平成十八年四月十九日
『福田恆存を讀む會』
吉野櫻雲 發表文
四月:テーマ評論
全集第二巻所載:【『ロレンスⅠ』(「展望」昭和二十二年五月號)】
(D・H・ロレンス著『現代人は愛しうるか――アポカリプス論――』まへがき)
《當發表文では以下三つの問題を探求する》(文中括弧内は概ね吉野注)
1.「抑壓された我意はゆがんだ權力慾へと噴出口を求める」(P40)
2.「ロレンスの指摘する近代人の病根が、はたして近代以前にある日本人の心理 を支配してゐないかどうか」の檢證。(P31)
3.ロレンスの思想と福田恆存の「完成せる統一體としての人格」論、との近似性。
1.「抑壓された我意(A)はゆがんだ權力慾へと噴出口を求める」について
「ロレンスがぼくたちに提供した問ひはかうである――現代人ははたして他者を愛しうるか。(中略)個人(個人主義者と同意と見る)はついに愛することができぬ。個人は、クリスト教徒は、ついに他者を愛しえない。こころみに女を、隣人を愛してみよ――ぼくたちが肌と肌とをぢかに押しつけるやうにしてたがひに愛しあはうとするならば、そのむくつけき努力のうちにしだいに洗はれ露出してくるものは、他人を支配しようとする我意(A)であり、それは純粋なる個人(B)などといふものでは毛頭ない」
「スペイド(我意)をスペイド(我意)とはつきり宣言しないで、自分たちのうちの我意を愛他思想(B)のうちにひつくるめてしまはうとするからこそ、抑壓された我意はゆがんだ權力慾へと噴出口を求めるのである」(P39~40)
これは恆存の「ロレンス著『アポカリプス論』まへがき」であるが、加へて別評論ではこの樣にも言つてゐる。
「もし神に從屬する自己といふものの存在する餘地を残しておかなければ、支配する相手も、仕へる對象もない(個人主義の)世界では、支配=被支配の自己(A)はいたづらに髀肉の嘆をかこつのみで、やがては醜い權力慾の吐け口に轉じはしないだらうか。いや、これはたんなる豫測ではない――個人の純粋性(個人的自我)が社會の合理化に追ひ詰められて詰め腹を切らされたとき、個人主義は權力思想として登場せざるをえなくなつた」(昭和二十二年四月著『近代の宿命』全2:P458)。
今迄「『アポカリプス論』まへがき」を何度讀んだらうか。六七囘か、もしくは十囘位にもならうか。今囘再讀してみて、更に後文の『近代の宿命』と併せて考へてみると、今迄氣が附かなかつた點を發見した。それは上記「まへがき」の「個人は、クリスト教徒は、ついに他者を愛しえない」の文章には、二つの意が含まれてゐるのではなからうか、と言ふことである。
一つはクリスト教徒の愛の不可能性である。そしてもう一つは上文では「個人」と書いてあるが、「個人主義者」の愛の不可能性である。ついでに恆存の貴重な文があるので此處に附記しておく。「ロレンスが叛逆したのはプロテスタンティズムでありピューリタニズムであつて、クリスト教そのものではない」(單行本『現代人は愛しうるか』―アポカリプス論―P18)がそれである。
〔他者を愛し得ぬ二つの理由:抑壓された我意が辿る二つの噴出口〕
① クリスト教徒の愛の不可能性・・・クリスト教徒はその精神主義が故に、滿たされぬ「 集團的自我」の慾求、即ち「抑壓された我意=弱者の歪曲された優越意思」から、自己愛(我意A)を他者愛(B)と自己欺瞞する陥穽が待ち受けてゐる。個人的自我(純粋なる個 人:B)に潜り込み、其處で演じられるのは他者愛ではなく、抑壓された我意の變移した「ゆがんだ權力慾」としての我意なのである。上文に習へば「他人を支配しようとする我意(A)であり、それは純粋なる個人(B)などといふものでは毛頭ない」と言ふことになる 。もつと有り體な言葉でいへば、「慈悲だ、他者愛だ、自己犠牲だと、ご當人が純粋なる 個人(B)から發するものと思ひ込んでいたものが、おつとどつこい、只のお爲ごかし、 所詮は自己愛が出所の自己滿足でしかないしろものだつた」といふことであらう。
② 「個人主義者」の愛の不可能性(エゴイズムから「社會正義」に自己欺瞞)
| 《個人主義の限界:個人主義は畢竟エゴイズムの過程》 近代=「神の死」即ち「神意(宿命)喪失」→個人主義:神の代はりに自己の手による宿命演出→自己主張(表現)・自由意思(人間如何に生くべき)→自己完成(自己主人公化・自己全體化・自惚鏡)→エゴイズム(自己陶酔・自己満足・自己絶對視・似非實在感)→自己喪失(自己への距離感喪失)。 |
小生が過去に讀んだ理解の範疇では、①の内容でのみ捉へ、「抑壓された我意」或は「弱者の歪曲された優越意思」からなる、ゆがんだ權力慾の「噴出口」は、「個人的自我(愛他思想:B)」にのみ行くものと捉へてゐたのである。事實『アポカリプス論』はその事を強調してゐる。ニーチェが同じく「ルサンチマン(怨念)」の言葉で糾彈してゐるやうに、クリスト教徒の精神主義はその「自己欺瞞(A⇒B潜り込み)」を招來するのである。
が、現代人、(日本ではなく西歐の)個人主義者はさうした「精神主義」からは既に脱皮してゐるが故に(簡略すれば「テキスト」P5圖からP8圖への推移)、クリスト教徒の樣に自己欺瞞のまま他者愛づらして「知らぬの半兵衛」を決め込んでゐる訳にはいかない。何故ならば、西歐近代は實證主義によつてエゴイズムを「自我の必然」として、近代自我(個人主義)の俎上に明瞭に浮かび上がらせてしまひ、その爲「弱者の歪曲された優越意思」から個人的自我へ潜り込む形の「他者愛」、と言ふ逃げが利かなくなつたのである。あくまで「集團的(社會的)自我」でエゴイズムに直面しなければいけなくなつた。その結果どうなつたか。恆存の言ふ以下の局面、即ち個人主義者の「集團的自我:支配=被支配の自己(A)」も個人的自我と同樣に「醜い權力慾の吐け口に轉じ」てしまつたのである。
「ひとびとはあらゆる個人的價値の底にエゴイズムを見、それゆゑに個人は社會の前に羞恥する。が、現實を見るがいい――社會正義といふ観念の流行にもかかはらず、現實は醜悪な自我の赤裸々な鬪爭の場となつてゐるではないか、いや、なほ惡いことに、あらゆる社會正義の裏口からエゴイズムがそつとひとしれずしのびこんでゐる。當然である――いかに抑壓しようとしてもけつして消滅しきれぬ自我であり、それゆゑに大通りの通行禁止にあつてみれば、裏口にまわるよりほかに手はなかつたといふわけである」(全1:P650『一匹と九十九匹と』)。
即ち、個人主義者は集團的自我(「支配=支配の自己」:A)の場で、「社會正義」のお面を被るしか、近代自我の必然として露呈したエゴイズムの逃げ場(「醜い權力慾の吐け口」)を見出す手立てがなかつたのである。
換言すれば、「個人の純粋性(個人的自我)が社會の合理化に追ひ詰められて詰め腹を切らされたとき(テキストP8圖)、個人主義は権力思想として登場せざるをえなくなつた」(『近代の宿命』全2:P458)と言ふ事になる。最早「社會正義」と言ふ別名の「社會への有用性」にしか個人主義はその生き延びる道を失つたのである。(以下枠内參照)
そして「社會正義」のお面の裏にゆがんだ權力慾を忍ばせ自己を全體化し、「自己全體化(主人公化)」⇒「自己陶酔・自己満足・自己絶對視・似非實在感」⇒「自己喪失」、と言ふ、矢張り同じメカニズムを個人主義者は辿るのである。「愛の不可能性」は言ふまでもない。
「マクベス」と同じである。彼の獨白「ただ野心(支配=被支配の自己)だけが跳びはねたがる」のだ。マクベスは「王位簒奪(自己全體化)」と言ふ己が行爲を「社會正義」などとは自己欺瞞しなかつただけである。マクベス同樣「解放されて仕へるべき何物(絶對・全體・C)をも持たぬ自我の不安」から、個人主義者は社會正義を隠れ蓑にして、「自己全體化(主人公化)」へと自己を祀り上げるのである。それは恆存が言ふ、以下の個人主義(近代自我)の末路とも見事に符牒が合ふ。すなはち、最後に辿り着いた「社會への有用性(社會正義)」と言ふお面の内で、「自己全體化」に向けてエゴイズムを増殖するのである。(但し再度斷つておくが、これは西歐人の話なのである。「前近代」の日本人の場合は個人主義者ではなく利己主義者なので、「社會への有用性(社會正義)」と言ふお面を被つた芝居はクサく、その結果はもつと悲慘である。例へるに、昨今の與黨野黨にかかはらず二三流の政治家は、それに該當するのではあるまいか)
〔西歐十九世紀「近代自我(個人主義)」の結論(末路)・・・「個人は社會への有用性としての價値へ転落」。(全一P65『現代日本文學の諸問題』・『小説の運命Ⅰ』他から)〕
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*近代自我の必然として露呈したエゴイズム(個人主義は畢竟エゴイズム)⇒個人の敗北⇒近代自我(個人主義)の限界と凋落⇒個人の権威の否定⇒個人主義の超克⇒「個人的價値に對する社會的價値の優位」⇒個人は社會への有用性としての價値へ転落⇒社會正義のお面⇒自己全體化(自己主人公化)。 *「社會への有用性」を二十世紀は「二十世紀の理想」として以下の樣に引き継ぐ。 ①B(個人・藝術)のA(社會)への奉仕。社会革命に奉仕(民主主義文學=プロレタリア文學の延長として)。(P63全一『現代日本文學の諸問題』) ②社會(物質)的解決で個人(精神)の問題は解決: ◎自由は精神の問題でなくなる。社會的物質的自由にて解決(物質主義)。 ◎社會的平和があれば個人の問題は解決(平和の最高價値化。絶對平和主義へ)。 〔參考〕別な脱却方法=個人價値の再構築(恆存の主張):「一匹と九十九匹」の峻別。即ち「文學的=個人的自我」の追求。「個人は社會にたいする有用性」としての価値へ転落させるのではなく、「社會との葛藤を通じて個人の確立」を(P601全一『小説の運命Ⅰ』)。(拙論「個人の危機」參照) |
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2.「ロレンスの指摘する近代人の病根が、はたして近代以前にある日本人の心
理を支配してゐないかどうか」の檢證。(P31)
* 恆存は近代以前にある日本人の心理をも、「近代人の病根」即ち「抑壓された我意はゆがんだ權力慾へと噴出口を求める」が支配してゐると、以下の樣に鋭く指摘する。
「肉體の自律性は當然その反面に精神の自律性を前提とする。肉體(A)、あるいは物質で解決すべき事を、精神(B)の重荷とするなかれ――精神には精神のみの解決しうる問題をあてがひ、その領域と大權とを縮小せしめるにしくはない。そのときはじめて精神は自律し、その権威は輝くであらう。
が、ぼくたちは今日までなんと精神(B)を神聖化し、さうすることによつて精神の負荷を重からしめ、結果として精神を侮辱してきたことか。肉體(A)の自律性が確立してゐなかつたからである。明治以降の日本人はあらゆる物質的(A)なこと、肉體的(A)なことに、すべて精神(B)のべールをかぶせ、それをことごとく精神の發動として自己満足してきた。かれらは肉慾を肉慾として是認することをおそれ、それに精神的な衣をかぶせた。物慾を物慾として是認することをおそれ、それに藝術愛(B)や愛國心(B自己犧牲と言ふ名の)や愛他心(B)や、その他の主種雑多な大義名分をかぶせた。・・・」(P479全二『肉體の自律性』)
〔更に「近代日本文學の決定的な宿命」として、この樣に指摘する〕
*「(日本の自然主義)作者たちから生活苦をとりのぞき、栄誉ある社會的地位を與へてや つたならば、いつたいそのうちのいくたりが文學に求道の忠實を誓つたであらうか。近 代日本にあつては、文學(B)すらも文明開化の出世主義(A)のネガティーブな吐け 口になつてはゐなかつたか」。「ぼくたち(日本人)のうちに政治(A:支配=被支配 の自己)では救ひえぬどんな苦悩が存在してゐるといふのか」(全一P637『現代人 の救ひといふこと』)。
明治以来の殆どの私小説家が将に「テキスト九圖:精神主義的構圖」の世界であると、恆存は『現代人の救ひといふこと』『近代日本文學の系譜』他で述べてゐる。
*日本では西歐の神の代りを文學(藝術)がおこなつた。「知識階級を救つたのが文學( 神の代用)にほかならない」(全二P463『近代の宿命』)と恆存は言ふ。「近代日 本における文學(B)と政治(A)との乖離は、(中略)それぞれ自分の負ふべき重荷を 相手に背負はせた。(中略)知識階級は現實社會において世間的出世をすることをいさ ぎよしとしなかつた。が、社會關係において支配=被支配の自己が滿足せしめらえない とすれば、それはどこかに捌け口を求めずにはゐられない。當然それは純粋なる個人( B)の領域へと侵入しはじめたのである。神の棲まぬこの領域(日本の場合)は容易に 支配=被支配の自己の奪取するところとなつた。ここに明治の文學は、支配=被支配の 自己(A)をもつてしては割り切れぬ個人の純粋性(B)を守るものとしてではなく、外 部において抑圧された支配=被支配の自己を曲がりなりにも生かす手段として出発した のである」(全二P464『近代の宿命』)
「この支配=被支配の自己と個人の純粋性との混同(Aの問題をBに持込む事)から起こる混濁は、たしかに近代日本文學の決定的な宿命」(P465同)であつたと恆存は言ふのである。
即ち、ロレンスの言ふ「弱者の歪曲された優越意思」が此處日本にも、しかも神が棲まぬ国ゆゑにより安易に「自己欺瞞」として発揮されてゐるのを、恆存は指摘してゐるのである。「現實世間的に生きたかつた欲望(A)がその場で満たされなかつたためにかへつて純粋な、精神的なもの(B)にすりかへられた」(全二P464『近代の宿命』)のであると。
〔「近現代」日本人の精神構造〕
恆存は「近現代」日本人の精神構造を、「テキストP9:日本的精神主義構圖」の樣に指摘してゐるのである。そしてその代表として上述の(日本の自然主義)作者達を含め以下人種(人)を上げてゐる。
「近代人の病根」即ち、「抑壓された我意はゆがんだ權力慾へと噴出口を求める」、或は「弱者の歪曲された優越意思」が、以下の如く三者を代表として、近現代日本人の心に蔓 延してゐると。(参照圖「テキストP9:日本的精神主義構圖」)
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右三項ともパターンは「テキストP9:日本的精神主義構圖」だと言ふ事! |
私小説家(他現代作家にも共通すると) (參照:『現代人の救ひと言ふこと』全1P637) |
近代日本知識人 (參照:『日本の知識階級』全5P369) |
清水幾太郎(「典型」の理由) (參照:『近代日本知識人の典型(清水幾太郎を論ず)』) |
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集團的自我(A)の不滿 |
明治期小説家が持つ、文明開化の出世主義(A)から外れてゐる不滿。 |
「非近代日本」即ちA領域の閉塞情況への不滿(テキストP9參照) |
「非近代日本」即ちA領域の閉塞情況への不滿(テキストP9參照) |
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逃げ處としての 個人的自我(B) 「弱者の歪曲された優越意思」の噴出口 |
「文學(B:藝術)すらも文明開化の出世主義(A)のネガティーブな吐け口になつてゐた」 |
國家(C”)或は上位概念(C”)の爲の、「自己犧牲(他者愛):B」的精神。 |
「自己犧牲(他者愛)B」的精神の置き換へとしての「平和主義」 |
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自己完成・自己全體化・自己主人公化(C”) |
西歐自然主義(個人主義文學)を模倣した、しかし似て非なる藝術家(B)小説による「自己完成C”」探求。 |
「日本の知識階級は言はば絶對的自己肯定者(C”自己主人公化)として終始してきた」 (『日本の知識階級』P369) |
「最も居心地のよい場所・・・「護符・後ろ楯の思想:C2」に守られながら「安全地帶(C”: 絶對的自己肯定?)で颯爽たる抵抗」をする事。 |
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C2:護符・後ろ楯・保身術 |
詩神・美神 |
上位概念(世界・社會・階級)を支へる西歐思想家。 |
佛思想家「コント」・「プラグマティズム」 |
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「テキストP9」圖の非近代日本(A)が齎す後ろめたさ。(何に對して)・・・先進國・先進性・近代化と言ふ言葉に對して。(距離感喪失) |
先進國西歐文學「自然主義」への後ろめたさ。 |
「共産主義の方が資本主義よりも先に進んでゐるといふ日本の知識人の考へ方」・・・「共産主義が持つ国際主義(インターナショナリズム)に、先進性があると言ふ幻想」 |
日本の非近代(A) が故の、「共産主義の先進性」に對するコンプレックス。 |
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3.ロレンスの思想と、恆存の「完成せる統一體としての人格」論との近似性。
ロレンスは『アポカリプス論』最終章で以下の樣に言ふ。
「吾々は生きて肉のうちにあり、また生々たる實體をもつたコスモスの一部であるといふ歡喜に陶酔すべきではなからうか」「吾々の欲することは、虚僞の非有機的な結合を、殊に金錢と相つらなる結合を打ち毀し、コスモス、日輪、大地との結合、人類、國民、家族との生きた有機的な結合をふたゝびこの世に打ち樹てることにある。まづ日輪と共に始めよ、さうすればほかのことは徐々に、徐々に繼起してくるであらう」(『アポカリプス論』最終章)
上文及びロレンス思想要約の本論四十頁最終部分「自律性はうちにもとめるべきではない・・・」云々を、恆存の言葉で表現したのが「完成せる統一體としての人格」論(「テキスト」十頁圖)と小生は思へるのである。恆存は「前近代」と言ふ日本的桎梏を打破する爲に、日本人への遺言として「全集六『覺書』」に再度それを纏めたのではなからうか。ただ兩者の違ひは、「愛は迂路をとらねばならぬ」と言ひ「その迂路をば宇宙の根源(コスモス:C)を通じること」とロレンスが主張したに對し、恆存は「全體・絶對:C」と言ふに留め、何を選擇するかを各自の判斷に委ねた點である。尚、「完成せる統一體としての人格」論は「全集六P703~4『覺書』」を纏めての小生の用語である。
「完成せる統一體としての人格」論について恆存の各評論から纏め、かつ小生の説明も加へ此處に簡略的に表現すると、以下の通りになる。(「テキスト十圖」:參照)
上記の如く危殆に瀕した西歐近代自我(個人主義)に対して、「前近代」の我々日本人はどうしたらいいか。福田恆存はかく言ふ。
「西歐を先進國として、それに追いつかうといふ立場から、『アジアの前近代的な非人格性を否定し、西歐の近代精神たる個人主義を身につけろといふのではない。それこそ、私のいふ距離感の喪失にほかなりません。私はあくまで西歐の生きかたと私たちとの間の距離を認識しろといつてゐるのです。眼前にある西歐を、(中略)まず異質なものとしてとらへ、位置づけすること、さうすることによつて『日本および日本人』の獨立が可能になるでせう。それを日本人の個人主義の成立とみなす」(『日本および日本人』)と。そして「日本人の個人主義」の型を以下の如く「完成せる統一體としての人格」論として提言するのである。
「一般の日本人は、自分の子供が戰場に駆り立てられ、殺されるのが嫌だからと言つて、戰爭に反對し、軍隊に反撥し、徴兵制度を否定する。が、これは『母親』の感情である。その点は『父親』でも同じであらう、が、『父親』は論理の筋道を立てる。國家(場面)といふフィクションを成り立たせるためは、子供が戰場に駆り立てられるのも止むを得ないと考へ、そのための制度もまたフィクションとして認める。が、彼にも感情がある。自分の子供だけは徴兵されないように小細工するかも知れぬ。私はそれもまた可と考へる。『父親』の人格の中には國民としての假面(役・自己劇化)と親としての假面と二つがあり、一人でその二役を演じ分けてゐるだけの事である。そして、その假面の使ひ分けを一つの完成した統一體として為し得るものが人格なのである。『私たちはしつかりしてゐない』という自覺が、『私たち』をしつかりさせてくれる別次元のフィクションとしての國家や防衛を要請するのである、要するに人格も法も國家も、すべてはフィクションなのであり、迫持(せりもち)、控へ壁などの備へによつて、その崩壊を防ぎ、努めてその維持を工夫しなければならぬものなのである」(P703全6『覺書』)(「テキスト十圖」:參照)
「問題は、すべてはフィクションであり、それを協力して造上げるのに一役買つてゐる國民の一人、公務員の一人、家族の一人といふ何役かを操る自分の中の集團的自己をひとつの堅固なフィクションとしての統一體たらしめる原動力は何かといふ事である。それは純粋な個人的自己であり、それがもし過去の歴史と大自然の生命力(時間的全體・空間的全體・C)に繫つてゐなければ、人格は崩壊する。現代の人間に最も欠けているものはその明確な意識ではないか」(全六P703~4『覺書』)
二役のみならず何役(國民の一人、公務員の一人、家族の一人)、ロレンス的に言へば「人類、國民、家族との生きた有機的な結合」の役、を操る「自己劇化」が出来得る人格として、「完成せる統一體としての人格」論が登場するのである。
何役かを操る「自己劇化」を、恆存の別な表現で言へばかうなる。各場面場面で關係的真実を生かしていくのだ。それが「完成せる統一體としての人格」なのだと。以下恆存の文を索引する。(「テキスト十圖及び十一圖」:參照)
何役かを操る各場面でそこから発生する、關係の「真実を生かすために一つのお面をかぶる(役を演ずる・自己劇化)」「演戯なしには人生は成り立たない。つまり假説なしには成り立たない」「眞實といふのは、ひとつの關係の中にある。個々の實體よりはその關係の方が先に存在している。人生といふものは、關係が眞實なんで、一生涯自分のおかれた關係の中でもつて動いてゐる。いろいろな關係を処理していき、それらの集積された關係がその人の生涯といふもの。それを私は演戯だといふ」「われわれがこしらへたものは、相對的であつて絶對ではないといふ原理をちやんと心得て、こいつを絶對化(假説の完璧化・築城の完璧化)しようといふ努力」。(單行本『生き甲斐といふ事』中、對談「反近代につひて」P195・199)
即ち要約すれば、各場面場面(國・企業・夫婦・親子・家庭・兄弟・師弟・友達・他者・等)から生ずる關係の眞實(「誠實・至誠」と言ふ名の宿命)を生かしていく(各場面展開の關係的眞實を生かす:小生的表現)行動の中に、それが典型として「十圖」の如く果たせられた場合に、「完成せる統一體としての人格」が現成するのである。
そしてその行爲(宿命/自己劇化)の内に、「真の自由=實在感・全體感(必然感)=幸福感」が齎される。さうした演戯のプロセスの内に、演劇(時間藝術)と同じく、今なすべきことをしてゐる、「なさねばならぬことをしてゐる」と言ふ必然感、時間的全體感が味はへるのである。そして自己劇化のとるべき「迂路」が「全體・絶對」といふ事になる。
真の自己劇化とは、「何とかして絶對なものを見いださう」とする行爲である。即ち、その熱情で關係の眞實を生かしながら、人格を「テキスト十圖」の如く「完成せる統一體」として築城していく行爲と言へるのではなからうか。恆存の文章を借りれば、「ハムレットは、これが宿命であると納得のいく行爲の連續によつて、自己の生涯を滿たしたいと慾して」(P541)ゐたといふことになる。(恆存の生き方にも、将にこれが貫道してゐたと思ふのは小生の讀み過ぎであらうか)
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