平成二十年十~翌年三月迄選擇評論:全集第三巻所收『人間・この劇的なるもの』
(「新潮」昭和三十年七月號――十二月號。昭和三十一年二月號――五月號。四十四~五歳)。
今「讀む會」は、新しく出席の方がをられるので、恆存の思想と言ふか人間論(=演劇論)を、本論に入る前に此處に簡略に記して置く。そして今囘評論『人間・この劇的なるもの』にも、當然の事、隨處にこの問題が顔を覗かす。(以下文中傍線及び括弧内は概ね吉野附記。「P9圖」云々は「讀む會テキスト」頁を表す。「A・B・C・D1」等も同テキスト三頁を參照の程)
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參照:拙發表文《恆存の「實在感」についての考察》 絶對・全體(C)⇒宿命・關係(D1)⇒宿命/自己劇化(D2:各場面各場面で「關係と言ふ眞實を生かす」)⇒絶對・全體(C)⇒全體感(時間的・空間的)獲得⇒實在感・必然感・充實感・生き甲斐・幸福感(D3) |
この評論は、恆存精神の凝縮と見る事が出來る。恆存の重要な評論は全て此處に歸納するかの樣に小生には思へる。何故かと言ふと、他評論のレジュメを小生は書きながらも、不思議と『人間・この劇的なるもの』の、将に美文とも稱せる各フレーズが、通奏低音の如く腦裡に反響して來るのを禁じ得ないからである。ある時は「型にしたがつた行動は、その一区切り一区切りが必然であり、(中略)行動をそれ自體として純粋に味はひうるやうにしむけてくれる」であり、又ある時は「前後に暗黒があればこそ、その間の時間を光として感じることができる」や「上に脱け出た意識は、足下の現實が時々刻々に動いてゐることを實感してゐるはずだ」等々。そして更には、「ヒューマニストたちは、死をたんに生にたいする脅威と考へる。(中略)かれらにとつて、單純に生は善であり、死は惡である。死は生の中絶であり、偶然の事故であるがゆゑに、できうるかぎり、これを防がねばならぬと信じこんでゐる。(中略)生の終はりに死を位置づけぬいかなる思想も、人間に幸福をもたらしえぬであらう。死において生の完結を考へぬ思想は、所詮、淺薄な個人主義に終はるのだ」、の樣な衝撃的なフレーズが腦裡に甦つてくるのである。
ついでに、當評論と演劇論『せりふと動き』との關聯を記して置く。
「『せりふと動き』は『人間・この劇的なるもの』の『實用篇』であり、兩者を併讀すれば、演技→演戯→人生といふ私の考へ方を理解してもらへると思ふ」と恆存は言つてゐる(『せりふと動き』:あとがきより)。
更に恆存は、「文學座」にゐた頃は勿論、「雲」「欅」を歴て「劇團昴」になつてからも、演劇論と人生論の一致、即ち「役者修業は人間修業」と言ふ事を、口が酸つぱくなる迄、役者達に繰り返してゐた。何故それ程に言ふか、その邊の消息を今評論で吾々は知る事が出來る。
*引き續き川上會員より。
選擇動機及び、本日「讀む會」の、LEADING(READING)へ・・・。
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〔以下は、吉野櫻雲發表文〕
と言ふ事で、今評論も中々の難解にしてかつ手ごはく、そしてどの文章も重要なのであるが、特に以下内容文を此處に取り上げる事とする。更にいつもの如く難解なる内容については、手助けを他評論に仰ぐこととする。(以下文中傍線及び括弧内は概ね吉野附記。「P9圖」云々は「讀む會テキスト」頁を表す。「A・B・D2」等も同テキスト三頁を參照の程)
〔難解又は重要文〕:P520上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
原文讀要⇒P520上「女はみづから」~~下段後から2行目:當文中の「特權的状態」「完璧な瞬間」並びに「死もまた『特權的状態である』」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「特權的状態」とは、「宿命/自己劇化」による「時間的全體感」獲得の瞬間=「劇的瞬間」と言ふ事ではなからうか。そして「完璧な瞬間」とは、「時間的全體感」を獲得出來た時に齎される「實在感・必然感・充實感・生き甲斐」と言ふ事では。
恆存文に據れば「意識的に部分(現在)としての自己を味はひ尽くす課程において、全體感(時間的全體感)が象徴的に甦る」のである。即ち「時間的全體感」を味はふ(獲得する)ことが可能となるのである。その結果として意識は「自分の肉體からそつと足をぬいて、下界を見おろしてゐるやうな感じ」になり、さうして「上に脱け出た意識は、足下の現實が時々刻々に動いてゐることを實感」(P533)出來るやうになる。換言すれば「時間的全體感」獲得による「實在感」が其處に成立するのである。とこの樣に恆存は、「儀式・型⇒必然感・全體感の獲得⇒生の充實感(實在感)の成立」の奧義を吾々に開示してくれる。尚それについては以下の文が參考になるのでは。
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拙發表文:《恆存の「實在感」についての考察》より 〔實在感獲得のプロセスを簡略して書くとかうなる〕 「動作や作用、さらに人間の抽象的な營みを名詞化しようといふする働き」。或は「so called=所謂何々」「フレイジング(役者の場合)」、即ち「與へられた條件の中にある自分の肉體と、それを客體として味はふことによつて、その條件のそとに出ようとする意識」。 ↓ ②其處に介在する「一人二役」性。・・・動作する(行動する・生きる)自己と、それを見る(味はふ)自己。 ↓ ③「一人二役」には自ずと意識の集中強烈化が必要となる。 ↓ ④意識の集中強烈化の効果的實行により「意識は、平面を横ばひする歴史(過去・現在・未來といふ時間的繼續)といふものに垂直に交はる」。即ち垂直交叉して「部分(現在)を部分として明確にとらへる」事が可能となる。 ⑤集中強烈化により、「意識的に部分(現在)としての自己を味はひ尽くす課程において、全體感(時間的全體感)が象徴的に甦る」。何故ならば「過去と未來とから切り放たれた現在だけが、過去・現在・未來といふ全體の象徴として存在してゐる」からである。「前後に暗黒があればこそ、その間の時間を光として感じることができる」即ち「意識は過去・現在・未來の全體を眺めわたせる地位にありながら、しかも限られた枠のなかだけしか見ようとしないから、その間の時間の経過を強烈に味はふことができる」(P532~3)のである。 ↓ ⑥さうした「時間的全體感」の獲得により、「(自分の肉體からそつと足をぬいて)上に脱け出た意識は、足下の現實が時々刻々に動いてゐることを(まざまざと)實感」(P532~3)する。即ち「實在感」が其處に成立する。 即ち、動くと同時に見る(或は生きると同時に味はふ)と言ふ「一人二役」が形成する、「時間的全體感(實在感)」の獲得が其處に實現されるのである |
そして非常に重要な點だと思ふのだが、死もまた「特權的状態」即ち「時間的全體感」、及び「實在感」を人間に與へてくれるのだと恆存は以下の樣に言ふ。現代人に於いては、死はただただ忌むべきものでしかない今日的風潮の中で、吾々に刮目させる問題を恆存は提示してくれるのである。尚、當評論最終章で再度その問題を取り上げる事になるので、此處ではその理由を簡略な記載に留めておく。
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「私たちは生それ自體のなかで生を味はふことはできない。死を背景として、はじめて生を味はふことができる。死と生との全體的な構造の上に立つて、はじめて生命の充實感と、その秘密に參與することができるのだ」(P590) |
【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】
〔難解又は重要文〕:P522下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
原文讀要⇒P522下6行目「私たちの」から~~同P最終「無意識が訪れる」迄:當文中「私たちの欲する未來は、現在の完全燃焼であり、それによる現在の消滅であり、さらに、その消滅によって、新しき現在に脱出することである私たちのまへには、つねに現在しかない――さういふ形で、私たちは未來を受けとりたい。中斷された現在のあとに、眞の未來があらうはずがない」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。上記の、日常生活には缺如してゐる「現在の完全燃焼」、即ち「全體感獲得」による「實在感獲得」について、恆存は以下の樣に述べてゐる。
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拙發表文:《恆存の「實在感」についての考察》より ①「私達の意識は、平面を横ばひする歴史(過去・現在・未來といふ時間的繼續)的現實の日常性から、その無際限な平板さから、起きあがらうとして、たえずあがいてゐる。そのための行爲が演戯である」(全三P532『人間・この劇的なるもの』)。 ②「私たちは、平生、自分を全體と調和せしめようとして、それができずに疲れはててゐる(全體感・實在感の缺如)。いひかへれば、生理的には必然かもしれぬが、倫理的には偶然な事故にしかすぎぬ死以外に、何の完結も終止符もない人生に倦み疲れてゐるのだ。私たちの本能は、すべてが終ることを慾してゐる」(全三P584『人間・この劇的なるもの』)。 そして實在感(「時間的全體感」把捉による)を獲得し、かかる現實を解決する(「無際限な平板さから、起きあがらう」とする)手段として、恆存は以下「Ⅰ」の人間に備はる習性を擧げ、更にそれを活用しての「Ⅱ」の行動を開示するのである。 Ⅰ.「與へられた條件の中にある自分の肉體と、それを客體として味はふことによつて、その條件のそとに出ようとする意識と、そこに役者の二重性(人間の持つ「一人二役」性)がある」(同P527)。 Ⅱ.「そもそも動作や作用、さらに人間の抽象的な營みを名詞化しようといふ働きそのものが、主體である自分を對象から分離し、距離をつくらうとする衝動なのです」(全三P204『日本および日本人』)。 と。即ち役者も人間も「動作や作用、さらに人間の抽象的な營みを名詞化(或は客體化)」する事で、對象から「主體である自分を分離」させる事が可能となる。同類的な言ひ方をすれば、「So called」や「フレイジング[1](役者の場合)」で、言葉(對象)と自己との距離間隔を至大化する事で、現實的「場」との沈湎に風穴を開ける事が可能となる。「演戯によつて、日常性を拒絶」(日常生活の無際限な平板さから脱出)出來得ると、その樣に恆存は提言するのである。 大事なことは、さうした劇的時間を味はふには、人は一時的に、以下の圖の如く「時間の流れをせきとめなければならない(非日常的場面の設定化)」(P534)と言ふ事なのである。「私たちは自分の能力を無視して、あまりにも多くの偶然に身をゆだねすぎる(集團的自我上における、場面・関係設定の乱発)。したがつて、私たちの意識は、いつになつても現実の平面から直立しえない」(P534)。即ち、いつも現実に足をさらはれている状態なのである。(關聯及び參考評論:『醒めて踊れ』『せりふと動き』 ) [1]「フレイジングはphrasingでありphrase(句)の粒立てを意味する。フレイジングとは、平面圖を立体的な三次元の世界に見せる遠近法の技術」。・・・即ち、話し手とせりふとの距離を、その方法論で至大化させることによつて、關係も至大化し場面への沈湎から免れる。場面から發生する「心の動き(關係)」が寝そべることなく、「なぜ」と言ふ強い必然性が生まれる。 |
【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】
難解又は重要文〕:P523上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
原文讀要⇒P523上1行目から「 ロレンス」~~「 ロレンス」迄:當文中「性は斷片と化した現代の複雑な社會生活において、まだそこだけでは、なんぴとも主役を演じうる最後の據りどころなのである」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。それについては以下が參考になるのでは。
拙發表文《恆存の「型・儀式」に關する考へ方》より抜粋
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「言葉・物」等への「型にしたがつた行動は」、場との關係を「適應正常化」させる。その結果として生の充實感・實在感の成立となる。即ち以下の樣な左から右への流れによつて。 |
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適應對象(言葉・物等)への |
型にしたがつた行動は (Eの至大化):即ち、附合ひ方・樣式・儀式・ |
場との關係を「適應正常化」させる。 (=D1の至大化): 場への必然感・全體感を獲得 |
結果として生の充實感・實在感の成立となる。 |
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夫婦 (男女) |
「性愛」は、 「型」の役割を持ち、その「型にしたがつた行動」、即ち個人主義的愛ではなく「コスモスに迂路を通した愛」に基づく性愛なる行動は、と言ふ事。 |
場との關係即ち人間關係を適應正常化させる。 例:夫婦(と言ふ場・共同體:C”)になすべき事(夫婦相和)をしてゐると言ふ必然感。 *「宿命/自己劇化」⇒共同體:C”⇒全體感の獲得。 *「型にしたがつた性愛」そのものが獲得する「時間的全體感」。 |
*結果として生の充實感・實在感を齎す。 *「型にしたがつた行動(性愛)」によつて、ロレンスは以下の事に繋がりうると言ふのである。 「吾々は生きて肉のうちにあり、また生々たる實體をもつたコスモス(空間的、時間的全體)の一部であるといふ歡喜に陶酔すべきではなからうか」と言ふコスモスとの黙契に。(參照『アポカリプス論』最終章) |
【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】
〔難解又は重要文〕:P525上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
原文讀要⇒P525上「また、ひとは」~~P525上、最後迄:當文中「私たちが欲するのは、事が起るべくして起つてゐるといふことだ。そして、そのなかに登場して一定の役割をつとめなさねばならぬことをしてゐるといふ實感だ。(中略)生きがひとは、必然性のうちに生きてゐるといふ實感から生じる。その必然性を味はふこと、それが生きがひだ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「必然性」云々については、當評論最終章に出て來る以下の文が參考になるのでは。特に黄色帶部分の①②の獲得及び成立を注目して欲しい。
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*「型にしたがつた行動は、その一区切り一区切りが必然であり、(中略)行動をそれ自體として純粋に味はひうるやうにしむけてくれる。そのときにおいてのみ、私たちは、すべてがとめどない因果のなかに埋れた日常生活の、末梢的な部分品としての存在から脱却し、それ自身において完全な、生命そのものの根源(全體)につながることができるのだ」(參照:『人間・この劇的なるもの』最終章)。
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【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】
〔難解又は重要文〕:P529「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
原文讀要⇒P529上4行目「失敗者」~~下段6行目「形式といふものがあつた」迄:
Ⅰ.當文中「ひとびとは、なぜさうまで必然性を身につけたがるのか。いふまでもなく、それは自己確認のためである。私たちは、自己がそこに在ることの實感がほしいのだ。その自己の實在感は、自分が居るべきところに居るときに、はじめて得られる。いひかへれば、自己が外部の現實と過不足なく一致してゐるときに。あるいは自己表現が自己の内部の心情と過不足なく一致してゐるときに。が、この二つは同じことを意味する」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。分かり易く(?)する爲に色分けして括弧注を附してみる。
「ひとびとは、なぜさうまで必然性を身につけたがるのか。いふまでもなく、それは自己確認(即ち、自己陶酔・自己満足・自己證明・セルフ・アイデンティフィケイション)のためである。私たちは、自己がそこに在ることの實感がほしいのだ(即ち、生きてゐる證し・生き甲斐・實在感・全體感を希求してゐるのだ。たとへそれが似非であらうとも)。その自己の實在感は、自分が居るべきところに居るときに、はじめて得られる。いひかへれば、自己が外部の現實と過不足なく一致してゐるときに(とは即ち「場との關係に適應正常化」してゐる時と、それとは反對に「沈湎」と言ふ樣な「適應異常」の情況にゐる時と、どちらでも「過不足なく一致」してゐさへすれば良いと言ふ事の兩義性を是は意味してゐる)。あるいは自己表現が自己の内部の心情と過不足なく一致してゐるときに(即ち「内部の心情」=「意・氣持」などと言ふものは、「意は似せやすく形は似せ難し」で、眼に見へぬが故に幾らでもごまかしが利き、自己欺瞞が成立し易く「過不足なく一致」が安易である)。が、この二つは同じことを意味する(とは即ち、沈湎と自己滿足は一つ穴の狢、或は兩者は同病相憐れむで袖を引き合ふ、と言ふ事を此の文は意味するのではなからうか。此の邊は判明しがたく、小生には今一つ探究の餘地を殘す)」。ただ注意すべきことは、「自己の實在感」に似非と眞性との差異が存在してゐる事である。
結局は「似非實在感」でしかない「自己陶酔・自己満足・自己證明」獲得の爲に、西歐近代は、以下枠文①の如き「個人主義(近代自我)」を演出した。そして、日本は西歐を眞似て「近代化」を企てたが、「物質のみの近代化」にこと終はり、「精神の近代化(個人主義)」は成就せず、②の日本的精神主義が齎す、矢張り似非の「實在感」に辿り着いてしまつた。とその樣に恆存は言ふのである。(參照「テキストP8圖」及び「テキスト補P2圖」)
それは、ひとへに「必然性を身につけたがる」、或いは生きてゐる事の證し、「自己確認」(生き甲斐)を欲しがる習性を人間が持つが故になのであると、恆存は言はんとしてゐるのである。
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拙發表文:『獨斷的な餘りに獨斷的な』より ①〔恆存の言ふ、西歐近代自我(個人主義)の末路〕
②〔恆存の言ふ、明治日本の自然主義作家達の末路〕:更なる詳細は「P7枠文」にて後述。
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Ⅱ.當文中「私たちの潔癖(美的潔癖・和の精神)は、自己表現や自己主張(論理的潔癖)を、そしてあらゆる「芝居氣」といふものを本能的に嫌つてきた。平穩な仲間うちの社會においては、ほとんどその必要性がなかつたからだ。そこでは自己は外部の現實とともに、そのなかに埋没してゐて、最初からそして最後まで、それと過不足なく一致してゐた」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。
「平穩な仲間うちの社會」では、一見尤もらしく「自己が外部の現實(仲間うちの社會)と過不足なく一致」してゐる樣に見えるからと言つて、それは「場との關係に適應正常化」してゐると言ふ眞性の「過不足なく一致」ではない。否むしろ「そのなかに埋没」即ち「沈湎」と言ふ場との關係での「過不足なく一致」、即ち似非の自己滿足的かつ自己欺瞞的「適應正常」でしかない。「過不足なく一致」してゐる對象は、「平穩な仲間うちの社會」であり、それが故に「家族共同體的(身内的)場への居附き・沈湎」の意味での一致でしかないのである。その爲、もしそれよりも高次の第一義的な課題(場)が別に存在してゐたとしても、かかる情況では、場の轉換を圖る事が出來ない。即ち、第一義的な課題と「場との關係を適應正常化させる」と言ふ行動が取れないのである。要するに、「平穩な仲間うちの社會」とのみの「過不足なく一致」は、ただの自己滿足で終熄してしまふのである。それを「ハムレット」で表現するならばかうなる。
「生か、死か、それが疑問だ、どちらが男らしい生き方か、じつと身を伏せ、不法な運命の矢彈を堪へ忍ぶ(場に沈湎する)のと、それとも剣をとつて、押しよせる苦難に立ち向ひ、とどめを刺すまであとには引かぬ(宿命/自己劇化、即ち「場との關係に適應正常化」する)のと、一体どちらが・・・」と。そして日本では、「論理的潔癖」よりも「美的潔癖・和の精神」を尊ぶが爲に、前者(沈湎)の「過不足なく一致」を選擇してしまふ、と恆存は言はんとしてゐるのである。
尚、その「平穩な仲間うちの社會」への沈湎については以下の文が參考になるのでは。
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拙發表文:《恆存の「近代化とリージョナリズム」に關して》 恆存は、日本の地域主義(リージョナリズム)の缺陷を、「その基盤たる家族共同體的な場の原理」即ち「家族共同體的(身内的)場への居附き・沈湎」と捉へてゐる。 日本人に於いては「家族共同體的な場の原理」が最優先される。そして、もしたとへそれよりも、高次の當面する第一義的な課題(場)が其處に存在してゐたとしても、それに對する「論理的潔癖」に基づく意見表明より、二次的な「家族共同體的な場」への「美的潔癖(和・なあなあ)」が重要視され優先される、と恆存は言つてゐる。(參照:P396上「大學教授會」及び『日本および日本人』全三P188) 日本人は、「家族共同體的な場の原理」からなる磁場の強力に引き摺られ、其處に居附き沈湎し、それより高次の第一義的な課題(場)がたとへ別次元に存在してゐても、場の轉換を圖つてその「場との關係を適應正常化させる」と言ふ行動が取れない。 何故にさうなるかと言ふと、本來「關係(D1)と稱する實在物は潜在的には一つの言葉(F)によつて表し得、その言葉との附合ひ方、扱ひ方(E)によつて、人間は場との關係の適應正常化が叶へられる」と言ふ性質があるにもかかはらず、日本人にはその藝當が出來ないのである。個人主義の洗禮を受けてゐない日本人は、「個人の強靱性」を持してなく、故に場の轉換を見事に果たして「關係の適應正常化」を圖るなどと言ふ事は出來ない。恆存はかうした限界を日本の地域主義(リージョナリズム)の範疇と捉へてゐる樣に小生には理解できる。 |
【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】
〔難解又は重要文〕:P532「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
原文讀要⇒P532上5行目「このとき」から~~P533下終わりから5行目「ならない」迄:當文中「上に脱け出た意識は、足下の現實が時々刻々に動いてゐることを實感してゐるはずだ。 『特權的状態(「時間的全體感」獲得状態)』を契機として、過去の日常性は消滅し、しかも眼前には未知の未來が横たはつてゐる。演戯者にはすべては見えない。過去と未來とから切り放たれた現在だけが、過去・現在・未來といふ全體の象徴として存在してゐるだけだ。前後に暗黒があればこそ、その間の時間を光として感じることができる。その前後には暗黒の淵に埋沒してしまへばこそ、その間の一瞬に浮かびあがることができるのだ。意識は過去・現在・未來の全體を眺めわたせる地位にありながら、しかも限られた枠のなかだけしか見ようとしないから、その間の時間の経過を強烈に味はふことができるのだ」・・・P532上5行目「このとき」から~~P533下終わりから5行目を含め、特に上文は何を言はんとしてゐるのであらうか。察するに、それは以下「枠文」邊りの消息を物語つてゐるのではなからうか。先に簡略すると、宿命/自己劇化⇒部分徹底⇒全體感獲得(特權的状態)⇒實在感獲得(完璧な瞬間)と言ふ事になる。
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拙發表文:《恆存の「實在感」についての考察》より 〔全體感獲得、更に實在感獲得のプロセスを簡略して書くとかうなる〕 ① 「動作や作用、さらに人間の抽象的な營みを名詞化しようといふする働き」。或は「so called=所謂何々」「フレイジング(役者の場合)」、即ち「與へられた條件の中にある自分の肉體と、それを客體として味はふことによつて、その條件のそとに出ようとする意識」。 ↓ ②其處に介在する「一人二役」性。・・・動作する(行動する・生きる)自己と、それを見る(味はふ)自己。 ↓ ①
一人二役」には自ずと意識の集中強烈化が必要となる。 ↓ ② 意識の集中強烈化の効果的實行により「意識は、平面を横ばひする歴史(過去・現在・未來といふ時間的繼續)といふものに垂直に交はる」。即ち垂直交叉して「部分(現在)を部分として明確にとらへる」事が可能となる。 ↓ ⑤集中強烈化により、「意識的に部分(現在)としての自己を味はひ尽くす課程において、全體感(時間的全體感)が象徴的に甦る」。何故ならば「過去と未來とから切り放たれた現在だけが、過去・現在・未來といふ全體の象徴として存在してゐる」からである。「前後に暗黒があればこそ、その間の時間を光として感じることができる」即ち「意識は過去・現在・未來の全體を眺めわたせる地位にありながら、しかも限られた枠のなかだけしか見ようとしないから、その間の時間の経過を強烈に味はふことができる」(P532~3)のである。 ↓ ⑥さうした「時間的全體感」の獲得により、「(自分の肉體からそつと足をぬいて)上に脱け出た意識は、足下の現實が時々刻々に動いてゐることを(まざまざと)實感」(P532~3)する。即ち「實在感」が其處に成立する。 即ち、動くと同時に見る(或は生きると同時に味はふ)と言ふ「一人二役」が形成する、「時間的全體感」の獲得更には「實在感」が其處に實現されるのである 大事なことは、さうした劇的時間を味はふには、人は一時的に「時間の流れをせきとめなければならない(非日常的場面の設定化)」(P534)と言ふ事なのである。「私たちは自分の能力を無視して、あまりにも多くの偶然に身をゆだねすぎる(集團的自我上における、場面・関係設定の乱発)。したがつて、私たちの意識は、いつになつても現実の平面から直立しえない」(P534)。即ち、いつも現実に足をさらはれている状態なのである。(關聯及び參考評論:『醒めて踊れ』『せりふと動き』 ) |
【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】
〔難解又は重要文〕:P534「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
原文讀要⇒P534上後から6行目「全體が」から~~下5行目「おもひあがりである」迄:當文中「私たちが個人の全體性を恢復する唯一の道は、自分が部分に過ぎぬことを覺悟し、意識的に部分としての自己を味はひつくすこと、その味はひの過程において、全體感が象徴的に甦る。よくいはれる自我の確立とはさういふことだ。私たちはいちわう全體を拒否し、時間の流れをせきとめなければならない」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。特に「その味はひの過程において、全體感が象徴的に甦る」とは何を言はんとしてゐるのであらうか。それについては以下の文が參考になるのでは。
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(參照:拙發表文《恆存の「實在感」についての考察》及びP532項目 全體感獲得の方法・・・個人の強靱性を保ち、意識を強烈化し、「自分が部分に過ぎぬことを覚悟し、意識的に部分としての自己を味はひつくす」能動を人間が取れた時、「意識は、平面を横ばひする歴史(過去・現在・未来といふ時間的継続)といふものに垂直に」交叉し、「過去と未來とから切り放たれた現在だけが、過去・現在・未來といふ全體の象徴として存在してゐる」からである。「前後に暗黒があればこそ、その間の時間を光として感じることができる」即ち「意識は過去・現在・未來の全體を眺めわたせる地位にありながら、しかも限られた枠のなかだけしか見ようとしないから、その間の時間の経過を強烈に味はふことができる」(P532~3)のである。部分を強烈に味はふその時、「その味はひの過程において、全體感が象徴的に甦る」のだと恆存は言つてゐるのである。 |
【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】
〔難解又は重要文〕:P538「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
原文讀要⇒P538上1行目「最初に」~~下段後から7行目「亡靈が見たかつたのだ」迄:當文中「外面的な行動や事件のうちに、ついに對當物を見いだせぬ心、シェイクスピアが書きたかつたものはそれだつたと、なぜいつてはいけないのか。『ハムレット』劇についてとくにさういへるのだが、シェイクスピアの悲劇は『マクベス』も『オセロー』も『リア王』も、多かれ少かれ、外的条件のうちに適當な對象物を見いだせぬ心と言ふものを描いてゐる。(中略)ハムレットは自己の行動のきつかけを現實のうちに求めることを拒絶する。ハムレットは理想化だからでである。理想化であるハムレットは、現實のそとに、自己をうながす行動のきつかけを求める。かれは「亡靈が見たかつたのだ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。察するに、以下二枠文の消息をそれは物語つてゐるのではなからうか。
その前に一つ附記しておくと、「外面的な行動や事件のうちに、ついに對當物を見いだせぬ心」とはどう言ふことを意味してゐるかと言ふと、それは、前述P529項目の「自己の實在感は、自分が居るべきところに居るときに、はじめて得られる。言ひ換へれば、「自己が外部の現實と過不足なく一致してゐるとき」の反對情況、即ち「自己が外部の現實と過不足なく一致してゐない」情況、「實在感」缺如の情況を示してゐる。即ちP529項目のⅡで取り上げた、吾々日本人の如く「平穩な仲間うちの社會において、自己は外部の現實とともに、そのなかに埋没して」ゐると言ふ樣な「沈湎情況」に、ハムレットは留まれないと言ふ事を是は示してゐる。個人の強靱性(近代自我・個人主義)を持つハムレットは、沈湎的な自己滿足的自己欺瞞的「實在感」(似非適應正常)なんぞにはどうしても安住出來ないのである。「個性の發現」としての宿命、即ち、宿命のうちにありながら「自己の歴史を自己のうちに内在する力によつて書く」(全二:『シェイクスピア』)、つまり宿命(關係)があるが故に、それとの闘ひの内に個性が發現されるのだといふ情況(宿命/自己劇化)にしか、ハムレットは眞の實在感を見出せないのである。言ひ換へると、その樣な形式における「場との關係の適應正常化」にしか、ハムレットの心は「對當物を見いだせぬ」のだ。沈湎(「鳩のやうに氣の弱い腑ぬけ」情況)とは違ふ、さうした適應にしか「自己が外部の現實と過不足なく一致してゐる」情況を見出せないのだ。と恆存は謂はんとしてゐるのであらう。(P529項目で書いた樣に、二つの「自己が外部の現實と過不足なく一致」情況があると言つてゐるのである。「じつと身を伏せ、不法な運命の矢弾を堪へ忍ぶのと、それとも剣をとつて、押しよせる苦難に立ち向ひ、とどめを刺すまであとには引かぬのと・・・」、の二つの適應情況がと)
で、本題「とは何を言はんとしてゐるのであらうか」に戻る。察するに、以下二枠文の消息をそれは物語つてゐるのではなからうか。
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拙發表文:「衰退」としての近代(個人主義の限界)そして、その脱出口としての自己劇化(宿命演戯)《平成十五年五月『人間・この劇的なるもの』》より 「王冠や笏(『王權神授』による、神に與へられた宿命・關係)を取り去つてみれば果たして人は何者であるか」。「開放さるべき個性の實體とは何か」。 ・・・・ただそこに露呈されてゐるものは、「解放されて仕へるべき何物(絶對・全體)をも持たぬ自我の不安」ではなかろうか。 「近代=宿命(關係)不在=自由=孤獨=自我の不安」、であると。 それを、恆存は衰退と見た。そしてシェイクスピアにも「昇騰してやまぬ想像力の自由な羽ばたきの(ルネッサンスの子としての)影に何か黒い空洞(近代の孤獨感)があって、恐らく時折はそこを冷たい風がさつと通り抜けるのが感じられたに相違ない」(全二P27『シェイクスピア』)のだと。そしてその「自我の不安」、それがマクベスの主題であると恆存は言ふ。 察するに、自由(ルネサンス・近代の別名)、とは「動きまはる影」、そして個人主義とは「あはれな役者」(『マクベス』臺詞)ではなかろうか。 「動きまはる影」とは、仕へるべき全體・絶對(神)を喪つた近代人(『ハムレット』『マクベス』『オセロー』『リア王』)の姿。その事を、恆存は「『マクベス』も『オセロー』も『リア王』も、多かれ少かれ、外的条件のうちに適當な對象物を見いだせぬ心」と言つてゐるのではなからうか。 *參考「ルネサンス = 中世 ― 神」(ロシア評論家の辯 名前?)。 |
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參照:「讀む會テキスト:補」P4(① ⇒ ② ⇒ ③ ⇒④の流れ) ①敵(自己を超えたる場C:「神・天」)⇒②關係・宿命(D1:神意・天命)⇒③自己(C”)の活動(中主題)⇒④小主題。 〔ハムレットの場合〕 ①
大主題:先王の亡霊(C:背後にある神「王権神授」) ⇒②神意・君命・宿命・新限定(王権 奪還「關節を治す」)⇒③中主題(C”:復讎 ⇒④小主題(各章:「めまぐるしく行動しながら、意識の世界では(敵・新限定から)一歩も動かず」) 。 上記との關聯として、恆存思想「完成せる統一體としての人格」論(テキストP10圖)、及び演劇論(テキストP11圖) との相似形に留意されたし。 即ち① ⇒ ② ⇒ ③ ⇒④の流れに。 〔參考:上記を基調とした恆存の作家觀〕:當評論に關係する恆存の人生觀も附記(下部) 「われわれが敵(自己を超えたる場)として、なにを選んだか(宿命選擇)によつてそしてそれといかにたたかふ(宿命/自己劇化)かによつて、自己が表現せられる」(全二『自己劇化と告白』)
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【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】
〔難解又は重要文〕:P540上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
原文讀要⇒P540上7行目「ハムレットは自己の」~~下5行目「演戯する」迄:當文中「ハムレットは自己の反省癖を的確に、力づよく表現する。それによつて、私たちが感じることは、ハムレットが反省癖だといふことではない」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。それについては以下の文が參考になるのでは。
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言葉は寫實ではなく用途(講演カセット「シェークスピアの魅力」より要旨) 「言葉とは、意味の傳達以上に「用途」の役割を持つてゐるといふ事。寫實(何)よりも用途(なぜ)を、人間を目的・行動に駆り遣る爲の鞭的用途(スプリングボード)の役割を持つ」。言葉は物を指し示す物の影(潜在物)ではなく「實在物=關係」であると。 故に「言葉(せりふ)は行動する」。フレイジングが言葉からその内奥にある行動性(關係)を引き出す役目を果たす。「なぜ」が際立つ。即ち、關係を行動(自己劇化)へと転化させる、「スプリングボード」としての役割・方法論がフレイジングであり「so called=所謂何々」なのでは。 フレイジング・「so called=所謂何々」で言葉(せりふ)と自己との距離を、「形ある『物』にして把握し、それを目に見える様に見せる」ことによつて、場との關係をそこに具現するといふことに。即ち、話し手の心とせりふの字面との「距離」の長短を測定し、長短の表現(言葉の用法)で關係性を表す。といふことに。 別な言ひ方をすれば、せりふの力學(距離の長短操作=フレイジング・So
called)で、心の動き(關係)を的確に把握(適應正常化)すると言ふ事である。 要するに、「場との関係と言ふ實在物を潛在物であるせりふ(言葉)を使ひ、そのしゃべり方(せりふ廻し)・フレイジング・So called で形化して見せる」と言ふことに他ならない。「なぜなら關係と称する實在物は潛在的には一つのせりふ(問答・對話・獨白)によつて表し得るものだから」。(「テキスト補P3圖:參照) |
【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】
〔難解又は重要文〕:P541下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
原文讀要⇒P541下5行目「ハムレットは」~~519行目「さうはいかぬ」迄:當文中「ハムレットは、これが宿命であると納得のいく行爲の連續によつて、自己の生涯を満たしたいと欲してゐる人間なのである」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。それについては項目P532解説の以下文が參考になるのでは。
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〔ハムレットの場合〕:參照「讀む會テキスト:補P4」・「テキストP11圖」 ①
大主題:先王の亡霊(C:背後にある神「王権神授」)⇒②神意・君命・宿命・新限定(王 権奪還「關節を治す」)⇒③中主題(C”:復讎⇒④小主題(各章:「めまぐるしく行動しながら、意識の世界では(敵・新限定から)一歩も動かずP545上」) 。 上記との關聯として、恆存思想「完成せる統一體としての人格」論(テキストP10圖)、及び演劇論(テキストP11圖) との相似形に留意されたし。 |
〔難解又は重要文〕:P545上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
原文讀要⇒P545上1行目「かうして」~~中央「生きたいのである」:當文中「ハムレットはめまぐるしく行動しながら、意識の世界では(敵・新限定から)一歩も動かず、じつと自己の宿命が完成されるのを待つてゐる。(中略)かうして動かずに待つ意識(B)を中心に、力一杯うごきまはる(A)こと、それが演戯なのである」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「かうして動かずに待つ意識を中心に」とは、各場面場面で、「神との關係(宿命・王権奪還:C⇒D1)」と言ふ眞實を生かす事、即ち神の愛(C⇒D1)の復元、その意識(B)を中心に集團的自我上(A)で力一杯活動すること、と言ふ事であらう。
言葉を變へて、別の評論的文章で「180度」ひつくり返して、それを表現するならばかうなる(黄色部分に注目)。「問題は、すべてはフィクションであり、それを協力して造上げるのに一役買つてゐる國民の一人、公務員の一人、家族の一人といふ何役かを操る自分の中の集團的自己(A)をひとつの堅固なフィクションとしての統一體たらしめる原動力は何かといふ事である。それは純粋な個人的自己(B)であり、それがもし過去の歴史と大自然の生命力(C:時間的全體・空間的全體)に繫つてゐなければ、人格は崩壊する。現代の人間に最も缺けているものはその明確な意識ではないか」(全集六P703~4『覺書』)と言ふ事になる。
そして更に、此の邊の内容については以下の文が參考になるのでは。
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拙發表文:「衰退」としての近代(個人主義の限界)そして、その脱出口としての自己劇化(宿命演戯)《平成十五年五月『人間・この劇的なるもの』》等より *「ハムレットは、これが宿命(D1)であると納得のいく行爲の連續(即ち、C⇒D1と言ふ「動かずに待つ意識を中心に」)によつて、自己の生涯を満たしたいと(「力一杯うごきまはる」事を)欲してゐる人間なのである」。 *絶対/ 演戯・・・宿命/自己劇化(D2)=真の自由=實在感・全體感(必然感)=幸福感。 *演戯・・・「演戯とは、絶対的なものに迫つて、自我の枠を見いだすことだ」「何とかして絶對なものを見いださうとすること」( 注:但し相対である人間は「絶對」に成る事は出來ない。とも恆存は言つてゐる。到達できぬ究極の理想に迫ろうとする行爲、それが演戯)。 *「『生か、死か、それが疑問だ、どちらが男らしい生き方か、じつと身を伏せ、不法な運命の矢彈を堪へ忍ぶのと、それとも剣をとつて、押しよせる苦難に立ち向ひ、とどめを刺すまであとには引かぬのと、一体どちらが・・・』。これはいはゆる俗論で言ふ『優柔不斷のハムレット的惱み』なんかではない。生死の両極に追ひやる假説的能動性が齎す精神のダイナミズムである」。行動へのスプリングボード、叱咤。言葉のもう一つの側面「(場面から關係として生ずる)心の動きを形のある『物』として見せる」せりふの力學(『せりふと動き』)なのである。(恆存の主張:「ハムレット劇にある躍動感」の要約) |
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第四章手前まで
續く
十月の續き
十二月選擇評論:全集第三巻所收『人間・この劇的なるもの』(「新潮」昭和三十年七月號――十二月號。昭和三十一年二月號――五月號。四十四~五歳)。
十月「讀む會」にて當評論の前半を終へたのであるが、今ひとつ「全體・部分」「全體感・必然感」「實在感」なる内容に分かりにくい處がある樣に見受けられる。其處でつらつら考へてみるに、以前配布した拙發表文《恆存の「實在感」についての考察》及び《恆存の「型・儀式」に關する考へ方》が、少しは當評論「難解部分」に寄與出來得るものがあるのではなからうかと思へた。即ち、前者は前囘内容の補足及び纏めの役となり、そして後者は今囘後半部分の理解の下地となり得るのではなからうかと思へたのである。それ故、差し支へがなければその二拙發表文の關聯部分を本文に入る前に此處で讀んでおきたい。
この評論で、恆存が多くの言葉を費やして言つてゐる事は、「時間的全體感」把握による「實在感」の獲得である樣に小生には思へる。
演劇の劇的瞬間(「特權的状態」)と言ふものが「時間的全體感」の把握ならば、それと同じ内容のプロセスを経れば、役者ではない人間でさへ、實人生において「時間的全體感」を把握する事が可能となる。そしてその結果として役者と同じく、吾々普通人も「實在感」の獲得が可能となる。さうした關聯性を『人間・この劇的なるもの』として、恆存は吾々に以下の樣な方法論で提示してくれてゐるのである。
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拙發表文:《恆存の「實在感」についての考察》より 〔實在感獲得のプロセスを簡略して書くとかうなる〕:①⇒②⇒③⇒④⇒⑤⇒⑥の流れ ① 人間の内に備はる、「動作や作用、さらに人間の抽象的な營みを名詞化しようといふする働き」。 或は「so called=所謂何々」「フレイジング(役者の場合)」、即ち「與へられた條件の中にある自分の肉體と、それを客體として味はふことによつて、その條件のそとに出ようとする意識」。 ↓ ②其處に介在する「一人二役」性。・・・動作する(行動する・生きる)自己と、それを見る(味はふ)自己。 ↓ ③「一人二役」には自ずと意識の集中強烈化が必要となる。 ↓ ④意識の集中強烈化の効果的實行により「意識は、平面を横ばひする歴史(過去・現在・未來といふ時間的繼續)といふものに垂直に交はる」。即ち垂直交叉して「部分(現在)を部分として明確にとらへる」事が可能となる。 ↓ ⑤集中強烈化により、「意識的に部分(現在)としての自己を味はひ尽くす課程において、全體感(時間的全體感)が象徴的に甦る」。何故ならば「過去と未來とから切り放たれた現在だけが、過去・現在・未來といふ全體の象徴として存在してゐる」からである。「前後に暗黒があればこそ、その間の時間を光として感じることができる」即ち「意識は過去・現在・未來の全體を眺めわたせる地位にありながら、しかも限られた枠のなかだけしか見ようとしないから、その間の時間の経過を強烈に味はふことができる」(P532~3)のである。 ↓ ⑥さうした「時間的全體感」の獲得により、「(自分の肉體からそつと足をぬいて)上に脱け出た意識は、足下の現實が時々刻々に動いてゐることを(まざまざと)實感」(P532~3)する。即ち「實在感」が其處に成立する。 即ち、動くと同時に見る(或は生きると同時に味はふ)と言ふ「一人二役」が形成する、「時間的全體感(實在感)」の獲得が其處に實現されるのである |
但しその爲には「儀式・型」(「一人二役」性と言ふ型)の介在が必要となると、當評論後半で恆存は述べてゐるのである。
即ち恆存は、人間に内在する「一人二役」性は、「型・儀式」を活用する事によつて、存分に伸張する事が可能となる。そしてその伸張によつて、「時間的全體感」の獲得が可能となり、しいては實在感(必然感・充實感・生き甲斐)の成立にと繋がる、と言ふのである。その事を恆存の文に置き換へれば、「型にしたがつた行動は、その一区切り一区切りが必然であり、(中略)行動をそれ自體として純粋に味はひうるやうにしむけてくれる」のだと言ふ事になる。この樣に「儀式・型⇒必然感・全體感の獲得⇒生の充實感(實在感)の成立」の奧義を當評論後半で恆存は吾々に開示してくれてゐのである。尚それについては以下の拙發表文《恆存の「型・儀式」に關する考へ方》が參考になると思ふので此處に掲載する。
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《恆存の「型・儀式」に關する考へ方》より(以下文中傍線及び括弧内は概ね吉野附記。「P9圖」云々は「讀む會テキスト」頁を表す。「A・B・C・D2」等も同テキスト三頁を參照の程) 恆存は、「全體:C」或は「共同體:C”」と言ふ場との關係に對する、「型・儀式(E)」の役割をかう語つてゐる。
上文及びその他評論の幾つかから察するに、恆存は、「型にしたがつた行動」即ち「型・儀式」なるものを、全體(C)或は共同體(C”)と言ふ「場との關係を適應正常化」させる機能を持つものと捉へてゐるやうだ。その事を分かりやすく書くと以下の樣になる。(參照「讀む會テキスト:補」3頁右圖)
何故「場との關係を適應正常化」させる事になるかと言へば、「型にしたがつた行動」即ち「行動をそれ自體として純粋に味はひうるやうにしむけてくれる(=Eの至大化)」行爲に内在する以下枠文の働き、即ち「名詞化しようとする働き(=言葉との距離の至大化:Eの至大化)」がその効果を發揮するのである。その効果性が人間を、場に沈湎してゐる日常性から解放させて呉れる(D1の至大化)。重要な點は、「行動をそれ自體として純粋に味はふ」事が、自分と言葉(物)との距離の至大化(Eの至大化)を形成すると言ふ點なのである。
換言すれば、言葉との附合ひ方である「so called=所謂何々=Eの至大化」「フレイジング=Eの至大化」の効果的用ゐ方で、「自分と言葉との距離の測定が出來」「言葉を自己所有化する事が出來る」。その働きによつて、結果的に場と言ふ對象から自分を分離(非沈湎化)させる事が可能となり、しいては「場との關係を適應正常化(D1の至大化)」させる事へと繋がる。恆存の言を借りるなら、「場から生ずる關係と稱する實在物(D1の至大化)は、潛在的には一つのせりふ(言葉との附合ひ方:Eの至大化)によつて表し得る」と言ふ、その能動が果たし得た事になる。恆存はその樣な効果性(Eの至大化=D1の至大化)を持つものとして、上枠文の事柄に着目してゐるのである。(參照:全七P300『せりふと動き』) もう少し補足する。 恆存は、「型にしたがつた行動」即ち「型・儀式」なるものを、上述の「自分と言葉との距離の測定が出來」「言葉を自己所有化する事が出來る」働き(=Eの至大化)を持つものと捉へるが故に、それを更に敷衍して、「型・儀式」は「物を生き物として附合ふ」事を可能にしてくれる手立てになるとも捉へてゐる。そして、「so called=所謂何々」や「フレイジング(句節法:演劇用語)」について書いてゐる文章ではかうも言つてゐる。「so called」「フレイジング」を用ゐる事は、人間の意識度を高くさせ、言葉の用法に細心の注意を仕向けさせ、その結果「言葉を自分から遠く離す事によつて、逆にその言葉を精神化し、支配、操作する事が出來る」樣になると。(參照:『醒めて踊れ』P391全七) |
そして更に大事なことは以下の事にある。即ち戰後日本は敗戰(占領)により、自國の歴史との紐帯である文化を喪失し、その爲「文化喪失⇒儀式・型の喪失」の憂き目に遭ひ、上述の「儀式・型⇒必然感・全體感の獲得⇒生の充實感(實在感)の成立」なる手立てを奪はれてしまつた。その「文化喪失」による「型にしたがつた行動」が出來なくなつた結果として、「日本人の心には空洞が穿たれ」、以下の樣な情況に我が國民は晒されたのである。
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*「意識は、平面を横ばひする歴史(過去・現在・未來といふ時間的繼續)的現實の日常性から、その無際限な平板さから、起きあがらうとして、たえずあがいてゐる」(P532)。 *「私たちは、平生、自分を全體と調和せしめようとして、それができずに疲れはててゐる(全體感・實在感の缺如)。いひかへれば、生理的には必然かもしれぬが、倫理的には偶然な事故にしかすぎぬ死以外に、何の完結も終止符もない人生に倦み疲れてゐる」(P584)。 *「あすが來、あすが去り、さうして一日一日とこきざみに、時の階を滑り落ちて行く、この世の終りに辿り着くまで。いつも、きのうといふ日が、愚か者の塵にまみれて死ぬ道筋を照らしてきたのだ」(『マクベス』)。 |
そして其處からの脱出の手段として、人間に備はる「劇的」要素としての「型」による演戯の重要性に着目し、日常性の無際限な平板さから、起きあがらせる行爲が型による演戯であると、恆存は「祝祭日」等を取り上げてゐるのである。「儀式(型)を伴ふ祝祭日は人間に『必然感・全體感=生の充實感』を與へてくれるのだ」、と明快な答へを示してくれるのである。大分しつこいと思ふが、重要な點なので更に補足して書くとかうなる。「型にしたがつた行動(Eの至長化)は」、場との關係を適應正常化させてくれ(即ち必然感・全體感の獲得)、その結果として、生の充實感(實在感)を人間に齎してくれると言ふのである。つまり、型(正當表記・有機的祝祭日・等々)は、「歴史=時間的全體との關係」及び「自然=空間的全體との關係」を、即ち場との關係を、我々日本人に適應正常化させる能力を秘めてゐるのだと恆存は言ふのである(以下枠文參照)。
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*場から生ずる「關係(D1)と稱する實在物は潜在的には一つのせりふ(言葉)によつて表し得る」。故に、せりふ(言葉:F)との附合ひ方や扱ひ方(E)、即ち「型」・「フレイジング」「socalled=所謂何々」の用ゐ方で、場との關係(D1)を適應正常化(非沈湎)させる事が可能となり得る。(全七P300『せりふと動き』より要約)。 |
長くなつてしまつたので此の邊で終はりとする。【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】
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〔以下は、吉野櫻雲發表文〕
と言ふ事で、今評論も中々の難解にしてかつ手ごはく、そしてどの文章も重要なのであるが、特に以下内容文を此處に取り上げる事とする。更にいつもの如く難解なる内容については、手助けを他評論に仰ぐこととする。(以下文中傍線及び括弧内は概ね吉野附記。「P9圖」云々は「讀む會テキスト」頁を表す。「A・B・D2」等も同テキスト三頁を參照の程)
〔難解又は重要文〕:P547下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
原文讀要⇒同「悲劇的な人物~~P548上ためである:當文中の「私たちに堪へられないのは受苦そのものではなく無意味な受苦なのである。偶然の受苦、とばつちりの受苦自分の本質にとつて必然でない受苦、それが堪へられないのだ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。察するに、それは當評論後文にも出てくる、以下の邊りの消息を物語つてゐるのではなからうか。
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拙發表文:『教育の普及は浮薄の普及なり』より 「必然とは部分(生)が全體(死)につながつてゐるといふことであり、偶然とは部分(生)が全體(死)から脱落したことである」(P590『人間・この劇的なるもの』)。即ち「型にしたがつた行動」によつて、人間は「必然感」と「全體感」を獲得し、それによつて生の充實感(實在感)を味はふ事が出來ると、恆存は言ふのである。 「型にしたがつた行動は、行動をそれ自體として純粋に味はひうるやうにしむけてくれる。そのときにおいてのみ、私たちは、すべてがとめどない因果のなかに埋れた日常生活の、末梢的な部分品としての存在から脱却し、それ自身において完全な、生命そのものの根源(全體)につながることができるのだ」と。 しかしながら今日、かかる「必然感・全體感=生の充實感」喪失の時代になつてしまつた原因は那邊にあるのか。恆存の論を要約すると以下の樣になる(念の爲、末文にそれに該當する恆存文を附す)。 「個人主義(神の代わりに「自己=部分」の全體化)」時代の到來によつて、死は、神と共に本来的位置を占めてゐた「全體」から脱落して「部分」の價値にしか過ぎなくなつた。死はその樣な「低次元的死」「緩慢的死」「非、劇的死」の役割しか今日では演じられなくなつてしまつたのである。さうした「低次元的死」、換言すれば「倫理的には偶然な事故(即ち「部分:生」⇒自己劇化⇒「全體:死」⇒全體感獲得、と言ふ樣式缺如)にしかすぎぬ死」に囲まれた、「倦み疲れた」情況から、儀式こそが即ち「型にしたがつた行動」こそが、吾々現代人を救出してくれるのである。(繰り返すが「倫理的には偶然な事故」の死とは、「全體感」缺如の死を将に物語つてゐるのである)。 傍線の邊の事を恆存の文章で忠實に示すとかうなる。 「私たちは生それ自體のなかで生を味はふことはできない。死を背景として、はじめて生を味はふことができる。死と生との全體的な構造の上に立つて、はじめて生命の充實感と、その秘密に參與することができるのだ」。 ところが「(個人主義による)ヒューマニストたちは、死をたんに生にたいする脅威と考へる。同時に、生を楯にあらゆることを正當化しようとする。かれらにとつて、單純に生は善であり、死は惡である。死は生の中絶であり、偶然の事故(全體にあらず。「部分」の價値、「低次元的死」)であるがゆゑに、できうるかぎり、これを防がねばならぬと信じこんでゐる。が、さうすることによつて、私たちの生はどれほど強化されたか。生の終はりに死を位置づけぬいかなる思想も、人間に幸福をもたらしえぬであらう。死において生の完結を考へぬ思想は、所詮、淺薄な個人主義に終はるのだ。中世を暗黒時代と呼び、ルネサンスを生の讚歌と規定する通俗的な史観や、封建時代に死臭をかぎつけ、現代に生のいぶきを感じる誤つた人間觀は、すべて個人主義的なヒューマニズムの所産にほかならない。 生はかならず死によつてのみ正當化される。個人は全體を、それが自己をほろぼすものであるがゆゑに認めなければならない」。とその樣に、死が全體的役割を喪失し、その爲に「部分(生)⇒自己劇化(儀式・型)⇒全體(死)⇒必然感・全體感獲得⇒生の充實感(實在感)の成立」の樣式を喪失してゐる「個人主義」思想の缺陷を恆存は鋭く指摘してゐるのである。(參照:『人間・この劇的なるもの』最終章) |
【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】
十二月の續き:第四章から
一月選擇評論:全集第三巻所收『人間・この劇的なるもの』(「新潮」昭和三十年七月號――十二月號。昭和三十一年二月號――五月號。四十四~五歳)。
平成十五年「讀む會」の拙發表文『人間・この劇的なるもの』では、表題に《「衰退」としての近代(個人主義の限界)。そして、その脱出口としての自己劇化(宿命演戯)》を記載した。今囘更に探究するにつけ、當評論『人間・この劇的なるもの』は、矢張り「近代自我:個人主義」思想の缺陷と言ふか迷妄と言ふか、或は陥穽と言ふか、さうした内容を隨處に抉り出して我々に提示してくれてゐるのを再認識した。
*引き續き川上會員より。
選擇動機及び、本日「讀む會」の、LEADING(READING)へ・・・。
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〔以下は、吉野櫻雲發表文〕
と言ふ事で、今評論も中々の難解にしてかつ手ごはく、そしてどの文章も重要なのであるが、特に以下内容文を此處に取り上げる事とする。更にいつもの如く難解なる内容については、手助けを他評論に仰ぐこととする。(以下文中傍線及び括弧内は概ね吉野附記。「P9圖」云々は「讀む會テキスト」頁を表す。「A・B・D2」等も同テキスト三頁を參照の程)
〔難解又は重要文〕:P549下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「かれ(マクベス)は自己の歴史を、自己のうちに内在する力によつて書くことができず、たえず心の空虚を感じてゐる。その空しさを滿たすために、外部的な偶然事を頼り、事件のつらなりをもつて歴史の頁を埋めようとこころみる」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。それは即ち、「歴史(C:神・全體)⇒宿命(D1)⇒自己劇化(D2:内在する力)」の有無の問題を言つてゐるのではなからうか(以下參照)。
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兩者における「歴史(C:神・全體)⇒宿命(D1)⇒自己劇化(D2:内在する力)」の有無
以下、表の説明 *〔有〕ハムレット・・・神(C:使者ローマ法王)⇒神意としての愛(關係・宿命「必然性」:D1)⇒王權神授(王・王の亡靈)⇒王子(ハムレット:正嫡的「王冠・笏」繼承者)⇒宿命、關係「正嫡」復元としての復讎(神の愛D1の復元即ち自己劇化:D2)。 *〔無〕マクベス・・・魔女の豫言(地の泡:絶對全體C「歴史」にあらず)⇒絶對との關係喪失(D1:必然性缺如)⇒必然性追求⇒外部的偶然事・事件の連なりの演出(C「絶對・歴史」不在による、代用としての相對的價値「C” 偶然事・事件:場」の設定)⇒ 外部的なものによる自己の立證⇒徒勞⇒空虚(王位簒奪、維持の行爲續行中以外は空虚P551)⇒「解放されて仕へるべき何物(絶對・全體・歴史)をも持たぬ自我の不安」(恆存曰く、マクベスの主題)〕。 (即ち、ハムレットは必然性を保持してゐるが故に「誘惑的な假裝の必然性(安易な自己の宿命)を却けた」。それとは對照的に、マクベスは保持してないが故に狂氣的に「必然・關係」を追いまくる)。 |
【どうでせうか、此の邊についての諸氏のご感想は
〔難解又は重要文〕:P551下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「マクベスは自己を恃みすぎるのだ。かれは自分の手で自分を解説しなければ安心できぬ男なのである」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。以下文と同一的内容を言つてゐるのであらう。
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「オセローは最後に自分自身をだまさずには、死んでいけなかつたのだ」(P555)。 |
そして、それは當評論で後述される個人主義の迷妄に續き、それが故にマクベスは時代を先んじての、個人主義のトップランナーともいへるのではなからうか。それを證左する文が別評論に見受けられる。
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「近代の目標とした個性の尊厳(自由・個人主義)といふ事が凡人に教へた夢の内容とは、そんなことだったのか。そして彼等の最後に辿りつく慰藉と休息とは、『人の生涯は動きまはる影にすぎぬといふ諦め』以外に何も無いのであろうか。シェイクスピアが、『マクベス』を書いた時から三百年後の我々現代人にとつても、いまだ回答は保留されたままなのであらうか」(全2:シェイクスピアP28) |
そして、いつも言つてゐる樣に、上記からの脱却手段として「完成せる統一體としての人格」論を、恆存は提示してゐるのである、と小生は理解するのである。
【どうでせうか、此の邊についての諸氏のご感想は】
〔難解又は重要文〕:P553下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「シェイクスピアほど、創造の秘密とその課程そのものを、執拗に自己の主題としてとりあげた作家はなかつたかもしれぬ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。察するに、「絶對・全體(C)⇒宿命・關係(D1)⇒宿命/自己劇化(D2)⇒絶對・全體(C)」の事を言つてゐるのではなからうか。そして、それは更に以下の邊りの消息を物語つてゐるのではなからうか。
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拙發表文:平成十五年『人間・この劇的なるもの』より。(一部加筆) 恆存は言ふ。「(神から)解放されて仕へるべき何物(絶對・全體・歴史)をも持たぬ自我の不安」が故に、「(自己全體化を謀つた)マクベスこそは想像力の源泉そのものを涸す自意識」過剰の所有者であると。 即ち上記の「絶對・全體(C)⇒宿命・關係(D1)に叛しての「自己全體化=個人主義」が齎す、観念と自意識の過剰は想像力(自己劇化の力?)そのものを涸すのである。 又このやうにも恆存は言つてゐる。「(シェイクスピアは想像力によつて)ルネサンスの子として、見事に自ら豫感した危機(黒い空洞・近代の孤獨、自我の不安)を乗越へてゐる」と。「そしてこの想像力こそ――イメージを眼前にはつきり見る能力こそ、今日の僕達に僕達の詩人や小説家に(即ち個人主義者に)、なによりも缺けてゐるものなのである。ハムレットの不安が想像力の過剩に歸因してゐるとすれば、マクベスのそれはむしろ觀念と意識との過剰にすぎぬ。前者の不安はまた想像力によつて救はれる。が、後者の不安を救いとるものは何も無い。(中略)マクベスこそ(個人主義者も然り)は想像力の源泉そのものを涸す自意識であるからだ」と。(全2:シェイクスピアP28) |
【どうでせうか、此の邊についての諸氏のご感想は】
〔難解又は重要文〕:P554上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「(ドン・キ・ホーテ及びエンマ・ボヴァリーは主人公になりそこねるが)その失敗によつて、はじめて『小説のなかでおこなはれた小説の批評』か完成するのだ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。
小説『ドン・キ・ホーテ』における「小説のなかでおこなはれた小説の批評」とは、夢想家「B:ドン・キ・ホーテ」を常識人「A:從僕サンチョ・パンサ」が物語の中で批評(批判)する方式がその事を指す(『小説の運命Ⅱ』參照)。
小説『マダム・ボヴァリー』、小説『ドン・キ・ホーテ』の兩小説の創作方法の違ひを圖で比較すると、前者は別表「パワーポイント(以下PPと略)」左圖、そして後者は同右圖の構圖的相違を其處に見る事ができる。shousetsunonakade.pdf へのリンク
小説『マダム・ボヴァリー』における「小説のなかでおこなはれた小説の批評」とは、「現實(A)の醜悪を素材として美(B⇒C)を志向する創作方法」(參照「現代日本文学の諸問題」)と言ふ事を指してゐる。故にフローベールは、セルバンテスの樣には「自己の理想人間像(C:夢想)を語りはしなかつたのであるが、同時に、その理想人間像(C)があつたればこそ實證精神(上記「創作方法」)をしてあれほどまでに自我(集團的自我「A」:代理としてのエンマ)を斬りさいなむことを許したのである」(全一P475『理想人間像について』)。
フローベールの「創作方法」では、「C夢想・B夢想家」は作品には登場せず、「作品の裏がはからあのリアリスティックな無表情の記述の保證に立つてゐるにほかならない」、と恆存は言ふのである(參照:全一P611『小説の運命Ⅱ』)。
更に詳らかに記述すると、それは以下枠内の事を物語つてゐる。(⇒「PP左圖(ルネサンス)」・「同右圖(近代西歐)參照」)
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拙發表文:『フィクションといふ事』他より 小説『マダム・ボヴァリー』には、夢想家「B:ドン・キ・ホーテ」も夢想(C)もその作品には登場しない。「サンチョ(常識A)」だけの世界が描かれてゐる(⇒「PP右圖參照)。「フローベールほど激しい夢想家(B→C)はゐない――そのため自分を知つてゐるかれはあまり氣がひけるのでサンチョばかりの世界を描き、ドン・キホーテを隠してしまつたのだ。素朴な讀者は、ドン・キホーテ(夢想家:B)とサンチョ(A:常識人)とを竝列してくれなければ笑ふすべを知らず、しかたなく人生訓を抽出して氣をよくしてゐるといふしまつ」なのであると恆存は言ふ(參照:全一P614『小説の運命Ⅱ』)。 上記「創作方法」即ち「現實(A)の醜悪を素材として美(B⇒C)を志向する創作方法」で描かれる、フローベール小説の「ドンキホーテ(B)のゐないサンチョ(A:常識)ばかりの世界では、讀者はただあくびの誘惑を感ずるだけの話である」。「あの異常を排したプロゼイック(平凡:常識Aのみ)な作品に苦笑を讀みとる」には、彼の「夢想(C)を索引とするときにのみ、そこに笑ひが登場する」のだと恆存は言ふ。「フローベールほど激しい夢想家(B→C)はゐない」と。(P614~5『小説の運命Ⅱ』) 「フローベールのリアリズム(「創作方法」)とはまさにそれである。―― 一片の虚妄にすぎぬと承知してゐればこそ、かれは自己の理想人間像(C:夢想)を語りはしなかつたのであるが、同時に、その理想人間像があつたればこそ實證精神(「創作方法」)をしてあれほどまでに自我(自己の代理「A」としてのボヴァリー夫人)を斬りさいなむことを許したのである」(全一P475『理想人間像について』)。 「エンマ・ボヴァリー」の主人公になりそこねる、その失敗の内には、「(B個人的自我の)可能性の天窓は一分のすきもなく完全にとざされ、現實世界で獲得できた自由(エンマが求めた個人主義時代の自由)のいかにつまらなく、それがあまりにつまらぬために自由でもなんでもないといふこと」、将にその事が、上記創作方法即ち「現實(A)の醜悪を素材として美(B⇒C)を志向する」方法で、「小説のなかでおこなはれた小説の批評」、即ち小説が内包する「ロマネスク(B)」の逼塞として描かれてゐるのである。(この點は圖で説明した方が分かり易いので更に詳しくは別表で説明する。⇒PP圖shousetsunonakade.pdf へのリンク) 其處にフローベールの「夢想してゐた自我の内容の高さと深さとに想ひいたらねばならず、その背景に発見されるものは神(C)」(參照:全一P637『現代人の救ひといふこと』)なのである。と恆存は言ふのである。 |
【どうでせうか、此の邊についての諸氏のご感想は】
〔難解又は重要文〕:P562上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「孤獨者はふたたび全體への復帰を求めずにはゐられなくなるのだ。かれは、生きるといふことが全體との一致においてはじめて可能であることを思ひ知らされる」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。察するに、それは後述される「なんぴとも孤立した自己を信ずることはできない」(P565)と言ふ事を言つてゐるのではなからうか。この邊りの頁の内容は、以下の小生が附記した事柄(黄色部分)を物語つてゐるのではなからうか。
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拙發表文:「『衰退』としての近代(個人主義の限界)そして、その脱出口としての自己劇化(宿命演戯)」から *「自由を内に求めれば孤独になる(ストイズム=全體離脱による宿命・關係喪失)。それを外に求めれば、特権階級への昇格(自己全體化・マクベス化)を目ざさざるをえない」(P561) ・・・とは何故か。量的全體化(特権階級)を企てた者は、斷片(個人)とは別次元の質的全體化を圖れないと言ふことであらう。(參照:P562前後) *「個人が、個人の手で全體性を造りあげようとすれば、自分がその中心になり(自己主人公化・自己全體化)、相手を自分の前に膝まづかせるまではとどまることを知らぬ」 「生(個人)がそれ自身によってのみ全體を構成しうるとすれば、それはあらゆる名目のもとに自己を正当化しその極限においては、他の死をも、自己正当化のために利用せずにはすまなくなる」(P576) 即ち自己劇化は、その仕へる対象が質的別次元の全體(絶對)にではなく自己(自己全體化・自己主人化=個人主義))である場合、そこから齎されるものは「全體感・必然感」ではなく、「自己正当化」・「獨り合點」・自己滿足・ナルシズム(錯覚された全體感、或いは似非全體感)といふことになる。個人主義とは、畢竟ナルシズム・エゴイズムに帰結する、と言ふ事なのでは。 |
【どうでせうか、此の邊についての諸氏のご
〔難解又は重要文〕:P562上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「眞の意味における自由とは、全體のなかにあつて、適切な位置を占める能力の事である」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。察するに、それは以下の邊りの消息を物語つてゐるのではなからうか。特に黄色部分を。かつ「テキスト補:P8圖」「テキストP13圖:完成せる統一體としての人格論」の事柄を。即ち「全体との關係の適應正常化」と言ふ事を物語つてゐるのであらう。⇒參照「テキスト正・補」。
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參照:拙發表文《恆存の「實在感」についての考察》から 絶對・全體(C)⇒宿命・關係(D1)⇒宿命/自己劇化(D2:各場面各場面で「關係と言ふ眞實を生かす」)⇒絶對・全體(C)⇒全體感(時間的・空間的)獲得⇒實在感・必然感・充實感・生き甲斐・幸福感(D3) |
【どうでせうか、此の邊についての諸氏のご感想は】
〔難解又は重要文〕:P566下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
〔難解又は重要文〕:P567下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「信頼の原理は私たちに苦痛を與へるかもしれぬが、私たちはそのさなかにおいてさへ生の充實感を受けとる事が出來る」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「信頼の原理」とは、矢張り是も「「絶對・全體(C)⇒宿命・關係(D1)」。換言すれば、「場⇒關係(宿命)」「關係と言ふ眞實を生かす」)と言ふ事である。そして、倫理・掟は「たが・強制」であり「苦痛を與へる」が、其處に内在する「型にしたがつた行動」によつて人間は、場との關係を適應正常化する事が可能となる。その結果として「生の充實感を受けとる事が出來る」と言ふ事を此處では言はんとしてゐるのではなからうか。「宿命/自己劇化⇒絶對・全體(C)⇒全體感(時間的・空間的)獲得⇒充實感」と言ふ事であらう。
〔難解又は重要文〕:P567下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「嚴密に言へば、個人主義文學などといふものはありえないからだ。文學が文學であるかぎり、それは個人主義的ではありえない。詩人や藝術家は、本質的には、個人主義者たりえないし、素朴に自由の信者にはなりきれぬ。藝術はついに形式の枠からのがれられぬのだ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。それは以下の事を物語つてゐるのであらう。
① 文學=藝術=「藝術とは演戯である」=「演戯とは、絶對的なものに迫つて、自我の枠を見いだすことだ」「何とかして絶對なものを見いださうとすること」。即ち「絶對・全體(C)⇒宿命・關係(D1)⇒宿命/自己劇化(D2)⇒絶對・全體(C)⇒全體感(時間的・空間的)獲得⇒實在感・必然感・充實感(D3)」であり、自己全體化(自己主人公化=個人主義)ではないと言ふ事(參照「テキストP13圖」)。
② 「藝術はついに形式の枠からのがれられぬのだ」とは、上記の「絶對・全體感(時間的・空間的)獲得」には、型と言ふ手段が必要とされる事を言ひ、それは以下の邊りの消息を物語つてゐるのではなからうか。
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*「型にしたがつた行動は、行動をそれ自體として純粋に味はひうるやうにしむけてくれる。そのときにおいてのみ、私たちは、すべてがとめどない因果のなかに埋れた日常生活の、末梢的な部分品としての存在から脱却し、それ自身において完全な、生命そのものの根源(全體)につながることができるのだ」(參照:『人間・この劇的なるもの』最終章)。 *型にしたがつた行動⇒「行動をそれ自體として純粋に味はひうるやうにしむけてくれる」⇒言葉(物)との距離の至大化(Eの至大化)⇒場との關係を適應正常化(場に沈湎してゐる日常性からの解放:D1の至大化)⇒①場(全體・全體)に對してなすべきことをしてゐると言ふ「必然感」の獲得。②場(全體・絶對)と有機的に繋がつてゐると言ふ「全體感」の獲得。⇒結果として生の充實感(實在感)の成立。 |
【どうでせうか、此の二項目についての諸氏のご感想は】
〔難解又は重要文〕:P567下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「劇としての本質は變はらない。一度全體から離脱した個體は、最後には全體に復帰しなければならない・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。⇒劇の本質は以下枠文と言ふ事なのであらう。
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參照:拙發表文《恆存の「實在感」についての考察》から 絶對・全體(C)⇒宿命・關係(D1)⇒宿命/自己劇化(D2:各場面各場面で「關係と言ふ眞實を生かす」)⇒絶對・全體(C)⇒全體感(時間的・空間的)獲得⇒實在感・必然感・充實感・生き甲斐・幸福感(D3) |
【どうでせうか、此の邊についての諸氏のご感想は】
〔難解又は重要文〕:P575上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「シェイクスピアは私たちに何かを與へようとしてゐるのではなく、ひとつの世界(全體C/部分)に私たちを招き入れようとしてゐるのである。それが劇といふものなのだ。それが人間の生きかた(全體C/部分)といふものなのだ。宗教的な秘儀は、つねにそのことを目的としてゐた。(中略)奧義の啓示とは全體感(空間的・時間的)の獲得をうながすものにほかなるまい」・・・上記文中特に「全體感の獲得」とは何を言はんとしてゐるのであらうか。やはり、それは以下の事を物語つてゐるのであらう。
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參照:拙發表文《恆存の「實在感」についての考察》から 絶對・全體(C)⇒宿命・關係(D1)⇒宿命/自己劇化⇒絶對・全體(C)⇒全體感(時間的・空間的)獲得⇒實在感・必然感・充實感・生き甲斐・幸福感(D3)。 *參照:「テキスト補P5〔無際限な平板さ=時間的全體感の缺如〕」⇒「時間的全體感」獲得方法としては④⑤⑥。そして空間的全體感獲得の方法は、「路傍の花(部分)を通じて、季節のうちに、自然のうちに、全體(C)のうちに復帰しうるのを喜ぶ」云々の表現の内に有り。 *參照:「テキスト正P11&P10」・・・演劇と恆存思想「完成せる統一體としての人格」論との關聯。 |
【どうでせうか、此の邊についての諸氏のご感想は】
〔難解又は重要文〕:P575下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「自分も對象も部分のままでありながら、全體に抱きかかへられてゐる瞬間」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。やはり參照としては、「テキスト補P5〔無際限な平板さ=時間的全體感の缺如〕」の「時間的全體感」獲得方法④⑤⑥である。即ち以下文となる。要するに、「時間的」にであらうが、「空間的」にであらうが、「意識的に部分(現在)としての自己を味はひ尽くす課程において、全體感が象徴的に甦る」と言ふ事なのであらう。
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④ 「部分 (現在)を部分として明確にとらへる」事。 ⑤
意識の集中強烈化によつて、「意識的に部分(現在)としての自己を味はひ尽くす課程において、全體感(時間的全體感)が象徴的に甦る」。 |
【どうでせうか、此の邊についての諸氏のご感想は】
〔難解又は重要文〕:P588下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
重要文として三文章を此處に載せる。
*「儀式は元來、個人を沒却する場でなければならぬ。人間が個人であることをやめて、生命の最も根源的なるもの(即ち全體C)に歸つていくための通路であつたはずだ」。
「必然とは部分(生)が全體(死)につながつてゐるといふことであり、偶然とは部分(生)が全體(死)から脱落したことである」(P590)。
*「私たちは生(部分)それ自體のなかで生を味はふことはできない。死(全體C)を背景として、はじめて生を味はふことができる。死と生との全體的な構造の上に立つて、はじめて生命の充實感と、その秘密に參與することができるのだ」。
*「ヒューマニストたち(個人主義による)は、死をたんに生にたいする脅威と考へる。
(中略)かれらにとつて、單純に生は善であり、死は惡である。死は生の中絶であり、偶然の事故(全體にあらず。「部分」の價値、「低次元的死」)であるがゆゑに、できうるかぎり、これを防がねばならぬと信じこんでゐる。(中略)生の終はりに死を位置づけぬいかなる思想も、人間に幸福をもたらしえぬであらう。死において生の完結を考へぬ思想は、所詮、淺薄な個人主義に終はるのだ」。
・・・上記三文章は何を言はんとしてゐるかは、概ね前項目で言ひ尽くされてゐる。それでも更に、何を言はんとしてゐるのかを、小生は此處に加へたいのである。
平生、我々現代人は「死」を恐怖と捉へその前に狼狽へてゐる。絶えず「死ではない方へ死ではない方へ」と眼差しを向けてゐる。上文で「できうるかぎり、これを防がねばならぬと信じこんでゐる」と恆存が言ふ通りのざまなのである。
此の邊の文は、「相對主義の泥沼」に落ち込み足掻きながら、死を恐怖してゐる現代日本人を救出する名文である。「死」は「全體:C」なのである。人間に全體感を齎し、「部分(生)⇒自己劇化(儀式・型)⇒全體(死)⇒必然感・全體感獲得⇒生の充實感(實在感)の成立」を成し遂げさせてくれるもの。言葉を變へて言へば、それは「安らぎ」なのである。さうした現代の風潮とは隔絶した、「死の價値觀」を恆存は此の評論で我々に教えてくれてゐるのである。
そしてそんな風に恆存に言はれてみると、是等名文は、寒々しい現代日本を生きていく、頼りの杖となる氣がする。
*參考資料:別紙「餘白を語る」及び、以下文。ただ時間がなく以下の點については、充分な探究が出來てゐない。
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〔參考〕
新聞切り抜き『餘白を語る』(川上女史ご持參)の「自然と二人きりで存在する」の問題は恆存理解の重要な内容と思へます。以下①の内容ともかかはつてくるのではなからうかとも。ただ未だ判然としない部分もありますので、その他關聯すると思はれる箇所を列記しておきます。各位のご考察を期待するところでもあります。 **************************************** ① 『讀む會』テキスト」四頁より抜粋》 《一流(聖人賢者)と絶對・全體との關係》以下( )内は吉野注 ・・・神にのみ従属する自己(B:個人の純粋性・個人的自我) と「C:絶對・神・全體」とは一対一。(「支配=被支配の自己」・集團的自我の不要) イエス・レオナルドダビンチ(そして氏の願望の中にも。たしかある評論にその事が ) イエス・・・「神と二人きりでゐるかれ(イエス)にはもはや政治(支配=被支配の自己・集團的自我)すら不要であつた」全集:P441 ダビンチ・・・「かれ(レオナルド)は自然(全體)と二人きりで存在する」「かれにおいて神に従属する自己は、すでに神の支配下を脱し、おのずから個人の純粋性それ自体にまで昇華せんとする」。 「イエスは――いや、イエスのみならず、多くの聖人賢者たちは、つねに個人であつた。純粋なる個人(B)にとどまつてゐた。イエスは弟子たちのまへにも、つねに孤独であり、かれらの肉體的權力者(A:「支配=被支配の自己」)となることをかたく拒絶してゐた」。 ②
又このやうにも恆存は言つてゐる。これはかなり重要な點である。 「人間の中には理想や神を求める要求がある。これは本能と言つてもよい」(講演カセット『理想の名に値するもの』より)と。更に別評論では「何とかして絶對なるものに迫らうとする行爲を『演戯』」とも言つてゐる。 であるから、神(絶對)を求める要求を「演戯」と言ひ換へる事が可能である。即ち恆存は「演戯」心を、肉體が持つ本能とは別の「精神の本能」と見たのである。 と言ふ事は、「演戯」によつて得られる全體感(實在感・必然感)への希求をも本能的慾求と見た事になるのでは。むしろ全體感(實在感・必然感)への本能的慾求があるが爲に「演戯」の本能があるとも言ふ事が出來る。この二つは「演戯」⇒絶對⇒全體感(實在感・必然感)の有機的聯關として、表裏一對の本能と言ふ事が可能なのではなからうか。 ③全二P466『近代の宿命』「個人の純粋性の保たれる領域に静謐を許さぬときには・・(中略)奪はれ失はれた自分の孤獨を探し求める。・・・」の十数行箇所。 |
『福田恆存を讀む會』