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平成十八年七月三十日

『福田恆存を讀む會』

吉野櫻雲 發表文

 


七月:テーマ評論:

全集第一巻所載:【『現代人の救ひといふこと』(掲載誌不明:昭和二十二年三月中旬執筆)四十七歳】

 

前囘及び前々囘テーマ評論『個人主義からの逃避』と『シェイクスピア』では、「負の側面」と同時に「正の側面」を備へた「個人主義」の問題を探究した。そして結局日本は、それを「まねようとしたのにまねられなかつた」(P202)事について知り、その原因としては、個人主義をも含め洋才の奧に洋魂(クリスト教)があるのを日本人は理解できなかつた事に歸來する、を學んだ。

今囘テーマ評論『現代人の救ひといふこと』は内容的に言つて、更に上記二評論のその續きとも言へる。「他人(西歐)の問題にまへのめりに沒入し」、彼我の差を辧へず、それをパラレルに近代化の一つと安直(「日本的土壌」=「距離測定能力欠如」)に受け留めて、しかも適應異常してしまふ日本の特質が此處に糺彈されてゐる。

 

尚、前囘『個人主義からの逃避』では、別評論からの索引ではあるが以下の文章を取り上げた。

「肉體、あるいは物質で解決すべき事を、精神の重荷とするなかれ――精神には精神のみの解決しうる問題をあてがひ、その領域と大權とを縮小せしめるにしくはない。そのときはじめて精神は自律し、その権威は輝くであらう。

ぼくたちは今日までなんと精神を神聖化し、さうすることによつて精神の負荷を重からしめ、結果として精神を侮辱してきたことか。肉體の自律性が確立してゐなかつたからである。明治以降の日本人はあらゆる物質的(A)なこと、肉體的(A)なことに、すべて精神(B)のべールをかぶせ、それをことごとく精神の發動として自己満足してきた。かれらは肉慾を肉慾として是認することをおそれ、それに精神的な衣をかぶせた。物慾を物慾として是認することをおそれ、それに藝術愛(B)や愛國心(B)や愛他心(B)や、その他の主種雑多な大義名分をかぶせた」。(P479全二『肉體の自律性』)

そして、今囘の重要文章である、「文學(B)すらも文明開化の出世主義(A)のネガティーブな吐け口になつてゐた」。「ぼくたち(日本人)のうちに政治(A)では救ひえぬどんな苦悩が存在してゐるといふのか」は、上述の文が「起承轉結」の「起」とすればその「承」部と言へる。「明治以降の日本人はあらゆる物質的(A)なこと、肉體的(A)なことに、すべて精神(B)のべールをかぶせ、それをことごとく精神の發動として自己満足してきた」が故に、それが西歐近代に對する適應異常の痼疾となり果ててしまつたのである。

西歐近代の歴史が、實證精神による「肉體、あるいは物質で解決すべき事」はその領域で解決しろ、或は「カエサルの事はカエサルに聞け」であるならば、明治以降の日本人は反對の行動と言へる。その差異の原因を、恆存は彼我の「實證精神」の歴史的差異(即ち「千年にわたるながいあいだの神への凝視」)と此處で指摘してゐるのである。日本の場合はその不足が齎す「自己欺瞞」の安直なる發生が更に其處に介在する。そして結局日本人の深刻ぶつてゐる苦悩と言ふものは、所詮實證精神に基づく「政治では救ひえぬ苦悩」ではないと恆存は結論づけてゐのである。

それを恆存は以下の樣に指摘する。

明治以降の日本人は「他人の問題にまへのめりに沒入し」、歐米の(近)現代的課題を「引用しうれば引用しうる近代日本の宿命的現實」から、彼我の差を辧へずパラレルに近代化の一つと、安直(「日本的土壌」=「距離測定能力欠如」)に受け留めてしまつた。即ち、「近代化=西歐化」の必然から、西歐近代理知(自由・自我解放)の裏に忍び込む「解放されて仕へるべき何をも持たぬ自我の不安」や、或は個人主義の限界が齎した「自己喪失」・「不救」と言ふ、西歐の「(近)現代的課題がたえず(日本では)まへのめりに引用されて」しまつたのである。そこには「何にでもべたべた引つ付く自他未分の神道的生活態度」(『日本および日本人』)の日本的特質があり、それが故に真の「精神の近代化」をも遂げることは出來なかつたのであると恆存は指摘するのである。單的に言へば「テキスト八圖(近代)」の課題を日本は九圖的に受け止めてしまつたと言ふことに尽きるのではなからうか・・・。

 

今評論においては、どの文章も重要であるが特に以下内容文を取り上げる。(文中括弧内は概ね吉野注)

� 屬椶�たち(日本人)のうちのなんぴとが物質で解決できぬ精神の悩みをもつてゐるだらうか」(P632)「ぼくたちがそこから救はるべきいかなる地獄をももたぬ」(P633)・・・再度繰り返すがこの文では、救ひについて西歐と日本では「彼我の差」が明確にあると、恆存は言つてゐるのである。西歐近代が持つ、實證精神が追求した果ての精神の不救(個人主義の限界)と、明治以降の日本人が持つ悩み(物質上の悩み)と、しかもそれを精神的に自己欺瞞したとの差があるのだと。そして、どの樣にそれがあるかと更に一歩踏み込んで言へば以下の樣にあると恆存は指摘する。

 

西歐リアリズム作家・・・「(左記)リアリストたちがさういふ近代自我(個人主義)に幻滅と絶望とを感じたとすれば、ぼくたちはその絶望を可能ならしめたものとして、かれらの夢想してゐた自我の内容の高さと深さとに想ひいたらねばならず、その背景に発見されるものは神(C)でなくしてなんであつたらうか。そして十九世紀末葉から現代にかけて、かれらの精神が『現代人の救ひ』を求めつつ漂泊をつづけてゐるとすれば、それは實證主義がかれらの自我の内から追放した神に型どれる人間の概念の探究でなくしてなんであらうか」(P637下)。

上記は、殆どフローベールの事を想定して恆存は言つてゐる樣に小生には思へるのであるが、フローベールについて氏が書いてゐる事を纏めるとおほよそかうである。

個人主義の限界が故に、フローベールは「自我は信ずべきなんらの眞實性をももつてゐないといふ地點からしごとをはじめ」、いはば「不救」に漂泊する彼の「神に型どれる人間の概念の探究」として、その確立した小説スタイルこそは「心理主義小説」なのであつた。

それは「自我の人間的慾求に深く根ざしてゐる」處のものである。彼にとつてはその完成(神を語らずして神を語つてゐるスタイル)が、實證主義が追放した神に代はるべく「完全なる世界を獲得する唯一の手段」となつてゐたのである。ただ「神に型どれる人間の概念の探究」をしながらそれ(C:神)を語らぬその理由を恆存はかう表現してゐる。「一片の虚妄にすぎぬと承知してゐればこそ、かれは自己の理想人間像(C:夢想)を語りはしなかつたのであるが、同時に、その理想人間像があつたればこそ實證精神をしてあれほどまでに自我(自己の代理「集團的自我:A」としてのボヴァリー夫人)を斬りさいなむことを許したのである」と。(全一P475『理想人間像について』)。何處にも神を語つてゐないあの小説スタイルこそが「神に型どれる人間の概念(理想人間像)の探究」なのだと、恆存は言つてゐるのである。

尚その手法はかうである。フローベール自身には、「夢想してゐた自我の内容の高さと深さ」があり、その背景にあるものは神(C)であつたが爲、近代自我(個人主義=「ボヴァリー夫人」)が獲得できた個人主義の自由などと言ふものを、「現実世界で獲得できた自由のいかにつまらなく、それがあまりにつまらぬために自由でもなんでもない」と斬りさいなみ、主人公ボヴァリー夫人をして「個人の敗北を身をもつて敗北」させてみせる事が出來たのである。

是は我々が大いに留意すべき點である。心理主義小説で「刻明に他我を、現實を描寫することに對するあの情熱」を持ち、彼が「さういふ近代自我(個人主義)に幻滅と絶望とを感じ」る事が出來たのは何故なのかと言ふ事。フローベールに「その絶望を可能ならしめたものとして」、「實證主義が自我の内から追放した」にも關はらず、彼の背景には消滅せぬ神があり、しかもその實證精神によつて、「神に型どれる人間の概念の探究」をせしむるだけの、「夢想してゐた自我の内容の高さと深さ」があつたからなのであると言ふ點が重要なのである。「高さと深さ」とを支へたのは、取りも直さず「消滅せぬ神」なのであつたと言ふ事。それが我々日本人にはなかなか理解が出來ない。

繰り返しが多く恐縮だが、此處、この差が重要な點なのである。

フローベールは「背景に神」があり、強靱な實證精神があるが故に、[實證主義⇒神追放⇒個人主義⇒個人主義の限界]に近代の宿命を見、それに幻滅と絶望とを感じる事が出來たのである。そして、その實證主義(實證精神)こそはクリスト教(絶對神)が形成したものなのであると言ふ點が・・・。その概略は以下枠内のとほりである。

カトリシズムの教義である『肉(A)に従ふは罪。肉(現實)は神意の遂げ處』⇒近代が持つ「神への叛逆も、じつは(中世の)千年にわたるながいあいだの神への凝視と沒入とから習得し免許をあたへられた理想人間像にもとづいておこなはれたものである」⇒強靱な實證精神の確立⇒「神に型どれる人間の概念の探究」⇒實證精神(自然科學・社會科學)で自然・社會(A)を現實的に客體化⇒更に人間の精神(B)迄も實證精神で「A的」俎上にて客體化⇒個人主義⇒個人主義の限界(實證精神の果て)

 

日本の自然主義作家・・・それに引き換へ左記作家群には、「かれらの夢想してゐた自我の内容の高さと深さとに想ひいたらねばならず、その背景に発見されるものは神(C)」などと言ふものは見出せないのである。

日本人はクリスト教の絶對神による「歴史の統一性と一貫性」とを持たぬ爲、クリスト教の理想を現實世界に客體化せんとする、實證精神の強靱性(「神に型どれる人間の概念の探究」)と言ふものをもやはり養ふことが出來なかつた。と同時に近代に於ける西歐精神の行き詰まり、「個人主義の限界」とそれが齎す精神の不救による絶望感(自己喪失)と言ふものも、精神的問題として當然無く、理解すらも出來ないのが現實であつた。即ち「絶望の深刻をなめさせられるほど強烈な夢も理想(C)ももつてはゐない。にもかかはらず、(彼我の差を辧へず、パラレルに近代化の一つと安直《日本的土壌=距離測定能力欠如》に受け留め)、絶望の身ぶりを愛し、救ひを口にし、文學(B)に救ひをはせる」。その「文學(B)すらも文明開化の出世主義(A)のネガティーブな吐け口に」なつてしまつてゐたと言ふ風にである。

要するに日本人の絶望は、神喪失の西歐精神が逢着した、精神(B)の不救による絶望ではなく、單なる「物質(A)喪失」の問題で、故に「ぼくたち(日本人)のうちに政治(A)では救ひえぬどんな苦悩が存在してゐるといふのか」と言ふ事になるのである。恆存は更に言ふ日本人の「相對主義の泥沼」を。「ぼくたちは今日の現實を惡と見なし、堕地獄と觀ずる前提として、いかなる善も、いかなる天國の夢想(C)も、そして救ひの手をさしのべる神も、一切もつてはをらぬのだ」と。究極なる理想或は絶對的理想(神)を持ち得ずば、眞に絶望もしえぬと言ふことか。神無きが故に(絶對の観念を持ち得ぬ國民性が故に)、我々日本人の人生、自我は絶望の對象たる資格を持ち得ぬと。すなはち相對にて解消される。「眞に絶望しえぬことの悲しみは、じつはぼくたちが神をもたず、ゆめをももちえぬこと」に歸來する、と恆存は言ふのである。(P637)

「日本の自然主義作家」は、西歐リアリズム文學の方法論即ち「人間個體の輪郭により、その存在と孤獨感とをあかしするといふ方法」(『個人主義からの逃避』P208)をも曲解して、私小説的寫實に變形させてしまつてゐる。即ち今評論で言ふ「絶望の深刻をなめさせられるほど強烈な夢も理想(C)ももつてはゐない。にもかかはらず、絶望の身ぶりを愛し、救ひを口にし、文學(B)に救ひをはせる」。「文學(B)すらも文明開化の出世主義(A)のネガティーブな吐け口に」と言ふ自己欺瞞のスタイルで、文學(B)へ逃げ込んだ自己自身を寫實に描く。「強烈な夢も理想(C)ももつてはゐない」が故にそれを現實(A)的に客體化する「實證精神」も日本には育たないのである。やはり「テキスト八圖」から生じるリアリズムを、彼我の差を辧へず、パラレルに近代化の一つと安直(「日本的土壌」=「距離測定能力欠如」)に受け留め、九圖的に適應異常してしまつたと言ふことに尽きるのである。

 以下は重複してしまふ内容だが重要なので繰り返す。

對するに西歐リアリズム文學の基底にある「實證精神」こそは、西歐の「歴史的一貫性」を形作つた方法論的思弁である。それによつて西歐は、近代の精華の一つ「個人主義」を獲得し、と同時に、それによつて「個人主義の限界」に逢着し、かつその「危機の自覺」と「幻滅の自覺」に到達したのである。西歐が持つ「千年にわたるながいあいだの神への凝視」が結實した「實證精神」が齎す、「歴史的一貫性」の傳統を日本は保持してない(P633上)と、恆存は言ふのである(以下枠内參照)。換言すれば、「實證精神」が齎す「精神の政治學」ライン下降と言ふ、西歐の歴史を日本が經てゐないが爲に、當發表文冒頭の日本的様相(自己欺瞞)を呈したのであると言ふ事になるのである。(詳しくは「テキスト五〜八圖」と「九圖」でその差異をご覽戴きたい)

 

〈参考:クリスト教の「連續性、一貫性」と歴史について〉

歴史の意識(西歐)・・・「絶對者のないところに歴史はありえない」。

クリスト教の絶對神による「統一性と一貫性との意識が人間の生活に歴史を賦與」した。⇒そしてその神(絶對者)そのものが「近代を過去のアンチテーゼとして成立せしめる歴史的一貫性」を形作つた。即ち西歐近代は「反逆すべき神」として中世を持つことが出來たのである。「神への叛逆も、じつは千年にわたるながいあいだの神への凝視と沒入とから習得し免許をあたへられた理想人間像にもとづいておこなはれたものである」(P599『小説の運命�機戞泡諭屬覆爾覆蘓世噺世嫖�一原理はその叛逆において効力を失ふものではなく、それどころか叛逆者の群れと型とを統一しさへする」⇒どのやうに統一していつたかと言へば、近代西歐精神を「神に型どれる人間の概念の探究」と言ふ形で統一していつたのである。(參照:『近代の宿命』P462、及び同小生發表文中「西歐歴史的統一性:圖解」及び『現代人の救ひといふこと』)

 

�◆屬椶�たちの内部のさういふ領域(B)を否定抹殺するためにではなく、かへつてその純粋化のために」(P638上)・・・とは、實證精神(A:カエサル)で解決出來るものは實證精神(A:カエサル)で解決し「個人の純粋性(B)」から夾雑物を払拭し、その静謐を守ると言ふことである。やはりフローベールを參考にして言ふならば、「十九世紀の個人主義的リアリズム(實證精神)」による自我の否定にさらされ、「一分の隙もない天窓(B)」に追ひつめられ閉じ籠もりながらも、「つひに否定し扼殺しきれない個人の純粋性(B)を發見することを念じて」(全二P269『作品のリアリティーについて』)ゐた。と言ふ表現にならう。

 

��「眞に救ひの慾求あるものにのみ救ひを叫ばしめよ――この命題のふるいにかけられて残りうるものがいくたりあらうか」。「文學も、小説も、リアリズムも、みんなそれからさきの話だ。そのときこそぼくたちははじめて救ひを求め、神が欲しくなる。が、そのときだ――そのとき、ぼくたちの脣にいかなる神の名が浮ぶといふのか」(P639)・・・是も上文��「個人の純粋性(B)」の静謐を守ると言ふ事の上にそれは築かれることなのである。やはり冒頭文に繋がる。

「肉體、あるいは物質で解決すべき事を、精神の重荷とするなかれ――精神には精神のみの解決しうる問題をあてがひ、その領域と大權とを縮小せしめるにしくはない。そのときはじめて精神は自律し、その権威は輝くであらう」

 

 以上『現代人の救ひといふこと』を探究はしたが、今ひとつペン先がカチンと恆存思想の鉱脈を突いてゐないもどかしさが感じられる。

 

以上:質疑應答

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