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〔当HP:目次〕

平成二十年九月七日

『福田恆存を讀む會』

 

 

九月選擇評論:全集第三巻所收

*第一部:『漢字恐怖症を排す』(「新文學」昭和十七年八月號:三十一歳)。

*第二部:『國語問題と國民の熱意』

(昭和三十年一月二十日補筆、『平和論にたいする疑問』に收録:四十四歳)。

*第三部:『覺書三』P603「7行目」〜P610「4行目」(昭和六十二年頃:七十六歳)。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜以下文「 」内が恆存文。( )内は吉野注〜〜〜〜〜〜〜〜〜

恆存は、「明治以來の國民皆學の教育狂(國家近代化の爲の教育)が日本の文化を破壊して來た」と指摘する。「今日の日本人の心に穿たれた空洞は」それが原因であり、「近代化の實績を擧げた」犧牲として「日本人固有の文化」の喪失が支払はれたのであると。(參照:『教育改革に關し首相に訴ふ』)

 そして更に以下の樣に言ふ。

*「文化の根柢は言葉にある事に氣附いてゐる人が餘りにも少ない。なぜにさうなつたかと言へば、戰後の國語國字改惡が徹底した結果、言葉が文化を支へ、思考力や道徳や人格を支へ、その崩壊を食ひ止め得る唯一の財産だといふ自覺の切掛けすら持たぬ人達が多くなつたからである」(『新漢語の問題』全七)。⇒下欄探究文參照。

*「日本の近代史を『近代化に對する適應異常の歴史』として見直す事を提案する」(『適應異常について』)。

 

上記三つの文を綜合するとかうなる。

明治維新以來、日本は「近代化に對する適應異常の歴史」の結果、自國の「文化を破壊して來た」。そして更に先の大戰後、戰勝國(米國)占領政策による文化破壊が加はつた事で、「國語國字改惡が徹底した結果」、文化喪失は留めを失つてしまつた。と言ふ事になるのではなからうか。

  しかし考へるに、この評論『漢字恐怖症を排す』は、敗戦前(占領前)の「昭和十七年」に恆存は書いてゐるのである。と言ふ事は、日本は戰に負ける前、即ち「戰後の國語國字改惡」以前に、やがて來るGHQの爲に、自らの手で「文化崩壊」の地ならしをしてゐた事になる。病膏肓此處に極まれりと言ふ事になるのであらうか・・・。

 

*引き續きK會員より。

 選擇動機及び、本日「讀む會」の、LEADING(READING)へ・・・。

 

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〔以下は、吉野櫻雲發表文〕

 

と言ふ事で、今評論も中々の難解にしてかつ手ごはく、そしてどの文章も重要なのであるが、特に以下内容文を此處に取り上げる事とする。更にいつもの如く難解なる内容については、手助けを他評論に仰ぐこととする。(以下文中傍線及び括弧内は概ね吉野附記。「P9圖」云々は「讀む會テキスト」頁を表す。「A・B・D2」等も同テキスト三頁を參照の程)

 

 

第一部:『漢字恐怖症を排す』

 

〔難解又は重要文〕:P87上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

原文讀要⇒P86最終行から〜〜下11行目「祈るのみである」迄:當文中「いま僕たちが反省を迫られてゐるのは、明治末期以來わが國の文化を毒してきた、この一時的な便宜をのみめがける合理主義の徒輩ではなかつたか。(中略)文化人自身が、文學者自身が罪を犯してきたのだ。かれらはいままた同じ誤ちをくりかへさうとしてゐる。過去には文化それ自身の名において、現在は政治の名において――いづれも合理主義、便宜主義の汚名をまぬかれぬ。だが、かつては無意識に誤つたものを、いまは底意をもつて誤たうとしてゐるのだ。(中略)過去の合理主義は舊時代の否定としてひとつの役割を果たしたといひうるとしても、現在のそれはもつぱら過去の正當化としての意味しかもちえぬのである。(中略)一漢字制限の問題といへども斷じてゆるがせにはなしえない所以である。背後には、かくのごとく合理主義・便宜主義が文化と學問の傳統を破壊しようとたくらんでゐる。本質は政治の問題ではないのだ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。簡略すると、國家近代化(西歐化)の爲の「合理主義・便宜主義」、即ち物質のみの近代化で事足れりとし、「精神の近代化」を果たさなかつた事が、「日本の文化を破壊して來た」と言ふ事になる。

察するに、上文は「以下:五枠文」の消息を物語つてゐるのではなからうか。と言ふよりも「以下:五枠文」の如く向後に展開された、恆存の「「完成せる統一體」とも言へる、見事な「國語論・言語觀・演劇論・文學論」の、その緒をこの評論に見る思ひがするのである。例へば「文化人自身が、文學者自身が罪を犯してきた」(P87上)云々の文、そして「合理主義・便宜主義が文化と學問の傳統を破壊しようとたくらんでゐる。本質は政治の問題ではないのだ」(同頁)に、或は、別章の「ことばは單なる傳達の具ではない」(P89上)に、そのよすがを吾々は窺ひ知る事が出來るのである。それ故に『覺書三(全集三:所收)』で記してゐるが如く、恆存が紛失した當評論文の在處に執着し、以下の感慨を殘したのも理解出來る。「さうまでして尋ね廻るほどのものでもないが、私と國語問題との結縁からやはり欲しいと思つたのである」(P603)。

 と言ふ事で、その消息を「以下:五枠文」で探究する。

 

*教育と文化との關聯を、恆存の別評論で要約するとかうなる。

拙發表文:『教育改革に關し首相に訴ふ』より「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

恆存は、「明治以來の國民皆學の教育狂(國家近代化の爲の教育)が日本の文化を破壊して來た」と指摘する。「今日の日本人の心に穿たれた空洞は」それが原因であり、「近代化の實績を擧げた」犧牲として「日本人固有の文化」の喪失が支払はれたのであると。

 此の事を恆存の論法、「場⇒關係(宿命)⇒適應(自己劇化)⇒適應異常(自己劇化破綻)」

で言ふと以下の通りになる。

西歐近代と後進國日本と言ふ場(C”)⇒其處から發生した「日本國近代化(關係・宿命:D1)」⇒關係への適應(自己劇化:D2)、即ち國家近代化の爲の教育(教育の手段化)⇒關係(近代化)への「適應異常(物質のみの近代化)」、即ち國家の近代化(西歐化)が日本文化の崩壊を招いたと言ふ事になる。

 當評論の言でそれを言ひ換へれば、近代化(西歐化)の爲の「合理主義・便宜主義」(「精神の近代化」缺如)が、逆に近代化への「適應異常」を惹起し、日本文化の崩壊を招いたと言ふ事になる。

そして、その原因として、我が國における以下の重要點の缺如を恆存は指摘してゐる。即ち、政治行政による「合理主義・便宜主義」は、「言葉が文化を支へ、思考力や道徳や人格を支へ、その崩壊を食ひ止め得る唯一の財産だといふ自覺」を國民から奪ひ去つてしまつたのだと。「合理主義・便宜主義」は言葉を「單なる傳達の具」(P89)としか見ない(漢字制限も其處に歸因すると言つてゐるのだと小生には思へる)。彼等は、「言葉とは、意味の傳達以上に『用途』の役割を持つてゐる」(講演カセットより)と言ふ事を理解出來ない。「言葉は物を指し示す物の影(傳達)」ではなく、「(場との)關係と稱する實在物」を表しうるのだと言ふ事を、彼等は理解出來ない(自然主義作家の「ありのままに描く=寫實」も然り)。それ故「言葉は場との關係を適應正常化させる」能力を秘めてゐるのであると言ふ事にも當然思ひ至らない、と恆存は言ふのである(以下の如く)。

評論『新漢語の問題』全七P461〜2より「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「文化(D1)の根柢は言葉(「F」そして「E:言葉の型」=正當表記=正假名正漢字)にある事に氣附いてゐる人が餘りにも少ない。なぜにさうなつたかと言へば、戰後の國語國字改惡が徹底した結果、言葉(F即ちE)が文化(D1)を支へ、思考力や道徳や人格を支へ、その崩壊を食ひ止め得る唯一の財産だといふ自覺の切掛けすら持たぬ人達が多くなつたからである。なほ始末の悪い事に、さういふ人達が自分にも意味不明な死語に近い新漢語や外來語を操りながら、しかもそれを死語と自覺せずに物を書き、それを生業とする傾向がひどくなつて來た。これもまた『言論の自由』といふ近代的概念に對する適應異常の一種である」。「言葉に對する適應異常(即ち、E=附き合ひ方・so calledの喪失)こそ近代化失敗の末期症状である。それを克服する以外に、思考力の衰退や道徳觀の頽廢を食ひ止め、人間回復への緒を見出す方法は他にあるまい」。

更にそれを補足するに餘りある恆存の言質として、

「日本の近代史を『近代化に對する適應異常の歴史』として見直す事を提案する」(『適應異常について』)が擧げられるのである。

 

あへて特質するが、上記傍線部分は、恆存が抱懷し向後に展開して來た、以下枠文の言語觀(演劇論)が其處に裏打ちされてゐるのである。(參照:「テキスト補P3」)

即ち、言葉に對する適應異常によつて生ずる、「思考力の衰退や道徳觀の頽廢を食ひ止め、人間回復への緒を見出す」には、言葉(F)との附合ひ方、扱ひ方(E)、即ち「フレイジング」「so called=所謂何々」等の「型にしたがつた行動」で、場との關係(D1)を適應正常化(D1の非沈湎化=思考力・道徳觀の活性化・人格の形成)させる以外に、他に方法はあるまいと恆存は言ふのである。

何故なら、「言葉が文化を支へ、(その文化の存在が)思考力や道徳や人格を支へ」るからだ。つまり、言葉(F)との附合ひ方、扱ひ方(E)で、場との關係(D1)を適應正常化(非沈湎)させる事が出來、それによつて、「思考力の衰退や道徳觀の頽廢」を免れる事が出來るのである。

恆存の言語觀・演劇論(參照:「テキスト補 P3」)

*場から生ずる「關係(D1)と稱する實在物は潜在的には一つのせりふ(言葉)によつて表し得る」(全七P300『せりふと動き』)。

*場から生ずる「心の動き(關係)を形のある『物』として見せるのがせりふの力學」(『せりふと動き』)。

 

〔更にこの二つを合はせ要略するとかうなる〕

せりふ(言葉:F)との附合ひ方、扱ひ方(E)、即ち「フレイジング」「so called=所謂何々」等「型にしたがつた行動」の用ゐ方の適不適で、場との關係(D1)を適應正常化(非沈湎)させる事が可能となり、また反對に適應異常化(沈湎)に陥らせる事にもなり得る。

 

そして、何故に「近代化に對する適應異常の歴史」の状況に、日本の近代史は陥つたかと言ふと、以下の樣になる。

『醒めて踊れ』他より要略(參照:「テキスト補 P3」)

ハードウェアである「近代化」と言ふ、日本が持つ西歐との「關係」、更にそれを表する「資本主義化・民主主義化・個人主義化・機械化・組織化・合理化等々」の言葉を、それら新漢語に對する用法(「So called」)で、正常な關係に「形ある『物』として見せる」と言ふ、「ソフトウェア」の藝當が明治以來日本では出來なかつた事がその原因である、と恆存は言はんとしてゐるのである。

「國家近代化(西歐化)、それを表する上記新漢語の客體化」と言ふ、所謂「ハードウェア」それ一點の爲にのみ、日本は教育も政治經濟も軍事も全て專心して來た。それが故に、「附合ふ」と言ふ「ソフトウェア」即ち「E=型・仕來り・生き方・様式・技術」が蔑ろにされたのだと、恆存は糾彈してゐるのである。そしてさうした近代化(關係)にのみ注がれた「愛國」は間違つてゐるのだと指摘する。

 そして、その「愛國」については、恆存は以下の樣に言ふ。(注が多いので色を變へる)

「國家が抽象的な理想(愛國と言ふ概念:ハードウェア)としてではなく、具體的な物(心の通つた物、即ち「愛國」と言ふ關係を、形のある『物』としてみせる事が出來る「E=型・仕來り・生き方・様式・技術」それ自體)として見えて來、それ(型・仕來り・生き方・様式・技術、即ちソフトウェア)に愛着を覺える樣」に、我が國民はならなくてはならないと、以下の樣に「ソフトウェア」への愛ほしみを説くのである。(參照:「テキスト補 P3」)

「愛國心(國との場から生ずる關係、命令「愛國」:D1)の場合も道徳觀(他者愛、等)の場合も、その前に先ず物(對象・言葉F)を、それも生きてゐる物(心を通はせられる物)を必要とします。人々の求めてゐるものは『期待される人間像』などといふ抽象的理想ではなく、もつと具體的な存在、即ち吾々が手を觸れ、心を通はせる事(型・仕來り・生き方・様式・技術・距離測定能力・So called・技術:即ちEの至大化)の出來る物(對象・言葉F)そのものなのです。國家が抽象的な理想(愛國と言ふ概念)としてではなく、具體的な物(心の通つた物、即ち「愛國」と言ふ關係を、形のある『物』としてみせる事が出來る「E=型・仕來り・生き方・様式・技術」それ自體)として見えて來、それ(E=「型・仕來り・生き方・様式・技術」それ自體、換言すれば「ソフトウェア」)に愛着を覺える樣な教育といふ觀點に立つた時、戰後は固より、明治以來の教育理念も教育制度(即ち「國家近代化」と言ふ、ハードウェアの爲にのみ專心した教育)も、のみならずそれを成立させてゐる文化觀、價値觀(「和魂洋才」及び、物質的近代化のみで「近代化」こと終われりとしてゐる事を指す)も、すべてが間違つてゐるとお思ひになりませんか・・」(『傳統技術保護に關し首相に訴ふ』)。

*「戰後は固より、明治以來の教育理念も教育制度も、のみならずそれを成立させてゐる文化觀、價値觀も、すべてが間違つてゐるとお思ひになりませんか」とは、それを當評論に言ひ換へれば、前述の漢字制限と言ふ「合理主義・便宜主義」、及び言葉を「單なる傳達の具」(P89)としか見ない、さうした發想が間違つてゐるとお思ひになりませんか、と言ふ事になる。重要な點なので再度繰り返すが、恆存の「國語論・言語觀」の初發とも言へる當評論『漢字恐怖症を排す』の底邊に流れてゐる思想はかう言ふ事なのである。第一義底は、「ソフトウェア」としての「E=型・仕來り・生き方・様式・傳統技術」なのである、と言ふ觀點(以下參照)なのである。

拙發表文:『傳統技術保護に關し首相に訴ふ』より

西歐(場)との關係(宿命)として齎された「近代化」への適應を、新漢語の用法(So called)で正常な關係に「形ある『物』として見せる」。それがハードウェアとしての近代化(資本主義化・民主主義化・個人主義化・機械化・組織化・合理化等々)に對するソフトウェア(精神の政治學)としての對處方法なのであると恆存は言ふのである。その「ソフトウェア」即ち「E=型・仕來り・生き方・様式・傳統技術」の重要性に政府も國民も氣附かず、それを「滅びるがままにして置いた」と言ふのだ。

第一義底は、「ソフトウェア」としての「E=型・仕來り・生き方・様式・傳統技術」なのである、と言ふ觀點に立つた時、「ハードウェア(關係とそれを稱する新漢語群)」にのみ狂奔した明治以來の日本の有樣(文化觀・道徳觀)が「すべてが間違つてゐる」と見えないかと恆存は言つてゐるのである。「文化(D1)とは私たちの生き方(E)」であると言ふ觀點が明治以來の日本にはなかつたと。

「ソフトウェア」である「E=型・仕來り・生き方・様式・傳統技術」の有機性を十分に理解し、それに愛着を覺え大事にする事。それが文化なのであると恆存は言ふ。「文化とは生き方である」の同一的謂ひが其處にはある。

要するに、「關係(D1)と稱する實在物は潜在的には言葉(せりふ)によつて表し得る」が、それを「形のある『物』として見せる」には「型・樣式」が必要なのだと言ふ事になる。

表現を變へて言ふならば、かうなる。

古人が各時代において、歴史(時間的全體C)との關係(即ち文化D1)を、繼承した技術或は樣式(E)で、建造物や彫刻・文學・風俗等々(F)に、顕在的に「形ある『物』として見せる」事が出來た樣に、現代人も又、日本の歴史との關係を、傳統技術や樣式を繼承して、同じく建造物・彫刻・文學・風俗等々に「形ある『物』として見せ」られなくてはならない。それが文化なのである。或は文化が生きている證明(歴史との適應正常)なのである。

斷つておくが、かかる言ひ換へは、恆存の論を小生流に勝手に換骨奪胎化してゐる譯ではない。今評論のみならず、關聯した恆存の諸評論からその樣に小生には理解が出來るからである。

 そして上述の、「合理主義・便宜主義」及び言葉を「單なる傳達の具」(P89)としか見ない、さうした發想が間違つてゐるとお思ひになりませんか、と言ふ「ソフトウェア・型」喪失に對する恆存の慨嘆は、「『論語讀みの論語しらず』の昔時を羨望してやまない。また『一瓢を携へて墨堤に登る』式の作文を要求された小學校兒童をうらやんでゐる」(P88下)と言ふ、「型」渇望の文章へと繋がるのである。何故なら「言葉(即ち型)が文化(D1)を支へ」るのであり、「文化(D1)とは私たちの生き方(E型)であります。生活の樣式(E型)」(全五P185『傳統にたいする心構』の「エリオットの弁」より)なのであるから。

【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】

 

〔難解又は重要文〕:P89上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「文章の世界においてはことばは單なる傳達の具ではない」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。それについては上述文も含め、更には以下の文が參考になるのでは。

拙發表文:「小林秀雄の『本居宣長』」から

恆存は言ふ「言葉の本質は意味の傳達にあるのではない」。かと言つて、心の働き(意思・心の動き=意)の傳達なら出來ると考へるのも淺見である、と。そしてかく言ふ。

P665下「言葉は意(意味も意思も)を傳へる事を目的としてはゐない。堪へ難い心の動揺を鎭め、整へ、吾が物と化する事によつて、それに耐え抜くといふ作用を第一義とするものである」(P665下)と。

これを言ひ換へると、堪へ難いが爲に「場」に沈湎しがちな心を、言葉によつてその堪へ難い悲しみを「形のある『物』として見せ」、それによつて『心の動搖を鎭め、整へ、吾が物と化する』。さうする事で、場への沈湎から心を引き離し、結果として悲しみ(心の動搖)に耐え抜く力となる。その「耐え抜くといふ作用」が第一義的目的なのであると。更に言ひ換へると、「場との關係を適應正常化(距離の至大化)」するのが言葉の目的だと言ふ事になる。即ち、場から生ずる「關係(D1)と稱する實在物は潜在的には一つの言葉(F)によつて表し得、故にその言葉との附合ひ方、扱ひ方(形・Eの形成=「型にしたがつた行動」)によつて、人間は場との關係の適應正常化が叶へられる」と言ふ事になる。要する「適應正常」する爲には「形・カタチ」が必須なのだ。もう一度分かり易く書くと、言葉の目的は、形の成立を得る事で(「型にしたがつた行動」を得る事で)、場との關係を適應正常化する事にある。

 

〔參考〕

「せりふは語られてゐる意味の傳達を目的とするものではない。一定状況の下(場面)において、それを支配し、それに支配(宿命・關係)されてゐる人物の意志や動きを表情や仕草と同じく形のある『物』として表出する事、それが目的であり、意味の傳達はその爲の手段に過ぎぬ」(『シェイクスピア劇のせりふ』P345下)。

【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】

 

そして是等の事柄は、恆存自身が抱懷してゐる以下三枠文の言語觀、演劇論、人間論に繋がるのである。

*「型にしたがつた行動は、行動をそれ自體として純粋に味はひうるやうにしむけてくれる。そのときにおいてのみ、私たちは、すべてがとめどない因果のなかに埋れた日常生活の、末梢的な部分品としての存在から脱却し、それ自身において完全な、生命そのものの根源(全體)につながることができるのだ」(參照:『人間・この劇的なるもの』最終章)。

 

型にしたがつた行動⇒「行動をそれ自體として純粋に味はひうるやうにしむけてくれる」⇒言葉(物)との距離の至大化(Eの至大化)⇒場との關係を適應正常化(場に沈湎してゐる日常性からの解放:D1の至大化)⇒��場(全體・共同體)に對してなすべきことをしてゐると言ふ「必然感」の獲得。�⊂譟柄奇鶲燭�國・町・家族等共同體)と有機的に繋がつてゐると言ふ「全體感」の獲得。⇒結果として生の充實感(實在感)の成立。

*上記の「儀式・型⇒必然感・全體感の獲得⇒生の充實感(實在感)の成立」の奧義を、恆存は更に深く以下の樣に解説してくれる。

拙發表文:『教育の普及は浮薄の普及なり』より

「必然とは部分(生)が全體(死)につながつてゐるといふことであり、偶然とは部分(生)が全體(死)から脱落したことである」。即ち「型にしたがつた行動」によつて、人間は「必然感」と「全體感」を獲得し、それによつて生の充實感(實在感)を味はふ事が出來ると、恆存は言ふのである。どの樣にしてそれが叶へられるかと言ふとかうなる。

「型にしたがつた行動は、行動をそれ自體として純粋に味はひうるやうにしむけてくれる。そのときにおいてのみ、私たちは、すべてがとめどない因果のなかに埋れた日常生活の、末梢的な部分品としての存在から脱却し、それ自身において完全な、生命そのものの根源(全體)につながることができるのだ」と。

この樣に恆存は、「儀式・型⇒必然感・全體感の獲得⇒生の充實感(實在感)の成立」の奧義なるものを吾々に開示してくれるのである。

 

しかしながら、かかる「必然感・全體感=生の充實感」喪失の時代になつた原因は那邊にあるのか。恆存の論を要約するとかうなる。そして念の爲、末文にそれに該當する恆存文を附す。

「個人主義(神の代わりに「自己=部分」の全體化)」時代の到來によつて、死は、神と共に本来的位置を占めてゐた「全體」から脱落して「部分」の價値にしか過ぎなくなつた。死はその樣な「低次元的死」「緩慢的死」「非、劇的死」の役割しか今日では演じられなくなつてしまつたのである。さうした「低次元的死」、換言すれば「倫理的には偶然な事故(即ち「部分:生」⇒自己劇化⇒「全體:死」⇒全體感獲得、と言ふ樣式缺如)にしかすぎぬ死」に囲まれた、「倦み疲れた」情況から、儀式こそが即ち「型にしたがつた行動」こそが、吾々現代人を救出してくれるのである。(繰り返すが「倫理的には偶然な事故」の死とは、「全體感」缺如の死を将に物語つてゐるのである)。

傍線の邊の事を恆存の文章で忠實に示すとかうなる。

「私たちは生それ自體のなかで生を味はふことはできない。死を背景として、はじめて生を味はふことができる。死と生との全體的な構造の上に立つて、はじめて生命の充實感と、その秘密に參與することができるのだ」。

ところが「ヒューマニストたち(個人主義による)は、死をたんに生にたいする脅威と考へる。

(中略)かれらにとつて、單純に生は善であり、死は惡である。死は生の中絶であり、偶然の事故(全體にあらず。「部分」の價値、「低次元的死」)であるがゆゑに、できうるかぎり、これを防がねばならぬと信じこんでゐる。(中略)生の終はりに死を位置づけぬいかなる思想も、人間に幸福をもたらしえぬであらう。死において生の完結を考へぬ思想は、所詮、淺薄な個人主義に終はるのだ」。とその樣に、死が全體的役割を喪失し、その爲に「部分(生)⇒自己劇化(儀式・型)⇒全體(死)⇒必然感・全體感獲得⇒生の充實感(實在感)の成立」の樣式を喪失してゐる「個人主義」思想の缺陷を恆存は鋭く指摘してゐるのである。(參照:『人間・この劇的なるもの』最終章)

【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】

 

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第二部:『國語問題と國民の熱意』

 

〔難解又は重要文〕:P95上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

以下は重要文として擧げる。・・・「もちろん、『歴史的かなづかひ』といつたところで明治できのものだくらゐ承知してしてをります。しかし、それはいかにもよくできてゐる。古典との聯關を保ちながら、精一杯論理的にくみたてられてをります。それをどうして變へる必要がありませう」。

 

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