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平成二十一年四月五日

『福田恆存を讀む會』


 

四月選擇評論:全集第七巻所收『孤獨の人 朴正煕』(「文藝春秋」昭和五十五年一月號:六十九歳)。

 

此の評論で追求されてゐる問題は、「民主主義とは」であると、小生には思へる。

恆存は、民主主義なるものを、ベストなるものではなく、ベターなるもの的に以下の樣にそれを表現してゐる。

「(民主主義は)即ち一番良い方法といふのではなくて、一番危険の少ない方法」と。⇒(別紙『民主主義の弱點』參照)。

そして、似た樣な事を英國の「チャーチル」元首相も以下の樣に書いてゐる。

 「民主主義とは國民が政治に參加する最惡の方法である。だが,それ以外に國民が政治に參加する方法を人類はまだ發見していない」(「名言集」より)。

 

 矢張り此處にも、「民主主義」と言ふ新漢語に對する、日本人の「適應異常」を恆存は指摘してゐる樣に見受けられる。

 西歐近代において、「個人主義・自然主義・資本主義」等々と同樣に、民主主義も「神に型どれる人間の概念の探究」の一つとして、政治的舞台で客體化されて來た。西歐の政治的指導者は民主主義に「普遍的價値」を置いてゐるのである。⇒以下枠文參照(特に傍線部分)

拙發表文《『日米両国民に訴へる』の部分的まとめと小生の感想》より「 」内が概ね恆存文。( )内は吉野注。

 

先日平成十六年終わつた「シーアイランド・サミット」の、『拡大中東構想』政治宣言の内には、かう謳はれてゐる文章がある。(産経新聞:平成十六年六月十一日記載)

「1.提案する價値は、人間の尊嚴、自由、民主主義など、普遍的なもの」と。

 

此處に上記(レジュメ參照)恆存の考察が正鵠を射てゐるのをみ取る事が出来る。即ち彼等特に米英獨佛が選擇せんとする「歐米の傳統であるアイデアリズム(理想主義)の普遍的追及と言ふ姿勢を。

彼らが提案する普遍的價値としての「人間の尊嚴、自由、民主主義」とは、取りも直さずキリスト教精神の客體化であり、それは恆存が言ふ所の西歐近代精神、「神に型どれる人間の概念の探究」なのである。彼等は暗黙裡に自分達の價値觀(西欧精神が創出した近代化)を承認し合つてをり、その普遍的國際性を毫も疑つてはゐない。

何故ならば「歐米は一つの歴史(注:キリスト教精神)を共有してゐる」からである。「近代化」は歴史の必然との合意がそこにはあり、緩急の差があつても中東にもそれは適應されて然るべきとの彼等共通の信念が讀み取れる。

 しかしながら、民主主義を「普遍的價値」と假説し追求しながらも、それはこの世のもの、即ち相對世界のものであるが故に、「絶對」價値ではない。

 民主主義を「普遍的價値」と假説し追求せんと言ふ事と、ベターなるものでしかない代物と言ふ事とは、一見矛楯してゐる樣に見えるが、さうではない。

 此處には恆存がよく言ふ、西欧人の「二元論」が窺へる。即ち「理想と現實」、カトリシズムの「肉(現實)は神意(理想)の遂げ處」(聖書事典より)と言ふ教義の客體化が窺えるのである。換言すれば、恆存の謂ふ「神に型どれる人間の概念の探究」なのである。ベスト(理想)には未だし遠いが、現實世界ではそれに一番近いもの、即ちベターと言ふ事である。

この世に存在する、他の政治的方法論よりはベター、即ち「神の住む國」に一番近い方法論だから、民主主義を「普遍的價値」と假説し追求せん、と言ふ事になるのであらう。「普遍的」とは、現實世界の相對的價値の代物が、絶對的價値(神意)に繋がつてゐると言ふ事を、それは意味してゐるのではなからうか。

 「二元論」的思考を持たない日本人は、そこの處を取り違へて「適應異常」し、その樣な相對價値でしかない代物を絶對價値として捉へてしまつたのだと、恆存は言つてゐるのであらう。⇒(別紙『民主主義の弱點』參照)。「民主主義」と言ふ新漢語を、「so called=所謂何々」する事が出來なかつたと言ふ事なのである。換言すれば、「自分と言葉(物)との距離の測定が出來」なかつたのである。⇒以下枠文參照。

拙發表文『醒めて踊れ』から。「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

*「自分と言葉(物)との距離の測定が出來る」とは「言葉(物)を自己所有化する」と言ふ事。即ち、「意識度を高く」し、「言葉(物)の用法に細心の注意」をし、「言葉(物)を自分から遠く離す事によつて、逆にその言葉を精神化し、支配、操作する事が出来る様になる」(P391全七)。さうする事によつて「自分に近付け、言葉を物そのものから離して自分の所有にする事が可能になる」。

 蛇足として、と言ふか恆存理解(近代化論等の)の手立てとして、以下の内容を此處に轉載しておく。むしろ、讀むと珍紛漢の内容で、結構、圖での説明も要する代物であるが、しかし、多分それでも分かりにくい。だが重要なので記載しておく。恆存の『醒めて踊れ』のこの邊り(P393上)の實文は、一見平易に書いてある樣であるが、もつと難解なのであるから。

拙發表文『シェイクスピア劇のせりふ』より

恆存は『醒めて踊れ』で、實證精神の範疇である、「so called=所謂何」「フレイジング」「精神の政治學」をソフトウェア的手段と捉へてをり、「精神の近代化」(個人主義の確立)は、そのソフトウェアの効果的發揮によつて、その結果として齎されるものと捉へてゐる。(參照:「讀む會テキスト補」P4

即ち、西歐(場)との關係(宿命)として齎された「近代化」への適應を、新漢語・外來語の用法(so called=所謂何々)で正常な關係に「形ある『物』として見せる」。それがハードウェアとしての近代化(資本主義化・民主主義化・個人主義化・機械化・組織化・合理化等々)に對するソフトウェア(精神の政治學)としての對處方法なのである。何故日本は「資本主義化・民主主義化・個人主義化」を選擇するのか。西歐が近代でそれら概念に客體化して見せた「神に型どれる人間の概念の探究」を、日本も「形ある『物』として(それら新漢語の裏に)見せる」と言ふ事が「So called」なのである。當然其處には近代化が持つ二面性のもう一つ、「必要惡・疎外」等々の裏面も捉へ「形ある『物』として見せる」と言ふ「so called」も必要なのは言ふまでもない。と、その樣に評論『醒めて踊れ』等から小生は、恆存が言はんとする事を整理及び理解する

 

そして今評論では、「パックスアメリカーナ」の當事者、かつ「アイデアリズム」のトップランナーとしての米國が、自國を「民主主義」の守護神と錯覺し、「完全民主主義を奉ずる正義感」(P184)から「北の脅威を目前にしてゐる『半民主主義國家』韓國に完全民主主義を強要する」結果となつてゐると、恆存は指摘してゐるのである。

では、國によつて形態が變はつてよい、「民主主義」とはどう言ふ事か。それについては、下欄の項目で考へてみたい。

 

*今評論選擇理由・・・本多會員より。

引き續き川上會員より。LEADING(READING)へ・・・。

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〔以下は、吉野櫻雲發表文〕

 

と言ふ事で、今評論も中々の難解にしてかつ手ごはく、そしてどの文章も重要なのであるが、特に以下内容文を此處に取り上げる事とする。更にいつもの如く難解なる内容については、手助けを他評論に仰ぐこととする。(以下文中傍線及び括弧内は概ね吉野附記。「P9圖」云々は「讀む會テキスト」頁を表す。「ABD2」等も同テキスト三頁を參照の程)

 

〔難解又は重要文〕:P170上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「日本は潛在的には大きな危機を孕んでゐるが、危機感は全くない、・・・」云々・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「エアポケット」云々は全七P516下參照。かつ此の邊の内容については、「覺書六」を參照。⇒スクリーン表示。

【どうでせうか、此の邊についての諸氏のご感想は】

 

〔難解又は重要文〕:P171上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「幾ら無能で貧乏であらうと、幾ら無知で醜女であらうと、自分の父母や子供は、彼等が私の親であり子であるが故に守る。國についても同じである。そこには『値する』といふ傍觀者的概念の入り込む餘地は全くない」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。此の邊は恆存の「完成せる統一體としての人格」論の言ひ換へであらうと思へる。⇒スクリーン表示:PDF「讀む會テキストP10〜12」。

【どうでせうか、此の邊についての諸氏のご感想は】

 

〔難解又は重要文〕:P173下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

@   「一口に民主主義、自由、平等と言つても、日米のそれと韓國のそれとを同一視する譯には行かないといふ話し(朴大統領の辯)になつた。それは私の持論でもある。(中略)韓國はアジアでは全體主義社會に直面する自由陣營の最前線基地である、その苦惱を日米兩國とも全く理解してゐない」。

A   (朴大統領の辯)「一口に民主主義だの平等だのといふけれど、、國によつて、それぞれ歴史や生活とか風習とか、それに政治色にも色々違つた條件があるので、アメリカや日本の民主主義をそのまま韓國に適應しろといふのは無理だ」(@から察するに恆存も同論であらう)。

・・・@Aは何を言はんとしてゐるのであらうか。そして、國によつて形態が變はつてよい、「民主主義」とは、どう言ふ事か。小生は、此處ではたと、その謂ひを適用するならば、「制限付き:プーチン型ロシア民主主義」も「了承」と言つて良い事になるのであらうか、と思ひ迷ふ。なにやら「制限付き:プーチン型ロシア民主主義」には欺瞞、詭辯の臭ひがするからである。「嘘つたらしさ」が鼻に附く。

當事の韓國も今日のロシアも「民主主義」を受け入れてゐる。が、時間的懸隔があるとしても、其處には似て非なるものがある樣に思へるのである。よつて、以下枠で簡單ではあるが、それを追究してみる。

韓國型(當事)民主主義と、プーチン型ロシア民主主義の似て非なるもの。或いは比較。

制限付き「民主主義」國家

制限目的

欺瞞性の有無

韓國型(當事)民主主義

*隣國北朝鮮「全體主義國家」への防衛。

*南進の脅威。

⇒防共と言ふ現實的對應。・・・首都から僅か40q先に、「北の脅威を目前にしてゐる」が爲の「半民主主義國」(P184下)。

プーチン型ロシア民主主義

*自由主義國家への防衛?

*隣國、全體主義國家「中國」「北朝鮮」への防衛?

自由・民主主義を輸入しながら、自由主義國家への防衛を意圖する矛楯及び欺瞞性。

自由・民主主義を標榜しながら、本音としては拒否?。出來ればKGB出身のプーチンは「ソ連」に戻したいのだ、と思へる。⇒「ジャーナリスト暗殺」・「實業家シベリア流刑」に、ソ連時代との「形」の相似性が指摘できる。

 と、追究して來て、以下の恆存文を思ひ出した。即ち、「宗權は國權を超える」と言ふ第一原則が分かつてゐれば、國によつて「民主主義」の形態が變はつてよい、と言へるのではなからうかと思ひ到つたのである。

即ち、プーチンの身体にはソ聯體質が染み附いてゐて、以下文の「ソ聯は國家目的、社會目的、階級目的を個人倫理(宗權)の上に置きます」が内奧に沈殿してゐるのである。故に「意は似せ易く、形は似せ難し」なのであり、「上手の手から水が漏る」となるのである。そして中國の「社會主義的資本主義」もさも似たり、だと。

「個人と社會」の問題・・・自由主義諸國においては「宗權は國權を超える」と言ふ事。(全三P79『個人と社會』から)「 」内が恆存文。

「アメリカを筆頭とする自由主義諸國は、たとへ現状では國際間にまで倫理が通用しなくても、本質的には個人倫理の延長に社會や政治を考へてゐる國です。兩者は永遠に一致しないかも知れない。しかし、いや、それゆゑに、個人倫理の次元を、根源的には宗權を國權の上位に置く、すくなくとも同位に置く、人間觀にもとづいてをります。(中略)まちがひは犯しませうが、本質的な生き方については、昔からなんの變更もありません。が、ソ聯は國家目的、社會目的、階級目的を個人倫理の上に置きます。後者は前者によつて規定されます。私は躊躇なく、自由主義諸國に共感をおぼえる。(中略)いひかへれば、相對の世界に對立する絶對の世界、そして兩者の竝存を認める生き方、それが人間の生きかただとおもふのです。(中略)さういう意味で、私は個人が國家に反抗できる制度ではなく、さういふ哲學がもつとも必要であるとおもひます」。

・・・・とはかういふことでは。西歐では、宗權の客體化としての近代國家設立が始まつた。⇒「神に型どれる人間の概念の探究」としての、自由主義國家・民主主義國家が始まつた。と言へるのでは

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