平成二十一年六月十四日
『福田恆存を讀む會』
六月選擇評論:『反近代について』(「學習院輔仁會」雑誌:昭和四十二年十一月。單行本『生き甲斐といふ事』所收。:五十六歳)。
①
この對談『反近代について』は、恆存理解に重要な小文と言へる。小生にとつては、過去何囘も讀み起こし、隨分得るものがあつた。全集第六巻「覺書」に出てくる、恆存の言はば遺言的文章を、「完成せる統一體としての人格」論としてなんとか把握する事が出來たのも、この「對談」文のお蔭である。尚その「完成せる統一體としての人格」論については、最終項目〔難解又は重要文〕:P195~9で取り上げる。
②
最近、恆存がさりげなく『せりふと動き』で書き殘した、以下の文章(嚴密には恆存の文は『 』内)に拘つてゐる。
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「場(C・C”)から生ずる『關係(D1)と稱する實在物は潛在的には一つのせりふ(言葉:F・問答・對話・獨白)によつて表し得る』。故にその言葉との附合ひ方、扱ひ方(型・Eの形成=型にしたがつた行動)によつて、人間は場との關係の適應正常化が叶へられる」。 |
小生思ふに、此の文にこそ、近代主義(リアリズム・實證主義への過剩信頼)からの脱皮、即ち「反近代」が謳はれてゐる事に、やうやくと言ふか薄々と言ふか、最近氣附く事が出來てきたのである。
本文での探究項目(或は別紙)でも取り上げるが、「言葉は寫實=言葉は物(F)を指し示す物の影(寫實)」と、近現代人が盲信してゐる事柄は、實は「近代主義(リアリズム・實證主義・合理主義・科學主義・個人主義等)」に災ひされた迷妄なのであると言ふ事。その迷妄については、恆存はかう語つてゐる。 ( )内は吉野注。
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*言葉とは、意味の傳達以上に「用途」の役割を持つてゐるといふ事。寫實(何)よりも用途(なぜ)を。言葉は人間を目的、行動に駆り遣る爲の鞭的用途(スプリングボード)の役割を持つ。 言葉は物を指し示す物の影(寫實)ではなく「實在物=關係」を目に見える様に傳へる用途を持つてゐるものなのである。(講演カセット「シェイクスピアの魅力」より要旨)。 *「自然を、現實を正しく認識する(寫實・實證主義)のは、自然のうちに、あるいは現實のうちに正しく生きようといふ目的(現實との關係)のためにほかならない。近代が――ことに十九世紀が、この手段を目的から獨立せしめ、それ自体の自律性を獲得せしめたのである。 現實を正しく認識しようといふのは、自分の目のまへに自分から離れたものとして眞實を設定しようといふことであり、現實のうちに正しく生きようといふのは、現実とのかかはりにおいてみずからが眞實にゐようといふこと(「關係と言ふ眞實を生かす」こと)であつて、兩者はおのづから別個のことがらである」(「作品のリアリティーについて」より。全2:P266~)。 ⇒參照「テキスト補:P8~11圖」(スクリーン表示)。及び拙發表文:「一匹と九十九匹と」の參考資料 |
寫實主義や實證主義(「自然を、現実を正しく認識する」)が想到した、近代自我(個人主義)の敗北。そしてその敗北の上に、更に生き延びんとして、西歐近代の哲人(ニーチェ・ドストイェスキー・ロレンス・フローベール・チェーホフ・ボードレール)が繋いだ、「個人の純粋性・個人的自我B」⇒「絶對・全體C」と言ふ超近代の夢想。即ちそれは「現実を正しく認識する」よりも「正しく生きよう:B⇒C」といふ夢想であり、換言すれば「絶對・全體との、關係と言ふ眞實を生かす」と言ふ事なのである。
それらの思潮が、上記初出の枠文と密接に關聯があるのである。
【どうでせうか、此の邊についての諸氏のご感想は】
*今評論選擇理由・・・川上會員より。
*引き續き川上會員より、LEADING(READING)へ・・・。
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〔以下は、吉野櫻雲發表文〕
と言ふ事で、今評論も中々の難解にしてかつ手ごはく、そしてどの文章も重要なのであるが、特に以下内容文を此處に取り上げる事とする。更にいつもの如く難解なる内容については、手助けを他評論に仰ぐこととする。(以下文中傍線及び括弧内は概ね吉野附記。「P9圖」云々は「讀む會テキスト」頁を表す。「A・B・D2」等も同テキスト三頁を參照の程)
〔難解又は重要文〕:P168「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「私はクリスチャンじゃありませんけれども、なにか人間を越えるものの大きな力、それを歴史となづけようが、自然となづけようが、神となづけようが、さういふものを信じてをりますから・・・」云々・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。⇒別紙參照〔福田恆存における「全體・絶對」〕(スクリーン表示)
〔難解又は重要文〕:P169「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「演劇・文學といふものは、ルネッサンスでもつて最高に達してしまつてあとはもうだめになる一方ですね・・・」云々・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。⇒別紙參照「反近代」文人と恆存思想との近似性及び比較「シェイクスピア」項目。(スクリーン表示)。
〔難解又は重要文〕:P172「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
① 「人間の共同體としての強靱な紐帶といふか帶といふものはゆるんできて、・・」云々・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。即ち近代化(機械化・合理化・組織化等)によつて、人間關係(集團的自我)の稀薄化=「支配・被支配の自己」の喪失化=有機的「權力の流れ」の缺如、を招くと言ふ事を言つてゐるのであらう。⇒別紙參照拙發表文:封建制度時代(前近代):集團的秩序の確立してゐる時の職業(『職業としての作家』より)(スクリーン表示)。
② 「近代化をネセサリー・イーブル(必要悪)」と考へる」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。⇒別紙參照「反近代」文人と恆存思想との近似性及び比較。:シェイクスピア項目(スクリーン表示)
【どうでせうか、此の邊についての諸氏のご感想は】
〔難解又は重要文〕:P173「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「近代化を作つたものは何かといひますと、やつぱり過去の歴史の動き、私がさつき使つた言葉で言ひますと、生命力ですね。一つの共同體(クリスト教文化圏)があつて、その共同體も個人も強い生命力を持つてゐて、無目標で動いていくうちに、近代化といふ一つの道ができたわけなんです。・・」云々・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。それについては以下の文が參考になるのでは。尚「共同體も個人も強い生命力を持つてゐて、無目標で動いていくうちに、近代化といふ一つの道ができた」とは、「テキストP5~8圖」の「精神の政治學:分岐線」の下降推移を指す(スクリーン表示)。
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*「近代ヨーロッパは神を見失つた――が、それはただ神の解體と變形と抽象化とを意味するに過ぎぬ。まさにその爲の手續きであり過程にすぎなかつたのが、ヨーロッパの近代精神とその政治制度・経済機構」なのである。(參照『近代の宿命』全二P466・「テキストP8圖」) 「クリスト教の絶對神が持つ統一性と一貫性」 參考:歴史の意識(西歐)・・・「絶對者のないところに歴史はありえない」のである。 クリスト教の絶對神による「統一性と一貫性との意識が人間の生活に歴史を賦與」した。⇒そしてその神(絶對者)そのものが「近代を過去のアンチテーゼとして成立せしめる歴史的一貫性」を形作つた。即ち西欧は「反逆すべき神」として中世を持つことが出来たのである。「神への叛逆も、じつは千年にわたるながいあいだの神への凝視と沒入とから習得し免許をあたへられた理想人間像にもとづいておこなはれたものである」(P599『小説の運命Ⅰ』)⇒「なぜなら神と言ふ統一原理はその反逆において効力を失うものではなく、それどころか反逆者の群れと型とを統一しさへする」⇒近代西歐精神を「神に型どれる人間の概念の探究」と言ふ形で統一していつたのである。(參照:『近代の宿命』P462、及び同發表文中「西歐歴史的統一性:圖解」及び『現代人の救ひといふこと』) |
【どうでせうか、此の邊についての諸氏のご感想は】
〔難解又は重要文〕:P174「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「先進國のレベルまで及びもつかないうちに、空虚感を感じてくる」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。それについては以下の文が參考になるのでは。
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拙發表文『傳統にたいする心構』より 「西洋(文明)卒業の自覺とともに日本文化再評價の氣運(和魂洋才)が起る。~その心理はなかなか複雑であり、~かつ単純なるがゆゑに複雑。~根本は文明開化の精神を一歩も出てゐない。~それが私たちに、よくここまで西洋を同化しえたといふ誇りを懐かせる。~がその誇りは決して自尊の念に結晶して行かない。~よくここまで西洋を同化しえたといふ感慨の裏には、結局はそれに追ひつけぬといふ劣等感と、追ひつけぬものに追ひつかうと一途になつてきた自分を反省する空虚感がある。~」云々。詳細は⇒P12黄色部分(スクリーン表示) |
【どうでせうか、此の邊についての諸氏のご感想は】
〔難解又は重要文〕:P176「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「理想と現實の二元論」云々・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。⇒別紙參照〔福田恆存における「全體・絶對」〕(スクリーン表示)。かつ、それについては以下の文が參考になるのではなからうか。
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*「場(C”)を構成しながら、或は場によつて自己(AB)を変貌させながら、しかも一貫した人格を保ち続ける為には、場と自己とを冷静に眺め得る目を持たなければならない。或は現実の場と自己とを超えた何處かに(C:絶對・全體にといふ事か)自己を隠し預ける場所を持たなければならない」(『自己は何處かに隠さねばならない』?)又は『醒めて踊れ』?)。⇒テキスト13圖「完成せる統一體としての人格」論(スクリーン表示) |
【どうでせうか、此の邊についての諸氏のご感想は】
〔難解又は重要文〕:P180「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「理想主義も本能である。・・・」云々・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。それについては以下の文が參考になるのでは。
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拙發表文:《「口邊に苦笑をうかべる」東西文人:その時代的差異》より 恆存は以下のように言つてゐる。これはかなり重要な點である。 「人間の中には理想や神を求める要求がある。これは本能と言つてもよい」(講演カセット『理想の名に値するもの』より)と。更に別評論では「何とかして絶對なるものに迫らうとする行爲を『演戯』」とも言つてゐる。 であるから、神(絶對)を求める要求を「演戯」と言ひ換へる事が可能である。即ち恆存は「演戯」心を、肉体が持つ本能とは別の「精神の本能」と見たのである。と言ふ事は、「演戯」によつて得られる全體感(実在感・必然感)への希求をも本能的欲求と見た事になるのでは。むしろ全體感(実在感・必然感)への本能的欲求があるが爲に「演戯」の本能があるとも言ふ事が出來る。この二つは「演戯」⇒絶對⇒全體感(實在感・必然感)の有機的聯關として、表裏一對の本能と言ふ事が可能なのではなからうか。⇒別紙參照《「口邊に苦笑をうかべる」東西文人:その時代的差異》P7黄色部分:(スクリーン表示) |
【どうでせうか、此の邊についての諸氏のご感想は】
〔難解又は重要文〕:P180~「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
①
「西歐の近代化は實はさう言ふ夢の中から出てきた・・」云々・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。即ち「神に型どれる人間の概念の探究」と言ふ事を言はんとしてゐるのでは。
②
「ニーチェだとかドストイェフスキーに渇きを癒してもらはうと言ふ氣持・・」云々・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。⇒別紙參照:拙發表文〔「一匹と九十九匹と」の参考資料或はたたき台として〕よりP2黄色部分:(スクリーン表示)
③
「その夢に關しては、社會科學はどうしても手を出せないと言ふ限界を、私は心得てゐてもらいたい。・・」云々。或はP182「(自然・社會)科學も歴史も文學も藝術もフイクション(假説)」云々・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。それについては以下の文が參考になるのでは。
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《恆存の「フイクション」論まとめ》「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 鴎外の「かのやうに」と恆存の「假設」との違ひ 「私の言ふ『假設』はそれ(鴎外)とは違ふ。『神が事實でない。義務が事實でない』とは私は言はない。神(C)は、義務(D1)は、国家(C”)は、神話(C)は、歴史(C)は、家族(C”)は、そしてその他等々の『假説』(D1・C”)は全て事實であり、實在なのであり、『これはどうしても今日になつて認めずにはゐられない』のである。かうして鴎外と私とは虚實が入れ代る。恐らく明治と大正の差であらう」(全六覚書P703)・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。それについては以下の「對比表」が參考になるのでは。 先に簡略して書くと、「神(C)、義務(D1)、国家(C”)、神話(C)、歴史(C)=フイクション」は虚像ではない」と恆存は言ふのである。「『拵へ物』には違ひないが『創造物』であり『建造物』である」と。それが故に「事實であり、實在なので」あると。ただ科學と違つて證明(檢證)される必要がない。科學のヒポテジス(假説)と恆存のフィクション(假説)との相違點が其處にあるのだと。ここの處は何となく解つた樣でありながら、難解な部分が殘る。 〔全六『覺書』(P702~3)より〕
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【どうでせうか、此の邊についての諸氏のご感想は】
〔難解又は重要文〕:P183「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「人生そのものが假説なんだ」云々・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。⇒別紙參照テキストP10圖「完成せる統一體としての人格」論(スクリーン表示)
【どうでせうか、此の邊についての諸氏のご感想は】
〔難解又は重要文〕:P183~4「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「日本が過去の歴史と斷絶して近代化の世界に入つてしまつた以上は、この中でもつて自分にブレーキをかけながら、個人個人も、それぞれの仕事の分野でも、ブレーキをかけながらあがくといふことです。そして何より大事なのは現状認識だと思う。(中略)言ひ換へれば出發點に立つといふことなんです」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。思ふに是は別評論で言ふ「彼我の差に踏み留まる」(『近代の宿命』)と言ふ事を言はんとしてゐるのであり、「現状認識」とは、「西歐近代への適應異常」(物質の近代化だけで、「精神の近代化=個人主義の確立」の缺如)に気づけと言ふ事なのであらう。
【どうでせうか、此の邊についての諸氏のご感想は】
〔難解又は重要文〕:P195~9「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「演戯なしに人生はなりたたない。つまり假説なしには成り立たない。(中略)眞實といふのは、ひとつの關係の中にあるんです。個々の實體よりはその關係の方が先に存在している。人生といふものは、關係(目上⇔目下・親⇔子・師⇔弟子・國⇔國民、等々)が眞實なんで、一生涯自分のおかれた關係の中でもつて動いてゐる。いろいろな關係を處理していき、それらの集積された關係がその人の生涯といふもの。それを私は演戯だといふ。」云々P195~9全般。・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。それについては、重複借用箇所もあるが、以下枠文が參考になるのでは。
そして、P196の文中にある「虚數」とは、「關係/自己劇化」の事を指してゐるのであらう。何故ならば、場との「關係」を無視した、ただの演戯は「自意識過剩」の自己滿足でしかないからである。その「關係(D1)」を生かす自己劇化(D2)を可能にさせる爲には、「型・フレイジング・so called」等のソフトウェアの介在が必要となると言ふ事を、恆存は言つてゐるのであらう。しばしば借用する恆存の演劇用語「場面から生ずる心の動き(關係)を形あるものに見せるのがせりふの力學」との謂ひも、ひとり芝居(自己滿足)にならない「關係/自己劇化」の演戯を示してゐる。⇒參照「テキスト補:P11圖」の右二項目目:(スクリーン表示)。
ついでに、以下枠文に移る前に補足として記載して置く。
P196・7にある「古い寫實の精神から脱けきれない」・「寫實主義・リアリズムの災ひ」とは、「言葉(F)は物を指し示す物の影(寫實)」と言ふ寫實主義(近代主義)に惑はされ、言葉は「實在物=關係(D1)」を目に見える樣に傳へる用途を持つ」と言ふ、その重要性に氣附いてゐないと言ふ事を此處では謳つてゐるのである。⇒別紙參照:《西歐「反近代」文人と恆存思想との近似性「リアリズム」項》及び「テキスト補:P11圖」
上記の事等を參考にして、以下枠文に入るが、もう何度も題材に取り上げた文章ではあり、各位食傷氣味なところがあるかとも思ふ・・。
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拙發表文:《遠藤浩一氏著「福田恆存と三島由紀夫『戰後』」を讀む》より 恆存は三島が言ふ樣には、「近代主義者」にはあらず。恆存は「近代」に衰退(デクリネイション)の一様相があると見た。(単:マクベス解題P151、全2:シェイクスピアP22)そして、「近代化をネセサリー・イーブル(必要悪)」と考へた。(単:「生き甲斐といふ事」対談:近代化について P172) その上で、西歐近代の確立と超克とを説いたのである。明治以降日本の物質的近代化を「近代化」の全てと錯誤し、それのみで事足り得、精神的近代化缺如のいはゆる「近代適應異常」の日本に、恆存は警鐘を鳴らしたのである。まずは「精神の近代化(個人主義)」の確立を日本に説き、更に其處に留まらずに、個人主義(西歐近代自我)の限界からの脱皮として、「完成せる統一體としての人格」論を我々に提示したのである。 すでに危殆に瀕してゐる西歐近代自我(個人主義)に對して、「前近代」の精神性に留まつてゐる我々日本人はどうしたらいいか。それについて福田恆存はかく言ふ。 「西歐を先進國として、それに追いつかうといふ立場から、『アジアの前近代的な非人格性を否定し、西歐の近代精神たる個人主義を身につけろといふのではない。それこそ、私のいふ距離感の喪失にほかなりません。私はあくまで西歐の生きかたと私たちとの間の距離を認識しろといつてゐるのです。眼前にある西歐を、(中略)まず異質なものとしてとらへ、位置づけすること、さうすることによつて『日本および日本人』の獨立が可能になるでせう。それを日本人の個人主義の成立とみなす」(『日本および日本人』)と。 そして「日本人の個人主義」の型を以下の如き例への中で展開し、「完成せる統一體としての人格」論として提言するのである。 「一般の日本人は、自分の子供が戰場に駆り立てられ、殺されるのが嫌だからと言つて、戰爭に反對し、軍隊に反撥し、徴兵制度を否定する。が、これは『母親』の感情である。その点は『父親』でも同じであらう、が、『父親』は論理の筋道を立てる。國家(場面)といふフィクションを成り立たせるためは、子供が戰場に駆り立てられるのも止むを得ないと考へ、そのための制度もまたフィクションとして認める。が、彼にも感情がある。自分の子供だけは徴兵されないように小細工するかも知れぬ。私はそれもまた可と考へる。『父親』の人格の中には國民としての假面(役・自己劇化)と親としての假面と二つがあり、一人でその二役を演じ分けてゐるだけの事である。そして、その假面の使ひ分けを一つの完成した統一體として為し得るものが人格なのである。『私たちはしつかりしてゐない』という自覺が、『私たち』をしつかりさせてくれる別次元のフィクションとしての國家や防衛を要請するのである、要するに人格も法も國家も、すべてはフィクションなのであり、迫持(せりもち)、控へ壁などの備へによつて、その崩壊を防ぎ、努めてその維持を工夫しなければならぬものなのである」(P703全6『覺書』)(「テキスト十圖」:參照) 「問題は、すべてはフィクションであり、それを協力して造上げるのに一役買つてゐる國民の一人、公務員の一人、家族の一人といふ何役かを操る自分の中の集團的自己をひとつの堅固なフィクションとしての統一體たらしめる原動力は何かといふ事である。それは純粋な個人的自己であり、それがもし過去の歴史と大自然の生命力(時間的全體・空間的全體:小生注)に繫つてゐなければ、人格は崩壊する。現代の人間に最も欠けているものはその明確な意識ではないか」(全集六P703~4『覺書』)と。 二役のみならず何役(國民の一人、公務員の一人、家族の一人)、を操る「自己劇化」が出來得る人格として、「完成せる統一體としての人格」論がそこに登場するのである。 何役かを操る「自己劇化」を別な表現では、各場面場面で關係的眞實を生かしていくのだ、との内容で言つてゐる。その究極が「完成せる統一體としての人格」なのだと。以下恆存の文を索引しながらその内容を記載する。括弧内は小生注である。(「テキスト十圖及び十一圖」:參照) そしてその行爲(宿命/自己劇化)の内に、「真の自由=實在感・全體感(必然感)=幸福感」が齎される。さうした演戯のプロセスの内に、演劇(時間藝術)と同じく、今なすべきことをしてゐる、又は「なさねばならぬことをしてゐる」と言ふ必然感、時間的全體感(實在感)が味はへるのである。そして自己劇化のとるべき最終目的的「迂路」が「全體・絶對」といふ事になる。 恆存の言葉に換言すると、「場(C”)を構成しながら、或は場によつて自己(AB)を變貌させながら、しかも一貫した人格を保ち續ける爲には、場と自己とを冷静に眺め得る目を持たなければならない。或は現實の場と自己とを超えた何處か(C:絶對・全體)に自己を隠し預ける場所を持たなければならない」(『自己は何處かに隠さねばならない』?)又は『醒めて踊れ』?)と言ふ事になる。 此處まで書いてきた時、さう言へば恆存の生き方にも将にこれが貫道してゐるのでは、とはたと小生は思ひ到つた。と同時に恆存の以下なる文章が浮かんできたのである。 「いはばコップから水を飲むことすら完成せる統一體の一構成分子たらしめることだ。文學者とは(中略)たんなる現實の素材に意味的聯關を與へるやう強烈な意識をもつて、その生活を主題的に統一して生きぬかうとする人間のことにほかならない」(全二P297『急進的文學論の位置づけ』)。 |
【どうでせうか、此の邊についての諸氏のご感想は】
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