平成十九年四月
吉野櫻雲
《恆存の「實在感」についての考察》
恆存程、實在感獲得(全體感・絶對感に逼る方法で)の奧義を惜しげもなく開示してくれる藝術家或は評論家を他には知らない。彼が主に職業として選んだ文學、演劇は「時間藝術」のジャンルに入り、それは「時間的全體感」の獲得によつて實在感を得る世界である。ただ惜しむらくは、折角奧義を丁寧に開示してくれたにも關はらず、我々がその方法論を良く理解する事が出來ないと言ふ現實的限界にある。實際にその限界は演劇界等にも垣間見る事が出來る。
小生はたまたま禪や劍道に接してゐるせいか、恆存のさうした文章に觸れると知的好奇心が大いに揺さぶられる。だからと言つて「實在感」獲得の奧義を傳授したと言ふ譯ではないのは言ふまでもない。ただその問題の深部に向かふ探究心に火が點くのである。そしてこの内容は禪や劍道のみならず、會員諸氏がなされる茶道の「お点前」や能の「舞ひ」、その他樣々なジャンルにも關聯してくるものと思はれるがいかがであらうか。
それで今囘も性懲りもなく當問題を此處に書き留める次第である。故にご興味のない方はご放念下されたくお願ひ申し上げる。以下は『人間・この劇的なるもの』や『日本および日本人』『醒めて踊れ』等評論からの「實在感」についての考察である。尚ことはつておくが、當文章は小生の捏造ではなく恆存評論を索引しての解説である。生硬な文章の爲、解説が餘計分かりにくくなつてしまつてゐたらお詫び申し上げる。
(以下文中「 」内が恆存文。傍線及び( )内は吉野注。「P9圖」云々は「讀む會テキスト」頁を表す。「A・B・D2」等も同テキスト三頁を參照の程)
この「實在感」獲得の問題に關聯するものとしては、恆存評論から以下の文章が挙げられる。
①「私達の意識は、平面を横ばひする歴史(過去・現在・未來といふ時間的繼續)的現實の日常性から、その無際限な平板さから、起きあがらうとして、たえずあがいてゐる。そのための行爲が演戯である」(全三P532『人間・この劇的なるもの』)。
②「私たちは、平生、自分を全體と調和せしめようとして、それができずに疲れはててゐる(全體感・實在感の缺如)。いひかへれば、生理的には必然かもしれぬが、倫理的には偶然な事故にしかすぎぬ死以外に、何の完結も終止符もない人生に倦み疲れてゐるのだ。私たちの本能は、すべてが終ることを欲してゐる」(全三P584『人間・この劇的なるもの』)。
そして實在感(「時間的全體感」把捉による)を獲得し、かかる現實を解決する(「無際限な平板さから、起きあがらう」とする)手段として、恆存は以下「Ⅰ」の人間に備はる習性を挙げ、更にそれを活用しての「Ⅱ」の行動を開示するのである。
Ⅰ.「與へられら條件の中にある自分の肉體と、それを客體として味はふことによつて、その條件のそとに出ようとする意識と、そこに役者の二重性(人間の持つ「一人二役」性)がある」(同P527)。
Ⅱ.「そもそも動作や作用、さらに人間の抽象的な營みを名詞化しようといふ働きそのものが、主體である自分を對象から分離し、距離をつくらうとする衝動なのです」(全三P204『日本および日本人』)
と。即ち役者も人間も「動作や作用、さらに人間の抽象的な營みを名詞化(或は客體化)」する事で、對象から「主體である自分を分離」させる事が可能となる。同類的な言ひ方をすれば、「So called」や「フレイジング[1](役者の場合)」で、言葉と自己との距離間隔を至大化する事で、現實的場との沈湎に風穴を開ける事が可能となる。「演戯によつて、日常性を拒絶」出來得ると、その樣に恆存は提言するのである。
そして、その動作を名詞化せんとする、或は「So called」「フレイジング」に供ふ「一人二役」の行爲には、當然の事として意識の集中強烈化が必要とされる。その集中強烈化が夾雑物(雑念)を交へずに上手く實現できた時、吾々の意識は、平生足をさらはれてゐる樣な現實的平面から立ち上がる事が可能となる。その時「意識は、平面を横ばひする歴史(過去・現在・未來といふ時間的繼續)といふものに垂直に交はる」事が出來るのである(P532『人間・この劇的なるもの』)。即ち、意識が現在に垂直に交叉し、動作する(行動する・生きる)自己と、それを見る(味はふ)自己との「一人二役」の行爲が可能となる。
その「一人二役」の行爲が發揮され、それでどうなるかと言へば、意識が「部分(現在)を部分として明確にとらへることによつて、その中に全體(過去・現在・未來といふ時間的全體)を實感」(P533)する事をそれは意味する。恆存文に據れば「意識的に部分(現在)としての自己を味はひ尽くす課程において、全體感(時間的全體感)が象徴的に甦る」のである。即ち「時間的全體感」を味はふ(獲得する)ことが可能となるのである。その結果として意識は「自分の肉體からそつと足をぬいて、下界を見おろしてゐるやうな感じ」になり、さうして「上に脱け出た意識は、足下の現實が時々刻々に動いてゐることを實感」(P533)出來るやうになる。換言すれば「時間的全體感」獲得による「實在感」が其處に成立するのである。と恆存はその奧義を吾々に開示してくれる。
かかる状態を文章で書くと長いが、意識としては一瞬の味はひなので、「上に脱け出た意識は、足下の現實が時々刻々に動いてゐることを實感」しても、また直ぐに無意識の海にそれは埋没しまふ。繼續的實感として意識の淵に留まらない爲、なかなか表現的な傳達は困難となる。(この邊の内容はなかなか理解しにくいと思ふがいかがであらうか)。
繰り返すと、「名詞化しようといふ働き」によつて、「平面を横ばひする歴史的現實の日常性から、その無際限な平板さから」意識が立ち上がり、もつと生の充實感(實在感を味はふ事が可能になると、恆存は提示するのである。
〔以上の實在感獲得のプロセスを簡略して書くとかうなる〕
①「動作や作用、さらに人間の抽象的な營みを名詞化しようといふする働き」。或は「So called(いはゆる・・)」「フレイジング(役者の場合)」、即ち「與へられら條件の中にある自分の肉體と、それを客體として味はふことによつて、その條件のそとに出ようとする意識」。
↓
②其處に介在する「一人二役」性。・・・動作する(行動する・生きる)自己と、それを見る(味はふ)自己。
↓
③「一人二役」には自ずと意識の集中強烈化が必要となる。
↓
④意識の集中強烈化の効果的實行により「意識は、平面を横ばひする歴史(過去・現在・未來といふ時間的繼續)といふものに垂直に交はる」。即ち垂直交叉して「部分(現在)を部分として明確にとらへる」事が可能となる。
↓
⑤集中強烈化により、「意識的に部分(現在)としての自己を味はひ尽くす課程において、全體感(時間的全體感)が象徴的に甦る」。何故ならば「過去と未來とから切り放たれた現在だけが、過去・現在・未來といふ全體の象徴として存在してゐる」からである。「前後に暗黒があればこそ、その間の時間を光として感じることができる」即ち「意識は過去・現在・未來の全體を眺めわたせる地位にありながら、しかも限られた枠のなかだけしか見ようとしないから、その間の時間の経過を強烈に味はふことができる」(P532~3)のである。
↓
⑥さうした「時間的全體感」の獲得により、「(自分の肉體からそつと足をぬいて)上に脱け出た意識は、足下の現實が時々刻々に動いてゐることを(まざまざと)實感」(P532~3)する。即ち「實在感」が其處に成立する。
即ち、動くと同時に見る(或は生きると同時に味はふ)と言ふ「一人二役」が形成する、「時間的全體感(實在感)」の獲得が其處に實現されるのである
〔ジャンル別「實在感獲得のプロセス」:①⇒②⇒③〕
|
① 言葉との距離 (E)の至大化が、場との距離(關係・D1)の至大化。 ⇒ |
②意識を集中して言葉を使用する事が、⇒ |
⇒③「主體である自分を對象(動作・抽象的な營み)から分離」する。その結果、動作・行動(生きる)と同時に味はふと言ふ「一人二役」による「時間的全體感(實在感)を獲得させる。 |
|
*名詞化「・・・すること」 |
「そもそも動作や作用、さらに人間の抽象的な營みを名詞化しようといふ働きそのものが、・・⇒ |
⇒「主體である自分を對象から分離」させ、結果として動作(行動する・生きる)と同時に味はふと言ふ「一人二役」による實在感を人間に獲得させる。 |
|
*「So called(いはゆる・・)」 |
「そもそも動作や作用、さらに人間の抽象的な營みを名詞化しようといふ働きそのものが、・・⇒ |
⇒「言葉を自分から遠く離す事によつて、逆にその言葉を精神化し、支配、操作する事が出来る様になる」(P391全七)。さうする事によつて「自分に近付け、言葉を物そのものから離して自分の所有にする事が可能になる」。 |
|
演劇:「フレイジング」・・・役者の場合 |
*「フレイジングが正しく出來る為には話し手が自分と言葉との距離や場と自分との関係を意識してゐる精神の働きが無ければならない」。 *「フレイジング」により、意識を集中して言葉を使用する事が、⇒ |
⇒「與へられら條件の中にある自分の肉體と、それを客體として味はふことによつて、その條件のそとに出ようとする意識」を構成し、「主體である自分を對象(せりふ及び場)から分離」させ、結果として動作(行動する・生きる)と同時に味はふと言ふ「一人二役」による實在感を役者に獲得させる。また觀客も觀る(味はふ)と同時に「行動する(動き)・生きる」の一人二役の實在感を同じく獲得する。 |
|
恆存評論を讀む 恆存評論そのものが、右の樣式を持つてゐる。それ故に、我々が恆存評論を讀む事も、矢張りその「自己劇化⇒全體⇒實在感獲得」の行動に參劃してゐる事になる。其處に恆存評論の「ダイナミズム」があると思ふのである。 |
「そもそも動作や作用、さらに人間の抽象的な營みを名詞化しようといふ働きそのものが、・・⇒ |
⇒「主體である自分を對象から分離」させ、結果として動作(行動する・生きる)と同時に味はふと言ふ「一人二役」による實在感を恆存本人に獲得させる。また讀者も讀む(味はふ)と同時に「行動する(動き)・生きる」の一人二役の實在感を同じく獲得する。 |
|
禪 |
雑念を交へず意識を集中して言葉を使用する事(「ひとーつ・ふたーつ」と呼吸を數へる事、即ち現在に成切る事)で、意識が現在に垂直に交叉する。その樣に「意識的に部分(現在)としての自己を味はひ尽くす課程において、全體感(時間的全體感)が象徴的に甦る」⇒ |
⇒「主體である自分を對象(「ひとーつ」「無―」及び場)から分離」させ、結果として動作(行動する・生きる)と同時に味はふと言ふ「一人二役」による實在感を獲得させる。 *それが出來たとき「(自分の肉體から そつと足をぬいて)上に脱け出た意識 は、足下の現實が時々刻々に動いてゐ ることを(まざまざと)實感」(P532 ~3)する。即ち「實在感」が其處に成 立する。 |
|
劍道:「切り返し」 或は、 劍道型の演武(演劇の項參照)。 |
雑念を交へず意識を集中して言葉(「面!・面!」)を使用する事(即ち現在に成り切る事)で、意識が現在に垂直に交叉し、その「意識的に部分(現在)としての自己を味はひ尽くす課程において、全體感(時間的全體感)が象徴的に甦る」⇒ |
⇒*「主體である自分を對象(「メン・メン」及び場)から分離」させ、結果として動作(行動する・生きる)と同時に味はふと言ふ「一人二役」による實在感を獲得させる。 *それが出來たとき「(自分の肉體から そつと足をぬいて)上に脱け出た意識 は、足下の現實が時々刻々に動いてゐ ることを(まざまざと)實感」(P532 ~3)する。即ち「實在感」が其處に成 立する。 |
|
演舞・茶道 |
同上的なものがあるのでは? |
同上的なものがあるのでは? |