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〔当HP:目次〕
平成十八年二月二十六日
吉野櫻雲 發表
全集第七巻所載:【『問ひ質したき事ども』(「中央公論」昭和五十六年四月號)
《真の知識階級とは》
当評論でも恆存は、「渡部昇一」批判を通して日本の似非知識階級にその矛先を向け
てゐる。
【P607上:「渡部昇一批判」及び補足評論】(以下括弧内は吉野注)
恆存は渡部昇一に言ふ。「あなたはカトリックを自稱しながら、左右の空間(空間的相
對)を超え、過去と未來の時間(時間的相對)を超え、その横軸に交る縱軸(即ち質的別 次元の全體・絶對)が全く見えないらしい。あなたには生(部分)と死(全體)が向ひ合 ひ、心(B:個人的自我)と物(A:集團的自我)とが出遭ふ一人の人間の生き方が全く解 つてゐない。(中略)あなたの正體は共産主義者と同じで、人間の不幸は全て金で解決 出來る(唯物史觀・相對主義)と一途に思詰めてゐる夜郎自大の成上がり者に過ぎぬで はないか」(『問ひ質したき事ども』P607)と。
・・・とは、渡部昇一なる人物は、「全體・絶對・神・自己を超えたるものの何か」が、カトリ
ックの癖に全然解つてない、と言ふ事を指す。神を知らない「クリスチャン」とは致命的な ものがあるのでは。内實は相對主義者なのにもかかわらずクリスチャンを気取つてゐる 嘘つたらしさ、と言ふ事か。
渡部昇一を含めた日本の「似非知識階級」に對するに、正統なる「知識階級」について
恆存は別評論でかう書いてゐる。
「私が常識的に考へる知識階級も、文化の維持者、傳達者として選民の自覺と誇りと
を持つ者でありますが、それ故にこそ、彼等には禮拜の對象としての神(縱軸)の存在 を、彼等自身の外に信じてゐる譯であり、それが文化的には過去(時間的全體としての 歴史から來るもの)であり仕來りであつて、當然それは彼等自身より大きな、彼等自身を 超える、そして彼等がそれに對して義務と奉仕の責めを負つてゐるものであります」と。 (『日本の知識階級』全5P369)
そして、恆存が自身について語る處の、『近代日本知識人の典型(清水幾太郎を論
ず)』最終文章はそれを補足してゐる。「私は現實主義者と呼ばれる國際政治學者とは 異なる觀點(上記の觀點)から、いつも物を言つてゐる積りである(現實と理想、相對と 絶對の二元論で)。氣負つた言ひ方だが、一口に言へば、『汝自身を知れ』(デルフォイ の神託・ソクラテス座右の銘)と言ふ『大理想』(縱軸・「禮拜の對象としての神」の聲か) の前に小さくなつて自問自答しながら書く、それが私の『文章作法』である」と。(全7P5 78)
それに引きかへ、「社會學にはもともと私の言ふ個人的自己(B)の發想は無い(社會
科學なるが故に實證精神は相對世界が相手であり、立證し得ぬ神は對象外と言ふ事 か)。日本の戰後と同樣、フランス大革命が過去の全否定を勝利として出發したもので あり、その國家の連續性が失はれた荒地でコントの考へた事は、國家、或はそれに代 はる何等かの新しい統合、集成であつた。その意味で、集團的自己(A)、或は集團にお ける個人の確立と言ふ意識に囚れ(「個人は社會にたいする有用性」としての價値と言 ふ事か。それは十八世紀の科學・合理主義への信奉と關聯する。:テキスト七圖參照)、 個人的自己、純粋自我、即ち孤獨なる人間(B)と言ふものの入り込む餘地は社會學に は全く無い(即ち「横軸に交る縱軸が全く見えない」と同)。プラグマチズムも同樣であ る。もし、彼等が孤獨なる個人と言ふ事を考へるとすれば、集團に適應し損つた失意の マイナス面でしか考へぬであらう。清水氏の言ふ『自己を超えたものの存立及びその發 展』は自分をその一員とする集團しか意味しない(「個人は社會にたいする有用性」 か)。が、純粋なる個人的自己(B)が強烈な意識を以て感じ取つてゐる『自分を超えたも の』とは、良心(B精神=全體を感得する場所)であり、歴史(C:時間的全體)、及び自 然(C:空間的全體)の源泉との繋りである」と主張する。恆存は「個人的自己(B)⇒全 體・絶對(C)と言ふ縱軸」を持たない社會學の缺點をそのやうに指摘するのである。社 會學者は「集團を超える個人を認めない」のだと。(同P577、及び小生論考『個人の危 機』參照)
恆存の言はんとする處を更に追求するならば、社會學(國際政治學もか)は社會との
關聯でしか個人を考へず、個人が集團的自己と共に内部に併せ持つ個人的自己(精 神)を、単なる思考力程度にしか彼等は捉へてゐないと言ふ事なのであらう。彼等は個 人的自己(精神)を以下の樣には捉へないと恆存は言つてゐるのである。
「私たち人間が(上記で言ふ)全體の観念をもちうるのは、私たちが個人でありながら、
そのうちに全體を含んでゐるからです。それが精神(B:個人的自己)といふものでせう」 と。(『絶対者の役割』全4P281)
即ち、恆存はさうした「個人的自己(B)⇒全體・絶對(C)と言ふ縱軸」の觀點を持たな
い知識階級を似非知識階級と論じてゐるのであり、真の或は正統なる知識階級とは、前 述した「禮拜の對象としての神(縱軸)の存在を、彼等自身の外に信じてゐる」ものなの であると論じるのである。渡部昇一も、また彼が贔屓にする清水幾多郎もそれを持つて ゐないのだと。持つていればそれは「過去(歴史・全體)と黙契を取交はしている以上、 連續性、一貫性は自づと保たれてゐるから」、「自己疎外だの、身元證明などと言つて邊 りをうろうろ見廻す必要は」ないと。だからと言つて自分の論を恆存は「絶對化」してはゐ ない。一つの假説(フィクション)と捉へ、それを「自己欺瞞(假説)と言はれれば、それま でだが」と表現してゐる。恆存は「相對と絶對」の二元論的思考の重要性を言つてゐる のではなからうか。
そしてその視點が彼等のみならず現代日本人には缺けてゐるのだと、以下の樣に指
摘する。
「自分の中の集團的自己をひとつの堅固なフィクションとしての統一體たらしめる原動
力は何かといふ事である。それは純粋な個人的自己であり、それがもし過去の歴史と大 自然の生命力(C:時間的全體・空間的全體)に?つてゐなければ、人格は崩壊する。現 代の人間に最も缺けているものはその明確な意識ではないか」と。
〔「連續性、一貫性」と言ふ事〕
「自己疎外だの、身元證明など」を持ち出さなければ済まない、即ち精神主義構圖(「テ
キスト九圖」)の、近代日本知識人に缺如してゐる「連續性、一貫性」と言ふ言葉が重要 であり、この事を更に追求してみる事とする。
渡部昇一や清水幾多郎と違ひ、西歐人であるコントは、本來以下で言ふ處のクリスト
教の「連續性、一貫性」を身中に保持し得てゐておかしくなかつた筈なのである。が、そ れが出來なかつたと恆存は言ふのである。何故ならば「フランス大革命が過去(クリスト 教の「連續性、一貫性」も含め)の全否定を勝利として出發したものであり、その國家の 連續性が失はれた荒地でコントの考へた」のがその思想なのであるからと。
〈参考:クリスト教の「連續性、一貫性」と歴史について〉
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