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平成二十年四月二十七日

『福田恆存を讀む會』

四月選擇評論:全集第三巻所收『戰爭と平和と』

(「文藝春秋」昭和三十年六月號:四十四歳)

 

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久しぶりに當評論『戰爭と平和と』を讀んだが、そこで氣附いた事は、「現象」は古くなるが「本質」はいつも新しい、と言ふ事である。當今の現象に對して幾らでも應用が利く。

そして尚更の事ではあるが、「引用文」を含め恆存評論の文面には胸の透く思ひがする。

 

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〔以下は、吉野櫻雲發表文〕

 

と言ふ事で、今評論も中々の難解にしてかつ手ごはく、そしてどの文章も重要なのであるが、特に以下内容文を此處に取り上げる事とする。更にいつもの如く難解なる内容については、手助けを他評論に仰ぐこととする。(以下文中傍線及び括弧内は概ね吉野附記。「P9圖」云々は「讀む會テキスト」頁を表す。「ABD2」等も同テキスト三頁を參照の程)

 

〔難解又は重要文〕:P58上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「普通の意味において、現在(昭和三十年頃)の日本は民主主義國とはいへないのです。(中略)一國の政黨である以上、(政權)交替しても對外的に同一國としての一貫したものをもたねばならぬはずです」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。この文はそれから約五十年も過ぎた平成の今日、政權奪取の好機と「ねじれ」戰法に明け暮れる野黨「民主黨」の体質にもそれは適用できる。去年の「海上自衛隊、インド洋からの撤退」に、将にこの文面が當て嵌るのである。

即ち、國の安危に關する「ハイポリティック(外交・安全保障・拉致問題・憲法改正等)」なる問題に、民主黨は超党派的に對處出來なかつた事をそれは物語つてゐる。既に半世紀を過ぎても、「對外的に同一國としての一貫したものを」掲げられる迄に、日本の野黨は未だに成長してゐない事を此處に露出してゐる。更に言ふなら、民主黨は西歐近代の精華「民主主義」政治に、未だに適應異常してゐる事をそれは示してゐるのである。他の歐米民主主義國家の、政權を爭ふ野黨ならそんな無樣な對應はしないと、とうの昔に上記の如く恆存は言つてゐるのである。

現象を論ずると、先(平成十九年)の「參議院選擧」では、我が國民はその政治的低位性(ロウポリティックにしか目がいかない)を、見事に政治巧者小沢一郎(民主黨黨首)に衝かれ、政黨CF「生活第一」に飜弄される結果となつた。松原正が指摘する處の「金以外はドウデモヨイ」我が國民性の馬脚が其處に顯れたのである。小沢の尻馬に乗つて、メディア特に「朝日新聞」のミスリードが、我が國民を更に蒙昧にさせたのは言ふまでもない(以上はあくまでも小生の見解である。當然、見解を異にする方は居られるであらう)。

(參照「金以外はドウデモヨイ」: http://hodaka3190.iza.ne.jp/blog/entry/309249/)。

 

〔難解又は重要文〕:P60下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「ところで、私のは未來設計ではない」・・・とは、「保守主義者」の思想とはさう言ふもの(保守⇒傳統・文化)と言ふ事なのであらう。

 

〔難解又は重要文〕:P61上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「戰爭が起る以上、私はアメリカと協力してゐたはうが日本にとつて得だと考へるのです。これも未來から計算されたことではありません。過去のアメリカとの關係から考へて、それが自然だと思ふまでのことです。私は反動ではないが保守主義者です。政治的にもさうですが、その根柢において、文化的保守主義者です。といふより、文化と言ふ立場に立つとき、人はどうしても保守主義者にならざるをえません。日本の近代文化は歐米と通じてゐるのです。もちろん、かつての中國文化とは、より深い關係があつた。しかし、中國も日本も、過去と斷絶してしまつてゐます。そして過去と斷絶した日本は歐米とつながり、その歐米はそれ自身の傳統のうへに生きのびてきてゐます」。(中略)文化の持續と政治的漸進との二つの點から考へて、アメリカ、および自由主義國家群との協力が最善の道だと思ひます」。

①.「文化と言ふ立場に立つとき、人はどうしても保守主義者にならざるをえません」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。⇒參照「テキスト補:P3右圖」(保守を加筆要)

②.「日本の近代文化は歐米と通じてゐるのです」「過去と斷絶した日本は歐米とつながり、その歐米はそれ自身の傳統のうへに生きのびてきてゐます」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。上記の理解に當たつては、長くなるが以下の文(特に傍線部分)が參考になるのでは。

平成十六年「讀む會」:拙發表文『日米兩國民に訴へる』より。(括弧内は吉野附記)

尚、以下「 」文は恆存評論『アメリカを孤立させるな』(昭和四十年著:全六P139~140)より。

 

ヴィエトナム戰爭は「ヴィエトナムをテストケースとして二つの筋が爭つてゐるのです。(中略)さう名附けたければイデオロギー戦と言つても宜しいが、これは左翼用語であつて、傳統的な用語法に從へばアイデアリズム(理想主義=「神に型どれる人間の概念の探究」とも言へる)の戰と言ふべきでせうが、いや、もつと正確に言へば、共産主義のイデオロギーに対して歐米の傳統であるアイデアリズムが挑戰してゐる、それがヴィエトナム戰爭の現實だと言ふ事です。(中略)それと關聯して第二に、アジアは一つではないがヨーロッパとアメリカは一つだと言ふ事です。  それらの國々は過去に同一の文化共同體に屬し、一つの歴史を共有してゐると言ふことです。共産圏のインタナショナリズムが一つのイデオロギーを以て人爲的に世界を統一しようとしてゐるのに反して、アメリカのニューインタナショナリズムは、たとへ前者に對抗して出來たものにもせよ、本質的にはヨーロッパ共同體から自然發生的に生じ、一筋の歴史の先端に芽を出して來たものであります。

アメリカ人はそれに自分達の過去の歴史を賭けてゐると同時に、その延長線上に広義の近代化と言ふ實驗を賭けてゐるのです。もし世界連邦と言ふものが考へられるなら、この線に沿つてしか求められますまい。(中略)私は私の、といふより過去百年西洋文化を摂取して来た私達の文化感覺によつてそれを採るといふだけの事です」

恆存は既に約45年も前に、現在に通ずる「パックスアメリカーナ(平天下)」の意義を、広義的な世界連邦と言ふ意を用ゐてその必要性を認めてゐるのである。當然米國の行為をただの自己犧牲だけとは見てなく、その事を「一體どこの國が國家利益を犧牲にしてまで犠牲他國に奉仕するでせうか」と指摘し、アメリカの行爲を西歐の傳統的二元論「他者愛と自己愛(國益)」の延長として見事に論じてゐる。

そして日本の採るべき道を、「過去百年西洋文化を摂取して来た私達(日本)の文化感覺によつてそれを採る」事の良しとして、それ(米國との連帶)を薦めてゐるのである。續けてこのやうにも言つてゐる。是非以下文章の「英佛」に「獨佛」と置き換へ、今囘「イラク戰爭」での獨・佛の採つた選擇肢を考へてみるといい。反米の行爲のやうで本質は違ふのが解かる。

「英佛はアメリカの先進國であつた面子や、そのインタナショナリズムと自己のナショナル・エゴイズムとの相克の爲。今後もそれぞれの立場から色々な形で離反集合を續けるでせうが、この自由世界の分極化も單に現象的なものに過ぎず、結局はアメリカのインタナショナリズムの掌から出られぬものと思ひます」。

恆存は将に見事に、歐米文化圏の傳統的本質を見抜いてゐる。四十年を境にした異なる戰爭は、ただの現象的相異にしか過ぎず、故に四十數年も前の恆存評論の本質論は時代を超越して未だに新しく、現在の混迷日本をリードするものがある。

 

先日(平成十六年六月)終わつた「シーアイランド・サミット(G8首腦會合)」の、『拡大中東構想』政治宣言の内には、かう謳はれてゐる文章がある。

*「提案する價値は、人間の尊嚴、自由、民主主義など、普遍的なもの」(産經新聞:平成十六年六月十一日記載)。

この「政治宣言」に、恆存の上記考察が正鵠を射てゐるのを讀み取る事が出來る。即ち、彼等「G8首腦」を含め、特に米英獨佛が此處で選擇せんとする價値に、「歐米の傳統であるアイデアリズム」の普遍的追及と言ふ姿勢が其處に讀み取れるのである。

彼らが提案する普遍的價値としての「人間の尊厳、自由、民主主義」とは、取りも直さずキリスト教精神の客體化であり、それは恆存が言ふ處の西歐近代精神、「神に型どれる人間の概念の探究」なのである。彼等は暗黙裡に自分達の價値觀(西歐精神が創出した近代化)を承認し合つてをり、その普遍的國際性を毫も疑つてはゐない。何故ならば「歐米は一つの歴史(キリスト教精神)を共有してゐる」からである。「近代化」は歴史の必然との合意が其處にはあり、緩急の差があつても中東にもそれは適應されて然るべきとの彼等共通の信念が讀み取れる。

にも拘らず彼等は「インタナショナリズムと自己のナショナル・エゴイズムとの相克の爲。今後もそれぞれの立場から色々な形で離反集合を續けるでせうが、この自由世界の分極化も單に現象的なものに過ぎず、結局はアメリカのインタナショナリズムの掌から出られぬものと思ひます」と恆存は見抜いてゐるのである。

それは何故か。「アメリカ人はそれ(ニューインタナショナリズム或はパックスアメリカーナ)に自分達の過去の歴史を賭けてゐると同時に、その延長線上に広義の近代化と言ふ実験を賭けてゐる」からである。その事を獨佛も「同一の文化共同體」として知つてゐるからではないか。

【上記項目についての質疑應答】

 

③.「文化の持續と政治的漸進との二つの點から考へて、アメリカ、および自由主義國家群との協力が最善の道だと思ひます」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。上記の理解に當たつては以下の文が參考になるのでは。

「個人と社會」の問題・・・自由主義諸國においては「宗權は國權を超える」と言ふ事。(全三P79『個人と社會』から)

「アメリカを筆頭とする自由主義諸國は、たとへ現状では國際間にまで倫理が通用しなくても、本質的には個人倫理の延長に社會や政治を考へてゐる國です。。兩者は永遠に一致しないかも知れない。しかし、いや、それゆゑに、個人倫理の次元を、根源的には宗權を國權の上位に置く、すくなくとも同位に置く、人間觀にもとづいてをります。(中略)まちがひは犯しませうが、本質的な生き方については、昔からなんの變更もありません。が、ソ聯は國家目的、社會目的、階級目的を個人倫理の上に置きます。後者は前者によつて規定されます。私は躊躇なく、自由主義諸國に共感をおぼえる。(中略)いひかへれば、相對の世界に對立する絶對の世界、そして兩者の竝存を認める生き方、それが人間の生きかただとおもふのです。(中略)さういう意味で、私は個人が國家に反抗できる制度ではなく、さういふ哲學がもつとも必要であるとおもひます」・・・とはかういふことでは。西歐では、宗權の客體化としての近代國家設立が始まつた。⇒「神に型どれる人間の概念の探究」としての、自由主義國家・民主主義國家が始まつた。と言へるのでは。

【上記項目についての質疑應答】

 

〔難解又は重要文〕:P63上下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「個人の生命より大事なものはなにかと問はれると困る。かういふ論文でかんたんに答へられることではありません。それはべつの仕事で答へませう。(中略)昔は個人の生命よりも祖國が大切だといふやうなことをいつた。祖國の爲には死ぬことを辭さなかつたのです。(中略)個人の生命よりも全體の生命を大事にするのが當然でせう。(中略)個人の生命より大事なものはないといふのは変態だ」~~章末まで。・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。上記の理解に當たつては以下の文が參考になるのでは。特に中盤傍線部分にその「べつの仕事で答へませう」が窺へる。以下文は恆存の根幹である爲、「讀む會」では何囘も取り上げてゐる内容だが、新會員の方が今囘ご出席されてゐるので此處に再度記載する。

拙發表文:《遠藤浩一氏著「福田恆存と三島由紀夫『戰後』」を讀む》より抜粋(「テキスト十圖」:參照)

すでに危殆に瀕してゐる西歐近代自我(個人主義)に對して、「前近代」の精神性に留まつてゐる我々日本人はどうしたらいいか。それについて恆存はかく言ふ。
 「西歐を先進國として、それに追いつかうといふ立場から、『アジアの前近代的な非人格性を否定し、西歐の近代精神たる個人主義を身につけろといふのではない。それこそ、私のいふ距離感の喪失にほかなりません。私はあくまで西歐の生きかたと私たちとの間の距離を認識しろといつてゐるのです。眼前にある西歐を、(中略)まず異質なものとしてとらへ、位置づけすること、さうすることによつて『日本および日本人』の獨立が可能になるでせう。それを日本人の個人主義の成立とみなす」(『日本および日本人』)と。
 そして「日本人の個人主義」の型を以下の如き例への中で展開し、「完成せる統一體としての人格」論として提言するのである。
 「一般の日本人は、自分の子供が戰場に駆り立てられ、殺されるのが嫌だからと言つて、戰爭に反對し、軍隊に反撥し、徴兵制度を否定する。が、これは『母親』の感情である。その点は『父親』でも同じであらう、が、『父親』は論理の筋道を立てる。國家(場面)といふフィクションを成り立たせるためは、子供が戰場に駆り立てられるのも止むを得ないと考へ、そのための制度もまたフィクションとして認める。が、彼にも感情がある。自分の子供だけは徴兵されないように小細工するかも知れぬ。私はそれもまた可と考へる。『父親』の人格の中には國民としての假面(役・自己劇化)と親としての假面と二つがあり、一人でその二役を演じ分けてゐるだけの事である。そして、その假面の使ひ分けを一つの完成した統一體として為し得るものが人格なのである。『私たちはしつかりしてゐない』という自覺が、『私たち』をしつかりさせてくれる別次元のフィクションとしての國家や防衛を要請するのである、要するに人格も法も國家も、すべてはフィクションなのであり、迫持(せりもち)、控へ壁などの備へによつて、その崩壊を防ぎ、努めてその維持を工夫しなければならぬものなのである」(P703全6『覺書』)(「テキスト十圖」:參照)
 「問題は、すべてはフィクションであり、それを協力して造上げるのに一役買つてゐる國民の一人、公務員の一人、家族の一人といふ何役かを操る自分の中の集團的自己をひとつの堅固なフィクションとしての統一體たらしめる原動力は何かといふ事である。それは純粋な個人的自己であり、それがもし過去の歴史と大自然の生命力(時間的全體・空間的全體:C)に繫つてゐなければ、人格は崩壊する。現代の人間に最も欠けているものはその明確な意識ではないか」(全集六P703~4『覺書』)と。(ついでに言ふならば、恆存のアイロニカルな表現「自己は何處かに隠さねばならぬ」の、「隠さねばならぬ」とは「預けねばならぬ」の謂ひであり、その預ける場所が上記の「時間的全體・空間的全體」を含めた「全體・絶對:C」の事を指してゐるのである)。
 そして、二役のみならず何役(國民の一人、公務員の一人、家族の一人)を操る「自己劇化」が出来得る人格として、「完成せる統一體としての人格」論がそこに登場するのである。
 何役かを操る「自己劇化」を別な表現では、各場面場面で關係的眞實を生かしていくのだ、との内容で言つてゐる。その究極が「完成せる統一體としての人格」なのだと。以下恆存の文を索引しながらその内容を記載する。(「テキスト十圖及び十一圖」:參照)
 何役かを操る各場面でそこから発生する、關係の「眞實を生かすために一つのお面をかぶる(役を演ずる・自己劇化)」「演戯なしには人生は成り立たない。つまり假説なしには成り立たない」。「眞實といふのは、ひとつの關係の中にある。個々の實體よりはその關係の方が先に存在している。人生といふものは、關係(目上⇔目下・親⇔子・師⇔弟子・國⇔國民、等々)が眞實なんで、一生涯自分のおかれた關係の中でもつて動いてゐる。いろいろな關係を處理していき、それらの集積された關係がその人の生涯といふもの。それを私は演戯だといふ」「われわれがこしらへたものは、相對的であつて絶對ではないといふ原理をちやんと心得て、こいつを絶對化(假説の完璧化・築城の完璧化)しようといふ努力」。(單行本『生き甲斐といふ事』中、對談「反近代につひて」P195・199)

即ち要約すれば、各場面場面(國・企業・夫婦・親子・家庭・兄弟・師弟・友達・他者・等)から生ずる、關係と言ふ眞實(目上⇔目下・親⇔子・師⇔弟子・國⇔國民、等々)。その「眞實を生かすために一つのお面をかぶる(「誠實・至誠・愛・慈悲」等と言ふ名の宿命的役を演ずる:自己劇化)」。さうした行動の中に、しかもそれが典型として「テキスト十圖」の如く「假説の完璧化」が果たせられた場合に、其處に「完成せる統一體としての人格」が現成するのである、と恆存は言ふ。

そしてその行爲(宿命/自己劇化)の内に、「真の自由=實在感・全體感(必然感)=幸福感」が齎される。さうした演戯のプロセスの内に、演劇(時間藝術)と同じく、今なすべきことをしてゐる、又は「なさねばならぬことをしてゐる」と言ふ必然感、時間的全體感(實在感)が味はへるのである。そして自己劇化のとるべき最終目的的「迂路」が「全體・絶對」といふ事になる。(「テキスト十圖」:參照)
 眞の自己劇化(演戯)とは、「何とかして絶對なものを見いださう」とする行爲である、とも恆存は言つてゐる。即ち、その熱情で「關係と言ふ眞實」を生かしながら、人格を「テキスト十圖」の如く「完成せる統一體」として築城していく行爲と言へるのではなからうか。その事を恆存の別評論にある文章を借りて言へば、「ハムレットは、これが宿命であると納得のいく行爲の連續によつて、自己の生涯を滿たしたいと慾して」ゐた、といふことになる。
 此處まで書いてきた時、さう言へば恆存の生き方にも将にこれが貫道してゐるのでは、とはたと小生は思ひ到つた。と同時に恆存の以下なる文章が浮かんできたのである。
 「いはばコップから水を飲むことすら完成せる統一體の一構成分子たらしめることだ。文學者とは(中略)たんなる現實の素材に意味的聯關を與へるやう強烈な意識をもつて、その生活を主題的に統一して生きぬかうとする人間のことにほかならない」(全二P297『急進的文學論の位置づけ』)。

【上記項目についての質疑應答】

 

をはり

 

追記

 

〔難解又は重要文〕:P63下~最後「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「戰爭の『魅力』」の「國内のごたごたにたえられなくて、その結果、外に向ふといふこともありえませう。(中略)一口にいへば平時のごたごたは、私たちに精神の自主性を要求する。それに反して戰爭になると、それをいつさい抛擲してしまふことができる。つまり、もつとも激しい我の主張の戰場では、我を棄てさせることができるといふことです。自我のあいまいな日本の民衆は、とかくさういふふうに傾きやすい」云々・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。即ちかう言ふことでは。

 「自我のあいまいな日本の民衆」即ち「個人の強靱性(個人主義の附帶的性格)」を保持してゐない日本人は、「ごたごた」に對してはすぐにその場に沈湎してしまひ、場との距離の測定を可能とする「精神の自主性」を保持出來ない。それ故に、その「ごたごた」の場からの脱出口として、沈湎と言ふ關係を抛擲させてくれる「戰爭」を助け船と感じてしまふのである。と言ふ事を恆存は言はんとしてゐるのではなからうか。そして、「戰爭の『魅力』」に抗しきれぬ無意識的心理なるものを、更に深讀みせんとするならば、以下の内容も考へられる。

「私たちは、平生、自分を全體と調和せしめようとして、それができずに疲れはててゐる(全體感・實在感の缺

如)。いひかへれば、生理的には必然かもしれぬが、倫理的には偶然な事故にしかすぎぬ死以外に、何の完結も

終止符もない人生(時間的エンドレスが齎す、時間的完結と言ふ全體感の缺如、及び時間的終熄と言ふ實在感の

缺如)に倦み疲れてゐるのだ。私たちの本能は、すべてが終ることを慾してゐる(終熄の實在感)」(全三P

584『人間・この劇的なるもの』)

 更に其處に「死」なるものを純粋に味はへる「型にしたがつた行動」、即ち日本の殉死的型(儀

式)に繋がるとも言へる、「特攻隊の樣式美」や「海ゆかばみづく屍、山ゆかばつちむす屍」の

型があれば「そのときにおいてのみ、私たちは、すべてがとめどない因果のなかに埋れた日常生活の、末梢的な部分品としての存在から脱却し、それ自身において完全な、生命そのものの根源(全體)につながることができるのだ」(參照:『人間・この劇的なるもの』最終章)。

 



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