平成二十一年十月十一日
『福田恆存を讀む會』
十月選擇評論:全集第二巻所收『謎の喪失』(「文學季刊」第五輯 昭和二十二年十二月刊。三十六歳著)
此の評論を含め、全集一二巻の文學評論を讀みながら、果たして當事の文學ファンのどれだけが、是等を良く理解しえたであらうか、と素朴な疑問が湧いてくるのを禁じない。忠實な恆存ファン
でなくして、以下なる文章に出くはし、それをしかと判讀し得たのであらうか。
*「もし眞に不可測のものを尋ねあぐねるものがあるとするならば、それは純粋に個人の内面に、すなはち外部からはうかがへず、また本人にすらそれとは明瞭に信じがたく把捉しがたい心理に求められなければならなかつた」。
*「大正から昭和にかけての現代文學における自己喪失とは、じつはこのやうにして自己内面の不可測なるものの存在に發言權を禁じたところに結果したものにほかならない」。
*「ぼくたちの現代が感じた危機は封建的氣質のうちにあつたのだ。(中略)ぼくたちは近代的な人間概念のてまへ自分たちの封建制を追放してしまつた結果、その空虚にたへかねたのだ。自己喪失は『うちなる権威』を失つたからではなく、自己の肉體を失つたからにほかならない。ひとびとはそれを自己喪失といふ同一のことばで諒解しようとしてゐるのである」。
「自分たちの封建制を追放してしまつた」とは何を言はんとしてゐるのであらうか、等々、判讀の手掛かりを、彼等は持ち得たのであらうか。小生は、正鵠を射てゐるか否かは定かならぬが、何とか手掛かりを探して、以下項目で判讀を試みてみたのではあるが・・。
*今評論選擇理由・・・川上會員より。
*引き續き川上會員より、LEADING(READING)へ・・・。
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〔以下は、吉野櫻雲發表文〕
と言ふ事で、今評論も中々の難解にしてかつ手ごはく、そしてどの文章も重要なのであるが、特に以下内容文を此處に取り上げる事とする。更にいつもの如く難解なる内容については、手助けを他評論に仰ぐこととする。(以下文中傍線及び括弧内は概ね吉野附記。「P9圖」云々は「讀む會テキスト」頁を表す。「A・B・D2」等も同テキスト三頁を參照の程)
〔難解又は重要文〕:P280上下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「認識の機能がその優位を許されるにいたつたのはさう昔に屬することがらではない。~~(中略)現代人は認識をもつとも重要視し、したがつて現實を正しく認識してゐるひとをもつとも珍重する」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。察するに、それは以下の邊りの消息を物語つてゐるのではなからうか。
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拙發表文:「『一匹と九十九匹と』の参考資料或はたたき台として」より「 」内が恆存文。 「自然を、現實を正しく認識するのは、自然のうちに、あるいは現實のうちに正しく生きようといふ目的のためにほかならない。近代が――ことに十九世紀が、この手段を目的から獨立せしめ、それ自體の自律性を獲得せしめたのである。 現實を正しく認識しようといふのは、自分の目のまへに自分から離れたものとして眞實を設定しようといふことであり、現實のうちに正しく生きようといふのは、現實とのかかはりにおいてみずからが眞實にゐようといふことであつて、兩者はおのづから別個のことがらである。(中略)倫理や心理がすでに科學の對象となつているのみならず、哲學すらその形而上學としての性格をおびやかされ、たんなる認識の領域に閉じこめられてしまつてゐる。眞實を知ることではなく、眞實にゐようとする僕たちの素朴な欲求は――それが今日においてもなほ消滅しないものであるかぎり――もはやいかなる學問によつても応へられぬのである」(『作品のリアリティーについて』全2:P266~)。 この後半の事を恆存はかうもいつてゐる。「哲學は、たとへ個人の側に立つたとしても(中略)論理を踏みはづさぬかぎり、合理と辯證とから脱出することはできず、個人の純粋性に徹し、社會の蚕食からこれを救い出すことはできない。それゆゑに、ニーチェをはじめ19世紀後半の哲學者たちは文學への接近を企てざるをえなかつたのである。ニーチェは、神は死んだといつた――が、それも、神を回復したかつたからにほかならない。かれの憧憬と彼の現實認識との相反がかれを錯乱に導いた」(「近代の宿命」P457) そして、十九世紀末~二十世紀初頭の以下の作家や詩人、思想家がその問題に手を觸れて、そこに踏み留まつた、と恆存は言ふ。 フローベール又は彼等(ボードレール・ニーチェ・ドストエフスキー・ロレンス)は、實證主義(現實を正しく認識する)よりも、現實のうちに正しく生きる事の方を選んだのだと。 即ち「現實とのかかはりにおいてみずからが眞實にいようと」いふ事の方を大切だと、彼らの天賦の才で直感してゐたといふ事であらう。(「關係と言ふ眞實を生かす」と同と言ふ事か)。彼等は手段と目的を混同する過ちを冒しはしなかつたと言ふ事であらう。目的から分離した手段に否を唱え、その時代の方向性に警鐘を鳴らしたのである。 |
〔難解又は重要文〕:P283下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「科學がひとびとにあらゆる現實は説明しえ、あらゆる謎は解決しうるといふ信念を與へたとき、人間はなにごとにたいしても驚異を失つてしまつた。(中略)ひとびとは可能性に盲目的によりかかつてゐて、現實のなぞにたいしてはたかをくくつて驚かぬ。(中略)
ひとびとは謎を失つた。驚かうとする心のないところに謎は存在する意味を持たない。現實に謎がなくなつたのではない。――謎に重要性がなくなつたのだ。といふことは、いずれは説明がつくと信じてゐる以上、謎の存在を氣にかける必要がなくなつたといふことである」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。何故「ひとびとは謎を失つた」のか。
即ちかう言う事だ。「科學の將來を信じて」、或は「科學が(中略)未來に想定してゐる(中略)大いなる必然性への信頼」を盲信して、「いずれは説明がつくと信じてゐれば」、その結果として「驚かうとする心」もなくなり、當然「謎」もなくなつてしまふと言ふ事になる。
〔難解又は重要文〕:P285上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「現在の不可能に直面して、問題を將來の可能性にずらしてしまつてはならないのだ。解決が可能か不可能かは問題ではない。現下の謎を解明することが急務であり、さうした情熱と努力との存在するところに、謎は嚴としておのれを主張してゐるのを知るばかりである」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。此の文の前にある、「眞の科學的態度とは現實の不可測性のまへに、萬事が解決しうるといふ固定觀念をすてること」を、言葉を變へて強調してゐるのであらう。
〔難解又は重要文〕:P286上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「ぼくたち(近代日本)のまへに前人未踏の空白が横たはつてゐるのではない。未來はすべて見とほしなのだ。歐米の先進國が歩いていつた足跡が舖道一杯に殘されてゐる。(中略)近代の日本は一寸さきがやみである時間の展開といふものをもたなかつた。(中略)したがつてぼくたちのまへに謎は謎として存在したことはなかつたのであり、謎の喪失それ自體も經驗してはゐないのだ。謎を自覺しないものが、その喪失を知るわけがないのだ」・・・重要文として記載した。
〔難解又は重要文〕:P286上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*原文讀要:右文から下段の後から四行目迄:「十九世紀のヨーロッパはたしかに過去を必然の絲でぬひとほさうとした。また未來をそのおなじ一本の絲からひきださうとこころみた。が、その絲のはしを握つてゐたのはかれら自身の手であつた。~下段七行目」。
*P286下「ヨーロッパ人の未來はかれらがどう考へたにしろ、無限の可能性が横たはつてゐたが、ぼくたちのの未來はヨーロッパ人によつて決定されたひとすぢの道があるだけであつた。(中略)~~近代日本人のまへに現實はつひに謎として結晶することがなかつた」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。察するに、それは以下の邊りの消息を物語つてゐるのではなからうか。
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拙發表文:『近代の宿命』から( )内は吉野注。 「歴史を持つ社會は、自ら回復しえぬやうな病ひをけつして背負ひこまない。歴史の意識をヨーロッパにはじめて植ゑつけたものが中世であり、そのクリスト教にほかならなかつた。ギリシャに歴史はない。――絶對者のないところに歴史はありえないのである。統一性と一貫性との意識が人間の生活に歴史を賦與する。(即ちテキストP5~8構圖の變遷)とすれば、ぼくたち日本人がヨーロッパに羨望するものこそ、ほかならぬ近代日本における歴史性の缺如以外のなにものであらうか」(『近代の宿命』全二P460)。 *「統一性と一貫性」・・・とは、「テキストP5~8構圖」における三角圖とC(神・絶對)の不動と言ふ事。そしてAB分離線の下降(變遷)のみがあつたといふ事に、その歴史性(統一性と一貫性)の存在が證明されてゐると言ふことである。 |
〔難解又は重要文〕:P286下~287上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「(近代日本人の)觀念が固定したばかりではない。現實そのものも固定してしまつてゐた。(中略)獨歩の『武蔵野』における自然の發見は、二葉亭の『あひびき(ツルゲーネフ著:露1818~1883)』をとほしてヨーロッパの自然主義文學に、さらにロマンティックたちの自然發見にみちびかれたものでしかない。(中略)かれの(獨歩)の自然を見る眼はすでにヨーロッパ人によつて規定されてゐる」。(中略)
「近代の日本はまだ一度も前人未踏の境地になどふみこんでゐないのだ」。
① 「(近代日本人の)觀念が固定したばかりではない。現實そのものも固定してしまつてゐた」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。察するに、それは以下枠文の消息を物語つてゐるのではなからうか。
そして「觀念が固定した」とは、テキスト補「P3:日本的精神主義構圖」の、「C2:後楯・護符(西歐概念=上位概念)」seishinshugi21.11.pdf へのリンクに、近代日本人が固着(沈湎)してゐる事を言つてゐるのではなからうか。
また「現實そのものも固定してしまつてゐた」とは、同圖のA(現實)部分の非客體化(○⇔○)を言つてゐるのではなからうか。
② 「ヨーロッパの自然主義文學に、さらにロマンティックたちの自然發見にみちびかれたものでしかない」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「ヨーロッパの自然主義文學」とは、「西歐リアリズム文學」と言ふことであらう。そして「ロマンティックたちの自然發見」とは、以下枠文の「自然の、人間性の、あるいは社會の、現實が美であるといふロマンチック(西歐浪漫主義)たちの觀念」と言ふ事を指してゐるのであらう。
察するに、それは以下の邊りの消息を物語つてゐるのではなからうか。
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拙發表文:『文學の效用』より 〔難解又は重要文〕:P262上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 「日本の自然主義作家のリアリズムを支へたものは、かれらなりに人生いかに生くべきかの倫理的當爲だつたのだ。――と同時に、かれらはそこにとどまる。技術も倫理もとにかく飜譯可能であつた――そして飜譯しうるかぎり、飜譯によつてつかみうるかぎり、かれらは自分のものとなした。(スクリーン表示:日本的精神主義構圖)が、飜譯のついに移しえぬものがある。それをかれらはみごとに見のがしてしまつたのだ。美がそれである。リアリズムは美を志向する古き藝術概念の否定などでは毛頭ない。古いも新しいもないのだ。藝術は美の追求と形成とにほかならぬ。リアリズムの否定したものは、自然の、人間性の、あるいは社會の、現實が美であるといふロマンチックたちの觀念であつて、藝術の美ではない。現實の醜惡であるといふ嚴たる認識に直面した時代(西歐十九世紀後半)に、なほその醜惡を素材として美を志向し、藝術を保證するための、いはば苦しまぎれの方法がリアリズムなのだ」。 |
〔難解又は重要文〕:P287下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「ひとが合理主義であり、同時にオプティミストであるといふことは、どこかに大きな錯誤がひそんでゐるにさうゐないのだ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。即ち、人が未知の行動への一歩を踏み出す時は必死の覺悟(「積極的な意思を隨伴」)を必要とし、オプティミックな氣分になど浸つてはゐられない、と言ふ事なのであらう。それよりもつと、以下枠文の内容に繋がる事を謂はんとしてゐるのであらうか。簡略するに、以下部分に當然オプティミズムは存在しない。
*「實證主義そして社會の合理化に追ひ詰められて詰め腹を切らされた、個人の純粋性(個人的自我)の『可能性の領域は壓迫され、狹窄になり、つひに絶無になつたとき、ひとびとはその代償として獲得できた現實世界における自由を、自分の掌のうへにみつめて、これはひどくつまらないものだと氣づいた』」。
*彼等は甘んじて、「19世紀の個人主義的リアリズム」による自我の否定にさらされながらも、「つひに否定し扼殺しきれない個人の純粋性を発見することを念じて」ゐた。
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拙發表文:「『一匹と九十九匹と』の参考資料或はたたき台として」より 近代自我(個人主義)の限界を、次のやうに恆存は書いてゐる。 實證主義そして社會の合理化に追ひ詰められて詰め腹を切らされた、個人の純粋性(個人的自我)の「可能性の領域は壓迫され、狹窄になり、つひに絶無になつたとき、ひとびとはその代償として獲得できた現實世界における自由を、自分の掌のうへにみつめて、これはひどくつまらないものだと氣づいたのである。こんな程度のもののために、可能性の夢を犧牲にしてきたとはばかばかしい。だまされた、と狂氣のやうにわめきだした。ニーチェ(1844~1900)は氣が狂つた。フローベールはもつと冷静に復讎の手段を考へだした。――個人の敗北を身をもつて敗北してみせること、可能性の天窓(B)は一分のすきもなく完全にとざされ、現實世界で獲得できた自由のいかにつまらなく、それがあまりにつまらぬために自由でもなんでもないといふことを、克明に描寫し證明してやること(それが小説「マダム ボヴァリー」)」〔「現代日本文学の諸問題」全1P59〕。 フローベールの夢想は、イエスの人格化「理想人間像」(絶對・全體)にあったのだと『小説の運命』かで恆存は言つてゐた。「ロマネスクな夢想こそが、作品の裏がはからあのリアリスティックな無表情の記述の保證に立つてゐるにほかならない」(『小説の運命Ⅱ』P611)と。 リアリズム(手段)によつていくら人間のエゴイズム(即ち自我の必然)を知り得たところで、「人間如何に生くべき」の命題である自己完成(目的)なんかには到達しないのだといふことを。又、自己喪失しかそこからは生れてこないのだといふことに彼等は「深い苦澀を味はつて」ゐたとも。 彼等は甘んじて、「19世紀の個人主義的リアリズム」による自我の否定にさらされながらも、「つひに否定し扼殺しきれない個人の純粋性を発見することを念じて」ゐたのである。P269。實證主義(自然を、現實を正しく認識する)が到達した近代自我(個人主義)の敗北の上に、更に生き延びる、「個人の純粋性・個人的自我」と關係を保つ絶對・全體に超近代の夢を繋いだのである。「正しく生きよう」といふ夢想をそこに。 |
〔難解又は重要文〕:P288上下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
原文讀要:以下文から下段七行目
*「悲劇は、すべてが合理的に説明のつく現實(舶載もの)のうちにあつて、しかもぼくたちの人間概念がまことに不合理きはまるものだつたといふことのうちにある」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。即ち、「テキスト:P8」の「すべてが合理的に説明のつく現實」と言ふ舶載ものの構圖上に、「日本的精神主義構圖seishinshugi21.11.pdf へのリンク」を接ぎ木してしまつた、といふことではなからうか。恆存の文を借用しながらもう少し長く説明すると以下の樣になる。
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拙發表文:《此處が解りにくい福田恆存》P11より 即ち、以下の文に繋がる。 「言葉(F)と話し手との間に距離(E)を保ち、その距離を絶え間なく變化させねばならぬのと同樣に、相手と共に造り上げた場と自分との間(D1)にも距離を保たねばならず、その距離を絶えず變化させ得る能力がなければいけない。さういふ能力こそ、精神の政治學としての近代化といふものなのである」(『醒めて踊れ』)と。「なぜなら關係と稱する實在物は潛在的には一つのせりふ(問答・對話・獨白)によつて表し得るものだから」。であるから、「言葉との距離測定」によつて關係の適應正常化(眞の近代化)が圖れるのだと。(別圖《言葉の自己所有化》參照) だが、それが日本人には出來ない、と言ふ事が重要なのである。 それは何故か。・・・「言葉との距離測定」が出來ないのは、「それが身につく土壌が日本に缺けてゐるから」なのである、と恆存は言ふ。 「それが身につく土壌が日本に缺けてゐる」が故に、「物質面で行はれた近代化に対する、適應能力としての『精神の政治學』としての近代化」なんぞは當然、出來ないのは當たり前なのである。即ち「何にでもべたべた引つ付く自他未分の神道的生活態度」(『日本および日本人』)と言ふ日本的土壌が、「言葉との距離測定」の能力を日本人から奪つてゐるのであり、為に「精神の近代化」自體を妨げてゐるのである。「テキスト補P3seishinshugi21.11.pdf へのリンク」状況で事足れりとして、「精神の政治學」ラインを「テキスト:P8」に迄下げようとせず、その構圖のまま「何にでもべたべた引つ付き」、ただの物質的(A)模倣が出來た事を、それが和魂洋才で「近代化」そのものが成就したと早飲み込みした。「日本的土壌」=「距離測定能力缺如」の致命的缺陷が其處に露出してゐるのに、その事に氣がつかなかつたのである。氣がついてゐたのは鴎外・漱石と言ふことか。 「さう言ふ土壌(seishinshugi21.11.pdf へのリンク)に生じた文學や藝術や学問が、或は政治や制度が、もし近代的に見えるとすれば、それは何處かにごまかしがあるに違ひ無い」(全七P393『醒めて踊れ』)と恆存は言ふのである。此處に欺瞞を嗅ぎ取る恆存の批評眼に凄さを小生は感じるのだが・・・。 當に尤もである。この特質をもつと解り易く圖説すれば、明治になつて「西欧十九世紀近代」(「テキスト:P8」)にseishinshugi21.11.pdf へのリンクのまま日本は引つ付いたのである。「テキスト:P8」に開いた物質面の近代化の花だけをseishinshugi21.11.pdf へのリンクに接ぎ木して同じ花(近代化)と稱して、しかし全體像を見ればどう見ても彼我の差があるのを、それが見えなかつたと言へる。「近代化のごまかし」と言ふ自分の姿が、そのseishinshugi21.11.pdf へのリンクの中に居るが爲見えなかつたのではなからうか。かうして圖で視覺化すればそれが「近代的に見える」筈がないのが解るのでは。 |
そして、以下の文章も「日本的精神主義構圖」からなる畸形心理(A⇒Bへの逃げ込み現象)を述べてゐるのではなからうか。
「もし眞に不可測のものを尋ねあぐねるものがあるとするならば、それは純粋に個人の内面(B:個人的自我?)に、すなはち外部からはうかがへず、また本人にすらそれとは明瞭に信じがたく把捉しがたい心理(A⇒Bへの逃げ込み現象?)に求められなければならなかつた。ギャップはいつそう越えがたいものだつたといへよう」。
〔難解又は重要文〕:P288上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「大正から昭和にかけての現代文學における自己喪失とは、じつはこのやうにして自己内面の不可測なるものの存在に發言權を禁じたところに結果したものにほかならない」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。
恆存は私小説の「自己喪失」について、別な箇所(全六「覺書」P698)で「自己絶對視は必ず自己喪失に終る」と書いてゐる。即ち、「自己内面の不可測なるものの存在」(A⇒B逃げ込みの自己欺瞞)が招いた「自己絶對視」は、終着點として以下の「似非生き甲斐・似非實在感」と言ふ「自己喪失」に辿り着くしかないのであると。⇒參照seishinshugi21.11.pdf へのリンク(スクリーン表示)。
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「現實(A)的不滿⇒B:逃げ處としての個人的自我概念⇒C”自己主人公化(自己完成:絶對的自己肯定)⇔「詩神・護符・後ろ楯の思想:C2」⇒自己滿足・自己正當化(似非生き甲斐・似非實在感)」。 |
*「十九世紀のヨーロッパでは危機を感じたものは近代的な人間性の権威であつたが、~~(中略)ヨーロッパ人は神のまへに、そして可能性のまへに、現實の自分たちの人間像のあまりに貧しいのに恥ぢた」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。西歐近代自我(個人主義)は必然として「エゴイズム」に逢着した、と言ふ事を謂はんとしてゐるのではなからうか(以下參照)。
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*〔恆存の言ふ、西歐近代自我(個人主義)の末路〕
*西歐リアリズム文學の對象・・・「現實の醜惡であるといふ嚴たる認識に直面した時代(西歐十九世紀後半)」(『文學の效用』P262上)。 |
〔難解又は重要文〕:P288上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「ぼくたちの現代が感じた危機は封建的氣質のうちにあつたのだ。(中略)ぼくたちは近代的な人間概念(個人主義・ヒューマニズム等「護符・後ろ楯C2」)のてまへ自分たちの封建制を追放してしまつた結果、その空虚にたへかねたのだ。自己喪失は『うちなる権威』を失つたからではなく、自己の肉體を失つたからにほかならない。ひとびとはそれを自己喪失といふ同一のことばで諒解しようとしてゐるのである」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「封建制を追放してしまつた」とは、やはりP288上下項目の「接ぎ木」的自己欺瞞を物語つてゐるのではなからうか。「精神の近代化」不全的現象を謂はんとしてゐるのでは・・。
「自己喪失は『うちなる権威』を失つたからではない」とは何を言はんとしてゐるのであらうか。
又、此処で言ふ「封建制」「自己の肉體を失つた」とは、以下の内容を指してゐるのではなからうか。
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「肉體の自律性は當然その反面に精神の自律性を前提とする。肉體、あるいは物質で解決すべき事を、精神の重荷とするなかれ――精神には精神のみの解決しうる問題をあてがひ、その領域と大權とを縮小せしめるにしくはない。そのときはじめて精神は自律し、その権威は輝くであらう。 が、ぼくたちは今日までなんと精神を神聖化し、さうすることによつて精神の負荷を重からしめ、結果として精神を侮辱してきたことか。肉體の自律性が確立してゐなかつたからである。明治以降の日本人はあらゆる物質的(A)なこと、肉體的(A)なことに、すべて精神(B)のべールをかぶせ、それをことごとく精神の發動として自己満足してきた。かれらは肉慾(A)を肉慾として是認することをおそれ、それに精神的な衣をかぶせた。物慾(A)を物慾として是認することをおそれ、それに藝術愛(B:私小説家が然り)や愛國心(B:絶對主義的愛國心)や愛他心(B)や、その他の主種雑多な大義名分をかぶせた。・・・」(P479全二『肉體の自律性』) |
〔難解又は重要文〕:P288下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「小説家自身がもはや人間のうちに、自分自身のうちに、謎を發見する能力を持つてゐない。かれは現實のかれ自身を越えることができない。で、作品はつひに作者自身を抜きえないのだ。(中略)かれのまへに謎はないのだ。素材も現實もかれ自身も謎ではない。自己喪失とはさういふことなのだ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。seishinshugi21.11.pdf へのリンクの「日本的精神主義構圖」では、「C”自己主人公化(自己完成:絶對的自己肯定)⇔「詩神・護符・後ろ楯の思想:C2」⇒自己滿足・自己正當化(似非生き甲斐・似非實在感)」であるが故に、謎は出現し得ないと言ふ事では。
そして、「謎」の出現には、「自己を超えたるもののなにか」を持つ事に懸かつてゐるのだ、と恆存は言つてゐる樣な氣がするのである。即ち「敵(C)としてなにを選んだかで自己が表現せられる」naniwotekitositeerandaka.pdf へのリンク。謎の有無が決せられるのであると・・。⇒更に、それについては以下項目に續く。
〔難解又は重要文〕:P290上下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「指導者自身、作家自身、現に苦しんでゐる問題のないところに謎は存在しない」。
(中略)ぼくたち現代日本人のうちに巣くふ封建制、~~(中略)、これとまつかうからたたかふ意思があつて、はじめてそれはぼくたちのまへに謎として存在する。(中略)それはなによりもたたかふ意思の缺如とみなさねばならない。(中略)作者が自分の障碍とたたかふ意思が作品のうちに結晶させる謎の、その結晶度にかかつてゐるのだ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。察するに、それは以下の邊りの消息を物語つてゐるのではなからうか。
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*「讀む會テキスト:補」P5:「敵(C)としてなにを選んだかで自己が表現せられる」。 P6:同:上記圖説 naniwotekitositeerandaka.pdf へのリンク *拙發表文:『告白といふこと』より 〔難解又は重要文〕:P405上~全部「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 「かれら(鴎外・漱石)は兩者(人生と文學)の斷絶にたへた。のみならず、彼我(西歐と日本?)の斷絶にたへる精神は、過去(江戸)と現在(明治)と、あるいは現在と未來との斷絶にもたへたのである。鴎外と漱石とにおける藝術と生活との斷絶の秘密はそこにある」云々~~「二葉亭」云々~~「(鴎外・漱石)は建設の惡にたへた」云々・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。上記の理解に當たつては以下の文が參考になるのでは。 ① 「建設の惡にたへた」云々の「建設の惡」とはかう言ふ事では。「カエサルのことはカエサルに聞け」、或は恆存が言ふ「處世術(A)の事は處世術で對處」、即ち實證精神による「A的客體化(A←A’)」に伴ふ、「必然惡(・・からの惡?)」及び「必要惡(・・への惡)」の事を、それは意味しているのではなからうか。そして是については以下の文が參考になる。
【上記項目についての質疑應答】 ② 更に「かれら(鴎外・漱石)は兩者(人生と文學)の斷絶にたへた」云々とは、以下の文が參考になる(次の選擇評論『自己劇化と告白』の先取りになつてしまふが)。
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〔難解又は重要文〕:P291上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「現代における娯楽文學の横行は、必然的に動きのとれなくなつてゐる實生活からの自慰的な逃避でしかなささうである」・・・文中の「必然的に動きのとれなくなつてゐる實生活」とは何を言はんとしてゐるのであらうか。察するに、以下の邊りの消息を物語つてゐるのではなからうか。
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拙發表文:《此處が解りにくい福田恆存》:第三彈「恆存が啓示する『個人の危機』」より *「個人は社會にたいする有用性」としての價値へ轉落。 →①自由は精神の問題でなくなる。社會的物質的自由にて解決(物質主義)。 →②社會的平和があれば個人の問題は解決。(平和の最高價値化・絶對平和主義)。 |
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