十一月:選擇評論:全集第二巻所載:『チェーホフ(「批評」第六十二號 昭和二十三年十一月刊:三十七歳)

 

 恆存は、此處では意識してか、それよりかむしろ、チェーホフの時代ではその概念がなかつた爲なのであらうか、「個人主義」と言ふ言葉が當評論では使はれてゐない。

しかし「チェーホフ」を理解するには、恆存が此處でも濃厚に、それが内包する事柄を語つてゐる「西歐近代自我(個人主義)」を、我々は再度確認し理解しておく必要があると思ふ。その個人主義が内蔵する病弊、病癖、陥穽、限界等を・・・。

恆存は多くの評論で、個人主義が持つ正負の二面性を事ある毎に取り上げてゐるが、その負の側面についてはかう述べてゐる。

負の側面を要約(拙發表文:福田恆存の『個人主義』觀より抜粋)

附き合ふ相手が自分の場合、自己と言ふ「場」への距離感の喪失、即ち場への沈湎=自己陶酔=自己絶對視=自己への適應異常=自己喪失。と言ふ式が成り立つ。即ち甚だ「自己」とは、正常には適應がし難い相手であり、故に「個人として最も信じてゐないのは私自身である」、といふ恆存の説(『防衛論の進め方についての疑問』より)になる。

 そして個人主義こそ、上記で言ふ「自己が自己に結ぶ關係」なのであるから、「距離感」の缺如・喪失を意味してゐ、その「自己への誠實」は檢證のしようのない眞に危うい代物と言ふ事になる。故にその限界を露呈してゐるのである。

 其處の邊りを恆存はかう述べてゐる。

本來「誠實とは對他的概念」であるのに、それを自己に適應し、「自分が自分に對して誠實であると思ひこむのも、これまた一種の自己欺瞞に過ぎまい。いや、誠実こそ最大の自己欺瞞かも知れぬ。(中略)自分の歪んだ自惚鏡に映つた自分の姿を一度信じこんでしまへば、他人の目に映つた自分はすべて誤解といふ事になる」(『フィクションといふ事』)と、「自己への誠実=個人主義」の陥穽を書いてゐる。このやうに恆存は、個人主義の陥穽の一側面「自惚鏡」を、ビランテルロの戯曲を借りて言ふ。また更に『批評家の手帖』においては、チェーホフは三戯曲で自己陶酔の側面を、「自己解釋・獨り合點」の「伝統的な気質喜劇」(即ち「自己解釋喜劇・自意識喜劇」)として描いたとも(全五:P81『批評家の手帖』より)。

 そして更に、恆存の各評論から「個人主義(近代自我)」を探究するに、以下の結論が導き出されてくる。

 個人主義者は、「解放されて仕へるべきなにもの(絶對・全體)をも持たぬ自我の不安」」(全2P27『シェイクスピア』)から、遂には自己を超えた存在である筈の「絶對・全體」に代はつてみづからの手で、宿命創出、そして自己美化(似非自己劇化=ボヴァリズム:D2)、自己解釋(獨り合點・自己滿足・似非實在感:似非D3)をせざるを得なくなつた。即ちさうする事で、個人主義(近代自我)者は己の孤獨を慰藉せざるを得なくなつたのである。かつては神(或は絶對・全體)によつて齎されてゐた「實在感・全體感」を、今度は自分の手で補はなくてはならなくなつたのである。

何故ならば、本來「自己劇化は自己より大いなるものの存在(絶對・全體)を前提として、はじめて存在する。自己は自己を表現しきれぬばかりでなく、自己は自己を劇化しきれない」(全ⅡP415『自己劇化と告白』)からである、と恆存は言ふ。「大いなるものの存在(全體・絶對)」に自己劇化する事によつて初めて、以下のプロセスを経て、眞の「實在感・全體感」が得られるのであると。

絶對・全體(C)⇒宿命・關係(D1)⇒自己劇化(D2)⇒絶對・全體(C)⇒實在感・全體感(D3

 

この邊の事について、恆存は「オセロー」を借りて以下の樣に表現してゐる。

個人主義は「自由意思によつて宿命(宿命/自己劇化)を選ぶ」と。・・・

即ち、「(本來)宿命は人間の側で選びとるものでなく、神々(絶對・全體)の側から人間に與へるものである。が、もし、個人がそれを選び(似非自己劇化=自己美化)とらねばならぬものなら、その最後の仕上げ(自己解釋・自己滿足・似非實在感:似非D3も個人が自分の手でやつてのけねばならぬといふことになる。かうして、オセローは最後に自分自身をだまさずには、死んでいけなかつたのだ(即ちボヴァリズム・自己美化)。宿命にたいして信頼感をもちえなかつた」。その樣に「自分を滅ぼすものの正體(死・全體:C)をはつきり見きはめ、その上に自分を押しあげ、壮大に祀りあげること、この強烈な個人主義のうちにエリオットはストイズムを見た」オセローもストイックたちと同樣「ひとつの断片に過ぎぬ個人が全體の必然性(實在感・全體感:D3を選び司るといふ論理的矛盾」を冒したのだと恆存は言ふのである。「自分が自分を認める以外、どこにも生きるよすがは求められぬ(ストイズム)。シェイクスピア劇の主人公たちが置かれた環境がまさにそれ」(參照:全3P555~7『人間・この劇的なるもの』)。とどのつまり「個人が個人の手で生き方を探求すれば、それはただ全體的な生き方への反逆に終るだけのこと」(同P572)なのだと。

恆存は「シェイクスピア劇から知りうる個人主義の限界」として「自己美化(似非自己劇化)」の問題を取り上げたのである。それを要約すると以下の樣になる。

《個人主義の限界》

近代=「神(絶對・全體)の死」即ち「神意(宿命)喪失」→神の代はりに自己の手による宿命演出→自己美化・自己主張(表現)・自由意思(人間如何に生くべき)→自己完成(自己主人公化・自己全體化・自惚鏡)→自己解釋・獨り合點・自己陶酔・自己満足・自己絶對視・自己證明による「似非實在感」→自己喪失(自己への距離感喪失・適應異常)。

 

前出したが重要なので繰り返す(是は恆存思想の基調の一つとも言へる)。「自己劇化は自己より大いなるものの存在(絶對・全體:C)を前提として、はじめて存在する。自己は自己を表現しきれぬばかりでなく、自己は自己を劇化しきれない」。

故にオセローを含め「絶對・全體」離脱者である個人主義者は、「自己劇化」を企てる事が出來ない。彼等が出來得るのは精々それと似て非なるもの、「自己美化・ボヴァリズム」でしかないのだと言ふのである。「全體の上に自分を押しあげ、壮大に祀りあげること」は、結局全體的な生き方への反逆」でしかないが故に、「全體・絶對」からの賜り物「全體感・實在感・必然感」は彼等には訪れない。到來するものは「似非實在感」としての「自己解釋・獨り合點・自己滿足・自己陶酔」でしかないのである。(參照:全3P555~7『人間・この劇的なるもの』)

 

 この樣に恆存は、「自己美化・ボヴァリズム」(「自己劇化」からの萎縮變容形態)と、もう一つの意識「自己解釋・獨り合點」(「實在感」の萎縮變容形態)を、近代自我(個人主義)の重要項目として諸評論にて取り上げてゐる。尚それを以下の樣に纏める事が可能である。

人間の精神が持つ二つの意識(D2的要素とD3的要素)の特徴

◎「自己美化・ボヴァリズム」=「物事を實際とは違つたふうに見ようとする願望」。即ち「自己劇化」からの萎縮變容形態(似非D2)。

◎自己解釈・獨り合點=「自分はさうありたい」即ち「自分が下した自己解釋を模倣しそれに辻褄を合せたい」願望(全五:P81『批評家の手帖』)。即ち「實在感・全體感」の萎縮變容形態(似非D3)。

*萎縮變容させてまでも慾求する、さうした二つの意識が精神にはあるのだと。

そして前者(「自己劇化」的概念)を、アリストテレスの『詩學』の物まね論(參照:『人間・この劇的なるもの』)も含めて、シェークスピア・セルバンテス・フローベール等がそれを顕し、後者(自己解釈・獨り合點=「實在感・全體感」的概念)をチェーホフが戯曲で顕したと恆存は言ふ。そして更に續けて「チェーホフはやや意識的にシェイクスピアの裏返しをもくろんだ」のだ(全五P76『批評家の手帖』)とも。

 大事な點は、シェークスピア・セルバンテスも含め、フローベールそしてチェーホフも、恆存が言ふ以下の「大いなるものの存在(絶對・全體)」を保持してゐたと言ふ事である。

「自己劇化は自己より大いなるものの存在(絶對・全體)を前提として、はじめて存在する。自己は自己を表現しきれぬばかりでなく、自己は自己を劇化しきれない」(全ⅡP415『自己劇化と告白』)。

 そして彼等の作品も、やはり恆存の表現を借りて言ふならば、彼等が「敵(鬪ふ最高價値)としてなにを選んだかによつて、そしてそれといかにたたかふ(宿命/自己劇化)かによつて、はじめて自己は表現せられる」(同P412)結果としてのその創作物なのだと言ふ事にある。

 フローベールについて謂ふならば、「ボヴァリー夫人」に自己美化(ボヴァリズム)を演じさせながら、しかも作品にはフローベールは自己の「夢想=理想人間像=クリスト=C」は一切登場させる事なくして、にもかかはらず、彼自身は見事に上記の「自己劇化(D2)⇒絶對・全體(C)」を遂げてゐるのである(以下表參照)。これについて恆存は言ふ「自己劇化が完成するといふことは、本來ありえない(絶對・全體への希求行爲であるから)。それは停止することを知らぬ自動的な行爲であらう。(作品)『ボヴァリー夫人』はその限界點に立つてゐる。そこでは自己劇化(フローベールの)はみごとに完成し、役者(フローベール)の素顏は消滅し、アリバイが完全に成立した。いはば、告白のリアリズムを拒否することによつて(何故ならフローベール自身は何も告白してゐないのであるから)、リアリズムといふ近代文學の美學が完成したのである」(同P415)と。即ち、再度繰り返すが、「マダム・ボヴァリー」に「自己美化(似非自己劇化)」を演じさせつつ、フローベール自身は「自己劇化」を企ててゐたのである。

 チェーホフについても然りである。

 戯曲で、登場人物に「自己解釋・獨り合點(似非實在感)」を演じさせながら、チェーホフ自身は己の「敵」を發見し、とは即ち、「空家(神不在)にたへる」=「無執着」→「底意のない眼」→「自己劇化(「在るがままに描く」)、を遂げてゐたのである。そして結果としての「實在感」を當然感得してゐたのである(以下表參照)。それを言ひ換へれば、以下の樣になる。

 

恆存「基調音(人間觀)」の作家論への展開(抄)。(その他參照:パワーポイント圖)naniwotekitosite1.2.pdf へのリンクのP2

「われわれが敵(鬪ふ最高價値:自己か絶對・全體か)としてなにを選んだか(宿命選擇)によつて、そしてそれといかにたたかふ(宿命/自己劇化)かによつて、はじめて自己は表現せられる(創作對象に)のだ」(全2P412『自己劇化と告白』)

各文人

「われわれが

 

(出典評論

大主題(C)の發見:

敵(鬪ふ最高價値:絶對・全體

「新限定」 (天命・關係・宿命)

「としてなにを選んだか(宿命選擇)によつて

中主題(C”文學)=創造:そしてそれといかにたたかふ(宿命/自己劇化)かによつて、自己が表現せられる

小主題=創作

表現せられる(創作對象に)」即ち「現實的客體化

フローベール

『小説の運命Ⅱ』)『理想人間像について』『現代人の救ひといふこと

夢想(理想人間像・クリスト

近代自我(個人主義)否

『ボヴァリー夫人』他。(神・C・夢想「思想に自己を賭けた」描写 。しかし、夢想は作品には登場しない

チェーホフ

(全二P179『チェーホフ』

拙文『口邊に苦笑』(P7

「空家(神不在)にたへる」「無執着」

P178

「底意のない眼」「教養ある自由人の觀念」(P178

近代自我(個人主義)が自己解釋「獨り合點」する意識(D3)を「在るがままに描く」・・・即ち「自己解釋喜劇・自意識喜劇」(全五:P81『批評家の手帖』より

小説 他

*各戯曲・・・「自分はさうありたい」即ち「自分が下した自己解釈を模倣しそれに辻褄を合せたい」自己解釋喜劇(全五:P81『批評家の手帖』)

*恆存曰く「チェーホフはやや意識的にシェイクスピア(自己劇化)の裏返しをもくろんだ」と(全5「批評家の手帖」P76)

(注:自己劇化の變容⇒「物事を實際とは違つたふうに見ようとする願望」⇒自己美化「ボブァリズム」)

 

 長くなつたが、恆存の論を忠實に追ひ、此處まで書く事によつて、西歐個人主義(近代自我)の時代との關聯で、「チェーホフ」がした作家活動の輪廓が、おぼろげにではあるが漸く我々にも掴めるやうになる。

 そして、更に恆存評論を追つてこの問題の探究を續けると、かう言ふ事が浮かび上がつて來る。尚、以下文においては一部重複する部分があるがお許しを。(以下は拙發表文『口邊に苦笑を浮かべる』からの抜粋及び加筆)

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精神(「おのれを完成せしめんとする個人的自我(B)」)は、絶對・全體(C:夢想)との繋がりを持つが爲、それとの關係で「能動・上昇」的意識としての「演戯」と、絶對・全體から得られる「受動・下降」的意識としての全體感(実在感・必然感)が生ずる。

そして、個人主義(近代自我)の時代は、自己を超えたるものとしての絶對(C)を喪失してゐるが爲に、絶對の代はりに自己(C)が演出する處の、「受動・下降」的意識としての「自己解釈」(獨り合点)が成立するのである。

何故なら精神(意識)はその習性として、生きる型を「歴史や周囲に、物語や劇や小説に探し求め、自分が下した自己解釈を模倣しそれに辻褄を合せやうとする」(同上評論)特質を持つからである。

精神を、模倣・辻褄を合せる「自己解釈・獨り合點(D3)」する意識として、チェーホフは捉へたと恆存は言ふのである。

とはかう言ふ事であらう。

精神には、自己劇化(D2)と自己解釋(D3)の「ものとしては寫しがたく」、かつ捨て去る事の出來がたい、二つの意識が儼然として在る、と言ふことになる。

そして、シェークスピアは悲劇で「解放されて仕へるべきなにもの(神)をも喪つた」近代人の自己劇化(D2)の意識を描き、チェーホフはもうひとつの側面、自己解釈(D3:獨り合點)の意識を描いた、と恆存は書いてゐる。「チェーホフはやや意識的にシェイクスピアの裏返しをもくろんだ」と。(P76『批評家の手帖』)

叉このやうにも恆存は言つてゐる。これはかなり重要な點である。

「人間の中には理想や神を求める要求がある。これは本能と言つてもよい」(講演カセット『理想の名に値するもの』より)と。更に別評論では「何とかして絶對なるものに迫らうとする行爲を『演戯』」とも言つてゐる。

であるから、神(絶對)を求める要求を「演戯」と言ひ換へる事が可能である。即ち恆存は「演戯」心を、肉体が持つ本能とは別の「精神の本能」と見たのである。

と言ふ事は、「演戯」によつて得られる全體感(実在感・必然感)への希求をも本能的欲求と見た事になるのでは。むしろ全體感(実在感・必然感)への本能的欲求があるが爲に「演戯」の本能があるとも言ふ事が出來る。この二つは「演戯」⇒絶對⇒全體感(實在感・必然感)の有機的聯關として、表裏一對の本能と言ふ事が可能なのではなからうか。

 

《そして其處から類推できる點は以下の通りである》

精神は本能として、絶對・全體への演戯欲求と、その帰結としての全體感(實在感・必然感)獲得欲求と言ふ、二つのと言ふより表裏一對の欲求を持つ。そして近代人は神(絶對・全體)を喪つたが爲に、その両者の萎縮變容の形態として、「ボヴァリズム(D2)」即ち「物事を實際(現實)とは違つたふうに見ようとする願望」と、「自己解釈(D3:獨り合點)」との意識を持つに到つた、と言ふ事が出來るのである。

又、恆存は「自己劇化」を「演戯」と同位に置いてゐるのが分かる。即ち「自己劇化は自己より大いなるものの存在(全體・絶對)を前提として、はじめて存在する。自己は自己を表現しきれぬばかりでなく、自己は自己を劇化しきれない」と書いてゐるのである。故に「ボヴァリズム」は自己劇化・演戯の異形と言へるのである。(參照:『自己劇化と告白』全二:P415)

 そして以上の事からこのやうに言ふ事が出來る。

近現代人は「解放されて仕へるべきもの(神)を喪つた」結果、「衰退」様相としての個人主義に陥り、上記二つの演戯欲求(D2)と全體感(D3:實在感・必然感)欲求と言ふ、精神が持つ本能的要素は、その最終目的(全體・絶對)の喪失により萎縮し、その結果としてボヴァリズム(D2)と自己解釈(D3)へと變容せざるを餘儀なくされてしまつたのだと。

それを、世紀末及び二十世紀初頭の二人の作家(フローベルとチェーホフ)は、近代實證精神がもたらすリアリズムの方法論で描いた、と言ふ事になるである。

十九世紀リアリズムの時代では、自分の夢(夢想:C)をフローベールはそんな形でしか提出しえなかつたのである。そしてチェーホフも。(參照:『福田恆存を讀む會』テキスト:P9「甲圖」)

恆存は言ふ、

「フローベールは『マダム・ボヴァリーはわたしだ』といつたが、(中略)ここに重要な事實は、フローベールは自分の夢(夢想:C)をそんな形(即ち「現實(A)の醜悪を素材として美を志向する創作方法」)でしか提出しえなかつたといふことだ」。

その時代(個人主義時代)の萎縮した演戯本能(「ボヴァリズム」)で「獲得できた自由のいかにつまらなく、それがあまりにつまらぬために自由でもなんでもない」事を、フローベールは其處に描いたのである。神(絶對)喪失が故の、演戯本能の萎縮變容した形態「ボヴァリズム」。その時代的帰結を描いたと言へる。近代が抱へ持つ病的なるものの一側面(D2)を。

そしてチェーホフは、やはり個人主義時代のもう一つの側面、全體感(實在感・必然感)欲求本能の萎縮變容の形態を、自己解釋(D3:獨り合點)として描いたのである。まるでそれらは、二人とも時代から預託されて書いたかのやうにも見える。

チェーホフもやはり、「無執着」と言ふ自分の夢(夢想:C)を「底意のない眼」で、フローベールと同じくそんな形(「現實の醜悪を素材として美を志向する創作方法」)でしか提出しえなかつたのではなからうか。

恆存の各著作から連想しそれが誤讀でなければ、以上の如く恆存が言つてゐるやうに、小生は受け取れるのである。(參照:P617『小説の運命Ⅱ』他)

二人の天才作家が證明した近代人の本能萎縮形態は、将に恆存が言ふ處の、近代が抱へる「デクリネイション(衰退)の様相」(參照:全二:『シェイクスピア』P22)を示してゐると見る事が出來る。そして我々現代人は、それを更に病膏肓の域に趨かせてゐるのを、諸處の現實的現象に見る事が出來るのである。

即ち、他人の「自惚鏡」には附き合はず、自分の「自惚鏡」にしか意を拂はない「俺が俺が・・」の自意識現象として、「自己美化(似非D2)⇒自惚鏡(似非C)⇒自己解釋・獨り合點・自己陶酔・自己滿足(似非實在感:D3)」が其處に顔を覗かせてゐる・・・。個人主義の確立してゐない日本では利己主義の増長的病相として。

 

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〔以下は、吉野櫻雲發表文〕

 

と言ふ事で、今評論も中々の難解にしてかつ手ごはく、そしてどの文章も重要なのであるが、特に以下内容文を此處に取り上げる事とする。更にいつもの如く難解なる内容については、手助けを他評論に仰ぐこととする。(以下文中傍線及び括弧内は概ね吉野附記。「P9圖」云々は「讀む會テキスト」頁を表す。「ABD2」等も同テキスト三頁を參照の程)

 

〔難解又は重要文〕:P167上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「チェーホフは人を裁きたくなかつたのだ。人を罰したり、傷つけたりすることがいやだつたのだ。なぜか――『なにもわからない』から」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「なにもわからない」については、小生にも、洒落ではないがいまひとつよく分からない。探究の餘地を残す部分である。諸氏はいかがであらうか。

是について、川上會員より的を射た解答を戴いた。それはP172上の以下文である。

「かれは自然科學者として、實證主義精神の可能性に信頼してゐたと同時に、また生きた人間を對象としなければならぬ臨床醫として、實證科學の限界をはげしくおもひしらされてゐたにそうゐない。かんたんにいつてしまへば、かれにはわかることとわからぬことのけぢめが、はつきりわかつてゐたのだ。現實を認識し合理化することによつて理解しようとする近代人の論理癖が、もしこのけぢめを無視することになれば、いつたいいかなる事態が惹起されるか、考へるまでもなく明白なことだが、そこには論理にかはつて自我意識(自己表現⇒自己完成⇒自己滿足・自己陶酔)が登場する――しかも表面あくまで論理のマスクをかけて」云々。

「裁きたくなかつた」についてはかう言ふことでは。

恆存の論に從へば、「個人主義」は神の代はりに自己がなる事(自己絶對視・自己全體化)だから、その爲他人を平氣で裁ける。それに叛しチェーホフは個人主義を害惡(「西歐の近代精神の害毒」)と見て嫌つたから、他人を裁かない。と言ふことになるのではなからうか。

「裁きたくなかつた」の理解に當たつては以下①②の文と、加へて個人主義の病弊について言つてゐる下項目〔難解又は重要文〕:P170下~172上の恆存文が參考になるのでは。

①.「チェーホフが敵としてゐたものの正體が明らかになつた。自己完成、良心、クリスト教道徳、その背後にひそむ選民意識と自我意識、ロレンスがヨーロッパの傳統たるクリスト教精神のうちに認めた矛盾もまたそれであつた」。

②.「神や僧侶のかはりに、今では各人が日々めいめいに、その友人や親や妻や恋人や同朋を裁くのである」。

 と同時に、ややこしくなるが、以下の文が更に參考になるのでは。そして上下の參考文二つから窺へる事はかうである。チェーホフは「個人主義の病弊」を憎みながら、しかし個人主義の病ひに罹つてゐる登場人物に愛情(それとも愛惜、憐情であらうか)を抱き、それが故に「その悲しみにも苦痛にも共感する事が出來」、「自己解釋喜劇・自意識喜劇」として戯曲を書く氣になつたのではなからうかと言ふ事である。

全五:P83『批評家の手帖』より

「私たちはその(チェーホフ劇の)獨り合點を笑ふことも出來る。だが、自分の獨り合點に生を賭けてゐる當人を見れば、その悲しみにも苦痛にも共感する事が出來る」

 

〔難解又は重要文〕:P167上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「ロマンティックなもの、メタフィジカル(形而上學的)なもの、センティメンタルなものを、なぜチェーホフは憎んだか」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。是等は「個人主義」の屬性と言ふ理由からなのではあるまいか。何故なら上記の文に續く「これら三つのものに共通する根本的性格(以下)がそれを證左してしてゐると思へる。

     「他人の存在を忘れること」=(他人の自惚鏡に意を拂はない)。

     「他人の注意を自分にひきつけること」=(自己主人公化・自己全體化)。

     「他人の生活を自己の基準によつて秩序づける」=(自己絶對視)。

 

〔難解又は重要文〕:P167下~8「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「チェーホフは十九世紀の認識過剩を非難してゐるのだ。(中略)大自然との直接の交流を愛してゐた。對象を正確にとらへることではなく對象を完全に味はふ(「生の快楽」・「生を楽しむことに貪婪」或は「健康な生の意慾:P182上」)ことがチェーホフの目的なのであつた」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。上記「十九世紀の認識過剩」(即ち實證主義)の理解に當たつては以下の文が參考になるのでは。

拙發表文『一匹と九十九匹と』から抜粋。一部加筆

*現實を正しく認識しようといふ、實證主義或は實證精神は、その手段の徹底化のあまり、「現實のうちに正しく生きよう」といふ人間の内にある素朴なる慾求(目的)を無視し、そこからかけ離れてしまつた。とその事柄を、福田恆存は以下のやうに述べてゐる。

「自然を、現實を正しく認識するのは、自然のうちに、あるいは現實のうちに正しく生きようといふ目的のためにほかならない。近代が――ことに十九世紀が、この手段を目的から獨立せしめ、それ自體の自律性を獲得せしめたのである」

「現實を正しく認識しようといふのは、自分の目のまへに自分から離れたものとして眞實を設定しようといふことであり、現實のうちに正しく生きようといふのは、現實とのかかはりにおいてみずからが眞實にゐようといふことであつて、両者はおのづから別個のことがらである」(「作品のリアリティーについて」より。全2:P266~)

*そして、フローベール又は彼等(ボードレール・ニーチェ・ドストエフスキー・ロレンス)は、實證主義(自然を、現實を正しく認識する)が到達した近代自我(個人主義)の敗北の上に、更に生き延びる、「個人の純粋性・個人的自我」と關係を保つ絶對・全體に超近代の夢を繋いだのである。「正しく生きよう」といふ夢想をそこに。

 

P78『批評家の手帖』より(「十九世紀の認識過剩」とは更に以下のことを指す)

「本人の意識を無視して、物としての彼をとらへうるといふ盲信は、實證科學の影響であらう。(中略)おかげで精神も物にされてしまつた」と恆存は言ふ。

それ故に「現実のうちに正しく生きよう」から近代人はかけ離れて、しいては「生の快楽」或は「健康な生の意慾」と言ふ人間の「眞實を自分の良心(=理解Bと同)の犠牲にしてしまふ」結果に繋がる。と言ふ事では。

 

〔難解又は重要文〕:P170下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「チェーホフは自己の内部に、本來的にかれ自身に屬するものと、さうではないものとを發見した。更にスラブ魂とヨーロッパからの借物とを識別した。そして生れながらかれ自身に屬さぬもの、西歐に歸すべきもの、それをひつくるめておのれの敵と見なした」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「ヨーロッパからの借物」とは、「個人主義(近代自我)」を指すのであらう。「西歐に歸すべきもの」とは、「個人主義」に本源的にまとわりついて離れぬ「自我意識」即ち「自己表現⇒自己完成⇒自己滿足・自己陶酔(或は自己解釋)を指すのでは。

 

〔難解又は重要文〕:P170下~172上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

1.「チェーホフが敵としてゐたものの正體が明らかになつた。自己完成、良心、クリスト教道徳、その背後にひそむ選民意識と自我意識、ロレンスがヨーロッパの傳統たるクリスト教精神のうちに認めた矛楯もまたそれであつた」。

2.「神や僧侶のかはりに、今では各人が日々めいめいに、その友人や親や妻や恋人や同朋を裁くのである」。

3.「自己完成の道徳に對するチェーホフの嫌悪感の眞實性」。

4.「論理にかはつて自我意識が登場する」。

1~4の此の邊は何を言はんとしてゐるのであらうか。やはり上述の、「個人主義」に本源的にまとわりついて離れぬ「自我意識」即ち「自己表現⇒自己完成⇒自己滿足・自己陶酔」に關する事を言ひ、個人主義の病弊を指摘してゐるのであらう。その病弊については恆存は以下の樣にも言つてゐるのである(要約)。

個人主義者は、みづからの手で、宿命創出、そして自己美化(似非自己劇化=ボヴァリズム:D2)、自己解釋(獨り合點・自己滿足・似非實在感:似非D3)をせざるを得なくなつた。即ちさうする事で、個人主義(近代自我)者は己の孤獨を慰藉せざるを得なくなつたのである。かつては神(或は絶對・全體)によつて齎されてゐた「實在感・全體感」を、今度は自分の手で補はなくてはならなくなつたのである。

何故ならば、本來「自己劇化は自己より大いなるものの存在(絶對・全體)を前提として、はじめて存在する。自己は自己を表現しきれぬばかりでなく、自己は自己を劇化しきれない」(全ⅡP415『自己劇化と告白』)からである、と恆存は言ふ。「大いなるものの存在(全體・絶對)」に自己劇化する事によつて初めて、以下のプロセスを経て、眞の「實在感・全體感」が得られるのであると。

絶對・全體(C)⇒宿命・關係(D1)⇒自己劇化(D2)⇒絶對・全體(C)⇒實在感・全體感(D3

 

〔難解又は重要文〕:P172「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

1.「現實を認識し合理化することによつて理解しようとする近代人の論理癖」。

2.「チェーホフには、心理主義の底にひそむ、暗い我意の破壊力が呪はしかつた。かれのいひたかつた、たつたひとつのこと――他人の眞實を信ぜよ」。

・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。此の邊は〔難解又は重要文〕:P167下~8の解説「現実を正しく認識しようといふ、實證主義或は實證精神は」云々に關する事なのでは。

 

〔難解又は重要文〕:P174上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「他人の眞實を信ぜよ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。以下に關する事柄では。

「現実を正しく認識しようといふのは、自分の目のまへに自分から離れたものとして真実を設定しようといふことであり、現実のうちに正しく生きようといふのは、現実とのかかはりにおいてみずからが真実にゐようといふことであつて、両者はおのづから別個のことがらである」(『作品のリアリティーについて』より。全2:P266~)

 

〔難解又は重要文〕:P173下~5「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「チェーホフにとつて、インテリゲンツイアとは、世俗に對立し、世間から閉め出しをくつてゐる生活無能力者である。(中略)自己の正しさを確信してをり、それを正當づける論理を驅使し、それによつて他人を裁くことを知つてゐるからだ。インテリゲンツイアは失意にあるがゆゑに、いつそう自己の正しさの論據を必要とする。結果はおしゃべりになるといふわけだ。――といふより、口舌以外に勝つすべがないといふことになる。哲學が必要なのだ。(中略)怠惰なインテリゲンツイアはみづからの手で自分の哲學をつくりあげようとはしない。あちこちから斷片を掻きあつめてくるだけのことだ。ことば、ことば、ことば――それがチェーホフの戯曲である。(中略)

チェーホフのいひたかつた、たつたひとつのこと、他人の眞實を信ぜよ――それができぬために、ことば、ことば、ことば。チェーホフの戯曲のなかでは、語り手をも聽き手をもなんらの行動にも導かぬばかりか、相互の心に浸透することのない、無數のことばがひしめきあつてゐる」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。

1.「世俗に對立し、世間から閉め出しをくつてゐる生活無能力者(インテリゲンツイア)」とは、「A(世間から閉め出し)⇒B(哲學・形而上学(メタフイジカル)」への逃げ込みのパターンを指し、その掻きあつめた論理(哲學B)で、インテリゲンツイアは西歐近代自我(個人主義=自己完成の道徳)にかぶれて他人を裁く。と言ふ事では。

2.「ことば、ことば、ことば――それがチェーホフの戯曲である。(中略)チェーホフのいひたかつた、たつたひとつのこと、他人の眞實を信ぜよ――それができぬために、ことば、ことば、ことば。チェーホフの戯曲のなかでは、語り手をも聽き手をもなんらの行動にも導かぬばかりか、相互の心に浸透することのない、無數のことばがひしめきあつてゐる」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「ことば、ことば、ことば」とは、上述の「結果はおしゃべり」「口舌」「哲學」を指す。そしてそれを「驅使」しての自己表現、自己解釋を示す。その自己解釋(獨り合點)がチェーホフの戯曲のなかにはひしめきあつてゐる」と言ふのである。で、何故それ程「自己解釋(獨り合點)」に終始せざるを得ないか。先にも書いたが、それが「解放されて仕へるべき」ものを喪つた「個人主義の病弊、病癖」であるからだ。「彼等はせりふで、言葉で、自分の生き甲斐(全體喪失の似非の生き甲斐、或は似非實在感)を確かめてゐるのであつて」、たとへ似非實在感であつてもそれで自己滿足せざるを得ないのである(少し先走るが、その「感傷の虚僞」にチェーホフは氣附きながらもそれを全否定せず、さうした「最後の一滴にも欺瞞を許さぬとすれば、人はいかにして生きていかれようか」と、チェーホフは近現代人が持つ、そのやうな宿命とも言へる習性「悲しみ・苦痛」にあるがままに共感するのであると恆存は言ふ)

話を戻すが、「絶對・全體」離脱者である個人主義者は、「自己劇化」を企てる事が出來ない。彼等が出來得るのは精々それと似て非なるもの、「自己美化・ボヴァリズム」でしかないのだと恆存は言ふのである。「全體の上に自分を押しあげ、壮大に祀りあげること」は、結局全體的な生き方への反逆」でしかないが故に、「全體・絶對」からの賜り物「全體感・實在感・必然感」は彼等には訪れない。到來するものは「似非實在感」としての「自己解釋・獨り合點・自己滿足・自己陶酔」でしかないのである。(參照:全3P555~7『人間・この劇的なるもの』)

そうした個人主義の屬性である「自己解釋・獨り合點」については、恆存の以下の文が更に參考になる。

全五P79~83:『批評家の手帖』より

*「自己表現、あるいは自己解釋といふのは、自分がさういふものであるといふことを意味しない。ただ自分はさうありたいといふだけのことだ。(中略)それぞれの型を眞似ようとして、歴史の中に周囲に、物語や劇や小説に、それを探し求めるであらうし、自分が下した自己解釋を模倣しそれに辻褄を合せようとする」(P81下)。其處に「彼等はせりふで、言葉で、自分の生き甲斐(似非の、或は似非實在感)を確かめてゐる」(同頁上)のであると恆存は言ふ。

*「チェーホフ戯曲の登場人物はほとんどすべて自己解釋(獨り合點:似非實在感D3)を行つてゐる。劇の始めから終りまで自己解釋だけしかしてゐない。それだけが自分の生甲斐(似非D3)だとでも言つてゐるかのやうだ」(P79)

*『三人姉妹』では、「彼等(登場人物)がかうだと自分を語つてゐる彼等自身の言葉があるだけだ。彼等自身の人生解釋、自己解釋があるだけだ。それが始めから終りまで執拗に繰返される。彼等はそれだけしか言はない。言ふだけで何もしてゐない。チェーホフ劇には行動はほとんど無いにひとしい」(P80)

*「それ(自己解釋)が時々底を割つて、自分との折合ひを缺いた人間(個人主義者=自己と言ふ『場』への距離感の喪失者)の喜劇的不協和音をたてる」。「自分との折合ひを缺いた人間が何とか折合ひをつけようとして、自分なりに首尾一貫して人生圖をただ描きたいと」。

「私たちはその(チェーホフ劇の)獨り合點を笑ふことも出來る。だが、自分の獨り合點に生を賭けてゐる當人を見れば、その悲しみにも苦痛にも共感する事が出來る」(P83)と恆存は言ふ。

*「チェーホフはやや意識的にシェイクスピア(自己劇化=D2)の裏返し(自己解釋=似非D3)をもくろんだ」と(P76)。

そして重複とはなるが、恆存はかう言ふ事を言はんとしてゐるのではなからうか。

更に今般の評論「P175」では、恆存はかう書いてゐる。「(此處に)もつともふしぎなもつともむづかしい結合が、チェーホフによつておこなはれたのだ――冷徹な客観主義(A)と甘美な感傷主義(B?)との結合が。リアリズムとセンチメンタリズム――いひかへれば、科學(A)と藝術(B)」との結合がおこなはれてゐるのだと。

「チェーホフが科學の可能性を信じきつてゐたればこそ、その作品の藝術性は高まりえたのである。かれはあらゆる精神上の、あるいは感情のうえでの虚僞を、その冷酷なる實證主義によつて處斷し、かたはしから打破してかかつた。それゆゑ、あとに殘留(フローベールで恆存が言ふ「殘餘の領域:B」「一分の隙もない天窓:と同一か)としたものは眞珠のごとく醇乎たる、いささかの虚僞をも含まぬ一滴の涙であつた。センチメンタリズムとは、いふまでもなく感情の虚僞である――が、最後の一滴にも欺瞞を許さぬとすれば、人はいかにして生きていかれようか。たしかにチェーホフはわかつてゐた、その最後の一滴の虚僞が」と。

とは、〔難解又は重要文〕:P173下~4上「P175」を統合するに、恆存はかう言ふことを言はんとしているのであらう。

「(生きていく爲にはどうしても必要な?)その最後の一滴の虚僞」である「悲しみ・苦痛」に對しては、チェーホフは「冷酷なる實證主義によつて處斷」しながらも、しかも「共感する事が出來」たのだ、と言ふことを。一片の「感情の虚僞」がありながらも「感傷」を脱し得たのは、「チェーホフが科學の可能性を信じきつてゐたればこそ、その作品の藝術性は高まりえたのである」と。それが故に「眞珠のごとく醇乎たる、いささかの虚僞をも含まぬ一滴の涙」に結實しえたのだと、その樣に恆存は言はんとしてゐるのではなからうか(この邊、傍線部分の矛楯的文言は、いまひとつ探究出來得ぬもどかしさがあるのだが・・)。

「自己解釋・獨り合點」の「ことば、ことば、ことば」も、恆存の論に從へば「實證主義によつて處斷され、(中略)あとに殘留した眞珠のごとく醇乎たる、いささかの虚僞をも含まぬ一滴の涙」と言ふ事なのであらう。しかも、その涙の「感情の虚僞」はチェーホフには分かつてはいるが許し得る、「(人が生きていく爲にはどうしても必要な?)その最後の一滴の虚僞」の涙なのだと言ふ事になる。それは「虚僞」ではあつても、四戯曲の中にある「センチメンタリズム(感情の虚僞)」は、安手の感傷主義に堕す事なく「チェーホフが科學の可能性を信じきつてゐたればこそ、その作品の藝術性は高まりえた」結果に繋がつたのだ、と言ふ事なのであらう。別な言葉で言ふと、「それ(科學Aと藝術Bとの一致)がまたチェーホフの感傷を高いものに維持しえた秘密」(P176上)と言ふ事に・・。(此處まで探究してみたが、力不足でこの項は今一つちぐはぐである。再考を要す)

 

〔難解又は重要文〕:P176上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「ただ現代にいたつて、はじめて科學(A)と藝術(B)とがその他のいかなる夾雑物をまじへずに相對することができたたのである。それまでは宗教(B)や形而上學(B)や哲學(B)が兩者の純粋な結合のしかたを妨害してきた」「さう信じてゐたチェーホフをして、そのユートピアとの懸隔にあへて耐へしめる力は、どこに求められたのであらうか。それ(科學Aと藝術Bとの一致)がまたチェーホフの感傷を高いものに維持しえた秘密にほかならない。ぼくがチェーホフの人間性の新しさをいつたのは、まさにそこなのである」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。前項での探究が些かその邊の解説になり得ていると思ふ。

 

〔難解又は重要文〕:P176最後文~「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

チェーホフの言葉「眞實を自分の良心(B)の犧牲にしてしまふ」云々・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。上記の「良心(B)」は、以下の文の「理解」即ち「相手を愛する(B)こと」に關聯して來るからではなからうか。良心(B)=「理解」=愛で相手の「眞實」(生の秘密も含めての)を手籠めにしてしまふのである。と言つてはロレンスと混同になるか。

「相手のうちの理解しえぬ部分にたいする敬虔な感情を失ひ、相手をむりやりに自分の理解のなかに閉じこめてしまはうとする。かうすることが相手を愛する(B)ことだと思ひこんでゐるのです。そしてさらに、相手が自分の理解のうちにはまらぬ部分をもつてゐるかぎり、相手は自分を愛してくれぬのだと考へます。かうして、ひとびとは相手を愛し理解しようとして、その孤獨を、いひかへれば孤獨によつて保たれてゐる生の秘密を殺しあふのです」(全二P399『理解といふこと』)

 

〔難解又は重要文〕:P177上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「近代人がおのれの個性となし、その自己内容とみなしてゐるところのものは、なにものかにとらはれた不純な汚濁のごときものにすぎない。だれもかれも溷濁し凝固することによつて自己を發見し形成する。で、たまたま澄明な精神(チェーホフそして「スラブ人の素朴な心」も然り)に出あふと、その自己内容(無執着性)を空疎、薄弱と斷定するのだ。(中略)もし抵抗を感じなければ、かれはそれを空家とみなして、土足でふみにじることをあへて憚らぬのである。なんといふことか――そこ(無抵抗或いは空家=無執着)にこそ無垢な人間の姿がある。チェーホフはこの人間性の純粋を保持しえた少數の善人のひとりである。また自己の内部にあつて他の不純物(西歐個人主義)の下に埋もれてゐるスラブ人の素朴な心を發掘しようと意識的に努力した藝術家のひとりである・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。

近代人がおのれの個性となし、その自己内容とみなしてゐるところのものは、なにものかにとらはれた不純な汚濁のごときものにすぎない。だれもかれも溷濁し凝固することによつて自己を發見し形成する」とは、個人主義が内蔵する「自己表現(自己美化)⇒自己完成・自己全體化⇒自己解釋(獨り合點)・自己満足・自己陶酔」と言ふメカニズムの事を指すのであらう。他の「難解部分」については、括弧内に注を附してみた。

此處で分かる事は、日本と同じく西歐近代の後塵を拜した後進國「ロシア」に生きる、やはり日本人と同じく西歐近代に適應異常を來してゐるロシア人を、チェーホフは、その害惡(近代自我=個人主義)から救出せんとしたと言ふ事にある。そして、本來ロシア人が持つ「素朴な心」(スラブ魂)を「發掘しようと意識的に努力した」と恆存が指摘する點にあるただ重要にしてしかし分かりにくいのは、「發掘」せんとしたその方法がどう言ふ手段であつたのかと言ふ事なのだ。

多分かう言ふ事なのでは。P173下~5の項で恆存が言ふ樣に、チェーホフは「自己解釋・獨り合點」の「ことば、ことば、ことば」の中にある、「その最後の一滴の虚僞」を「科學Aと藝術Bとの一致」で描いた。その行爲によつて、最終的にはその最後の一滴の虚僞」の裏に潛在する「無執着・素朴な心(無執着に通ずる)」(スラブ魂)をチェーホフは發掘せんとした、と言ふ事なのではあるまいか。さうして、チェーホフは「吾をも人をも」同時に、其處(害惡)から救出せんとしたのであると。

 

〔その他、まだ「難解又は重要文」はこの後にも數多くあるが、探究の時間が足りない。その内以下については、當發表文四頁の表を參照されたし〕

〔難解又は重要文〕:P178下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「空家・・」

〔難解又は重要文〕:P179上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「無執着の性格」

 

尚、恆存の論を追ひ、「チェーホフ」の精神を纏めるならば、以下の樣になる〔「 」内が恆存文。( )内は吉野注〕。

チェーホフにおける空家・無執着(絶對・全體の代はり)⇒底意のない眼⇒「科學(A)と藝術(B)との一致」⇒しかし實證主義(科學)で人を裁かない。實證主義の限界を辧へる⇒とは「自己解釋・獨り合點のことば、ことば、ことば」の「最後の一滴にも欺瞞(「實在感」の萎縮變容形態としてのを許さぬとすれば、人はいかにして生きていかれようか」と理解を示す⇒故に「チェーホフは登場人物がそれぞれにかう描かれたいといふ姿勢を知つてゐて、その肖像を彼等が欲するやうに描いた」(全五P78『批評家の手帖』)⇒
⇒即ち、チェーホフは「個人主義の病弊」を憎みながら、しかし個人主義の病ひ(自己解釋・獨り合點=「實在感」の萎縮變容形態)に罹つてゐる登場人物(ロシア人)に愛情を抱き、それが故に「その悲しみにも苦痛にも共感する事が出來た」のである。その結果として「自己解釋喜劇・自意識喜劇」としてチェーホフは戯曲を書く氣になつた⇒
⇒「そこ(無抵抗或いは空家=無執着)にこそ無垢な人間の姿がある。チェーホフはこの人間性の純粋を保持しえた少數の善人のひとりである。また自己の内部にあつて他の不純物(西歐個人主義)の下に埋もれてゐるスラブ人の素朴な心(四戯曲の主たる登場人物たち)を發掘しようと意識的に努力した藝術家のひとりである」。

 と言ふことになる。

 

 そして更に言へることは、哀しむらく吾々凡夫は、「フローベール」についても言へることではあるが、恆存のかうした念入りな索引なくしては、「チェーホフ」著作を讀んでも此の樣には理解は出來ないと言ふことなのである。此處に日本の左翼劇團等による、安手の「チェーホフ」劇が蔓延るゆゑんがあると言へる。

 

                             

〔その後:補足Ⅰ〕

「トルストイはエゴイズムとたたかふことにかれの藝術の基調を見いだしてゐたが、そのあげくさういふ藝術こそ自我意識の毒を吹きいだすものとして否定した。かれのあとでは、藝術はエゴイズムを肯定し、生の意慾の湧出として、それ(生)に愉悦を與へるものでなければならなくなつた」(全二P510『白く塗りたる墓』)・・・将に是がチェーホフが嗣いだ仕事であつたと言へる。

『チェーホフ』(全二P182)の以下文がそれを示唆してゐる樣に見える。

「エブリャーコフは『わしはこのとしになつてまで、エゴイズムにたいする多少の權利をもつこともゆるされないのか』といふ――のみならず、これはチェーホフの戯曲のあらゆる登場人物がその内心にひそめてゐるかげの聲である。が、エゴイズムとはなにか。それははたして倫理の問題であらうか。チェーホフはおそらくかういふであらう――それは惡ではない、が、やはり醜い、と。~~云々~~P183上まで」。 

上記『白く塗りたる墓』『チェーホフ』の二つの文を繋げるとかう解釋が可能となるが、正鵠を射てゐるであらうか。

「エゴイズム(A)を肯定し、生の意慾の湧出(A)として」捉へた上での、「人間とその生活とにたいする眞の無垢の愛情――それのみが論理(「人間存在の根柢に巣くふ、打ち勝ち難い矛楯」P182下)との世界を放下して生きる無執着の態度を保證しうるのである。(中略)(チェーホフは)トルストイの道徳(B)よりはブティガの技能(才能A)のほうが――はるかに貴重におもへたのである。才能(A)は勇氣であり、善であり、自由であり、生命(A:生の意慾の湧出)そのものである」(P184)から。

即ち、四戯曲も「人間とその生活とにたいする眞の無垢の愛情」=「無執着の態度」でもつて、登場人物の「自己解釋・獨り合點=「實在感」の萎縮變容形態を、チェーホフは描いてゐると言ふことなのであらう。

 

〔その後:補足Ⅱ〕

P164・P186より「新しい人間」「純粋な人間」の概念

以下のパターン(「純粋な人間」=チェーホフの精神)で生きていくことは、現實世界(「さういふ世界」P186參照)が「存續するかぎり純粋な魂(「新しい人間」)は孤獨のうちにじつと『たへしのぶ』ことよりほかに道はない」と恆存は言ふ。「やがてすべての人間が自我(「自我意識」即ち「自己表現⇒自己完成⇒自己滿足・自己陶酔」)から解放されて新しくなることを信じながら」孤獨の内に『たへしのぶ』ことよりほかに道はないと。

 とは何を言はんとしてゐるのであらうか。もう少し追究するとかうなる。

「西歐近代自我(個人主義)」が羽振りを利かして、「神に型どれる人間の概念の探究」の結果、「人間の純粋性」も「原罪の惡を假説としなければ偉大と榮譽とを獲得しえないヒューマニズム」の範囲内でしか語られぬ代物になつてしまつた。その爲、それに對立する概念であると言ふよりもむしろ眞の「人間の純粋性」と言へる、「純粋な魂(「新しい人間」)」「稚児のごとき無我の純粋な人間」は、「さういふ世界」では肩身を狭くしてゐなければならず、「孤獨のうちにじつと『たへしのぶ』ことよりほかに道は」無くなつてしまつた。

と言ふ事を言つてゐるのではなからうか。

「無執着」

⇒D1「無執着」

の命ずるもの

A(集團的自我)。「カエサルのことはカエサルで」と同。

B(個人的自我)。

夾雑物を取り去った極小の「個人の純粋性」

D2(自己劇化)

⇒C「無執着」

「空家(神不在)にたへる」「無執着」

P178

⇒D1(關係)「天命」:「底意のない眼」で、「直接な・清純な・素朴な」氣持で人や自然に附合ふ

~~~~~~~

「底意のない眼」「教養ある自由人の觀念」(P178)で

科學・實證精神の徹底。

 

 

即ち「科學(A)と藝術(B)との一致」化⇒

「純粋な魂」「純粋な人間」「眞の無垢の愛情」

 

 

⇒藝術(B)の純化・・「個人の純粋性の静謐」と同か?

D1/自己劇化

・・・D1の命に基づき「稚児のごとき無我の純粋な人間」を演戯。

 

上枠の生き方、それが(P164下)で恆存が言ふ「チェーホフの内部に生まれやうとしてゐた新しい人間」なのである。そしてそれは「トルストイ、ドフトエフスキーよりも、さらにバルザック、フローベール、モーパッサンよりもいつそう新しい人間」であると言ふ。

 その意味で、「チェーホフはヨーロッパの知性を身につけ、それに毒されることなく、かへってそれを利用することにより、スラブ人(トルストイ、ドフトエフスキーの原罪意識)を超えて人間の心の純粋状態(新しい人間:無執着=D1の命に基づき「稚児のごとき無我の純粋な人間」を演戯。=「人間とその生活とにたいする眞の無垢の愛情「他人の眞實を信ぜよ」?))に到達することができたのである」恆存著『チェーホフ』P185P185)の文を恆存は書いてゐるのであらう。

 この文はそのまま恆存自身を物語つてはをるまいか。

 

夾雑物を取り去った極小の「個人の純粋性」に『たへしのぶ』意味で、そのパターンは「フローベール」に似ていながら、フローベールの「夢想=理想人間像」云々より、上記の「無執着」の樣式は「新しい」と恆存は言ふのである。

 そして恆存は、さうした孤獨な同志(「少數な純粋な魂」)の一人として、時を経た今日「新しい人間」「純粋な人間」チェーホフに出会つてゐるのである。即ちそれは「どこかに同志のゐるといふ確信だけを頼りに孤獨そのものにおいて團結する」と言ふ、チェーホフの夢想が此處に實現してゐるかの樣にも見受けられる。

 

                  

「われわれが敵(鬪ふ最高價値:自己か絶對・全體か)としてなにを選んだか(宿命選擇)によつて、そしてそれといかにたたかふ(宿命/自己劇化)かによつて、はじめて自己は表現せられる(創作對象に)のだ」(全2P412『自己劇化と告白』)

各文人

「われわれが

 

(出典評論

大主題(C)の發見:

敵(鬪ふ最高價値:絶對・全體

「新限定」 (天命・關係・宿命)

「としてなにを選んだか(宿命選擇)によつて

中主題(C”文學)=創造:そしてそれといかにたたかふ(宿命/自己劇化)かによつて、自己が表現せられる

小主題=創作

表現せられる(創作對象に)」即ち「現實的客體化

チェーホフ

(全二P179『チェーホフ』

拙文『口邊に苦笑』(P7

「空家(神不在)にたへる」P178

「無執着」

「底意のない眼」「教養ある自由人の觀念」(P178

近代自我(個人主義)が自己解釋「獨り合點」する意識(D3)を「在るがままに描く」・・・即ち「自己解釋喜劇・自意識喜劇」(全五:P81『批評家の手帖』より

小説 他

*各戯曲・・・「自分はさうありたい」即ち「自分が下した自己解釈を模倣しそれに辻褄を合せたい」自己解釋喜劇(全五:P81『批評家の手帖』)

*恆存曰く「チェーホフはやや意識的にシェイクスピア(自己劇化)の裏返しをもくろんだ」と(全5「批評家の手帖」P76)

(注:自己劇化の變容⇒「物事を實際とは違つたふうに見ようとする願望」⇒自己美化「ボブァリズム」)

以下の假説も可

 

チェーホフ

 

『チェーホフ

』P168

P170「汝の敵(A)を愛せよ、汝の徳(B)を完成する爲に」と言ふ「自己完成の道徳に對するチェーホフの嫌惡感の眞實性」

「西歐に歸すべきもの」を敵とみなした。・・・「自己完成、良心、クリスト教道徳、その背後にひそむ選民意識と自我意識」=個人主義的なるもの?

P168「生の快楽」

P182上「健康な生の意慾」

エゴイズム(A)を肯定し、生の意慾の湧出(A)として」捉へる(全二P510『白く塗りたる墓』)。

さうした「健康な生の意慾」を持つ「他人の眞實を信ぜよ」(P172)。即ち「自我意識で裁かない」=「心理主義の底にひそむ、暗い我意の破壊力」への嫌惡。

其處から來る、戯曲登場人物への愛情=自己解釋「獨り合點」する意識(D3)を「在るがままに描く」。

以下の悪循環からの脱皮・・・「他人の眞實を信じられない」⇒何故なら「近代人の論理癖」(實證精神の過剩)がそれを招く。實證精神では他人の眞實(健康な生の意慾」?)を掴みきれないから⇒「自我意識」で人を裁く、或は自己を「獨り合點」する悪癖⇒「ことば・ことば・ことば」

同上

 

左項目の補P172上

「かれは自然科學者として、實證主義精神の可能性に信頼してゐたと同時に、また生きた人間を對象としなければならぬ臨床醫として、實證科學の限界をはげしくおもひしらされてゐたにそうゐない。かんたんにいつてしまへば、かれにはわかることとわからぬことのけぢめが、はつきりわかつてゐたのだ。現實を認識し合理化することによつて理解しようとする近代人の論理癖が、もしこのけぢめを無視することになれば、いつたいいかなる事態が惹起されるか、考へるまでもなく明白なことだが、そこには論理にかはつて自我意識(自己表現⇒自己完成⇒自己滿足・自己陶酔)が登場する――しかも表面あくまで論理のマスクをかけて」

 

*チェーホフの「寫實」・・・「寫實を口にする資格があるのは、さういふ底意のない眼だけである。人間を寫しとらうとするなら、それを物として寫しても始らぬ。その意識を寫しとらねばならない」(全五:P77『批評家の手帳』)

*「本人の意識を無視して、物としての彼をとらへうるといふ盲信は、實證科学からの影響であらう。私たちはまだそれから自由になつてはゐない」。しかしチェーホフには其處からの脱皮がある、と恆存はいつてゐる。

チェーホフ:*チェーホフの「寫實」・・・「寫實を口にする資格があるのは、さういふ底意のない眼だけである。人間を寫しとらうとするなら、それを物として寫しても始らぬ。その意識を寫しとらねばならない」(全五:P77『批評家の手帳』)

*「本人の意識を無視して、物としての彼をとらへうるといふ盲信は、實證科学からの影響であらう。私たちはまだそれから自由になつてはゐない」。しかしチェーホフには其處からの脱皮がある、と恆存はいつてゐる。

場(C”)から生ずる

その意識(心の動き・關係:D1

=自己解釋・獨り合點D1

それ(人間)を物として寫しても始らぬ・・・とは言葉は寫實(物を写す影)ではないと言ふ事。

「その意識(心の動き・關係:D1)を寫しとらねばならない」・・・その型がチェーホフの寫實だと、恆存は言ふ。

 

P168「西歐に歸すべきもの」を敵とみなした。(「人は敵の所在を知る事によつて、自己を發見する」)⇒發見した自己とは、P168「生の快楽」P182上「健康な生の意慾」⇒「エゴイズム(A)を肯定し、生の意慾の湧出(A)として」捉へる。(全二P510『白く塗りたる墓』)さうした「健康な生の意慾」を持つ「他人の眞實を信ぜよ」。何故なら「西歐に歸すべき」實證精神」「心理主義の底にひそむ、暗い我意(自我意識)」(P172)はそれを破壊するから。即ち「近代人の論理癖」の過剩から⇒その論理にかはつて自我意識(自己表現⇒自己完成⇒自己滿足・自己陶酔)が登場するのである(P172上)

「チェーホフはながいこと敵を發見しえなかつた。(中略)『草原(曠野)』から『ィヴァーノフ』の時期に、自己のエピキュリアニズムを亂すなにものかを周囲の空氣のうちに感づいた。(中略)抵抗にあつて、はじめて、かれ自身の慾望がどこにあるかを知つたのだ。人は敵の所在を知る事によつて、自己を發見する。いや、チェーホフは自己の内部に、本來的にかれ自身に屬するものと、さうではないものとを發見した。さらにスラブ魂とヨーロッパからの借物(即ち自己完成、良心、クリスト教道徳、その背後にひそむ選民意識と自我意識」)とを識別した。そして生れながらかれ自身に屬さぬもの、西歐に歸すべきもの、それをひつくるめておのれの敵と見なした」(P168)。

 

P166「この世のことはなにもわからない」云々とは、畢竟「實證精神」=「十九世紀の認識過剩(P167)」では分かり得ぬ「健康な生の意慾」を持つ「他人の眞實」が存在すると言ふ事。その理由は、チェーホフには「わかることとわからぬことのけぢめが、はつきりわかつてゐた」(P172上)が故に。

 

P182上「健康な生の意慾」を持つ「他人の眞實を信ぜよ」(P172)。その生命力を「ロマンティックなもの、メタフィジカル(形而上學的)なもの、センティメンタルなもの」(P167)は阻害する。⇒それら「西歐に歸すべきもの」を敵とみなした。生命力を阻害するが故に。

是等三つは「個人主義」の屬性と言ふ理由からなのではあるまいか。何故なら上記の文に續く「これら三つのものに共通する根本的性格(以下)がそれを證左してしてゐると思へる。

  「他人の存在を忘れること」=(他人の自惚鏡に意を拂はない)。

  「他人の注意を自分にひきつけること」=(自己主人公化・自己全體化)。

  「他人の生活を自己の基準によつて秩序づける」=(自己絶對視)。

 

「チェーホフはヨーロッパの知性を身につけ、それに毒されることなく、かへってそれを利用することにより、スラブ人(トルストイ、ドフトエフスキーの原罪意識)を超えて人間の心の純粋状態(新しい人間:無執着=D1の命に基づき「稚児のごとき無我の純粋な人間」を演戯。=「人間とその生活とにたいする眞の無垢の愛情「他人の眞實を信ぜよ」?))に到達することができたのである」恆存著『チェーホフ』(P185

 この文はそのまま恆存自身を物語つてはをるまいか。
                 をはり

  



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