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平成十八年三月二十一日
吉野櫻雲 發表
全集第五巻所載:【『象徴を論ず』(「文藝春秋」昭和三十四年五月號)】
「私たちが天皇をどう思つてゐるか、どういふふうに神と思つてゐないか、さういふこと
を明らかにするやうな努力を、私たちは一度でもしたことがあるだらうか。(中略)天皇の 問題について、またその他のあらゆる政治問題について、私が何よりも言ひたいことは その一事につきる」
上記の文章を含め「禁裏」の天皇に對する恆存の配慮、即ち適切な距離感(適切な
「言葉との距離測定」)で書かれたとも思はれる、當評論の遠慮がちな文章から小生が 伺へるものは以下のとほりである。
日本人の「天皇觀」の場合も、「私小説家」や「近代日本知識人」「清水幾太郎」につい
ての評論で恆存が指摘したと同じく、やはり「非近代國家」即ち「精神主義的構圖」の日 本人が型取る、同一パターン(「テキスト9圖」)の構圖を、天皇に對しても日本國民は取 つてゐたのではなからうか、と言ふ事である。小生の誤讀かも知れないが、上記の「さう いふことを明らかにするやうな努力」と言ふ婉曲なる表現の裏にさうした意を讀み取れる のである。
とは、どう言ふ事かと言へばかう言ふ事である。
西歐においては、近代が「神に型どれる人間の概念の探求」と言ふ形で、「精神の政治
學」分割線の「最下降」化が企てられた。その結果、實證主義による自然科學的・社會 科學的客體化(參照「テキストP8圖」)がそれぞれの分野に置いて實現された。それに 從つて「近代市民社會」が形成され、その結果として個人の利己心は集團的自我上(A) のそれぞれの場(C":個人的、家庭的、職場的、社交的)に置いて合理的満足化が圖ら れ、過去の世紀のやうにA的不滿を「A⇒B擦り替への自己欺瞞」とする必要性がなくな つた。
しかし非「近代市民社會」の日本では、西歐近代とは異なり、構圖が「近代適應異常」
による「テキストP9圖」の爲、本來集團的自我(A)内の概念で留まるべき筈のものであ つた、「國家」・「神ではない天皇」・「上位概念:世界・社會・階級、大思想」・「自己」等が 全體・絶對(C)的概念に変貌してしまふ。(下欄圖參照)
その結果、集團的自我(A)で滿たされぬ利己心が「A⇒B(個人的自我)擦り替への自
己欺瞞」によつて、上記大儀(C或はC")の爲の自己犠牲(B的滿足)化を遂げてしまふ といふ事になる。(要旨『生き甲斐といふ事』全1P310他から)
天皇觀もその類を免れず、非近代日本の宿命が其處に展開されたと言ふ事なので
は。それを踏まへ「さういふことを明らかにするやうな努力」とは、集團的自我上の問題 は集團的自我上で解決(「明らかに」)すべきだと恆存は言つてゐるのではなからうか。
しかし我々日本人は、本來集團的自我(A)内の概念で留まるべき「國家」「神ではない
天皇」「上位概念:世界・社會・階級、大思想」「自己」等を、精神(B)の對象として全體 或は絶対化(C化)し、しかも「ぼくたちは今日までなんと精神を神聖化し、さうすることに よつて精神の負荷を重からしめ、結果として精神を侮辱してきたことか。肉體(A)の自律 性が確立してゐなかつたからである。明治以降の日本人はあらゆる物質的なこと、肉體 的なことに、すべて精神のべールをかぶせ、それをことごとく精神の發動として自己満足 してきた。かれらは肉慾を肉慾として是認することをおそれ、それに精神的な衣をかぶ せた。物慾を物慾として是認することをおそれ、それに藝術愛や愛國心や愛他心や、そ の他の主種雑多な大義名分をかぶせた」(P479全二「肉體の自律性」)とこの評論『象徴 を論ず』で言外にそれを言つてゐるのではなからうかと、誤讀(讀み過ぎ)を恐れつつ小 生は讀んでしまふのである。
そして恆存の更に言はんとする處、理想とする處は、「精神の近代化(個人主義)」に
留まらず、その限界を超えて「完成せる統一體としての人格」論(「テキスト10圖」)の構 圖を構築せんとする事にある。
即ち「テキスト10圖」で説明すると、集團的自我内の最上部「場・全體・C"」の位置に、
「國家・元首(天皇)」を定置し、かつその相對世界とは別次元の全體(圖で言ふ處のC =全體)の箇所に「八百萬神(神道)」を定置せんとする事ではなからうか(注:圖中の三 角は自己を表す)。その内容を恆存の文章に置き換へるとかう言ふ事になる。
「問題は、すべてはフィクションであり、それを協力して造上げるのに一役買つてゐる國
民の一人、公務員の一人、家族の一人といふ何役かを操る自分の中の集團的自己をひ とつの堅固なフィクションとしての統一體たらしめる原動力は何かといふ事である。それ は純粋な個人的自己であり、それがもし過去の歴史と大自然の生命力(時間的全體・空 間的全體・C:吉野注)に?つてゐなければ、人格は崩壊する。現代の人間に最も欠けて いるものはその明確な意識ではないか」(全6P704『覺書』)。
此處、「過去の歴史と大自然の生命力(時間的全體・空間的全體)に?つてゐなけれ
ば、人格は崩壊する」が最重要な項目である。
上記のフィクションを統一せしめるものとして、やはり全體(C)即ち「過去の歴史と大自
然の生命力」や「背後にある道徳:C」・「八百萬神(神道):C」等のC的(全體・絶對)なも のがその構圖を支へ得る「原動力」なのである、と恆存は言つてゐるのである。ただ誤 解を招かぬやう附記しておくと、恆存は「完成せる統一體としての人格」論を統一せしめ る「全體・絶對」として、「八百萬神(神道):C」が唯一とは謳つてはゐない。
「明治以降の日本人はあらゆる物質的なこと、肉體的なことに、すべて精神のべールを
かぶせ、それをことごとく精神の發動として自己満足してきた」と言ふ「精神主義的構圖」
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番外編:生き甲斐⇒全體感と「皇室典範改正」の問題
【恆存の評論(眼)から浮世を見れば・・・壱】
時間的全體感(C)=歴史(萬世一系の天皇制:男系天皇制)⇒D1宿命(傳統・文化・
型=祭祀・儀式)⇒國民(A・B所持)⇒D2(祭祀の)演戯⇒全體感・實在感獲得
・・・故に今般の「皇室典範改正」は日本國民の全體喪失即ち、全體感・實在感・生き甲
斐獲得機會の永遠喪失、即ち「ナショナルアイデンティティー」喪失に繋がり、しひては國 家存亡の危機にも相當する。
「萬世一系の天皇制:男系天皇制」は、文化を喪失してゐる戰後日本の最後の砦。
參照:「私たちの意識は平面を横ばいする歴史的現実(過去・現在・未来といふ時間的
継続:吉野注)の日常性からその無際限な平板さから起き上がらうとしてたへずあがい てゐる」「その(起き上がるための)行為が演戯(型=祭祀・儀式)」(P532)であり、か つ「儀式は、人間が個人であることをやめて、生命のもつとも根源的なものに帰つていく ための通路」(「人間・この劇的なるもの」P588)なのであつた。だが、その要素としての 祝日を戦後は換骨奪胎化してしまつたと言ふことなのである。(以下圖「全体感獲得の 構圖」:参照) 演戯(型=祭祀・儀式)」といふ、「型にしたがつた行動は、その一区切り 一区切りが必然であり、(中略)行動をそれ自体として純粋に味はひうるやうにしむけてく れる。そのときにおいてのみ、私たちは、すべてがとめどない因果のなかに埋れた日常 生活の、末梢的な部分品としての存在から脱却し、それ自身において完全な、生命その ものの根源につながることができるのだ」。
「私たちは、平生、自分を全体と調和せしめようとして、それができずに疲れはててゐ
る。いひかへれば、生理的には必然かもしれぬが、倫理的には偶然な事故にしかすぎ ぬ死以外に、何の完結も終止符もない人生に倦み疲れてゐるのだ。私たちの本能は、 すべてが終ることを欲してゐる。・・・・」(『人間・この劇的なるもの』)
*只の「何の完結も終止符もない人生」と言ふ単なる時間の繼續、及び脱出。
全體感獲得の構圖zentaikan.pdf へのリンク
*參照:『福田恆存を讀む會』、『象徴を論ず』(テーマ評論)における參加者發表文
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