平成二十二年四月二十五日
『福田恆存を讀む會』
發表者 吉野櫻雲
四月選擇評論:全集第三巻所收『俗物論』(「文藝春秋」昭和三十一年六月號:四十五歳著)。
今般「レジュメ」を書いてゐて、恆存評論を讀みかつ「レジュメ」に取り組むとは、以下の作業に他ならいと氣が附いた。即ち是も「沈湎から適應正常への脱出」と。
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*初讀(場への沈湎=D1の至小状態及びEの至小状態)⇒熟讀と言ふ意識の集中強烈化(己を空しうし、Eの至小に風穴を空けんとする行爲)⇒恆存評論(F:言葉・文章)のso called⇒Eの至大化⇒場(C”:恆存)との關係(D1)の至大化(恆存解釋と言ふ名の「適應正常化」)。 |
*今評論選擇理由・・・川上會員より。
*引き續き川上會員より、LEADING(READING)へ・・・。
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〔以下は、吉野櫻雲發表文〕
と言ふ事で、今評論も中々の難解にしてかつ手ごはく、そしてどの文章も重要なのであるが、特に以下内容文を此處に取り上げる事とする。更にいつもの如く難解なる内容については、手助けを他評論に仰ぐこととする。(以下文中傍線及び括弧内は概ね吉野附記。「P9圖」云々は「讀む會テキスト」頁を表す。「A・B・D2」等も同テキスト三頁を參照の程)
〔難解又は重要文〕:P272下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「此の邊でそろそろ俗物の定義をくださなければなるまい――俗物根性とは、世間にたいする自己の關係に不安を感じ、その不安を解消するために、劣弱な自己を擴大修飾して現實の自己以上の見せかけをつくらうとする心理だからである」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。以下の樣に( )を附してみたがいかがであらうか。
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「俗物根性とは、世間(場C”)にたいする自己の關係(D1)に不安(沈湎不安)を感じ、その不安を解消するために、劣弱な自己を擴大修飾(自己擴大慾による自己正當化)して現實の自己以上の見せかけ(適應異常)をつくらうとする心理だからである」。 |
【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】
〔難解又は重要文〕:P272下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「 人は自分の生命にかかはるそんな場合にも、脱線した列車に乗りあはせた特權を誇示し、『得意になつて』その經過を話すものである」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。察するに、以下の邊りの消息を物語つてゐるのではなからうか。
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拙發表文:『人間・この劇的なるもの』�気茲蝓峺朕夕腟繊�自由」のもう一つの側面 個人主義(近代自我)は、ほんのいつときでしかない自分の出場ででも、大みえを切りたい「動きまはる影、あはれな役者」では *宿命(關係)不在=自由=孤獨=自我の不安」から、人間が取る行動とは、「ほんの自分の出場のときだけ、舞台の上で、みえを切つたり、喚いたり、そしてとどのつまりは消へてなくなる。白痴のおしゃべり同然、がやがやわやわや、すさまじいばかり、何のとりとめもありはしない」(『マクベス』)に過ぎぬのではなかろうか。さうした「關係」を喪失した、ただの「動きまはる影、あはれな役者」が「自由」・「個人主義」の實體なのではなかろうか。恆存は言ふ「マクベスの主題は自我の不安」だと・・。
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なほ餘談ではあるが、この項を書いてゐてふと思ひついて調べたら、この『俗物論』の發表は、かの名著『人間・この劇的なるもの』の著作時期(昭和三十年七月號――十二月號。昭和三十一年二月號――五月號)直後の昭和三十一年六月に當たる。故に、笑劇的に記述してゐるこの『俗物論』は、『人間・この劇的なるもの』の上澄み(現象論)とも受け取る事が可能である。そのせいか、小生は無意識的に參考著作として『人間・この劇的なるもの』に眼が向いてしまつた。
【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】
〔難解又は重要文〕:P273上下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「それほどに人間は、誰もかれも、自己擴大慾にかられてゐるのである。(中略)かれはその斷つたことを黙つてはゐられない。あれやこれやを斷つたといふ話を人にせずにはゐられないのである。そのとき、かれは俗物になる。かうして、自己擴大慾は、つねに他人の眼を必要としているのである」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「自己擴大慾」とは人間の抜き難き習性「自己主人公化・自惚鏡:C”」とも言ひ換へる事が出來るのでは(また「ボヴァリズム=さうありたい自己:D1」的慾求とも)。現代人は、ほんのいつときでも舞台の上で大みえを切りたい位、「つねに他人の眼を必要としている」生き物なのである。尚それについては以下の文が參考になるのでは。先述要約すると、「解放されて仕へるべき何物(絶對・全體)をも持たぬ自我の不安」に苛まれる現代人(個人主義者・利己主義者)は、自己主張(自己主人公化・自己擴大慾)してゐなくては氣が休まらぬのだ、と言ふ事になる。
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拙發表文:『人間・この劇的なるもの』�気茲蝓峺朕夕腟繊�自由」のもう一つの側面 個人主義(近代自我)は、ほんのいつときでしかない自分の出場ででも、大みえを切りたい「動きまはる影、あはれな役者」・・・ *「私たちは、平生、自分を全體と調和せしめようとして、それができずに疲れはててゐる。いひかへれば、生理的には必然かもしれぬが、倫理的には偶然な事故にしかすぎぬ死以外に、何の完結も終止符もない人生に倦み疲れてゐるのだ。私たちの本能は、すべてが終ることを欲してゐる」(全體感の希求⇒『人間・この劇的なるもの』参照)。 かかる時、人はマクベスならずとも、「ただ野心(自己全體化C”)ばかりが飛び跳ねたがる」のでは・・。以下のマクベスの心境「人の生涯は動きまはる影にすぎぬ。あはれな役者だ」に個人主義の陥穽が窺へる。 「あすが来、あすが去り、さうして一日一日とこきざみに、時の階を滑り落ちて行く、この世の終りに辿り着くまで。いつも、きのうといふ日が、愚か者の塵にまみれて死ぬ道筋を照らしてきたのだ。消えろ、消えろ、つかの間の灯火!人の生涯は動きまはる影にすぎぬ。あはれな役者だ、ほんの自分の出場のときだけ、舞台の上で、みえを切つたり、喚いたり、そしてとどのつまりは消へてなくなる。白痴のおしゃべり同然、がやがやわやわや、すさまじいばかり、何のとりとめもありはしない」(『マクベス』より) |
【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】
〔難解又は重要文〕:P273下〜4上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「俗物根性が他人の眼を意識することから出てゐる以上、それはあくまで社會的な、あまりに社會的な情念である。自然のなかで、自然とだけ相對して生きてゐる人間のあひだには、俗物を見いだしにくい。(中略)私たちは社會的俗物である以上、どつちに轉んでも俗物たることをまぬかれえない」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「社會的な、あまりに社會的な情念」とは、集團的自我(A)の範疇の情念で、人間が集團的自我(A)を持つ生き物である以上、それがあるのは當たり前(「どつちに轉んでも俗物たることをまぬかれえない」)と言ふことであらう。集團的自我(A)を必要とせず「自然(空間的全體:C)とだけ相對して生きてゐる人間」、即ち「神にのみ從屬する自己(B:個人の純粋性・個人的自我)」 と「C:神・絶對・全體」と「一対一」でゐられる、「イエスやレオナルドダビンチ等の、多くの聖人賢者」yomukaitekisuto.pdf へのリンク(P3〜4)には、集團的自我(A:社會的自我)は無くても生きられる爲、「俗物根性」は存在しにくい、と言ふことなのであらう。此處にも恆存思想の重要項目「自然(C)と個人的自我(B)」の「一対一」の問題がさりげなく提示されてゐる。
【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】
〔難解又は重要文〕:P274下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
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「どちらへ廻つても俗物根性からまぬかれぬといふ今日の實情は、たんに既成秩序が崩壊しつつあるといふ
ことからのみ説明し盡くされるものではない。原因は民主主義にある。さらに遡ればルネサンス以後の平等思想にある。いふまでもなく、平等思想は自由思想と表裏をなすものである。すなはち自己擴大慾を裏に隱しもつてゐる。(中略)過渡期だからばかりではない。自由平等思想そのものにまちがひがあるのだ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。察するに、「自由平等思想そのものにまちがひがあるのだ」とは、自由思想が持つジレンマ「宿命(關係)不在=自由=孤獨=自我の不安」を示し、それを敷衍すれば、前述もしたが、以下文に繋がるのではなからうか。
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「人の生涯は動きまはる影にすぎぬ。あはれな役者だ、ほんの自分の出場のときだけ、舞台の上で、みえを切つたり、喚いたり、そしてとどのつまりは消へてなくなる」(『マクベス』)。 つまり個人主義(近代自我)は、ほんのいつときでしかない自分の出場ででも、大みえ(自己擴大慾=俗物根性)を切りたい「動きまはる影、あはれな役者」なのではと言ふ事になる。 |
恆存はマクベスの内に「神を喪失した近代人の末路」の先取を以下のプロセスで見てゐる。
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〔恆存の言ふ、西歐近代自我(個人主義)の末路〕(參照「テキストP13) 近代=「神の死」即ち「神意(宿命)喪失」 ⇒神の代はりに自己の手による宿命演出:D1⇒自己主張(表現)・自由意思(人間如何に生くべき):D2⇒自己完成(自己主人公化・自己全體化・自惚鏡):C”⇒自己陶酔・自己滿足・自己正當化・自己絶對視・自己證明による「似非實在感」:D3⇒エゴイズム(近代自我の必然)⇒自己喪失(自己への距離感喪失)。 そして畢竟、神の棲まぬ我が國では、個人主義は利己主義に帰結すると言ふ事にも。即ち「神なくして個人の権利を主張しえない。それをあへてなすことは悪徳である」(『近代の宿命』)と言ふ文がそれを示す。 |
�� 「自分がもっとも正當化されえぬときに、自己正當化の衝動は極點に達する。自我擴大慾が平等の看板にぶ
つかつて、すなほに許されぬときにこそ、その慾望はもつとも熾烈化する。結論的にいへば、平等思想が俗物根性を嘲笑するやうになつて、世に俗物は氾濫しはじめたのである。平等思想はなにが社會的優位であるかをあいまいにしてしまつたからだ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。
「平等思想が俗物根性を嘲笑するやうになつて」とは、人間が集團的自我(A)を持つ生き物である以上、「俗物根性」があるのは當たり前(「どつちに轉んでも俗物たることをまぬかれえない」)なのに、「平等思想」が、「角を矯めて牛を殺す」式に、集團的自我(A)が持つ本來的有機性の伸張までをも押し殺した(嘲笑)と言ふ事を指すのであらう。そしてこのテーマは以下の文章(評論『一匹と九十九匹と』)がそれを充分に補足してゐる(特に傍線部分)。
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拙發表文:「『一匹と九十九匹と』の参考資料或はたたき台として」より「 」内が恆存文。 「ひとびとはあらゆる個人的價値の底にエゴイズムを見、それゆゑに個人は社會の前に羞恥する。が、現實を見るがいい――社會正義といふ觀念の流行にもかかはらず、現實は醜惡な自我の赤裸々な鬪爭の場となつてゐるではないか、いや、なほ惡いことに、あらゆる社會正義の裏口からエゴイズムがそつとひとしれずしのびこんでゐる。當然である――いかに抑壓しようとしてもけつして消滅しきれぬ自我であり、それゆゑに大通りの通行禁止にあつてみれば、裏口にまわるよりほかに手はなかつたといふわけである」(全1:P650)。 エゴイズムといふものは「――いかに抑壓しようとしてもけつして消滅しきれぬ自我(集団的自我上の)」であり、それゆゑに大通りの通行禁止にあつてみれば、裏口にまはるよりほかに手はなかつたといふわけである」。社會正義といふ美名のお面を被つた自己欺瞞へ逃げ込むしかないといふこと。即ち正義といふ他者愛(個人的自我)的概念の中に自己愛(エゴイズム:集団的自我上の)を潜り込ませるといふ事である。かうして實證主義(「19世紀的方法論」)は、シェークスピアが「マクベス」にて描出した課題(解放されて仕へるべきものを喪失したことに起因する「自我の不安」)を自我の喪失にまで押し進めそれを實證化した。 |
【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】
〔難解又は重要文〕:P275下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「さうなると、すなほな古典的俗物すなはち『俗物的俗物』が一番俗物根性から遠いといふことになりかねない。既成秩序にせよ、なんにせよ、かれは自分の劣弱性をよく知つてゐて、すなほにそれに寄りかかつてゐる。じつはその『すなほさ』こそ俗物根性からもつとも遠いものなのである。『すなほさ』とは、つまり、自分がゐるべき處にゐるといふこと以外のなにものでもないが、近頃の悪平等の普及のため、世界中どこの國よりも日本において、ことにその知識階級において『俗物的俗物』はめずらしい存在となつてしまつたらしい」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。文中「すなほにそれに寄りかかつてゐる」とは、P272下の「俗物の定義」(以下枠文)の反對の情態を指す。
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「俗物根性とは、世間(場C”)にたいする自己の關係(D1)に不安(沈湎不安)を感じ、その不安を解消するために、劣弱な自己を擴大修飾して現實の自己以上の見せかけをつくらう(適應異常)とする心理」 |
即ち「自分の劣弱性をよく知つてゐて」、「世間(場C”)にたいする自己の關係(D1)に不安(沈湎不安)を感じ」つつも、「不安を解消するために、劣弱な自己を擴大修飾して現實の自己以上の見せかけをつくらう(適應異常行爲)」などはしないと言ふ事を、それは指してゐる。そして「自分がゐるべき處にゐる」とは、「自己欺瞞」しないと言ふ事なのであらう。この文章の言外に、沈湎不安の解消(「すなほな古典的俗物」からの脱却)はかかる自己欺瞞ではなく、「Eの至大化=D1の至大化」(參照圖「歴史・文化・型」について:P1-4rekisi.bunka.kata.pdf へのリンクP3・4)に據るべき、を讀みとる事も可能である。
尚、日本の知識階級は、以下枠文にある特徴「絶對的自己肯定・自己正當化」に見られる如く、それは将に「劣弱な自己を擴大修飾して現實の自己以上の見せかけをつくらうとする」行爲(適應異常)であるが故に、「俗物的俗物」(「すなほな古典的俗物」)からは一番遠いと言ふ事になるのであらう。
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「現實(A)的不滿⇒B:逃げ處としての個人的自我概念⇒C”自己主人公化(自己完成: 絶對的自己肯定)⇔「詩神・護符・後ろ楯の思想:C2」⇒自己滿足・自己正當化(似非生き甲斐・似非實在感)」(參照:PP圖『日本の知識階級』nihontekiseishinshugikouzu.pdf へのリンク) |
【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】
〔難解又は重要文〕:P275下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「いまの私の眼には、その『俗物的俗物』こそが現代最高の美徳であるやうに思はれる。自我擴大慾にせよ俗物根性にせよ、それは私たちのうちから永遠に消えうせぬものである以上、それをへたに抑壓せぬはうがいいらしい」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。即ち「俗物根性・自我擴大慾」=我意(エゴイズム)=集團的自我(A)が本具的に所有する「永遠に消えうせぬ」慾求。それは嚴として人間の内に存在するものである。故に「スペイド(我意・自我擴大慾)をスペイド(我意・自我擴大慾)」として自己欺瞞せずに認めよ、と言ふ事なのであらう。尚それについては以下の文が參考になるのでは・・。即ち「抑壓された我意はゆがんだ權力慾へと噴出口を求める」がそれを示唆してゐて、各種「俗物」は「ゆがんだ權力慾」の範疇に入るのでは。
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「スペイド(我意)をスペイド(我意)とはつきり宣言しないで、自分たちのうちの我意を愛他思想(B)のうちにひつくるめてしまはうとするからこそ、抑壓された我意はゆがんだ權力慾へと噴出口を求めるのである」(「ロレンス著『アポカリプス論』:まへがき」:P39〜40) |
そして、深讀みすれば、恆存は以下の事を言外に謂はんとしてゐるのだとも・・。
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*集團的自我内に必然的に棲息する「俗物根性=自己擴大慾(エゴイズム)」は、「平等思想・自由思想」によつて「へたに抑壓」すれば、更に各種「俗物性」を増殖するばかりでしかない。それを免れるには、集團的自我(A)内に必然的に棲息する「俗物根性」(エゴイズム)を、エゴイズム本來が持つ有機性としての「生の意慾の湧出」「生命力の昂揚(全集:P511)」「すなほな生物の慾望(P507)」「生命慾」へと生き延びさせなければならない、のだと。(參照「職業・權力慾・エゴイズム」shokugyou.kenryoku.egoizumu.pdf へのリンク) *そして更に、恆存の論を探究するとかうなる・・・ 「俗物根性=自己擴大慾」なるものは、集團的自我(A)が本具的に所有する「永遠に消えうせぬ」慾求であり、嚴として人間の内に存在するもの。それは「ボヴァリズム=さうありたい自己」的慾求に繋がるものであり、しいては「自己劇化(D2⇒C)」的慾求にも伸張される要素を内在してゐるものなのである。 しかし、「俗物根性=自己擴大慾」は、ひとたび「自由平等思想」に触媒されてしまふと、以下の二種パターンに變質してしまふのだと・・。 ��
西歐的パターン(以下、個人C”主義の「自己正當化・自己絶對視」によつて増殖する「俗物の氾濫」)
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日本的パターン(以下、利己C”主義の「絶對的自己肯定・自己正當化」によつて増殖する「俗物の氾濫」)
そして、上記の二種パターンを免れるには、敵(誠實對象)を自己(C”)とするのではなく、絶對全體(C)にすると言ふ事、さうすれば「自己は表現せられる」。換言すれば「自己は何處か(C)に隱さねばならぬ」と言ふ事になる。裏を返して言ふなら「神なくして個人の權利を主張しえない。それをあへてなすことは惡徳である」(『近代の宿命』)に繋がる。 つまり、自己を誠實の對象とする事から、「俗物の氾濫」=「俗物根性(自我擴大慾)」の變質が始まるのだと、さう恆存は謂はんとしてゐるのではなからうか。 その陥穽に陥らぬ爲には、やはり此處にも、自我擴大慾(A:權力慾・エゴイズム・集團的自我)の健やかなる伸張を保證する「完成せる統一體としての人格」論が登場するのではなからうか。 |
【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】
〔難解又は重要文〕:P276上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「ただ私は、ときをり、かたはうだけが重荷を背負つてゐるのをみかける」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。 「かたはうだけが重荷を背負つてゐる」とは、個人主義者(利己主義者は勿論)は自分の出場でみえを切る事にだけ執着して、相手の「自惚鏡」には附合はない、と言ふ事を謂はんとしてゐるのではなからうか・・。
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