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十月:選擇評論:全集第二巻所載:『理解といふこと』(「文藝」昭和二十七年三月號:四十一歳)

 

 今囘の評論もご多分に漏れず「難解」である。、その内の一つ「孤獨によつて保たれてゐる生の秘密」なる文章については、難解を解く足掛かりなるものが想起された。それは、「DH・ロレンス」の思想である。そして、ロレンスの影響が當評論に色濃く反映されてゐるのを其處に窺ひ知る事が出來る。

「孤獨によつて保たれてゐる生の秘密」に似た文章は、ロレンス著作の多くに散見されるが、妥當とおぼしき文章を發見したので少し長いが書き留めておく。確か、もつと適切な文章があつた樣な氣がするが今は思ひ出せない。さう言へば、當論表題の「理解」なる言葉もこの文の内にはある。

「わたしのうちには、わたし自身のみをとりいだし、他のすべてのものから區別して、獅子のごとき誇りと星のごとき孤獨とをもつた、寶石を想はせる單獨な存在と化さうとするやむにやまれぬ欲求がある。(中略)同胞愛(B:他者愛)も必要であり、人類がひとつになることも必要だ。けれども、獅子や鷹のごとくに獨尊な、純粋で別個な個性(A:集團的自我もまたなくてはならない。この兩方が揃はなくてはならぬのだ。この二元性のうちにこそ、眞の完成がある。人間は人間との協同において、創造的に、幸福に行動すべきである。これは大きな幸福といへよう。しかし、人間はまた、個別的に、他のすべての人間とは別個にただひとり、みづからの責任を背負ひつつ、壓へがたい誇りに燃え、隣人を顧慮せぬ自分だけの行動をもなすべきだ。これらふたつの運動は、對立こそすれ、けつしてたがひを否定しさりはしない。われわれには理解力がある。そして、もしわれわれが理解するならば、われわれは二つの運動のあいだに完璧な平衡を保ち、孤獨な個人であると同時に、ひとつの大いなる協和人類でもあることが可能となる」(ロレンス評論『愛』:恆存譯

 

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〔以下は、吉野櫻雲發表文〕

と言ふ事で、今評論も中々の難解にしてかつ手ごはく、そしてどの文章も重要なのであるが、特に以下内容文を此處に取り上げる事とする。更にいつもの如く難解なる内容については、手助けを他評論に仰ぐこととする。(以下文中傍線及び括弧内は概ね吉野附記。「P9圖」云々は「讀む會テキスト」頁を表す。「ABD2」等も同テキスト三頁を參照の程)

 

〔難解又は重要文〕:P397下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「相手のうちの理解しえぬ部分にたいする敬虔な感情を失ひ、相手をむりやりに自分の理解のなかに閉じこめてしまはうとする。かうすることが相手を愛することだと思ひこんでゐるのです。そしてさらに、相手が自分の理解のうちにはまらぬ部分をもつてゐるかぎり、相手は自分を愛してくれぬのだと考へます。かうして、ひとびとは相手を愛し理解しようとして、その孤獨を、いひかへれば孤獨によつて保たれてゐる生の秘密を殺しあふのです」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。恆存は、「理解」を「愛する=他者愛・個人的自我:B」と同一概念で捉へてゐる「似而非ヒューマニスト」の愚を此處で指摘してゐるのである。そしてその陥穽に落ちてゐる事に氣が附かない現代人に警告を發してゐる。

「孤獨によつて保たれてゐる生の秘密」とは、「集團的自我(A)」「支配被・支配の自己(A)」の事を指す。愛の福音を被された「理解の美徳」と言ふ「精神(B)主義」は、「集團的自我(A)」の有機性即ち「孤獨によつて保たれてゐる生(A)の秘密」そのものを殺してしまふと言ふのである。此の邊はロレンスの文が參考になり、以下の「肉」の神秘の保持を現代人は喪失してゐると言ふ事ではなからうか。

「吾々は生きて肉のうち(A)にあり、また生々たる實體をもつたコスモスの一部であるといふ歓喜に陶酔すべきではなからうか」(『アポカリプス論』)

 

〔難解又は重要文〕:P398下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「ひとりの男にはひとつの人生がある。かれが生きて識つた人生がある。そしてあれほど強烈に生きた漱石が女を書けぬなどといふことはありえないのです。漱石はかれがわかりうるやうに女を書いてゐる」。

*「ひとりの男にはひとつの人生がある。かれが生きて識つた人生がある」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。上記の理解に當たつては以下の文が參考になるのでは。

「人生觀(C”)なしに人生は存在し得ない。どんな人間でもその人なりの人生觀を持つており、それを杖C”)にして人生を生きてゐる」(全六P457『フイクションと言ふ事』)

*「漱石はかれがわかりうるやうに女を書いてゐる・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。漱石は英国留學中に「自分の鶴嘴をがちりと(『自己本位』と言ふ)鑛脈に掘り當てた」(漱石著『私の個人主義』より)。が、歸國後その客體化(作品への)に苦闘するのである。換言すればかうなる(參照:『自己劇化と告白』)

 漱石は、敵(仕へる對象:大主題)として「背後の道徳:C」を選び、そこから出現する新限定=關係:D1)として中主題C”:自己本位」を得た。そしてそれといかにたたかふ(自己劇化:D2)かによつて、はじめて自己(C”)は表現せられる(即ち、著作物に「自己本位」の主題によつてかれがわかりうるやうに女を書いた」のである

大主題(C)「背後の道徳」⇒D1: 天命・宿命・新限定中主題C”「自己本位」(西歐との彼我の差に踏み留まる?)⇒小主題(「自己本位」により「かれがわかりうるやうに女を書いてゐる」)。

 

〔難解又は重要文〕:P399下~400上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「ひとびとは他人を理解しようとおもつてゐるばかりでなく、自分を理解させようとおもひ、理解させうるとおもつてゐます。(中略)そのまちがひはどこにあるか。自分で自分が理解できるとおもひこむことにあります」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「集團的自我(A)」の嚴としての存在を、人間は見くびつてゐる事を指す。「集團的自我(A)」の内にある「本能・無意識の領域」を輕視するが故に「自分で自分が理解できるとおもひこむ」のである。恆存がよく言ふ「自分で自分のことを言つてゐる事程、當てにならないものはない」云々は、それを物語つてゐる。無意識の自分は見えないからである。

 

〔難解又は重要文〕:P401上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「自他のうちの孤獨(Aの部分)を誤解の餘地として殘しておかなければ理解さえなしえぬことを悟らなければならない」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「肉=集團的自我(A)」の神秘なる部分を「理解」で丸め込めず、そつと大事にしておく事を示す。(ロレンスに「誇りやかなる孤獨」の言がある。又同樣な内容の以下なる文も)

參考文「ヒルダは男から沈黙と距離の力を感じた。(中略)この男(主人公メラーズ)は決して単純な勞働者ではない。それどころか、演戯してゐる!立派に演戯してゐるのだ」(DHロレンス著『チャタレイ夫人の恋人』)より)

 尚、この項で言ふ「孤立」とは、「集團的自我(A)」が有機性を喪失した時の「場」「關係」の喪失を指すのであらう。個人主義者は「全體・絶對:C」を喪失するが故に「集團的自我(A)」がその有機性を喪失し、結果として我意と我意が激突するが爲に愛し得なくなるのである。「個人はついに愛し得ない」(ロレンス)と。

 

〔難解又は重要文〕:P401下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「ひとびとは社會性といふ魔術にひつかかかつてゐるからでありませう。皮肉にいへば、社會性といふことは、私たちにとつて手なれぬ概念であつたため、その使用をあやまつたといへる。(中略)社會性というものの本質を考へるなら、それがあくまで個我的なものであることを諒解するでありませう」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。

現代人は、「社會性」を「理解の美徳(B)」と同樣、「個人的自我・他者愛:B」的概念と錯覺してゐる事を指摘してゐるのであらう。「社會性というものの本質を考へるなら、それがあくまで個我的なものである」とは、「社會性」=客體、「個我」=主體、と言ふことでいずれも「集團的自我(A)」の概念であると言ふことを言つてゐるのではなからうか。それを「個人的自我・他者愛:B」的概念として使用する事が招く混亂を此處で言つてゐるのであらう。

つづく文の「社會性といふものが――社會性の強調が――われわれをいたずらに孤立感に追ひやる」とは、「社會性の強調(B的使用による強調)が、孤立感に追ひやる(集團的自我:Aの喪失化を招く)」事をそれは示してゐる。

 

〔難解又は重要文〕:P401下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「われわれが社會的であらうとすればするほど、すなはち自己を理解させ、他人を理解しようとすればするほど、孤立感におちいらざるえぬのはなぜか。(中略)われわれの不安は、相手から疎外されてゐることにあるのではない。相手がその孤獨のうちにあつてつねに聯繋を保つてゐる生の根源それ自體から、自分の理解力がはねのけられてゐるといふ意識、同時にさういふ自分の理解力は自分が孤獨のうちにあつて深く根をおろしてゐるはずの生の根源から浮き上がつてゐるといふ意識、それが現代人の不安を形づくる大きな原因なのではないか。社會性の缺如といふやうななまやさしいことではありますまい・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。その解説は一應以下同文の( )内に注を附して企ててみた。さて適切であるや否や。

「われわれが社會的(B的・ヒューマニスティック)であらうとすればするほど、すなはち自己を理解させ、他人を理解しようとすればするほど、孤立感(A:集團的自我の缺如感)におちいらざるえぬのはなぜか。(中略)われわれの不安は、相手から疎外されてゐること(人間關係の稀薄化の事か)にあるのではない。相手がその孤獨のうちにあつてつねに聯繋を保つてゐる生の根源(全體:Cとの紐帯を保つてゐる「集團的自我:A」の有機性)それ自體から、自分の理解力(B:愛他精神)がはねのけられてゐるといふ意識、同時にさういふ自分の理解力(B:愛他精神)は自分が孤獨のうちにあつて深く根をおろしてゐるはずの生の根源(全體Cとの紐帯を保つてゐる「集團的自我:A」の有機性)から浮き上がつてゐるといふ意識、それが現代人の不安を形づくる大きな原因なのではないか。社會性(他者愛・隣人愛)の缺如といふやうななまやさしいことではありますまい」

 

參考:上記で謂ふ「生の根源」即ち、解説で言ふ處の「全體:Cとの紐帯を保つてゐる『集團的自我:A』の有機性」とはどういふ事かと言へば、以下が參考になるのでは。

拙發表文:「『前田氏評論:エゴイズムの問題』について」より

1.「上から下への權力の流れに沿つて集團的自我を解放してゐた。この秩序に安心してもたれかかつてゐたため、個人的自我はその上に純粋な成長をなしえた」(『職業としての作家』より)。

2.「職業とは(或は戀愛・性愛・友愛とは)集團的自我の生きんとする通路であるが、より重要なことは、この通路が充分に開かれてゐることによつて個人的自我の平静と純粋とが保たれるといふ事実なのである」(『職業としての作家』より)。

 「集團的自我を解放し」「この通路が充分に開かれてゐる」爲には、是が非にも「背後にある道徳:C(絶對・全體)」が必要とされ、更に日本人の「精神の近代化」も併せて、恆存が言ふ「完成せる統一體としての人格」論が、エゴイズムの有機的效用の解決策として持ちいだされる所以なのである。

 「この通路(A:集團的自我)が充分に開かれてゐることによつて個人的自我(B)の平静と純粋とが保たれる」とは、言ひ換へるなら「自他のうちの孤獨(Aの部分)を誤解の餘地として殘しておかなければ理解(B)さえなしえぬ」と、同意なのである。傍線部分に留意されたし。

 

 即ち、「この通路(A:集團的自我)が充分に開かれて」ゐない爲に、そして「自他のうちの孤獨(Aの部分)を誤解の餘地として殘しておかな」い爲に、以下の間違ひが生ずるのであると恆存は言つてゐるのであらう。

「相手のうちの理解しえぬ部分(A)にたいする敬虔な感情を失ひ、相手をむりやりに自分の理解(B)のなかに閉じこめてしまはうとする。かうすることが相手を愛する(B:他者愛)ことだと思ひこんでゐるのです。そしてさらに、相手が自分の理解のうちにはまらぬ部分をもつてゐるかぎり、相手は自分を愛してくれぬのだと考へます。かうして、ひとびとは相手を愛し理解しようとして、その孤獨を、いひかへれば孤獨によつて保たれてゐる生の秘密を殺しあふのです」。

 

をはり



平成十九年十月十四日

『福田恆存を讀む會』