平成十八年十月二十二日
『福田恆存を讀む會』
吉野櫻雲 發表文
十月:テーマ評論: 全集第五巻所載:【『論爭のすすめ』(「中央公論」昭和三十六年三月號:五十歳著作)】(以下文中括弧内は概ね吉野注。「P9圖」云々は「讀む會テキスト」頁を表す)
え〜、相變はらずの生硬な文章ではありますが、ひとつお付き合ひの程を・・・。
前々囘の選擇評論『醒めて踊れ』、及び前囘の評論『シェイクスピア劇のせりふ』では、場(西歐近代や場面)との關係に「適應正常」する爲、場との關係から出現した言葉(新漢語・外來語・せりふ)にどの樣に對應したらよいか、その言葉への對應が、實在物である「關係」にどの樣にそれが密接に結びついてゐるかを探究した。即ち日本人には不得手な「言葉との距離測定能力(Eの至大化)」が、どの樣にしたらそれが出來る樣になるかを恆存の論に從ひ探究したのである。
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參照文:「關係と称する實在物は潛在的には一つのせりふ(問答・對話・獨白)によつて表し得るものだから」(全七P300『せりふと動き』) |
恆存は『醒めて踊れ』『シェイクスピア劇のせりふ』で、「So called(いはゆる「・・」)」「フレイジング」「精神の政治學」をソフトウェア的手段と捉へてをり、ハードウェアとしての「精神の近代化」(個人主義の確立)は、ソフトウェアの効果的發揮によつて、その結果として齎されるものと捉へてゐる。(參照:拙文『醒めて踊れ』の下欄圖)
そして今囘選擇評論『論爭のすすめ』でも、「言葉の使ひ方を完成する術」の必要性として、そのソフトウェアの効果的發揮の問題が取り上げられてゐる。
恆存は言ふ。「その術が磨かれてゐるところでは、對象(場?)と言葉と、さらにそれを用ゐる自分との距離が明確に意識されてゐる(Eの至大化*)から、僞善的正義感をそれと意識せずに口にすることはないであらう」と。それを別の表現に言ひ直すと、「So called」と言ふ、言葉との距離測定能力の確立が出來てゐる(Eの至大化)と同時に、關係を形のある『物』として見せるせりふの力学(言葉の使ひ方)(Eの至大化)が出來てゐるなら、と言ひ換へることが可能である。同じ事を更にかう言ふ風にも恆存は表現してゐる。「言葉に定義は不要であり、用法しか無いとしても、その用法に集中力があれば(Eの至大化)、定義せずとも概念の内包、外延に亂れは生じない」(全七P391『醒めて踊れ』)と。〔*(Eの至大化)については「讀む會:テキストP12圖」をご參照の程〕
以上、三文章の傍線部分に注意し考察すると、「言葉の使ひ方を完成する術」とは、かう言ふことになるのでは。
「So called」で言葉との距離測定を確立し、その上で「ディアレクティック(辧證法・問答法)・レトリック(修辭學)」を驅使して、場との關係を「形のある『物』として見せる」樣に話す事。それが取りも直さず「言葉の使ひ方を完成する術」と言ふことになるのでは。
さうした言葉の使ひ方の「完成を期す」(P258下)事で、「たがひに自分の方が眞になる事を證明しあふ」可能性としての、論爭の意義(『論爭のすすめ』)を恆存は此處に提示するのである。
と言ふ事で、今評論も中々の難解にしてかつ手ごはく、そしてどの文章も重要なのであるが、特に以下内容文を此處に取り上げる事とする。更にいつもの如く難解なる内容の手助けを他評論に仰ぐこととする。
*P252下「たとへばクリスト教道徳や儒教道徳は僞善であるかどうか。その檢證の目やすは、それが道徳としての自主性と一貫性とをもつてゐるかどうかにある」・・・とは以下の文が參考になるのでは。
〈参考:クリスト教の「連續性、一貫性」と歴史について〉
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歴史の意識(西歐)・・・「絶對者のないところに歴史はありえない」。 クリスト教の絶對神による「統一性と一貫性との意識が人間の生活に歴史を付与」した。⇒そしてその神(絶對者)そのものが「近代を過去のアンチテーゼとして成立せしめる歴史的一貫性」を形作つた。即ち西歐近代は「反逆すべき神」として中世を持つことが出來たのである。「神への叛逆も、じつは千年にわたるながいあいだの神への凝視と沒入とから習得し免許をあたへられた理想人間像にもとづいておこなはれたものである」(P599『小説の運命�機戞泡諭屬覆爾覆蘓世噺世嫖�一原理はその叛逆において効力を失ふものではなく、それどころか叛逆者の群れと型とを統一しさへする」⇒どのやうに統一していつたかと言へば、近代西歐精神を「神に型どれる人間の概念の探究」と言ふ形で統一していつたのである。(參照:『近代の宿命』P462、及び同小生發表文中「西歐歴史的統一性:圖解」及び『現代人の救ひといふこと』) |
*P252下「もし儒教道徳がクリスト教道徳に較べて僞善的であるとすれば、それは道徳としての自律性が弱いといふことであつて」・・・とは以下の文が參考になるのでは。
参考:「肉體の自律性は當然その反面に精神の自律性を前提とする。肉體、あるいは物質で解決すべき事を、精神の重荷とするなかれ――精神には精神のみの解決しうる問題をあてがひ、その領域と大權とを縮小せしめるにしくはない。そのときはじめて精神は自律し、その権威は輝くであらう。
が、ぼくたちは今日までなんと精神を神聖化し、さうすることによつて精神の負荷を重からしめ、結果として精神を侮辱してきたことか。肉體の自律性が確立してゐなかつたからである。明治以降の日本人はあらゆる物質的なこと、肉體的なことに、すべて精神のべールをかぶせ、それをことごとく精神の發動として自己満足してきた。かれらは肉慾を肉慾として是認することをおそれ、それに精神的な衣をかぶせた。物慾を物慾として是認することをおそれ、それに藝術愛や愛國心や愛他心や、その他の主種雑多な大義名分をかぶせた。・・・」(P479全二「肉體の自律性」:續く文も重要であるが、長いので省略)
*P253上「それ(儒教道徳)が現實拒否の觀念性を持ちえなかつたところに、その僞善的傾向が生じた」・・・とは、上文〈参考:クリスト教の「連續性、一貫性」と歴史について〉と、加へて以下の『近代の宿命』參照文の内容を含んでゐるのでは。(傍線及び括弧内文章は吉野附記)
「前者(ヨーロッパの中世)にあつては、はじめから神に從屬する自己(B)があつて、そのかげに支配=被支配の自己(A)が忍びこみ紛れこんだのであるが、後者(徳川時代の日本:儒教政治)は支配=被支配の自己(A)を前提としてそのやましさに堪へられず、そこに訴へるべき人間性の純粋を喚び求めたのである。その差は明瞭に宗教と文化政策との差にほかならない。(中略)宗教改革は神(C)をその抽象性において支配=被支配の教門政治(A)から救ひ出したが、忠の觀念はいかに美化され、いちおうの純粋性にまで高められてはゐたとはいへ、君主の肉體(相對)を超えてなほ生きのびる抽象性をもちうるものではない」(『近代の宿命』)
即ち上文は何を意味するかと言へば、相對(現實)を超えた絶對(理想)追求の純粋性をクリスト教は保持し、そうした特質(現實拒否=現實超越性)を儒教道徳は保持してゐないと言ふ事を意味する。クリスト教は「現實拒否の觀念性」即ち理想主義の特質を持つが故に、西歐は「理想と現實・絶對と相對」等の二元論を展開し得た。それによつてクリスト教からは、「テキストP5〜8圖」が表す精神の政治學發揮による「分割ラインの下降化」(近代化)が可能となつたのである。
それと較べ儒教政治の徳川時代においては、専制政治と言ふ名の「支配=被支配の自己(A)」が前提であるが故に、A温存が災ひし「分割ラインの下降化」が不可能事となつたのである。それ故に徳川時代は「テキストP9圖」に滯留し、「日本的精神主義構圖」からの脱皮を圖る事が出來得なかつたのである。そしてその後の日本もその構圖の支配下から脱出出來てはゐない。P253上の「依然としてその支配下にある」はその事を指す。
*P253下「日本の社會科學者のみならず、知識階級一般は、明治以降、西洋の観念論といふものにまともにぶつかつてゐない」・・・とは以下の内容を示すのでは。
「西洋の觀念論」とは、「B(個人の純粋性)⇒C(神・絶對、そして眞理もその近似性?)」の樣式を具へると言ふことでは。その傳統樣式のご本家、クリスト教(その「連續性、一貫性」)及び上述の内容を含めて、洋魂(クリスト教)への不理解をこの文章は言つてゐるのでは。
そして西洋は、やはり學問と言ふ舞台においても、「神に型どれる人間の概念の探究」を實證精神によつて追究してきたと言ふ事なのではなからうか。さうした傳統(連續性、一貫性」)に支へられた「學問の自律性」を日本の知識人は把捉出來なかつた、と恆存は此處で指摘しているのではなからうか。
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語意:觀念論とは・・・〔大辞泉より〕
精神的なものと物質との関係において、精神的なものの側に原理的根源性を置く哲学説。プラトンの客観的観念論、バークリーの主観的観念論、カントの先験的観念論、ヘーゲルの絶対的観念論などがある。アイデアリズム。
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*P254上「日本の學問は唯物論でありながら、それが常に觀念論としての役割を演じる」・・・とは、以下の内容を示すのでは。(括弧内は吉野注)
「日本的唯物論」即ち「何にでもべたべた引つ付く自他未分の神道的生活態度」と言ふ日本的土壌を持ちながら、
「明治以降の日本人はあらゆる物質的なこと、肉體的なことに、すべて精神のべールをかぶせ、それをことごとく精神の發動(觀念論としての役割?)として自己満足してきた。かれらは肉慾を肉慾として是認することをおそれ、それに精神的な衣をかぶせた。物慾を物慾として是認することをおそれ、それに藝術愛や愛國心や愛他心や、その他の主種雑多な大義名分をかぶせた。・・・」(P479全二「肉體の自律性」)
*P258上「そこで第三に現實斷罪と衆議一決する」・・・とは、以下の内容を示すのでは。
恆存は、「日本の知識階級は言はば絶對的自己肯定者(C”自己主人公化)として終始してきた」と看破し、「私小説家・近代日本知識人、その典型としての清水幾太郎」の三者を、いずれもパターンは「テキストP9」の「日本精神主義構圖」だと言つてゐる。即ち
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「現實(A)的不滿⇒B:逃げ處としての個人的自我概念⇒C”自己主人公化(自己完成:絶對的自己肯定)⇔「詩神・護符・後ろ楯の思想:C2」⇒自己滿足・自己正當化(似非生き甲斐・似非實在感)」 |
だと。
そして彼等「絶對的自己肯定者はあらゆるものを自己の手中に収めようとして、その結果、自己の不滿(A:現實的不滿)を處理する能力だけを失つた人間である。(中略)不滿の原因は現實といふ客観的對象のうちにのみあるのではないのに、彼等はそれをそこ(A的不滿)にのみ見出さうとする。いや、さうする以外に能力も無く、方法も知らぬのであります」と上記三者を當該評論で鋭く指摘してゐるのである。(『日本の知識階級』全5P369)
そして「絶對的自己肯定」の爲に、その肯定因として「C2:護符・後ろ楯)」を上位概念「世界・社會・階級、大思想」に求めようとするのだと。(西歐近代が否定因としての神を背景に持つのとは反對に非近代日本はそれを持たないが故に)
*P258下「論爭といふ代償行爲に流しこめ。民主主義と言ふのは論爭の政治である。(中略)勝負としての論爭が必要なのである。たがひに自分の方が眞になる事を證明しあひ・・」・・・とは、以下の内容を示すのでは。
「言葉と話し手との間に距離を保ち(So called)、その距離を絶え間なく変化させねばならぬのと同様に、相手と共に造り上げた場と自分との間にも距離を保たねばならず、その距離を絶えず変化させ得る能力がなければいけない。さういふ能力(So called)こそ、精神の政治學としての近代化といふものなのである」(『醒めて踊れ』p398)。そしてその「So called」の方法論としての確立が「ディアレクティック(辧證法・問答法)・レトリック(修辭學)の完成を期す」(同頁)、と言ふ事なのでは。
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