平成二十一年十一月二十二日
『福田恆存を讀む會』
十一月選擇評論:全集第一巻所收『民衆の心』(「展望」昭和二十一年三月號。三十五歳著)
「民衆の心」とは何か。有り體に言へば、現實(A)に生きる民の心である。此の評論において、恆存はその樣に定義して書いてゐると判斷が出來る。
そして、その「民衆の心」が持つ「現實の醜惡さ、人間性の奥深くにひそむエゴイズム(A)」への對處に、西歐(歐米)と日本の知識階級(自由主義者)では、以下の樣な彼我の差が生じてゐる事を恆存は指摘してゐるのである。
簡略して先述すると、日本の自由主義者は「A(現實)⇒B(良心の問題)へ逃避」であつた。それが故に表象(C2)を後盾にした民衆蔑視が形成されるのである、と恆存は言ふ。即ち「借物の表象(C2:後盾・護符・西歐概念=上位概念)をかざして現實(民衆も含む)の醜惡を鞭打する」(P543上)と(參照「彼我の差」圖higanosa.pdf へのリンク)。それ故に「(當時の)民衆は自分たちの心理に眼をそむけた自由主義的文化人に對して、すでに不信の心をもつて對してゐた」(P544上)のだと。
それに反して歐米自由主義者は、以下枠文の方法で「現實と民衆とのかはに立ち、つねに圧制者と對立してゐた」のだと指摘するのである。
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現實(民衆)への對處:その彼我の差 西歐(歐米) 西歐十九世紀知識階級(自由主義者)は、以下の如く「社會(A)の醜惡と痼疾とを自己のそれとして受け入れた」のである。
日本 *「それ(表象・後盾・護符・C2化)はたしかにポーズにほかならぬ――現實の混亂に對して積極的な解決策を提供しえぬ、といふよりは、はじめから解決すべき對象として現實(A)を眺めようとしない人間が、自己保證(後盾・護符・C2)のために必要としてきたものが、つねにこのポーズの設定であつた。〜〜(中略)〜〜かれら(日本の文化人、知識階級)は外部的に解決すべき問題(A)をそのまま内部の問題(B)に、すなはち良心と意思との問題(B)に還元してゐるといふ事實に、いまなほ氣づかぬのである」(『民衆の心』P538上)。 *「明治の知識階級は政治活動(A)や社會活動(A)のうちに自己を生かすことを惡と見なさざるを得なかつた」(『近代の宿命』全二P463)⇒「外部的に解決すべき問題(A)をそのまま内部の問題(B)に、すなはち良心と意思との問題(B)に還元してゐる」。 |
そして恆存が指摘する、彼我の差の本質的原因とは、別紙「彼我の差」圖higanosa.pdf へのリンクで示す通りである。即ち、西歐近代(アメリカも含む)が、實證精神(A”主體⇒A客體)により、「神に型どれる人間の概念の探究」 として獲得した、精華(自由・自由主義・資本主義・民主主義・個人主義等)を、日本は只の「表象・後盾・護符(西歐概念=上位概念):C2」に祀り上げてしてしまつた事に、その本質的原因がある。その事を此の評論で恆存は詳らかにしてゐるのである。
尚、當評論最終に近い部分に書いてある、「いちわう現實の解決を不可能のものとして世間から退いた(A⇒B)知識階級が、その權力慾(絶對的自己肯定:C”)を滿足させる捌け口として採った道こそ、實を棄てて名をとるジャーナリズムのうへでの成功にほかならなかつた」の文章は、今日にも「それはたしかに(民衆蔑視への)ポーズにほかならぬ」(P538上)ものとして、ジャーナリスト及びメディアの世界に巣くつてゐるのを見る事が出來る。
*今評論選擇理由・・・川上會員より。
*引き續き川上會員より、LEADING(READING)へ・・・。
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〔以下は、吉野櫻雲發表文〕
と言ふ事で、今評論も中々の難解にしてかつ手ごはく、そしてどの文章も重要なのであるが、特に以下内容文を此處に取り上げる事とする。更にいつもの如く難解なる内容については、手助けを他評論に仰ぐこととする。(以下文中傍線及び括弧内は概ね吉野附記。「P9圖」云々は「讀む會テキスト」頁を表す。「A・B・D2」等も同テキスト三頁を參照の程)
〔難解又は重要文〕:P537上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「より大切な事實は、かれ(デューイ)がその方法を西歐の哲學のうへにえはなく、アメリカの大平原と機械文明とのうへに素手でうち建てたといふことでなければならない。ぼくはこの點をとくに強調したいのだが、、ぼくたちもまた今日、なによりもさきにまず素手で出發することが必要なのだ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。此の邊の文章は、前回選擇評論『謎の喪失』の以下文を彷彿させるものがある。「素手で出發」とは、以下文の反對概念即ち「ぼくたちのまへに謎は謎として存在」させる事、「現實を謎として結晶」させる事を言つてゐるのではなからうか。
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『謎の喪失』〔難解又は重要文〕:P286上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 「ぼくたち(近代日本)のまへに前人未踏の空白が横たはつてゐるのではない。未來はすべて見とほしなのだ。歐米の先進國が歩いていつた足跡が舖道一杯に殘されてゐる。(中略)近代の日本は一寸さきがやみである時間の展開といふものをもたなかつた。(中略)したがつてぼくたちのまへに謎は謎として存在したことはなかつたのであり、謎の喪失それ自體も經驗してはゐないのだ。謎を自覺しないものが、その喪失を知るわけがないのだ」。 P286下「ヨーロッパ人の未來はかれらがどう考へたにしろ、無限の可能性が横たはつてゐたが、ぼくたちのの未來はヨーロッパ人によつて決定されたひとすぢの道があるだけであつた。(中略)〜〜近代日本人のまへに現實はつひに謎として結晶することがなかつた」。 |
【どうでせうか、此の邊についての諸氏のご感想は】
〔難解又は重要文〕:P537上下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「アメリカによつてぼくたちの獲得したものは『自由』なのであつて『自由主義の表象』ではけつしてない。たんに外部から與へられたもの(C2?)にとどまるか、それともこれを自己の必然(A”主體⇒A客體、の事か?)と化するか、この二者擇一は、ぼくたちにとつて過去と借物とでしかないこれらの表象に依然として頼つていかうといふ氣なのか、あるいはそれらをぜんぜん抛擲して素手で現實に立ち向はうと覺悟を決めるかといふ二者擇一に歸する」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。此処で言ふ「表象」とは、恆存のよく使ふ別の言葉で謂ふと、「後楯・護符(西歐概念=上位概念):C2」の事ではなからうか(參照:〔彼我の差別圖「日本的精神主義構圖」seishinshugi21.11.pdf へのリンク〕)。
「アメリカによつてぼくたちの獲得したものは『自由』なのであつて」とは、同圖右higanosa.pdf へのリンクの現實的(A的)客體化による自由の事であらう。即ち「自由」も、西歐近代(アメリカも含む)が、實證精神により「神に型どれる人間の概念の探究」 として獲得した精華(資本主義・民主主義・個人主義等)のひとつなのである。それに對するに、「ぼくたちにとつて過去と借物とでしかないこれらの表象」とは、同圖左の「後楯・護符(西歐概念=上位概念):C2」を指してゐるのだと理解できる。
此處で問はれてゐる事、即ち自由を「自己の必然と化するか」とは、日本は過去と同じ轍を辿り、西歐近代概念(資本主義・民主主義・個人主義・自然主義・帝國主義等)に適應異常して、「自由」をC2(後楯・護符)に祀り上げてしまふのか、それとも歐米が同圖右higanosa.pdf へのリンクの如く、「自己の必然として」現實的に客體化した方法論を取るのかと言ふ事なのであらう。
この事をもう少し詳しく言葉を換へて探究すると、以下傍線部分の樣になるのではなからうか。
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拙發表文:『シェイクスピア劇のせりふ』より(參照〔彼我の差:別圖「日本的精神主義構圖」seishinshugi21.11.pdf へのリンク〕) 恆存は『醒めて踊れ』で、實證精神の範疇である、「So called」「フレイジング」「精神の政治學」をソフトウェア的手段と捉へてをり、「精神の近代化」(個人主義の確立)は、ソフトウェアの効果的發揮によつて、その結果として齎されるものと捉へてゐる。(參照:拙文『醒めて踊れ』の下欄圖) 即ち、西歐(場)との關係(宿命)として齎された「近代化」への適應を、新漢語・外來語の用法(So called)で正常な關係に「形ある『物』として見せる」。それがハードウェアとしての近代化(資本主義化・民主主義化・個人主義化・機械化・組織化・合理化等々)に對するソフトウェア(So called・精神の政治學)としての對處方法なのである。何故日本は「資本主義化・民主主義化・個人主義化」を選擇するのか。西歐が近代でそれら概念に客體化して見せた「神に型どれる人間の概念の探究」を、日本も「形ある『物』として(それら新漢語の裏に)見せる」と言ふ事が「So called」なのである。 |
【どうでせうか、此の邊についての諸氏のご感想は】
〔難解又は重要文〕:P538上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「日本の文化人のポーズ(自由主義者のポーズ)について」原文讀要:右文〜同頁上の末文:「それはたしかにポーズにほかならぬ――現實の混亂に對して積極的な解決策を提供しえぬ、といふよりは、はじめから解決すべき對象として現實(A)を眺めようとしない人間が、自己保證(C2)のために必要としてきたものが、つねにこのポーズの設定であつた。〜〜(中略)〜〜かれら(日本の文化人、知識階級)は外部的に解決すべき問題(A)をそのまま内部の問題(B)に、すなはち良心と意思との問題(B)に還元してゐるといふ事實に、いまなほ氣づかぬのである」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。此の邊の内容はそつくり以下枠文、特に傍線部分(恆存文)の事を、言葉を換へて言つてゐる樣に聞こえる。詳しくはテキスト補「日本精神主義構圖」seishinshugi21.11.pdf へのリンク參照。
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〔拙發表文:『日本の知識階級』より抜粋〕 恆存は、「日本の知識階級は言はば絶對的自己肯定者(C”自己主人公化)として終始 してきた」と看破し、「私小説家・近代日本知識人、その典型としての清水幾太郎」の三者を、いずれもパターンは「テキスト補」の「日本精神主義構圖」seishinshugi21.11.pdf へのリンクだと言つてゐる。即ち 以下の樣に。
そして、彼等「絶對的自己肯定者はあらゆるものを自己の手中に収めようとして(權力慾)、その結果、自己の不滿(A:現實的不滿)を處理する能力だけを失つた人間である。(中略)不滿の原因は現實(A)といふ客観的對象のうちにのみあるのではないのに、彼等はそれをそこ(A的不滿)にのみ見出さうとする。いや、さうする以外に能力も無く、方法も知らぬのであります」(『日本の知識階級』全5P369)。と、上記三者を當該評論で鋭く指摘してゐるのである。 そして彼等は「絶對的自己肯定(C”)」の爲に、その肯定因として「C2:護符・後楯」を上位概念「世界・社會・階級、大思想」に求めようとする。何故ならば、西歐近代が否定因としての神を背景に持つに對して、前近代日本はそれを持たない。故に後楯による自己欺瞞が可能になるのである、と恆存は指摘するのである。
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【どうでせうか、此の邊についての諸氏のご感想は】
〔難解又は重要文〕:P538下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「日本の資本主義は、(中略)思想的裏附けの缺如と――かうした宿命的な發想のゆゑに、卑小な、歪曲された規模をしかもちえなかつたが、なによりも大きな傷手は、歐米のそれのごとき緊密なる關係において、自由主義をみづからの代辯者としてもちえなかつたといふ事實である。そもそもの出發點から――といふのがいいすぎであるならその出發からまもなく、日本の資本主義は自由主義のうちにおのれを鞭うつ冷酷な敵を見いだした。すくなくともこの二つは、いづれは袂をわかたねばならぬ無縁の双生児にすぎなかつた」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。
文中「歐米のそれ(資本主義)のごとき緊密なる關係において、自由主義をみづからの代辯者としてもちえなかつた」とは、かう言ふ事を指すのでは。即ち「彼我の差圖:同圖右higanosa.pdf へのリンク」で示す樣に、歐米の資本主義及び自由主義は、「神に型どれる人間の概念の探究」結果としての「有縁・有機的」な双生児的關係或は兄弟的關係を持つと言ふ事なのであらう。「有縁・有機的」な双生児的關係を示す内容の、恆存文としては以下がある。
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「科學技術と社會制度の民主化との過程が進むにしたがつて、それまでの精神の領域(B:個人の純粋性)に屬してゐた問題が、逐次物質の領域(A:支配被支配の自己)に移されて、物質の問題として解決されていつた。物慾に克といふ克己の倫理(Bの領域)も、充分に慾望する物質を生産(Aの領域)するといふことで解決されてしまふし、病苦に堪へるといふ美徳(Bの領域)も、醫學の進歩(Aの領域)が徐々にそのやうな精神の無益な負擔を輕減しつつある」(『近代の宿命』全二P453) |
それに引き換へ日本の資本主義は、以下の理由(特に傍線部分)によつて、明治の知識階級(自由主義)を「おのれを鞭うつ冷酷な敵」とせざるを得なかつた。尚以下の「自然主義作家・私小説家」はそのまま日本の知識階級と置き換へて差し支へない(參照:恆存著『日本の知識階級』seishinshugi21.11.pdf へのリンク)。
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〔恆存が書く「自然主義作家・私小説家」に至る流れ。及びその似非實在感〕(拙發表文:『獨斷的な餘りに獨斷的な』より)「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *江戸幕府瓦解(文化政策的な儒教倫理C”の崩壊)⇒規範(D1)喪失⇒無限定性の自己(D1・關係・宿命喪失)⇒宗教改革の神に先導された西歐の資本主義と異なり、「近代日本(明治)は資本主義をはじめから利己的な惡徳として發展せしめる以外に道はなかつた(經濟的適應異常)。天皇と國家とのためにといふ名目を除外しては。(中略)近代日本の帝國主義は自己を限界づけるなにもの(國際主義)ももたなかつた(政治的適應異常)。のみならず、天皇や國家の権威は強者の惡徳を正當化した」⇒したがつて「明治の知識階級は政治活動(A)や社會活動(A)のうちに自己を生かすことを惡と見なさざるを得なかつた」のである⇒加へるに利己心に對する後ろめたさ(日本人の習俗性と封建道徳の残滓)⇒爲に、「完全に私を放棄して政治に身を挺するか(「下級武士の和魂洋才」)、さもなければ頑強に私を固執(自己絶對視)して一點に立ちすくむか(自然主義作家及び知識階級)」の二者擇一⇒それが故の、自然主義作家がした實生活(A)から文學(B)への逃避。即ち「文學すらも文明開化の出世主義のネガティーブな吐け口になつてゐた」。(と同時に和魂(B)は下級武士(福沢諭吉等)のアクティーブな吐け口と言ふ事なのでは)⇒自己に忠實(D2:自己表現)⇒C”:自己完成といふ名の自己絶對視・自己正當化⇒D3:自分でする自己確認即ちセルフ・アイデンティフィケイション(虚妄の實感)・似非實在感。 參照:「テキストP9圖」及び『近代の宿命』(全二P463)『私小説的現實について』(全一P571〜3) |
續く文(P539上)の「處世(A)が自己完成(C”)の美徳と一致せる時期をついにもちえなかつた」とは、やはり上記の原因に據るものと理解出來る。
そして更に續く文、「ここに日本の資本主義の特質があり、物質(A)と精神(B)との對立、政治(A)と文化(B)との乖離、その他あらゆる矛盾と混淆とが發生したのである」の、「ここ」とは、日本が「日本精神主義構圖」seishinshugi21.11.pdf へのリンクに留まり、「彼我の差圖:同圖右higanosa.pdf へのリンク」をついに構成しえなかつたことを指してゐるのである。そして其處には自由主義者(知識階級)の以下の樣なコントラスト(彼我の差)が明確に生じてゐる。
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前項及び上枠文の如く、「明治の知識階級は政治活動(A)や社會活動(A)のうちに自己を生かすことを惡と見なさざるを得なかつた」⇒「外部的に解決すべき問題(A)をそのまま内部の問題(B)に、すなはち良心と意思との問題(B)に還元してゐる」。 それとは反して、西歐十九世紀知識階級(自由主義者)には、以下のA的(現實的)問題への果敢なる挑戦があつた。先述すると、彼等は「社會(A)の醜惡と痼疾とを自己のそれとして受け入れた」のである。
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【どうでせうか、此の邊についての諸氏のご感想は】
〔難解又は重要文〕:P539下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「もちろん、デューイも初期自由主義が現實處理に無力となつた理由として、表象の形成とその固定化とを指摘してゐるが」・・・文中の「表象の形成とその固定化」とは何を言はんとしてゐるのであらうか。察するに、それは「手段の目的化」と言ふ、以下の邊りの消息を物語つてゐるのではなからうか。
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*「自然を、現實を正しく認識する(寫實・實證主義)のは、自然のうちに、あるいは現實のうちに正しく生きようといふ目的(現實との關係)のためにほかならない。近代が――ことに十九世紀が、この手段を目的から獨立せしめ、それ自体の自律性を獲得せしめたのである。 現實を正しく認識しようといふのは、自分の目のまへに自分から離れたものとして眞實を設定しようといふことであり、現實のうちに正しく生きようといふのは、現実とのかかはりにおいてみずからが眞實にゐようといふこと(「關係と言ふ眞實を生かす」こと)であつて、兩者はおのづから別個のことがらである」(『作品のリアリティーについて』より。全2:P266〜)。 |
【どうでせうか、此の邊についての諸氏のご感想は】
〔難解又は重要文〕:P540上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「現實の醜惡さ、人間性の奥深くにひそむエゴイズム(A)――かうしたものに直面した時、ひるがへつて正義や善の觀念(B)にすがりつくことしか知らぬひとびとにむしろ強い反撥を感ずるのだ。近代日本にあつては、文化(B)のみならず政治(A)もまた、この人間性の惡とエゴイズム(A)とに氣づかぬやうにふるまつてきた。――ここにすべての病根がある。民衆のエゴイズム(A)に眼をそむけた政治はいきほひ強權の發動となる。そこには獨善と押しつけとがあるのみだ。歐米自由主義の表象(C”)を維持しながら、政治(A)がつひに專制と封建との世界に低迷せざるをえなかつたゆゑんである。――いや、この借物の表象(C”)に隔てられてゐたために、ぼくたちの父祖はつねに人間の惡(A)をまともに見つめる習慣を身につけえなかつたのだ。のみならず、この借物のうへに、過去の儒教的な道徳觀(精神B主義?)がかれらをして現實に直面(A”主體⇒A客體)する勞を省いてゐたのである(⇒參照:以下枠文『肉體の自律性』)。
このふたつのものは――すなはち歐米の自由主義から譲り受けた觀念的な表象(C2)と儒教の道徳觀(精神B主義?)とは――したがつて、わが國においてはたんなる分銅の役割しか果しえなかつた。惡といふ現實の實體を解決せん(A”主體⇒A客體)として、その内部から高くもちあげられたものとしての善、ないしは理想(彼我の差:右圖)higanosa.pdf へのリンクではなく、それは惡の外部にあり、惡と對立して精神の均衡を計らうとする形式的な存在(以下枠文:參照『肉體の自律性』)としての意味しかもちえなかつたのである」云々。
・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。
@ 特に文中「近代日本にあつては、文化のみならず政治もまた、この人間性の惡とエゴイズム(A)とに氣づかぬやうにふるまつてきた。――ここにすべての病根がある。〜〜」。「惡といふ現實の實體を解決せん(A”主體⇒A客體)として、その内部から高くもちあげられたものとしての善、ないしは理想ではなく、それは惡の外部にあり、惡と對立して精神の均衡を計らうとする形式的な存在としての意味しかもちえなかつたのである」云々とは、何を言はんとしてゐるのであらうか。察するに、それは以下枠文の消息《西歐近代と明治以降日本人の精神性のコントラスト》を物語つてゐるのではなからうか。
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拙發表文:『個人主義からの逃避』P2《西歐近代と明治以降日本人の精神性のコントラスト》 「科學技術と社會制度の民主化との過程が進むにしたがつて、それまでの精神の領域(B:個人の純粋性)に屬してゐた問題が、逐次物質の領域(A:支配被支配の自己)に移されて、物質の問題として解決されていつた。物慾に克といふ克己の倫理(Bの領域)も、充分に慾望する物質を生産(Aの領域)するといふことで解決されてしまふし、病苦に堪へるといふ美徳(Bの領域)も、醫學の進歩(Aの領域)が徐々にそのやうな精神の無益な負擔を輕減しつつある」(『近代の宿命』全二P453) と同時に、Aの客體化(物質の問題として解決=實證主義)は、以下の方向性をも齎す。 「實證主義(A”主體⇒A客體)がかれらの自我のうちから追放した神に型どれる人間の概念の探究」へと。(全一:P637『現代人の救ひといふこと』) 即ち、制度による具體化・・・・ 「万人をその胸に救ひとる人格神が、その手をその脚を、さらにその胴体をもぎとられ、それらが制度化せられ機械化(A)せられる――で、神は人體を失つて、完全な精神としての抽象化を受ける。その精神が体文學の領域(B)として残されるといふわけだ」 「近代ヨーロッパは神を見失つた――が、それはただ神の解體と変形と抽象化とを意味するに過ぎぬ。まさにそのための手續きであり過程にすぎなかつたヨーロッパの近代精神とその政治制度・経済機構(A)」それが「テキストP8圖」と言ふ譯である。(P463・P466)(『近代の宿命』全二P466・「テキストP8圖」) 「實證主義は近代ヨーロッパに自我の平板さと無内容とをおもひしらせた。が、リアリストたちがさういふ近代自我に幻滅と絶望を感じたとすれば、ぼくたちはその絶望を可能ならしめたものとして、かれらの夢想してゐた自我の内容の高さと深さとに想ひいたらねばならず、その背景に発見されるものは神でなくしてなんであつたらうか。そして十九世紀末葉から現代にかけて、かれらの精神が「現代人の救ひ」を求めつつ漂泊をつづけてゐるとすれば、それは實證主義がかれらの自我のうちから追放した神に型どれる人間の概念の探究でなくしてなんであらうか」P637『現代人の救ひといふこと』。 |
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《明治以降日本人の精神性》:恆存著『肉體の自律性』より 「肉體の自律性は當然その反面に精神の自律性を前提とする。肉體、あるいは物質で解決すべき事を、精神の重荷とするなかれ――精神には精神のみの解決しうる問題をあてがひ、その領域と大權とを縮小せしめるにしくはない。そのときはじめて精神は自律し、その権威は輝くであらう。 が、ぼくたちは今日までなんと精神を神聖化し、さうすることによつて精神の負荷を重からしめ、結果として精神を侮辱してきたことか。肉體の自律性が確立してゐなかつたからである。明治以降の日本人はあらゆる物質的(A)なこと、肉體的(A)なことに、すべて精神(B)のべールをかぶせ、それをことごとく精神の發動として自己満足してきた。かれらは肉慾(A)を肉慾として是認することをおそれ、それに精神的な衣をかぶせた。物慾(A)を物慾として是認することをおそれ、それに藝術愛(B:私小説家が然り)や愛國心(B:絶對主義的愛國心)や愛他心(B)や、その他の主種雑多な大義名分をかぶせた。・・・」(P479全二「肉體の自律性」:續く文も重要であるが、長いので省略) |
尚、「人間性の惡とエゴイズム(A)」については、拙發表文:「封建制度時代(前近代):集團的秩序の確立してゐる時の職業」、及び拙發表文:【エゴイズムの問題。(「白く塗りたる墓」より)】が參考になるのでは。
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「過去の儒教的な道徳觀がかれらをして現實に直面する勞を省いてゐた」云々とは、以下の文章が參考になると思ふ。更に詳細は本文(黄色部分)を。
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拙發表文:『教育改革に關し首相に訴ふ』より 「精神の近代化=個人主義」未形成の原因を恆存はかく言ふ。儒教による精神面の「自己修養、自己完成」は「近代的な國家主義」の強化目的の爲であり、西歐の「個人の強靱化:個人主義(精神の近代化)」を目的とするものとはそれは全く違ふものであると。詳しくは以下の樣に指摘してゐる。(括弧内は吉野附記) 「明治五年の太政官布告が如何に自己修養(精神面の近代化と言ふ事か)の爲の教育と言ふ理念を強調したにせよ、それを『近代的な個人主義』の自覺を求めたものと見做す譯にはいかないのです。言ふまでもなく『學制』の根本精神は『近代的な國家主義』の強化にありました。外に向つて國家の近代化を急速に達成しようとすれば、内に向つては必然的に個人の近代化を抑止せねばならなくなります。その意味で、自己修養、自己完成と言ふ當時の教育理念は儒教的な克己心に支へられてゐたのであり、又その枠から脱け出る事は出來なかつたのであります。言換れば、それは國家の爲には直接間接を問はず自己を犠牲にすると言ふ事です(西歐の、「個人倫理の次元を、根源的には宗權を國權の上位に置く」との相違が此處に露呈してゐる) この文章は、前出『近代の宿命』の「後者(徳川時代の日本:儒教政治)は支配=被支配の自己(A)を前提としてそのやましさに堪へられず、そこに訴へるべき人間性の純粋を喚び求めたのである」そして明治以降も「依然としてその支配下にある」との文と符牒が合ふのである。 |
【どうでせうか、此の邊についての諸氏のご感想は】
〔難解又は重要文〕:P540下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「歐米の自由主義が醇化し表象化したもろもろの理想は、それがもつとも愛他的(B)精神主義的(B)な形相をとつたときですら、個人の慾望と人間性の醜惡(A)とにその根を張つていた」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。察するに、それは以下の邊りの消息を物語つてゐるのではなからうか。
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『文學の效用』〔難解又は重要文〕:P262上 「リアリズムの否定したものは、自然の、人間性の、あるいは社會の、現實が美であるといふロマンチックたちの觀念であつて、藝術の美ではない。現實の醜惡(A)であるといふ嚴たる認識に直面した時代(西歐十九世紀後半)に、なほその醜惡を素材として美(B)を志向し、藝術(B)を保證するための、いはば苦しまぎれの方法がリアリズムなのだ」。 全1P19:『近代日本文學の系譜』より 「(西歐)十九世紀後半の自然主義作家にとつて、資本主義社會は彼等の自我を實生活において拒絶し扼殺するほどに墮落し硬化したのであり、しかもこの社會的事實を彼等ははつきり凝視し、さらにこれを自己のものとして――いはば社會の醜惡と痼疾とを自己のそれとして受け入れたのであつた(「マダムボヴァリーは私だ」と言ふ事)。またそれゆえの嚴しい自己否定であつた。彼等の自我はもはや作品(「苦しまぎれの方法」=リアリズム)以外に主張と正當化との場所を見出しえなかつたのである」 *「ドン・キホーテはセルバンテスの意慾」・・・肯定的=積極的な生命慾(A)と同時に、ルネサンス人が持つ第二の性向〔即ち、「合理(實證精神:A”主體⇒A客體)を貴重とする人間理性のたくましさ」〕(『小説の運命T』)。 |
【どうでせうか、此の邊についての諸氏のご感想は】
〔難解又は重要文〕:P542下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「〜〜儒教の道徳律が、歐米の自由主義の捷ち得た美徳の表象といつのまにか重なりあつてしまつた」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「儒教の道徳律(B:精神主義)がC2(表象・護符)化したと言ふ事を多分謂はんとしてゐるのであらう。察するに、それは以下の邊りの消息を物語つてゐるのではなからうか。尚、以下文は繼ぎ接ぎの爲、充分咀嚼仕切れてはいないが、一應記載しておく。
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 「『學制』頒布の際の太政官布告の根本には修身齎家治國平天下といふ儒教思想があつたのです。(中略)精神物質、兩面における日本近代化の原動力は儒教以外の何物でもなかつた事を忘れてはなりません」。 「問題は儒教の傳統的な學問の概念と西歐の學問の概念とが全く異質のものでありながら、それに氣附かぬまま巧みに事態を乘り切つてしまつた事にあります」(『教育改革に關し首相に訴ふ』P51下)。 即ち、西歐の學問は、實證主義(A”主體⇒A客體)の試練を經てきたものである。 更に「宗教改革は神(C)をその抽象性において支配=被支配の教門政治(A)から救ひ出した」(『近代の宿命』)。 それに引き換へ、 「忠の觀念はいかに美化され、いちおうの純粋性にまで高められてはゐたとはいへ、君主の肉體(相對)を超えてなほ生きのびる抽象性をもちうるものではない」(『近代の宿命』)。 「(徳川時代の日本:儒教政治)は支配=被支配の自己(A)を前提としてそのやましさに堪へられず、そこに訴へるべき人間性の純粋を喚び求めたのである」(『近代の宿命』)。 そして明治以降も「依然としてその支配下にある」(拙發表文:『論爭のすすめ』P253上)のだと。 要するに、上文の「そのやましさに堪へられず」とは、「儒教の道徳律(B:精神主義)」は、實證主義(A”主體⇒A客體)の試練を潜りぬける力がなく、表象(C2:後盾)へと韜晦してしまつた、と言ふ事になるのでは。 論考に充分な時間が取れず、荒つぽい探究になつた事を此處にお詫びする。 |
【どうでせうか、此の邊についての諸氏のご感想は】
〔難解又は重要文〕:P543上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「率直にいつてしまへば、わが國の自由主義は現實と民衆との背景(A”主體⇒A客體)をもたぬままに、たんなる個人的な權力慾(C”)や自己滿足(D3)と結びついてしまつたのである」・・・とは、恆存は『日本の知識階級』でその事を詳しく説明してゐる。そしてこの頁の上下は、以下の現象を述べてゐると思はれる。(參照「日本の精神主義構圖」の説明文)
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〔拙發表文:『日本の知識階級』より抜粋〕 彼等「絶對的自己肯定者はあらゆるものを自己の手中に収めようとして(權力慾)、その結果、自己の不滿(A:現實的不滿)を處理する能力だけを失つた人間である。(中略)不滿の原因は現實といふ客観的對象のうちにのみあるのではないのに、彼等は
それをそこ(A的不滿)にのみ見出さうとする。いや、さうする以外に能力も無く、方法も知らぬのであります」(『日本の知識階級』全5P369) |
【どうでせうか、此の邊についての諸氏のご感想は】
〔難解又は重要文〕:P543下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
此處で指摘してゐる「政治と文化との乖離」、その彼我の差とは何を言はんとしてゐるのであらうか。日本の場合は前項目(上枠文)が原因に據るものである。
そして、「そこ(歐米)にあつては、政治と文化との緊密な結合からその兩者の乖離が結果してゐる」とは、此處でもやはり「彼我の差:右圖」の、「精神の政治學ラインの最下降化」によるABの嚴密なる乖離を述べてゐるのである。即ち歐米知識階級には以下のA上から逃避しない「嚴しい自己否定」があるのだと。
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『文學の效用』〔難解又は重要文〕:P262上 「現實の醜惡(A)であるといふ嚴たる認識に直面した時代(西歐十九世紀後半)に、なほその醜惡を素材として美(B)を志向し、藝術(B)を保證するための、いはば苦しまぎれの方法がリアリズムなのだ」。 全1P19:『近代日本文學の系譜』より 「(西歐)十九世紀後半の自然主義作家にとつて、資本主義社會は彼等の自我を實生活において拒絶し扼殺するほどに墮落し硬化したのであり、しかもこの社會的事實を彼等ははつきり凝視し、さらにこれを自己のものとして――いはば社會の醜惡と痼疾とを自己のそれとして受け入れたのであつた(「マダムボヴァリーは私だ」と言ふ事)。またそれゆえの嚴しい自己否定であつた。 |
念の爲に書くと日本の自由主義者は「A⇒B逃避」であつた。それが故に表象(C2)を後盾にした民衆蔑視が形成されるのである、と恆存は言ふ。即ち「借物の表象をかざして現實(民衆も含む)の醜惡を鞭打する」(P543上)と。それ故に「民衆は自分たちの心理に眼をそむけた自由主義的文化人に對して、すでに不信の心をもつて對してゐた」(P544上)のだと。それとは反對に歐米自由主義者は、上枠文の方法で「現實と民衆とのかはに立ち、つねに圧制者と對立してゐた」のだと指摘する。
そして、この視點から最終頁下の以下文に論脈は繋がつていくのである。
「民衆がいかに頼りなく見えようとも、またいかに背徳と頽廢とのうちに陥つてゐようとも、それはけつして鞭打すべき對象としてではなく、そのまま自分の姿として、そのうちにぼくたち自身の生活の根を置かなければならないのである」。
【どうでせうか、此の邊についての諸氏のご感想は】
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