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平成十八年五月二十八日

『福田恆存を讀む會』

吉野櫻雲 發表文

五月:テーマ評論

全集第二巻所載:【シェイクスピア』(四十七歳。「批評」第六十號:昭和二十二年四月刊)】(注:初作昭和十三年大学院時。「若氣の至りで『マクベス』を失敗作と断定」と「第二巻覺書」にて後述

 

本「テーマ評論『シェイクスピア』」の最重要項目は「P22上段」から最終章である。此處『マクベス』論では恆存の主題の一つ「近代適應異常」の對象である「西歐近代」とは何か、の本質を窺ふ事が出來る。その負の側面(一樣相)を。

《當發表文では以下三つの問題を探求する》(文中括弧内は概ね吉野注)

1.『マクベス』に先取されてゐる近代理智の時代的衰退様相・・・戯曲『マクベス』に見る事が出來る、近代理智(自由・個人主義)のひとつの態樣。即ちそれは近代が持つ衰退(「デクリネイション」)の一樣相なのではなからうかと言ふ事。(P22)

2.西歐近代自我(個人主義)が持つ「自由」=孤獨(宿命・關係喪失)、と言ふアイロニー。即ち自由(自我解放)の裏にしのびこむ「解放されて仕へるべき何をも持たぬ自我の不安」と言ふ近代が持つ負の側面。(P27)

3.『マクベス』に窺へる《個人主義の限界:個人主義は畢竟エゴイズムの過程》(P27)

近代=「神の死」即ち「神意(宿命)喪失」→「個人主義」即ち神の代はりに自己の手による宿命演出→野心(マクベス)・自己主張(表現)・自由意思(人間如何に生くべき)→自己完成(自己主人公化・自己全體化・自惚鏡)→エゴイズム(自己陶酔・自己満足・自己絶對視・似非實在感)→自己喪失(運命という名の「チャンスに満ちた事件の羅列」(P25)を追つて行く、野心が逢着する「自己喪失」)。

 
上記三項目について、恆存の文を辿りつつ概略するとかうなる。

「近代」とは何か。福田恆存は、「近代」に衰退(デクリネイション)の一様相があると見た(P22)。そして、「近代化をネセサリー・イーブル(必要悪)」とも考へた。(単:『生き甲斐といふ事』対談:「近代化について」 P172)

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「あすが来、あすが去り、さうして一日一日とこきざみに、時の階を滑り落ちて行く、この世の終りに辿り着くまで。いつも、きのうといふ日が、愚か者の塵にまみれて死ぬ道筋を照らしてきたのだ。消えろ、消えろ、つかの間の灯火!人の生涯は動きまはる影にすぎぬ。あはれな役者だ、ほんの自分の出場のときだけ、舞台の上で、みえを切つたり、喚いたり、そしてとどのつまりは消へてなくなる。白痴のおしゃべり同然、がやがやわやわや、すさまじいばかり、何のとりとめもありはしない」
(『マクベス』第五幕第五場)

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 このマクベス獨白の中に近代人(個人主義者)の呻きを恆存は感取したのである。以下恆存の論を概略する。

「王冠や笏(神に與へられた宿命、關係:『王権神授』)を取り去つてみればはたして人は何者であるか。ハムレットにしてデンマークの王子(宿命保持者)でなければ、野心家(自由・個人主義者)マクベスたらざるをえないではないか」と。

さうしたアイロニカルな性質を持つ、近代自我「開放さるべき個性の實體とは何か」。ただそこに露呈されてゐるものは、「解放されて仕へるべき何物(絶對・全體)をも持たぬ自我の不安」ではなかろうか。近代の負の側面である「近代=全體喪失=宿命(關係)喪失=自由=孤独=自我の不安」、が其處にあると恆存は言ふのである(正の側面:西歐近代が持つ實證精神=「神に型どれる人間の概念の探求」)。

「全體喪失=宿命(關係)喪失」を、恆存は衰退(「デクリネイション」と見た。そしてシェイクスピア自身にも「(ルネッサンスの子としての)昇騰してやまぬ想像力の自由な羽ばたきの影に何か黒い空洞(近代の孤獨感)があって、恐らく時折はそこを冷たい風がさつと通り抜けるのが感じられたに相違ない」(P27)のだ、と恆存は鋭敏に察知した。そしてその「自我の不安」、それがマクベスの主題であると。

自由(ルネサンス・近代の別名)、とは「動きまはる影」、そして個人主義とは「あはれな役者」ではなかろうか。「動きまはる影」とは、仕へるべき全體・絶對(神)を喪つた近代人「個人主義者」の姿であり、ルネサンス及び近代は「中世―神」(ベルジャーエフ?)の側面を併せ持つのであると恆存は言ふ。

そして、かうした「宿命(関係)不在=自由=孤独=自我の不安」から取る人の行動とは何か。「ほんの自分の出場のときだけ、舞台の上で、みえを切つたり、喚いたり、そしてとどのつまりは消へてなくなる。白痴のおしゃべり同然、がやがやわやわや、すさまじいばかり、何のとりとめもありはしない」に過ぎぬのではなかろうか。さうした「關係」を喪失した、ただの「動きまはる影、あはれな役者」が「自由」・「個人主義」の實體なのではなかろうかと恆存は言ふのである。更にこの樣にも。「シェイクスピアの悲劇や史劇に登場してくる人物たちのうへに蔽いかぶさる、あのやりきれぬ孤獨感はいつたいなにものか。ハムレットもマクベスも、その孤獨感に堪へ、齒ぎしりしてゐるではないか」と。そして個人主義とは「その發想も歸結も、一口にいへば、孤獨といふ観念にある」(『個人主義からの逃避』)と。

叉、「自由を内に求めれば(宿命・關係喪失すれば)孤獨になる。それを外に求めれば、特権階級(自己全體化・自己主人公化・マクベス化)への昇格を目ざさざるをえない」(『人間・この』P561)とも言ふ。その「特権階級(自己主人公化)」なるものこそ、なんのことはない「動きまはる影、あはれな役者」なのである。ただその實體がナルシズムが糊塗してゐるがために見へない、と言ふ事なのであらう。

恆存は更に言ふ。

「ワイルドではないが、この世ではギルデンスターンがハムレット役を振り當てられ、ハムレットがギルデンスターンの代役をつとめさせられる(宿命喪失が招來する自由意思として)。近代の目標とした個性の尊厳(自由・個人主義)といふ事が凡人に教へた夢の内容とは、そんなこと(自分の作つた出場でのほんの一時の自己滿足的大見得)だつたのか。(恆存は、「宿命=強制禁止」不在からは個性は形造られない、と評論『せりふと動き』で言ふ。それが故に)そして彼等(個人主義者)の最後に辿りつく慰藉と休息とは、『人の生涯は動きまはる影にすぎぬといふ諦め(自己主人公化・自己全體化による自己陶酔)』以外に何も無いのであろうか。シェイクスピアが『マクベス』を書いたときから三百年のちぼくたち現代人にとつても、いまだ解答は保留されたままなのであらうか」(P28)、と近代自我の實體をこの樣に看破するのである。

此處には「實在感・全體感・必然感」の問題がある。それは「全體・絶對」⇒「宿命/自己劇化」によつて得られるのであり、自由と言ふ名を借りた「ギルデンスターンがハムレット役を振り當て」からではそれは得られない、と言ふ事なのである。マクベスのした如く自由の手による「外部的な行爲の連續としての運命を頼る」事(或は自由を質に場當たり的に生きる事)からは「實在感・全體感・必然感」は得られないと言ふ事を言つてゐるのである。

また恆存は、『近代の宿命』の中でかうも言つてゐる。「神(絶對・全體)なくして個人の権利を主張しえない。それをあへてなすことは悪徳である」(全2「近代の宿命」P463)と。そこにはエゴイズムの陥穽が待ち受けてゐるのである。
 即ち、「個人が、個人の手で全體性を造りあげよう」といふ事。その意識からは幾らでも自己弁護、自己韜晦は可能なのである。そして幾らでも自己正當化による自己満足・ナルシズムに浸れるのである。そしてそれは個人主義に伴屬する「自意識」の過剰がもたらす陥穽なのだと、「P28下段」で以下の如く恆存は言つてゐる。

「(自己全體化を謀つた)マクベスこそは想像力の源泉そのものを涸す自意識」過剰の所有者であると。観念と自意識の過剰は想像力(自己劇化の力と言つてもいいのでは)そのものを涸すのであるとも。

又更にこのやうにも。シェイクスピアは想像力(全體への自己劇化?)によつて、「ルネ

サンスの子として、見事に自ら豫感した危機(黒い空洞・近代の孤獨、自我の不安)を乗越へている」(P28)と。

故に我々は、シェイクスピアには到底及びも付かないが、マクベスの陥穽に堕する事なく、自己劇化(想像力)によつて近代の一様相「衰退」から脱出し、「自己の超近代」を遂げなくてはならない。ではそれはどのやうに、自己劇化をどのやうにしたら、近代の迷妄からの脱出が可能なのか。

恆存は西歐近代自我(個人主義)の限界を上述のやうに論述した上で、そして近代の確立(「精神の近代化」)と超克(「完成せる統一體としての人格」論)とを、困難と知りつつ日本人に更に提示するのである。 

をはり


《會員發表文》