平成十九年八月十二日

吉野櫻雲

 

《H19.0803:K.K會員ファックス「前田氏評論:エゴイズムの問題」について》

 

〔以下は、ファックス(kk.maedahyouronnituite.pdf へのリンク)に對する小生の返信文〕

「昧爽」は繼續購讀依頼をしませんでしたので、前田氏のエッセイを殘念ながら讀む事は出來ませんでした。

仰せの「エゴイズム」の問題につきましては、恆存の論をもう少し整理してみたいと思ひます。取り急ぎ以下の部分が幾ばくかのご參考になるかとご案内申し上げます。

【エゴイズムの問題。(「白く塗りたる墓」より)】

http://www.geocities.jp/sakuhinron/page006.html 

 

上記で恆存は、「エゴイズム」を「生の意欲の湧出」「生命力の昂揚(全集:P511)」「すなほな生物の欲望(P507)」「生命欲」と見てゐます。

しかし重要なのは、「エゴイズム」はあくまでも「絶對・全體」との關係を維持する事で、有機體として「集團的自我・支配被支配の自己」のダイナミズムが成立する。と、此の樣に恆存は捉へてゐるのではなからうかと思へます。

即ち「神なくして個人の権利を主張しえない。それをあへてなすことは悪徳である」(『近代の宿命』)と言ふ文がその事を示すと思へます。

尚、以下は拙文「福田恆存の『個人主義』観」からの轉載文です。

http://www.geocities.jp/sakuhinron/page037.html

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恆存の諸著作から個人主義についての文言を要約すれば、以下の通りになると思ふ。

近代=「神の死」即ち「神意(宿命)喪失」→神の代はりに自己の手による宿命演出→自己主張(表現)・自由意思(人間如何に生くべき)→自己完成(自己主人公化・自己全体化・自惚鏡)→自己陶酔・自己満足・自己絶対視・自己証明による「似非実在感」→自己喪失(自己への距離感喪失・適応異常)。

そして畢竟、神の棲まぬ我が国では、個人主義は利己主義に帰結すると言ふ事にも。即ち「神なくして個人の権利を主張しえない。それをあへてなすことは悪徳である」(『近代の宿命』)と言ふ文がそれを示す。

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急ぎ書きのため纏まりに缺けますが、ご容赦の程を。  吉野

 

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〔以下は、今囘加筆文〕

 

恆存は、「エゴイズム」を「生の意慾の湧出」「生命力の昂揚(全集:P511)」「すなほな生物の慾望(P507)」「生命慾」と見てゐます。

しかし重要なのは、「エゴイズム」はあくまでも「絶對・全體」との關係を維持する事で、有機體として「集團的自我・支配被支配の自己」のダイナミズムが成立する。と、此の樣に恆存は捉へてゐるのではなからうかと思へます。即ち「神なくして個人の権利を主張しえない。それをあへてなすことは悪徳である」(『近代の宿命』)と言ふ文がその事を示すと思へます。

 

先にも取り上げた上文(特に傍線部分)の内容は、エゴイズムの範疇である「権力慾」にも當然當てはまる。故に「権力慾」を例に取つて考へてみると、傍線部分のエゴイズム(A:「生命慾」「生の意欲の湧出」等々)と絶對・全體(C)との關聯が理解しやすいと思ふ。

そして「権力慾」については、恆存評論の『職業としての作家』における文章が參考となるので、以下拙發表文(『此處が解りにくい福田恆存』:P2)からその事に關聯する部分を抜粋し、かつ分かりにくい部分は一部修正加筆して此處に轉載する。

封建制度時代(前近代):集團的秩序の確立してゐる時の職業(『職業としての作家』より)

 

封建的な支配關係の秩序は職業的身分の確立により、上から下への權力の流れに沿つて集團的自我を解放してゐた。この秩序に安心してもたれかかつてゐたため、個人的自我はその上に純粋な成長をなしえた」P547。・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。即ち、かう言ふ事では。

集團的自我上における職業にて、「上から下への權力の流れに沿つて」、そこの場から要求される「關係を形ある『物』にして見せる」といふ仕事(宿命/自己劇化)を行ふ事によつて、封建的な支配關係の「背後にある道徳:Cに、個人的自我は繋がる事が出来得るといふ事なのである。そこに個人的自我の目的である「自己完成」は道徳(C)にと繋ぐ事が果たし得る。「純粋な成長」とはその事をいつてゐるのである。(注:「背後にある道徳」は『自己劇化と告白』から:P417

さうした「集團的秩序の確立してゐるところに職業はいささかの動揺も感じない」。即ち江戸時代なら、「封建的な支配關係の秩序」的構圖が集團的自我上で、上昇形式のよつて上に伸びていき、しかもそれが儒教道徳(C)へ繋がっていると言ふ安定感・安心感があり得たと言ふ事。別な言ひ方をすると、儒教道徳の「天(C)」から集團的自我上への宿命(天意:關係)的權力の流れに對して自己劇化・演戯が出來たと言ふ事。

そのやうに、「職業とは集團的自我の生きんとする通路であるが、より重要なことは、この通路が充分に開かれてゐることによつて個人的自我の平静と純粋とが保たれるといふ事実なのである」

とは何を意味するか・・・重要項目。

即ち封建制度時代(前近代)では、職業を通して自己完成の通路(個人的自我)も開かれたと言ふ事を示す。

職業上における権力慾の「自己劇化」が、構圖的終着点としての「背後にある全體(C:天・神等)」に繋がり得る安定感がある事によつて、個人的自我も「自己完成」の共演が権力慾の「自己劇化」の内に圖れると言ふ事を示してゐる。個人主義においては、さうした「自己を何處かに隠す」隠し場所がない、と言ふ事である。何故ならば目的到達點は「自己」であるから。

そして大事な點は、「テキストP8圖」(西欧個人主義《近代自我》構圖)でも「テキストP9圖」(日本的精神主義構圖)でも、自己完成の通路(個人的自我の通路)は閉ざされ、そこでは「権力慾」も歪曲される、と言ふ事だ。西欧個人主義《近代自我》は以下のメカニズムのジレンマから脱出し得ない。

近代=「神(C)の死」即ち「神意(宿命:D1)喪失」⇒神の代はりに自己の手による宿命(D1)演出⇒自己主張(表現)・自由意思(人間如何に生くべき)D2⇒自己完成(C”:自己主人公化・自己全体化・自惚鏡)⇒自己陶酔・自己満足・自己絶対視・自己証明による「似非(D3)実在感」⇒自己喪失(自己への距離感喪失・適応異常)

 

そして、「完成せる統一体としての人格」的構圖(「テキストP10圖」)において、上記「集團的秩序の確立してゐる時の職業」の問題は解決しうると恆存は言ふのである。即ち、集團的自我の解放による権力慾の有機的成長と、そして個人的自我もその上に純粋な成長をなしえると。何故ならば「背後にある道徳:C(絶對・全體)」がその構圖を支へ得るからである。

追記するならば、「自己を何處かに隠さねばならぬ」の謂ひは、構圖を支へる全體(C:道徳=天・神・佛)へ隠すの意である。

 

 やはり「エゴイズム」の範疇である、「生の意慾の湧出」「生命力の昂揚」「すなほな生物の慾望」「生命慾」も職業における權力慾と同樣、それが現出される型即ち「戀愛・性愛・夫婦・家庭・交友等」で以下の有機的形態(特に傍線部分)がなされなければならないと言ふ事なのである。

1.「上から下への權力の流れに沿つて集團的自我を解放してゐた。この秩序に安心してもたれかかつてゐたため、個人的自我はその上に純粋な成長をなしえた

2.「職業とは集團的自我の生きんとする通路であるが、より重要なことは、この通路が充分に開かれてゐることによつて個人的自我の平静と純粋とが保たれるといふ事実なのである」

 集團的自我を解放し」「この通路が充分に開かれてゐる」爲には、是が非にも「背後にある道徳:C(絶對・全體)」が必要とされ、更に日本人の「精神の近代化」も併せて、「完成せる統一體としての人格」論がエゴイズムの有機的效用の解決策として持ちいだされる譯なのである。

 この問題の探究として、まだ言葉の足りない部分が殘るが、時間がない爲まずはこの邊で・・・。

 

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