平成二十一年九月二十日
『福田恆存を讀む會』
九月選擇評論:全集第二巻所收『職業としての批評家』(「個性」昭和二十三年六月號。三十七歳著)
今囘の選擇評論『職業としての批評家』は、洵に難解、晦澀につき、とても小生の理解力では齒が立たない。ただ脱帽するしかない。
よつて、〔難解又は重要文〕は、幾ばくかの手掛かりが出來得たもののみを記載するに留めた。
なにしろ取つ掛かりの掴めない、そんな重苦しい、恐怖感に囚はれる評論である。
ついでに申し上げると、恆存評論の「難解項目」の探究及び解説を、身の程知らずと言ふか、おこがましくもと言はうか、この「讀む會」で數年も續けて來た。
そこで分かつた事なのであるが、「難解項目」をひとに説明できるのは、自分が「十」理解出來てゐて、精々が「八から七」。自分が「八」なら、ひとには「五から三」がいいところ。そして自分が「五」しか理解出來てゐないものは、ひとには「二〜零」と捉へるのが無難と言ふ事である。そして、相手に「十」理解して貰ふなどと言ふ段に到つては、自分が「十二分」理解(とても出來ない相談だが)してなければ、それは無理であると言ふことになる。
*今評論選擇理由・・・川上會員より。
*引き續き川上會員より、LEADING(READING)へ・・・。
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〔以下は、吉野櫻雲發表文〕
と言ふ事で、今評論も中々の難解にしてかつ手ごはく、そしてどの文章も重要なのであるが、特に以下内容文を此處に取り上げる事とする。更にいつもの如く難解なる内容については、手助けを他評論に仰ぐこととする。(以下文中傍線及び括弧内は概ね吉野附記。「P9圖」云々は「讀む會テキスト」頁を表す。「A・B・D2」等も同テキスト三頁を參照の程)
〔難解又は重要文〕:P312上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「批評家もまた、『職業としての作家』において僕の提出した近代人の宿命にたへぬかねばならぬ。といふよりは、作家以上に、それにたへてゆかねばならないのである。むしろ、この宿命にたへぬくといふこと、そのことをおのれの専門とするものを批評家と呼ぶ」・・・左記文中「近代人の宿命」とは何を言はんとしてゐるのであらうか。
察するに、近代は以下の樣な秩序が崩壊してゐるから、近代人は、職業上における権力慾の「自己劇化」が出來ない。故に「その宿命にたへぬくといふこと」。それが「近代人の宿命」なのだ、と言ふ事を言つてゐるのであらう。
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「封建的な支配關係の秩序は職業的身分の確立により、上から下への權力の流れに沿つて集團的自我を解放してゐた。この秩序に安心してもたれかかつてゐたため、個人的自我はその上に純粋な成長をなしえた」(『職業としての作家』P547)。 |
更に上枠文の内容を説明すると以下の樣になる。
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拙發表文「封建制度時代(前近代):集團的秩序の確立してゐる時の職業」(『職業としての作家』)より 封建制度時代(前近代)では、職業を通して自己完成の通路(個人的自我)も開かれたと言ふ事を示す。 職業上における権力慾の「自己劇化」が、構圖的終着点としての「背後にある全體(C:天・神等)」に繋がり得る安定感がある事によつて、個人的自我も「自己完成」の共演が権力慾の「自己劇化」の内に圖れると言ふ事を示してゐる。個人主義においては、さうした「自己を何處かに隠す」隠し場所がない、と言ふ事である。何故ならば目的到達點は「自己」であるから。 そして大事な點は、「テキストP8圖」(西欧個人主義《近代自我》構圖)でも「テキストP9圖」(日本的精神主義構圖)でも、自己完成の通路(個人的自我の通路)は閉ざされ、そこでは「権力慾」も歪曲される、と言ふ事だ。西欧個人主義《近代自我》は以下のメカニズムのジレンマから脱出し得ない。
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【どうでせうか、此の邊についての諸氏のご感想は】
〔難解又は重要文〕:P313下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「強度の必然性・・」云々、及び「批評家はまづ第一に、この必然性の度合いを感得しうる人間でなければならない」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。察するに、それは以下の邊りの消息を物語つてゐるのではなからうか。
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「いはばコップから水を飲むことすら完成せる統一體の一構成分子たらしめることだ。文學者とは(中略)専門家として、たんなる現實の素材に意味的聯關を與へるやう強烈な意識をもつて、その生活を主題的に統一して生きぬかうとする人間のことにほかならない」(全二P297『急進的文學論の位置づけ』)。 |
【どうでせうか、此の邊についての諸氏のご感想は】
〔難解又は重要文〕:P316上下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
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エリオット文「既存の秩序は新しい作品が出現しないうちは完結してゐるのだが・・」云々。
A
エリオット文への恆存補足文「新しい作品、あるいは新しい作家の出現にさいして、そこに破れた均衡を發見し、さらにその破壊された秩序よりも高次な、新しい作品を含む新しい秩序を建てなほすこと、それが批評家の職能だといふのだ。ここにはっきりと意識されてゐるものは、歴史的傳統(D1=關係?)、社會秩序(D1=關係?)、そして文化の観念(D1=關係?)である。(中略)批評家はそのことを明瞭に自覺し、もつぱらそのためにのみかれのしごとを推進させねばならないといふのである」云々・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。
なにしろ此の邊も難解で、しかと斷定は出來ないが、察するに、それは「完成せる統一體としての人格」論の圖、と近似的な消息を物語つてゐるのではなからうか。
〔難解又は重要文〕:P317上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「自己省察の徹底は所詮、自己喪失のほかのなにものにも導かぬことを身をもつて證明してゐたはずではないか」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。察するに、それは以下の邊りの消息を物語つてゐるのではなからうか。
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*〔恆存の言ふ、西歐近代自我(個人主義)の末路〕 近代=「神の死」即ち「神意(宿命)喪失」⇒神の代はりに自己の手による宿命演出⇒自己主張(表現)・自由意思(人間如何に生くべき)⇒自己完成(自己主人公化・自己全体化・自惚鏡)⇒自己陶酔・自己満足・自己絶対視・自己証明による「似非實在感」⇒エゴイズム(近代自我の必然)⇒自己喪失(自己への距離感喪失)。 *「現實を認識し合理化することによつて理解しようとする近代人の論理癖が、もしこのけぢめを無視することになれば、いつたいいかなる事態が惹起されるか、考へるまでもなく明白なことだが、そこには論理にかはつて自我意識(自己表現⇒自己完成⇒自己滿足・自己陶酔)が登場する――しかも表面あくまで論理のマスクをかけて」(『チェーホフ』P172上) |
そして、
〔難解又は重要文〕:P317下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
の「かれは自己の眞實をクリスト教(C)といふ傳統(D1關係)に賭けてゐるのである。あるいは、
この傳統あるがゆゑに、エリオットはナルシシスムの無限地獄から脱却しえたのみならず、是を揶揄し輕蔑しえた」も、上枠文の反對の意味を含んでゐる。更に「完成せる統一體としての人格」論の圖、と近似的な消息を、矢張り物語つてゐるのではなからうか。
【どうでせうか、此の邊についての諸氏のご感想は】
〔難解又は重要文〕:P322下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「批評家はいかなる作家を扱ふにせよ、(中略)もはやみずからが實驗材料でなければならない。趣味の主體であることをやめて、倫理の主體にならなければならないのである。といふより、趣味に殉じる習性が、やがて倫理的義務をかれに要求せずにゐられなくなつた、といふべきであらう。(中略)批評家はみづからに人間の完璧性を要求し、その實現の試驗室にのぼらなくてはならぬのであり、したがつてそこでは、作家以上にその職業性が危殆に瀕してゐるといへよう。人間になることを専門とする職業――そこには小説や詩におけるごとき職人氣質、ほとんどまつたくといつていいほど、脱落してしまつてゐる」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。察するに、それは以下の邊りの消息を物語つてゐるのではなからうか。
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「いはばコップから水を飲むことすら完成せる統一體の一構成分子たらしめることだ。文學者とは(中略)専門家として、たんなる現實の素材に意味的聯關を與へるやう強烈な意識をもつて、その生活を主題的に統一して生きぬかうとする人間のことにほかならない」(全二P297『急進的文學論の位置づけ』)。 |
【どうでせうか、此の邊についての諸氏のご感想は】
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