〔当HP:目次〕

平成二十一年八月九日

『福田恆存を讀む會』


八月選擇評論:全集第二巻所收『文學の效用』(「風雪」昭和二十二年八月號。三十六歳著)

 

 今囘の選擇評論『文學の效用』は、前々囘の『反近代について』、前囘の『文學史觀の是正』とも深い關聯がある。明治日本は西歐近代に触れて、西歐化「リアリズム・寫實主義・實證主義・科學主義・合理主義」をこなすのに手一杯で、その意味では日本自然主義文學もご多分に漏れず、リアリズム・寫實主義」に囚われて、以下項目〔難解又は重要文〕:P258下でも取り上げてゐる、ことばのもう一つの側面、即ち以下の項目が理解出來ない。

「寫實」に沈湎してしまひ、反近代=「現實のうちに正しく生きようといふのは、現実とのかかはりにおいてみずからが眞實にゐようといふこと」(「作品のリアリティーについて」より。全2:P266〜)に迄は、息切れして辿り着けなかつたのである。詳しくは以下枠内の分に譲る。以下文は前々囘小生レジュメの「まへがき」であるが、今評論にも通用するものと存じ、再登場させて戴く。

拙發表文『反近代について』まへがき、より

 

恆存がさりげなく『せりふと動き』で書き殘した、以下の文章(嚴密には恆存の文は『 』内)に拘つてゐる。

場(CC”)から生ずる『關係(D1)と稱する實在物は潛在的には一つのせりふ(言葉:F・問答・對話・獨白)によつて表し得る』。故にその言葉との附合ひ方、扱ひ方(型・Eの形成=型にしたがつた行動)によつて、人間は場との關係の適應正常化が叶へられる」

 小生思ふに、此の文にこそ、近代主義(リアリズム・實證主義への過剩信頼)からの脱皮、即ち「反近代」が謳はれてゐる事に、やうやくと言ふか薄々と言ふか、最近氣附く事が出來てきたのである。

 本文での探究項目(或は別紙)でも取り上げるが、「言葉は寫實=言葉は物(F)を指し示す物の影(寫實)」と、近現代人が盲信してゐる事柄は、實は「近代主義(リアリズム・實證主義・合理主義・科學主義・個人主義等)」に災ひされた迷妄なのであると言ふ事。その迷妄については、恆存はかう語つてゐる。 ( )内は吉野注。

*言葉とは、意味の傳達以上に「用途」の役割を持つてゐるといふ事。寫實(何)よりも用途(なぜ)を。言葉は人間を目的、行動に駆り遣る爲の鞭的用途(スプリングボード)の役割を持つ

言葉は物を指し示す物の影(寫實)ではなく「實在物=關係」を目に見える様に傳へる用途を持つてゐるものなのである。(講演カセット「シェイクスピアの魅力」より要旨)。

「自然を、現實を正しく認識する(寫實・實證主義)のは、自然のうちに、あるいは現實のうちに正しく生きようといふ目的(現實との關係)のためにほかならない。近代が――ことに十九世紀が、この手段を目的から獨立せしめ、それ自体の自律性を獲得せしめたのである。

 現實を正しく認識しようといふのは、自分の目のまへに自分から離れたものとして眞實を設定しようといふことであり、現實のうちに正しく生きようといふのは、現実とのかかはりにおいてみずからが眞實にゐようといふこと(「關係と言ふ眞實を生かす」こと)であつて、兩者はおのづから別個のことがらである」(「作品のリアリティーについて」より。全2:P266〜)。

參照「テキスト補:P8〜11圖」(スクリーン表示)及び拙發表文:「一匹と九十九匹と」の參考資

寫實主義や實證主義(「自然を、現実を正しく認識する」)が想到した、近代自我(個人主義)の敗北。そしてその敗北の上に、更に生き延びんとして、西歐近代の哲人(ニーチェ・ドストイェスキー・ロレンス・フローベール・チェーホフ・ボードレール)が繋いだ、「個人の純粋性・個人的自我B」⇒「絶對・全體Cと言ふ超近代の夢想。即ちそれは「現実を正しく認識する」よりも「正しく生きよう:BC」といふ夢想であり、換言すれば「絶對・全體との、關係と言ふ眞實を生かす」と言ふ事なのである。

それらの思潮が、上記初出の枠文と密接に關聯があるのである。

 

*今評論選擇理由・・・川上會員より。

引き續き川上會員より、LEADING(READING)へ・・・。

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〔以下は、吉野櫻雲發表文〕

 

と言ふ事で、今評論も中々の難解にしてかつ手ごはく、そしてどの文章も重要なのであるが、特に以下内容文を此處に取り上げる事とする。更にいつもの如く難解なる内容については、手助けを他評論に仰ぐこととする。(以下文中傍線及び括弧内は概ね吉野附記。「P9圖」云々は「讀む會テキスト」頁を表す。「ABD2」等も同テキスト三頁を參照の程)

 

〔難解又は重要文〕:P258下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

文學は實感――ことに日本の文學は――この實感を過度に重要視する。ことばの二重性による詐術(寫實)にひつかかつてゐるからだ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。先に簡略すると、「ことばの二重性」とは以下の樣になる。勿論日本の自然主義作家は@にひつかかつてゐたのであるが。

@    實生活(A)から文學(B)への逃避。即ち「文學すらも文明開化の出世主義のネガティーブな吐け口になつてゐた」と言ふ私小説的寫實。⇒參照「テキスト補:日本の精神主義構圖圖」(スクリーン表示)

A   言葉は寫實(F)ではなく用途D1

*「言葉とは、意味の傳達以上に「用途」の役割を持つてゐるといふ事。寫實(何)よりも用途(なぜ)を。人間を目的・行動に駆り遣る為の鞭的用途(スプリングボード)の役割を持つ」。

場(CC”)から生ずる「關係(D1)と稱する實在物は潜在的には一つのせりふ(F:問答・對話・獨白:言葉)によつて表し得る」。故にその言葉との附合ひ方、扱ひ方(型・Eの形成=型にしたがつた行動)によつて、人間は場との關係の適應正常化が叶へられる。この二つを演繹していくと、しいては以下の能動、此の評論で言ふ「美の志向」を果たす事が可能となる。⇒參照「テキスト補:フローベールの夢想

眞の實在感獲得の流れ: 絶對・全體(C)⇒宿命・關係(D1)⇒自己劇化(D2)⇒絶對・全體(C)⇒實感(D3:實在感・全體感・必然感・充實感)。(參照:『人間・この劇的なるもの』他)

すなはち、フローベールの方法が上記に当たる。

下項目〔難解又は重要文〕:P262上「現實の醜惡であるといふ嚴たる認識に直面した時代(西歐十九世紀後半)に、なほその醜惡を素材として美を志向し、藝術を保證するための、いはば苦しまぎれの方法がリアリズムなのだ」が上記枠分の能動を示してゐるのである。

要するに、この項目の内容は以下の邊りの消息を物語つてゐるのではなからうか(次項付録も)

拙發表文:『獨斷的な餘りに獨斷的な』より

*實感、實在感については以下の文が參考になるのでは。

〔以下は拙發表文個人主義からの逃避からの抜粋。「」内傍線が恆存文〕

A.「實感依據といふのは『唯物的』、『即物的』といふこと」(P206について。・・・「實感依據」唯物的、即物的」とは、「何にでもべたべた引つ付く自他未分の神道的生活態度」(『日本および日本人』)の事を言つてゐるのではなからうか。   

上述の問題に絡めてそれを追求してみる。「まねようとしたのにまねられなかつた」、それは何故か。「何にでもべたべた引つ付く自他未分の神道的生活態度」と言ふ日本的土壌が、「言葉との距離測定」の能力を日本人から奪つてゐるからである、と恆存は言ふ。上記枠内で言ふ、本來はクリスト教の「連續性、一貫性」の歴史から發生する概念である「個人主義」「自然主義」に、日本人は唯物的、即物的にべたべた」と引つ付き、それらの「言葉との距離測定」が出來なかつたのである。それが爲に、西歐リアリズム文學の方法論即ち「人間個體の輪郭により、その存在と孤獨感とをあかしするといふ方法」(P208)をも曲解して、私小説的寫實に變形させてしまつた。

恆存は、言葉に對しては意識度を高くし、言葉の用法に細心の注意をしなければならない、と以下の樣に言ふ。「言葉を自分から遠く離す事によつて、逆にその言葉を精神化し、支配、操作する事が出来る様になる」。さうする事によつて「自分に近付け、言葉を物そのものから離して自分の所有にする事が可能になる」のだと。そしてその「言葉の用法」が日本人には出來なかつたのである。

「それ(「言葉との距離測定」)が身につく土壌が日本に欠けてゐる」が故に、「物質面で行はれた近代化に対する、適應能力としての『精神の政治學』としての近代化」が出來なかつたのだと恆存は言ふのである。即ち即物的唯物的に「何にでもべたべた引つ付く自他未分の神道的生活態度」(『日本および日本人』)と言ふ日本的土壌が、「言葉との距離測定」の能力を日本人から奪つてゐるのであり、爲に「精神の近代化(個人主義)」自體を妨げてしまつたのである。

圖的解説を施すなら、日本人は「テキスト九圖」の状況で事足れりとして、「精神の政治學」ラインを「テキスト八圖」に迄下げようとせず、その構圖のまま「何にでもべたべた引つ付き」、ただの物質的(A)模倣が出来た事を、それが和魂洋才で「近代化」そのものが成就したと早飲み込みしたと言ふ事になる。「日本的土壌」=「距離測定能力欠如」の致命的欠陥が其處に露出してゐるのにも關はらず、その事に気がつかなかつたのである。気がついてゐたのは鴎外・漱石(何を敵としたか圖:參照)と言ふことである。

「さう言ふ土壌(九圖)に生じた文學や藝術や學問が、或は政治や制度が、もし近代的に見えるとすれば、それは何處かにごまかしがあるに違ひ無い」(全七P393『醒めて踊れ』)と恆存は言ふのである。

當にごもつともである。この特質をもつと解り易く圖説すれば、明治になつて「八圖:西歐近代」に「九圖」のまま日本は引つ付いたのである。「八圖」に開いた物質面の近代化の花だけを「九圖」に接ぎ木して、同じ花(近代化)と称して日本は自己滿足した。しかし全體像を見ればどう見ても彼我の差があるのに、それが見えなかつたのである。「近代化のごまかし(適應異常)」と言ふ自分の姿が、その「九圖」の中に居るが爲に見えなかつたのではなからうか。かうして圖で視覺化すればそれが「近代的に見える」筈がないのだが。

B.「實感」が持つ二つの意味。(P206・・・恆存は二つの使ひ方をしてゐる。真の實在感(D3)としての實感と、上文Aで言ふ處の物まね的自己満足感でしかない「實感依據」との。そして「二葉亭のうちに、さういふ個人主義文學(日本のいびつな自然主義文學の意)の呼びかけにたいする否定の意思表示が見られる」(P206上)云々とは、日本の自然主義文學にある似非實感としての「實感依據」に、彼の真性の實感が反撥した事をそれは示すのである。その爲に政治に身を投ぜんとしたのである。(參照:二葉亭の言、「私は元來實感(D3)の人で、始終實感で心を苛めてゐないと空疎になる男だ」:全五P551『独断的な餘りに・・』)

*「實感」が持つ二つの意味・・・恆存は二つの使ひ方をしてゐる。眞の實在感(D3)としての實感と、物まね的自己満足感でしかない「實感依據」(注)との。

眞の實在感獲得の流れ: 絶對・全體(C)⇒宿命・關係(D1)⇒自己劇化(D2)⇒絶對・全體(C)⇒實感(D3:實在感・全體感・必然感・充實感)。(參照:『人間・この劇的なるもの』他)

そして「二葉亭のうちに、個人主義文學(日本のいびつな自然主義文學の意)の呼びかけにたいする否定の意思表示が見られる」個人主義からの逃避P206上)と恆存は言ふ。

それは何を示すかと言へば、日本の自然主義文學にある似非實感としての「實感依據」に、二葉亭の眞性の實感が反撥した事を示すのである。その爲に政治に(國家をC的なものと捉へ)身を投ぜんとしたのである。(注)上記評論内で言つてゐる「實感依據」或は「唯物的、即物的」とは、「何にでもべたべた引つ付く自他未分の神道的生活態度」(『日本および日本人』)の意ではなからうか。

     ****以上は拙發表文個人主義からの逃避』より*****

 

尚、今評論『獨斷的な餘りに獨斷的な』では、恆存はにせ物の實感を「セルフ・アイデンティフィケイション(虚妄の實感)と評してゐる。そして二葉亭の行爲については、恆存はかく言ふ。「『敗滅』の上に(日本自然主義)文學によつて築かれたセルフ・アイデンティフィケイション(虚妄の實感)を突き崩して、『敗滅』を直視せよといふのが二葉亭の眞意であつた」と。尚「自然主義作家・私小説家」が獲得した似非實在感とは以下の如きものであり、上記枠内で言ふ「眞の實感(實在感)」との差は明白である。

〔恆存が書く「自然主義作家・私小説家」に至る流れ。及びその似非實在感

江戸幕府瓦解(文化政策的な儒教倫理C”の崩壊)⇒規範(D1)喪失⇒無限定性の自己(D1・關係・宿命喪失)⇒明治日本は、宗教改革の神に先導された西歐の資本主義と異なり、「近代日本(明治)は資本主義をはじめから利己的な惡徳として發展せしめる以外に道はなかつた(經濟的適應異常)。天皇と國家とのためにといふ名目を除外しては。(中略)近代日本の帝國主義は自己を限界づけるなにもの(國際主義)ももたなかつた(政治的適應異常)。のみならず、天皇や國家の権威は強者の惡徳を正當化した」⇒したがつて「明治の知識階級は政治活動(A)や社會活動(A)のうちに自己を生かすことを惡と見なさざるを得なかつた」のである⇒加へるに利己心に對する後ろめたさ(日本人の習俗性と封建道徳の残滓)⇒爲に、「完全に私を放棄して政治に身を挺するか(「下級武士の和魂洋才」)、さもなければ頑強に私を固執(自己絶對視)して一點に立ちすくむか(自然主義作家)」の二者擇一⇒それが故の、自然主義作家がした實生活(A)から文學(B)への逃避。即ち「文學すらも文明開化の出世主義のネガティーブな吐け口になつてゐた」。(と同時に和魂(B)は下級武士(福沢諭吉等)のアクティーブな吐け口と言ふ事なのでは)⇒自己に忠實(D2:自己表現)⇒C”:自己完成といふ名の自己絶對視・自己正當化⇒D3:自分でする自己確認即ちセルフ・アイデンティフィケイション(虚妄の實感)・似非實在感。「テキストP9圖」參照及び『近代の宿命』(全二P463)『私小説的現實について』(全一P571〜3)

 

*「ことばの二重性による詐術・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。察するに、それは以下の邊りの消息を物語つてゐるのではなからうか。先に簡略すると二重性とは、「寫實」と「實在物=關係」を目に見える樣に傳へる用途の二つの事を指す。

@〔難解又は重要文〕その2「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

P526下〜7上:「當時はまだ『私小説』といふ言葉も無ければ、その意識もなかつた。藤村も花袋も自然主義といふ『新しき小説』の騎手たらんとしてゐただけである。自然主義とは自然や社會的現實の在るがままの姿を忠實に再現する技法を意味するが、その根據は、自然の法則や力の働き(即ちそれらを客體化せんとする合理・科學主義や實證精神)が社會や人間を支配するといふ世界觀に在る。しかし、當時の日本の自然主義作家達が、この樣な唯物論を明確に意識し信奉してゐたとは言へない。ただその小説技法(寫實)をなんとかして物にしようとしてゐるだけの事であらう」。

 

A恆存著『ことばの二重性』(全二P422下)より

「いはば貨幣のやうに額面どほりにしか通用しない客觀的な效用價値と、同時に、それを喋る人間の性格や、しかもそのときどきの心理を傳へる主観的な效用價値」。

 

B言葉は寫實(F)ではなく用途D1

*「言葉とは、意味の傳達以上に「用途」の役割を持つてゐるといふ事。寫實(何)よりも用途(なぜ)を。人間を目的・行動に駆り遣る為の鞭的用途(スプリングボード)の役割を持つ」。

言葉は物を指し示す物の影(寫實)ではなく「實在物=關係」を目に見える樣に傳へる用途を持つてゐるものなのである。(講演カセット「シェークスピアの魅力」より要旨)。

*場(CC”)から生ずる「關係(D1)と稱する實在物は潜在的には一つのせりふ(F:問答・對話・獨白:言葉)によつて表し得る」。故にその言葉との附合ひ方、扱ひ方(型・Eの形成=型にしたがつた行動)によつて、人間は場との關係の適應正常化が叶へられる。

 

上記項目『ことばの二重性』:付録

〔難解又は重要文〕その7「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

P555下〔藝術(B)と実行(A)、或は二葉亭に於ける言葉(B)と行動(A)について〕:「・・さういふ言葉は既に行動の領域に屬するものであり、時には最も行動的な行動となり得る。しかし、その樣な言語觀に裏打ちされた文學概念の自覺を二葉亭の時代に求めるのは時代錯誤も甚だしい」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。此處の部分は今囘讀んで、かなり重要な内容を含んでゐる事を小生は再認識した。

恆存が他評論で指摘する、西歐浪漫派文學に始まつた、「言葉は寫實」と言ふ誤解釈。それはP526下〜7上項目で既に取り上げたが、恆存が言ふ樣に、「(西歐)自然主義とは自然や社會的現實の在るがままの姿を忠實に再現する技法を意味するが、その根據は、自然の法則や力の働きが社會や人間を支配するといふ世界觀に在る」。にも拘わらず日本自然主義作家達は、さうした唯物論に歸因し、より本質的には、自然主義は西歐實證精神が内包する『神に型どれる人間の概念の探究』の精華の一つであると言ふ事に理解が及ばなかつた。その結果として「忠實に再現する技法」(寫實)だけを輸入してしまつたと言ふ事になる。それ故にご本家西歐浪漫派ですら掴み損なつてしまつた、「言葉は既に行動の領域に屬するもの」と言ふ概念が、當然明治日本に移植され得る筈がない。

二葉亭も他の日本自然主義作家達と同樣、「言葉は寫實」の呪縛から脱出し得なかつた。そして恆存の言ふ處の、「言葉は(絶對・全體との)關係を表し、『關係/自己劇化』の行動に際しそれは鞭(スプリングボード)の役割を果たす。更にその「絶對・全體」に向けた自己劇化行動の結果として實在感(實感)を獲得させる。さうした用途を言葉は持つのである」(要旨)について迄は思ひ至り得なかつた。二葉亭が希求した「實感」が、上記の「言葉が持つ行動性」によつて、獲得出來得る事には到底氣が附かなかつたのである。「言葉(せりふ)は行動する」、引いては「藝術とは演戯なのであり、演戯とは絶對に迫る事なのである」(『藝術とはなにか』)に迄、到達出來得なかつた處に、二葉亭の限界があると恆存は言つてゐるのであらう。しかし、二葉亭がもしそれを掴んでゐたら「言葉は行動する」を悟り、文學の世界を生きられたのではないか、と我々が思ふのは矢張り「時代錯誤も甚だしい」のである。

さうした時代背景を持つ「言葉は寫實」が、日本自然主義作家達に齎した以下のプロセスに、二葉亭は文學(言葉)不信を起こし、その結果として「傳統や國家(C”)に『逃避』」したのである。

日本自然主義作家達が辿つた「虚妄の實感」へのプロセス

「藝術家、知識人が他の職業に比して殆ど社會的に顧みられぬといふ不滿、劣等感」⇒「文學(B)すらも文明開化の出世主義のネガティーブな吐け口になつてゐた」⇒「言葉は寫實」と言ふ自然主義文學への逃避⇒逃避(後ろめたさ)故に寫實で「文學が如何に《神聖》な仕事であるかを立證」せんとした⇒作家は聖職者(B)なり⇒自己に忠實(D2:自己表現)⇒C”:自己完成といふ名の自己絶對視(その自己が作る「新しき小説」)・自己正當化(その「新しき小説」の後楯となる西歐自然主義小説)・「安全地帶」⇒自己確認(D3)即ちセルフ・アイデンティフィケイション(虚妄の實感)・似非實在感。自己陶酔・自己滿足・エゴイズム

 

上述の「言葉は寫實」と言ふ誤解釈について恆存が以下の樣に述べてゐる。それは先にも引用した、「關係(D1)と称する實在物は潜在的には一つのせりふ(言葉)によつて表し得るものだから」を敷衍した内容である。

〔以下は拙發表文演劇論と人生論の一致からの抜粋。「」内が恆存の言。( )内は吉野注〕

「言葉は寫實ではなく用途を持つてゐるもの」(講演カセット「シェークスピアの魅力」より要旨)

「言葉とは、意味の傳達以上に「用途」の役割を持つてゐる。寫實(何)よりも用途(なぜ)を。故に人間を目的・行動に駆り遣る爲の鞭的用途(スプリングボード)の役割を持つ」。言葉は物を指し示す物の影(寫實)ではなく「實在物=關係」を目に見える樣に傳へる用途を持つてゐるものなのである。故に「言葉(せりふ)は行動する」。フレイジングが言葉からその内奥にある行動性(關係)を引き出す役目を果たす。「なぜ」が際立つ。即ち、關係を行動(自己劇化)へと轉化させる、「スプリングボード」としての役割・方法論がフレイジングであり「So called」なのでは。

(探究ついでに記して置くと、フローベールのやつた事は『ボブアリー夫人』で「寫實」をやりながら、實際の作品上では書かない處に「理想人間像(C)」と自分との關係(D1)=實在物」を傳へてゐたのではなからうか。「寫實(何)よりも用途(なぜ)を」)。

 

尚、更に大事な點は、前々枠内の「虚妄の實感へのプロセス」を、今囘選擇評論では文學の側面でのみ恆存は取り上げてゐるが、このパターン「西歐近代適應異常による精神主義化(テキストP9圖化)」は文學のみならず、他の日本知識階級にまでそれが蔓延してゐて、かつ日本人全般にもその指摘は免れないと言ふ視點であり、それを我々は忘れてはならない。

 

〔難解又は重要文〕:P259上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「文學はいかなる藝術にもまして現實の重荷を背負つてゐる。それはつねに現實の抵抗に堪へてゐる」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。⇒參照「テキスト補:ロマネスクとリアリズム(フローベール)」(スクリーン表示)

 

〔難解又は重要文〕:P259下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「文學は現實の重荷に堪へる美しさによつてはじめてその藝術性を保持しうるのだ。さらにいへば、文學はその現實的機能を有し、現實の論理を一歩も出られぬにもかかはらず、なほ美を志向するといふことに、他の藝術のおよびえぬ優位性をもつてゐるのである」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。察するに、それは以下の邊りの消息を物語つてゐるのではなからうか。

拙發表文『自己劇化と告白』よりP

*鴎外は、「旧規範」に自己を晒しながらしかもそれに膝を屈せず判斷保留し、「選ばれてあるものの責任であり、渦中にあつて生きるものの意志的行爲」として義務を果たす事。それによりかへつて「戈をまじへる事なく」、旧規範・旧限定から自己が隠蔽されるのである。公人の生活(A)を旧規範に晒しながら、しかも「自己(藝術的側面、個人的自我:B)を秘めなければならない。可能性を大切にするからだ」。「なぜなら表現しようとする自己(B)は、つねに世間道徳や、宗教や觀念によつて限定され、それに膝を屈しようと用意してゐるから」であると恆存は言ふ。(參照『自己劇化と告白』全二P405〜413)

〔難解又は重要文〕:P412下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「われわれが敵(自己を超えたる場:C)としてなにを選んだかによつて、そしてそれといかにたたかふ(宿命/自己劇化)かによつて、はじめて自己は表現せられる(創作對象に)のだ。・・」

(參照「テキスト補:「われわれが敵(自己を超えたる場:C)としてなにを」(スクリーン表示)

 

〔難解又は重要文〕:261P「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「ぼくは明治以來の近代文學史を誤れる發想による錯誤の歴史だつたと考へてゐる」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。察するに、それは以下の邊りの消息を物語つてゐるのではなからうか。

拙發表文:『獨斷的な餘りに獨斷的な』より

〔難解又は重要文〕追加文「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

P515上:「私小説の定義そのものの改變を要求した。詰り『藝術家、知識人が他の職業に比して殆ど社會的に顧みられぬといふ不滿、劣等感から、それが如何に《神聖》な仕事であるかを立證し、自分がさういふ《聖職者:B》であるといふセルフ・アイデンティフィケイションを確立する爲の作業』を私小説の定義とした方が、明治以後の文學を日本近代化の過程として捉へ易く、・・(中略)當時の作家にとつて何より緊急な事は優れた小説を書く事ではなく、自分がそれをなし得る人間、即ち藝術家(B)である事を、自他共に、いや、他の誰よりも自分に向かつて證明することであつた」云々。・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。それについては以下が參考になるのでは。

 

恆存の言ふ、明治日本の自然主義作家達の末路〕:更なる詳細は「P10枠文」にて後述。

「藝術家、知識人が他の職業に比して殆ど社會的に顧みられぬといふ不滿、劣等感」⇒「文學(B)すらも文明開化の出世主義のネガティーブな吐け口になつてゐた」⇒故に「文學が如何に《神聖》な仕事であるかを立證」せんとした⇒作家は聖職者(B)⇒自己に忠實(D2:自己表現)⇒C”:自己完成といふ名の自己絶對視(その自己が作る「新しき小説」)・自己正當化(「新しき小説」の後楯となる西歐自然主義小説)⇒自己確認(D3)即ちセルフ・アイデンティフィケイション(虚妄の實感)・似非實在感。自己陶酔・自己滿足・エゴイズム。

  【上記項目についての質疑應答】

 

拙發表文:『獨斷的な餘りに獨斷的な』より

恆存は、フローベールの夢想はイエスの人格化「理想人間像」(C:絶對・全體)にあったのだと『小説の運命』等で確か言つてゐた。「ロマネスクな夢想こそが、作品の裏がはからあのリアリスティックな無表情の記述の保證に立つてゐるにほかならない」(『小説の運命U』:P611)と。

「フローベールのリアリズムとはまさにそれである。―― 一片の虚妄にすぎぬと承知してゐれ

ばこそ、かれは自己の理想人間像(C:夢想)を語りはしなかつたのであるが、同時に、その理想人間像があつたればこそ實證精神をしてあれほどまでに自我(集團的自我「A」:代理としてのボヴァリー夫人)を斬りさいなむことを許したのである」(全一P475『理想人間像について』)

「かれら(フローベール等)の夢想してゐた自我の内容の高さと深さとに想ひいたらねばなら

ず、その背景に発見されるものは神(C)」なのである。と恆存は言ふ(參照:全一P637『現代人の救ひといふこと』)。

しかし、理想人間像(C:夢想)は作品には登場しない。ただそれら(BC探求)は「作品の裏がはからあのリアリスティックな無表情の記述の保證に立つてゐるにほかならない」と。「一片の虚妄にすぎぬと承知してゐればこそ、かれは自己の理想人間像(C:夢想)を語りはしなかつたのであるが、同時に、その理想人間像があつたればこそ實證精神をしてあれほどまでに自我(「集團的自我A」:代理としてのボヴァリー夫人)を斬りさいなむことを許したのである」(全一P475『理想人間像について』)と。何處にも神を語つてゐないあの小説スタイルこそが「神に型どれる人間の概念(理想人間像)の探究」なのだと、恆存は言つてゐるのである。

是は我々が大いに留意すべき點である。心理主義小説で「刻明に他我を、現實を描寫することに對するあの情熱」を持ち、彼が「さういふ近代自我(個人主義)に幻滅と絶望とを感じ」る事が出來たのは何故なのかと言ふ事。フローベールに「その絶望を可能ならしめたものとして」、「實證主義が自我の内から追放した」にも關はらず、彼の背景には消滅せぬ神があり、しかもその實證精神によつて、「神に型どれる人間の概念の探究」をせしむるだけの、「夢想してゐた自我の内容の高さと深さ」があつたからなのであると言ふ點が重要なのである。「高さと深さ」とを支へたのは、取りも直さず「消滅せぬ神」なのであつたと言ふ事。それが我々日本人にはなかなか理解が出來ない。當然明治日本の自然主義作家達には無理であつたと今囘評論(P526下)では言つてゐるのである。

繰り返しが多く恐縮だが、此處、この差が重要な點なのである。西歐近代自我(個人主義)が演じた自然主義も、明治日本の自然主義も究極はエゴイズムと自己陶酔に逢着してしまふのであるが、そのプロセスが以下@Aの樣に歴然として違ふ。それを曖昧にしている「日本近代文學史の通説」に恆存は我慢がならないのである。

@〔恆存の言ふ、西歐近代自我(個人主義)の末路〕

近代=「神の死」即ち「神意(宿命)喪失」⇒神の代はりに自己の手による宿命演出⇒自己主張(表現)・自由意思(人間如何に生くべき)⇒自己完成(自己主人公化・自己全体化・自惚鏡)⇒自己陶酔・自己満足・自己絶対視・自己証明による「似非實在感」⇒エゴイズム(近代自我の必然)⇒自己喪失(自己への距離感喪失)。

 

A〔恆存の言ふ、明治日本の自然主義作家達の末路〕:更なる詳細は「P7枠文」にて後述。

「藝術家、知識人が他の職業に比して殆ど社會的に顧みられぬといふ不滿、劣等感」⇒「文學(B)すらも文明開化の出世主義のネガティーブな吐け口になつてゐた」⇒故に「文學が如何に《神聖》な仕事であるかを立證」せんとした⇒作家は聖職者(B)⇒自己に忠實(D2:自己表現)⇒C”:自己完成といふ名の自己絶對視(その自己が作る「新しき小説」)・自己正當化(それ「新しき小説」の後楯となる西歐自然主義小説)⇒自己確認(D3)即ちセルフ・アイデンティフィケイション(虚妄の實感)・似非實在感。自己陶酔・自己滿足・エゴイズム⇒自己喪失。(劣等感即ち後ろめたい利己心は、「本來的には日本の民族性の内に、第二の習性として封建道徳の名殘り」だと恆存は言ふ。それが福沢諭吉等下級武士にもあつたと)

 

フローベールは「背景に神」があり、強靱な實證精神があるが故に、[實證主義⇒神追放⇒個人主義⇒個人主義の限界]に近代の宿命を見、それに幻滅と絶望とを感じる事が出來たのである。そして、その實證主義(實證精神)こそはクリスト教(絶對神)が形成したものなのであると言ふ點が重要。その概略は以下枠内のとほりである。

カトリシズムの教義である『肉(A)に従ふは罪。肉(現實)は神意の遂げ處』⇒近代が持つ「神への叛逆も、じつは(中世の)千年にわたるながいあいだの神への凝視と沒入とから習得し免許をあたへられた理想人間像にもとづいておこなはれたものである」⇒強靱な實證精神の確立⇒「神に型どれる人間の概念の探究」⇒實證精神(自然科學・社會科學)で自然・社會(A)を現實的に客體化⇒更に人間の精神(B)迄も實證精神で「A的」俎上にて客體化(自然主義)⇒個人主義⇒「畢竟エゴイズム⇒個人主義の限界(實證精神の果て)

 

 上枠内に概略した西歐自然主義の背景は、恆存が前出(P526文)で指摘する樣に、「當時の日本の自然主義作家達が、この樣な唯物論を明確に意識し信奉してゐたとは言へない。ただその小説技法(寫實)をなんとかして物にしようとしてゐるだけの事であらう」。

P527上「何の爲に現實を在るがままに描寫(寫實)しなければならないのか」について「ハードウェア・ソフトウェア」論を適用する 

「關係(D1)と称する實在物は潜在的には一つのせりふ(言葉)によつて表し得る」。その恆存の言に從ふならば、西歐近代との關係(實在物)である「近代化」を表しうる言葉の一つとして「(西歐)自然主義」が上げられる。そして明治日本は前近代であるが故に、その西歐自然主義を當然「ハードウェア」として受け止めざるを得なかつた。

換言すると、「近代化」といふ關係、それを表する「(西歐)自然主義」の言葉を、それら新漢語に對する用法(「So called」)で、正常な關係に「形ある『物』として見せる」と言ふ、「ソフトウェア」の藝當が明治日本では出來なかつた、と言ふ事に繋がるのである。具體的にはどう言ふ事を示すかと言へばかうなる。

(西歐)自然主義は、たとへ唯物論に歸因するとしても、より本質的には『神に型どれる人間の概念の探究』と言ふ近代化の一形態であつて、その背景には觀念論としてのクリスト教(洋魂)がある。

故に、西歐が近代で「自然主義」に客體化して見せた「神に型どれる人間の概念の探究」を、やはり明治日本も近代化を移植するに當たつて、同じく「形ある物として(日本自然主義の裏に)見せる」必要があつた。その藝當が「ソフトウェア」としての「So called」なのである。が、現實的可能性としてはそれが出來なかつた。「觀念論⇒唯物論」経緯の不理解は勿論の事、それが故に「自然主義」を單なる「寫實」としてしか移植出來なかつたのである。恆存流に言へば、上記「ハードウェア」に對する精神の政治學としての「ソフトウェア」を持つ事が出來なかつた事にそれは繋がり、此處に西歐近代への文學上「適應異常」が明確に示されていると言へるのである。そして更にそれは今日も(P535上:最終文も同意)と、言ふ事に。(參照:『醒めて踊れ』・『せりふと動き』)

【上記項目についての質疑應答】

 

〔難解又は重要文〕:P262上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「日本の自然主義作家のリアリズムを支へたものは、かれらなりに人生いかに生くべきかの倫理的當爲だつたのだ。――と同時に、かれらはそこにとどまる。技術も倫理もとにかく飜譯可能であつた――そして飜譯しうるかぎり、飜譯によつてつかみうるかぎり、かれらは自分のものとなした。(スクリーン表示日本的精神主義構圖が、飜譯のついに移しえぬものがある。それをかれらはみごとに見のがしてしまつたのだ。美がそれである。リアリズムは美を志向する古き藝術概念の否定などでは毛頭ない。古いも新しいもないのだ。藝術は美の追求と形成とにほかならぬ。リアリズムの否定したものは、自然の、人間性の、あるいは社會の、現實が美であるといふロマンチックたちの觀念であつて、藝術の美ではない。現實の醜惡であるといふ嚴たる認識に直面した時代(西歐十九世紀後半)に、なほその醜惡を素材として美を志向し、藝術を保證するための、いはば苦しまぎれの方法がリアリズムなのだ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。察するに、それは以下の邊りの消息を物語つてゐるのではなからうか。

全1P19:『近代日本文學の系譜』より

「(西歐)十九世紀後半の自然主義作家にとつて、資本主義社會は彼等の自我を實生活において拒絶し扼殺するほどに墮落し硬化したのであり、しかもこの社會的事實を彼等ははつきり凝視し、さらにこれを自己のものとして――いはば社會の醜惡と痼疾とを自己のそれとして受け入れたのであつた(「マダムボヴァリーは私だ」と言ふ事)。またそれゆえの嚴しい自己否定であつた。彼等の自我はもはや作品(「苦しまぎれの方法」=リアリズム)以外に主張と正當化との場所を見出しえなかつたのである」。

その典型作家が「フローベール」と言ふ事なのであらう。⇒參照「テキスト補:『小説のなかでおこなはれた小説の批評』」(スクリーン表示)

 

*「フローベールは『マダム・ボヴァリー(エンマ)はわたしだ』といつたが、だからといつて、有閑マダムの私室の夢想が藝術家フローベールの夢(C)と同一だといふのではない。ここに重要な事實は、フローベールは自分の夢(夢想:C)をそんな形〔即ち「現實(A)の醜悪を素材として美を志向する創作方法」〕でしか提出しえなかつたといふことだ」(參照:P617『小説の運命U』)。

*「フローベールは俗人(A:集團的自我)を蔑視して象牙の塔(B:個人的自我)に閉じこもらうと決意した。が、彼は個人の概念(B)をあくまで俗人(A:エンマ=世俗的自己)のうちに沈めようと覺悟してゐたのだ」(全一P60『現代日本文學の諸問題』)。

かれは自己の理想人間像(C:夢想)を語りはしなかつたのであるが、同時に、その理想人間像があつたればこそ實證精神をしてあれほどまでに自我(集團的自我「A」:代理としてのエンマ)を斬りさいなむことを許したのである」(全一P475『理想人間像について』)。

 

フローベールの「美=ロマネスクな夢想=イエスの人格化「理想人間像」(C:絶對・全體)」

拙發表文:『獨斷的な餘りに獨斷的な』より

〔難解又は重要文〕その2「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

P526下〜7上

西歐近代の構圖(テキストP8圖:個人主義)をフローベールは極限化(B領域の極小化)して描き、その舞台上に「可能性の天窓(B:個人の純粋性)は一分のすきもなく完全にとざされ、現実世界で獲得できた自由(A領域の拡大的世界・個人主義)のいかにつまらなく、それがあまりにつまらぬために自由でもなんでもないといふことを、(『マダムボヴァリー』で)克明に描写し證明し」て見せたと言ふ事。即ち日本自然主義作家の構圖(テキストP9圖:B領域の拡大化)との明確な差異が其處には展開されてゐるのである。

〔補足:拙發表文「『一匹と九十九匹と』から」及び他からの抜粋。「」内が恆存文〕

 

恆存は、フローベールの夢想はイエスの人格化「理想人間像」(C:絶對・全體)にあったのだと『小説の運命』等で確か言つてゐた。「ロマネスクな夢想こそが、作品の裏がはからあのリアリスティックな無表情の記述の保證に立つてゐるにほかならない」(『小説の運命U』:P611)と。

「フローベールのリアリズムとはまさにそれである。―― 一片の虚妄にすぎぬと承知してゐればこそ、かれは自己の理想人間像(C:夢想=「美の志向」)を語りはしなかつたのであるが、同時に、その理想人間像があつたればこそ實證精神をしてあれほどまでに自我(集團的自我「A」:代理としてのボヴァリー夫人)を斬りさいなむことを許したのである」(全一P475『理想人間像について』)

「かれら(フローベール等)の夢想してゐた自我の内容の高さと深さとに想ひいたらねばならず、その背景に発見されるものは神(C)」なのである。と恆存は言ふ(參照:全一P637『現代人の救ひといふこと』)。しかし、理想人間像(C:夢想)は作品には登場しない。ただそれら(BC探求)は「作品の裏がはからあのリアリスティックな無表情の記述の保證に立つてゐるにほかならない」と。「一片の虚妄にすぎぬと承知してゐればこそ、かれは自己の理想人間像(C:夢想)を語りはしなかつたのであるが、同時に、その理想人間像があつたればこそ實證精神をしてあれほどまでに自我(「集團的自我A」:代理としてのボヴァリー夫人)を斬りさいなむことを許したのである」(全一P475『理想人間像について』)と。何處にも神を語つてゐないあの小説スタイルこそが「神に型どれる人間の概念(理想人間像)の探究」なのだと、恆存は言つてゐるのである。

是は我々が大いに留意すべき點である。心理主義小説で「刻明に他我を、現實を描寫することに對するあの情熱」を持ち、彼が「さういふ近代自我(個人主義)に幻滅と絶望とを感じ」る事が出來たのは何故なのかと言ふ事。フローベールに「その絶望を可能ならしめたものとして」、「實證主義が自我の内から追放した」にも關はらず、彼の背景には消滅せぬ神があり、しかもその實證精神によつて、「神に型どれる人間の概念の探究」をせしむるだけの、「夢想してゐた自我の内容の高さと深さ」があつたからなのであると言ふ點が重要なのである。「高さと深さ」とを支へたのは、取りも直さず「消滅せぬ神」なのであつたと言ふ事。それが我々日本人にはなかなか理解が出來ない。當然明治日本の自然主義作家達には無理であつたと今囘評論(P526下)では言つてゐるのである。

 

〔難解又は重要文〕:P265下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「ぼくたちはぼくたち自信のうちにある美の傳統的解釋を――美に保證せられずして、人間の眞實が存在しうるといふ偏狹な精神主義を(「テキスト補「日本的精神主義構圖」)――改めてかかることこそなによりの急務でああらう」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。⇒參照「テキスト補:上記とP6〜7圖「われわれが敵としてなにを」)との差異」(スクリーン表示)

 

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