[PR] 看護

平成十九年四月二十九日

吉野櫻雲


四月:選擇評論
:【全集第五巻所載『傳統にたいする心構』(新潮社版「日本文化研究」第八巻:昭和三十五年七月刊)四十九歳著】


前々囘は評論『教育改革に關し首相に訴ふ』にて教育における「西歐近代適應異常」を學び、前囘『獨斷的な餘りに獨斷的な』では文學における「西歐近代適應異常」を學んだ。そして今般『傳統にたいする心構』では、單に西歐近代への適應異常に留まらず、戰後日本ではついに自國の歴史に迄、その「適應異常」を引き起こしてしまつた事を吾々は知る事となる。

那邊にそれを知る事が出來るかと言へば、一つは敗戰による過去否定が招いた文化喪失の結果にであり、もう一つは物質的戰後復興の結果としての、「西洋(文明)卒業の自覺とともに起こる日本文化再評價の氣運(和魂洋才)」にである。恆存は當評論で再度「和魂洋才」論の劣等複合なるゆゑんを指摘(他は『論爭のすすめ』參照)すると共に、それが「西歐近代」のみならず自國の歴史に對して迄もの「適應異常」である事を、別な表現ではあるが以下の樣に吾々に説明してくれる。特に傍線部分がそれを示してゐると言へる。

「西洋文明にたいして日本文化といふぐあいに、兩者をひとしく自分の前に竝べて客觀的に優劣の判定が下されるやうになつてしまつたとすれば、それはもはや私たちにとつて傳統でも歴史でもなくなつてしまつたのだと考へなければなりません。

一口に言へば、現在の私たち日本人は西洋文明にも日本文化にも、ひとしく除け者にされてゐる」。

 

恆存は、傳統や文化を「歴史(C:時間的全體)⇒文化・傳統(D1:關係)⇒自我(A集団的・B個人的)⇒保守(D2:自己劇化)⇒全體・絶對(C)⇒實在感・全體感獲得(D3)」と言ふ圖で捉へてゐる。(最終頁圖參照)

そして「戰後の日本は文化を喪失してゐる」とも言ひ、「今更愛國心を強調しても始まりません。具體的な『物』としての附合へる文化(即ち日本の歴史との關係:D1)を失つてしまつたのでは、愛國心の手掛りは何處にも無くなる」と主張する。しかしさう言ひながらも翻つて、だが「絶望する必要は無い。日本人にはまだ日本の自然(空間的全體:C)があり、國語(D1:文化の最後の砦?としての正假名正漢字)があり、そして歴史(時間的全體:C)があります。それが今日もなほ私達に殘された最小限の文化(C⇒D1)です」(前後文とも全六『教育改革に關し首相に訴ふ』より)と、その樣な現代日本の悲觀的情況の中でも失望せず、「樂觀的觀測」の手を日本人に差しのべる。即ち仕へるべき全體とその紐帯(關係:文化)を、最小限とはなつたが、日本人は未だ喪失してはゐないのだと我々に訴へるのである。

 

そして本論『傳統にたいする心構』では、「歴史(C:時間的全體)⇒文化・傳統(D1:關係)⇒自我(A集団的・B個人的)⇒保守⇒全體・絶對(C)」と言ふ圖を、その関聨を、以下①②等々の例を挙げながら、詳細にわたつて吾々に説明し、かつその「心構」を教へてくれるのである。

    西洋との文化に質の差があると同時に、「西歐近代適應異常」があるが故に、日本人には以下の事柄が解らない。

「ある型の文化の上にそれに適合した文明が築かれるのです。たとへ文明が目に見える物質的、客體的なものであり、文化が精神的、主體的なものであるとしても、前者には必ず後者の支へがあり、物質文明もまた精神的であることを知らねばならないのです。したがつて、西洋文明を受け入れることは、同時に西洋文化を受け入れることを意味します。和魂をもつて洋才を取入れるなどといふ、そんな巾着切の樣な器用なまねが出來ようはずはない。和魂をもつて洋魂を捉へようとして、初めて日本の近代化は軌道に乗りうるといへるのです」。

    「(日本の)西洋化は文明の世界にとどまつてゐて、文化の世界にまでは及んでゐない。西洋には文明だけしかないのではなく、それを生み、その發展を必然ならしめた文化(クリスト教文化・洋魂)があるはずです。が、私たちは文化(クリスト教文化・洋魂)までは自分のものにすることが出來なかつた。そのための滿たされぬ気持ちが日本文化の憧れ(和魂洋才もその一つ)となる」。

    「ある時代の思想や制度は、人々がそれとどういふ關りをもつて生きてゐたかといふ主観的な要素を抜きにしては考へることが出來ぬものです」。

「現實(A・B)といふものは、もともと客觀的、科學的に存在してゐるものではなく、それぞれの時代人との關係(D1)において存在するものです。といふよりは、その關係こそ現實なのです。つまり、所有といふ主觀的、心理的な事柄のほかに、歴史的観察(場との關係)もなければ、現代の現實も存在しないのです」。

    「傳統とか歴史とかいふものは、今日においてもなほ私たちの血肉となつてゐるもの、自分の手足のやうに自分の内部に所有してゐるもの、それを切離せば自分が自分ではなくなるもの、さういふものであるはずです」。

 

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〔以下は、吉野櫻雲發表文〕

 

と言ふ事で、今評論も中々の難解にしてかつ手ごはく、そしてどの文章も重要なのであるが、特に以下内容文を此處に取り上げる事とする。更にいつもの如く難解なる内容については、手助けを他評論に仰ぐこととする。(以下文中傍線及び括弧内は概ね吉野附記。「P9圖」云々は「讀む會テキスト」頁を表す。「ABD2」等も同テキスト三頁を參照の程)

 

〔難解又は重要文〕その1「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

P185上全部:①「(明治に造られ用ゐられた漢語のほとんどすべてが)外國の文物や思想の出來あがつた結果、すなはち業績にたいする命名の役しか果たしてをらず、その結果をもたらした働きを摑みそこなひ、それを内に含む力を缺いてをります。文化といふ言葉の用法こそ、その適例と申せませう」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。傍線部分は、西歐が近代に客體化してみせた「神に型どれる人間の概念の探究」としての「文物や思想」、と言ふ事を指し、その關聯性を吾々日本人は見損なつてゐると言ふニュアンスを含んでゐる樣に思へる。「内に含む力」については以下文「クリスト教の絶対神が持つ統一性と一貫性」云々他が參考になるのではなからうか。

「近代ヨーロッパは神を見失つた――が、それはただ神の解體と變形と抽象化とを意味するに過ぎぬ。まさにその爲の手續きであり過程にすぎなかつた(のが)ヨーロッパの近代精神とその政治制度・経済機構」なのである。(參照『近代の宿命』全二P466・「テキストP8圖」)

参考:歴史の意識(西欧)・・・「絶対者のないところに歴史はありえない」のである。

クリスト教の絶對神による「統一性と一貫性との意識が人間の生活に歴史を賦與」した。⇒そしてその神(絶対者)そのものが「近代を過去のアンチテーゼとして成立せしめる歴史的一貫性」を形作つた。即ち西欧は「反逆すべき神」として中世を持つことが出来たのである。「神への叛逆も、じつは千年にわたるながいあいだの神への凝視と沒入とから習得し免許をあたへられた理想人間像にもとづいておこなはれたものである」(P599『小説の運命Ⅰ』)⇒「なぜなら神と言ふ統一原理はその反逆において効力を失うものではなく、それどころか反逆者の群れと型とを統一しさへする」⇒近代西欧精神を「神に型どれる人間の概念の探究」と言ふ形で統一していつたのである。(参照:『近代の宿命』P462、及び同発表文中「西欧歴史的統一性:図解」及び『現代人の救ひといふこと』

【上記項目についての質疑應答】

〔難解又は重要文〕その2「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

P185上:①「文化と教養とが一語に結びつくやうな文化が、また心して栽培し、自ら習熟するやうな仕來りや態度が、さらにその背景をなす宗教的な生き方が、今の日本には無いのだといふことになります。(中略)が、それはあくまでも現代日本文化の姿であつて・・」云々・・・とは。

P185下:②「ヒルダは男から沈黙と距離の力を感じた。(中略)この男(主人公メラーズ)は決して単純な勞働者ではない。それどころか、演戯してゐる!立派に演戯してゐるのだ」(DHロレンス著『チャタレイ夫人の恋人』)より)・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。上記①②の理解に當たつては以下の文が參考になるのでは。

*演戯とは「自分が自他を明確に見る(味はふ)ため」のもの。(全三P533『人間・この劇的なるもの』)。その爲には「言葉の自己所有化」が必要となる。

「(演劇の)フレイジングが正しく出來る爲には話し手が自分と言葉との距離や場と自分との関係を意識してゐる精神の働きが無ければならない」。

*意識度を高くし、言葉の用法に細心の注意をし、「言葉を自分から遠く離す事によつて、逆にその言葉を精神化し、支配、操作する事が出来る様になる」。さうする事によつて「自分に近付け、言葉を物そのものから離して自分の所有にする事が可能になる」。

「言葉の自己所有化」とは、場との距離(關係)の的確なる測定=適應正常、を意味する。(參照「:テキストP12」)

「言葉の自己所有化」とは。・・・「言葉(F)と話し手との間に距離Eを保ち、その距離を絶え間なく変化させねばならぬのと同樣に、相手と共に造り上げた場と自分との間(D1:關係)にも距離を保たねばならず、その距離を絶えず変化させ得る能力がなければいけない。さういふ能力こそ、精神の政治學としての近代化といふものなのである」(『醒めて踊れ』)。「なぜなら關係(D1)と称する実在物は潜在的には一つのせりふ(問答・對話・獨白)によつて表し得るものだから」(全七P300『せりふと動き』)。それ故に、「言葉との距離測定(言葉の自己所有化)」によつて場との關係の適應正常化が圖れるのである、と恆存は言ふ。

言葉や概念に囚れず、逆にこれを利用すること、即ち言葉の用法にすべてが懸つてゐる。自分と言葉との距離が測定出来ぬ人間は近代人ではない。いや人間ではない」P393『醒めて踊れ』)。

「自分と言葉との距離が測定出来ぬ人間は近代人ではない」とは、言葉との距離が測定出來ぬ、即ち言葉(F)に呑み込まれてゐる事(或は言葉との距離の至近)を意味する。更にそれは場(C”)に呑み込まれてゐる、或は居着いてゐる(沈湎)事を意味する。

*「そもそも動作や作用、さらに人間の抽象的な營みを名詞化しようといふ働きそのものが、主體である自分を對象から分離し、距離をつくらうとする衝動なのです」(全三P204『日本および日本人』)と恆存は言ふ。

と言ふ事で、メラーズは文化と教養とが一語に結びついた近代人そのものなのである。しか

も病んだ近代人(對稱的登場人物「クリフォード」に象徴される)に反しての健康なる肉體をメラーズは備へてゐる(それが故に、精神のみならず「肉體も思考する!」とロレンスは言ふ)。その樣に、ロレンスは己の理想人間像をメラーズに託してゐるのである。

そして現代日本人にはメラーズの樣な「文化と教養、更に健康なる肉體性も」が喪失されてゐると恆存は指摘するのである。即ち「現代の日本には主體的な生き方や心の働きとしての文化や教養がないばかりか、文化とはそのやうな主體的な精神の型だといふ觀念さへないのです。おそらく日本の全歴史を通じて現代ほど文化が薄ぺらになり、教養ある階級を失つた時代はなかつたらう。(中略)私たちはまづその自覺に徹すべき」(P187下)と恆存は言ふ。とはなんと、吾々は最悪なる時代(「戦後の日本は相對主義の泥沼」)を生きてゐると言ふ事になるではないか(OH MY GOD!)。

【上記項目についての質疑應答】

 

〔難解又は重要文〕その3「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

P185下:「文化とは私たちの生き方であります。生活の樣式であります。(中略)目の前に客體化しえぬもの、意識的に追求しえぬもの、合理的に説明しえぬもの・・」(エリオットの弁より)云々・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。それの理解については以下の文が參考になるのでは。

P181上の「自然科學のやうに研究對象が研究の主體からはつきり離れてゐるものはもちろんのこと、一般の社會科學の場合でもそれはある程度まで分離できる」。が、文化となるとさうはいかないと恆存は言ふのである。

【上記項目についての質疑應答】

 

〔難解又は重要文〕その4「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

P187上:「交通機關に限りません。議會制度でも教育制度でも同樣で、『近代的』な道具や制度はいくらでもまねできますが、それを使ひこなす心構や、それにともなふ人間關係となると、相變らず『前近代的』だといへる」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。それについては前項P185上全部の解説を參照されたし。更に上記の理解に當たつては以下の文が參考になるのでは。

拙發表文《恆存の「和魂洋才」批判について》他より

*恆存は評論『醒めて踊れ』で、實證精神の範疇である、「So called」「フレイジング」「精神の政治學」をソフトウェア的手段と捉へてをり、「精神の近代化」(個人主義の確立)は、ソフトウェアの効果的發揮によつて、その結果として齎されるものと捉へてゐる。(參照:拙文『醒めて踊れ』の下欄圖)

即ち、西歐が近代で「洋才(資本主義・民主主義・個人主義等々)」に客體化して見せた、「神に型どれる人間の概念の探究」と言ふものを、やはり明治日本も近代化を移植するに當たつて、同じく實證精神(「眞理の爲の學」も同意では)を驅使して、「形ある物として(和才の裏に)見せる」必要があつた。その藝當が「ソフトウェア」としての「So called」なのである。が、現實的可能性としてはそれが出來なかつた。それは何故か。「洋才」を形成した基の實證精神(「眞理の爲の學」)なるものを明治日本は理解出來ず、西歐近代に精華を齎した果實としての「洋才」にだけ眼が眩み、その結果「(國家)實益のための學」としてしか、それを輸入する事が出來なかつたからなのである。  

【上記項目についての質疑應答】

 

〔難解又は重要文〕その5「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

《以下文は、解説不足で珍紛漢紛の領域に入るかと思へるのでお聞き流しの程を》

P189下~〔文化自信缺如から來るアメリカ人の心の生活の貧しさ。その爲に精神醫學に縋る事への疑問〕:(190上)「心の生き方をよく心得ぬ(對象・言葉との距離測定不能の意か?)ために起る病氣の治療に、性も懲りもなくまたも物質の處理法である科學を持ちだしたことになる。文化とは生き方であります。適應異常や狂氣から人を守る術であり、智慧であります。それは科學ではどうにもならぬこと」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。恆存は文化を「歴史(C:時間的全體)⇒文化・傳統(D1:關係)⇒制度・仕來り・儀式・藝術・風俗・思想・道徳等々(集團的自我上・個人的自我上)への現象化」と言ふ圖で捉へてゐる。そして「文化(D1)とは生き方(對象・言葉に對する距離測定能力確保:Eの至大化)」に反映されるものと見てゐる。そして「心の生き方をよく心得る」と言ふ事は、その含む内容は、別評論(以下枠文)で恆存が書いてゐる「コンシャンス(良心・自覺)」と言ふ事をも意味してゐて、やはりそれは同じく「對象・言葉との距離測定能力確保=Eの至大化」の意に通じて來ると小生には思へるのである(「テキストP12圖」參照)。190上の、「文化(D1)があり、傳統があるところでは、社會が、家庭(即ち仕來り)が、それ(生き方)を教へてくれる」の文は、その事を言つてゐる樣に思へる。

即ち文化(D1)のある處(換言すれば自國の歴史との「適應正常化=非沈湎」が圖れてゐる國)では、「E」を至大化させる「:型・仕來り・様式・儀式」が形成されてゐて、その「型・仕來り」が歴史との關係(文化)を形ある「物」として生き方に反映(Eを至大化)させてくれるのである。文化(D1)のある國は「仕來り」を持つが故に、「對象・言葉との距離測定不能(言葉に呪縛)」が原因の、適應異常や狂氣の囘避が可能となるのである。その事柄を「テキストP12圖」的に言へば、「D1の至大化=Eの至大化」即ちコンシャンスの活性化、と言ふ事になる。:型・仕來り・様式・儀式」は生活・言葉への囚はれから人を救出してくれるのである。更に換言すれば、平生足をさらはれてゐる樣な現實的平面から意識を立ち上がらせてくれる。なぜにそれが可能となるかと言へば、「:型・仕來り・様式・儀式」に内在する働き、恆存の文章に從へば、以下枠文のダイナミズムをそれは宿してゐるからなのであると理解する。もう一度簡略して言ふと、文化は國及び歴史への沈湎を防ぎ、:型・仕來り・樣式・儀式」は言葉(或は生活・對象)への沈湎から免れる手立てとなる、と言ふ事なのでは。(參照:拙發表文《恆存の「實在感」についての考察》)

「そもそも動作や作用、さらに人間の抽象的な營みを名詞化しようといふ働きそのものが、主體である自分を對象から分離し、距離をつくらうとする衝動なのです」(全三P204『日本および日本人』)

即ち恆存が近代化論で度々言ふ樣に、「場との關係(D1)」と言ふ適應正常の可否(此處では文化の有無)は「言葉との距離測定能力:E」の有無に比例するのである。そして「言葉との距離測定能力:E」とは、評論『醒めて踊れ』で言ふ樣に「ソフトウェア」の領域に入り、それは「フレイジング」的な要素即ち、「言葉(F)と話し手との間に距離(E)を保ち、その距離を絶え間なく変化させねばならぬ」と言ふ手立てを必要とする事になる。

その點を捉へて恆存は、「(アメリカ人は)自然や物質(A)にたいする支配能力」の慢心から、「自分の心や自他の心の關係にたいする支配能力、あるいは調整能力(E)」を持てないでゐると指摘する(P189)。即ち換言すれば、生活・對象・言葉Fとの距離測定能力(Eを缺如してゐる事をそれは意味する。繰り返して言ふと、歴史と言ふ場(C”)への沈湎(D1・文化喪失)が、言葉(生活・對象)への距離測定能力(E)の缺如を引き起こすのである。さう言ふ問題を恆存は此處では言つてゐるのではなからうか。そして日本の場合はもつとそれは深刻なものがあるのだと・・・。(「テキストP12圖」參照)

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「フレイジングはphrasingでありphrase(句)の粒立てを意味する。フレイジングとは、平面圖を立体的な三次元の世界に見せる遠近法の技術」。・・・即ち、話し手とせりふとの距離を、その方法論で至大化させることによつて、關係も至大化し場面への沈湎から免れる。場面から發生する「心の動き(關係)」が寝そべることなく、「なぜ」と言ふ強い必然性が生まれる。

 

そして「物質の處理法である科學を持ちだした」とはかういふ事なのであらう。本來「心の生き方をよく心得ない」或は「コンシャンス(良心・自覺)E」喪失に對してなら、上記の「ソフトウェア」的手段を用ゐ、言葉(生活・對象)との距離間隔(E)を空けるべきなのである。それを處方の過ちを冒し、「ハードウェア」の科學を適用してその結果傷口をより大きくしてしまつた、と言ふ事をそれは意味してゐるのではなからうか(「テキストP12圖」參照)。尚この邊の「ソフトウェア」「コンシャンス(良心・自覺)」云々の内容理解に當たつては、以下の文も同質の内容を含むので參考になるのでは。

「虚像への適應を強ひれば、ソフテストウェアである心はコンシャンス(良心・自覺)への求心力を失ひ、人格の輪郭から外へ沁み出し、空のコップのやうな透明人間になつてしまふ。それはもはや人格とは言ひ難い、人格の崩壊であり、精神の頽廢である」(全六P704『覺書』)

【上記項目についての質疑應答】

 

〔難解又は重要文〕その6「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

P191上:①「(日本は)文化的にも西洋とは全く異質な國柄だつた。~日本の近代化を考へるうえで最も重要。~彼我の文化に質の差がある。~それを自覺した明治初期よりも、かへつて現在において、決定的な意味をもちはじめてきた」云々・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。恆存は「彼我の文化に質の差がある」點を「改めて考へてみなければならない」(同頁下)重要問題と提言しながら、どの樣に異質なのかを詳しく此處では述べてゐないやうに思へる。異質とは、少し頁が飛ぶが以下傍線部分を指すのか。さうした日本に對して西洋はそんな方法を採らないのだと恆存は言ふのだが・・。

「(日本は)文化を分明と竝置し、それに對應せしめるといふことは、結果として、両者を同質のものと見なすといふことになります。文化を文明と同樣、外見によつて比較考量しうるものにしてしまふことであります。いずれにせよ、(日本が採る)この方法による再評価からは、私たちを力づけ、日々の生活を豊かならしめるやうなものは何も得られないでせう」(P193下)

しかし、どうも此處では恆存は、「彼我の文化に質の差がある」點を「改めて考へてみなければならない」と言ひながら、日本人の「文化觀」の異質性を指摘するのみに留まつてゐる樣に見えるのである。指摘不足の「質の差」をどうしても究明する必要性を小生は感じる。故に「日本は文化的にも西洋とは全く異質な國柄だつた」の詳細については、他評論『日本および日本人』にあふぐしかない。尚これについては以下枠文及び下欄圖(最終頁)が參考になるのでは。

結論を先に言ふと、上記の「決定的な意味」とは、日本には「西洋流の『歴史』といふ觀念が稀薄、連續がない」と言ふことに歸するのでは。そして「彼我の文化に質の差がある」が故に、以下枠で言ふ「西洋流の『歴史』が持つ連續性・統一性・一貫性」と言ふものが日本人は分からない、かつ洋才の奥には洋魂があることが分からない。それが爲に「和魂洋才」などと言ふ「巾着切の樣な」事が言へるのだ、と言ふことになるのでは。

*「美意識といふ立場から見れば、日本人には統一があつた。一時代としての横の統一もまた歴史をとほしてみた縦の統一も、ちやんとあつた。(中略)しかし統一があるが、横にも縦にも、積み重ねといふものがない。(中略)嚴密に言へば、西洋流の『歴史』といふ觀念が稀薄。連續がない」(全三P178『日本および日本人』)。(下欄圖參照)

*「連續性のない文化はつねに一時代で完成する。完成してしまふから、つぎの時代に手渡しするものがない。次代に受けついでもらふ未完成のものをもたない」(P179)。

*「つぎの時代に手渡せないその次代特有の完璧さをもつてしまつた」(P180)。

 

對するに、西洋流の『歴史』が持つ連續性・統一性・一貫性

*歴史の意識(西欧)・・・「絶対者のないところに歴史はありえない」のである。

クリスト教の絶對神による「統一性と一貫性との意識が人間の生活に歴史を賦與」した。

それは、近代西欧精神を「神に型どれる人間の概念の探究」と言ふ形で統一していつた。他  

参考:當發表文P3

「テキストP5~8」の「歴史の連續性・統一性・一貫性」を、西歐が持つが故に以下の輪廓が明確に浮かび上がる。(日本にはそれがないが故に以下の事柄が理解出來ないと言ふことか)

 「ある型の文化の上にそれに適合した文明が築かれるのです。たとへ文明が目に見える物質的、客體的なものであり、文化が精神的、主體的なものであるとしても、前者には必ず後者の支へがあり、物質文明もまた精神的である」。

 

P192上:②「ある型の文化の上にそれに適合した文明が築かれるのです。たとへ文明が目に見える物質的、客體的なものであり、文化が精神的、主體的なものであるとしても、前者には必ず後者の支へがあり、物質文明もまた精神的であることを知らねばならないのです。

したがつて、西洋文明(A)を受け入れることは、同時に西洋文化(B)を受け入れることを意味します。和魂をもつて洋才を取入れるなどといふ、そんな巾着切の樣な器用なまねが出來ようはずはない。和魂をもつて洋魂を捉へようとして、初めて日本の近代化は軌道に乗りうるといへるのです・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。前半については前出項目P185上全部の解説を參照されたし。

「したがつて・・」云々の後半部分はかういふ事なのでは。即ち「前者(文明)には必ず後者(文化)の支へがあり、物質文明もまた精神的であることを」日本は悟らずに、短絡的に物質的近代化の成果で近代化終れりとしてしまつた、と言ふ事をそれは意味する。その結果として、複雑にして単純、単純にしてかつ複雑な、「西洋(文明)卒業の自覺とともに日本文化再評価の氣運(和魂洋才)」が起ると言ふ、日本の特質を恆存は指摘してゐるのである。

即ち「西洋文明(洋才)にたいして日本文化といふぐあいに兩者をひとしく自分の前に竝べて客觀的に優劣の判定」(P194)を下せるものと日本人は錯覺し、「文化を文明と同樣、外見によつて比較考量しうるものにしてしまふ」と。さうした日本人の文化觀の異質性を此處で指摘してゐるのである。西歐近代への適應異常の典型が其處に存在するのだと、言つてゐるやうに聞こえる。ただ、この問題はややこしいので次項で追究する。(尚その他參考としては、拙發表文「恆存の『和魂洋才』批判について」を參照のほど)

それともう一つ、「和魂をもつて洋魂を捉へようとして、初めて日本の近代化は軌道に乗りうるといへるのです」の和魂をもつて洋魂を捉へる」とは、どういふ事を恆存は言はんとしてゐるのであらうか。幾つかの恆存評論の文脈からそれを推察するなら、「精神の近代化(個人主義)」確立をそれは言つてゐるのだと思ふ(當然最終的には「完成せる統一體としての人格」論で「個人主義」超克を恆存は謳つてゐるのではあるが)。理由として上記の「日本の近代化は軌道に乗りうる」がその事を示してゐる。恆存は物質的近代化だけでは眞の近代化ではないと言つてゐるのであり、「精神の近代化(個人主義)」が確立出來て「初めて日本の近代化は軌道に乗りうる」と常々指摘してゐるのである。さう言ふ内容の文面が『醒めて踊れ』や講演録他に散見される。その事をもつて推察の證明が可能と小生は判斷する。

 

以下項は前項の延長であり、かつ文字通り「重要文」であるが、小生の解説能力不足が災ひして、理解し難いかと思ふ。よつて不明な部分はお聞き流し下されたし。

〔難解又は重要文〕その7「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

P193上(本文再讀要!)「西洋(文明)卒業の自覺とともに日本文化再評價の氣運(和魂洋才)が起る。~その心理はなかなか複雑であり、~かつ単純なるがゆゑに複雑。~根本は文明開化の精神を一歩も出てゐない。~それが私たちに、よくここまで西洋を同化しえたといふ誇りを懐かせる。~がその誇りは決して自尊の念に結晶して行かない。~よくここまで西洋を同化しえたといふ感慨の裏には、結局はそれに追ひつけぬといふ劣等感と、追ひつけぬものに追ひつかうと一途になつてきた自分を反省する空虚感がある。~」云々。及び、

P194上:「西洋文明にたいして日本文化といふぐあいに、兩者をひとしく自分の前に竝べて客觀的に優劣の判定が下されるやうになつてしまつたとすれば、それはもはや私たちにとつて傳統でも歴史でもなくなつてしまつたのだと考へなければなりません。

一口に言へば、現在の私たち日本人は西洋文明にも日本文化にも、ひとしく除け者にされてゐる。(略)それなのに、なぜ私たちは日本文化の再評價を求めるのか。そこに問題があります。それは人間が文明だけでは滿たされない存在だからです」

・・・この二つは、何を言はんとしてゐるのであらうか。かかる内容は前項でも取り上げたが、日本人が過去そして現在もしばしば取る、「和魂洋才」へのジレンマ的囘歸現象の怪奇さを、此處で恆存は難解ではあるが、我々に見事言ひ表してくれてゐるのである。小生はこの部分を頭の中に整理するのに隨分と骨が折れた。よつて簡略した方が(自分にとつて)飲み込み易いと思ふので此處に記載する。

日本が辿る和魂洋才」へのジレンマ的囘歸現象

①明治初期(文明開化期)の「和魂洋才」鼓舞⇒②近代化・西洋化し文明開化の實を擧げえた」時期になると「和魂洋才」意識の稀薄化(古ぼけ化・黴化)⇒③西歐(文明)同化の誇り⇒普通ならここで、西洋文明のみならず文化も卒業と尊大化すべきところ(即ち西歐文明と比較對照しての日本文化再評價は不必要なのである)⇒しかし現實は、誇りがその樣な「自尊の念に結晶」せず⇒むしろ西歐劣等感&自己反省の空虚感に滯留(此處が重要!劣等感があるが故に比較優劣に囚はれる)⇒その結果、西洋との再度「背くらべ」化即ち「日本文化再評價」化へと本卦還りする。その樣な「背くらべ自體が劣等感、およびそれからくる自意識過剰の現れ」⇒終着として、「和魂洋才」へのジレンマ的囘歸現象となる。

 なほ蛇足となるが、一應上記①⇒②⇒③についての説明を付記しておく。

  明治初期(文明開化期)は彼我の文化に異質の自覺があり。それ故に「和魂洋才」が鼓舞された。・・・「彼我の文化に質の差があるといふこと、(中略)それを自覺してゐた明治初期」P191下)。

  「和魂洋才」が古くさくなる。・・・日本が、「近代化・西洋化し文明開化の實を擧げえた(文明開化完了が意識化されえた)」時、文明開化期にはあつた①「文化(和魂)が西洋のそれとは異質のものであるといふ自覺」が喪失される。その結果として和魂洋才が「古くさい、黴のはえたものに」(P193下)感じられてくる。

  しかし、②の樣に「西洋同化(文明開化完了の意識化)」が出來たものの、その意識が誇りとしての「自尊の念に結晶して行かない」。そして「西洋(文明)同化」の深化現象としての西洋文化(洋魂)同化までにも飛躍しない。飛躍すれば「日本文化再評價」への拘りは發生しない筈なのである。日本の取つた経路はその逆で、西洋文明同化の誇りが「自尊の念に結晶」せず、「西洋(文明)卒業の自覺」とともに本卦還りの「日本文化再評價の氣運(回顧の形)」(P193上)になつてしまふ。その結果として「和魂洋才」に逆戻りをするのである。さうした形態の原因は、本質的に「明治初期の文明開化の精神(西洋に追ひつかう)から一歩も出てゐない」事に歸因する、と恆存は言ふのである。

それは何故か。日本が「近代化・西洋化し文明開化の實を擧げ」、その成果として「和魂洋才」の黴化・古ぼけ化したにもかかはらず、再度囘歸して「日本文化再評價の氣運」「囘顧の形をとる」のは何故か・・・。

その理由はかうだと恆存は指摘する。「(日本の)西洋化は文明の世界にとどまつてゐて、文化の世界にまでは及んでゐない。西洋には文明だけしかないのではなく、それを生み、その發展を必然ならしめた文化(クリスト教文化・洋魂)があるはずです。が、私たちは文化(クリスト教文化・洋魂)までは自分のものにすることが出來なかつた。そのための滿たされぬ気持ちが日本文化の憧れとなる」からなのだと。即ちかう言ふことを言つてゐるのでは。洋才の奥には洋魂があるのだと。そして洋魂(クリスト教)が、その「神に型どれる人間の概念の探究」成果として近代に實現した、「精神の近代化(個人主義)」までは日本は自分のものにすることが出來なかつた、と言ふ事をそれは指すのでは。日本は物質的近代化(西洋化)はものにしたが、西洋文化(洋魂)の「連續性・統一性・一貫性」から現出した、文化形態「近代精神(個人主義)」までは自分のものにすることが出來なかつた。「そのための滿たされぬ氣持ち(劣等感と空虚感)が日本文化への憧れ(日本文化再評價の氣運・囘顧の形)」(P194下)となつたのだと。さう言ふ事を恆存は此處で言つてゐるのではなからうか。即ち「西洋文明同化」後の飛躍、「物質的近代化」後の飛躍が日本は出來なかつたのだと。さうした、西洋との關係から生ずる「劣等感・空虚感」が、日本人を日本文化再評價の氣運」「囘顧の形」へと自己欺瞞化させる。その樣な「背くらべを思ひつくといふこと自體が劣等感」なのだと恆存は強調する。その結果、②で一度は古くさく感じた「和魂洋才」へと、元の木阿弥、結局はジレンマ的囘歸現象がふたたび其處に繰り替へされるのだと。

それ故に明治以降も再々「和魂洋才」論が登場するのは、その「根本は文明開化の精神(西洋に追ひつかう)を一歩も出てゐない」からだと言ふのである。此處でも「和魂洋才の劣等複合」(全五『論争のすすめ)たるゆゑんを恆存は指摘してゐる。日本的宿痾の滯留を其處に讀み取る事も可能と言へる。

なほ、昨今又々囁かれる保守派言論人等による、「和魂洋才」論(中西輝政)や「江戸時代以前」囘顧論(西尾幹二他)にその辺の樣子が伺へまいか。P196下で四十六年前(なんと半世紀も前である!)の日本の状況を恆存が指摘してゐる文、「根本においては、明治初期の和魂洋才と大して變はりはない。(略)それを越えることが出來ぬらしい。困つたことだが、現状ではまだその辺をうろついてゐる」の内容は、その當事のみならず昨今にもそれは通用してゐるのではなからうか。

しかし多分彼らは、先に述べた恆存指摘(以下枠)

③西歐(文明)同化の誇り⇒普通ならここで、西洋文明のみならず文化も卒業と尊大化すべきところ(即ち日本再評價は不必要と)⇒しかし誇りがその樣な「自尊の念に結晶」せず⇒

に對してはこの樣に反論するであらう。「否、日本は『西歐(文明)同化の誇り』があつたからこそ、そしてそれが『自尊の念に結晶』したからこそ、洋才にのみ留まり洋魂に踏み込まずに濟んだのだのだ。そして和魂があつたればこそ西歐(文明)同化』が出來たのだ」と、「日本文化再評價」「和魂洋才」論を嘯くのであらう。で、さて二者いずれに正邪があるのであらうか・・・。

【上記項目についての質疑應答】

 

〔難解又は重要文〕その8「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

P202上:①「ある時代の思想や制度は、人々がそれとどういふ關りをもつて生きてゐたかといふ主観的な要素を抜きにしては考へることが出來ぬものです・・・とは。

②「現實といふものは、もともと客觀的、科學的に存在してゐるものではなく、それぞれの時代人との關係において存在するものです。といふよりは、その關係こそ現實なのです。つまり、所有といふ主觀的、心理的な事柄のほかに、歴史的観察(場との關係)もなければ、現代の現實も存在しないのです」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。

②の「(現實は)それぞれの時代人との關係において存在するもの」とは、「場(江戸時代等)⇒關係(文化・傳統)」を通してその時代の現實(國の形・制度・建築・藝術・親子關係・風俗・食物・言葉・思想・制度他)が發生するもの、と言ふ事を言つてゐるのではなからうか。場との關係を無視してその時代の現實(同上)を語る事は出來ない、と恆存は言つてゐるのであらう。

そして「關係こそ現實」とは、かう言ふ事を言はんとしてゐるのではなからうか。上述の樣に「場⇒關係」のフイクション(假説)によつて「現實」と言ふものが發生する。しかも「現實」の實體なるものとは、その樣な「フイクションとは氣附かれぬほど使ひ古しの解釈によつて纏めあげられた事實、或はその集積」(以下枠參照)でしかないもの、言ひ換へれば「場⇒關係⇒現實」と言ふフイクションの集積、或は「假説⇒檢證⇒事實」と言ふフイクションの集積でしかないものなのである。それを吾々は現實と呼んでゐるのだ、と言ふ事を此處で言はんとしてゐるのでは。それを證左する恆存の文としては以下が參考になる。

普通、吾々が現實とか實體とか呼んで安んじて疑はずにゐるもの、それはもはやフイクションとは氣附かれぬほど使ひ古しの解釈によつて纏めあげられた事實、或はその集積の事にほかならない。それは事實そのものではない」(全六P701及びP700『覚書』參照の程)

【上記項目についての質疑應答】

 

P203上:「(『葉隠』の)『武士道といふは死ぬ事と見附けたり』の一句にしても、戰爭中、それが人々の心に投じた陰慘な影は少しもない。(中略)そこには、(江戸時代の)平穏な日常生活を送るものが、その中に内在する頽廢からいかに見を守るべきかといふ、その努力の、自然で素直な姿勢しか感じられません」云々及び上の最終文を含む。・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。前項P202上を含め、恆存は此處では以下の論を適用しようとしている。

言葉は寫實ではなく「關係」を表するもの

*「言葉とは、意味の傳達(寫實)以上に「用途」の役割(關係を傳へる用途)を持つてゐるといふ事」(講演カセット『シェークスピアの魅力』より要旨)。

*「言葉は物を指し示す物の影(寫實的役割)」ではなく、「實在物=關係」を目に見える樣に傳へる用途を持つてゐるものなのである。「なぜなら關係と称する實在物は潛在的には一つのせりふ(言葉)によつて表し得るものだから」(全七P300『せりふと動き』)である。

 即ち、前項②の「(現實は)時代人との關係において存在するもの」。換言すれば、場との關係を無視してその時代の現實(言葉・思想・制度を含む)を語る事は出來ない、と恆存が指摘すると同樣、「武士道といふは死ぬ事と見附けたり」の言葉(思想)も、封建時代的「陰慘」と言ふ物(對象)を指し示してそれを寫實してゐる譯ではなく、むしろ當時の「場」(江戸時代)から生じる關係(文化=生き方即ち「頽廢からいかに見を守るべきか」)と言ふ「實在物」を、それは表してゐるのだと恆存は言ふのである。さうした視點を現代人は見失ひ、西歐近代への適應異常の一つでしかない「言葉は寫實(寫實主義)」を、「歴史の見方」にも適用してゐるのだと言ふのである。しかも「言葉は寫實(寫實主義)」自體が西歐浪漫主義が辿つた過去の文學(『ハムレット』)への誤解釈からなる遺物なのであると恆存は指摘してゐる(『近代日本文学の系譜』參照)。此處には近代化によるダブルミステイクの禍が存在してゐるのである。

【上記項目についての質疑應答】

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連續性のない日本文化の特徴〕

*「美意識といふ立場から見れば、日本人には統一があつた。一時代としての横の統一もまた歴史をとほしてみた縦の統一も、ちやんとあつた。(中略)しかし統一があるが、横にも縦にも、積み重ねといふものがない。(中略)嚴密に言へば、西洋流の『歴史』といふ觀念が稀薄。連續がない」(全三P178『日本および日本人』)(參照:テキストP5~8:西洋流の『歴史』の連續性・統一性・一貫性)。

*「連續性のない文化はつねに一時代で完成する。完成してしまふから、つぎの時代に手渡しするものがない。次代に受けついでもらふ未完成のものをもたない」(P179)。

*「つぎの時代に手渡せないその次代特有の完璧さをもつてしまつた」(P180)。


參照圖
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