平成十九年九月二十三日
九月:選擇評論:全集第二巻所載:『告白といふこと』(「文藝」昭和二十七年七月號)及び『自己劇化と告白』(「文學界」同年十二月號:四十一歳)
此の邊の評論(全集一・二の文學的評論)は、政治評論のみをもつて恆存の真骨頂と理解してゐる趣の人士にとつては、ただ難解で讀むに値しないものと思へるであらう。が、恆存の肉聲と言つてもいい樣な、次の文に静かに耳を傾ける時、戰後、泉の如く湧出した是等評論群が、恆存の熱情と共に、豁然と精彩を放つて、今日の吾々の耳にも届くであらう。「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
①
「それ(西歐的概念)が身につく土壌が日本に缺けてゐるからである。とすれば、さう言ふ土壌(テキストP9圖)に生じた文學や藝術や學問が、或は政治や制度が、もし近代的に見えるとすれば、それは何處かにごまかしがあるに違ひ無い」 (全七P393『醒めて踊れ』)。
②
「我々の血の中には、古い情事の意識が殘存してゐる。(中略)その(西歐近代への適應異常が招く)混亂を分析しなければ、いつまでたつてもわれわれは不當に惱み、不當に傷つかねばならないであらう」(『戀愛と人生』全3P326)。
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そして話は變はるが、今囘選擇評論では多くの「重要文章」の内、以下文章が特に氣になつた。
自己劇化は自己より大いなるものの存在(全體・絶對)を前提として、はじめて存在する。自己は自己を表現しきれぬばかりでなく、自己は自己を劇化しきれない。(何を敵〔仕へる對象、即ち全體・絶對か個人かと言ふ事〕)として選んだかによつて、そしてそれといかにたたかふかによつて、はじめて自己は表現せられる」。
その關聯として、次に「かれら(鴎外・漱石)は封建道徳の背後に道徳(C:天)そのものを見てゐた」(P417下)の文が氣になり出し、更に漱石を調べていくと、松原正著『夏目漱石』の文章が色々と浮かんで來出したのである。
そんな内容を探究してゐるさなかに、「参院選」後の責任追及や「安倍首相退陣」があつた。その前から「年金問題」「政治とカネ」問題があり、因果關係の内にこの二つに繋がつて行つたのだが、この一連の事柄に、我が國民に根ざす政治意識の低位性なるものを、小生は感じざるを得なかつた。そして、その「低位性」の状況を洵に言ひ得て妙なる言を、松原正著『夏目漱石』に發見したのである。
日本人は「金以外はドウデモヨイ」「他力本位」「善惡の別に鈍感な『ドウデモヨイ』の『其時の神道』」の國民である、との言が其處にはある。そして、この言葉は恆存の以下文とも内容は重なつて行くと小生には思へる。傍線部分の低位性が我が國民にあるが故に、「金以外はドウデモヨイ」のお粗末な結果としてそれが顯れるのである。
「自分の中の集團的自己をひとつの堅固なフィクションとしての統一體たらしめる原動力は何かといふ事である。それは純粋な個人的自己であり、それがもし過去の歴史と大自然の生命力(時間的全体・空間的全体・C)に繫つてゐなければ、人格は崩壊する。現代の人間に最も缺けているものはその明確な意識ではないか」(P704全6「覚書」)
(注:此處には二人の思考囘路の相似性なるものが窺えるので、當發表文「P12」でそれも取り上げてみた)
松原の指摘、「金以外はドウデモヨイ」は痛烈である。今般の「年金問題」「政治とカネ」問題に、「金以外はドウデモヨイ」の我が國民性が見事に顯れて、繰り返すが蓋し名言と小生には受け止められた。
日本國民は、自分(被支配者)の金の事になると夢中になり視野が狭くなる。翻つて他人(支配者・政治家)の懐具合については、自分に金が足りないだけに、その反動として過剰に神経質になる(ルサンチマン=怨念、意識がそこに發揮される)。その結果、安倍首相がこの一年に成果を上げた「ハイポリティック(外交・安全保障・拉致問題・憲法改正・教育再生三法・防衛省等)」の分野における活動が皆目見えなくなつた。
我が國民は、その低位性(ロウポリティックにしか目がいかない)を、見事に政治巧者小沢一郎に衝かれ、「生活が一番」に飜弄される結果となつた。「金以外はドウデモヨイ」の馬脚が顯れたのである。メディア、特に「朝日新聞」(安倍との私闘的側面が大なり)のミスリードが小沢の尻馬に乗つて國民を更に蒙昧にさせたのは言ふまでもない(以上はあくまでも小生の見解である。當然、見解を異にする方は居られるであらう)。
松原が評論『夏目漱石』でシニカルに日本國民に當てて書いた『其時の神道』とは、正しくは「儒をもつて治めざれば治まり難きは儒をもつて治むべく、佛にあらではかなはぬことあらば佛で治むべし」(本居宣長:『其時の神道』論からの引用)の事である。それをそのまま今囘政變劇に借用するならば、カネに關して「(安倍)をもつて治めざれば治まり難きは(安倍)をもつて治むべく、(福田康夫)にあらではかなはぬことあらば(福田康夫)で治むべし」と言ひ換へる事が可能となる。政治意識の低位性を際だたせるには格好の表現と言へないか。
恆存の言を借りれば、「相對主義の泥沼」に日本國民は埋没してゐるのである。「自己より大いなるものの存在(全體・絶對・神)」的價値(言はば、神の濟む國の實現化)に、政治も最終的にはその理想を賭けてゐる事に我が國民は氣が附かないのである。西歐近代から發祥した近代民主主義も、その本質は「神に型どれる人間の概念の探究」なのである事が分からない。と言つても餘計分かりにくいであらうから恆存の實文で表現する。
「アメリカを筆頭とする自由主義諸國は、たとへ現状では國際間にまで倫理が通用しなくても、本質的には個人倫理の延長に社會や政治を考へてゐる國です。(中略)個人倫理の次元を、根源的には宗權を國權の上位に置く、すくなくとも同位に置く、人間觀にもとづいてをります」(全三P79『個人と社會』から)
「宗權を國權の上位に置く」と言ふ事が日本人には分からない。だから「金以外はドウデモヨイ」となり、金の問題になると目が塞がれて、國の安危に關する政治課題が見えなくなるのである。重要なので再度書くが、上文の「過去の歴史と大自然の生命力(時間的全體・空間的全體・C)に繫つてゐなければ、人格は崩壊する。現代の人間に最も欠けているものはその明確な意識ではないか」の傍線部分は、その事柄を指摘してゐるのである。
ついでにと言ふよりも重要なので、安倍晋三首相の名譽の爲に、メディア及び國民の誤解を此處に解いておく。
何處のメディアも、安倍首相は退任會見の際「涙ぐんでゐた」と書いて(話して)ゐた。が事實は「涙ぐんでゐた」ではなく「なみだ眼」と言ふ一種の眼病(持病)が當日發症してゐただけなのである。此處にメディアの、将に「目先」の事實に囚はれ、事實關係を探究できない低能力と怠慢、そして偏向性(隠れた惡意)とが指摘出來うる。
實際當日の「なみだ眼(いつも左だけ)」は、以前もしばしばTV画面上に映し出されてゐた。眼科通院も新聞紙上で書かれてゐる(故にメディアは安倍批判の爲に敢へて無視したとも勘繰れる)。その時と同じく、部位は今囘も「左眼」だけであつた。小生は職業柄(東洋療法)故に「是はかうだ」と指摘でき得るのであるが、左だけが「なみだ眼」になるのは、左頚部が極度に凝つてしまうのがその原因なのである(是は眼科では判らない)。
安倍晋三氏は首相就任前からこの眼疾があり、小生は職業的見地から、原因の「凝り」が更に首全體に及び延いては「自律神経失調症」等の精神的疾患にならなければよいが、との心配をその都度感じてゐた。案の定、それが杞憂でなく「機能性傷害」(自律神経失調症と名附ける事も可能)との診断で現實となつてしまつた。
なんたる不運、父子二代、病魔に志半ばとなる「安倍家」の家系的宿命なるものを小生は其處に見、感慨を禁じ得ないのである。
そして日本にも更なる不運。今日(九月十九日)の段階で、ほぼ既成的事實となつた「福田康夫」次期首相には、ただのプラグマチストをしか見る事が出來ず、それが故に結論を先に言へば、今後も日本は「金以外はドウデモヨイ」の低位性から脱出し得ない。多分「經濟効果」は上がるであらう。が、日本は現在よりも確實に惡くなる。それ以外を小生は予測し得ないのである。何故ならば、彼には恆存の指摘する以下の意識が、矢張り精神的に缺落してゐるからである。
「自分の中の集團的自己をひとつの堅固なフィクションとしての統一體たらしめる原動力は何かといふ事である。それは純粋な個人的自己であり、それがもし過去の歴史と大自然の生命力(時間的全體・空間的全體・C)に繫つてゐなければ、人格は崩壊する。現代の人間に最も缺けているものはその明確な意識ではないか」。
そして、その顯著な例として擧げられるのは、「中國の嫌ふ『靖國參拜』はしない」「靖國神社と別施設を造る」と言ふ福田康夫の發想にある。言ふまでもなくそれは「過去の歴史と大自然の生命力に繫つて」ゐないのである。
更に決定的に、彼が自由主義國の宰相として失格である事を證明するものは、以下の事實にある。
福田康夫は官房長官時代、拉致被害の家族(蓮池ハツイさん)にかかる暴言を吐いた。「うるさい!黙りなさい!あんたのところは生きてゐるんでせう」と。
是は先に書いた以下文における、自由主義國の宰相には必要な資質といへる、「本質的には個人倫理の延長に社會や政治を考へてゐる」を、福田康夫は喪失している事を意味する。即ち全てに國權を優先する全體主義國家北朝鮮の「金正日」と同質の精神をしか有してない事を意味するのである。
「アメリカを筆頭とする自由主義諸國は、たとへ現状では國際間にまで倫理が通用しなくても、本質的には個人倫理の延長に社會や政治を考へてゐる國です。(中略)個人倫理の次元を、根源的には宗權を國權の上位に置く、すくなくとも同位に置く、人間觀にもとづいてをります」
更についでに、「小沢一郎」と「安倍晋三」との差を記しておく。
かつては「保守のエース」とも言へた「小沢一郎」に、その昔日の面影は今はない。あるのは「是がもう最後」と斷崖絶壁を背にした老兵、「權謀術數」の權化となつた策士の姿である。
「参院選」も含め、近い将来に豫測される「總選擧」で、權力簒奪に打つて出る小沢の戰法は、「どんな方法でも勝てばいい」である。民主黨が勝ち自分が首相にのし上がるには、共産黨とでも手を握らんとする無節操が其處にはある。
「安倍晋三」首相が、保守本道としての王道をこの一年貫いたに對して、小沢一郎は勝てばいいの「霸道」に終始した。この歴然とした差を相撲の世界に比して見ると更にそれが際だつ。
「どんな手でも勝てばいい」の小沢は、言ふまでもなく畜生相撲の「朝青龍」であり、それに引き替へ「安倍晋三」は、「相撲道」の本道王道を構築せんとした、かつての横綱「貴乃花」と竝べて見る事が出來るのである。
それを何を血迷つたか、「稲垣真澄」なる評論家は、産経「論壇」で同じく愚昧なる口舌の徒「長山靖生」の文を惹き、「安倍晋三」を「朝青龍」と同一に論じてゐた。
この口舌の徒等は、「安倍晋三」首相が何故に病院へ担ぎ込まれる前に「退陣會見」をしたか、その意味が理解出來てないのである。彼等の日本人的DNAとも言へる「浪花節的あたま」の輕さでは、「首相が志し半ばで倒れ、救急車で入院!」の速報にしか、そのあたまが働かない、心が動かされないのである。現象に本質を見失つた救ひがたい愚かさが此處に讀み取れる。
安倍晋三は、前首相「小渕恵三」の如く(彼の場合は死亡してしまつたのだが)、「入院」してその結果政權から離れると言ふ、同じ轍を踏む事に對して、それを潔しとしなかつたのである。安倍首相の眞意はかうだ。彼は過日オーストラリアだつたかで、「『テロ特措法』に命を賭ける」と表明したのであるから、病で結局それが出來なくなつたのが判明した結果として、「入院」前にそれを明言し、他者に「テロ特措法」の今後を委ねたかつたのである。ただそれだけなのである。それが蒙昧な輩には解らない。
ああ、やんぬるかな!日本は、「福田康夫」と「小沢一郎」で何處までも落ちていく・・・。そして、中國がお手々を差し伸べて待つてゐる。
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〔以下は、吉野櫻雲發表文〕
と言ふ事で、今評論も中々の難解にしてかつ手ごはく、そしてどの文章も重要なのであるが、特に以下内容文を此處に取り上げる事とする。更にいつもの如く難解なる内容については、手助けを他評論に仰ぐこととする。(以下文中傍線及び括弧内は概ね吉野附記。「P9圖」云々は「讀む會テキスト」頁を表す。「A・B・D2」等も同テキスト三頁を參照の程)
まず、實文に触れる前に、此處で使用されてゐる言葉の概念的整理をした方が、分かりやすいと思ふので以下記載する。
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以下はいずれも、「關係・宿命・D1」の概念として *旧限定・・・旧規範・あるがままの自己・世間道徳(規範)的自己・限定的自己・宗教的規範 *無限定・・・無限定の自己・「自己の魂の無垢を主張」・「解放されて仕へるべきものを喪つた自我の不安」・「自己(C”)の無垢を證明するものは、自己以外のなにものか(C)であつて、自己はそれをなしえぬ(P415上)」 *新限定・・・新規範・「何を敵(仕へる對象としての全體・絶對:C。そこから出現する新限定=關係:D1)として選んだかによつて、そしてそれといかにたたかふ(自己劇化:D2)かによつて、はじめて自己(C”)は表現せられる(著作物)」 |
選擇評論Ⅰ『告白といふこと』
〔難解又は重要文〕:P403下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「近代文學の根が淺いといふよりは、近代そのものの把握のしかたが淺いのである。(中略)もとをただせば、近代即歴史といふ錯覚」云々・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。上記の理解に當たつては以下の文が參考になるのでは。
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拙發表文:『近代の宿命』より抜粋 「歴史を持つ社会は、自ら回復しえぬやうな病ひをけつして背負ひこまない。歴史の意識をヨーロッパにはじめて植ゑつけたものが中世であり、そのクリスト教にほかならなかつた。ギリシャに歴史はない。――絶対者のないところに歴史はありえないのである。統一性と一貫性との意識が人間の生活に歴史を付与する(即ち「テキストP5~8圖」の変遷)。とすれば、ぼくたち日本人がヨーロッパに羨望するものこそ、ほかならぬ近代日本における歴史性の欠如以外のなにものであらうか。今日ぼくたちは近代の確立をなしえなかつた事を反省してゐる。が、そのまへにぼくたちはぼくたちの中世をもちえなかつたことについてくいるべきではなからうか――ぼくたちがぼくたちの神をもちえなかつたことを。日本の近代に對する反省がただ近代にのみとどまり、中世にまで思ひ及ばぬとすれば、ぼくたちは依然としてヨーロッパと日本との落差についてなにごとも知りえぬままにとどまるであらう」(全二P460『近代の宿命』)。 上記の「統一性と一貫性」とは、「テキストP5~8圖」における三角圖とC(神・絶對)との關係。そして西歐は、AB分離線(精神の政治學)の下降(変遷)のみがあつたといふ事に、その歴史性(統一性と一貫性)の存在が證明されてゐると言ふことである。 |
【上記項目についての質疑應答】
〔難解又は重要文〕:P404上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「歴史は書割ではない。(中略)が、ひとびとは、近代が近世に、さらに近世が中世に、暗く下半身を没してゐる、その接點をとらへることをしない」~~下段まで云々・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。上記の理解に當たつては以下の文が參考になるのでは。
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拙發表文『乃木将軍と旅順攻略戦』より抜粋 「歴史、殊に戦史に対して断定は禁物と信じてゐる。(中略)司馬、福岡両氏に対する疑問は、両氏共に恰も旅順攻略戦に加つた者の如く、しかも乃木将軍の戦略を責め、福岡氏の如きは『愚将』とまで決め附けてゐる点である。が、歴史に対しては私達は飽くまで謙虚でなくてはならぬ。結果から是非を論ずるのは易しい」(『乃木将軍と旅順攻略戦』全6P114)。 「歴史に附合へば附合ふ程、首尾一貫した因果の直線は曖昧薄弱になり、遂には崩壊し去る。そして吾々の目の前に残されたのは點の連續であり、その間を結び附ける線を設定する事が困難になる。(中略)が、歴史家はこの殆ど無意味な點の羅列にまで迫らなければならぬ。その時、時間はずしりと音を立てて流れ、運命の重みが吾々に感じられるであらう」(同P116)。 「歴史家が最も自戒せねばならぬ事は過去に対する現在の優位である。吾々は二本の道を同時に辿る事は出来ない。とすれば、現在に集中する一本の道を現在から見透かし、ああすれば良かつた、かうすれば良かつたと論じる位、愚かな事はない。(中略)當事者はすべて博打をうつてゐたのである。丁と出るか半と出るか一寸先は闇であつた。それを現在の『見える目で』で裁いてはならぬ。歴史家は當事者と同じ『見えぬ眼』を先ず持たねばならない」(同P115)。 (これは今般の「イラク戦争」にも、ある面において適應する事でもあらう) 「(わたしは)合鍵を以て矛盾を解決した歴史(即ち司馬、福岡の余りにも筋道だつた旅順攻略戦史)といふものにほとほと愛想を尽かしてゐる」(同P116)。 |
【上記項目についての質疑應答】
〔難解又は重要文〕:P405上~全部「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「かれら(鴎外・漱石)は兩者(人生と文學)の斷絶にたへた。のみならず、彼我(西欧と日本?)の斷絶にたへる精神は、過去(江戸)と現在(明治)と、あるいは現在と未來との斷絶にもたへたのである。鴎外と漱石とにおける藝術と生活との斷絶の秘密はそこにある」云々~~「二葉亭」云々~~「(鴎外・漱石)は建設の惡にたへた」云々・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。上記の理解に當たつては以下の文が參考になるのでは。
① 「建設の惡にたへた」云々の「建設の惡」とはかう言ふ事では。「カエサルのことはカエサルに聞け」、或は恆存が言ふ「處世術(A)の事は處世術で對處」、即ち實證精神による「A的客體化(A←A’)」に伴ふ、「必然惡(・・からの惡?)」及び「必要惡(・・への惡)」の事を、それは意味しているのではなからうか。そして是については以下の文が參考になる。
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拙發表文:『進歩主義の自己欺瞞』P178下~評論最終。より 「もし進歩が必然惡ならば、進歩主義は萬能藥にはなりえまい。自由も個人もその必然惡(「・・からの惡」?)として自由主義、個人主義を生じた。民主主義にしても議會主義にしても同じことではではないか。(中略)民主主義もまた必然惡であることを知らねばならぬし、何事にも必然惡が伴ふものである以上、それを廻避するには何が必要かを深刻に考へなければならないはずだ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「必然惡」と必ずしも同意ではないが似た用語で、恆存は「近代化をネセサリー・イーブル(必要惡)」と捉へてゐる(注:必要惡は「・・への惡」「・・の爲の惡」と捉へられるのでは?)。又進歩は歴史の必然とも。 |
【上記項目についての質疑應答】
② 更に「かれら(鴎外・漱石)は兩者(人生と文學)の斷絶にたへた」云々とは、以下の文が參考になる(次の選擇評論『自己劇化と告白』の先取りになつてしまふが)。
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拙發表文:《「口邊に苦笑をうかべる」東西文人:その時代的差異》(P13より)。一部加筆 恆存は言ふ。鷗外は「建設や生産(A←A’の實生活的客體化)にともなふ社會惡、國家惡、人間惡に」「手をそめ、みずからそれを隠蔽することによつて無視し、それにたへてゐた」と。 即ちそれはどういふことを意味するかと言へば、幕府封建体制の殘滓を引きずつた、明治の「旧規範」及び「社會機構:A」の要請に從ひ、鴎外は「處世術(A)の事は處世術で對處」せんと、「建設と生産」のA的客體化を行ひ、さうする行爲で世の批判(戈先)をかはした事をそれは示す。 しかも、日本の自然主義作家の様には「文明開化の出世主義(A)のネガティーブな吐け口」として文學(B)へ逃げもせずに、鴎外はあへて「個人を否定してくる社會機構(A)」に晒されてゐたのである。さうした現實にゐる時、そこに自ずと「口邊に苦笑を浮かべる」行爲が出て來るのではなからうか。時代の社會機構(前近代)の現實に身を切らせ(A的客體化:A←A’)ながら、しかも、かつてはあつて今は失はれた夢想(C:儒教道徳・武士道)に激しく胸を焦がしてゐる時、人は自ずと「口邊に苦笑を浮かべる」事になるのでは。(參照:全二P417『自己劇化と告白』。同P407『告白といふこと』)。 恆存の言ふ、「人生はつねにアイロニーをその底にひめてゐる。ただそれがたまたま他の時代よりも現象的にあらはになる時代があり、またさういふ場合がある」が、將に鴎外の其の時に當て嵌まるのである。 精神的(B)には「無限定の自己(規範喪失)」の情況下において、しかも實生活(A)では「旧規範・旧限定」(「封建体制」殘滓の明治)に束縛されてゐる時、その中で更に「新限定」(新規範・文學:「個人的自我B」の可能性)を創出せんとするには、以下の行動(傍線部分)を鴎外は取らざるを得なかつた、と恆存は言ふのである。 旧規範・旧限定と戈を交へる事なく(即ち「建設と生産」と言ふA的客體化を行ふ事)、「處世術(A)の事は處世術で對處」すべく、公人としてするべき事(A←A’)をしながら、「たえず自己を限定し捕捉しようとして迫つてくる規範の監視の眼から逃れる」やうに鷗外はたへた。即ち、公人として「(建設と生産の)惡に手をそめ、みずからそれを隠蔽する(行ふ)ことによつて無視し、それにたへてゐた」のである。惡にたへると言ふ事は、「旧規範」に自己を晒しながらしかもそれに膝を屈せず判斷保留し、「選ばれてあるものの責任であり、渦中にあつて生きるものの意志的行爲」として義務を果たす事。それによりかへつて「戈をまじへる事なく」、旧規範・旧限定から自己が隠蔽されるのである。公人の生活(A)を旧規範に晒しながら、しかも「自己(藝術的側面、個人的自我:B)を秘めなければならない。可能性を大切にするからだ」。「なぜなら表現しようとする自己(B)は、つねに世間道徳や、宗教や觀念によつて限定され、それに膝を屈しようと用意してゐるから」であると恆存は言ふ。(參照『自己劇化と告白』全二P405~413) 同評論上で「告白の眞實性は生活(A的客體化:A←A’)を通じて(惡を)隠しとほすことによつて保たれる。藝術は惡から汚水を吸いあげて美しい花を咲かす」(P407)、とも恆存は言つてゐる。即ち、日本の自然主義作家の取つた態度、「文明開化の出世主義(A)のネガティーブな吐け口」として文學(B)へ逃げた自己欺瞞からは、「告白の眞實性」は保たれないと言ふのである。「藝術(B)は惡から汚水を吸いあげて美しい花を咲かす」とは、「處世術(A)の事は處世術で對處」「カエサルのことはカエサルに」で、集團的自我(A)上で客體化できる事は全て其處で處理し、さうする事で個人の純粋性(B:個人的自我)から夾雑物を剔抉し、その静謐を守る事を意味してゐるのではなからうか。さうする事で、個人の純粋性は以下の事が可能となる。即ち、「惡(必然惡・必要惡)を明確に自覺すること、そしてそれにたへることにおいても明確な自覺を把持してゐること――このほとんど自動的ともみえる無償の倫理的意思(とは、「神なくして個人の権利を主張しえない。それをあへてなすことは悪徳である」と同意?)を通じて、ひとははじめて文學的表現(B)に道を通じうる」(P411下『自己劇化と告白』)。それが可能になるのだと恆存は言ふのである。 この邊の表現は、フローベールについて謂ふ表現、「彼等は甘んじて、『十九世紀の個人主義的リアリズム』による自我の否定にさらされながらも、『つひに否定し扼殺しきれない個人の純粋性(B)を發見することを念じて』ゐた」(全二P269『作品のリアリティーについて』)に近似して來る。⇒「テキストP8圖」參照。 更に、同じくそこで表現してゐる以下の樣な内容、即ち「フローベールの文學行動は、『一分の隙もない天窓』に追ひつめられたアイロニー的情況に閉じ籠もりながら、しかも『つひに否定し扼殺しきれない個人の純粋性(B)を發見することをひたすらに念じるが爲なのである』」(恆存文:要約)云々の内容に繋がつて來る。是等の謂ひは上記傍線部分の換言であり、将に東西、彼我の差を超えた「藝術」の真骨頂なるものを、恆存は此處で我々に傳へて呉れてゐる樣に思へる。 此處から察するに、鴎外、漱石は西歐体験で確實に「個人主義文學」(テキストP8圖)なるものを身につけて來たのだと、想像を巡らす事が可能となる。 |
【上記項目についての質疑應答】
〔難解又は重要文〕:P405下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「有機的秩序」云々・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。上記の理解に當たつては以下の文が參考になるのでは。
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封建制度時代(前近代):集團的秩序の確立してゐる時の職業(拙發表文『職業としての作家』より抜粋) 「封建的な支配關係の秩序は職業的身分の確立により、上から下への權力の流れに沿つて集團的自我を解放してゐた。この秩序に安心してもたれかかつてゐたため、個人的自我はその上に純粋な成長をなしえた」P547。・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。即ち、かう言ふ事では。 集團的自我上における職業にて、「上から下への權力の流れに沿つて」、そこの場から要求される「關係を形ある『物』にして見せる」といふ仕事(宿命/自己劇化)を行ふ事によつて、封建的な支配關係の「背後にある道徳:C」に、個人的自我は繋がる事が出来得るといふ事なのである。そこに個人的自我の目的である「自己完成」は道徳(C)にと繋ぐ事が果たし得る。「純粋な成長」とはその事をいつてゐるのである。(注:「背後にある道徳」は『自己劇化と告白』から:P417) さうした「集團的秩序の確立してゐるところに職業はいささかの動揺も感じない」。即ち江戸時代なら、「封建的な支配關係の秩序」的構圖が集團的自我上で、上昇形式のよつて上に伸びていき、しかもそれが儒教道徳(C)へ繋がっていると言ふ安定感・安心感があり得たと言ふ事。別な言ひ方をすると、儒教道徳の「天(C)」から集團的自我上への宿命(天意:關係)的權力の流れに對して自己劇化・演戯が出來たと言ふ事。 そのやうに、「職業とは集團的自我の生きんとする通路であるが、より重要なことは、この通路が充分に開かれてゐることによつて個人的自我の平静と純粋とが保たれるといふ事実なのである」。それに引き替へ、 とは何を意味するか・・・重要項目。 即ち封建制度時代(前近代)では、職業を通して自己完成の通路(個人的自我)も開かれたと言ふ事を示す。 職業上における権力慾の「自己劇化」が、構圖的終着點としての「背後にある全體(C:天・神等)」に繋がり得る安定感がある事によつて、個人的自我も「自己完成」の共演が権力慾の「自己劇化」の内に圖れると言ふ事を示してゐる。個人主義においては、さうした「自己を何處かに隠す」隠し場所がない、と言ふ事である。何故ならば目的到達點は「自己」であるから。 そして大事な點は、「テキストP8圖」(西欧個人主義《近代自我》構圖)でも「テキストP9圖」(日本的精神主義構圖)でも、自己完成の通路(個人的自我の通路)は閉ざされ、そこでは「権力慾」も歪曲される、と言ふ事だ。西欧個人主義《近代自我》は以下のメカニズムのジレンマから脱出し得ない。「全體・絶對」を喪失したが爲に近代では(現代も)、上記の「有機的」關聯を職業は喪失し、ただの「貸借精算の場」と化した、と恆存は指摘する。
そして、「完成せる統一體としての人格」的構圖(「テキストP10圖」)において、上記「集團的秩序の確立してゐる時の職業」の問題は解決しうると恆存は言ふのである。即ち、集團的自我の解放による権力慾の有機的成長と、そして個人的自我もその上に純粋な成長をなしえると。何故ならば「背後にある道徳:C(絶對・全體)」がその構圖を支へ得るからである。 追記するならば、「自己を何處かに隠さねばならぬ」の謂ひは、構圖を支へる全體(C:道徳=天・神・佛)へ隠すの意である。 |
【上記項目についての質疑應答】
〔難解又は重要文〕:P407上~下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「建設や生産にともなふ惡からひとたび身をひいてしまつたものには、もはや告白すべきなにものもない。(中略)告白の眞實性は生活(A的客體化:A←A’)を通じて(惡を)隠しとほすことによつて保たれる。藝術は悪から汚水を吸いあげて美しい花を咲かす。(中略)それは生そのものの秘密である」云々・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。
私小説家(近代日本知識人も:P406下參照)のパターン「テキストP9圖」では、A⇒B逃避の爲、集團的自我上(A:支配・被支配の自己)で染めた「手の汚れ?:A」の告白は一囘しか使用出來ず、後は、「藝術家(B)である事の保證を目的とする私小説」家への転落から發生する「藝術家小説(B領域)」の書けぬ惱みしかなく、「もはやA上の告白すべきなにものも」なくなつてしまつた、と言ふ事では(參照:『獨斷的な餘りに獨斷的な』)。
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選擇評論Ⅱ『自己劇化と告白』
〔難解又は重要文〕:P412上~「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「惡にたへるといふことは、世のあらゆる規範(旧規範)にたいして判斷保留をすることである。規範といふ規範(旧規範)にむかつて『否』といふことである」云々・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。
それについては要約(P412~3を)すると、恆存は以下の樣に書いてゐる。「旧規範」に自己を晒しながらしかもそれに膝を屈せず判斷保留し、「選ばれてあるものの責任であり、渦中にあつて生きるものの意志的行爲」として義務を果たす事。それによりかへつて「戈をまじへる事なく」、旧規範・旧限定から自己が隠蔽されるのである。公人の生活(A)を旧規範に晒しながら、しかも「自己(藝術的側面、個人的自我:B)を秘めなければならない。可能性を大切にするからだ」。「なぜなら表現しようとする自己(B)は、つねに世間道徳や、宗教や観念によつて限定され、それに膝を屈しようと用意してゐるから」と。
〔難解又は重要文〕:P412下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「われわれが敵(自己を超えたる場:C)としてなにを選んだかによつて、そしてそれといかにたたかふ(宿命/自己劇化)かによつて、はじめて自己は表現せられる(創作對象に)のだ。・・」云々・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。それは、以下の能動となつて顕される。
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敵(自己を超えたる場C:例「天」)⇒關係・宿命(D1例:天命)⇒自己(C”)の活動(例:歴史小説・史傳)(別紙naniwotekitositeerandaka.pdf へのリンク表參照) 實生活(A)では「旧限定(旧規範)」「あるがままの自己」にさらしつつそれにたへる=⇒更に精神的(B)には「無限定性の自己(宿命・規範・D1喪失の自己)」にたへる。「自己を惡人として限定してくれるものの『缺如』にたへる」。即ち「自己の可能性に賭ける」=⇒その二つにたへながら、ついにBによる「敵:C」の發見、即ち明治に殘存するいはゆる「封建道徳の背後に道徳(C:天)そのものを」鷗外は見ると言ふ事。=⇒それは「新限定・新規範・眞宿命D1(天命)」の出現を意味する。=⇒そこから「C”:表現せられるべき自己」即ち文學的行動「歴史小説・史傳」が表現せられる。 即ち以上を換言するなら、 大主題(C)の發見⇒中主題(C”文學:歴史小説・史傳)の創造⇒小主題(義=仇討ち=『護持院原の敵討』・忠=切腹=『堺事件』・考=『高瀬舟』・全般=『渋江抽斎』等々)の創作と言う能動となる。 |
上記の事柄を、一部恆存の文を借りて更に詳しく述べるなら、
精神的(B)には「無限定の自己(規範喪失)」の情況下において、しかも實生活(A)では「旧規範・旧限定」(「封建体制」殘滓の明治)に束縛されてゐる時、その中で更に「新限定」(新規範・文學・「個人的自我B」の可能性)を創出せんとするには、以下の行動(傍線部分)を鴎外は取らざるを得なかつた、と恆存は言ふのである(重複部分があるがお許しを)。
旧規範・旧限定と戈を交へる事なく(換言すれば、「建設と生産」と言ふA的客體化を行ふ事)、更に「處世術(A)の事は處世術で對處」すべく、公人としてするべき事(A←A’)をしながら、さうする事でかへつて鷗外は、「たえず自己を限定し捕捉しようとして迫つてくる規範の監視の眼から逃れる」やうにたへる事が出來た。即ち、公人として「(建設と生産の)悪に手をそめ、みずからそれを隠蔽する(行ふ)ことによつて無視し、それにたへてゐた」のである。惡にたへると言ふ事は、「旧規範」に自己を晒しながらしかもそれに膝を屈せず判斷保留し、「選ばれてあるものの責任であり、渦中にあつて生きるものの意志的行爲」として義務を果たす事。それによりかへつて「戈をまじへる事なく」、旧規範・旧限定から自己が隠蔽されるのである。公人の生活(A)を旧規範に晒しながら、しかも「自己(藝術的側面、個人的自我:B)を秘めなければならない。可能性を大切にするからだ」。「なぜなら表現しようとする自己(B)は、つねに世間道徳や、宗教や観念によつて限定され、それに膝を屈しようと用意してゐるから」であると恆存は言ふ。(參照:『告白といふこと』及び『自己劇化と告白』全二P405~413)
更に、上記の理解に當たつては以下の文が參考になるのでは。
「自己劇化は自己より大いなるものの存在(全體・絶對)を前提として、はじめて存在する。自己は自己を表現しきれぬばかりでなく、自己は自己を劇化しきれない。(何を敵〔仕へる対象、即ち全体・絶対か個人かと言ふ事〕として選んだかによつて、そしてそれといかにたたかふかによつて、はじめて自己は表現せられる)」(P415)
〔難解又は重要文〕:P413下~4「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「ある。成る・・」云々及び「ジッドがいふやうに、(無限定の)自己は在るのではなく、成るのである。いひかへれば、成ることによつて、はじめて(無限定の自己は)存在しうるのだ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。どうも恆存は、「成る」とは「表現せられるべき自己」(上枠文參照)の事を言つてゐる樣である。その理解に當たつては以下の文が參考になるのでは。
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拙發表文『獨斷的な餘りに獨斷的な』P7~8より抜粋 〔別紙(パワーポイント)參照〕 恆存は言ふ。「無限定の自己」の情況下においては、「ある」ではなく「成る」が追究されるのであると。そして「何を敵として選んだかによつて、そしてそれといかにたたかふかによつて、はじめて自己は表現せられる(成る)」のであると。「自己劇化は自己より大いなるものの存在(全體・絶對)を前提として、はじめて存在する。自己は自己を表現しきれぬばかりでなく、自己は自己を劇化しきれない」(『自己劇化と告白』全二:P415)のだと言ふ。日本自然主義作家達の自己確認(セルフ・アイデンティティー:似非D3)では「成る」は確立出來ない。自己確認では「自己は自己を表現しきれぬばかりでなく、自己は自己を劇化しきれない」のだと恆存は言ふのである。繰り返すならば、「何を敵(仕へる對象としての全體・絶對)として選んだかによつて、そしてそれといかにたたかふかによつて、はじめて自己は表現せられる」のである。明治日本はもとより現代日本も含め、そして更には西歐近代(個人主義の限界)も含めて、神(絶對・全體)喪失の「無限定の自己」の時代、換言すれば「解放されて仕へるべき何をも持たぬ自我の不安」(全2:『シェイクスピア』P27)の時代、かかる現實世界で全體感、實在感を獲得するには、上記の「成る」が要求されて來るのである。とその樣に恆存は言ふのである。叉この重要な問題に關しては以下の文が大いに參考になるのでは。 一つは當評論後述の恆存文、「『自己は在るのではなく、成るのである』といふジッドの言葉は、自己は無限定のものであり、捉へ難いものであるといふ自我の相對性、或はその基盤の喪失の認識から生じたものである」(P553下)。そしてもう一つは、二十二年溯つて(昭和二十七年著)の『自己劇化と告白』の文章、「ジッドがいふやうに、(無限定の)自己は在るのではなく、成るのである。いひかへれば、成ることによつて、はじめて(無限定の自己は)存在しうるのだ。あるがままの自己(旧限定の自己)とは、つまりは世間、あるいは世間の承認した規範によつて限定された自己といふことにほかならず、それを信じるといふことは、とりもなほさず世間を信じるといふことでしかない。自己の可能性に賭けるもの(恆存の言に從ふなら鴎外・漱石・ハムレット)にとつて、このやうな輕信が許されるわけがない。意識家の眼は(ハムレットの樣に)、自己のうちにつねにあらゆるものに成りうる自己を見てゐるだらう。(中略)なにかになるためには動かなければならぬ。自己は動かねばならぬ。かうして自己劇化に専心する」(全二:P411~4上『自己劇化と告白』)。この樣に二十二年を経て當評論『獨斷的な餘りに獨斷的な』の舞台に、恆存はこの重要なテーマを最登場させている。 |
【上記項目についての質疑應答】
〔難解又は重要文〕:P414下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「作家にとつて、誠實とは自己にたいする演劇にすぎぬ(ヴァレリー)」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。それは自己の「思想(夢想・C的なるもの)に自己を賭ける」と言ふ事なのでは。何故なら恆存は「誠實とは對他的概念」であり自己に誠實」とは欺瞞云々と書いてゐるのであるから。
〔難解又は重要文〕:P415上下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「ルソーの流れを汲んだ近代作家たち~~實證主義の宿命であらう。~~ことば以外のなにものをも信じられぬ。~~近代文學はなにを失つたか」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。上記の理解に當たつては以下の文が參考になるのでは。
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拙發表文『一匹と九十九匹と』から抜粋。一部加筆 *現実を正しく認識しようといふ、実証主義或は実証精神は、その手段の徹底化のあまり、「現実のうちに正しく生きよう」といふ人間の内にある素朴なる欲求(目的)を無視し、そこからかけ離れてしまつた。とその事柄を、福田恆存は以下のやうに述べてゐる。 「自然を、現実を正しく認識するのは、自然のうちに、あるいは現実のうちに正しく生きようといふ目的のためにほかならない。近代が――ことに19世紀が、この手段を目的から独立せしめ、それ自体の自律性を獲得せしめたのである」 「現実を正しく認識しようといふのは、自分の目のまへに自分から離れたものとして真実を設定しようといふことであり、現実のうちに正しく生きようといふのは、現実とのかかはりにおいてみずからが真実にゐようといふことであつて、両者はおのづから別個のことがらである」(「作品のリアリティーについて」より。全2:P266~) *そして、フローベール又は彼等(ボードレール・ニーチェ・ドストエフスキー・ロレンス)は、実証主義(自然を、現実を正しく認識する)が到達した近代自我(個人主義)の敗北の上に、更に生き延びる、「個人の純粋性・個人的自我」と関係を保つ絶対・全体に超近代の夢を繋いだのである。「正しく生きよう」といふ夢想をそこに。 |
【上記項目についての質疑應答】
〔難解又は重要文〕:P415上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「ルソーのとつた手つづきはかうである。第一に、世間道徳~~云々。第二に自己の魂の無垢を主張。第三に自己の無垢を證明するものは、自己以外のなにものかであつて、自己はそれをなしえぬといふ信仰」云々・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。
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「第一に、世間道徳」とは、旧限定を指す。「第二に自己の魂の無垢を主張」とは「無限定の自己」を指す。そして、「第三に自己の無垢を證明するものは、自己以外のなにものかであつて、自己はそれをなしえぬといふ信仰」云々とは、「新限定」を指してゐる。その意味からして鴎外・漱石と同一線上でこの問題を恆存は追究してゐると言へる。 |
〔難解又は重要文〕:P415下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「自己劇化から更に脱出しようとする衝動」云々・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。ますます難解な處であるが、以下の事を言つてゐるのではなからうか。
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自己の手による自己完成を目的とした、個人主義文學(「自己劇化の美學の完成」)の自己劇化は真の自己劇化ではない。個人主義文學は「自己劇化といふものの限界」を忘れてゐると恆存は言ふ。そして「自己劇化は自己より大いなるものの存在(全體・絶對)を前提として、はじめて存在する。自己は自己を表現しきれぬばかりでなく、自己は自己を劇化しきれない」(P415)と。即ち「自己は自己を劇化しきれない」。個人主義文學の限界が其處にある。 故に、「自己より大いなるものの存在(全體・絶對)」へと、「(自己に向けての)自己劇化から更に脱出しようとする衝動」を併せ持つ事によつて、その時、兩者相互間の「轉化の瞬間によつてのみ、はじめて(眞の)自己劇化が成立するのだ」、と恆存は言つてゐるのであらう。 |
此の邊は上述枠文拙發表文『獨斷的な餘りに獨斷的な』P7~8より抜粋を再度參照されたし。
〔難解又は重要文〕:P416下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「繪にもことばにも裏切られてゐるゴッホの無垢な魂の焦燥」云々・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。是「無垢な魂」は、「P415上」のルソーについて謂ふ「「第三に自己の無垢を證明するものは、自己以外のなにもの(C)かであつて」の「自己の無垢」と同意である。それは「なにもの(C)か」を把捉しきれてゐない、無垢な魂の「無限定」状態を意味し、さうしたゴッホの「焦燥」(「無限定の自己」)を言つてゐるのではなからうか。
〔難解又は重要文〕:P418下~9「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「自己劇化とは、この善と惡との両極のあいだに身を處し、兩者の間隙をますます押しひろげるやうに激しく運動しつづけることであり、告白とは・・」云々・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。是は、〔難解又は重要文〕:P415下項目の、「自己劇化から更に脱出しようとする衝動」で言つてゐる事と同意であらう。
〔難解又は重要文〕:P419下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「惡の自覺なくして、どうして個性がありうるか」云々・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。是は、エゴは原罪(クリスト教)と言ふ事を謂ひ、「神なくして個人の権利を主張しえない。それをあへてなすことは悪徳である」(『近代の宿命』)と言ふ文と關聯して捉へられるのでは。
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參考:〔福田恆存「漱石」論と、松原正著『夏目漱石』との相似性〕「 」内が著者。( )内は吉野注。
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福田恆存:以下「(旧・無・新)限定」云々は、「關係・宿命・D1」の概念。 |
松原 正:評論『夏目漱石』よりの言文。 |
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「あるがままの自己」 ⇒ 旧限定・旧規範・旧規範・世間道徳(規範)的自己・限定的自己・宗教的規範。 *「自分の中の集團的自己をひとつの堅固なフィクションとしての統一體たらしめる原動力は何かといふ事である。それは純粋な個人的自己であり、それがもし過去の歴史と大自然の生命力(時間的全体・空間的全体・C)に繫つてゐなければ、人格は崩壊する。現代の人間に最も欠けているものはその明確な意識ではないか」(P704全6「覚書」) |
「ドウデモヨイ」の自己 日本國民は「ドウデモヨイの『其時の神道』」。「金以外はドウデモヨイ」「他力本位」(即ち集團的自我上の相對主義に埋没してゐると言ふ事。左記黄色部分との關聯的相似性が窺へる)。 *「我が國の正統は善惡の別に鈍感な「ドウデモヨイ」の『其時の神道』。 *『其時の神道』とは、「儒をもつて治めざれば治まり難きは儒をもつて治むべく、佛にあらではかなはぬことあらば佛で治むべし」(本居宣長:『其時の神道』論からの引用)。 |
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無限定・無限定の自己・「解放されて仕へるべきものを喪つた自我の不安」 |
『外發的で皮相、上滑りな文明開化』の明治を、恆存の「無限定の自己」と同一的に捉へてゐる。 |
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「新限定」・新規範。 「何を敵(仕へる對象としての全體・絶對:C。そこから出現する新限定=關係:D1)として選んだかによつて、そしてそれといかにたたかふ(自己劇化:D2)かによつて、はじめて自己(C”)は表現せられる(著作物)」。 |
「自己本位」。 *「自己本位の灼熱地獄」・・・漱石は英国留學中に「自分の鶴嘴をがちりと(「自己本位」の)鑛脈に掘り當てた」が、歸國後その客體化に苦闘するのである(『私の個人主義』より)。 *「漱石を苦しめたのは我執(江藤淳の説)ではなく『自己本位』(新限定)であり」、その「『自己本位』(新限定)を片附けようとして失敗を重ねる漱石が偉大」。(P293~4) *「漱石の自己本位にとつての最大障壁は『愛さねばならないが愛せない他者(「他力本位」「金以外はドウデモヨイ」日本人)』が舞台の相手にあると言ふ事だと。「クリスト教」的愛への通路を持たぬ自己本位(自力本位)がしかも「他力本位」の日本でそれを展開する事の難しさだと松原は言ふ。 |
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新限定(鴎外の場合) 大主題(C)の發見「背後の道徳」 ⇒ 天命・宿命・新限定⇒中主題(C”文學:歴史小説・史傳の創造)⇒小主題:客體化(義=仇討ち=『護持院原の敵討』・忠=切腹=『堺事件』・考=『高瀬舟』・全般=『渋江抽斎』等々)の創作。 |
「鴎外」についてはかう言ふ。「『他力本位』の封建道徳と言ふ『正統』に支へられた江戸時代の先人の見事(「背後の道徳」?)を描いた」(P4)と。 |
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〔松原の以下『夏目漱石』論には、恆存との同一的思考囘路(恆存の影響?)が窺へるので、括弧内に黄色で恆存用語を附記し對比を試みてみる〕 以下は松原實文。( )内は吉野注。 *「漱石を苦しめたのは我執(江藤淳の説)ではなく『自己本位』(「新限定」⇒表現せられる自己)(彼我の差に踏み留まる?)であり」、その「『自己本位』を片附けようとして失敗を重ねる漱石が偉大」。(注:「彼我の差に踏み留まる?」の附記は、漱石著『私の個人主義』を再讀しての吉野感想) *「道元・親鸞(宗教)の與り知らぬ難問を漱石は抱へてゐて、その自己本位は去るべき我執(宗教的對象)ではなくて(故に「禅が難問の解決に役立たなかつたのは當然」と松原は言ふ)、異文化との格闘(西歐近代への適應苦惱・彼我の差に踏み留まる?苦闘)が強いた先例の無い自己本位(「新限定」⇒表現せられる自己)であつた」。漱石は「(『外發的で皮相、上滑りな文明開化』)の自國文化を信じ切れず(即ち「無限定の自己」の状態)、『自己本位』(「新限定」⇒表現せられる自己)によつてかろうじて發狂を免れた」(P293~4)。 |
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恆存の用語(黄色)を借用しながら、松原の『夏目漱石』論を要約すると更に理解が進むと思ひそれを試みる: 「無限定の自己」即ち「外發的で皮相、上滑りな文明開化」の自國文化なのに、明治人はその自覺が無く、相變はらずの「他力本位」「金以外はドウデモヨイ」のままで生きてゐる。「我が國の正統(「他力本位」)は善惡の別に鈍感な「ドウデモヨイ」の『其時の神道』。さうした明治人の集團的自我(A)の舞台で、その空気の中で、「自力本位(自己本位)」(異文化に冒されない)と言ふ「新限定」を演戯(確立・展開)しようとする孤立無援の苦しみ。それが漱石の「自己本位」なのだと松原は言ふのである。 「自己本位」は「西歐個人主義的思想」でありながら、しかも、西歐個人主義の背景にある「クリスト教」を信じないで、それを展開する事の難しさ(加へるに「愛」の觀念が不在なる日本での苦難)だと。 その事について松原は以下の樣に言ふ。「漱石の自己本位にとつての最大障壁は『愛さねばならないが愛せない他者(即ち「他力本位」「金以外はドウデモヨイ」の日本人)』が舞台の相手」にある事だと。 言ひ換へれば、「クリスト教」的愛への通路を持たぬ「自己本位(自力本位)」の愛(漱石的「愛」?)が、しかも「他力本位」の日本でそれを展開する事の難しさだと。 |
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