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平成二十一年七月十二日

『福田恆存を讀む會』


七月選擇評論:全集第二巻所收『文學史觀の是正』(「個性」:昭和二十四年七月號。三十八歳著)・『歌よみに與へたき書』(「短歌研究」:昭和二十四年九月號。三十八歳著)。

 今般、本業の仕事に忙殺され、殘念ながら二評論への充分な探究が出來なかつた。

よつて此處では、一つの不明點を記しておく。

『文學史觀の是正』卷末に「附記」されてある、「これはいま書かうとしてゐる『近代文學史』のための覺書」云々の「近代文學史」とは、どの評論を指すのであらうか(『近代日本文學の系譜』は昭和二十一年著である)。

 

*今評論選擇理由・・・川上會員より。

引き續き川上會員より、LEADING(READING)へ・・・。

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〔以下は、吉野櫻雲發表文〕

 

と言ふ事で、今評論も中々の難解にしてかつ手ごはく、そしてどの文章も重要なのであるが、特に以下内容文を此處に取り上げる事とする。更にいつもの如く難解なる内容については、手助けを他評論に仰ぐこととする。(以下文中傍線及び括弧内は概ね吉野附記。「P9圖」云々は「讀む會テキスト」頁を表す。「ABD2」等も同テキスト三頁を參照の程)

 

〔難解又は重要文〕:P354上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「動的ないとなみそのものが、自然主義作家達の眼には、そのまま目的地と映つた」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「目的地」とは、參照「テキスト補:P3圖」の「C2:後楯・護符(西歐概念=上位概念)」の事であらう。即ち「リアリズム」が「後楯・護符(西歐概念=上位概念)」にと。⇒(スクリーン表示)。

 

〔難解又は重要文〕:P355下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「鴎外・漱石の作品は乾燥せる上空をまさぐる知性の文學である」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「乾燥せる上空」とは、「絶對・全體:C」の事では。察するに、それは以下の邊りの消息を物語つてゐるのではなからうか。

敵(自己を超えたる場C:例「天」)⇒關係・宿命(D1例:天命)⇒自己(C”)の活動(例:鴎外「歴史小説」即ち「テキスト補:P6圖」の① ⇒ ② ⇒ ③ ⇒④の流れに(スクリーン表示)

【どうでせうか、此の邊についての諸氏のご感想は】

 

〔難解又は重要文〕:P357上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「不連續線」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。察するに漱石が言ふ「上滑りの外發的文明開化」(適應異常)のことでは。そして「雨季的現象」とは、やはり「西歐近代への適應異常」を指してゐるのでは。

「鴎外・漱石の知性はこの自己の生理にたたかひをいどんだのであつた」・・・とは、「精神の近代化」の事を言つてゐる樣に小生には受け取れる。察するにそれは、以下の邊りの消息を物語つてゐるのではなからうか。

「われわれが敵(自己を超えたる場:C)としてなにを選んだかによつて、そしてそれといかにたたかふ(宿命/自己劇化)かによつて、はじめて自己は表現せられる(創作對象に)のだ。・・」⇒參照「テキスト補:P6~7圖」(スクリーン表示)

【どうでせうか、此の邊についての諸氏のご感想は】

 

〔難解又は重要文〕:P357下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

*「『明暗』や『道草』は、強烈な意識が遠く暗黒の無意識の領域にまで・・」云々・・・の

「強烈な意識」「暗黒の無意識の領域」とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「強烈な意識」とは「精神:B」を指し、「暗黒の無意識の領域」とは「エゴイズム:A」の事を指してゐるのでなからうか。

*「鴎外においてはこの暗さが時間においてとらへられてゐるのにすぎず、したがつて無意識のかはりに運命が登場する――かれの意識は、人間の背後から人間の行爲を支配しようとする暗黒の世界にまで光を届かせようとして、やはり明暗の交錯する領域を現出してゐる」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「時間において」とは、「時間的全體感=歴史:C」の事を言ひ、その客體化としての「歴史小説・史傳」と言ふ事を言つてゐるのであらう。そして「運命」とは、察するに、それは以下枠の「「背後の道徳 ⇒ 天命・宿命」邊りの消息を物語つてゐるのではなからうか。⇒參照「テキスト補:P5~6圖」(スクリーン表示)

鴎外における、大主題(C)の發見「背後の道徳」 天命・宿命・新限定⇒中主題(C文學:歴史小説・史傳の創作)⇒小主題:客體化(義=仇討ち=護持院原の敵討・忠=切腹=堺事件・孝=高瀬舟・全般=『渋江抽斎』等々)の創作と言う能動となる。

【どうでせうか、此の邊についての諸氏のご感想は】

 

〔難解又は重要文〕:P358上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「鴎外・漱石の意識してゐたものは、彼等の言説のいかんにかかはらず、要するにヨーロッパ人になることであり、ヨーロッパ精神を身につけることであり、さらにヨーロッパ流の文學概念を確立しようとすることにほかならなかつた」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「ヨーロッパ精神」とは「近代自我・個人主義の確立」のことを言ひ、「ヨーロッパ流の文學概念の確立」とは、日本自然主義文學とは似て非なる「西歐自然主義文學の確立」を言つてゐるのであらう。「日本自然主義文學」と「西歐自然主義文學」の圖的對比は⇒參照「テキスト補:P3圖」或は「テキスト:P9圖」「と「テキスト:P8圖(西歐個人主義構圖)」(スクリーン表示)。

 更に、「要するにヨーロッパ人になることであり、ヨーロッパ精神を身につけること」とは、「テキスト補:P5圖及び6圖」の西歐文人精神との比較が參考になるのでは。⇒(スクリーン表示)。

【どうでせうか、此の邊についての諸氏のご感想は】

 

尚、「鴎外・漱石」についての「第一のたたかひ」「第二のたたかひ」を含め恆存の論は、以下が參考になるかと存じ、此處に轉載する。

拙發表文:恆存著『告白といふこと』より轉載

 

〔難解又は重要文〕:P405上~全部「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「かれら(鴎外・漱石)は兩者(人生と文學)の斷絶にたへた。のみならず、彼我(西欧と日本?)の斷絶にたへる精神は、過去(江戸)と現在(明治)と、あるいは現在と未來との斷絶にもたへたのである。鴎外と漱石とにおける藝術と生活との斷絶の秘密はそこにある」云々~~「二葉亭」云々~~「(鴎外・漱石)は建設の惡にたへた」云々・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。上記の理解に當たつては以下の文が參考になるのでは。

  「建設の惡にたへた」云々の「建設の惡」とはかう言ふ事では。「カエサルのことはカエサルに聞け」、或は恆存が言ふ「處世術(A)の事は處世術で對處」、即ち實證精神による「A的客體化(A」に伴ふ、「必然惡(・・からの惡?)」及び「必要惡(・・への惡)」の事を、それは意味しているのではなからうか。そして是については以下の文が參考になる。

拙發表文:『進歩主義の自己欺瞞』P178下~評論最終。より

「もし進歩が必然惡ならば、進歩主義は萬能藥にはなりえまい。自由も個人もその必然惡(「・・からの惡」?)として自由主義、個人主義を生じた。民主主義にしても議會主義にしても同じことではではないか。(中略)民主主義もまた必然惡であることを知らねばならぬし、何事にも必然惡が伴ふものである以上、それを廻避するには何が必要かを深刻に考へなければならないはずだ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「必然惡」と必ずしも同意ではないが似た用語で、恆存は「近代化をネセサリー・イーブル(必要惡)」と捉へてゐる(注:必要惡は「・・への惡」「・・の爲の惡」と捉へられるのでは?)。又進歩は歴史の必然とも。

【上記項目についての質疑應答】

  更に「かれら(鴎外・漱石)は兩者(人生と文學)の斷絶にたへた」云々とは、以下の文が參考になる(次の選擇評論『自己劇化と告白』の先取りになつてしまふが)。

拙發表文:《「口邊に苦笑をうかべる」東西文人:その時代的差異》(P13より)。一部加筆

恆存は言ふ。鷗外は「建設や生産(A←A’の實生活的客體化)にともなふ社會惡、國家惡、人間惡に」「手をそめ、みずからそれを隠蔽することによつて無視し、それにたへてゐた」と。

即ちそれはどういふことを意味するかと言へば、幕府封建体制の殘滓を引きずつた、明治の「旧規範」及び「社會機構:A」の要請に從ひ、鴎外は「處世術(A)の事は處世術で對處」せんと、「建設と生産」のA的客體化を行ひ、さうする行爲で世の批判(戈先)をかはした事をそれは示す。

しかも、日本の自然主義作家の様には「文明開化の出世主義(A)のネガティーブな吐け口」として文學(B)へ逃げもせずに、鴎外はあへて「個人を否定してくる社會機構(A)」に晒されてゐたのである。さうした現實にゐる時、そこに自ずと「口邊に苦笑を浮かべる」行爲が出て來るのではなからうか。時代の社會機構(前近代)の現實に身を切らせ(A的客體化:A←A’)ながら、しかも、かつてはあつて今は失はれた夢想(C:儒教道徳・武士道)に激しく胸を焦がしてゐる時、人は自ずと「口邊に苦笑を浮かべる」事になるのでは。(參照:全二P417『自己劇化と告白』。同P407『告白といふこと』)。

恆存の言ふ、「人生はつねにアイロニーをその底にひめてゐる。ただそれがたまたま他の時代よりも現象的にあらはになる時代があり、またさういふ場合がある」が、將に鴎外の其の時に當て嵌まるのである。

精神的(B)には「無限定の自己(規範喪失)」の情況下において、しかも實生活(A)では「旧規範・旧限定」(「封建体制」殘滓の明治)に束縛されてゐる時、その中で更に「新限定」(新規範・文學:「個人的自我B」の可能性)を創出せんとするには、以下の行動(傍線部分)を鴎外は取らざるを得なかつた、と恆存は言ふのである。

旧規範・旧限定と戈を交へる事なく(即ち「建設と生産」と言ふA的客體化を行ふ事)、「處世術(A)の事は處世術で對處」すべく、公人としてするべき事(A←A’)をしながら、「たえず自己を限定し捕捉しようとして迫つてくる規範の監視の眼から逃れる」やうに鷗外はたへた。即ち、公人として「(建設と生産の)惡に手をそめ、みずからそれを隠蔽する(行ふ)ことによつて無視し、それにたへてゐた」のである。惡にたへると言ふ事は、「旧規範」に自己を晒しながらしかもそれに膝を屈せず判斷保留し、「選ばれてあるものの責任であり、渦中にあつて生きるものの意志的行爲」として義務を果たす事。それによりかへつて「戈をまじへる事なく」、旧規範・旧限定から自己が隠蔽されるのである。公人の生活(A)を旧規範に晒しながら、しかも「自己(藝術的側面、個人的自我:B)を秘めなければならない。可能性を大切にするからだ」。「なぜなら表現しようとする自己(B)は、つねに世間道徳や、宗教や觀念によつて限定され、それに膝を屈しようと用意してゐるから」であると恆存は言ふ。(參照『自己劇化と告白』全二P405~413)

同評論上で「告白の眞實性は生活(A的客體化:A←A’)を通じて(惡を)隠しとほすことによつて保たれる。藝術は惡から汚水を吸いあげて美しい花を咲かす」(P407)、とも恆存は言つてゐる。即ち、日本の自然主義作家の取つた態度、「文明開化の出世主義(A)のネガティーブな吐け口」として文學(B)へ逃げた自己欺瞞からは、「告白の眞實性」は保たれないと言ふのである。「藝術(B)は惡から汚水を吸いあげて美しい花を咲かす」とは、「處世術(A)の事は處世術で對處」「カエサルのことはカエサルに」で、集團的自我(A)上で客體化できる事は全て其處で處理し、さうする事で個人の純粋性(B:個人的自我)から夾雑物を剔抉、その静謐を守る事を意味してゐるのではなからうか。さうする事で、個人の純粋性は以下の事が可能となる。即ち、「惡(必然惡・必要惡)を明確に自覺すること、そしてそれにたへることにおいても明確な自覺を把持してゐること――このほとんど自動的ともみえる無償の倫理的意思(とは、「神なくして個人の権利を主張しえない。それをあへてなすことは悪徳である」と同意?)を通じて、ひとははじめて文學的表現(B)に道を通じうる」(P411下『自己劇化と告白』)。それが可能になるのだと恆存は言ふのである。

この邊の表現は、フローベールについて謂ふ表現、「彼等は甘んじて、『十九世紀の個人主義的リアリズム』による自我の否定にさらされながらも、『つひに否定し扼殺しきれない個人の純粋性(B)を發見することを念じて』ゐた」(全二P269『作品のリアリティーについて』)に近似して來る。⇒「テキストP8圖」參照。

更に、同じくそこで表現してゐる以下の樣な内容、即ち「フローベールの文學行動は、『一分の隙もない天窓』に追ひつめられたアイロニー的情況に閉じ籠もりながら、しかも『つひに否定し扼殺しきれない個人の純粋性(B)を發見することをひたすらに念じるが爲なのである』」(恆存文:要約)云々の内容に繋がつて來る。是等の謂ひは上記傍線部分の換言であり、将に東西、彼我の差を超えた「藝術」の真骨頂なるものを、恆存は此處で我々に傳へて呉れてゐる樣に思へる。

此處から察するに、鴎外、漱石は西歐体験で確實に「個人主義文學」(テキストP8圖)なるものを身につけて來たのだと、想像を巡らす事が可能となる。

 

『歌よみに與へたき書』・・・「探究」の時間が無く割愛。

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