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平成二十年五月二十五日

『福田恆存を讀む會』




五月選擇評論:全集第七巻所收〔小林秀雄の「本居宣長」〕

 (「小説新潮スペシャル」冬創刊號、昭和五十六年一月刊:七十歳)

 

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 恆存はP665で「小林秀雄」及び「本居宣長」の文を引用し此の樣に言つてゐる。「心の動搖を鎭め、整へ、吾が物と化する」手立てとなる「カタチ(形)」として、「歌」が以下枠文の樣にその役目を果たすのだ、と。

P665下:小林秀雄文要略

悲しみ(心の動き・働き:D1)⇒シカタ⇒カタチ(形:E)⇒歌(言葉):E

それは詰まる處、恆存流に言ひ換へると「悲しみと言ふ心の動搖(關係)を、形のある『物』として見せるのが歌の力學」と言へるのではなからうか。

歌は、心の動搖を形のある『物』として見せ、それによつて悲しみ等を「鎭め、整へ、吾が物と化する」事を人に可能とさせるくれる。そして心の動搖に耐え抜く力を與へてくれるのだ、と。

 

上枠文を含め、小林秀雄が引用してゐる「本居宣長」の、「P663上〜最終頁」迄の内容は、恆存自身が抱懷してゐる以下(四枠文)の言語觀、演劇論に非常に近い。故に、冒頭にある恆存の感慨「この本をこれだけ讀み熟せるのは私だけではないかといふ、これは自惚れとは全く異る、一種の喜びに絶えず浸つてゐた」は、将にむべなるかなの感がする。

 そして恆存ファンにとつては、恆存が遠慮がちに小出しにしてゐるその関聨に對して、更なる探究の手を加へたい衝動に驅られるのである。詳しくは下欄の「探究項」で取り上げるが・・。

 

〔恆存の言語觀、演劇論:四種〕參照:別紙「パワーポイント圖」uta.katachi.1-2.pdf へのリンク

��   場から生ずる「關係(D1)と稱する實在物は潜在的には一つのせりふ(言葉)によつて表し得る」(全七P300『せりふと動き』)

��    場から生ずる「心の動き(關係)を形のある『物』として見せるのがせりふの力學」(『せりふと動き』)。

 

更にこの二つを合はせ要略するとかうなる。

せりふ(言葉:F)との附合ひ方、扱ひ方(E)、即ち「フレイジング」「so called=所謂何々」等「型にしたがつた行動」の用ゐ方の適不適で、場との關係(D1)を適應正常化(非沈湎)させる事が可能となり、また反對に適應異常化(沈湎)に陥らせる事にもなり得る。

 

*「型にしたがつた行動は、行動をそれ自體として純粋に味はひうるやうにしむけてくれる。そのときにおいてのみ、私たちは、すべてがとめどない因果のなかに埋れた日常生活の、末梢的な部分品としての存在から脱却し、それ自身において完全な、生命そのものの根源(全體)につながることができるのだ」(參照:『人間・この劇的なるもの』最終章)。

 

型にしたがつた行動⇒「行動をそれ自體として純粋に味はひうるやうにしむけてくれる」⇒言葉(物)との距離の至大化(Eの至大化)⇒場との關係を適應正常化(場に沈湎してゐる日常性からの解放:D1の至大化)⇒��場(全體・共同體)に對してなすべきことをしてゐると言ふ「必然感」の獲得。�⊂譟柄奇鶲燭�國・町・家族等共同體)と有機的に繋がつてゐると言ふ「全體感」の獲得。⇒結果として生の充實感(實在感)の成立。

 

言葉は寫實ではなく用途(講演カセット「シェークスピアの魅力」より要旨)

*「言葉とは、意味の傳達以上に「用途」の役割を持つてゐるといふ事。寫實(何)よりも用途(なぜ)を。人間を目的・行動に駆り遣る爲の鞭的用途(スプリングボード)の役割を持つ」。

*「言葉は物を指し示す物の影(寫實)ではなく、「實在物=關係」を目に見える樣に傳へる用途を持つてゐるものなのである」。

 

P391全七『醒めて踊れ』より

「話し手と言葉との距離が小になれば、その言葉が話し手を物そのものの中に引きずり込み、それを露出させる。言葉を自分から遠く離す事によつて、逆にその言葉を精神化し、支配、操作する事が出来る様になり、隨つて自分に近附け、言葉を物そのものから離して自分の所有にする事が可能になる。

 

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〔以下は、吉野櫻雲發表文〕

 

と言ふ事で、今評論も中々の難解にしてかつ手ごはく、そしてどの文章も重要なのであるが、特に以下内容文を此處に取り上げる事とする。更にいつもの如く難解なる内容については、手助けを他評論に仰ぐこととする。(以下文中傍線及び括弧内は概ね吉野附記。「P9圖」云々は「讀む會テキスト」頁を表す。「A・B・D2」等も同テキスト三頁を參照の程)

 

〔難解又は重要文〕:P659「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「獨力で生きてゐる一大組織」「時空に亙る一個の巨大な生き物」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。上記の理解に當たつては、⇒「PP圖1頁圖」に記載。

 

〔難解又は重要文〕:P660「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「てにをは」は「用ゐ方」・「いひざま」・「いきほい」。・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。上記の理解に當たつては⇒「PP圖1頁圖」uta.katachi.1-2.pdf へのリンクに記載。

 

〔難解又は重要文〕:P663上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「(役者は)臺詞の意にこだはり、その意をめぐつて理を働かせ、日々その言ひ方を工夫し、與へられた役の人物像に近附かうとするからである。が、臺詞の意は臺詞の中にはない、それを口にに出す前、相手が喋つてゐる言葉を聞いてゐるうちに湧き上がり、形(姿)を成さずに存在してゐるものであり、・・」云々・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。

恆存は當評論では「意」とのみ言ひ、あへて区別してゐないが、此の文章で遣はれてゐる「意」には二つの要素がある。その内の一つ、「(役者は)臺詞の意にこだはり」で言ふ「意」とは、「意味」の事である。恆存の指摘通りであるならば劇團「昴」の役者も例外ではなく、かつ大方の日本の役者は、臺詞の「意味:F」にばかりこだはつてゐて、もう一つの意の要素である「意思(場から生ずる心の動き):D1」、即ち「相手が喋ってゐる言葉を聞いてゐるうちに」湧き上がる「心の動きを聲の形(E:カタチ)に出す事」、換言すると「心の動き(關係)を形のある『物』として見せるのがせりふの力學」と言ふ要素の方を、その重要性を認識せず無視してゐる、と恆存は言つてゐるのである。

参考文:言葉は寫實ではなく用途(講演カセット「シェークスピアの魅力」より要旨)

*「言葉とは、意味の傳達以上に「用途」の役割を持つてゐるといふ事。寫實(何)よりも用途(なぜ)を。人間を目的・行動に駆り遣る爲の鞭的用途(スプリングボード)の役割を持つ」。

*「言葉は物を指し示す物の影(寫實)ではなく、「實在物=關係」を目に見える樣に傳へる用途を持つてゐるものなのである」。

 

以下は(要旨:『シェイクスピア劇のせりふ』P339P346から)

*「ハムレットは今、この時、なぜ(D1)、かういふ言葉で、かういふ事を言ふのか、その氣持ち・必然性(D1)が目に見える樣(E)に傳へる」。「言葉は行動する」その行動性を、強い必然性を。

*「何:F」をではなく、方法論(フレイジング・So called)で人物の意志や心の動き、即ち「なぜ」(D1)をリアルに表す。

*意味の傳達(なに:F)よりも「目的達成の爲の効果」(P346)の方(なぜ=関係:D1の必然性)を重要した方が・・・。

大事なのは、その言葉の背後にある心の動き(D1)を聲の形(E:カタチ)に出す事。・・・平易な意味傳達(なに)よりも心の表情(なぜ)を(P339)。

 

括弧注を補つて書くとかう言ふ事になる。「(役者は)臺詞の意(意味)にこだはり、その意をめぐつて理を働かせ、日々その言ひ方を工夫し、與へられた役の人物像に近附かうとする。が、臺詞の意は臺詞の中にはない、それを口に出す前、相手が(即ち場で相手が)喋つてゐる言葉を聞いてゐるうちに湧き上り(おのづと湧き上る『意思=心の動きD1』)、形(姿=E)を成さずに存在してゐるもの」なのである。であるから、「そんな風に意(意味)など問題にせず、臺詞の姿(=形=E)を、詰り、その語勢(=形=E)、抑揚の律動(=形=E)に身を任せて、(湧き上る「心の動きを形のある『物』として見せる」「心の動きを聲の形(E:カタチ)に出す」べく)、それ(臺詞)を一日でも早く憶えてしまひ、毎日、口にのぼせる快さを身に附けてしまひさへすれば、意(意味)は自づと現れて來る筈だ」と、その樣に恆存は言はんとしてゐるのではなからうか。(參照:全七P324『せりふと動き』)

【上記項目についての質疑應答】

 

 

〔難解又は重要文〕:P664上〜6「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「言葉の本質は意の傳達にあるのではない。そもそも意の傳達などといふ事があり得るのか」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。此處で恆存は「意」を兩義性を持つのを知りながら、あへてその二つ(意味と意思)を明確にせずに、論を進めてゐる。以下の事を言はんとする爲に。

 「言葉の本質は意味の傳達にあるのではない」。かと言つて、心の働き(意思・心の動き=意)の傳達なら出來ると考へるのも淺見である、と。そしてかく言ふ。

P665下「言葉は意(意味も意思も)を傳へる事を目的としてはゐない。堪へ難い心の動揺を鎭め、整へ、吾が物と化する事によつて、それに耐え抜くといふ作用を第一義とするものである」(P665下)と。

これを言ひ換へると、堪へ難いが爲に「場」に沈湎しがちな心を、言葉によつてその堪へ難い悲しみを「形のある『物』として見せ」、それによつて『心の動搖を鎭め、整へ、吾が物と化する』。さうする事で、場への沈湎から心を引き離し、結果として悲しみ(心の動搖)に耐え抜く力となる。その「耐え抜くといふ作用」が第一義的目的なのであると。更に言ひ換へると、「場との關係を適應正常化(距離の至大化)」するのが言葉の目的だと言ふ事になる。即ち、場から生ずる「關係(D1)と稱する實在物は潜在的には一つの言葉(F)によつて表し得、故にその言葉との附合ひ方、扱ひ方(形・Eの形成=「型にしたがつた行動」)によつて、人間は場との關係の適應正常化が叶へられる」と言ふ事になる。要する「適應正常」する爲には「形・カタチ」が必須なのだ。もう一度分かり易く書くと、言葉の目的は、形の成立を得る事で(「型にしたがつた行動」を得る事で)、場との關係を適應正常化する事にある。

更なる繰り返しとなるが重要なので書く。言葉の目的は、言葉によつて悲しみ等の心の動搖を「形のある『物』として見せ」、それによつて『心の動揺を鎭め、整へ、吾が物と化する』。さうする事で、「悲しみ(心の動搖)」と言ふ場の沈湎から心を引き離して悲しみに耐え抜く事が可能となる。それが第一義的目的なのである、と。恆存は「小林秀雄及び本居宣長」の文を引用し此の樣に言つてゐるのである。その「心の動搖を鎭め、整へ、吾が物と化する」手立てとなる「カタチ(形)」として、「歌」が以下の樣にその役目を果たすのだ、と。詰まる處「心の動搖(關係)を形のある『物』として見せるのが歌の力學」と言へるのではなからうか。

P665下:小林秀雄文要略

悲しみ(心の動き・働き:D1)⇒シカタ⇒カタチ(形:E)⇒歌(言葉):E

歌は、心の動搖を形のある『物』として見せ、それによつて悲しみ等を「鎭め、整へ、吾が物と化する」事を人に可能とさせてくれる。そして心の動搖に耐え抜く力を與へてくれるのだ、と。

 

是等の事柄は、恆存自身が抱懷してゐる以下四枠文の言語觀、演劇論に繋がるのである。

*「型にしたがつた行動は、行動をそれ自體として純粋に味はひうるやうにしむけてくれる。そのときにおいてのみ、私たちは、すべてがとめどない因果のなかに埋れた日常生活の、末梢的な部分品としての存在から脱却し、それ自身において完全な、生命そのものの根源(全體)につながることができるのだ」(參照:『人間・この劇的なるもの』最終章)。

 

型にしたがつた行動⇒「行動をそれ自體として純粋に味はひうるやうにしむけてくれる」⇒言葉(物)との距離の至大化(Eの至大化)⇒場との關係を適應正常化(場に沈湎してゐる日常性からの解放:D1の至大化)⇒��場(全體・共同體)に對してなすべきことをしてゐると言ふ「必然感」の獲得。�⊂譟柄奇鶲燭�國・町・家族等共同體)と有機的に繋がつてゐると言ふ「全體感」の獲得。⇒結果として生の充實感(實在感)の成立。

 

��   場から生ずる「關係(D1)と稱する實在物は潜在的には一つのせりふ(言葉)によつて表し得る」(全七P300『せりふと動き』)

��    場から生ずる「心の動き(關係)を形のある『物』として見せるのがせりふの力學」(『せりふと動き』)。

 

更にこの二つを合はせ要略するとかうなる。

せりふ(言葉:F)との附合ひ方、扱ひ方(E)、即ち「フレイジング」「so called=所謂何々」等「型にしたがつた行動」の用ゐ方の適不適で、場との關係(D1)を適應正常化(非沈湎)させる事が可能となり、また反對に適應異常化(沈湎)に陥らせる事にもなり得る。

 

P391全七『醒めて踊れ』より

「話し手と言葉との距離が小になれば、その言葉が話し手を物そのものの中に引きずり込み、それを露出させる。言葉を自分から遠く離す事によつて、逆にその言葉を精神化し、支配、操作する事が出来る様になり、隨つて自分に近附け、言葉を物そのものから離して自分の所有にする事が可能になる。

【上記項目についての質疑應答】

 

 

〔難解又は重要文〕:P666上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「『のる』は字義通りに解すれば、『言ふ』『告げる』であるが、それでは盡せぬ、何かが、即ち、自他の心を動かし、或は鎭めようとする言葉の働きを信じてゐた古代人の語感がある」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。上記の理解に當たつては「PP圖uta.katachi.1-2.pdf へのリンク2頁圖」に記載。

【上記項目についての質疑應答】

 

 

〔難解又は重要文〕:P666下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「世の遷り變る歴史は日常生活における心の動きそのものであつて、それは事(コト・シワザ)であると同時に意(ココロ)であり、すべてが言詞(コトバ)の中にあるといふ考へ方が何の疑ひも無く懷かれてゐた」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。上記の理解に當たつては以下の文が參考になるのでは。「PP圖uta.katachi.1-2.pdf へのリンク1頁圖」に記載。

【上記項目についての質疑應答】

 

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