平成二十年一月二十七日
『福田恆存を讀む會』
吉野櫻雲
一月「選擇評論」:全集第六巻所載『傳統技術保護に關し首相に訴ふ』(「潮」昭和四十一年四月號:五十五歳)。
當評論を讀むのは小生にとつて初めてである。恆存の評論で、未だ讀んでないものに巡り會へた事に新鮮な喜びを感じた。恆存評論はどれを讀んでも、得る處「大」ではあるが當評論もやはりその中に入る。
「テーマ評論」選擇擔當者、川上會員の仰せの如く、當評論は「現象論」的評論の部類に入るが、讀んで行く内に、それに該當する樣々な本質論的評論の文章が思ひ浮かび、當評論との整合に頭が疲れた。
その爲、今囘も難解部分の解説と言ふ客體化に難を來たし、結果として、自分のみに得る處「大」成りの結末となつて仕舞ふかも知れない。その節はどうかご容赦を願ひたい。尚ご不明な點は大いに質問を戴きたい。
尚、本文に入る前に別評論を借りて、恆存の「歴史・文化・保守」の捉へ方、そして戰後日本の文化觀に對する批判なるものを記して置く。(特に傍線部分は今評論と關聯を持つ)
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*「一時代、一民族の生き方が一つの型(E)に結集する處に一つの文化(D1)が生れる。その同じ物が個人に現れる時、人はそれを教養と稱する」(全四P393『文學以前』) *「現代の日本には主體的な生き方や心の働きとしての文化や教養がないばかりか、文化とはそのやうな主體的な精神の型(E)だといふ觀念さへないのです。おそらく日本の全歴史を通じて現代ほど文化が薄ぺらになり、教養ある階級を失つた時代はなかつたらう。(中略)私たちはまづその自覺に徹すべき」(全五P187『傳統にたいする心構』) *恆存は、傳統や文化を「歴史(C:時間的全體)⇒文化・傳統(D1:關係)⇒自我(A集団的・B個人的)⇒保守(D2:自己劇化)⇒全體・絶對(C)⇒實在感・全體感獲得(D3)」と言ふ圖で捉へてゐる。 そして恆存は、「戰後の日本は文化を喪失してゐる」とも言ひ、「今更愛國心を強調しても始まりません。具體的な『物』としての附合へる文化(關係:D1)を失つてしまつたのでは、愛國心の手掛りは何處にも無くなる」(P59『教育改革に關し首相に訴ふ』)と主張する。 しかしさう言ひながらも翻つて、だが「絶望する必要は無い。日本人にはまだ日本の自然(空間的全體:C)があり、國語(文化の最後の砦?としての正假名正漢字E)があり、そして歴史(時間的全體:C)があります。それが今日もなほ私達に殘された最小限の文化(C⇒D1)です」(全六『教育改革に關し首相に訴ふ』より)と、その樣な現代日本の悲觀的情況の中でも失望せず、「樂觀的觀測」の手を日本人に差しのべる。即ち仕へるべき全體とその紐帯(關係:文化)を、最小限とはなつたが、日本人は未だ喪失してはゐないのだと我々に訴へるのである(拙發表文より)。 |
そして今囘當評論を讀んで分かつた事は、かう言ふ事である。
一昨年、「改正:教育基本法」が施行された。そしてその中に「傳統と文化の尊重、我が國と郷土を愛し・・」云々の文言がある。いともそれが簡單にしてかつ可能の樣に書いてある。しかし、今日の學校教育のみならず社會全般に精神の荒廢が見られる日本において、「傳統と文化の尊重」が左程簡單に果たせるか。學校教育だけでそれが可能なのか、或いは過去の遺産的文化財保護でそれが可能なのか等々と、小生は大いに疑問を感じざるを得なかつた。
しかし、その疑問が今評論における探究でおほかた解決する事が出來たのである。
とは、どう言ふ事かと言へば、それは恆存が別評論で書いてゐる以下の文章に尽きる。
「文化(D1)とは私たちの生き方(E)であります。生活の樣式(E)であります」(全五P185『傳統にたいする心構』の「エリオットの弁」より)。(D1・E等は「テキスト12圖を參照」)
即ち文化とは、物=文化財そのものにあるのではなく、それを形ある「物」にあらしめる、型、言ひ換へれば「仕來り(躾)・風習・樣式・儀式・祭祀・傳統技術:E」にあると言ふ事。それを繼承或いは復元する事にこそ、蓋し「傳統と文化の尊重、我が國と郷土を愛し」の文言自體への解決の糸口となる。その解決の手立てを、恆存は約半世紀も前に、今評論(首相への建白書)で訴へてゐたのである。さりながら理解する頭を當事の首相「佐藤栄作」は備へてゐなかつたのであらう。今日の精神的荒廢はそれを物語つてゐる。
その精神的荒廢から脱却する手立てとなる「傳統と文化の尊重」とは何か。實に曖昧な表現である(理由は同一與黨「公明黨」への遠慮からさうなつた)。もつと積極的概念としてそれを明確に言ふならば、「取り戻す」或いは「見直す」と言ふ事になる。その手段として「型・生き方・樣式」への再認識が必要項目となるのである。
そして、その「再認識」せねばならぬ「型・生き方・樣式」とは何かと言へば、國語で言ふならば「正統表記(正假名正漢字)」の復活。儀式祭祀で言ふなら、祝祭日を神道、農耕民族の歴史を踏まへたそれに改めると言ふ事に繋がる(參照:『人間・この劇的なるもの』、當文P7)。家庭、親子等の人間關係で言へば、躾・仕來り・日本人の美感的生活態度をもう一度見直す事にある。即ち戰後GHQの命令で切り捨てられた、過去の遺産、それも有機性の未だ喪はれてゐない「型・樣式」をもう一度見直し、取り戻す事にあると言ふ事になる。
重要なので繰り返すが、「正當表記(正假名正漢字)」「祝祭日」は型なのである。そして「型」は文化であり、文化は自國の歴史との紐帯(關係)なのである。日本人がナショナルアイデンティティーを取り戻し、精神の荒廢から立ち直るには、「型・生き方・樣式」の再興が必要なのである。それが取りも直さず、日本の歴史への「適應正常」と言ふ事になる。今評論等を探究し恆存の胸の内を察するに、小生は其處に想到せざるを得ない。
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〔以下は、吉野櫻雲發表文〕
と言ふ事で、今評論も中々の難解にしてかつ手ごはく、そしてどの文章も重要なのであるが、特に以下内容文を此處に取り上げる事とする。更にいつもの如く難解なる内容については、手助けを他評論に仰ぐこととする。(以下文中傍線及び括弧内は概ね吉野附記。「P9圖」云々は「讀む會テキスト」頁を表す。「A・B・D2」等も同テキスト三頁を參照の程)
〔重要文〕:P42上下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
T「人との附合ひの根本は物との附合ひに在る。さう思ふ程に物の中に心が見えて來ないと、人との附合ひが駄目になるのではないか。詰り、物が單なる物にしか見えない樣では、人もまた物にしか見えないのではないか。物に己の心を通はせ得る人が、人との附合ひにおいて相手方に心を通はせられぬ筈はありますまい」。
U「愛國心の場合も道徳觀の場合も、その前に先ず物を、それも生きてゐる物を必要とします。人々の求めてゐるものは「期待される人間像」などといふ抽象的理想ではなく、もつと具體的な存在、即ち吾々が手を觸れ、心を通はせる事の出來る物そのものなのです。國家が抽象的な理想としてではなく、具體的な物として見えて來、それに愛着を覺える樣な教育といふ觀點に立つた時、戰後は固より、明治以來の教育理念も教育制度も、のみならずそれを成立させてゐる文化觀、價値觀も、すべてが間違つてゐるとお思ひになりませんか」。
・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。
要するに恆存は、この現象論的評論で、以下の本質論@ABを展開せんとしてゐるのである。
@
場から生ずる「關係(D1)と稱する實在物は潜在的には一つのせりふ(言葉:問答・對話・獨白)によつて表し得る」(全七P300『せりふと動き』)
A 場から生ずる「心の動き(關係)を形のある『物』として見せるのがせりふの力學」(『せりふと動き』)。
更にこの二つを合はせ要略するとかうなる。
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せりふの力學、換言すればせりふ(言葉)との附合ひ方、扱ひ方、即ち「フレイジング」「So called」の用ゐ方の適不適で、場との關係を適應正常化(非沈湎)させる事が可能となり、また反對に適應異常化(沈湎)に陥らせる事にもなり得る。 |
B
「文化(D1)とは私たちの生き方(E)であります。生活の樣式(E)であります。(中略)目の前に客體化しえぬもの、意識的に追求しえぬもの、合理的に説明しえぬもの・・」(全五P185『傳統にたいする心構』の「エリオットの弁」より)
で、@ABをどの樣に演繹的に展開してゐるかと言ふと以下の樣になる。展開具合を解り易くする爲に前出文に括弧注を附してみる。しかし解説が拙く、むしろ自己滿足化して餘計解りにくくなるかも知れないが、その時はお許しの程を。(參照「テキストP12圖」)
*T「人との附合ひの根本は物との附合ひに在る・・」云々とは、
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「人との附合ひ(場C”との關係D1を適應正常にする)」の根本は「物との附合ひに在る(物即ち「對象・言葉F」との距離測定能力、So called、「Eの至大化=言葉の自己所有化」が出來るか否かにかかつてくる)」と言ふ事を言つてゐるのである。上記Bの「文化(D1)とは私たちの生き方(E)であります。生活の樣式(E)であります」も同じ趣旨であり、文化(D1)のある處(換言すれば自國の歴史との「適應正常化=非沈湎」が圖れてゐる國)では、「物・對象・言葉F」との距離測定能力即ち「E」を至大化させる「:型・仕來り・様式・儀式」が形成されてゐて、その「型・仕來り等」が歴史との關係(文化)を形ある「物」として生き方に反映(Eを至大化)させてくれるのである。その樣に恆存は言ふのである。詳しくは下欄枠文(190上【全集第五巻所載『傳統にたいする心構』拙發表文より】)を參照の程。 話を戻すが、物(言葉F)そのものではなくそれとの附合ひ方扱ひ方の能力(E)にあるのだと言ふのである。Aの「(關係D1)を形のある『物』として見せる(E)」能力を、物・言葉との附合ひ方(扱ひ方)に發揮出來れば人間關係も上手くいく(適應正常)と言ふのである。 國に文化の有る無しは文化財(物)そのものよりも、それとの附合ひ方・樣式(技術)を維持せんとする心を日本人が持ってゐるか否かに懸かつてくるのだと。 |
*「さう思ふ程に物の中に心が見えて來ないと・・」云々とは、
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「さう思ふ程に物の中に心が見えて來ないと(距離測定能力の心・So called能力の心がないと)、人との附合ひ(關係)が駄目(適應異常)になるのではないか。詰り、物が單なる物にしか見えない樣では(關係と稱する實在物をただ單に一つの言葉・物に表し得ただけで、「自分と言葉・物との距離が測定出来ぬ」状態即ち對象・言葉に飲み込まれてゐる樣な状態では)、人もまた物にしか見えないのではないか(相手との場に沈湎してゐる爲に適應異常の状況下にゐる)と言ふ事を言つてゐるのである。 |
*「物に己の心を通はせ得る人・・」云々とは、
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「物に己の心を通はせ得る人(物との附合ひ方が出來る人=「型・仕來り・生き方・様式・技術」を持つてゐる人。So called、即ち「自分と言葉との距離が測定出來る人間」即ち「ソフトウェア=精神の政治學」を持つてゐる人)が、人との附合ひにおいて相手方に心を通はせられぬ筈はありますまい(即ち、相手との關係の適應正常が出來ない筈がない、と言ふ事になる)」。 以上を引つくるめて言ふと、「物に己の心を通はせ得る人が、人との附合ひにおいて相手方に心を通はせられぬ筈はありますまい」とは、「型・仕來り・生き方・様式・技術」を持つて物と附合へる人は、人との附合ひ(關係)も、形のある『物』として距離測定能力を見せられない筈はない、と言ふ事になる。更にしつこく言ふと、故に文化(D1)の喪失とは「型・仕來り・生き方・様式・技術:E」を喪失する事を意味し、その事は、人間に生活で「實在感・全體感・必然感」を獲得し難くさせてゐる事に繋がるのである。恆存評論を纏めるとさうなる。(參照:『人間・この劇的なるもの』) |
*U「愛國心の場合も道徳觀の場合も・・」云々とは、
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「愛國心(國との場から生ずる關係、命令「愛國」:D1)の場合も道徳觀(他者愛、等)の場合も、その前に先ず物(對象・言葉F)を、それも生きてゐる物(心を通はせられる物)を必要とします。人々の求めてゐるものは「期待される人間像」などといふ抽象的理想ではなく、もつと具體的な存在、即ち吾々が手を觸れ、心を通はせる事(型・仕來り・生き方・様式・技術・距離測定能力・So called・技術:即ちEの至大化)の出來る物(對象・言葉F)そのものなのです。 |
*「國家が抽象的な理想としてではなく・・」云々とは、
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「國家が抽象的な理想(愛國と言ふ概念)としてではなく、具體的な物(心の通つた物、即ち「愛國」と言ふ關係を、形のある『物』としてみせる事が出來る「E=型・仕來り・生き方・様式・技術」それ自體)として見えて來、それ(E=「型・仕來り・生き方・様式・技術」それ自體、換言すれば「ソフトウェア」)に愛着を覺える樣な教育といふ觀點に立つた時、戰後は固より、明治以來の教育理念も教育制度(即ち「國家近代化」と言ふ、ハードウェアの爲にのみ專心した教育)も、のみならずそれを成立させてゐる文化觀、價値觀(「和魂洋才」及び、物質的近代化のみで「近代化」こと終われりとしてゐる事を指す)も、すべてが間違つてゐるとお思ひになりませんか・・」。 |
*「戰後は固より、明治以來の教育理念も教育制度も、のみならずそれを成立させてゐる文化觀、價値觀も、すべてが間違つてゐるとお思ひになりませんか・・」云々とは、恆存は『醒めて踊れ』や『教育改革に關し首相に問ふ』他で言つてゐる事柄を此處で言はんとしてゐるのである。それらを要約するとかうなる。
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ハードウェアである「近代化」といふ關係、更にそれを表する「資本主義化・民主主義化・個人主義化・機械化・組織化・合理化等々」の言葉を、それら新漢語に對する用法(「So called」)で、正常な關係に「形ある『物』として見せる」と言ふ、「ソフトウェア」の藝當が明治以來日本では出來なかつた、と言ふ事を恆存は言はんとしてゐるのである。 「國家近代化(西歐化)、それを表する上記新漢語の客體化」と言ふ、所謂「ハードウェア」それ一點の爲にのみ、日本は教育も政治經濟も軍事も全て專心して來た。それが故に、「附合ふ」と言ふ「ソフトウェア」即ち「E=型・仕來り・生き方・様式・技術」が蔑ろにされたのだと糾彈してゐるのである。そしてさうした「愛國」は間違つてゐるのだと。 重要な點なので再度繰り返すが、西歐(場)との關係(宿命)として齎された「近代化」への適應を、新漢語の用法(So called)で正常な關係に「形ある『物』として見せる」。それがハードウェアとしての近代化(資本主義化・民主主義化・個人主義化・機械化・組織化・合理化等々)に對するソフトウェア(精神の政治學)としての對處方法なのであると恆存は言ふのである。その「ソフトウェア」即ち「E=型・仕來り・生き方・様式・傳統技術」の重要性に政府も國民も氣附かず、それを「滅びるがままにして置いた」と言ふのだ。 第一義底は、「ソフトウェア」としての「E=型・仕來り・生き方・様式・傳統技術」なのである、と言ふ觀點に立つた時、「ハードウェア(關係とそれを稱する新漢語群)」にのみ狂奔した明治以來の日本の有樣(文化觀・道徳觀)が「すべてが間違つてゐる」と見えないかと恆存は言つてゐるのである。「文化(D1)とは私たちの生き方(E)」であると言ふ觀點が明治以來の日本にはなかつたと。 「ソフトウェア」である「E=型・仕來り・生き方・様式・傳統技術」の有機性を十分に理解し、それに愛着を覺え大事にする事。それが文化なのであると恆存は言ふ。「文化とは生き方である」の同一的謂ひが其處にはある。 要するに、關係(D1)と稱する實在物は潜在的には言葉(せりふ)によつて表し得るが、それを「形のある『物』として見せる」には「型・樣式」が必要なのだと言ふ事になる。 表現を變へて言ふならば、かうなる。 古人が各時代において、歴史(時間的全體C)との關係(即ち文化D1)を、繼承した技術或は樣式(E)で、建造物や彫刻・文學・風俗等々(F)に、顕在的に「形ある『物』として見せる」事が出來た樣に、現代人も又、日本の歴史との關係を、傳統技術や樣式を繼承して、同じく建造物・彫刻・文學・風俗等々に「形ある『物』として見せ」られなくてはならない。それが文化なのである。或は文化が生きている證明(歴史との適應正常)なのである。
斷つておくが、かかる言ひ換へは、恆存の論を小生流に勝手に換骨奪胎化してゐる譯ではない。今評論のみならず、關聯した恆存の諸評論からその樣に小生には理解が出來るからである。
附記しておくと、この論法は「『シェイクスピア劇のせりふ』:拙發表文」で使用した、以下枠文の焼き直しである。何故そんな事をいちいち附記するかと言ふと、恆存の思想にそれだけ初出の@Aの演劇的視點が密接に關聯し、その他活動(政治や文學評論)の基調にもなつてゐると思へるからである。恆存における「演劇」の重要性に氣が附いてない人士(西尾幹二他)が多いが故に、一言此處に記した次第である。
囘り道をしたが話を元に戻す。
しかし戰後の日本は、過去の歴史否定をしてしまつたが爲に、歴史との紐帯(關係)である文化をも喪失してしまつた。それと同時に、これら傳統技術・樣式(E)も否定され喪失の憂き目に遭ひ、それが爲に「建造物・藝術・風俗等々」に、歴史との關係(即ち文化)を「形ある『物』として見せる」事が不可能となつてしまつたのである。故に恆存は、傳統技術・樣式(E)を繼承する事が、歴史への適應正常(關係・文化の復元、再興)に繋がると、その樣に言ふのである。将に、時の宰相に訴へるゆゑんが其處にある。
そして更に恆存の思はくを追究するとかうなる。 初出@ABで言ふ、その「文化とは生き方」、或は「關係(D1)とは型・樣式(E)で顕される」の論を敷衍するならば、「愛國(國との關係D1)」とは、國が持つ「E=仕來り・型・風習・樣式・儀式・祭祀・傳統技術」の有機性を理解し、それに愛着を持つと言ふ事を意味することになる。 そしてしつこくも更にこの事を追究して、然るにその有機的「樣式・儀式・祭祀」とは何を示すかと言へば、此の樣になるのではなからうか。将に、此處に恆存の熱き胸の内を知る思ひがする。 國語に關聯しては「正當表記(正假名正漢字)」を示し、また國事的「儀式・祭祀」に關聯して言ふならば、儀式の本源的性質即ち「生命の根源まで降りていき、自然との合一感にひたるための型としての儀式(祭祀・祝祭日)」なるものを、もう一度我が國が取り戻す事をそれは指し示す事になる。 即ち恆存が言ふ樣に、現今の脈絡のない祝祭日を廃し、神道・農耕民族の歴史を踏まへたそれに改めるべき、と言ふ事になるのである。(參照:『人間・この劇的なるもの』最終章) 處で話は飛ぶが、恆存は、別評論では「戰後の日本は文化を喪失してゐる」と指摘し、このあとの評論『教育改革に關し首相に訴ふ』では、「今更愛國心を強調しても始まりません。具體的な『物』としての附合へる文化(即ち前述内容)を失つてしまつたのでは、愛國心の手掛りは何處にも無くなる」(P59)と再度宰相(佐藤栄作)に提言するのである。爾來四十数年、今日的状況を顧みるに、多分結果は佐藤首相に耳を貸して貰へなかつたのであらう。何故なら、晩年恆存は「日本はますます惡くなる」と言ひ殘してゐるのであるから・・。 ついでに蛇足と言ふか、話が逸れるがひと言申し上げる。 想へば、國技「相撲」にしても「柔道」にしても、他分野と同樣に日本は、「國際化(西歐化・近代化の變形體)」と言ふ美名の「ハードウェア」に誑(たぶら)かされ飜弄されて來た。それに「戰後の文化喪失」の惡影響も加はつて、「道」本來が持つ「型・仕來り・生き方・様式:ソフトウェア」を、意としては繼承かつ國際化してゐるつもりでゐながら、形としてはその逆で、それを蔑ろにし形骸化、或は崩壊化をして來た。 本來保守すべき筈の「文化(ハードウェア)」なるものを、「國際化」と言ふ新漢語の自己所有化(ソフトウェア)に、この土俵でも失敗したが爲に、無節操な文化財解放となり、結果として「型・仕來り・生き方・様式=ソフトウェア」を切り崩す事となつた。将にそれは「角を矯めて牛を殺さうとした(相撲)」であり、又「庇を貸して母屋を取られた(柔道)」となる。要するに國際化して、文化を再興するどころか、自分の手で更なる崩壊を企てた事になる。愚かな話と言へる。 |
〔參考文:全五P190『傳統にたいする心構』小生發表文より〕
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文化(D1)のある處(換言すれば自國の歴史との「適應正常化=非沈湎」が圖れてゐる國)では、「E」を至大化させる「:型・仕來り・様式・儀式」が形成されてゐて、その「型・仕來り」が歴史との關係(文化)を形ある「物」として生き方に反映(Eを至大化)させてくれるのである。文化(D1)のある國は「仕來り」を持つが故に、「對象・言葉との距離測定不能(言葉に呪縛)」が原因の、適應異常や狂氣の囘避が可能となるのである。その事柄を「テキストP12圖」的に言へば、「D1の至大化=Eの至大化」と言ふ事になる。「:型・仕來り・様式・儀式」は生活・言葉への囚はれから人を救出してくれるのである。更に換言すれば、平生足をさらはれてゐる樣な現實的平面から意識を立ち上がらせてくれる。なぜにそれが可能となるかと言へば、「:型・仕來り・様式・儀式」に内在する働き、恆存の文章に從へば、以下枠文のダイナミズムをそれは宿してゐるからなのであると理解する。もう一度簡略して言ふと、文化は國及び歴史への沈湎を防ぎ、「:型・仕來り・樣式・儀式」は言葉(或は生活・對象)への沈湎から免れる手立てとなる、と言ふ事なのである。(參照:拙發表文《恆存の「實在感」についての考察》)
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やはり案の定、生硬文が禍し、なにやらこんぐらがつてしまつたでありませうか。
〔難解又は重要文〕:P「45下」内が恆存文。( )内は吉野注。
「文化といふものが青少年の不良化や大學騒動や過激な大衆運動を未然に防ぐ阿片として絶大な効果を有する」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。それについては當發表文P2〜3で解説した以下が參考になるのでは。簡略すると、文化のある處、相手(場)との關係の適應正常が出來得るのであるから、「青少年の不良化や大學騒動や過激な大衆運動」(即ち適應異常)が起こる筈がないと言ふ事になる。
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文化(D1)のある處(換言すれば自國の歴史との「適應正常化=非沈湎」が圖れてゐる國)では、「物・對象・言葉F」との距離測定能力即ち「E」を至大化させる「:型・仕來り・様式・儀式」が形成されてゐて、その「型・仕來り等」が歴史との關係(文化)を形ある「物」として生き方に反映(Eを至大化)させてくれるのである。その樣に恆存は言ふのである。詳しくは下欄枠文(190上【全集第五巻所載『傳統にたいする心構』拙發表文より】)を參照の程。 話を戻すが、物(言葉F)そのものではなくそれとの附合ひ方扱ひ方の能力(E)にあるのだと言ふのである。Aの「(關係D1)を形のある『物』として見せる(E)」能力を、物・言葉との附合ひ方(扱ひ方)に發揮出來れば人間關係も上手くいく(適應正常)と言ふのである。 《文化があると言ふ事は生き方・樣式があると言ふ事、關係の適應正常化が圖れると言ふ事》 「物に己の心を通はせ得る人(物との附合ひ方が出來る人=「型・仕來り・生き方・様式・技術」を持つてゐる人。So called、即ち「自分と言葉との距離が測定出來る人間」即ち「ソフトウェア=精神の政治學」を持つてゐる人)が、人との附合ひにおいて相手方に心を通はせられぬ筈はありますまい(即ち、相手との關係の適應正常が出來ない筈がない、と言ふ事になる)」。 以上を引つくるめて言ふと、「物に己の心を通はせ得る人が、人との附合ひにおいて相手方に心を通はせられぬ筈はありますまい」とは、「型・仕來り・生き方・様式・技術」を持つて物と附合へる人は、人との附合ひ(關係)も、形のある『物』として距離測定能力を見せられない筈はない、と言ふ事になる。更にしつこく言ふと、故に文化(D1)の喪失とは「型・仕來り・生き方・様式・技術:E」を喪失する事を意味し、その事は、人間に生活で「實在感・全體感・必然感」を獲得し難くさせてゐる事に繋がるのである。恆存評論を纏めるとさうなる。(參照:『人間・この劇的なるもの』) |
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