六月選擇評論::全集第五巻所收『飜譯論』
(「聲」第九號、昭和三十五年十月刊。第十號、三十六年一月刊。:四十九歳)
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*今囘選擇評論『飜譯論』では、各項目の「難解探究」に時間を取られ、この「まへがき」を上手く纏める事が出來なかつた。よつて省略させて戴く事とする。前囘の「言葉の目的」とも何處か關聯するものがあると思ふが、探究不足が禍し、書き損じさうなので已めておく。
*引き續き川上會員より・・・『飜譯論』選擇動機、及びLEADING(READING)。
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〔以下は、吉野櫻雲發表文〕
と言ふ事で、今評論も中々の難解にしてかつ手ごはく、そしてどの文章も重要なのであるが、特に以下内容文を此處に取り上げる事とする。更にいつもの如く難解なる内容については、手助けを他評論に仰ぐこととする。(以下文中傍線及び括弧内は概ね吉野附記。「P9圖」云々は「讀む會テキスト」頁を表す。「A・B・D2」等も同テキスト三頁を參照の程)
〔難解又は重要文〕:P98下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
原文讀要:「危機的なもの(即ち全體離脱)がシェイクスピアの中にはあつて、なによりもそれが私の心を引く。彼はルネサンス(=中世―神=絶對・全體喪失)といふ誤れる入り口に立つてゐるのだが、救ひを求めて觀念(世界觀・藝術觀)に身を賣るやうな愚かさや弱さ、その他いかなる浪漫的自己欺瞞からも免れてゐる。そのため、今の私達の目には、彼が危機に見舞はれてゐることすら、とかく見逃されがちである。彼の危機に救ひがあつたかどうか。いや、それは救ひを必要とするものであつたかどうか。もし彼の危機に救ひが必要であったなら、彼はまず教會へ出かけたらう。少なくとも彼はそれを劇場に期待しはしなかつた。彼が劇場に期待したことは、危機から自分を救ひ出すことではなく、危機と戲れることであつた。シェイクスピアのせりふが詩でありえたのは、そしてその詩がせりふでありえたのは、彼が言葉といふものを危機の表明や解決の通路としてではなく、その中に危機を呼び入れ、それと戲れるための場として把握してゐたからである」・・・當文中より以下點を探究する。
�� 「彼が劇場に期待したことは、危機から自分を救ひ出すことではなく、危機と戲れることであつた」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。なかなか難解な處ではあるが、上記の理解に當たつては以下枠の文が參考になるのでは。前釈を入れると、シェイクスピアは初期、「全體(中世)離脱」による人間(部分・個)の「肯定的=積極的な生命慾(A)」を主題のロマンチックコメディーを書き、その後の悲劇時代ではもう一つの側面、「全體離脱=自由」による人間の孤獨を描いた。何故ならば恆存は、ルネサンスに始まる近代を、「近代=宿命(關係)不在=自由=孤獨=自我の不安」、であると見、「近代」に衰退(デクリネイション)の一様相があると見てゐる。そして天才シェイクスピアにもその時代の影が射してゐるのを見、「昇騰してやまぬ想像力の自由な羽ばたき(ルネッサンスの子としての)の影に何か黒い空洞(近代の孤独感=危機)があって、恐らく時折はそこを冷たい風がさつと通り抜けるのが感じられたに相違ない」(全2:シェイクスピアP27)と指摘してゐるのである。
その「黒い空洞(近代の孤獨感=危機)」との戲れを、戯曲の創作即ち「全體と個(部分)」の相關關係を演出する事によつて劇場で見せた。と言ふ事を恆存は言はんとしてゐるのではなからうか。(この項は、時間が足りず今一つ小生の探究不足を感ずる)
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『人間・この劇的なるもの』(全三P570〜1)より 「シェイクスピアの時代においては、中世の宗教的統一世界が、いづれも崩壊のきざしをみせはじめる(即ち絶對・全體離脱)。そのとき、劇詩人の想像力は、全體の危機に賭けて、自由に羽ばたく。浪漫派の詩人たちは、それを手ばなしの自由の讚歌と受けとつた。が、劇はそれ自身の法則を守る。登場人物の自由な生命力は、全體からの離脱と反逆を通じて、かへつて全體の存在をたしかめ、それを導き入れるやうにしか動かない。なるほど、ハムレットはクローディアス政體の全體性を認めはしないが、それによつて滅んでいくとき、それとは別の次元(相對を超えたるもの)に、自分を滅ぼす全體性の存在を容認しようとしてゐる。私がまへに、死にたいする信頼といつたものはそれだが、私たちは、自分を滅ぼすものを信頼することによつてしか生きられない。信頼と言ふ言葉に値する信頼は、それしかないのである。いひかへれば、個人としての自分よりは、全體を信じるしかなく、さうすることによつてしか、自分を信じることはできぬであらう。(中略)シェイクスピアは、その主人公たちの行動に個人主義的なストイズムを許したとしても、劇の本質も作劇法も、個人主義的なものではありえぬことを、十分に知つてゐたのだ」。 參照:パワーポイント圖「危機と戲れる」kikitotawamureru.new.pdf へのリンク 以下の樣に「全體離脱」=危機、を「戲れた」(離脱⇒自己劇化・自己欺瞞⇒全體獲得)、と言ふ事か。 參考:(シェイクスピア戯曲「空騒ぎ・十二夜・お氣に召すまま」各「解題」文より要約) *シェイクスピア喜劇・・・ルネサンス=中世―神(絶對)=自由=肯定的・積極的な生命慾(A)の横溢⇒自己欺瞞(ボヴァリズム・さう在りたい自己)⇒全體(C)に癒される(例:アーデンの森の魔力)⇒全體感・實在感・充實感獲得⇒「在るがままの自己」に戻る。 *シェイクスピア悲劇・・・ ルネサンス=中世―神(絶對)=自由=孤獨=「解放されて仕へるべき何をも持たぬ自我の不安」。 「悲劇主人公」(個人主義・自由)⇒自己(個・部分)への自己劇化(ボヴァリズム・さう在りたい自己)⇒破局⇒死(全體)⇒全體感・實在感、充實感の獲得。參照:パワーポイント圖「危機と戲れる」kikitotawamureru.new.pdf へのリンク 「私たちは生それ自體のなかで生を味はふことはできない。死を背景として、はじめて生を味はふことができる。死と生との全體的な構造の上に立つて、はじめて生命の充實感と、その秘密に參與することができるのだ」。(參照:『人間・この劇的なるもの』最終章) |
【上記項目についての質疑應答】
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「シェイクスピアのせりふが詩でありえたのは、そしてその詩がせりふでありえたのは、彼が言葉といふものを危機の表明や解決の通路としてではなく、その中に危機を呼び入れ、それと戲れるための場として把握してゐたからである」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。上記の理解に當たつては以下の文が參考になるのでは。(この項も追究時間不足)
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「場との關係を適應正常化(距離の至大化)」するのが言葉の目的だと言ふ事になる。即ち、場から生ずる「關係(D1)と稱する實在物は潜在的には一つの言葉(F)によつて表し得、故にその言葉との附合ひ方、扱ひ方(形・Eの形成=「型にしたがつた行動」)によつて、人間は場との關係の適應正常化が叶へられる」と言ふ事になる。 |
【上記項目についての質疑應答】
〔難解又は重要文〕:P100上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
原文讀要:「私はこれまで度々劇における言葉は行動そのものであり、行動の尖端において發せられ、さらに行動を生み出すものであるがゆゑに、最も純粋に行動的でなければならぬと言つてきたが、そのことは右のブラックマーの身振り論と一致する。ハムレットが自分の怯懦を反省する獨白において、(中略)私達はその『意味』を通じて彼の心中『考へてゐる事柄』を推測してはならぬ。ハムレットの言葉はハムレットの口を突いて出てくる、その身悶えであり、身振りであつて、(中略)何かの『意味』などを傳へようとしてゐるのではない。言葉で自分を鞭打ち、言葉で自分にまじなひを掛け、さうして自分を言葉の次元にまで引上げようと暴れ廻つてゐるのである。それをまた私は演戯とも呼んだ」。
「シェイクスピアの飜譯において、一番大事なことは、そのせりふの『意味』ではなく、さういふ身悶えを、さういふ身振りを、彈みのある日本語に移すことである。(中略)ハムレットの言葉がハムレットの口を突いて出るといふことは、言葉が言葉を引出してゐるといふことだ。決して『意味』が『意味』を引出してゐるのではない。あくまで言葉が身振りとして身振りを引出してゐるのだ」。・・・當文中より以下四點を探究する。
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「私達はその『意味』を通じて彼の心中『考へてゐる事柄』を推測してはならぬ」云々・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。上記の理解に當たつては以下の文が參考になるのでは。
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『シェイクスピア劇のせりふ』全七P359 *「せりふは語られてゐる意味(F)の傳達を目的とするものではない。一定状況の下(場面)において、それを支配し、それに支配されてゐる(宿命・關係:D1)人物の意志や動きを表情や仕草と同じく形のある『物』として表出する事。それが目的であり、意味の傳達はその爲の手段に過ぎぬ」。 換言すると、場から生ずる「心の動き(關係)を形のある『物』として見せるのがせりふの力學」(『せりふと動き』)と言ふ事になる。 |
つまりは、「F:心中『考へてゐる事柄』の傳達」と「D1:心の動き(場との關係)の表出」との違ひ、この似て非なるものを峻別する事の難しさが、どうしても日本人役者(吾々も)には漂ふのではなからうか。
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「ハムレットの言葉はハムレットの口を突いて出てくる、その身悶えであり、身振り(D1では?)であつて、(中略)何かの『意味:F』などを傳へようとしてゐるのではない」云々・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。上記の理解に當たつては以下の文が參考になるのでは。
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言葉は寫實ではなく用途(講演カセット「シェークスピアの魅力」より要旨) *「言葉とは、意味の傳達以上に「用途」の役割を持つてゐるといふ事。寫實(何)よりも用途(なぜ:D1を見せる用途)を。人間を目的・行動に駆り遣る爲の鞭的用途(スプリングボード)の役割を持つ」。 *「言葉は物を指し示す物の影(寫實)ではなく、「實在物=關係」を目に見える樣に傳へる用途を持つてゐるものなのである」。 以下は(要旨:『シェイクスピア劇のせりふ』P339P346から) *「ハムレットは今、この時、なぜ(D1)、かういふ言葉で、かういふ事を言ふのか、その氣持ち・必然性(D1)が目に見える樣(E)に傳へる」。「言葉は行動する」その行動性を、強い必然性を。 *「何:F」をではなく、方法論(フレイジング・せりふ廻し)で人物の意志や心の動き、即ち「なぜ」(D1)をリアルに表す。 *意味の傳達(なに:F)よりも「目的達成の爲の効果」(P346)の方(なぜ=關係:D1の必然性)を重要した方が・・・。 大事なのは、その言葉の背後にある心の動き(D1)を聲の形(E:カタチ)に出す事。・・・平易な意味傳達(なに)よりも心の表情(なぜ)を(P339)。 |
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「それをまた私は演戯とも呼んだ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。上記の理解に當たつては以下の文が參考になるのでは。
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『人間・この劇的なるもの』全三P541・545 *「ハムレットは自己の宿命を待ち構へてゐる人間である。いひかへれば、これが宿命であると納得のいく行爲の連續によつて、自己の生涯を滿たしたいと慾してゐる人間なのである」。 *「ハムレットはめまぐるしく、ときには輕率に行動しながら、意識の世界では(「C王權神授⇒D1復讎・宿命」から)一歩も動かず、じつと自己の宿命が完成されるのを待つてゐる。(中略)かうして動かずに待つ意識(復讎・宿命と言ふ)を中心に、(その宿命・關係と言ふ眞實を生かすべく)力一杯うごきまはること、それが演戯なのである」。(參照:「完成せる統一體としての人格」圖) この事を別な角度から言ふと、以下恆存文の傍線部分となる。 「いはばコップから水を飲むことすら完成せる統一體の一構成分子たらしめることだ。文學者とは(中略)たんなる現實の素材に意味的聯關を與へるやう強烈な意識をもつて、その生活を主題的に統一して生きぬかうとする人間のことにほかならない」(全二P297『急進的文學論の位置づけ』)。 |
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「ハムレットの言葉がハムレットの口を突いて出るといふことは、言葉が言葉を引出してゐるといふことだ。決して『意味』が『意味』を引出してゐるのではない。あくまで言葉が身振りとして身振りを引出してゐるのだ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。この「身振り」「身悶え」とは、更に噛み砕くと、「心の動き(場との關係:D1)の形化」と言ひ表せまいか。前述の「一定状況の下(場面)において、それを支配し、それに支配(宿命・關係:D1)されてゐる人物の意志や動きを表情や仕草と同じく形のある『物』として表出」された、心の動きと解釋出來るのではなからうか。
その上で、「『意味F』が『意味F』を引出してゐるのではない。あくまで言葉が身振り(D1)として身振り(D1)を引出してゐるのだ」と譯せるのでは。
【上記項目についての質疑應答】
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尚、以下は當評論に關聯すると思しき内容なので掲載する。
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場から生ずる「關係(D1)と稱する實在物は潜在的には一つのせりふ(言葉)によつて表し得る」(全七P300『せりふと動き』) ��
場から生ずる「心の動き(關係)を形のある『物』として見せるのがせりふの力學」(『せりふと動き』)。 更にこの二つを合はせ要略するとかうなる。
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「自分と言葉との距離の至大化(距離を絶え間なく変化させられる技術)」する手段として・・・So called(所謂「・・・」)の能力の必要性=精神の近代化(p399)=演劇の場合:フレイジング(句節法・文節の折目)の活用能力p400 といふ式が成り立つ。(「フレイジングが正しく出来る為には話し手が自分と言葉との距離や場と自分との関係を意識してゐる精神の働きが無ければならない」) *(注)フレイジングはphrasingでありphrase(句)の粒立てを意味する。せりふの美学、力学の根幹を成す。 せりふは目に見える物体であり、力学の法則にしたがつて動くもの。 フレイジングとは、平面図を立体的な三次元の世界に見せる遠近法の技術。その典型がシェークスピアの作詩法「ブランクバース(弱強五歩格の律文)」である。(「シェークスピア劇のせりふ」より要旨) |
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「何」の裏に「なぜ(必然性)」を見せるための方法論が「フレイジング・So called」・・・「フレイジングはphrasingでありphrase(句)の粒立てを意味する。フレイジングとは、平面図を立体的な三次元の世界に見せる遠近法の技術」。・・・即ち、話し手とせりふとの距離を、その方法論で至大化させることによつて、関係も至大化し場面への沈湎から免れる。場面から発生する「心の動き(関係)」が寝そべることなく、「なぜ」と言ふ強い必然性が生まれる。・・・関係の必然性を見せる事が可能となり、せりふに意志と行動性を持たせることが出来る。「ハムレットは今、この時、なぜ、かういふ言葉で、かういふ事を言ふのか、その気持ち・必然性が目に見える様に伝へる」事が可能となるのである。「言葉は行動する」その行動性を、強い必然性を。・・・何をではなく、方法論(フレイジング・So called)で人物の意志や心の動き、即ち「なぜ」をリアルに表せる。・・・意味の伝達(なに)よりも目的達成の為の効果の方(なぜ=関係の必然性)を重要した方が・・・。何より大事なのは、その言葉の背後にある心の動きを声の形に出す事。・・・平易な意味伝達(なに)よりも心の表情(なぜ)を。(要旨:P339から) 「芝居は造形美術。台本は設計図、それにしたがひ、一つ一つのせりふ、一つ一つ場面、登場人物一人一人の役割、さういふものの積み重ねによつて土台、柱が、正面入口が、窓が造られて行き、一晩の芝居を見終わつ後、装置を排除した舞台空間に配置よろしく堂塔が聳え立つて見えるかどうか、それが見えねばならぬ筈だが、それを見せる事が芝居の目的ではない。芝居は造形美術であるが、いはゆる造形美術と異る点は造形する過程、すなはち工程そのもののリズムを楽しませる事にある。その演劇建築術の基本がせりふの力学、フレイジング。・・・過去の新劇に最も欠けてゐた事は、実はリアリズムなのである、せりふの物理学的リアリティーなのである。・・・」(要旨:「シェークスピア劇のせりふ」よりp359)
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平成二十年六月二十二日
『福田恆存を讀む會』