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八月:選擇評論
:【全集第五巻所載:『進歩主義の自己欺瞞』(「文藝春秋」昭和三十五年一月號:四十九歳)】

當評論を讀んでゐると、ただ成る程さうか、仰せごもつともと頷くばかりになる。しかし實際は、恆存が言はんとしてゐる奧意は難解の部に入り、淺學の身には讀解力を跳ね返されてゐる感がし、恆存思想の鉱脈に届いていないもどかしさがある。それで何とか探究して、このもどかしさに目鼻を付けようと別評論を色々と探索する事になる。當評論もやはり、恆存が別評論で言ふ、以下各項目の内容を下敷きにして讀む必要があるのではなからうかと再認識する次第である。取り敢へず、題名と関聨する部分を此處にまへがきしてみる。

恆存の言論から察するに「進歩主義」とは、進歩の「絶對化、價値化、目標化」を指し、現實の世界にユートピアを求め、近代化と言ふ本來相對なる物を絶對化、價値化、目標化する事を示してゐるのではなからうか。そして「社會科學者」とは、その自己欺瞞を内在してゐるにもかかはらず目隠しをし、更に自己の立場を絶對視してゐる人間と言ふ事にならないか。それについて恆存はかく言ふ、「私が社會科學者にいやがらせをを書いてゐるのは、社會科學そのものがいけないと言つてゐるのではなくて、現在の社會科學者が社會科學を絶對化するからそれを否定するわけです。自然科學も社會科學も科學であるといふ限界があるし、科學であるといふと非常に事實と關はりあつてゐるやうにみな誤解するが、これも一つのフィクションなのであつて、つまり假説から出發してゐるわけです。もつと極端に言へば歴史も假説ですよ(この辺は全六『覚書』に通ずる)。一つのフィクションです。われわれはフィクションの上に立つて動いてゐるわけですね。だから、自然科學も、これは假説であると言ふ限界を心得るべきなので、自分達の科學で全てが解決できると言ふのは、とんでもないことです」(單:『生き甲斐といふ事』:P178〜9對談『反近代について』)

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〔以下は、吉野櫻雲發表文〕

と言ふ事で、今評論も中々の難解にしてかつ手ごはく、そしてどの文章も重要なのであるが、特に以下内容文を此處に取り上げる事とする。更にいつもの如く難解なる内容については、手助けを他評論に仰ぐこととする。(以下文中傍線及び括弧内は概ね吉野附記。「P9圖」云々は「讀む會テキスト」頁を表す。「A・B・D2」等も同テキスト三頁を參照の程)

〔難解又は重要文〕その 「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

P177下:��E・M・フォスターの弁『私が憎むのは大儀の觀念だ。もし私が國家を裏切るか、友人を裏切るか、そのどちらかを選ばねばならぬやうに追ひこまれたらなら、私はむしろ國家を裏切る勇氣をもちたい』。〔注:E.M. フォースター(1879 - 1970)英國小説家。「私は絶対的信条を信じない。寛容、善意、同情、ほんとうはこういうものこそ大事なのであって、人類が滅亡を免れるとすれば、遠からずまたこういうものが前面に出てくることだろう」(『私の信条』)〕

�◆屮侫�スターはただ自由と個人とについて語つてゐるだけだ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。上記�´△陵�解に當たつては以下の文が參考になるのでは。

「個人と社會」の問題・・・自由主義諸國においては「宗權は國權を超える」と言ふ事。(全三P79『個人と社會』から)

「アメリカを筆頭とする自由主義諸國は、たとへ現状では國際間にまで倫理が通用しなくても、本質的には個人倫理の延長に社會や政治を考へてゐる國です。。兩者は永遠に一致しないかも知れない。しかし、いや、それゆゑに、個人倫理の次元を、根源的には宗權を國權の上位に置く、すくなくとも同位に置く、人間觀にもとづいてをります。(中略)まちがひは犯しませうが、本質的な生き方については、昔からなんの變更もありません。が、ソ聯は國家目的、社會目的、階級目的を個人倫理の上に置きます。後者は前者によつて規定されます。私は躊躇なく、自由主義諸國に共感をおぼえる。(中略)いひかへれば、相對の世界に對立する絶對の世界、そして兩者の竝存を認める生き方、それが人間の生きかただとおもふのです。(中略)さういう意味で、私は個人が國家に反抗できる制度ではなく、さういふ哲學がもつとも必要であるとおもひます」・・・とはかういふことでは。西歐では、宗權の客體化としての近代國家設立が始まつた。⇒「神に型どれる人間の概念の探究」としての、自由主義國家・民主主義國家が始まつた。と言へるのでは。

【上記項目についての質疑應答】

 

〔難解又は重要文〕その 「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

P178下:� 屮好痢爾�第二義的に、方法論的に考へてゐる科學主義が、現代の日本では無邪氣に初めから信奉されてゐる。だからこそ、そこには危機感が生じないのだ。進歩主義が一つの氣分に過ぎず、進歩が最高の價値として疑はれないゆゑんである」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「方法論的に考へてゐる科學主義」とは、西歐近代「テキストP8圖」における實證精神(AB分割線、下降化の爲の手段)の事を物語つてゐるのであらう。西歐ではただの手段(方法論)でしかないものを、前近代の日本では「信奉・最高の價値」或は「目標」即ち「C2:護符・後楯」としての上位概念(世界・社會・階級、大思想)へと變質させてしまふのだと言つてゐるのであらう。尚上記の理解に當たつては別頁(nihontekiseishinshugikouzu.pdf へのリンク)の文が參考になると思ふ。

 更に「進歩が最高の價値」「目標」云々について探究するならば、以下の文が參考になる。

〔單:『生き甲斐といふ事』對談「近代化について」P173〜4より〕

「西欧と日本、先進國と後進國といふふうにわけますと、だいたい目標のないことが氣になるといふのは、後進國の特殊性なんですね。先進國はそういふ目標を意識しない國(中略)といふことなんですね。だから近代化といふのは、先進國からでたものですが、近代化を作つたものは何かと言ひますと、やつぱり過去の歴史の動き(クリスト教の連續性、一貫性、統一性?)、生命力ですね。一つの共同體(クリスト教文化圏?)があつて、その共同體も個人も強い生命力を持つてゐて、無目標で動いていくうちに、近代化といふ一つの道ができたわけなんですね。ですから、近代化といふものができても、その目標がどこにありや、などとは考へないのです。背後から突き上げて來る生命力でもつて、それは人間のと言つてもいいし、自然のと言つてもいいのですが、これによつて押されて、近代化が進められてきた。だから近代化は價値にはならない。價値にもならなければ、目標にもならない。が、後進國ならば價値にも目標にもなる。

 日本の場合、明治以來近代化は價値になり、目標になつてしかもその近代化といふものが、自分の國の過去の歴史の必然性からでたものでなく、歴史の斷絶によつて、あるいは過去の歴史を排除することによつて進められてきたものだから、先進國のレベルにまで及びもつかないうちに、空虚感を感じてくる。目標の無いのが氣になり出すわけです」(注:例の「和魂洋才」と言ふ「日本文化再評價の氣運」もそこからくるのでは?『傳統にたいする心構』參照)

(中略)現實の社會に理想を求める。相對社會に絶對を求めるといふのは、日本における『近代化』の誤訳ですね。西洋の近代化は先に言つたやうに、うしろから來た必然性のよつてなされてゐるから、近代化といふものを絶對化したり、價値化したり、現實化(?意味不明。現實の世界にユートピアを求めるといふ事では?或は「理想化」の誤植か?)したりはしてゐない。

(中略)やっぱり、價値觀が無ければならない。(が)それは現實の世界にユートピアを求めるといふ思想、いや思想といふより生き方(即ち近代化と言ふ相對なる物を絶對化、價値化、目標化する事)からは、出てこない。これがはっきりわかった時に、近代化とか進歩とかいふものはネセサリー・イーブルだといふ考え方が出てくるのであつて、さうなると、自ずと近代化や進歩といふものに對するわれわれの姿勢も變はつてくる。文部省(當事の)で今さかんに教育制度とか文化政策を云々していますが、そんなことで日本の近代化のボロに手が打てると思ふのは間違ひです(この辺は今日、安部政權「教育改革」にも通じる重要項目と言へる)。制度だけ改革しても精神が直らなければ同じこと(とは、『精神の近代化(個人主義)』による二元的視點が確立できなければ同じと言ふ事か?)なんで、文化政策などといふもので簡單に片のつくものではない。学校教育だけでなく、本當に皆が教養を身につけ社會教育をも含めて、先程言つた生き方を悟る(近代化と言ふ相對なる物を絶對化、價値化、目標化しないと言ふ事。即ち現實の社會に理想を求める。相對社會に絶對を求めるといふ日本における『近代化』の誤訳=適應異常、を悟る)ことです。(中略)(しかし)みんな氣が附くまでこのまま行かざるを得ない。やはり一人一人が自分で生きて識らねならない。壁にぶつかるのです。行き詰りに追ひこまれたほうがいい(とは、『精神の近代化(個人主義)』不確立の行き詰りに追ひこまれろ、と言ふ事なのか?)」(P176〜7)。

以上の恆存の言論から察するに「進歩主義」とは、進歩の「絶對化、價値化、目標化」を指し、現實の世界にユートピアを求め、近代化と言ふ本來相對なる物を絶對化、價値化、目標化する事を示してゐるのではなからうか。そして「社會科學者」とは、その自己欺瞞を内在してゐるにもかかはらず目隠しをし、更に自己の立場を絶對視してゐる人間と言ふ事にならないか。それについて恆存はかく言ふ、「私が社會科學者にいやがらせをを書いてゐるのは、社會科學そのものがいけないと言つてゐるのではなくて、現在の社會科學者が社會科學を絶對化するからそれを否定するわけです。自然科學も社會科學も科學であるといふ限界があるし、科學であるといふと非常に事實と關はりあつてゐるやうにみな誤解するが、これも一つのフィクションなのであつて、つまり假説から出發してゐるわけです。もつと極端に言へば歴史も假説ですよ(この辺は全六『覚書』に通ずる)。一つのフィクションです。われわれはフィクションの上に立つて動いてゐるわけですね。だから、自然科學も、これは假説であると言ふ限界を心得るべきなので、自分達の科學で全てが解決できると言ふのは、とんでもないことです」(同P178〜9對談『反近代について』:昭和四十一年十一月:學習院輔仁會雑誌上)。

【上記項目についての質疑應答】

 

〔難解又は重要文〕その 「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

P178下〜評論最終:� 屬發型癖發�必然惡ならば、進歩主義は萬能藥にはなりえまい。自由も個人もその必然惡(「・・からの惡」?)として自由主義、個人主義を生じた。民主主義にしても議會主義にしても同じことではではないか。(中略)民主主義もまた必然惡であることを知らねばならぬし、何事にも必然惡が伴ふものである以上、それを廻避するには何が必要かを深刻に考へなければならないはずだ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「必然惡」と必ずしも同意ではないが似た用語で、恆存は「近代化をネセサリー・イーブル(必要惡)」と捉へてゐる(注:必要惡は「・・への惡」「・・の爲の惡」と捉へられるのでは?)。又進歩は歴史の必然とも。その辺(單:『生き甲斐といふ事』對談「近代化について」P170〜2)を參考かつ糸口にして、上記内容を探究してみたい。上記の理解に當たつては恆存の以下文が參考になるのでは。なほ長文なので省略してゐるが、出來れば原文を「中略」なしで讀みたい(P170〜2)。

「本質的に人間關係を問題にしてみますと、要するに、人間關係を稀薄にすることが近代化である、と言ふ定義が成り立つほど、近代化といふものは、人間と人間の直接關係、言葉をかへて言へば、摩擦といふものをなくして行くことが近代化といふものだと思ふ。(中略)機械といふものによつて人間關係が隔絶されるといふ事が起つてくる。(中略)ゆつくり人間の心と心の交流といふものが行はれてゐない。(中略)自己疎外といふ言葉も(中略)何も資本主義社會に限らないで、それ以前から近代化といふものの始まりから自己疎外はあつたと思ふ。(中略)組織と人間の間、生産物と人間の間、一緒に働いてゐる仕事場における人間と人間の間、これが稀薄になればなる程近代化されたといふことになるわけです。さういふ點からいふと(中略)人間がみな孤立してゆき、共同體意識が失はれていく・・・。(中略)

人間の共同體としての強靱な紐帯といふか帯といふものはだんだんゆるんできて、同時に人園の生命力が衰へていく。個人の個体の生命力、食慾、性慾はあるかもしれないが、人間と人間とが摩擦しあひながらも一緒に生きていかうといふものが、だんだん衰へて逃避といふ方向に向かつていく。(中略)この事はある程度まで阻止できない。だから近代化に私は非常に否定的ではありますが、これはネセサリー・イーブル(必要惡)であつてさういふ方向に進んでいくものです。だから私は近代化をネセサリー・イーブルと考へるペシミスティックな立場です」(單:『生き甲斐といふ事』對談「近代化について」P170〜2)

 

�◆嵜癖蘯腟舛麓�己欺瞞を脱しなければならない」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。P178下:�,痢嵜癖發�最高の價値」云々を指し、それが、「絶對的自己肯定」の爲の肯定因として、「C2:護符・後楯」化し自己欺瞞の温床になつてゐる事を言つてゐるのではなからうか。

��「フォスターは、あらゆる信念を狂信として憎むが、もしお前は何を信じてゐるかと問はれれば、それは人と人との結びつきだと答へてゐる。それは人類とともに古めかしい。人は、たとへそれが眞であることを認めたにしても、そんなことを言つてみてどうなるか、どうしたらいいのか、(中略)方法論はない。當りまえである。めいめいがやることだからだ。が、方法論が見つからぬからといふのは、それを無視する理由になるか。それゆゑにそれは價値がなく、進歩は價値であり、自由や平等が價値であると言へるか。どうにもしやうがないから、それはさておいて出來ることをするといふ。それはよい。が、やがてそのうちに、それで何でも解決できると思ひあがりはじめたのが、現代における進歩主義の迷妄ではないか。人と人との結びつき以外に信ずべきものはないといふ、この單純な眞理に、私たちはもう一度、たちかえるべきである」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「もしお前は何を信じてゐるかと問はれれば、それは人と人との結びつき」とは、前述P177下の「個人倫理の次元を、根源的には宗權を國權の上位に置く人間觀」の事を言つてゐる樣にも考へられる。

また上記の「方法論が見つからぬからといふのは、それを無視する理由になるか。それゆゑにそれは價値がなく、進歩は價値であり、自由や平等が價値であると言へるか」云々、又は進歩、自由、平等が「價値・目標」にならない事の方が國として近代化してゐる、等の理解に當たつては、やはり前項「P178下:� 廚剥杠椶靴拭�以下の恆存文が參考になり示唆するものがあると思へる。

「過去の歴史の動き(クリスト教の連續性、一貫性、統一性?)、生命力ですね。一つの共同體(クリスト教文化圏?)があつて、その共同體も個人も強い生命力を持つてゐて、無目標で動いていくうちに、近代化といふ一つの道ができたわけなんですね。ですから、近代化といふものができても、その目標がどこにありや、などとは考へないのです。背後から突き上げて來る生命力でもつて、それは人間のと言つてもいいし、自然のと言つてもいいのですが、これによつて押されて、近代化が進められてきた。だから近代化は價値にはならない。價値にもならなければ、目標にもならない。が、後進國ならば價値にも目標にもなる」

尚、恆存の「完成せる統一體としての人格」論が此處にも窺ふ事が出來る。「人と人との結びつき以外に信ずべきものはないといふ、この單純な眞理に、私たちはもう一度、たちかえるべきである」の文にそれが窺へる。「人と人との結びつき以外に信ずべきものはない」とは、換言すれば、人と人との「關係こそが眞實なのである」と言ふ事では。即ち、以下の内容を「フォスター」の文を借りて、出來ればその後に續けて、恆存は言はんとしてゐるのではなからうか。

「眞實といふのは、ひとつの關係の中にある。個々の實體よりはその關係の方が先に存在している。人生といふものは、關係(目上⇔目下・親⇔子・師⇔弟子・國⇔國民、等々)が眞實なんで、一生涯自分のおかれた關係の中でもつて動いてゐる。いろいろな關係を處理していき、それらの集積された關係がその人の生涯といふもの。それを私は演戯だといふ」。(單行本『生き甲斐といふ事』中、對談「反近代につひて」P195・199)

 更に考へるに、「方法論はない。當りまえである。めいめいがやることだからだ」とはどういふ事か。各場面場面(國・企業・夫婦・親子・家庭・兄弟・師弟・友達・他者・等)から生ずる、關係と言ふ眞實(目上⇔目下・親⇔子・師⇔弟子・國⇔國民、等々)を生かす行爲は、當然「めいめい」の行爲であると言ふ事を指すのか。そして「方法論はない」とは、あとは生かす(自己劇化する)か生かさない(自己劇化しない)かにかかつてくると言ふ事なのか。この辺は分かりにくい文章である。何故ならば、恆存自信は方法論(「完成せる統一體としての人格」論)を説いてゐるからである。

【上記項目についての質疑應答】

 

をはり

 

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平成十九年八月十二日