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個人主義(近代自我)は、ほんのいつとき自分の出場で、大見得を切る、「動きまはる
影、あはれな役者・・・・」
「私たちは、平生、自分を全体と調和せしめようとして、それができずに疲れはててゐ
る。いひかへれば、生理的には必然かもしれぬが、倫理的には偶然な事故にしかすぎ
ぬ死以外に、何の完結も終止符もない人生に倦み疲れてゐるのだ。私たちの本能は、
すべてが終ることを欲してゐる。・・・・」(全体感の希求:当HP「人間・この劇的なるもの」
参照)
・・・・かかる時、人はマクベスならずとも、「ただ野心(注:自己全体化)ばかりが飛び跳
ねたがる」のでは。
「あすが来、あすが去り、さうして一日一日とこきざみに、時の階を滑り落ちて行く、この
世の終りに辿り着くまで。いつも、きのうといふ日が、愚か者の塵にまみれて死ぬ道筋を
照らしてきたのだ。消えろ、消えろ、つかの間の灯火!人の生涯は動きまはる影にすぎ
ぬ。あはれな役者だ、ほんの自分の出場のときだけ、舞台の上で、みえを切つたり、喚
いたり、そしてとどのつまりは消へてなくなる。白痴のおしゃべり同然、がやがやわやわ
や、すさまじいばかり、何のとりとめもありはしない」(「マクベス」より)
・・・・ハムレットの如く「デンマーク王子」の宿命もなく、かつマクベスの陥穽に入らぬとし
たら如何に。
「要するに人格も法も国家も、すべてはフィクションなのであり、迫持(せりもち)、控へ壁
などの備へによつて、その崩壊を防ぎ、努めてその維持を工夫しなければならぬものな
のである」
「問題は、すべてはフィクションであり、それを協力して造上げるのに一役買つてゐる国
民の一人、公務員の一人、家族の一人といふ何役かを操る自分の中の集団的自己をひ
とつの堅固なフィクションとしての統一体たらしめる原動力は何かといふ事である。それ
は純粋な個人的自己であり、それがもし過去の歴史と大自然の生命力(時間的・空間的
全体:吉野注)に繋つてゐなければ、人格は崩壊する。現代の人間に最も欠けているも
のはその明確な意識ではないか」(P704全6「覚書」):(別図1:参照」)
「(関係の)真実を生かすために一つのお面をかぶる(役を演ずる・自己劇化:吉野注)」
「演戯なしには人生は成り立たない。つまり仮説なしには成り立たない」「真実といふの
は、ひとつの関係の中にある。個々の実体よりはその関係の方が先に存在している。人
生といふものは、関係が真実なんで、一生涯自分のおかれた関係の中でもつて動いて
ゐる。いろいろな関係を処理していき、それらの集積された関係がその人の生涯といふ
もの。それを私は演戯だといふ」「われわれがこしらへたものは、相対的であつて絶対で
はないといふ原理をちやんと心得て、こいつを絶対化(仮説の完璧化・築城の完璧化:
吉野注)しようといふ努力」。(「生き甲斐といふ事」対談「反近代につひて」)
福田恆存は、「近代の衰退」様相からの、又西欧「個人主義の限界」からの脱出口とし
て、自己劇化(宿命・関係演戯)を上述のやうに説くのである。ある意味では、適応正常
化としての「日本型近代自我(個人主義)」の思ひも込めてゐるのではと、小生は思ふの
であるが。(当HP「演劇論」:主文「演劇論と人生論の一致」参照)

個人主義(近代自我)の限界:目次

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