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平成二十年七月十三日

『福田恆存を讀む會』

 

 

七月選擇評論:全集第六巻所收『フィクションといふ事』

 (「文學界」昭和四十五年十一月:五十九歳)

 

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 『フィクションといふ事』は、恆存晩年の著述『覺書:全集六P697』(昭和六十二年:七十七歳)の中に書かれてゐる、「私の言ひたいこと」でも幾つか引用されてゐる樣に、その「假説論」そして、その延長線上にある假説の伽藍とも言へる「完成せる統一體としての人格」論を探究するのに、當評論は眞に重要な評論と言へる。

更に伊劇作家「ビランテルロ」の影響、或は近似性を此の評論に窺ひ知ることが出來る。例を上げると、別紙恆存文『假面と素面の哲學』P16上で「ビランテルロ」戯曲を紹介してゐる、以下枠文にそれを發見する事が出來るのである。比較對象の爲に恆存文を併記しておく。

尚、「影響」と書いたが、それは「大岡昇平」の雑文(劇團機関誌:『雲』3)の中に、「ビランテルロはわが福田理事長にとつて、演劇開眼だつたらしい」の文を見つけた事に據る。ただ小生の推測としては「影響」といふよりも、評論「小林秀雄の『本居宣長』」の文中にあると同樣、それは「我が意を得たり」に寧ろ近いのではなからうかと存ずる次第である。

別紙恆存文『假面と素面の哲學』P16上

實人生もまた芝居であり假面であると悟つた時、人は當然、意識して假面を被り、意識して芝居を演じぬくために、單なる登場人物であることに滿足せず、自らそれを操る作者の立場を確保しようとする。『作者を探す六人の登場人物』といふ題名にその間の心理的経緯が窺はれませう」。

 

恆存文:「 」内が恆存文( )内は吉野注。

何役かを操る各場面でそこから発生する、關係の「眞實を生かすために一つのお面をかぶる(役を演ずる・自己劇化)」「演戯なしには人生は成り立たない。つまり假説なしには成り立たない」。「眞實といふのは、ひとつの關係の中にある。個々の實體よりはその關係の方が先に存在している。人生といふものは、關係(目上⇔目下・親⇔子・師⇔弟子・國⇔國民、等々)が眞實なんで、一生涯自分のおかれた關係の中でもつて動いてゐる。いろいろな關係を處理していき、それらの集積された關係がその人の生涯といふもの。それを私は演戯だといふ」。(參照:單行本『生き甲斐といふ事』中、對談「反近代につひて」P195・199)

 

そして、此處でも取り上げられてゐる内容でもあるが、また他の評論の何處かで書いてあつた樣な氣がするが、まさしく個人主義とは「淋(寂)しい思想」と言へる。

當評論文中にそれを探してみると、(P453)「十九世紀小説(個人主義小説)が信じてゐた自己の實在とそれに對する誠實といふものを、もはやビランテルロは信じてゐない。誠實といふものも、少くとも自分が自分に對して誠實であると思ひこむのも、これまた一種の自己欺瞞に過ぎまい。いや、誠實こそ寧ろ最大の自己欺瞞かもしれぬ」にそれが窺へる。

個人主義とは「自己への誠實」であつて、相手の「自惚鏡」に附き合はない。それは當り前である。何故なら個人主義は、神の代はりに自己が舞台の前面に出ての「自己主人公化・自己全體化」なのであるから・・・。

その邊の事をいち早く、既に近代の曙「ルネサンス」の時點で、天才「シェイクスピア」は見事喝破し、かくの如きせりふにそれを殘してゐるのである。以下文で言ふ「人」とは全體離脱の近代人、そしてその代表「マクベス」の事を言つてゐるのであらう。

「人の生涯は動きまはる影にすぎぬ。あはれな役者だ、ほんの自分の出場のときだけ、舞台の上で、みえを切つたり、喚いたり、そしてとどのつまりは消へてなくなる。白痴のおしゃべり同然、がやがやわやわや、すさまじいばかり、何のとりとめもありはしない」(『マクベス』獨白)。

そう近現代人は、「自分の出場」(自分の自惚鏡)のときだけ、「みえを切つたり、喚いたり」「がやがやわやわや、すさまじいばかり」、只ひたすら自己主張に終始するのである。

そして吾等日本人も同樣。否もつと自惚鏡への執着は強いかも知れない。日本人はその個人主義を、恆存の論に據れば「確立出來ない」まま、かと言つて手を拱いてゐる譯にもいかず、結局お手の物の「換骨奪胎」、個人主義に名を借りての斷片主義(利己主義)へと仕立て上げてしまつた。そして、其處に更に、戰後の文化喪失⇒型喪失⇒自己と言ふ場(C”)への適應異常(自惚鏡C”への沈湎)が加算されたのである。

その邊の問題も含めて當評論を讀んでいきたい。

 

引き續きK會員より。・・・『フィクションといふ事』選擇動機、及びLEADING(READING)。

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〔以下は、吉野櫻雲發表文〕

 

と言ふ事で、今評論も中々の難解にしてかつ手ごはく、そしてどの文章も重要なのであるが、特に以下内容文を此處に取り上げる事とする。更にいつもの如く難解なる内容については、手助けを他評論に仰ぐこととする。(以下文中傍線及び括弧内は概ね吉野附記。「P9圖」云々は「讀む會テキスト」頁を表す。「ABD2」等も同テキスト三頁を參照の程)

 

〔難解又は重要文〕:P452下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

原文讀要:「『藪の中』~~自覺を持つてゐた・・・文中「自己正當化」とは、下欄枠文「西歐近代自我(個人主義)の末路」を參照されたし。そして文中「相手の思ひこみに附合つてゐる」とは、後述の「自惚鏡」即ち「相手の思ひこみ(自惚鏡)に附合つてゐる」を示してゐる。

〔恆存の言ふ、西歐近代自我(個人主義)の末路〕(參照「テキストP13:個人主義の構圖」)

                                            

近代=「神の死」即ち「神意(宿命)喪失」

神の代はりに自己の手による宿命演出:D1自己主張(表現)・自由意思(人間如何に生くべき):D2自己完成(自己主人公化・自己全體化・自惚鏡):C”自己陶酔・自己滿足・自己正當化・自己絶對視・自己證明による「似非實在感」:D3エゴイズム(近代自我の必然)自己喪失(自己への距離感喪失)。

【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】

 

〔難解又は重要文〕:P453上下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

原文讀要:ビランテルロ文~下6行目「人生は悲しい芝居である。といふのは、吾々は自分自身のうちに、なぜ、どうしてかは解らぬものの、一つは實在(リアリティー)を造り出す事によつて絶えず己を欺かうといふ慾求を持つてゐる。(中略)十九世紀小説が信じてゐた自己の實在とそれに對する誠實といふものを、もはやビランテルロは信じてゐない。誠實といふものも、少くとも自分が自分に對して誠實であると思ひこむのも、これまた一種の自己欺瞞に過ぎまい。いや、誠實こそ寧ろ最大の自己欺瞞かもしれぬ」云々・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。①文中「實在(リアリティー)」とは、「眞實の自己自身」を指す。⇒參照:別紙恆存文『假面と素面の哲學』P15下(時間があれば全文音讀)。そしてそれは西歐個人主義の目標「自己完成C”」とも關聯してくる。即ち以下枠文「西歐近代自我(個人主義)の末路」の一通過點として。

それから、「實在(リアリティー)を造り出す事によつて絶えず己を欺かうといふ慾求を持つてゐる」とは、「眞實の自己自身(自己完成C”)」を希求し自己表現(D2:自己欺瞞の別名)すると言ふ事を示してゐる。⇒以下枠文參照。

②「十九世紀小説が信じてゐた自己の實在とそれに對する誠實」「自分が自分に對して誠實であると思ひこむのも、これまた一種の自己欺瞞」とは、将に以下枠文の「個人主義」のジレンマをそれらは指してゐるのである。

〔恆存の言ふ、西歐近代自我(個人主義)の末路〕(參照「テキストP13:個人主義の構圖」)

                                            

近代=「神の死」即ち「神意(宿命)喪失」

神の代はりに自己の手による宿命演出:D1自己主張(表現)・自由意思(人間如何に生くべき):D2自己完成(自己主人公化・自己全體化・自惚鏡):C”自己陶酔・自己滿足・自己正當化・自己絶對視・自己證明による「似非實在感」:D3エゴイズム(近代自我の必然)自己喪失(自己への距離感喪失)。

③「自分を正當化するのに都合の良い自惚鏡を持つてゐるのだ」とは、上枠文のプロセス「自惚鏡:C”自己正當化・似非實在感:D3」と言ふ事である。

【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】

 

〔難解又は重要文〕:P453下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

原文讀要:「『エンマは私だ』といふフローベールの言葉には、言ふまでもなく、その苦い経験が含まれてゐる。しかし、なほそこには自己の實在(眞實の自己自身・自己完成C”)とそれに對する誠實といふ信仰(個人主義思想)があり、その信仰に藝術家の誇りが賭けられてゐた。(中略)『エンマといふ世俗的自己の崩壊を『私』といふ藝術家によつて救ひ上げようといふのだ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。此の邊を含め恆存の、各評論で「フローベール」について書いてゐる文章はかなり難解の領域に入る。「エンマは私だ」は、安つぽい私小説的な事を言つてゐるのではないのである。よつて上文を①②と分けて探究する事とする。

①「なほそこには自己の實在(眞實の自己自身・自己完成C”)とそれに對する誠實といふ信仰(個人主義思想)があり、その信仰に藝術家の誇りが賭けられてゐた」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。この箇所も誤解しさうな文章だ。なぜなら、フローベールは強靱な實證精神があるが故に、[實證主義⇒神追放⇒個人主義⇒個人主義の限界]に近代の宿命を見、個人主義に幻滅と絶望とを感じてゐたからだ。此の邊の難解さを解く鍵としては以下の文が參考になるのではなからうか。

*「フローベールは『マダム・ボヴァリー(エンマ)はわたしだ』といつたが、だからといつて、有閑マダムの私室の夢想が藝術家フローベールの夢(C)と同一だといふのではない。ここに重要な事實は、フローベールは自分の夢(夢想:C)をそんな形〔即ち「現實(A)の醜悪を素材として美を志向する創作方法」〕でしか提出しえなかつたといふことだ」(參照:P617『小説の運命Ⅱ』)。

*「フローベールは俗人(A:集團的自我)を蔑視して象牙の塔(B:個人的自我)に閉じこもらうと決意した。が、彼は個人の概念(B)をあくまで俗人(A:エンマ=世俗的自己)のうちに沈めようと覺悟してゐたのだ」(全一P60『現代日本文學の諸問題』)。

かれは自己の理想人間像(C:夢想)を語りはしなかつたのであるが、同時に、その理想人間像があつたればこそ實證精神をしてあれほどまでに自我(集團的自我「A」:代理としてのエンマ)を斬りさいなむことを許したのである」(全一P475『理想人間像について』)。

 

*以下は【拙發表文:『獨斷的な餘りに獨斷的な』より】

恆存は、フローベールの夢想はイエスの人格化「理想人間像」(C:絶對・全體)にあったのだと『小説の運命』等で確か言つてゐた。「ロマネスクな夢想(C)こそが、作品の裏がはからあのリアリスティックな無表情の記述の保證に立つてゐるにほかならない」(『小説の運命Ⅱ』:P611)と。

「フローベールのリアリズムとはまさにそれである。―― 一片の虚妄にすぎぬと承知してゐればこそ、かれは自己の理想人間像(C:夢想)を語りはしなかつたのであるが、同時に、その理想人間像があつたればこそ實證精神をしてあれほどまでに自我(集團的自我「A」:代理としてのボヴァリー夫人)を斬りさいなむことを許したのである」(全一P475『理想人間像について』)

「(フローベール)の夢想してゐた自我の内容の高さと深さとに想ひいたらねばならず、その背景に発見されるものは神(C)」なのである。と恆存は言ふ(參照:全一P637『現代人の救ひといふこと』)。

しかし、理想人間像(C:夢想)は作品には登場しない。ただそれら(BC探求)は「作品の裏がはからあのリアリスティックな無表情の記述の保證に立つてゐるにほかならない」と。「一片の虚妄にすぎぬと承知してゐればこそ、かれは自己の理想人間像(C:夢想)を語りはしなかつたのであるが、同時に、その理想人間像があつたればこそ實證精神をしてあれほどまでに自我(「集團的自我A」:代理としてのボヴァリー夫人)を斬りさいなむことを許したのである」(全一P475『理想人間像について』)と。何處にも神を語つてゐないあの小説スタイルこそが「神に型どれる人間の概念(理想人間像)の探究」なのだと、恆存は言つてゐるのである。

是は我々が大いに留意すべき點である。心理主義小説で「刻明に他我を、現實を描寫することに對するあの情熱」を持ち、彼が「さういふ近代自我(個人主義)に幻滅と絶望とを感じ」る事が出來たのは何故なのかと言ふ事。フローベールに「その絶望を可能ならしめたものとして」、「實證主義が自我の内から追放した」にも關はらず、彼の背景には消滅せぬ神があり、しかもその實證精神によつて、「神に型どれる人間の概念の探究」をせしむるだけの、「夢想してゐた自我の内容の高さと深さ」があつたからなのであると言ふ點が重要なのである。「高さと深さ」とを支へたのは、取りも直さず「消滅せぬ神」なのであつたと言ふ事。それが我々日本人にはなかなか理解が出來ない。當然明治日本の自然主義作家達には無理であつたと今囘評論(『獨斷的な餘りに獨斷的な』P526下)では言つてゐるのである。

繰り返しが多く恐縮だが、此處、この差が重要な點なのである。西歐近代自我(個人主義)が演じた自然主義も、明治日本の自然主義も究極はエゴイズムと自己陶酔に逢着してしまふのであるが、そのプロセスが以下①②の樣に歴然として違ふ(テキストP8圖と9圖の差異)。それを曖昧にしている「日本近代文學史の通説」に恆存は我慢がならないのである。

①〔恆存の言ふ、西歐近代自我(個人主義)の末路〕

近代=「神の死」即ち「神意(宿命)喪失」⇒神の代はりに自己の手による宿命演出⇒自己主張(表現)・自由意思(人間如何に生くべき)⇒自己完成(自己主人公化・自己全体化・自惚鏡)⇒自己陶酔・自己満足・自己絶対視・自己証明による「似非實在感」⇒エゴイズム(近代自我の必然)⇒自己喪失(自己への距離感喪失)。

 

 ②〔恆存の言ふ、明治日本の自然主義作家達の末路〕:更なる詳細は「P7枠文」にて後述。

「藝術家、知識人が他の職業に比して殆ど社會的に顧みられぬといふ不滿、劣等感」⇒「文學(B)すらも文明開化の出世主義のネガティーブな吐け口になつてゐた」⇒故に「文學が如何に《神聖》な仕事であるかを立證」せんとした⇒作家は聖職者(B)⇒自己に忠實(D2:自己表現)⇒C”:自己完成といふ名の自己絶對視(その自己が作る「新しき小説」)・自己正當化(それ「新しき小説」の後楯となる西歐自然主義小説)⇒自己確認(D3)即ちセルフ・アイデンティフィケイション(虚妄の實感)・似非實在感。自己陶酔・自己滿足・エゴイズム⇒自己喪失。(劣等感即ち後ろめたい利己心は、「本來的には日本の民族性の内に、第二の習性として封建道徳の名殘り」だと恆存は言ふ。それが福沢諭吉等下級武士にもあつたと)

  フローベールは「背景に神」があり、強靱な實證精神があるが故に、[實證主義⇒神追放⇒個人主義⇒個人主義の限界]に近代の宿命を見、それに幻滅と絶望とを感じる事が出來たのである。そして、その實證主義(實證精神)こそはクリスト教(絶對神)が形成したものなのであると言ふ點が重要。その概略は以下枠内のとほりである。

カトリシズムの教義である『肉(A)に従ふは罪。肉(現實)は神意の遂げ處』⇒近代が持つ「神への叛逆も、じつは(中世の)千年にわたるながいあいだの神への凝視と沒入とから習得し免許をあたへられた理想人間像にもとづいておこなはれたものである」⇒強靱な實證精神の確立⇒「神に型どれる人間の概念の探究」⇒實證精神(自然科學・社會科學)で自然・社會(A)を現實的に客體化⇒更に人間の精神(B)迄も實證精神で「A的」俎上にて客體化(自然主義)⇒個人主義⇒「畢竟エゴイズム⇒個人主義の限界(實證精神の果て)

【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】

 

②「エンマといふ世俗的自己の崩壊を『私』といふ藝術家によつて救ひ上げようといふのだ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「エンマといふ世俗的自己(A:集團的自我)の崩壊を『私』といふ藝術家(B:個人的自我⇒C:自分の夢「夢想」)によつて救ひ上げようといふのだ」と言ふ事を謂はんとしてゐるのだと思う。⇒參照「テキスト補:P2(フローベールの場合)」yomukaiho.pdf へのリンク。尚、それについては以下の文が參考になると思ふ。

 

*その時代(西歐19世紀:個人主義時代)において、「獲得できた自由(A:集團的自我上の)のいかにつまらなく、それがあまりにつまらぬために自由でもなんでもない」全一P60『現代日本文學の諸問題』)事を、フローベールは『マダム・ボヴァリー』に描いたのだと恆存は言ふ。

西歐近代の構圖(テキストP8圖=個人主義)を、フローベールは極限化(B領域の極小化)して描き、その「可能性の天窓(B:個人の純粋性)は一分のすきもなく完全にとざされ、現實世界で獲得できた自由(A領域の拡大的世界・個人主義)のいかにつまらなく、それがあまりにつまらぬために自由でもなんでもないといふことを、(『マダム ボヴァリー』で)克明に描写し證明し」て見せたと恆存は言ふのである(參照:全一P60『現代日本文學の諸問題』)

その邊を、更に原文を含め補足すると以下の樣になる。

〔拙發表文「『一匹と九十九匹と』から」及び他からの抜粋。「」内が恆存文〕

 

實證主義、そして「社會の合理化に追ひ詰められて詰め腹を切らされた」個人の純粋性(B:個人的自我)の、その「可能性の領域は壓迫され、狭窄になり、つひに絶無になつたとき、ひとびとはその代償として獲得できた現實世界(A)における自由を、自分の掌のうへにみつめて、これはひどくつまらないものだと氣づいたのである。こんな程度のもののために、可能性の夢を犧牲にしてきたとはばかばかしい。だまされた、と狂氣のやうにわめきだした。ニーチェ(1844~1900)は氣が狂つた。フローベールはもつと冷静に復讐の手段を考へだした。――個人(B:以下注參照)の敗北を身をもつて敗北してみせること、可能性の天窓(B:個人の純粋性)は一分のすきもなく完全にとざされ、現實世界で獲得できた自由(A領域の拡大的世界・個人主義)のいかにつまらなく、それがあまりにつまらぬために自由でもなんでもない(即ち、『エンマといふ世俗的自己の崩壊』)といふことを、克明に描写し證明してやること」であつたと恆存は言ふのである。(參照:『近代の宿命』全二P458。『現代日本文學の諸問題』全一P59)。

 

「フローベールは俗人(A:集團的自我)を蔑視して象牙の塔(B:個人的自我)に閉じこもらうと決意した。が、彼は個人の概念(B)をあくまで俗人(A:エンマ=世俗的自己のうちに沈めようと覺悟してゐたのだ」(全一P60『現代日本文學の諸問題』)。

【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】

 

〔難解又は重要文〕:P454上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

原文讀要:以下文「私は最近~~(中略)。その(私小説の)藝術家概念とは、自分の自惚鏡に映つた自分の姿が世間の鏡に照し出されて崩壊しはしたものの、なほ餘計者として自己主張の手掛かりを發見した西洋文學の保證によつて成立つたものに過ぎない。當事の日本の小説家達は西洋文學といふ自惚鏡を手に入れ、それを頼りに自己崩壊の危機を素通りして濟ませたものと言へよう」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。此の文は将に「日本的精神主義構圖:テキスト補2頁」の典型を物語つてゐるのである。それについては上記文に括弧注を入れると、以下の樣になる。かつ「テキスト補:2頁圖」で説明を補足する。

圖示:「A「自己の社會化」缺如⇒(擦り變へ:ルサンチマン現象)⇒B⇒C”⇔護符C2(上位概念:西洋文學)⇒自己正當化(自己絶對視)⇒自己滿足⇒自己喪失」。(參照:「自己絶對視は必ず自己喪失に終る」全六P698『覺書』)

 

自分の自惚鏡(C”)に映つた自分の姿が世間の鏡に照し出されて崩壊(とは、集團的自我上における「自己の社會化」缺如:A⇔A”分離)しはしたものの、なほ餘計者として自己主張(A⇒B個人的自我への滑り込み)の手掛かりを發見した西洋文學の保證(C2:護符・後楯)によつて成立つたものに過ぎない。當事の日本の小説家達は西洋文學といふ自惚鏡(自分の自惚鏡C”の護符C2)を手に入れ、それを頼りに自己崩壊の危機を素通り(自己滿足:以下參照)して濟ませたものと言へよう」。⇒「テキスト補:2頁圖」

 

恆存の言ふ、明治日本の自然主義作家達の末路〕:更なる詳細は「拙發表文『獨斷的な餘りに獨斷的な』P7枠文」。

「藝術家、知識人が他の職業に比して殆ど社會的に顧みられぬといふ不滿、劣等感」⇒「文學(B)すらも文明開化の出世主義のネガティーブな吐け口になつてゐた」⇒故に「文學が如何に《神聖》な仕事であるかを立證」せんとした⇒作家は聖職者(B)⇒自己に忠實(D2:自己表現)⇒C”:自己完成といふ名の自己絶對視(その自己が作る「新しき小説」)・自己正當化(「新しき小説」の後楯C2となる西歐自然主義小説)⇒自己確認(D3)即ちセルフ・アイデンティフィケイション(虚妄の實感)・似非實在感。自己陶酔・自己滿足・エゴイズム⇒自己喪失。(ついでに書くと、劣等感即ち後ろめたい利己心は、「本來的には日本の民族性の内に、第二の習性として封建道徳の名殘り」だと恆存は言ふ。それが福沢諭吉等下級武士にもあつたと)

【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】

 

〔難解又は重要文〕:P455下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

原文讀要:以下文~~次頁九行目迄:「關係の無いところでは、個も全く捉へ處も手掛りも無いものとなる。個よりも關係の方が先に存在し、一つ一つの個は既成の關係の中に生まれ來るのだからである。(中略)もともと存在し得ぬ、實體の無い自己(「無限定性の自己」と同意か?)に對して誠實になるとは、何の意味も成さぬはずだ。人生が芝居以上に芝居であるならば、吾々は自己に對してではなく、その芝居に對して誠實でなければならぬ」。・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「吾々は自己に對してではなく、その芝居に對して誠實でなければならぬ」とは、恆存は「誠實とは對他的概念」だと言ふのである。この邊の文は、恆存の持論「完成せる統一體としての人格」論(「テキスト」P10圖)と密接に關聯してくる。それについては以下の文が參考になるのでは(何囘も引用し些か氣が引けるが・・・)。

尚、「大岡昇平」の雑文(機関誌『雲』3)に、「ビランテルロはわが福田理事長にとつて、演劇開眼だつたらしい」の文が見つかつた。重要と思ふので附記しておく。

拙發表文:《遠藤浩一氏著「福田恆存と三島由紀夫『戰後』」を讀む》より

 

全六P703『覺書』より

「一般の日本人は、自分の子供が戰場に駆り立てられ、殺されるのが嫌だからと言つて、戰爭に反對し、軍隊に反撥し、徴兵制度を否定する。が、これは『母親』の感情である。その点は『父親』でも同じであらう、が、『父親』は論理の筋道を立てる。國家(場面)といふフィクションを成り立たせるためは、子供が戰場に駆り立てられるのも止むを得ないと考へ、そのための制度もまたフィクションとして認める。が、彼にも感情がある。自分の子供だけは徴兵されないように小細工するかも知れぬ。私はそれもまた可と考へる。『父親』の人格の中には國民としての假面(役・自己劇化)と親としての假面と二つがあり、一人でその二役を演じ分けてゐるだけの事である。そして、その假面の使ひ分けを一つの完成した統一體として為し得るものが人格なのである。『私たちはしつかりしてゐない』という自覺が、『私たち』をしつかりさせてくれる別次元のフィクションとしての國家や防衛を要請するのである、要するに人格も法も國家も、すべてはフィクションなのであり、迫持(せりもち)、控へ壁などの備へによつて、その崩壊を防ぎ、努めてその維持を工夫しなければならぬものなのである」(P703全六『覺書』)(「テキスト十圖」:參照)
 「問題は、すべてはフィクションであり、それを協力して造上げるのに一役買つてゐる國民の一人、公務員の一人、家族の一人といふ何役かを操る自分の中の集團的自己をひとつの堅固なフィクションとしての統一體たらしめる原動力は何かといふ事である。それは純粋な個人的自己であり、それがもし過去の歴史と大自然の生命力(時間的全體・空間的全體:小生注)に繫つてゐなければ、人格は崩壊する。現代の人間に最も欠けているものはその明確な意識ではないか」(全集六P703~4『覺書』)と。
 二役のみならず何役(國民の一人、公務員の一人、家族の一人)を操る「自己劇化」が出来得る人格として、「完成せる統一體としての人格」論がそこに登場するのである。
 何役かを操る「自己劇化」を別な表現では、各場面場面で關係的眞實を生かしていくのだ、との内容で言つてゐる。その究極が「完成せる統一體としての人格」なのだと。以下恆存の文を索引しながらその内容を記載する。括弧内は小生注である。(「テキスト10圖及び11圖」:參照)
 何役かを操る各場面でそこから発生する、關係の「眞實を生かすために一つのお面をかぶる(役を演ずる・自己劇化)」「演戯なしには人生は成り立たない。つまり假説なしには成り立たない」。「眞實といふのは、ひとつの關係の中にある。個々の實體よりはその關係の方が先に存在している。人生といふものは、關係(目上⇔目下・親⇔子・師⇔弟子・國⇔國民、等々)が眞實なんで、一生涯自分のおかれた關係の中でもつて動いてゐる。いろいろな關係を處理していき、それらの集積された關係がその人の生涯といふもの。それを私は演戯だといふ」「われわれがこしらへたものは、相對的であつて絶對ではないといふ原理をちやんと心得て、こいつを絶對化(假説の完璧化・築城の完璧化)しようといふ努力」。(單行本『生き甲斐といふ事』中、對談「反近代につひて」P195・199)。

即ち要約すれば、各場面場面(國・企業・夫婦・親子・家庭・兄弟・師弟・友達・他者・等)から生ずる、關係と言ふ眞實(目上⇔目下・親⇔子・師⇔弟子・國⇔國民、等々)。その「眞實を生かすために一つのお面をかぶる(「誠實・至誠・愛・慈悲」等と言ふ名の宿命的役を演ずる:自己劇化)」。さうした行動の中に、しかもそれが典型として「テキスト十圖」の如く「假説の完璧化」が果たせられた場合に、「完成せる統一體としての人格」が現成するのである、と恆存は言ふ。

そしてその行爲(宿命/自己劇化)の内に、「真の自由=實在感・全體感(必然感)=幸福感」が齎される。さうした演戯のプロセスの内に、演劇(時間藝術)と同じく、今なすべきことをしてゐる、又は「なさねばならぬことをしてゐる」と言ふ必然感、時間的全體感(實在感)が味はへるのである。そして自己劇化のとるべき最終目的的「迂路」が「全體・絶對」といふ事になる。
 真の自己劇化(演戯)とは、「何とかして絶對なものを見いださう」とする行爲である、とも恆存は言つてゐる。即ち、その熱情で關係の眞實を生かしながら、人格を「テキスト十圖」の如く「完成せる統一體」として築城していく行爲と言へるのではなからうか。その事を恆存の別評論にある文章を借りて言へば、「ハムレットは、これが宿命であると納得のいく行爲の連續によつて、自己の生涯を滿たしたいと慾して」ゐた、といふことになる。
 此處まで書いてきた時、さう言へば恆存の生き方にも将にこれが貫道してゐるのでは、とはたと小生は思ひ到つた。と同時に恆存の以下なる文章が浮かんできたのである。
 「いはばコップから水を飲むことすら完成せる統一體の一構成分子たらしめることだ。文學者とは(中略)たんなる現實の素材に意味的聯關を與へるやう強烈な意識をもつて、その生活を主題的に統一して生きぬかうとする人間のことにほかならない」(全二P297『急進的文學論の位置づけ』)。

 この項の内容については、恆存は當全集六「覺書」P700の頁末で重要な補足文を殘してゐる。更にそれも讀んで欲しい。⇒原文讀要

【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】

 

〔難解又は重要文〕:P456上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

原文讀要:「芝居こそフィクティシャス(*)な人生を生きる格好な藝術」云々・・・別紙恆存文『假面と素面の哲學』參照。

語意フィクティシャス(fictitious:フイクションの形容詞。[] 1 偽りの, うその, 本物でない.2 作り話の, 架空の, 小説的な, 想像で作られた。  

 

〔難解又は重要文〕:P457上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

原文讀要:「フィクションは藝術の特權ではない。人生や現實も、自然や歴史も、すべてがフィクションである。人生觀なしには人生は存在し得ない。どんな人間でもその人なりの人生觀を持つてをり、それを杖にして人生を生きてゐる」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「自然や歴史も」とは「自然(空間的全體:C)や歴史(時間的全體:C)も」と言ふ事では。そして「人生觀なしには人生は存在し得ない」とは、「人生觀(C”:羅針盤・鏡・自惚鏡も然り)なしには人生(關係⇒AB)は存在し得ない」と言ふ事では。「杖にして人生を生きてゐる」とは、「杖(C”:羅針盤・鏡・自惚鏡)にして人生(AB)を生きて(D2:自己劇化)ゐる」と言ふ事では。それについては以下の文(特に傍線部分)が參考になるのでは。

全五P81下:『批評家の手帖』よ

*「自己表現(D2自己美化・ボヴァリズム)、あるいは自己解釋(D3)といふのは、自分がさういふものであるといふことを意味しない。ただ自分はさうありたいといふだけのことだ。墮落すればしたで、不幸になればなつたで、それぞれの型を眞似ようとして、歴史の中に周囲に、物語や劇や小説に、それを探し求めるであらうし、自分が下した自己解釋を模倣しそれに辻褄を合せようとする」。

 

チェーホフ戯曲の登場人物は、其處に「あちこちから斷片を掻き集めて」、「せりふで、言葉で、自分の生き甲斐(似非の生き甲斐、或は似非實在感:D3を確かめてゐる」(同頁上)のであると恆存は言ふ。

 上文は、チェーホフ論の中に出てくる文章だが、チェーホフの短編『決鬪』の中に、多分恆存が喚起されたのではなからうかと推察される、それと似た文章が探し出される。

「僕たち不運な餘計者(現實との適應異常者=ロシア・インテリゲンティア・自分との折合ひを缺いた人間)は、(中略)つまり自分のしたことをいちいち一般化(護符・後楯C2化)して見ずにはゐられない。自分の愚劣な生活に對する説明や弁護を、なにかの理論(護符)なり文學上の人物の型なりの中に(型=「行動をそれ自體として純粋に味はひうる」錯覺として)求めずにはゐられない」。・・・個人主義者も「護符」を必要とすると言ふことか。

 

C2:護符&型(「行動をそれ自體として純粋に味はひうる」錯覺自己主人公化(C”)

自己解釋・獨り合點(D3)。即ち、「個人主義者は自己主人公化を形成するに、護符(C2)として、「型」の質性(「行動をそれ自體として純粋に味はひうる」)を借りて、自己解釋・獨り合點に到達する、と言ふ事か。

【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】                                            をはり



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