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平成十八年四月三十日
吉野櫻雲
《遠藤浩一氏著「福田恆存と三島由紀夫『戰後』」を讀む》
注:平成十九年四月二十九日、二頁目の加筆及び修正(赤・黄・傍線部分)
注:以下小生が文中「テキストOO圖」等は以下をご參照下されば幸ひです。
http://www.geocities.jp/sakuhinron/page056.html
(『福田恆存を讀む會』テキスト)
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雑誌『正論』五月號、遠藤浩一氏著「福田恆存と三島由紀夫『戰後』」を讀んだ。その中の、「福田を近代主義者と見做す三島の當てこすりであらう。『福田恆存=近代主義者』といふ規定が妥當かどうかはいづれ檢討するとして、ともあれ三島は、自分と福田の差異を〈日本=傳統〉と〈ソ聯=近代〉の違ひであると喩へてみせた。このことは『福田恆存と三島由起夫』について考へようとするとき、重要なモチーフの一つとなるだらう」(P220)云々を特に興味深く小生は讀んだ。
確かに遠藤氏が留保されてゐるやうに、福田恆存を「近代主義者」と規定する事には小生も異を感じた。と同時に遙か昔三十年位前に、恆存がある講演(「學生文化会議」主催)で言つた言葉が思ひ出された。それは、「三島は自己を近代化することができなかつたから死んだのだ」、と言ふそのやうな内容の發言である。そして、この二人の「(西歐)近代」に對する關係の差異にも小生の思考が及んでいつた。「(西歐)近代」を三島の樣には恆存は拒絶しなかつた、と言ふ事に。
果たして恆存は「近代主義者」であつたか。恆存は三島が言ふ樣には「近代主義者」にはあらず。何故ならば、恆存は「近代」に衰退(デクリネイション)の一様相があると見てゐたからだ(『シェイクスピア』:全集2P22)。そして、「近代化をネセサリー・イーブル(必要悪)」とも捉へてゐた(單行本『生き甲斐といふ事』中、對談『近代化について 』P172)。
その上で、西歐近代の確立と超克とを説いたのである。明治以降日本の物質的近代化を「近代化」の全てと錯誤し、それのみで事足り得、精神的近代化缺如のいはゆる「近代適應異常」の日本に、恆存は警鐘を鳴らしたのである。まずは「精神の近代化(個人主義)」の確立を日本に説き、更に其處に留まらずに、個人主義(西歐近代自我)の限界からの脱皮として、「完成せる統一體としての人格」論を我々に提示したのである。
すでに危殆に瀕してゐる西歐近代自我(個人主義)に對して、「前近代」の精神性に留まつてゐる我々日本人はどうしたらいいか。それについて福田恆存はかく言ふ。
「西歐を先進國として、それに追いつかうといふ立場から、『アジアの前近代的な非人格性を否定し、西歐の近代精神たる個人主義を身につけろといふのではない。それこそ、私のいふ距離感の喪失にほかなりません。私はあくまで西歐の生きかたと私たちとの間の距離を認識しろといつてゐるのです。眼前にある西歐を、(中略)まず異質なものとしてとらへ、位置づけすること、さうすることによつて『日本および日本人』の獨立が可能になるでせう。それを日本人の個人主義の成立とみなす」(『日本および日本人』)と。
そして「日本人の個人主義」の型を以下の如き例への中で展開し、「完成せる統一體としての人格」論として提言するのである。
「一般の日本人は、自分の子供が戰場に駆り立てられ、殺されるのが嫌だからと言つて、戰爭に反對し、軍隊に反撥し、徴兵制度を否定する。が、これは『母親』の感情である。その点は『父親』でも同じであらう、が、『父親』は論理の筋道を立てる。國家(場面)といふフィクションを成り立たせるためは、子供が戰場に駆り立てられるのも止むを得ないと考へ、そのための制度もまたフィクションとして認める。が、彼にも感情がある。自分の子供だけは徴兵されないように小細工するかも知れぬ。私はそれもまた可と考へる。『父親』の人格の中には國民としての假面(役・自己劇化)と親としての假面と二つがあり、一人でその二役を演じ分けてゐるだけの事である。そして、その假面の使ひ分けを一つの完成した統一體として為し得るものが人格なのである。『私たちはしつかりしてゐない』という自覺が、『私たち』をしつかりさせてくれる別次元のフィクションとしての國家や防衛を要請するのである、要するに人格も法も國家も、すべてはフィクションなのであり、迫持(せりもち)、控へ壁などの備へによつて、その崩壊を防ぎ、努めてその維持を工夫しなければならぬものなのである」(P703全6『覺書』)(「テキスト十圖」:參照)
「問題は、すべてはフィクションであり、それを協力して造上げるのに一役買つてゐる國民の一人、公務員の一人、家族の一人といふ何役かを操る自分の中の集團的自己をひとつの堅固なフィクションとしての統一體たらしめる原動力は何かといふ事である。それは純粋な個人的自己であり、それがもし過去の歴史と大自然の生命力(時間的全體・空間的全體:小生注)に繫つてゐなければ、人格は崩壊する。現代の人間に最も欠けているものはその明確な意識ではないか」(全集六P703~4『覺書』)と。
二役のみならず何役(國民の一人、公務員の一人、家族の一人)、を操る「自己劇化」が出来得る人格として、「完成せる統一體としての人格」論がそこに登場するのである。
何役かを操る「自己劇化」を別な表現では、各場面場面で關係的眞實を生かしていくのだ、との内容で言つてゐる。その究極が「完成せる統一體としての人格」なのだと。以下恆存の文を索引しながらその内容を記載する。括弧内は小生注である。(「テキスト十圖及び十一圖」:參照)
何役かを操る各場面でそこから発生する、關係の「眞實を生かすために一つのお面をかぶる(役を演ずる・自己劇化)」「演戯なしには人生は成り立たない。つまり假説なしには成り立たない」。「眞實といふのは、ひとつの關係の中にある。個々の實體よりはその關係の方が先に存在している。人生といふものは、關係(目上⇔目下・親⇔子・師⇔弟子・國⇔國民、等々:加筆)が眞實なんで、一生涯自分のおかれた關係の中でもつて動いてゐる。いろいろな關係を處理していき、それらの集積された關係がその人の生涯といふもの。それを私は演戯だといふ」「われわれがこしらへたものは、相對的であつて絶對ではないといふ原理をちやんと心得て、こいつを絶對化(假説の完璧化・築城の完璧化)しようといふ努力」。(單行本『生き甲斐といふ事』中、對談「反近代につひて」P195・199)
即ち要約すれば、各場面場面(國・企業・夫婦・親子・家庭・兄弟・師弟・友達・他者・等)から生ずる關係の眞實(「誠實・至誠・愛・慈悲」等と言ふ名の宿命)を生かしていく(各場面展開の關係的眞實を生かす:小生的表現)行動の中に、それが典型として「テキスト十圖」の如く「假説の完璧化」が果たせられた場合に、「完成せる統一體としての人格」が現成するのである、と恆存は言ふ。⇒上記黄色文を以下枠文に修正。
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即ち要約すれば、各場面場面(國・企業・夫婦・親子・家庭・兄弟・師弟・友達・他者・等)から生ずる、關係と言ふ眞實(目上⇔目下・親⇔子・師⇔弟子・國⇔國民、等々)。その「眞實を生かすために一つのお面をかぶる(「誠實・至誠・愛・慈悲」等と言ふ名の宿命的役を演ずる:自己劇化)」。さうした行動の中に、しかもそれが典型として「テキスト十圖」の如く「假説の完璧化」が果たせられた場合に、「完成せる統一體としての人格」が現成するのである、と恆存は言ふ。 |
そしてその行爲(宿命/自己劇化)の内に、「真の自由=實在感・全體感(必然感)=幸福感」が齎される。さうした演戯のプロセスの内に、演劇(時間藝術)と同じく、今なすべきことをしてゐる、又は「なさねばならぬことをしてゐる」と言ふ必然感、時間的全體感(實在感)が味はへるのである。そして自己劇化のとるべき最終目的的「迂路」が「全體・絶對」といふ事になる。
真の自己劇化(演戯)とは、「何とかして絶對なものを見いださう」とする行爲である、とも恆存は言つてゐる。即ち、その熱情で關係の眞實を生かしながら、人格を「テキスト十圖」の如く「完成せる統一體」として築城していく行爲と言へるのではなからうか。その事を恆存の別評論にある文章を借りて言へば、「ハムレットは、これが宿命であると納得のいく行爲の連續によつて、自己の生涯を滿たしたいと慾して」ゐた、といふことになる。
此處まで書いてきた時、さう言へば恆存の生き方にも将にこれが貫道してゐるのでは、とはたと小生は思ひ到つた。と同時に恆存の以下なる文章が浮かんできたのである。
「いはばコップから水を飲むことすら完成せる統一體の一構成分子たらしめることだ。文學者とは(中略)たんなる現實の素材に意味的聯關を與へるやう強烈な意識をもつて、その生活を主題的に統一して生きぬかうとする人間のことにほかならない」(全二P297『急進的文學論の位置づけ』)。
をはり
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