言論人」等の眼には見えてないのである。尚「文學の領域(B)で粗笨な公式的イデオロギー(唯物史觀?)がいともかんたんに現實を料理し、作品や文學史を裁斷してゐる」當の本人とは、言ふまでもなく「中野重治」の事を揶揄してゐるのであらう。
【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】
〔難解又は重要文〕:P297下~8上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
①「鷗外は古いものや封建的なるもののまへに『屈服』したといふ。たしかにそのとほりである。が、その古いもの、封建的なるものとはいつたいなにか。いや、それらを否定する武器であり、同時に主體であるべき新しきもの、近代的なるものとはいつたいなにか、それは當時の日本のどこに求められたのか。それがどこにももとめられなかつたからこそ、鷗外(鴎外)は古きものに『屈服』した――秩序と完成との名において。いちわうさういつてさしつかへあるまい。いや、さうではない――鴎外は自分のうちにめぐむ新しき近代的なヒューマニティを自覺し、それをはぐくみ完成するために、その手段として、古きものへの『屈服』をこころざしたのだ。かれの『屈服』こそはまさにはげしい鬪爭の逆説にほかならぬ」。
②「さういふ既存の勢力や形式にたたかひをいどむことは、かへつてかれのうちなる新しきヒューマニティの完成をさまたげるものであるといふことを。鷗外は古き形式に『屈服』することによつて精神の無益な損耗をさけたのにほかならない」。
・・・①②とは何を言はんとしてゐるのであらうか。此の邊もなかなかに難解である。よつて、①②とも難解文を別けて解讀を試みてみたい。
①文中*「それらを否定する武器であり、同時に主體であるべき新しきもの、近代的なるものとはいつたいなにか、それは當時の日本のどこに求められたのか。それがどこにももとめられなかつたからこそ、鷗外は古きものに『屈服』した――秩序と完成との名において」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。
「それがどこにももとめられなかつた」とは、上記項目枠文(傍線部分)の明治の「西歐近代適應異常(經濟的適應異常・政治的適應異常:A)」の事を言つてゐるのであらう、と同時に以下邊りの消息をもそれは物語つてゐるのではなからうか。
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*「西學の東漸するや、初その物を傳へてその心を傳へず、學は則格物窮理、術は則方技兵法、世を擧げて西人の機智の民たるを知りて、その徳義の民たるを知らず。況やその風雅の民たるや。是においてや、世の西學を奉ずるものは、唯利を是圖り、財にあらでは喜ばず」(鷗外(鴎外)著『しがらみ草紙の本領を論ず』より)。 |
又、「鷗外は古きものに『屈服』した――秩序と完成との名において」の「秩序と完成との名において」とは、以下の邊りの消息を物語つてゐるのではなからうか。
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拙發表文《「口邊に苦笑をうかべる」東西文人:その時代的差異》より「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *鷗外は、「職業を通じて社会との間に緩衝地帯をこしらへてゐた」。さうせざるを得なかつたのである。何故か。明治は「ヨーロッパの近代社會(テキストP8圖)と日本のそれ(「前近代」:同P9圖)とは、その概念において根本的にことなるものが」あつたからである。と恆存は言つてゐる。(圖參照:「『福田恆存を讀む會』テキスト」) 故に西歐近代(テキストP8圖)の頭腦を持つ鷗外は、前近代の日本(同P9圖)によつて小倉に左遷されなければならなかつた。その爲、公人の生活をもう一つの自我(A)に持つ鷗外は、當時社會の前近代に對しての身の處し方も、しなければならなかつたと言ふことなのである。(參照『近代日本文學の系譜』全一p22) *「實生活(A)の場で解決すべき問題は實生活において處理」(全一P20『近代日本文學の系譜』)せんとして、現實のしがらみに堪へ、かつ自己の「夢想が現實の生活でみじめにふみにじめられてゆく」危機にも直面しながら、それにも堪へてゐる。さうした桎梏に晒されてゐる自分を客觀視せられる時、「口邊に苦笑をうかべる」或いは「笑ひ」が發生するのでは。さうした時笑ふ事によつて、作者もそして讀者も「現実の人生に耐へみずからを救ふ」のである。 *《旧限定に自己を晒す處からくる「口邊の苦笑」》:恆存が「フローベール」で書いてゐる内容の、鷗外にも言へる事はかうである。・・・ *鷗外は「妥協した(傍觀者になつた)のではない。新思想の先端を歩みながら、封建時代の傳統の重みに堪へてゐたのである(明治に殘存する『いはゆる封建制度』の背後に道徳そのものを鷗外は見る爲に)」。(參照:全六P560『獨斷的な、餘りに獨斷的な』) 此處にも「口邊に苦笑を浮かべ」てゐる鷗外を讀み取る事が出來るのでは、と言ふ事である。鷗外はさうすることで、「現實の人生に耐へ、みずからを救ふ」姿が・・。個人的自我(B)では藝術的實在感を得ながらも集團的自我(A)では、その二つを「峻別」するが爲に「口邊に苦笑を浮かべ」ながら耐へてゐるのである。 即ち「自分の夢想が現實(A)の生活でみじめにふみにじめられてゆくばあひ、あへてこれ(鴎外)においては「旧規範」)に反抗することもなく、といつて無神経にこれに忍從するのでもなく、(中略)殘された唯一の望みといふのはさういふ自分(とは、集團的自我の側面を旧規範に晒し身を切り刻ませるが爲に、個人的自我が「一分の隙もない天窓」になつた情況)を笑ふことであり、自分を笑ふことによつてわれをもひとをも許し救」ひ、そのアイロニー的情況に鷗外も耐へんとした。と言ふ事である。 「フローベール」の處で恆存が言つた、そのパターンが鷗外にも通用するのである。(參照:P614:全一『小説の運命Ⅱ』) 自己の夢想(C:儒教道徳・武士道)が激しいと同時に、かつ明治に未だ殘る「いはゆる封建制度」の背後に道徳そのものを鷗外は見る爲に耐へてゐる。別な言ひ方をすれば、「個人を否定してくる社會機構(A)」と言ふ「自我の對立者の極限概念に眞や無(C)を探り當て」るが故に、自己の激しい夢想と對峙する、當時の社會機構が強ひるアイロニカルな能動に、鷗外は敵對することもなく「從順であつた」のである。 その事は何を意味するか。當時の社会機構の方法論で自己を裁く事を潔しとしたと言ふ事である。 |
*この次に來る更に難解文、「いや、さうではない――鷗外は自分のうちにめぐむ新しき近代的なヒューマニティを自覺し、それをはぐくみ完成するために、その手段として、古きものへの『屈服』をこころざしたのだ。かれの『屈服』こそはまさにはげしい鬪爭の逆説にほかならぬ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。
「自分のうちにめぐむ新しき近代的なヒューマニティ」とは、上記枠文中の「明治に殘存する『いはゆる封建制度』の背後に道徳そのものを鷗外は見る爲に」を指すのではなからうか。そしてそれを掴んだ事における、「われわれが敵(自己を超えたる場:C)としてなにを選んだかによつて、そしてそれといかにたたかふ(宿命/自己劇化)かによつて、はじめて自己は表現せられる(創作對象に)のだ。・・」と言ふ、以下の「美の完成」を鷗外(鴎外)は志したのだと言へるのでは・・。
敵(自己を超えたる場C:例「天」)⇒關係・宿命(D1例:天命)⇒自己(C”)の活動(例:歴史小説・史傳)(別紙「パワーポイント」表參照)
更に探究するならば、それは以下の邊りの消息を物語つてゐるのではなからうか。
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拙發表文:『自己劇化と告白』より 〔難解又は重要文〕:P412上~「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 「惡にたへるといふことは、世のあらゆる規範(旧規範)にたいして判斷保留をすることである。規範といふ規範(旧規範)にむかつて『否』といふことである」云々・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。 それについては要約(P412~3を)すると、恆存は以下の樣に書いてゐる。「旧規範」に自己を晒しながらしかもそれに膝を屈せず判斷保留し、「選ばれてあるものの責任であり、渦中にあつて生きるものの意志的行爲」として義務を果たす事。それによりかへつて「戈をまじへる事なく」、旧規範・旧限定から自己が隠蔽されるのである。公人の生活(A)を旧規範に晒しながら、しかも「自己(藝術的側面、個人的自我:B)を秘めなければならない。可能性を大切にするからだ」。「なぜなら表現しようとする自己(B)は、つねに世間道徳や、宗教や観念によつて限定され、それに膝を屈しようと用意してゐるから」と。 〔難解又は重要文〕:P412下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 「われわれが敵(自己を超えたる場:C)としてなにを選んだかによつて、そしてそれといかにたたかふ(宿命/自己劇化)かによつて、はじめて自己は表現せられる(創作對象に)のだ。・・」云々・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。それは、以下の能動となつて顕される。
上記の事柄を、一部恆存の文を借りて更に詳しく述べるなら、 精神的(B)には「無限定の自己(規範喪失)」の情況下において、しかも實生活(A)では「旧規範・旧限定」(「封建体制」殘滓の明治)に束縛されてゐる時、その中で更に「新限定」(新規範・文學・「個人的自我B」の可能性)を創出せんとするには、以下の行動(傍線部分)を鴎外は取らざるを得なかつた、と恆存は言ふのである(重複部分があるがお許しを)。 旧規範・旧限定と戈を交へる事なく(換言すれば、「建設と生産」と言ふA的客體化を行ふ事)、更に「處世術(A)の事は處世術で對處」すべく、公人としてするべき事(A←A’)をしながら、さうする事でかへつて鷗外は、「たえず自己を限定し捕捉しようとして迫つてくる規範の監視の眼から逃れる」やうにたへる事が出來た。即ち、公人として「(建設と生産の)悪に手をそめ、みずからそれを隠蔽する(行ふ)ことによつて無視し、それにたへてゐた」のである。惡にたへると言ふ事は、「旧規範」に自己を晒しながらしかもそれに膝を屈せず判斷保留し、「選ばれてあるものの責任であり、渦中にあつて生きるものの意志的行爲」として義務を果たす事。それによりかへつて「戈をまじへる事なく」、旧規範・旧限定から自己が隠蔽されるのである。公人の生活(A)を旧規範に晒しながら、しかも「自己(藝術的側面、個人的自我:B)を秘めなければならない。可能性を大切にするからだ」。「なぜなら表現しようとする自己(B)は、つねに世間道徳や、宗教や観念によつて限定され、それに膝を屈しようと用意してゐるから」であると恆存は言ふ。(參照:『告白といふこと』及び『自己劇化と告白』全二P405~413) 更に、上記の理解に當たつては以下の文が參考になるのでは。 「自己劇化は自己より大いなるものの存在(全體・絶對)を前提として、はじめて存在する。自己は自己を表現しきれぬばかりでなく、自己は自己を劇化しきれない。(何を敵〔仕へる対象、即ち全体・絶対か個人かと言ふ事〕として選んだかによつて、そしてそれといかにたたかふかによつて、はじめて自己は表現せられる)」(P415) |
【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】
〔難解又は重要文〕:P300上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「文學と政治との峻別は二元論ではない――それは主體的にいつて徹底的な一元論なのだ。その統一をいふもの(中野重治?)が、じつは心理的に二元論的分裂をきたしてゐる事實をみづから反省してみるがいい。むしろ鷗外にとつてこの一元論を認識論的にではなく、自己の主體の問題として把握するために形式的な二元的區別が必要だつたのだ」。・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。此の邊もなかなか難解である。よつて、別けて解讀を試みてみたい。
*「文學と政治との峻別は二元論ではない――それは主體的にいつて徹底的な一元論なのだ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「文學と政治との峻別は二元論ではない」とは、「主體的に」とはどう言ふ事なのであらうか。恆存の二元論を読み慣れてゐる小生にとつては、この項目は「面喰らつて」、なんとも解讀しにくい。
*「鷗外にとつてこの一元論を認識論的にではなく、自己の主體の問題として把握するために形式的な二元的區別が必要だつたのだ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。
「形式的な二元的區別」とは、簡單に言へば「職業を通じて社会との間に緩衝地帯をこしらへてゐた」と言ふ事になる。
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*「職業を通じて社會との間に緩衝地帶をこしらへてゐた」。さうせざるを得なかつたのである。何故か。明治は「ヨーロッパの近代社會(圖P8)と日本のそれ(實際は「前近代」:圖P9)とは、その概念において根本的にことなるものが」あつたからである。と恆存は言つてゐる。(參照『近代日本文學の系譜』全一p22)(圖參照:「『福田恆存を讀む會』テキスト」) 拙發表文:《「口邊に苦笑をうかべる」東西文人:その時代的差異》より *「自分の夢想が現實(A)の生活でみじめにふみにじめられてゆくばあひ、あへてこれ(鷗外においては「旧規範・旧道徳」)に反抗することもなく、といつて無神経にこれに忍從するのでもなく、(中略)残された唯一の望みといふのはさういふ自分(とは、集団的自我の側面を旧規範に晒し身を切り刻ませるが爲に、個人的自我が「一分の隙もない天窓」になつた情況)を笑ふことであり、自分を笑ふことによつてわれをもひとをも許し救」ひ(『小説の運命Ⅱ』P614)、そのアイロニー的情況に鷗外も耐へんとした。と言ふ事である。 |
更に詳しくそれを探るなら以下枠文が參考となる。そしてこれらは、恆存の前文に據れば、鷗外にとつては「自己の主體の問題として把握」してゐるが故に「主體的にいつて徹底的な一元論」になる、と言ふ事なのである。實に晦澀な處であるが、小生の頭でこじつけ的に換言すると、「人間はA(集團的自我)B(個人的自我)を持つが、主體的な生き方としては一元的に統合的に生きてゐる」とでも言はんとしているのであらうか。小生には何とも解讀が困難な部分である。
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拙發表文:《「口邊に苦笑をうかべる」東西文人:その時代的差異》(P13より)。一部加筆 恆存は言ふ。鷗外は「建設や生産(A←A’の實生活的客體化)にともなふ社會惡、國家惡、人間惡に」「手をそめ、みずからそれを隠蔽することによつて無視し、それにたへてゐた」と。 即ちそれはどういふことを意味するかと言へば、幕府封建体制の殘滓を引きずつた、明治の「旧規範」及び「社會機構:A」の要請に從ひ、鷗外は「處世術(A)の事は處世術で對處」せんと、「建設と生産」のA的客體化を行ひ、さうする行爲で世の批判(戈先)をかはした事をそれは示す。 しかも、日本の自然主義作家の様には「文明開化の出世主義(A)のネガティーブな吐け口」として文學(B)へ逃げもせずに、鴎外はあへて「個人を否定してくる社會機構(A)」に晒されてゐたのである。さうした現實にゐる時、そこに自ずと「口邊に苦笑を浮かべる」行爲が出て來るのではなからうか。時代の社會機構(前近代)の現實に身を切らせ(A的客體化:A←A’)ながら、しかも、かつてはあつて今は失はれた夢想(C:儒教道徳・武士道)に激しく胸を焦がしてゐる時、人は自ずと「口邊に苦笑を浮かべる」事になるのでは。(參照:全二P417『自己劇化と告白』。同P407『告白といふこと』)。 恆存の言ふ、「人生はつねにアイロニーをその底にひめてゐる。ただそれがたまたま他の時代よりも現象的にあらはになる時代があり、またさういふ場合がある」が、將に鷗外の其の時に當て嵌まるのである。 精神的(B)には「無限定の自己(規範喪失)」の情況下において、しかも實生活(A)では「旧規範・旧限定」(「封建体制」殘滓の明治)に束縛されてゐる時、その中で更に「新限定」(新規範・文學:「個人的自我B」の可能性)を創出せんとするには、以下の行動(傍線部分)を鴎外は取らざるを得なかつた、と恆存は言ふのである。 旧規範・旧限定と戈を交へる事なく(即ち「建設と生産」と言ふA的客體化を行ふ事)、「處世術(A)の事は處世術で對處」すべく、公人としてするべき事(A←A’)をしながら、「たえず自己を限定し捕捉しようとして迫つてくる規範の監視の眼から逃れる」やうに鷗外はたへた。即ち、公人として「(建設と生産の)惡に手をそめ、みずからそれを隠蔽する(行ふ)ことによつて無視し、それにたへてゐた」のである。惡にたへると言ふ事は、「旧規範」に自己を晒しながらしかもそれに膝を屈せず判斷保留し、「選ばれてあるものの責任であり、渦中にあつて生きるものの意志的行爲」として義務を果たす事。それによりかへつて「戈をまじへる事なく」、旧規範・旧限定から自己が隠蔽されるのである。公人の生活(A)を旧規範に晒しながら、しかも「自己(藝術的側面、個人的自我:B)を秘めなければならない。可能性を大切にするからだ」。「なぜなら表現しようとする自己(B)は、つねに世間道徳や、宗教や觀念によつて限定され、それに膝を屈しようと用意してゐるから」であると恆存は言ふ。(參照『自己劇化と告白』全二P405~413) 同評論上で「告白の眞實性は生活(A的客體化:A←A’)を通じて(惡を)隠しとほすことによつて保たれる。藝術は惡から汚水を吸いあげて美しい花を咲かす」(P407)、とも恆存は言つてゐる。即ち、日本の自然主義作家の取つた態度、「文明開化の出世主義(A)のネガティーブな吐け口」として文學(B)へ逃げた自己欺瞞からは、「告白の眞實性」は保たれないと言ふのである。「藝術(B)は惡から汚水を吸いあげて美しい花を咲かす」とは、「處世術(A)の事は處世術で對處」「カエサルのことはカエサルに」で、集團的自我(A)上で客體化できる事は全て其處で處理し、さうする事で個人の純粋性(B:個人的自我)から夾雑物を剔抉し、その静謐を守る事を意味してゐるのではなからうか。さうする事で、個人の純粋性は以下の事が可能となる。即ち、「惡(必然惡・必要惡)を明確に自覺すること、そしてそれにたへることにおいても明確な自覺を把持してゐること――このほとんど自動的ともみえる無償の倫理的意思(とは、「神なくして個人の権利を主張しえない。それをあへてなすことは悪徳である」と同意?)を通じて、ひとははじめて文學的表現(B)に道を通じうる」(P411下『自己劇化と告白』)。それが可能になるのだと恆存は言ふのである。 この邊の表現は、フローベールについて謂ふ表現、「彼等は甘んじて、『十九世紀の個人主義的リアリズム』による自我の否定にさらされながらも、『つひに否定し扼殺しきれない個人の純粋性(B)を發見することを念じて』ゐた」(全二P269『作品のリアリティーについて』)に近似して來る。⇒「テキストP8圖」參照。 更に、同じくそこで表現してゐる以下の樣な内容、即ち「フローベールの文學行動は、『一分の隙もない天窓』に追ひつめられたアイロニー的情況に閉じ籠もりながら、しかも『つひに否定し扼殺しきれない個人の純粋性(B)を發見することをひたすらに念じるが爲なのである』」(恆存文:要約)云々の内容に繋がつて來る。是等の謂ひは上記傍線部分の換言であり、将に東西、彼我の差を超えた「藝術」の真骨頂なるものを、恆存は此處で我々に傳へて呉れてゐる樣に思へる。 此處から察するに、鷗外、漱石は西歐体験で確實に「個人主義文學」(テキストP8圖)なるものを身につけて來たのだと、想像を巡らす事が可能となる。 |
【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】
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