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平成二十年三月二十三日

『福田恆存を讀む會』


三月選擇評論:全集第七巻所收『言葉・言葉・言葉』

(「新潮」昭和五十六年二月號、三月號:七十歳)

 

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 前々囘『傳統技術保護に關し首相に訴ふ』、前囘『教育の普及は浮薄の普及なり』と、恆存評論を索引として學んだ事と、今囘評論『言葉・言葉・言葉』は關聯する。

 今評論最終章の「國語國字を改惡し、國語教育の字數を減じて、古典との阻隔を計つた戰後の文化政策を、猥褻文書頒布より遙かに大罪と考へる」。そして「野坂昭如や大部分の新聞や言論人が(中略)おとなしく内閣訓令告示(國語國字改惡)に追隨してゐる事を、不思議に思ふ」と言ふ國語問題に關する内容と、別評論で書いてゐる以下の事柄を此處で敷衍して登場させ、國民に再喚起してゐるのである。

P391全七『醒めて踊れ』より

「話し手と言葉との距離が小になれば、その言葉が話し手を物そのものの中に引きずり込み、それを露出させる。言葉を自分から遠く離す事によつて、逆にその言葉を精神化し、支配、操作する事が出来る様になり、隨つて自分に近附け、言葉を物そのものから離して自分の所有にする事が可能になる。抽象語の場合も同樣である。自由といふ言葉と話し手との距離が小になれば、話し手は自由といふ觀念に呑み込まれ、自由そのものが觀念的に大手を振つて罷り通り、その言葉の外延は果てしも無く擴り、内包は全く捉へ處の無い曖昧なものと化する。言葉に定義は不要であり、用法しか無いとしても、その用法に意識の集中があれば、定義せずとも概念の内包、外延に亂れは生じない」

*個人を確立(強靭化)し場面に沈湎せず、フレイジング・「so called=所謂何々」で言葉(觀念)を自己所有化し、近代化を操る精神(關係の適應正常化)を持つ事、それが日本人の「精神の近代化」に繋がる。(講演カセット『日本の近代化とその自立』より要旨)

 

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〔以下は、吉野櫻雲發表文〕

 

と言ふ事で、今評論も中々の難解にしてかつ手ごはく、そしてどの文章も重要なのであるが、特に以下内容文を此處に取り上げる事とする。更にいつもの如く難解なる内容については、手助けを他評論に仰ぐこととする。(以下文中傍線及び括弧内は概ね吉野附記。「P9圖」云々はyomukaitekisuto.pdf へのリンク頁を表す。「A・B・D2」等も同テキスト三頁を參照の程)

 

〔難解又は重要文〕:P467下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

� 屐勉ジ紊瞭�本が蒙つた精神的重傷に)人々は氣附かずにゐる。國語國字改惡がそれである。當用漢字と現代假名遣、それに伴ふ音訓整理と新字體は『不快用語』ならぬ、『不要用語』『不要文字』の抹殺行爲であつた。が、誰が言葉の要、不要の判定を下す權力を持ち得るのか」。

�◆嶬�語は、今日生きてゐる吾々日本人全體の物であり、更に吾々の父祖と分ち持つてゐる共有物である」。

・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。

�△砲弔い討�恆存は、「歴史⇒文化⇒生活の樣式(型、即ち國語=正假名正漢字)」と言ふ事を言つてゐるのだと思ふ。更に�,魎泙瓠�恆存の論を索引しつつ以下枠内にて説明する。

參照「讀む會テキスト:補kotobawoikimonotosite.new.pdf へのリンク右圖・「本テキストyomukaitekisuto.pdf へのリンクP10圖」

上文の「吾々の父祖」とは「歴史=時間的全體:C」の事であり、「分ち持つてゐる共有物」とは、歴史と吾々との紐帯(關係D1)である「文化:D1」の事を指してゐるのであらう。そしてその文化を國や人間に「形ある物として見せる」内の一つが、型=「正當表記(正假名正漢字)」=國語と言ふ事になる。それを更に詳しく説明すると以下の樣になる。

 

歴史⇒文化⇒生活の樣式(型)については、恆存が別評論で以下の樣に書いてゐる。

「文化(D1)とは私たちの生き方(E)であります。生活の樣式(E)であります」(全五P185『傳統にたいする心構』の「エリオットの弁」より)。(D1・E等は參照「讀む會テキスト:補」3頁右圖)

 

恆存の言に從へば、文化とは、物=文化財そのものにあるのではなく、それを形ある「物」にあらしめる生活の樣式や型、言ひ換へれば「生き方・仕來り(躾)・風習・樣式・儀式・祭祀・傳統技術:E」にあると言ふ事になる。それを繼承或いは復元する事にこそ、戰後喪失した文化の再興があるのだと言ふのである。この主張は、取りも直さず、平成十八年(?)の「改正:教育基本法」で謳はれた「傳統と文化の尊重、我が國と郷土を愛し」云々に對する解決の手立てとなり得る。その解決の手立てを、なんと恆存は約半世紀も前に、評論『傳統技術保護に關し首相に訴ふ』で時の宰相「佐藤栄作」に進言してゐたのである。

 

大事な點なので繰り返すが、「戰後の日本が蒙つた重傷」との謂ひで、恆存が言はんとしてゐる事は、戰後日本が喪失してしまつた文化を、もう一度「取り戻す」或いは「復元」しなければならない、と言ふ事なのである。何故ならば「文化」は空氣なのだから(確かその樣に關聯評論で恆存は言つてゐた記憶がある)。その切實なる思ひから發し、ゆゑにその再興の手段として、「型・生き方・樣式」への再認識が必須項目となると吾々國民に訴へてゐるのである。

そして、その「再認識」せねばならぬ「型・生き方・樣式」が、國語で言ふならば「正統表記(正假名正漢字)」の復活なのだと恆存は提言してゐるのである。また、儀式祭祀で言ふなら、祝祭日を神道、農耕民族の歴史を踏まへたそれに改めると言ふ事になる(參照:『人間・この劇的なるもの』)。更に、家庭、親子等の人間關係で言へば、躾、仕來りにおける日本人の美感的生活態度をもう一度見直す事になる(參照:『日本および日本人』)。即ち文化再興再生の手立ては、戰後GHQの命令で切り捨てられた、過去の遺産、それも有機性の未だ喪はれてゐない「型・樣式」をもう一度見直し、取り戻す事にあると言ふ事なのである。

前々囘、前囘の「讀む會」でも取り上げた内容であり、此處に重複する事に躊躇いがあつたが、恆存の胸の内を察するが故に重要と存じ再度記載した。

繰り返すが、「正當表記(正假名正漢字)」「祝祭日」は型なのである。そして「型」は文化であり、文化は自國の歴史との紐帯(關係)なのである。日本人がナショナルアイデンティティーを取り戻し、精神の荒廢から立ち直るには、「型・生き方・樣式」の再興が必要なのである。それが取りも直さず、日本の歴史への「適應正常」と言ふ事になる。(注:子息「福田逸」氏がブログで、この邊りの事に關し、親父と同じ樣な事を言ひ始めた。大いに結構である。別紙參照)

 

蛇足となる部分もあるが、更に上記の理解に當たつては以下の文が參考になるのでは。尚、以下は私論ではなく恆存評論を纏めての要旨(發表文)である。

 

〔參考文:全五P190『傳統にたいする心構』小生發表文より〕

文化(D1)のある處(換言すれば自國の歴史との「適應正常化=非沈湎」が圖れてゐる國)では、「E」を至長化させる「:型・仕來り・様式・儀式」が形成されてゐて、その「型・仕來り等」が歴史との關係(文化)を形ある「物」として生き方に反映(Eを至長化)させてくれるのである。文化(D1)のある國は「仕來り・型」を持つが故に、「對象・言葉との距離測定不能(言葉に呪縛)」が原因の、適應異常や狂氣の囘避が可能となるのである。その事柄を「「讀む會テキスト:補」で言へば、3頁右圖の「D1の至長化=Eの至長化」と言ふ事になる。「型・仕來り・様式・儀式」は、生活・言葉への囚はれから人を救出してくれるのである。更に換言すれば、平生足をさらはれてゐる樣な現實的平面から意識を立ち上がらせてくれる。何故にそれが可能となるかと言へば、「型・仕來り・様式・儀式」に内在する働き、恆存の文章に從へば、以下のダイナミズムをそれは宿してゐるからなのであると理解する。

「そもそも動作や作用、さらに人間の抽象的な營みを名詞化しようといふ働きそのものが、主體である自分を對象から分離し、距離をつくらうとする衝動なのです」(全三P204『日本および日本人』)

 

〔難解又は重要文〕:P469「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「言葉の快、不快は、一語一語の持つ意味や定義のうちにはない、それを使ふ人の心にある。邪心が無ければ、そして、それを邪推する事なく聽く事が出來さへすれば、どんな『不快用語』も不快感を伴はぬであらう。なぜ人々は『不快用語』一掃を叫ぶ人々の邪心に、そしてその彼等の用ゐる言葉に不快感を覺えぬのか、さういふ言語感覺持主は一生『不快用語』に附き纏れるだらう」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。上記の理解に當たつては以下の文が參考になるのでは。(參照:「讀む會テキスト:補」3頁右圖)

P391全七『醒めて踊れ』より

「話し手と言葉との距離が小になれば、その言葉が話し手を物そのものの中に引きずり込み、それを露出させる。言葉を自分から遠く離す事によつて、逆にその言葉を精神化し、支配、操作する事が出来る様になり、隨つて自分に近附け、言葉を物そのものから離して自分の所有にする事が可能になる。抽象語の場合も同樣である。自由といふ言葉と話し手との距離が小になれば、話し手は自由といふ觀念に呑み込まれ、自由そのものが觀念的に大手を振つて罷り通り、その言葉の外延は果てしも無く擴り、内包は全く捉へ處の無い曖昧なものと化する。言葉に定義は不要であり、用法しか無いとしても、その用法に意識の集中があれば、定義せずとも概念の内包、外延に亂れは生じない」

 

 もう少し上枠文を解説してみる。

初出文の「それを使ふ人の心にある。邪心が無ければ」の反對「邪心がある人」こそは、言葉(觀念)に囚われてゐる人、上文の「話し手と言葉との距離が小」になつてゐる人を指す。例題として「つんぼ」の言葉で言ふと、「邪心がある人」がそれを使ふ時、「觀念に呑み込まれ」言葉に囚はれてゐるが故に、将に上記で言ふ「(つんぼの)言葉が話し手を物(つんぼ)そのものの中に引きずり込み、それを露出させる」結果に繋がる。要するに、「『つんぼ』といふ言葉と話し手との距離が小になれば、話し手は『つんぼ』といふ觀念に呑み込まれ、『つんぼ』そのものが觀念的に大手を振つて罷り通り、その言葉の外延は果てしも無く擴り、内包は全く捉へ處の無い曖昧なものと化する」のである。即ち「テキスト補:kotobawoikimonotosite.new.pdf へのリンク左圖」となり、『つんぼ』の言葉が餘計に露出する(大手を振る)結果となり不快感を招く事となる。・・・と言ふ事なのでは。

そしてそれと反對に「邪心が無ければ」、:「テキスト補:kotobawoikimonotosite.new.pdf へのリンク3頁右圖」の如く、「言葉を自分から遠く離す事によつて、逆にその言葉を精神化し、支配、操作する事が出来る様になり、隨つて自分に近附け、言葉を物(『つんぼ』)そのものから離して自分の所有にする事が可能になる」。その樣な支配、操作によつて「『つんぼ』の用法に意識の集中があれば、定義せずとも概念の内包、外延に亂れは生じ」ず、邪心がある人が冒した「『つんぼ』の言葉が餘計に露出する(大手を振る)」樣な結果やそれに伴ふ不快感を招かないで濟むと言ふ事になる。

そして恆存は上枠文の「言葉を自分から遠く離す事によつて、逆にその言葉を精神化し、支配、操作する事が出來る」、換言すれば、「自分と言葉との距離の測定が出來る」「言葉を自己所有化する事が出來る」云々を、「精神の政治學」の確立、「ソフトウェア」の適應能力とも謳つてゐるのである。そしてそれに關して以下の樣に書いてゐる。

*場との關係(人間關係:D1)を適應正常に保つには、「精神の政治學の確立、即ち所謂「ソフトウェア(E)」の適應能力に在る。(中略)それ(つんぼ等の所謂「不快用語」)に對應する方法は言葉や概念に囚れず、逆にこれを利用すること、即ち言葉の用法にすべてが懸つてゐる。自分と言葉との距離が測定出来ぬ人間は近代人ではない。いや人間ではない」(全七P393上『醒めて踊れ』)。(注:本文は「近代化」への適應について述べてゐるのだが、その論を「人間關係」と「不快用語」に應用した。つまり此處では、上記の「邪心がある人」即ち言葉に囚はれてゐる輩は人間ではない、と言つてゐるのだ)

*「フレイジングが正しく出來る爲には話し手が自分と言葉との距離や場と自分との關係を意識してゐる精神の働きが無ければならない」(『せりふと動き』)。

*「言葉と話し手との間に距離を保ち、その距離を絶え間なく変化させねばならぬのと同樣に、相手と共に造り上げた場と自分との間にも距離を保たねばならず、その距離を絶えず変化させ得る能力がなければいけない。さういふ能力こそ、精神の政治學としての近代化といふものなのである」(P398同)。

*個人を確立(強靭化)し場面に沈湎せず、フレイジング・「so called=所謂何々」で言葉(觀念)を自己所有化し、近代化を操る精神(關係の適應正常化)を持つ事、それが日本人の「精神の近代化」に繋がる。(講演カセット『日本の近代化とその自立』より要旨)

【上記項目についての質疑應答】

 

〔難解又は重要文〕:P474下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「猥褻の定義といつても先に述べた理由(P473下)により、自づと遠廻しにならざるを得ない」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。

恆存は「自づと遠廻しにならざるを得ない」が、さういふ条件下にある場合でも、以下の事柄が適用出來ると言つてゐるのである。そして「定義せず」しても「概念の内包、外延に亂れ」を生ぜせしめないと。

「言葉に定義は不要であり、用法しか無いとしても、その用法に意識の集中があれば、定義せずとも概念の内包、外延に亂れは生じない」。

 即ち、「「テキスト補:kotobawoikimonotosite.new.pdf へのリンク右圖」の必要性を此處でも指摘してゐるのである。

【上記項目についての質疑應答】

 尚、この邊りの頁から「ロレンス思想」の事が出て來るので參考に、その要旨を記載しておく。

「D・H・ロレンス」思想の要旨

*「性は生命のエネルギーの源泉」。

*「性の快楽は生命の全體感・實在感に通じる手立て」。

*クリスト教の教義である「肉に從ふは罪。肉は神意の遂げ處。性愛は神の象りである人間を生み増やす手段 」や、西歐近代の「性の科學化(フロイト)」にロレンスは叛論を發し、「性愛は純粋なる生命の燃焼」と、肉、性慾についての價値觀の復元を圖つた。(參照『戀愛と人生』及びロレンス評論集)。

 

そして「性愛」は、別紙《恆存の「型・儀式」に關する考へ方》で言ふ處の、以下の「型」の役割を持ち、その「型にしたがつた行動」によつて、夫婦と言ふ場に對する「必然感」の獲得、更に「時間的全體感」の獲得を果たし、その結果として生の充實感・實在感を齎す。

・・・と言ふのがロレンスや恆存の考へ方なのである。

型にしたがつた行動は、場との關係を「適應正常化」させる。そしてその結果として生の充實感・實在感の成立となる。

 

 更に言へば、その「型にしたがつた行動(性愛)」によつて、ロレンスは以下の事に繋がりうると言ふのである。

*「吾々は生きて肉のうちにあり、また生々たる實體をもつたコスモス(空間的、時間的全體)の一部であるといふ歡喜に陶酔すべきではなからうか」。

*「吾々の欲することは、虚僞の非有機的な結合を、殊に金錢と相つらなる結合を打ち毀し、コスモス、日輪、大地との結合、人類、國民、家族との生きた有機的な結合(即ち各共同體との「關係と言ふ眞實」)をふたゝびこの世に打ち樹てることにある。まづ日輪と共に始めよ、さうすればほかのことは徐々に、徐々に繼起してくるであらう」。

・・・と。(參照『アポカリプス論』最終章)

【上記項目についての質疑應答】

 

〔難解又は重要文〕:P475下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「藝術だの、文學だのといふ言葉を恥し氣も無く、やたらに振り廻すのは一種の事大主義」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。

此處にも前出の、「抽象語の場合も同樣である。自由といふ言葉と話し手との距離が小になれば、話し手は自由といふ觀念に呑み込まれ、自由そのものが觀念的に大手を振つて罷り通り、その言葉の外延は果てしも無く擴り、内包は全く捉へ處の無い曖昧なものと化する。言葉に定義は不要であり、用法しか無いとしても、その用法に意識の集中があれば、定義せずとも概念の内包、外延に亂れは生じない」が適用できる。「自由」の語を「藝術」「文學」に置き換へればいいだけである。恆存は、新漢語や外來語に對する「so called=所謂何々」の必要性を、評論『新漢語の問題』(當全集前部に所載)に引き續いて此處に喚起してゐるのである。そして後の項目でも言内或は言外にその事が提示されてゐる。「猥褻」はもとより「性」「性表現」「性慾」等々に對して。

更に指摘すると、P476下の文章「彼等(記者・文士)と同樣、裁判官も(藝術、思想と言ふ)この『借り物の言葉』即ち『解らぬ方言』を解らぬままに使つてゐるに過ぎない」の「借り物の言葉」「解らぬ方言」がそれを示してゐる。そして後段(P477)で、恆存は詳しく新漢語、外來語の概念の曖昧さを説いてゐるのである。ついでに念を押して「だから、新漢語には、外來語同樣、よくよく注意しなければならない」と吾々に喚起してしてゐる。

【上記項目についての質疑應答】

 

 

〔難解又は重要文〕:P476上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「藝術作品と猥褻文書との相違は質、もしくは動機、目的の問題であつて、量や度合ひの問題ではなく、兩者は絶對に兩立し得ず、相容れない」・・・此の文は重要文として記載した。大事な事は恆存は、昭和三十一年頃の「チャタレイ裁判」より、二十五年も後の「四疊半」裁判の方が「猥褻の概念を誤つて運用」してゐる點で、法的にも文學的にも「數歩後退」、即ち餘計惡くなつてゐると捉へてゐる事なのである。

 

〔難解又は重要文〕:P478上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「猥褻と性描写と、猥褻と性的刺激と、その兩者の間には何ら本質的關係はない」・・・此の文も重要文として記載した。

 

〔難解又は重要文〕:P478下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「裁判官が緩和劑として期待してゐる藝術性、思想性が如何に危険なものか、性的刺激と同樣、恐らくはそれ以上に、人の一生を左右し、臺無しにしてしまふ事があるといふ事に人々はなぜ氣附かないのか。(中略)何の疑ひも無く罷り通つてゐる『言論の自由』といふ、これまた、同じく『借り物言葉』に對する觀念的信仰、即ち迷信の事を私は言つてゐるのだ。(中略)『言論の自由』そのものについて、或は『言論』そのもの『自由』そのものについて深刻に考へ、借り衣を借り衣と自覺し、それを着こなすすべを講じなければなるまい」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。

此の邊もやはり、「藝術性、思想性」「性的刺激」「言論の自由」「言論」「自由」と言ふ新漢語(「借り物言葉」「借り衣」)に對する「so called=所謂何々」の必要性を恆存は喚起してゐるのであらう。恆存の言に從へば、日本は西歐近代への適應に際し、近代化は物質的近代化しか出來ず、前述した如く以下の藝當が出來なかつたのである。

「個人を確立(強靭化)し場面に沈湎せず、「so called=所謂何々」で言葉(觀念)を自己所有化し、近代化を操る精神(關係の適應正常化)を持つ事、それが日本人の精神の近代化なのである」

 その結果、「藝術性、思想性」「性的刺激」「言論の自由」「言論」「自由」等の外來思想や觀念は、「nihontekiseishinshugikouzu.pdf へのリンク」の如く、絶對的自己肯定の爲の「護符・後ろ楯の思想:C2」言ひ換へれば「觀念的信仰・迷信」となつてしまつたのである。その樣ないびつな日本の近代化が招いた、「テキスト補:2頁圖」の「日本的精神主義構圖」が「人の一生を左右し、臺無しにしてしまふ事がある」と言ふ事を恆存は言はんとしているのではあるまいか。もしかしたら違ふ事を言はんとしてゐるのかも知れないが、小生には今の處、他には思ひつかない。是非各位の異論を伺ひたい。

 尚、此の「言論の自由」に關する參照となる文章を發見したので此處に記しておく。

評論『新漢語の問題』全七P461より「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「文化(D1)の根柢は言葉(E:言葉の型=正當表記=正假名正漢字)にある事に氣附いてゐる人が餘りにも少ない。なぜにさうなつたかと言へば、戰後の國語國字改惡が徹底した結果、言葉が文化を支へ、思考力や道徳や人格を支へ、その崩壊を食ひ止め得る唯一の財産だといふ自覺の切掛けすら持たぬ人達が多くなつたからである。なほ始末の悪い事に、さういふ人達が自分にも意味不明な死語に近い新漢語や外來語を操りながら、しかもそれを死語と自覺せずに物を書き、それを生業とする傾向がひどくなつて來た。これもまた『言論の自由』といふ近代的概念に對する適應異常の一種である」。

【上記項目についての質疑應答】

 

〔難解又は重要文〕:P478下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「この『ついで』の一節こそ、私の一番言ひたかつた事である」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。是は、同頁上の「國語國字を改惡し、國語教育の字數を減じて、古典との阻隔を計つた戰後の文化政策を、猥褻文書頒布より遙かに大罪と考へる」を指すのであらう。そして「野坂昭如や大部分の新聞や言論人が(中略)おとなしく内閣訓令告示(國語國字改惡)に追隨してゐる事を、不思議に思ふ」と言ふのである。それについては、前項の枠内文をやはり參照されたい。

 

をはり

 




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