平成二十一年十二月二十七日
『福田恆存を讀む會』
十二月選擇評論:全集第二巻所收『藝術とはなにか』(昭和二十五年六月、要書房刊。三十九歳著)
今囘選擇評論『藝術とはなにか』を久しぶりに再讀(計三讀)してみて、當り前の事と言へるのだが、此處にはかなり深い内容の事が論述されてゐるのを再認識した。
そして、この中味の充分に理解もさうだが、更に自己薬籠中のものとするには、とてもとても三讀くらいのものでは到底叶はず。探究していて将に慚愧の到り、各難所要塞にての惡戰苦鬪、かつ「敗退」の苦みを禁じ得なかつた。
*今評論選擇理由・・・川上會員より。
*引き續き川上會員より、LEADING(READING)へ・・・。
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〔以下は、吉野櫻雲發表文〕
と言ふ事で、今評論も中々の難解にしてかつ手ごはく、そしてどの文章も重要なのであるが、特に以下内容文を此處に取り上げる事とする。更にいつもの如く難解なる内容については、手助けを他評論に仰ぐこととする。(以下文中傍線及び括弧内は概ね吉野附記。「P9圖」云々は「讀む會テキスト」頁を表す。「A・B・D2」等も同テキスト三頁を參照の程)
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參考
〔三:演戯といふこと〕
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旧限定の自己(在る) (ありのままの自分) |
演戯(在るではなく成る): 「演戯するとは、眞に自分自身になること」(595上)⇒新限定の自己になる事。 |
新限定の自己 〔さうありたい自分・ときにはさうありたくはない自分(P597下)〕 |
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ギリシャ (アッティカの悲劇時代) |
「北方蠻族とともに侵入してきた、、醜い盲目な暗い情念にさいなまれる、制御しがたい不當な運命」(P597) |
左項の「ありのままの自分を許すことが出來ぬ罪の意識」⇒右項を前提としての「罪のために穢された人間を演戯」 |
本來の自己(ギリシャ人の根本觀念)・・・「(ギリシャ人)本來の自己が美しく善なるものであるといふ自信のもとに、あへて惡をおこなつた」 |
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クリスト教時代(中世) |
「人間は人間として醜なるまま、惡なるまま不正なるまま」=原罪のまま |
「演戯(藝術)」の不在缺如=「教會が演出・聖職者が演出」 |
缺如:「中世人は位置づける(成る=さうありたい)權利と責任とを神と教會とに預けてしまつた」(P597) 成る=「汝自身たれ(イエスの教え)」(P594)=「強烈な罪の意識(原罪)にひたること」(P598上) =「原罪の假面を被ることで本來の自分自身(善男善女)に成れる」 |
「クリスト教文明下の藝術としての選民の藝術・辯証の藝術」(P625)
五:選民の藝術
P610:選民の思想・・・支配・被支配(A”主體⇒A客體)の思想。即ち「客體を領有せんとする自己擴大慾につがふのよい精神のメカニズム」⇒藝術家對鑑賞者(近代)⇒藝術家の爲の藝術⇒藝術家小説(私小説)
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主體性A”の變遷:聖職者(神學)⇒君主⇒支配階級⇒知識階級(科學)⇒藝術家 |
六:辯証の藝術=モニュメントの藝術(辯証=辯論によって證明すること。また、是非・善悪を辨別して證明すること)
・・・「貯蔵庫の美觀を、そのなかには本尊の自己が嚴存してゐることを辯証すること――それが藝術家のつとめ」⇒「近代藝術(文學)が自己證明(D3似非實在感?)の藝術に墮落した原因」。
「現世で自己の生涯が幸福になることを夢みる」⇒上記「五」の「主體性(A”自己)を貯蔵庫(モニュメント)に入れて眺め、権威に滿ちた美觀を楽しむ」。即ち「選民であるといふ證據を後世に殘しておきたいといふ野心」⇒後世に殘りうるモニュメントを建設する事が報いられること(クリスト文明の暗示)」。
七:意匠の藝術(映画藝術)(意匠: 絵画・詩文や催し物などで、工夫をめぐらすこと。趣向・装飾・装飾上の工夫。デザイン)
「意匠は見せるためのもの。假面は演ずるためのもの。意匠の裏にはなにもない。が、假面の裏には素面がある」。「装飾(意匠)は藝術ではありえないし、藝術はけつして装飾ではありえない。(中略)装飾は、すなはち意匠は、たんに藝術めいた現實にすぎない」。「今日、藝術は意匠化の一途を辿るのみ」(P620)
八:視覺の優位(寫實の優位?リアリズム?)
*「實證科學と經驗主義とは觀察し檢證しうるものしか眞とみなさない。慾望や幻影は客觀的に觀察できず、檢證しえぬがゆゑに眞ではない」(P622上)。「藝術が實證科學と經驗主義との支配下にある。いまや藝術は文明によつて利用され、さうすることによつてすべての人間活動のうちもつとも無用なものと位置づけられつつある」(P623下)。⇒「社會の有用性」?
*其處では「われわれにとつて必要な藝術は、ユートピアの觀念によつて支配されてゐる意匠の藝術(映画・映画を志向する文學・美術・音楽)だけ」(P624)となつてゐる。
*「藝術は他のなににもまして、自己を視覺に化さうと努力してきた。對象を測量し、それだけのものとして位置づけし、自己を優位な地位に押しあげる」から(P625下)。⇒「選民の藝術」「辯証の藝術」にも關聯。
*しかし「藝術は根本において、われわれの理解と解説とを拒絶してゐる。すなはち見られることを拒絶してゐるのです――あたかも生が、現實が、見られることを拒絶してゐるやうに」(P627下)
*「藝術は技術ではない。演技ではなく演戯。技巧ではなく才能」(P628上)。
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九:カタルシスといふこと(P628)
〔難解又は重要文〕:P628下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「アリストテレスはギリシャ悲劇の本質を論じて《恐怖と哀憐》の感情の浄化作用、すなはちカタルシスにあるといつてをります。ぼくはカタルシスといふことこそ、あらゆる藝術の本質と機能と效用とを一言のもとにいひあらわした千古不磨の名言だとおもひます。そして現代の藝術は選民思想と辯証癖と意匠化とによつて、その機能を徐々に喪失しつつあるのです。(中略)われわれの肉體の新陳代謝にも似て、肉體の一部が生理的に死に、それによつて新しい生命を解放するしくみになつてをります。カタルシスとは、根本的には、さういふこと(死と再生)を意味します」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。恆存は「五・六・七章」において、「選民思想と辯証癖と意匠化」を詳細に論究してゐる。其處では簡略すると以下の樣に書いてある。
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五:選民の藝術「P610:選民の思想」・・・支配・被支配(A”主體⇒A客體)の思想。 六:辯証の藝術=モニュメントの藝術即ち「選民であるといふ證據を後世に殘しておきたいといふ野心」。 七:意匠の藝術(映画藝術)・・・「意匠は見せるためのもの」。(參照:當發表文二頁) |
そして、上記から類推するに、三種とも「相對」の概念と言ひ換へる事が出來る。即ち「相對」の概念の内に現代の藝術は埋沒し、結果として「その(藝術の)機能を徐々に喪失しつつある」のだと。是に對するに「カタルシス」は、絶對(C:相對を絶したもの)或は全體(C)との關係を持つものとして、瀕死状態の藝術を救出する手立てとなるのだと・・。向後の恆存の論述を此處に先取りして書いてしまつてゐるきらいがあるが、その樣に恆存は言はんとしてゐるのではなからうか。
〔難解又は重要文〕:P629下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「もしカタルシスがおこなはれなければわれわれの肉體はどうなるか。古き英雄は苦悶しながら、なかなか死にたえない。あるいは死んでしまつてゐながら、對外に排泄されない。(中略)われわれの生理においてばかりでなく、情感においても――むしろそこにおいてなほさら――かういふ現象がしばしば見受けられないでせうか。われわれの心(情念の領域:A)はたえず傷つけられ、苦しみ、恐れ、悲しんでゐる。にもかかはらず、クリスト教文明のもとでは、それが人間の甘んずべき宿命(原罪)だとみなされる。われわれの情感は抑壓され、内部醗酵し、生命は腐蝕しはじめる。近代ではフロイトとマルクスとがこれに反逆しました。が、かれらさへ――むしろかれらこそかへつてこの抑壓のコンプレックスの典型になつてしまつた」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。
①
「われわれの心(情念の領域:A)はたえず傷つけられ、苦しみ、恐れ、悲しんでゐる。にもかかはらず、クリスト教文明のもとでは、それが人間の甘んずべき宿命(原罪)だとみなされる」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。
以下に記してある樣に「情念や情熱:A」はクリスト教では受動的概念。故にそれに身を委ねるは「肉=感情に従ふは罪」となる。であるから、「人間の甘んずべき宿命」として「強烈な罪の意識(原罪)にひたること」、即ち「原罪の假面を被ることで本來の自分自身(善男善女)に(人間は)成れる」(P598上)のだと、恆存は〔三:演戯といふこと〕で書いてゐる。
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『シェークスピアの魅力』から(要旨) 「passion の語源はpassive 。「情熱」は「受動」。それに身を委ねるは悪しき事と言ふのが聖書の思想(「肉=感情に従ふは罪。肉は神意を遂げる処」)。「情熱・肉」に相対するのが精神(能動的概念)。肉体の受難に対して精神はそれに打克つもの。イエスが「神の子」であるのは肉体の受難に打克つ精神を持つてゐた事。それによつて神と繋がつてゐた。「受難:passion 」とはさうした能動的・積極的概念の象徴」。 |
であるが故に、クリスト教文明のもとでは「われわれの情感は(カタルシスの機會を持たずに)抑壓され、内部醗酵し、生命は腐蝕しはじめる」のだと。
何故ならば「クリスト教文明のもと」では、人間は「あるがままの自分(旧限定の自己=原罪)に滯留するが故に、「演戯」が不在缺如となり、當然「カタルシス」が成就されないのだと(參照:P1表)。
恆存の論に據れば、情感即ち「集團的自我(A)」は、クリスト教文明のもとでは「教門政治・神学の支配」(「教會が演出・聖職者が演出」)にがつちり(「肉に從ふは罪」)とガードされてしまつて身動きが取れなかつた。そして、「選民の思想」即ち「支配・被支配(A”主體⇒A客體)の思想」によつて、俗人(被支配側・A客體側)は、聖職者(A”主體)に支配され續けて來たのだと・・(P610)。
② 「近代ではフロイトとマルクスとがこれに反逆しました。が、かれらさへ――むしろかれらこそかへつてこの抑壓のコンプレックスの典型になつてしまつた」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。上記の「選民の思想」即ち「支配・被支配(A”主體⇒A客體)の思想」の關係は、中世で終焉した譯ではなく、近代にまで、矢張り「クリスト教が持つ歴史的一貫性・統一性」の効果性(と迄は書いてはいないが)で繼續されてきた。と五:選民の藝術で以下枠の樣に恆存は論述するのである。つまり「支配・被支配(A”主體⇒A客體)」は、中世の「聖職者(A”主體)⇒俗人(A客體)」から、近代の「知識階級(A”主體)⇒大衆(A客體)」まで綿々と繼續されてきたのだと。それが故に知識階級であるフロイト、マルクスは、「知識階級(支配者:A”主體)⇒大衆(被支配者:A客體)」の圖から言へば、大衆に「情感の抑壓」を強制せしめる「支配者:A”主體」側なのである。その支配者側である事のコンプレックスが「情感抑壓」への反逆に繋がつたのだ、と此の樣に恆存は謂はんとしてゐるのではなからうか(此處はもう少し探究の必要性があるかも知れない・・)。
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P610:選民の思想・・・支配・被支配(A”主體⇒A客體)の思想。即ち「客體を領有せんとする自己擴大慾につがふのよい精神のメカニズム」⇒藝術家對鑑賞者(近代)⇒藝術家の爲の藝術⇒藝術家小説(私小説)
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〔參考文〕
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参考:歴史の意識(西欧)・・・「絶対者のないところに歴史はありえない」のである。 クリスト教の絶対神による「統一性と一貫性との意識が人間の生活に歴史を付与」した。⇒そしてその神(絶対者)そのものが「近代を過去のアンチテーゼとして成立せしめる歴史的一貫性」を形作つた。即ち西欧は「反逆すべき神」として中世を持つことが出来たのである。「神への叛逆も、じつは千年にわたるながいあいだの神への凝視と沒入とから習得し免許をあたへられた理想人間像にもとづいておこなはれたものである」(P599『小説の運命Ⅰ』)⇒「なぜなら神と言ふ統一原理はその反逆において効力を失うものではなく、それどころか反逆者の群れと型とを統一しさへする」⇒近代西欧精神を「神に型どれる人間の概念の探求」と言ふ形で統一していつたのである。(参照:『近代の宿命』P462、及び同発表文中「西欧歴史的統一性:図解」及び『現代人の救ひといふこと』) |
〔難解又は重要文〕:P630上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
アリストテレス:「《恐怖と哀憐》の感情のカタルシス」
「この感情(恐怖と哀憐)を舞台いつぱいに動きまはらせ、そのあげくのはてに、それに死の宣告をくだし、舞台から放逐する――それが浄化作用であります。観衆は(中略)療治をうけにきたのであります。藝術は藝術家にとつてのみならず、觀賞者にとつてもまた行爲であります。――さういふかんたんな事實を現代人はすつかり忘れてゐる」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「この感情(恐怖と哀憐)」とは、クリスト教文明のもとでは「肉・原罪A」に相當する概念であり「受動的概念」である。それ(A)をギリシャ悲劇では「能動的概念」として扱ひ、それを以下の價値概念にしたと言ふ事を言つてゐるのではなからうか。
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「集團的自我」上の「舞台(A)いつぱいに動きまはらせ」⇒自己劇化:D2⇒死(全體:C)⇒浄化作用(カタルシス)=再生=實在感・全體感:D3)。 |
此の邊の文章は別評論(『人間・この劇的なるもの』)の以下文章(黄色部分)を想起させる。
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拙發表文:『教育の普及は浮薄の普及なり』より 「必然とは部分(生)が全體(死)につながつてゐるといふことであり、偶然とは部分(生)が全體(死)から脱落したことである」(P590『人間・この劇的なるもの』)。即ち「型にしたがつた行動」によつて、人間は「必然感」と「全體感」を獲得し、それによつて生の充實感(實在感)を味はふ事が出來ると、恆存は言ふのである。 「型にしたがつた行動は、行動をそれ自體として純粋に味はひうるやうにしむけてくれる。そのときにおいてのみ、私たちは、すべてがとめどない因果のなかに埋れた日常生活の、末梢的な部分品としての存在から脱却し、それ自身において完全な、生命そのものの根源(全體)につながることができるのだ」と。 しかしながら今日、かかる「必然感・全體感=生の充實感」喪失の時代になつてしまつた原因は那邊にあるのか。恆存の論を要約すると以下の樣になる(念の爲、末文にそれに該當する恆存文を附す)。 「個人主義(神の代わりに「自己=部分」の全體化)」時代の到來によつて、死は、神と共に本來的位置を占めてゐた「全體」から脱落して「部分」の價値にしか過ぎなくなつた。死はその樣な「低次元的死」「緩慢的死」「非、劇的死」の役割しか今日では演じられなくなつてしまつたのである。さうした「低次元的死」、換言すれば「倫理的には偶然な事故(即ち「部分:生」⇒自己劇化⇒「全體:死」⇒全體感獲得、と言ふ樣式缺如)にしかすぎぬ死」に囲まれた、「倦み疲れた」情況から、儀式こそが即ち「型にしたがつた行動」こそが、吾々現代人を救出してくれるのである。(繰り返すが「倫理的には偶然な事故」の死とは、「全體感」缺如の死を将に物語つてゐるのである)。 傍線の邊の事を恆存の文章で忠實に示すとかうなる。 「私たちは生それ自體のなかで生を味はふことはできない。死を背景として、はじめて生を味はふことができる。死と生との全體的な構造の上に立つて、はじめて生命の充實感と、その秘密に參與することができるのだ」。 ところが「(個人主義による)ヒューマニストたちは、死をたんに生にたいする脅威と考へる。同時に、生を楯にあらゆることを正當化しようとする。かれらにとつて、單純に生は善であり、死は惡である。死は生の中絶であり、偶然の事故(全體にあらず。「部分」の價値、「低次元的死」)であるがゆゑに、できうるかぎり、これを防がねばならぬと信じこんでゐる。が、さうすることによつて、私たちの生はどれほど強化されたか。生の終はりに死を位置づけぬいかなる思想も、人間に幸福をもたらしえぬであらう。死において生の完結を考へぬ思想は、所詮、淺薄な個人主義に終はるのだ。中世を暗黒時代と呼び、ルネサンスを生の讚歌と規定する通俗的な史観や、封建時代に死臭をかぎつけ、現代に生のいぶきを感じる誤つた人間觀は、すべて個人主義的なヒューマニズムの所産にほかならない。 生はかならず死によつてのみ正當化される。個人は全體を、それが自己をほろぼすものであるがゆゑに認めなければならない」。とその樣に、死が全體的役割を喪失し、その爲に「部分(生)⇒自己劇化(儀式・型)⇒全體(死)⇒必然感・全體感獲得⇒生の充實感(實在感)の成立」の樣式を喪失してゐる「個人主義」思想の缺陷を恆存は鋭く指摘してゐるのである。(參照:『人間・この劇的なるもの』最終章) |
〔難解又は重要文〕:P632下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「嫉妬や憎惡がわれわれを孤獨におひこむと同樣に、自我意識もわれわれを孤獨におとしいれる。われわれはこれに刺激を與へ、カタルシスをおこなはなければなりません。われわれを孤獨から解放するもの――それが藝術であります」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。
個人主義(近代自我)が齎す、情念(嫉妬・憎惡等A)自我意識(A)の横溢。それにより權力の有機性を喪失し孤獨に陥つた、集團的自我の有機性を甦らせ、穢れを浄化するもの(「解放するもの」)、それが藝術である。と言つてゐるのである。以下の樣に「情念(A)、自我意識(A)」に死を宣告する事で「死と再生」を。
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「集團的自我」上の「舞台(A)いつぱいに動きまはらせ」⇒自己劇化:D2⇒死(全體:C)⇒浄化作用(カタルシス)=再生=實在感・全體感:D3)。 |
十:ふたたびカタルシスについて(P638)
〔難解又は重要文〕:P639上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「世間は民衆の無知を輕蔑してゐる。かれらを向上せしめようとする善意のひとたちさへ、その本心ではかれらを輕蔑してゐます。その證據に、金さへ與へれば、問題はいつさい解決するとおもつてゐる。(中略)今日、すべては金、金、金、であります。知性は情慾(A)や肉體(A)や暴力(A)を否定する。その結果發見したものは金と物質との権威であります。知性はその権威を承知し合理化することで最後のご奉公を終り、みづからの権威をも物質に譲りわたして引退しようとしてゐる。いはば精神と物質とのあいだでは、すでに勝負あつたといふかたちであります」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。
① 「かれらを向上せしめようとする善意のひとたちさへ、その本心ではかれらを輕蔑してゐます」の文章は、以下枠文を想起させる。
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P610:選民の思想・・・支配・被支配(A”主體⇒A客體)の思想。即ち「客體を領有せんとする自己擴大慾につがふのよい精神のメカニズム」。
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② そして「知性はその権威を承知し合理化することで最後のご奉公を終り、みづからの権威をも物質に譲りわたして引退しようとしてゐる。いはば精神と物質とのあいだでは、すでに勝負あつたといふかたちであります」云々の文は、かう言ふ事を言はんとしてゐるのではなからうか。
・・・クリスト教文明のもとでは、「情慾や肉體や暴力:A」を「肉(A)に從ふは罪」(原罪)と否定し抑壓する。その爲「心(情念の領域:A)はたえず傷つけられ、苦しみ、恐れ、悲しんでゐる」。「それが人間の甘んずべき宿命だとみなされ」、それら受動的概念(A)に精神(B)は「克己の倫理」で克つ事が「能動的概念」「積極的概念」と見なされてゐた(參照:P629下項目及び以下枠)。
近代に到り「科學技術と社會制度の民主化との過程が進むにしたがつて、それまでの精神の領域(B個人の純粋性)に屬してゐた問題が、逐次物質の領域(A「支配被支配の自己」:同注)に移されて、物質の問題として解決されていつた」。そのお蔭で、上記の「情慾や肉體や暴力:A」に克つ「克己(B)」の問題もご多分に漏れず、「物質の領域(A)に移されて、物質の問題」即ち此處で言ふ「金と物質(A的客體化)」に還元され解決されていつたのである。P610:選民の思想「支配・被支配(A”主體⇒A客體)の思想」で言ふと、「A”主體(金・物質)⇒A客體(情慾・肉體・暴力)」と言ふ事になる。
その結果、「金さへ與へれば、問題はいつさい解決するとおもつてゐる。(中略)今日、すべては金、金、金、であります」との現實となつてしまつた。と言ふ事を恆存は言はんとしてゐるのではなからうか。當然「西歐近代への適應異常」で更なる物質主義に陥つてゐる日本は、病膏肓となるのである。
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〔參考〕:『近代の宿命』(全二P453)から 「科學技術と社會制度の民主化との過程が進むにしたがつて、それまでの精神の領域(B個人の純粋性)に屬してゐた問題が、逐次物質の領域(A「支配被支配の自己」:同注)に移されて、物質の問題として解決されていつた。物慾に克といふ克己の倫理(Bの領域)も、充分に慾望する物質を生産(Aの領域)するといふことで解決されてしまふし、病苦に堪へるといふ美徳(Bの領域)も、醫學の進歩(Aの領域)が徐々にそのやうな精神の無益な負擔を輕減しつつある」。 |
そして、この項目は、別評論(『民衆の心』)の以下の文章をも想起させる。
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『民衆の心』「日本の文化人のポーズ(自由主義者のポーズ)について」 「いちわう現實の解決を不可能のものとして世間から退いた(A⇒B)知識階級が、その權力慾(絶對的自己肯定:C”)を滿足させる捌け口として採った道こそ、實を棄てて名をとるジャーナリズムのうへでの成功にほかならなかつた」(P543下)。「それはたしかに(民衆蔑視への)ポーズにほかならぬ――現實の混亂に對して積極的な解決策を提供しえぬ、といふよりは、はじめから解決すべき對象として現實(A)を眺めようとしない人間が、自己保證(C2)のために必要としてきたものが、つねにこのポーズの設定であつた。~~(中略)~~かれら(日本の文化人、知識階級)は外部的に解決すべき問題(A)をそのまま内部の問題(B)に、すなはち良心と意思との問題(B)に還元してゐるといふ事實に、いまなほ氣づかぬのである」(P538上)。 |
〔難解又は重要文〕:P640下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「知識階級は藝術の文化的價値(B)を知つてはゐます。が、その生命的價値(A)を知つてはゐない。必要とはしてゐない。いや、事實は必要なのだが、それが必要であるといふことに、いひかへれば根源的な生にとつて必要であるべきはずの藝術がかれらには缺けてをり、それが教養の糧として、知識的生活の装飾として、たんなる文明的價値に換算〔「A”主體(金・物質)⇒A客體(情慾・肉體・暴力)」〕されてしまつてゐるために・・(中略)金と文明の進歩と、この二つのものによつて、すべては解決できるとおもひこみ、その枠のなかに生命を閉ぢこめてしまひました」云々・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。
「教養の糧」とは、「選民であるといふ證據を後世に殘しておきたいといふ野心」(辯証の藝術=モニュメントの藝術)を思ひ起こさせる。更に此の邊の文章は別評論(『人間・この劇的なるもの』)の以下を想起させる。
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拙發表文:H15.5.25『人間・この劇的なるもの』①のP8から 「宿命/自己劇化=真の自由=実在感・全体感(必然感)=幸福感」の問題について・・・ 本来文化が持つ「型」とは、日常性に埋没した人の心をそこから脱出せしめて、上記のやうな「実在感:全体感(時間的・空間的」を味ははせるものなのである。が、戦後の日本は文化が喪失してゐるが故に型も喪失し、時間的「無際限な平板さ」の中に日本人を放擲し、意識的にも又無意識的にも苦痛を強いてきた。祭祀、儀式的有機性を喪失した戦後の国民的祝日が、顕著にそれを物語つてゐるのである。切れ目のない無窮な時間上に投げ出された無意識的苦痛を、日本人は強いられてきたと言へる。「人は生きる。同時に、それを味はふこと、それを欲してゐる」(P527)。その味はふと言ふ実在感が奪はれてゐるのである。そのやうに恆存は述べてゐる。〔参照:下図及び「文化とはなにか」〕 将に、マクベスに「野心だけが飛びはねたがる」と唆した、実在感のない自由、言葉を変へて言へば「あすが来、あすが去り、さうして一日一日と小きざみに、時の階を滑り落ちて行く、この世の終りに辿り着くまで。いつもきのふといふ日が、愚か者の塵にまみれて死ぬ道筋を照らしてきたのだ」(マクベス)といふ、無際限な時間的平板さが、「ほんの一時、自分の出場の時だけ」でもの自己主人公化の夢に、現代人をも誘ひ込むのである。上記のやうな時間的「無際限な平板さ」の世界に耐へられぬが故に、「生きる。と同時に味はひたい」(P527)といふ本性的人間の願望が、開放されて仕へるべきもの(全体)を喪つた「相対主義の泥沼」の世界の内で、自己主人公化といふナルシズム的夢をまどろませるのである。 マクベス劇の冒頭、魔女のせりふ「きれいは穢い、穢いはきれい」とは、開放されて仕えるべきもの(全体)を喪つた「相対主義の泥沼」の世界を謳つた言葉にも聞こへる。 かうした中に日本国民は落とし込まれ、そしてそれから起き上がらうとしてあがいてゐる。文中の言葉を借りれば、「私たちの意識は平面を横ばいする歴史的現実(過去・現在・未来といふ時間的継続:吉野注)の日常性からその無際限な平板さから起き上がらうとしてたへずあがいてゐる」といふことになる。「その(起き上がるための)行為が演戯(型=祭祀・儀式)」(P532)であり、かつ「儀式は元來、個人を沒却する場でなければならぬ。人間が個人であることをやめて、生命のもつとも根源的なものに帰つていくための通路であつたはずだ」(P588)。 |
〔難解又は重要文〕:P642上下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「健康な身體がつねにゼロの均衡状態を意味するやうに、精神もまたゼロの静止状態を欲してゐるのです。そして自由とはそれ以外のなにものをも意味しません。精神はゼロだるときにのみ、なにものにもなりうるのです」。・・・此處で言ふ「ゼロの状態」とは、
「ゼロの状態」=カタルシスによる「死と再生」=必然感・全體感獲得⇒生の充實感(實在感)の成立。を指すのではなからうか。
個人主義による「自我意識の凝固」の世界では、以下の圖となり、「ゼロの状態」は形成されず、むしろ「抑壓と不滿」が蓄積されるのだと。そしてその自我をよりどころとする個性とは「病氣」以外のなにものでもないと・・。
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神の代はりに自己の手による宿命演出→自己主張(表現)・自由意思(人間如何に生くべき)→自己完成(自己主人公化・自己全体化・自惚鏡)→自己陶酔・自己満足・自己絶対視・自己証明による「似非実在感」→自己喪失(自己への距離感喪失・適応異常) |
〔難解又は重要文〕:P643上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
當頁を含め「自我意識」の問題について・・・恆存は、以下「カタルシスの有無」に關する事を指摘してゐるのであらう。
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以下構圖の個人主義の上に築かれる近代藝術は、「選民の藝術」「辯証の藝術」「意匠の藝術(映画藝術)」に留まり、カタルシスは形成されない。個人主義は「自我意識の凝固」の爲に結果として「自己陶酔」即ち「カタルシスの缺如」に歸結するのだと・・。
*さうした近代の迷妄を、藝術は以下の構圖を持つが故に打破する事が可能だと、その樣に恆存は言はんとしているのではなからうか。 「藝術とは演戯であり」、演戯とは以下の構圖を持ち、其處にはカタルシス(浄化作用)が形成され、人間の集團的自我(A:肉體・情念)・個人的自我(B:精神)の兩面にわたり「死と再生」(實在感)を與へてくれるのであると・・。
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そして、この項目頁の文章を讀んでゐると、やはり『人間・この劇的なるもの』の以下が想起せられるのである。
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拙發表文:『教育の普及は浮薄の普及なり』より「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 「生の終はりに死を位置づけぬいかなる思想も、人間に幸福をもたらしえぬであらう。死において生の完結を考へぬ思想は、所詮、淺薄な個人主義に終はるのだ」。とその樣に、死が全體的役割を喪失し、その爲に「部分(生)⇒自己劇化(儀式・型による)⇒全體(死)⇒必然感・全體感獲得⇒生の充實感(實在感)の成立」の樣式を喪失してゐる「個人主義」思想の缺陷を恆存は鋭く指摘してゐるのである。(參照:『人間・この劇的なるもの』最終章) |
十一:藝術とはないか――結論として
〔難解又は重要文〕:P649上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「問題なのは、どうしてさういふまちがひがおこつたかといふことでありせう。ここにわれわれは藝術における媒材といふことの重要性に注目しなければならないのであります。つまり、文學はことばの藝術であるといふことだ。このことばのみが作者の脈搏や呼吸(D1?)をつたへるのであります。ところが、ことばは對象を描寫したり、表象をつたへたりするだけのものだとおもはれてゐる。とんでもないまちがひです」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。それについては以下の文が參考になるのでは・・。
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*「せりふは語られてゐる意味の伝達を目的とするものではない。一定状況の下(場面)において、それを支配し、それに支配されてゐる(宿命・関係)人物の意志や動きを表情や仕草と同じく形のある『物』として表出する事。それが目的であり、意味の伝達はその為の手段に過ぎぬ」(全7「シェイクスピア劇のせりふ」P359) 言葉は寫實(F)ではなく用途D1」 *「言葉とは、意味の傳達以上に「用途」の役割を持つてゐるといふ事。寫實(何)よりも用途(なぜ)を。人間を目的・行動に驅り遣る爲の鞭的用途(スプリングボード)の役割を持つ」。 言葉は物を指し示す物の影(写実)ではなく「実在物=関係」を目に見える様に伝へる用途を持つてゐるものなのである。(講演カセット「シェークスピアの魅力」より要旨)。 *場(C・C”)から生ずる「關係(D1)と稱する實在物は潜在的には一つのせりふ(F:問答・對話・獨白:言葉)によつて表し得る」。故にその言葉との附合ひ方、扱ひ方(型・Eの形成=型にしたがつた行動)によつて、人間は場との關係の適應正常化が叶へられる。
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つまり日本近代文學は、西歐近代文學の「言葉は寫實」の呪縛から脱出し得ず(護符化:C2化)、ことばは「作者の脈搏や呼吸(即ち關係D1)をつたへる」ものなのであることに氣がつかなかつたのである。「ことばは對象を描寫したり、表象をつたへたりするだけのものだとおもはれてゐる。とんでもないまちがひ」だとは、さういふ點を述べてゐるのである。
〔難解又は重要文〕:P649下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「才能とは精神と技術との出あふ場所であります。いや、精神が技術を見いだす場所であります」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。
小生思ふらく、此處も以下文と關聯する樣に受けとめてしまふのである。
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*場(C・C”)から生ずる「關係(D1)と稱する實在物は潜在的には一つのせりふ(F:問答・對話・獨白:言葉)によつて表し得る」。故にその言葉との附合ひ方、扱ひ方(型・Eの形成=型にしたがつた行動)によつて、人間は場との關係の適應正常化が叶へられる。 |
つまり、場(人間・C”)から生ずる「精神(關係D1)」と技術(型・E)と・・・。但し此の邊は「牽強附會」的でもある。
【どうであらう、此の邊について各位のご賢察は・・・】
〔難解又は重要文〕:P649下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「文學者といふものはことばの才能人であり、ことばにおいてもつとも生きのいい人間のことにすぎません」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。これと似た内容につき恆存は向後の評論にてもう少し分かり易く以下の樣に述べている。要するに以下の事柄を當評論『藝術とはなにか』では、「本質・核」的に物語つてゐるのではなからうか。
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「醒めて踊れ」(全7:p391~399)より要旨 *言葉の用法について:「自分と言葉との距離の至大化=言葉の自己所有化」と言ふ事。 「自分と言葉との距離の測定が出来る」とは「言葉を自己所有化する」と言ふ事。即ち、意識度を高くし、言葉の用法に細心の注意をし、「言葉を自分から遠く離す事によつて、逆にその言葉を精神化し、支配、操作する事が出来る様になる」(P391全七)。さうする事によつて「自分に近付け、言葉を物そのものから離して自分の所有にする事が可能になる」のである。 *「言葉と話し手との間に距離を保ち、その距離を絶え間なく変化させねばならぬのと同様に、相手と共に造り上げた場と自分との間にも距離を保たねばならず、その距離を絶えず変化させ得る能力がなければいけない。さういふ能力こそ、精神の政治学としての近代化といふものなのである」(p398) *「文学者とは、(中略)たんなる現実の素材に意味的連関を与へるやう強烈な意識を持つて(素材を自己所有化する事か:吉野注)、その生活を主題的に統一して生きぬかうとする人間にほかならない」(「急進的文学論の位置づけ」p297) |
つまり、上述用法の達人(「ことばの才能人」「もつとも生きのいい人間」)と言ふ事なのではなからうか。
〔難解又は重要文〕:P650下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「われわれの精神(B)も肉體(A)も、そのひとびとにおいて、一定の生理に支配されてをり、さらに民族や時代やその文明も、それぞれの生理に支配されてをり、それらは究極において根源的な生命(全體Cか?)の原理に支配されてをります。いふまでもなく、われわれがもつとも生きいい状態といふのは、特定の個人(部分?)の生理が根源的な生命(全體?)の原理と一致するときでなければならない。が、現實の生活においてそれは求められません」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。是についても、やはり「まへがき」で前述した『藝術とはなにか』(假説:本質・核)⇒(檢證:深化・演繹敷衍)『人間・この劇的なるもの』の一環として、以下の文が參考になるのではなからうか。先述要約するならば、「もつとも生きいい状態」とは「人間が個人であることをやめて、生命の最も根源的なるもの(全體C)に歸つて」ゐる時であり、そしてその時は「型(儀式)にしたがつた行動」における演戯によつてのみ得られ、「現實の生活において」は求められない、と言ふことを言つてゐるのであらう(特に參照:黄色部分)。
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拙發表文:『教育の普及は浮薄の普及なり』P6~7より。(注)以下「」文は『人間・この劇的なるもの』から。 *「儀式は元來、個人を沒却する場でなければならぬ。人間が個人であることをやめて、生命の最も根源的なるものに歸つていくための通路であつたはずだ」。(『人間・この劇的なるもの』) *「祭日とその儀式は、人間が自然の生理と合致して生きる瞬間を、すなはち日常生活では得られぬ生の充實の瞬間を、演出しやうとする欲望から生れたものであり、それを可能にするための型なのである。私たちが型に頼らなければ生の充實をはかりえぬのは、既に私たち以前に、自然が型によつて動いてゐたからにほかならぬ。生命が周期をもつた型であると云ふ概念を、私たちは、ほかならぬ自然から學び知つたのだ。自然の生成に必然の型があればこそ、私たちはそれにくりかへし慣れ、習熟することが出來る。そして偶然に支配されがちの無意味で不必要な行動から解放される。何故なら、型にしたがつた行動は、その一區切り一區切りが必然であり、それぞれが他に從屬しながら、然もそれぞれがみづから目的と成る。一つの行動が他の行動にとつて、たんなる前提と成り、手段と成るやうな日常的因果關係のなかでは、そのときどきの判斷によつて採用された行動は、たいてい無意味で不必要な結果に終る。個人の判斷が、その必然性の一貫にどれほど緻密な計量をはたらかせようとも、それは殆どつねに偶然の手にゆだねられる」。 更には別紙PP圖參照 *恆存文に據れば、儀式(型)の能動で「意識的に部分(現在)としての自己を味はひ尽くす課程において、全體感(時間的全體感)が象徴的に甦る」のである。即ち「時間的全體感」を味はふ(獲得する)ことが可能となるのである。その結果として意識は「自分の肉體からそつと足をぬいて、下界を見おろしてゐるやうな感じ」になり、さうして「上に脱け出た意識は、足下の現實が時々刻々に動いてゐることを實感」(P533)出來るやうになる。「いま、将に生きている」と言ふ實感が其處に出現する。換言すれば「時間的全體感」獲得による「實在感」が其處に成立するのである 。と恆存はその奧義を吾々に開示してくれる。
以上の項目を纏めて分かりやすく説明するとかうなる。 人間が平生、「自己のうちで全體と調和しかねて」、それが爲に「生理的には必然かもしれぬが、倫理的には偶然な事故にしかすぎぬ(即ち全體感、實在感缺如の緩慢的)死」なるものに晒され「倦み疲れてゐる」時、かかる「無際限な平板さから」「まぬかれ、生の充實感にひたるため」に、儀式こそは「その方式であり型」となり得るのである。その樣に恆存は斷言するのだ。 さうした儀式に内在する、「型にしたがつた行動は、その一區切り一區切りが必然であり、それが他に從屬しながら、しかもそれぞれがみずから目的となる」。 「必然とは部分(生)が全體(死)につながつてゐるといふことであり、偶然とは部分(生)が全體(死)から脱落したことである」。即ち「型にしたがつた行動」によつて、人間は「必然感」と「全體感」を獲得し、それによつて生の充實感(實在感)を味はふ事が出來ると、恆存は言ふのである。どの樣にしてそれが叶へられるかと言ふとかうなる。 「型にしたがつた行動は、行動をそれ自體として純粋に味はひうるやうにしむけてくれる。そのときにおいてのみ、私たちは、すべてがとめどない因果のなかに埋れた日常生活の、末梢的な部分品としての存在から脱却し、それ自身において完全な、生命そのものの根源(全體)につながることができるのだ」と。 この樣に恆存は、「儀式・型⇒必然感・全體感の獲得⇒生の充實感(實在感)の成立」の奧義なるものを吾々に開示してくれるのである。即ち、當項目冒頭②での設問(以下文)に對して、「儀式を伴ふ祝祭日は人間に『必然感・全體感=生の充實感』を與へてくれるのだ」、と明快な答へを示してくれるのである。重要な點なので更に補足して書くとかうなる。「型にしたがつた行動(Eの至長化)は」、場との關係を適應正常化させてくれ(即ち必然感・全體感の獲得)、その結果として、生の充實感(實在感)を人間に齎してくれると言ふのである。 ①「私達の意識は、平面を横ばひする歴史(過去・現在・未來といふ時間的繼續)的現實の日常性から、その無際限な平板さから、起きあがらうとして、たえずあがいてゐる。そのための行爲が演戯である」(全三P532『人間・この劇的なるもの』)。 ②「私たちは、平生、自分を全體と調和せしめようとして、それができずに疲れはててゐる(全體感・實在感の缺如)。いひかへれば、生理的には必然かもしれぬが、倫理的には偶然な事故にしかすぎぬ死以外に、何の完結も終止符もない人生に倦み疲れてゐるのだ。私たちの本能は、すべてが終ることを慾してゐる」(全三P584『人間・この劇的なるもの』)。 |
であるから、「現實の生活において、それをあへて求めようと」したならば「すべてが終る」と言ふ事に歸結してしまふ。即ち「人類がゴールインと同時に死にたえてしまはなければならない」、と恆存は謂はんとしてゐるのではなからうか。此の部分の小生の探究は、どうも息切れしてゐて詰めが甘い氣がするが、【どうであらうか、此の邊についての各位のご感想は・・・】
〔難解又は重要文〕:P650下~651上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「文學におけることばのもつてゐる現實とは、その表象が對應してゐる實生活の現實(「寫實」の事を言つてゐるのでは?)ではなく、實生活にはない、ことば自身にのみ屬する、イメージ(D1關係「心の動き」と同一か?)とそれをはこぶリズム(型Eでは?)とであります。これはじつに生理的なものだ」。
*「ことばの藝術である文學は、思想や現實の表現などではけつしてなく、生命の根源(C)からもつとも分枝してしまつた思想と現實とが、その根源(C)に復帰し、自己の生理を獲得しようとする運動なのだ」・・・上記二つは何を言はんとしてゐるのであらうか。やはり「まへがき」で書いた①『藝術とはなにか』(假説:本質・核)⇒②(檢證:深化・演繹敷衍)『人間・この劇的なるもの』⇒③(現象化・實用篇)『せりふと動き』の關聯として、捉へる事が可能である。即ち、
「根源(C)に復帰し、自己の生理を獲得しようとする運動」の方法論が、文學においては以下の「ことば」の特質を驅使する事なのだ、と言ふ事なのであらう。⇒別紙PP圖(P2)參照
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*場(C・C”)から生ずる「關係(D1)と稱する實在物は潜在的には一つのせりふ(F:問答・對話・獨白:言葉)によつて表し得る」。故にその言葉との附合ひ方、扱ひ方(型・Eの形成=型にしたがつた行動)によつて、人間は場との關係の適應正常化が叶へられる。 |
【どうであらうか、此の邊についての各位のご感想は・・・】
〔難解又は重要文〕:P653下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「美とは時間の空間化、空間化された時間を、意味するものにほかありません。われわれはそのために演戯するのではなかつたか」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。是についても、此處も前述した①『藝術とはなにか』(假説:本質・核)⇒②(檢證:深化・演繹敷衍)『人間・この劇的なるもの』⇒③(現象化・實用篇)『せりふと動き』の關聯として、以下の文が參考になるのでは。
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拙發表文:《恆存の「實在感」についての考察》P2より *實在感(「時間的全體感」把捉による)を獲得し、かかる現實を解決する(「無際限な平板さから、起きあがらう」とする)手段として、恆存は以下「Ⅰ」の人間に備はる習性を擧げ、更にそれを活用しての「Ⅱ」の行動を開示するのである。 Ⅰ.「與へられた條件の中にある自分の肉體と、それを客體として味はふことによつて、その條件のそとに出ようとする意識と、そこに役者の二重性(人間の持つ「一人二役」性)がある」(同P527)。 Ⅱ.「そもそも動作や作用、さらに人間の抽象的な營みを名詞化しようといふ働きそのものが、主體である自分を對象から分離し、距離をつくらうとする衝動なのです」(全三P204『日本および日本人』)。 そしてⅡの動作を可能ならしめる必須要項として、意識の集中強烈化の必要性を恆存は以下の樣に謳つてゐる。 即ち、その動作を名詞化せんとする、或は「So called」「フレイジング」に供ふ「一人二役」の行爲には、當然の事として意識の集中強烈化が必要とされる。その集中強烈化が夾雑物(雑念)を交へずに上手く實現できた時初めて、吾々の意識は、平生足をさらはれてゐる樣な現實的平面から立ち上がる事が可能となる。その時「意識は、平面を横ばひする歴史(過去・現在・未來といふ時間的繼續)といふものに垂直に交はる」事が出來るのである(P532『人間・この劇的なるもの』)。即ち、意識が現在に垂直に交叉し、動作する(行動する・生きる)自己と、それを見る(味はふ)自己との「一人二役」の行爲が可能となるのだと(上記傍線は無視)。 その「一人二役」の行爲が發揮され、それでどうなるかと言へば、意識が「部分(現在)を部分として明確にとらへることによつて、その中に全體(過去・現在・未來といふ時間的全體)を實感」(P533)する事をそれは意味する。恆存文に據れば「意識的に部分(現在)としての自己を味はひ尽くす課程において、全體感(時間的全體感)が象徴的に甦る」のである。即ち「時間的全體感」を味はふ(獲得する)ことが可能となるのである。その結果として意識は「自分の肉體からそつと足をぬいて、下界を見おろしてゐるやうな感じ」になり、さうして「上に脱け出た意識は、足下の現實が時々刻々に動いてゐることを實感」(P533)出來るやうになる。換言すれば「時間的全體感」獲得による「實在感」が其處に成立するのである かかる状態を文章で書くと長いが、意識としては一瞬の味はひなので、「上に脱け出た意識は、足下の現實が時々刻々に動いてゐることを實感」しても、また直ぐに無意識の海にそれは埋没しまふ。繼續的實感として意識の淵に留まらない爲、なかなか表現的な傳達は困難となる。(この邊の内容はなかなか理解しにくいと思ふがいかがであらうか)。 繰り返すと、「名詞化しようといふ働き」によつて、「平面を横ばひする歴史的現實の日常性から、その無際限な平板さから」意識が立ち上がり、もつと生の充實感(實在感)を味はふ事が可能になると、恆存は提示するのである。 そしてこの事は「時間藝術」の本質とも關聯してくるのである。そのジャンルの一つである演劇の役者は、フレイジングの上手下手に實在感獲得の成否が懸かつてくる。下手であらば、記憶した科白を追ふだけの時間的平面から意識が立ち上がらず、演ずる(行動する・生きる)自己と、それを見る(味はふ)自己との「一人二役」の行爲が可能とならない。即ち「時間的全體感」(實在感)を摑めない似非藝術家(「動きまはる影、あはれな役者」とも表しうるか)が、「ほんの自分の出場のときだけ、舞台の上で、みえを切つたり、喚いたり、そしてとどのつまりは消へてなくなる」(『マクベス』)と言ふざまになるのである。 |
【どうであらうか、此の邊についての各位のご感想は・・・】
〔難解又は重要文〕:P651下P652上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「逆にそれらを自己の生理に結びつける求心的な運動をこころみることにある」。
*「あくまで思想が生命の根源に復帰しようとする精神の求心運動」。
・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。是もやはり「まへがき」で書いた①『藝術とはなにか』(假説:本質・核)⇒②(檢證:深化・演繹敷衍)『醒めて踊れ』『人間・この劇的なるもの』⇒③(現象化・實用篇)『せりふと動き』の關聯として、捉へる事が可能である。
即ち、別紙PP圖の、西歐(場)との關係(宿命)として齎された「近代化」への適應としてである。先述すると、
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* 恆存は『醒めて踊れ』で、實證精神の範疇である、「So
called」「フレイジング」「精神の政治學」をソフトウェア的手段と捉へてをり、「精神の近代化」(即ち近代化への適應:個人主義の確立)は、ソフトウェアの効果的發揮によつて、その結果として齎されるものと捉へてゐる。(參照:拙文『醒めて踊れ』の下欄圖) 即ち、西歐(場)との關係(宿命)として齎された「近代化」への適應を、新漢語・外來語の用法(So called)で正常な關係に「形ある『物』として見せる」。それがハードウェアとしての近代化(資本主義化・民主主義化・個人主義化・機械化・組織化・合理化等々)に對するソフトウェア(精神の政治學)としての對處方法なのであると・・。 |
【どうであらうか、此の邊についての各位のご感想は・・・】
〔難解又は重要文〕:P653上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「趣味の確立してゐないところでは、倫理の基準はありえず、科學もまたなにを眞としていいかわからない。論理や倫理や情念があやまつところで趣味はたちどまります」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。現在の處探究の糸口が掴めず、よく理解出來ない。
【どうであらうか、此の邊についての各位のご賢察は・・・】
〔難解又は重要文〕:P653下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「眞に時間を經驗するためには、現實のそとに虚僞の行動を、すなはち演戯をこころみなければならぬのであり、さうすることによつてのみ時間ははじめて現實とはべつの次元に眞の空間化を得るのだ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。⇒參照以下枠文:傍線部分。
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拙發表文:平成十五年五月二十五日『人間・この劇的なるもの』①より(一部加筆) 《實在感・時間的全體感獲得の構圖》 (味はふ:意識の現在垂直交叉) *「意識は、平面を横ばひする歴史(過去・現在・未來といふ時間的繼續)といふものに垂直に交る」(P532)時、「部分(現在)を部分として明確にとらへることによつて、その中に全體(過去・現在・未来といふ時間的全体)を實感」(P533)する。「私たちが個人の全體性を恢復する唯一の道は、自分が部分に過ぎぬことを覺悟し、意識的に部分としての自己を味はひつくすこと、その味はひの過程において、全體感が象徴的に甦る」。将にその時、生きるといふ日常的平板さから「上に脱け出た意識は、足下の現實が時々刻々に動いてゐることを實感」するのである。「宿命/自己劇化」による絶對への演戯が、上記の實感、今まさになすべきことをしてゐるといふ實感、「なさねばならぬことをしてゐるといふ實感」を得させるのである。その時「過去と未來とから切り放たれた現在だけが、過去・現在・未來といふ全體の象徴として存在してゐる」のである。そして「前後に暗黒があればこそ、その間の時間を光として感じることができる」。 大事なことは、さうした劇的時間を味はふには、人は一時的に「時間の流れをせきとめなければならない(非日常的場面の設定化)」(P534)といふことなのである。「拒絶の美徳を忘れて、現實の偶然をないもかも取り入れるのは、一種のおもひあがりである。(中略)個人の全體性いひかへれば、その必然性を確立するためには、現實の偶然性を拒絶しなければならない。(中略)私たちは自分の能力を無視して、あまりにも多くの偶然に身をゆだねすぎる(集團的自我上における、場面・關係設定の亂發)。したがつて、私たちの意識は、いつになつても現實の平面から直立しえない」(P534)。いつも現實に足をさらはれている状態なのである。 |
更に加へて、恆存は同著で「本來、演戯とは現實の拒否と自我の確立とのための運動であるはずだ」(P535)とも書いてゐる。
【どうであらうか、此の邊についての各位のご感想は・・・】
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