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平成十八年八月二十七日
『福田恆存を讀む會』
吉野櫻雲 發表文
八月:テーマ評論:【全集第七巻所載『醒めて踊れ(「新潮」昭和五十一年八月號:六十五歳)】
既『讀む會』選擇評論、『個人主義からの逃避』と『シェイクスピア』では、「負の側面」と同時に「正の側面」を備へた「個人主義」の問題を探究した。そして結局日本は、それを「まねようとしたのにまねられなかつた」(P202)事について知り、その原因としては、個人主義をも含めそれら「洋才の奧に洋魂(クリスト教)がある」のを日本人は理解できなかつた事に歸因する事を恆存評論より學んだ。
その次(前囘)の選擇評論『現代人の救ひといふこと』では、更にそれを掘り下げて、「個人主義」を「まねられなかつた」が故に以下の現象に日本は逢着してしまつた事をやはり氏の評論より知る事が出來たのである。
(前囘小生發表文よりの抜粋:一部修正)
「明治以降の日本人はあらゆる物質的(A)なこと、肉體的(A)なことに、すべて精神(B)のべールをかぶせ、それをことごとく精神の發動として自己満足してきた」が故に、それが西歐近代に對する適應異常の痼疾となり果ててしまつたのである。
西歐近代の歴史が、實證精神による「肉體、あるいは物質で解決すべき事」はその領域で解決しろ、或は「カエサルの事はカエサルに聞け」であるならば、明治以降の日本人は反對の行動と言へる。その差異の原因を、恆存は彼我の「實證精神」の歴史的差異(即ち西歐が持つ中世と言ふ「千年にわたるながいあいだの神への凝視」)と此處で指摘してゐるのである。日本の場合はその不足が齎す「自己欺瞞(A→B逃げ込み)」の安直なる發生が更に其處に介在する。そして結局日本人の深刻ぶつてゐる苦悩と言ふものは、所詮實證精神に基づく「政治では救ひえぬ苦悩」などではない(「處世術で出來る事は處世術で」)と恆存は結論づけてゐのである。
今囘選擇評論『醒めて踊れ』も一連の選擇評論と大いに關聯がある。「實證精神」の缺如が「精神の政治學」分割線の最下降を妨げ、結果としての「鮮やかな場の轉換(場に沈湎しない)」⇒『醒めて踊れ』、を日本人に不可能とせしめたのである。(「讀む會テキスト」P8〜9圖參照)
と言ふ事で、今評論においては、どの文章も重要であるが特に以下内容文を此處に取り上げる事とする。尚『醒めて踊れ』をより良く理解する參考發表文として拙文「演劇論と人生論の一致:http://www.geocities.jp/sakuhinron/page016.htmlをご利用戴ければ幸ひである。(文中括弧内は概ね吉野注。「P9圖」云々は「讀む會テキスト」頁を表す)
〔場と個人との關係について:P397上〜最終頁〕(參考「演劇的表現」:場面から關係として生ずる、「心の動きを形のある『物』として見せるのがせりふの力学」(「せりふと動き」參照:拙發表文『演劇論と人生論の一致』P1)
�� 鮮やかな場の轉換(場に沈湎しない):P397上(參照「P12圖P11圖」)
��「言葉と話し手との間に距離を保ち、その距離を絶え間なく変化させねばならぬのと同様に、相手と共に造り上げた場と自分との間にも距離を保たねばならず、その距離を絶えず変化させ得る能力がなければいけない。さういふ能力こそ、精神の政治學としての近代化といふものなのである」(p398)
・・・恆存の論を概略して、或は焼き増しをして言ふならばかうなる。
上記「傍線部分」の藝當などと言ふものは、個人の強靱性がなくては出來ない注文である。的確に「言葉との距離測定」をし、各場面場面に沈湎せず適應正常していく(即ちEの至大化=D1の至大化)などと言ふ藝當は、個人の強靱性を保持して初めてそれが可能となるのである。
その爲には以下の逆プロセスが緊要であると、恆存は此處で言ひかつ諸處の評論でもそれを謳つてゐる。日本人には不得手な、上述文の行爲をも含めた、現象としての「鮮やかな場の轉換(場に沈湎しない)」は、その本質「精神の政治學としての近代化(AB分割線の最下降化)」をもつてそれが可能となるのである。要するに恆存は以下の「本質から現象への逆プロセス」の能動について、それら全てを含めて「精神の政治學としての近代化」と言つてゐるのではなからうか。現象(左端)は本質(右端)が極められなければ不可能事であると。
〔場(西歐近代)に適應正常する爲に=鮮やかな場の轉換(D1の至大化:場に沈湎しない)〕
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場(西歐近代)に適應正常←鮮やかな場の轉換(D1の至大化:場に沈湎しない)←「言葉との距離測定能力(Eの至大化)」←個人の強靱性←個人主義の確立(「精神の近代化」)←精神の政治學による「AB分割線の最下降化」(近代化:P8圖化)←日本の精神主義からの脱皮(P9圖) |
で「言葉との距離測定能力(Eの至大化)」、それは具體的にはどう言ふ事を表すかと言へば、以下の事を念頭に置いて「新漢語=資本主義・個人主義・民主主義等」を自己所有化すると言ふ事に繋がる。
「近代ヨーロッパは神を見失つた――が、それはただ神の解體と變形と抽象化とを意味するに過ぎぬ。まさにその爲の手續きであり過程にすぎなかつたヨーロッパの近代精神とその政治制度・経済機構」なのである。(參照『近代の宿命』全二P466・「テキスト八圖」)
即ち「資本主義」なら、かの「ホリエモン」や「村上ファンドのご當人」「中國の修正資本主義」の如く、只の金儲けの最先端的手段とのみ捉へるのではなく、上記の通り西歐近代が辿つた「神に型どれる人間の概念の探究」(『現代人の救ひといふこと』)の一つとして、それを捉へる事を意味するのである。その他もまた同樣にである。
更に言ふならば、上記二つが必然的に招來する、「思ひ込み(「意は似せ易く形は似せ難し」)」と言ふ名の自己滿足自己欺瞞から免れて、「言葉との距離測定」能力の獲得、「So called」「フレイジング」能力の獲得、もつと言へば「精神の政治學(ソフトウェア)の獲得が、我々日本人に可能となるには、果たして何が必要とされるのかと言ふ事である。(「フレイジング」については下欄參照) 恆存の論に從ふならば、答へは明らかなのである。獲得が可能となる前提として明示されるのは、「カエサルの事はカエサルに聞け」「處世術で出來る事は處世術で」と言ふ實證精神の活用と、その活用からなる「精神の政治學」分割線の最下降と、そして結果としての「精神の近代化(個人主義の確立)」がまさしくそれを可能とせしめるのである。「精神の近代化(個人主義の確立)」なくして「個人の強靱化」はあり得ない、と恆存は當評論『醒めて踊れ』で斷言してゐるのではあるまいか。
「個人主義の限界」の活路として「完成せる統一體としての人格」論が此處に登場するゆゑんがあるのである。しかし意外にこの提言を取り上げる論者は少ない。多分解つてないからだ。
以上、なかなか解りにくい「精神の政治學」についての補足文として、過日會員「K.K女史」との質疑應答で取り上げた、『〔精神の政治學〕が意味する二つの内容』(一部)を此處に轉載する。
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〔精神の政治學〕が意味する二つの内容
�」饌犬�『近代の宿命』で論及する内容・・・「『讀む會』テキストP4⇒P8」の圖で顯はすが如く、西歐歴史の一貫性を築く「精神の政治學」の役割。そして西歐近代とは「精神の政治學」分割線の「最下降」なのだと言ふ事。
��恆存が『醒めて踊れ』で論及する内容・・・「『讀む會』テキストP12下圖」で顯はすが如く、「言葉(F)と話し手との間に距離(E)を保ち、その距離を絶え間なく変化させねばならぬのと同様に、相手と共に造り上げた場と自分との間(D1)にも距離を保たねばならず、その距離を絶えず変化させ得る能力がなければいけない。さういふ能力こそ、精神の政治學としての近代化といふものなのである」(全7P398『醒めて踊れ』)と言ふ事。
恆存は『醒めて踊れ』で、「精神の政治學」について「近代化に對處する」ものと書いてゐます。(全7P398上段)
と言ふ事は、非近代の日本(テキストP9)が西歐近代(テキストP8)に對處(適應)するにはどうしたらいいか。或は「テキストP12上段」の「新漢語等の言葉(観念)に呑み込まれてゐる」非近代日本が、「テキスト下段」の個人主義確立によつて可能な「言葉(観念)の自己所有化」の構圖を得るにはどうしたらいいか、その兩方を恆存の言ふ「精神の政治學」は物語つてゐると考へられます。
要するに、上記�△魎晃世靴藤法ィ暴�史が表現された、「場に應じて上げり下げたりしてバランスを保つ處世術」云々も、又小生が主張した�,瞭睛討癲�恆存はそのどちらをも「精神の政治學」と捉へてゐるのだと存ずる次第であります。解り易く言へば、�,痢∪象振畭紊�意味する「精神の政治學」分割線の「最下降」は木の幹であり、�△蓮↓,痢峩畭絏宗廚両紊忘蕕�花(近代の華)と言へるかと存じます。一本の木と言ふ概念で、�´△�「精神の政治學」の概念に内包するものと恆存は捉へてゐるのではなからうかと思ふのであります。又かうも言へるでせうか、「テキストP8」の近代人(個人主義者)でなくては�△旅壜�は演技し得ず、故にそれは本質と現象とも言ひ變へる事が可能かと。
そして更に言へる事は、「テキストP9:日本的構圖」の人間が、その「分割線最上昇」の呪縛からいとも簡單に脱して、しかも西歐の歴史の重みを經て構築された、「個人主義:P8」によつてやうやく演じられる�△礼罪弔髻△い�なり「精神の政治學」分割線を最下降して演ずるなどとは、果たして可能なのかと言ふ事であります。観念遊技ではそれを言へるが現實には出來ない。似た内容の事を恆存は「小説では可能だが芝居では無理」と言ふやうに表現をしてゐます。(『醒めて踊れ』P392〜3)
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〔フレイジングについて:So calledとの關聯〕P400下
個人を確立(強靭化)し場面に沈湎せず、フレイジング・So called で言葉(観念)を自己所有化し、近代化を操る精神(關係の適應正常化)を持つ事、それが日本人の「精神の近代化(個人主義の確立)」。(講演カセット「日本の近代化とその自立」より)
〈要するに「醒めて踊れ」とは、以下の樣に纏める事が出來る〉(拙文『演劇論と人生論の一致:「役者修業は人間修業」の2』より)
*役者の場合:意識を強度にし、フレイジングでせりふを自己所有化。(下欄圖參照)
「意識が強度になればなるほど、話し手と言葉との距離は大になる。・・・話し手とその言葉との距離が観客の目に見える様に喋れ。・・・口にしてゐる一つ一つの言葉をどの程度に意識してゐるか、その度合ひを役者として明確に把へろ」(「せりふと動き」P300)
「大事な事はまず相手に掛つてゐるせりふ一つ一つに鉤を附け、その都度、それを自分の心に引掛けながら言ふ、それは必ず動きや姿勢に出る筈のもの」。それは「何を喋るかではなく、なぜ喋るかを『何』の裏に見せる」と同意。その方法論がフレイジング。(P321)〔好演例、内田稔:吉野注。又「フレイジング無しの好見本」として氏は仲代達矢を上げてゐる〕。
即ち、強烈な意識でどれだけその距離を把へてゐるか、その意識の度合ひを観客に見せろ、(距離の大=意識の大)と言ふ事か。
*實人生の場合:意識を強度にし、言葉との距離を把握。即ちSo called で言葉(観念)を自己所有化。とは・・・(下欄圖參照)
「機械化・合理化・組織化」等々と言ふ近代化の観念(何)の裏に、それに呑み込まれず、強烈な意
上記二項目で言ふ、「距離」の長短操作=「フレイジング・So called」とは「動作や作用、さらに人間の抽象的な営みを名詞化(「・・・すること」)しようといふ働き」と同意であり、名詞化とは「主体である自分を対象から分離し、距離をつくらうとする衝動」であると恆存は言ふ。そして「日本語にさういふ性格が乏しいことは、日本人にさういふ心理がかけてゐることの表れ」(『日本および日本人』)とも言ふのである。為に期せずしてその短所が「近代化適應異常」として顕れたといふ事になるのではなからうか。
「近代化(に伴ふ)=疎外」への適應正常化・・・「近代化(に伴ふ)=疎外」に飲み込まれぬ(沈湎しない)爲には、そのハードウェアである言葉・概念(何:「機械化・組織化・合理化・劃一化」「個人主義・資本主義・民主主義」)に、ソフトウェア(精神の政治學:上述の�◆法瓠孱邸�So called・フレイジングによる適應能力(距離の至大化)」を利かす(「確立する」)事。全七P393『醒めて踊れ』)
言葉の自己所有化とは、自己と言葉との距離の至大化
kankeitoshousurujituzaibutsu1.2.pdf へのリンクの2頁目参照