ブログ & Blog 『續・生き甲斐といふ事』
〔当HP:目次〕

平成十八年一月二十二日


吉野櫻雲

全集第六巻所載:【『續・生き甲斐といふ事』――補足として(昭和四十六年一月刊)】



〔当評論中解りにくい部分を他評論(右項)で補足〕
『續生き甲斐といふ事』内文章 他詳論上における同一的文章。或いは左項の補足的説明。(括弧内は吉野注)
P321「大衆社會そのものが空虚なのではなく、文化を失つた大衆社會が空虚なのである。文化の無い社會は大衆社會であらうがなからうが空虚である事に變はりはない。が、今日のそれは經濟的繁榮と政治理念の喪失から生じたのではなく、明治以來徐々に行はれて來た傳統文化の破壊から生じたのである」・・・とは何を言はんとしてゐるのか。
「明治以來徐々に行はれて來た傳統文化の破壊」とは、日本より上位概念に西歐があつたが爲に、西歐化(近代化)及びその適應異常による日本的價値觀(傳統文化)の破壊を指す。(敗戰、非占領による破壊激化)
恆存はかくも言ふ。「生き甲斐とは子供の時からの生き方の様式である。言換へれば文化」だと。即ち、もつと解りやすく言へば、以下の充實感獲得の爲の、生命の有機的還流(「過去との時間的連帶感」)を言つてゐるのだと思ふ。
時間的全體感(C歴史=日本及び日本人)⇒文化(D1宿命・關係=傳統・様式・儀式・形・型・風俗・行事・仕來り)⇒演戯(D2自己劇化)⇒生き甲斐(D3充實感・實在感・全體感)。
⇒右項「型にしたがつた行動」參照。

*「文化を失つた大衆社會が空虚」とは、文化を失つた大衆社會(C"場)⇒自由(D1:宿命・様式喪失)⇒空虚・退屈感(D2演戯缺如)⇒穴埋め的自己表現(D2)⇒自己主人公化⇒自己滿足(D3自己陶酔・似非生き甲斐・似非充實感)。・・・と言ふ事では。
P306「生き甲斐とは生の充實感(D3)。それが今日何處にも無い」とは・・・即ち「生き甲斐」は、全體C⇒宿命D1⇒自己劇化D2⇒生き甲斐(充實感・實在感D3)」と言ふ、結果論的に齎されるものなのだが、それが自己欺瞞され「D3」ではなく「C"化(目的格化)」されてしまつた、と恆存は言つてゐるのではなからうか。
⇒後述P316
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
*演戯といふ、「型(D1)にしたがつた行動(D2)は、その一区切り一区切りが必然であり、(中略)行動をそれ自体として純粋に味はひうるやうにしむけてくれる。そのときにおいてのみ、私たちは、すべてがとめどない因果のなかに埋れた日常生活の、末梢的な部分品としての存在から脱却し、それ自身において完全な、生命そのものの根源につながること(D3充實感)ができるのだ」(『人間・この劇的・・・』)。

そして、「文化(型・D1)を失つた大衆社會が空虚」とは、以下の傍線文を指すのでは・・・「私たちは、平生、自分を全体と調和せしめようとして、それができずに疲れはててゐる。いひかへれば、生理的には必然かもしれぬが、倫理的には偶然な事故にしかすぎぬ死以外に、何の完結も終止符もない人生に倦み疲れてゐるのだ。私たちの本能は、すべてが終ることを欲してゐる。・・・・」

*K.K女史(五十代)發表文
      『續・生き甲斐といふ事』


『續・生き甲斐といふ事』



戻る
戻る