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平成二十二年九月五日

『福田恆存を讀む會』


K.K會員:『小説の運命ⅠⅡ讀書メモ。
 kunkidadoppo.pdf へのリンク


發表者 吉野櫻雲

 

九月選擇評論:全集第一巻所收

『國木田獨歩』(創元社版『國木田獨歩作品集』全三巻解説、昭和二十六年七月~一一月刊:四十歳著)

 

 不覺ながら當評論『國木田獨歩』及び『國木田獨歩』の作品も、小生は過去に讀んではゐなかつた。或は『武蔵野』は若い頃讀んだかも知れないが記憶にない。これからでも遅くはないので『國木田獨歩』作品を讀んで恆存との關聯を探究してみたく思ふ。

 今囘當評論を讀んで、正鵠を射てゐるか否かは定かならねど、小生としては、勢ひ恆存の「全體感」「實在感「充實感」との關聯に赴いてしまひ、結果として拙發表文:《恆存の「實在感」についての考察》の流用が多くなつてしまつた。當否を伺いたい。

 

*今評論選擇理由・・・川上會員より。

引き續き川上會員より、LEADING(READING)へ・・・。

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〔以下は、吉野櫻雲發表文〕

 

と言ふ事で、今評論も中々の難解にしてかつ手ごはく、そしてどの文章も重要なのであるが、特に以下内容文を此處に取り上げる事とする。更にいつもの如く難解なる内容については、手助けを他評論に仰ぐこととする。(以下文中傍線及び括弧内は概ね吉野附記。「P9圖」云々は「讀む會テキスト」頁を表す。「ABD2」等も同テキスト三頁を參照の程)

 

(注:以下、一項目ずつ各位の感想、質疑を伺つていきます)

〔難解又は重要文〕:P414上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「ぼくたちの――すくなくともぼくの――少年時代における獨歩の影響は、現代の讀者の想像もつかぬくらゐ大きなものでありました」・・・獨歩が恆存に大きく影響を與へたよすが(P420「生の充實感」等)を、恆存評論から以下の樣に窺ひ知る事ができる。

拙發表文:『人間・この劇的なるもの』まへがきより

 

 この評論で言つてゐる事のひとつは、「時間的全體感」把握による「實在感」の獲得である。

 演劇の劇的瞬間(特權的状態)と言ふものが「時間的全體感」の把握ならば、その同じプロセスを経れば、役者でない人間も實人生において「時間的全體感」を把握する事が可能となる。その結果として役者と同じく、普通人も「實在感」の獲得が可能となる。さうした關聯性を『人間・この劇的なるもの』として、恆存は吾々に提示してくれてゐる。

恆存文に據れば「意識的に部分(現在)としての自己を味はひ尽くす課程において、全體感(時間的全體感)が象徴的に甦る」のである。即ち「時間的全體感」を味はふ(獲得する)ことが可能となるのである。その結果として意識は「自分の肉體からそつと足をぬいて、下界を見おろしてゐるやうな感じ」になり、さうして「上に脱け出た意識は、足下の現實が時々刻々に動いてゐることを實感」(P533出來るやうになる。換言すれば「時間的全體感」獲得による「實在感」が其處に成立するのである。但しその爲には「儀式・型」の介在が必要となると當評論後半で述べてゐる。即ち恆存は、「型にしたがつた行動は、その一区切り一区切りが必然であり(中略)行動をそれ自體として純粋に味はひうるやうにしむけてくれる」のだと言ひ、儀式・型⇒必然感・全體感の獲得⇒生の充實感(實在感)の成立」の奧義を吾々に開示してくれるのである。尚それについては以下が參考になるのでは。

拙發表文:《恆存の「實在感」についての考察》より參照:《恆存の「實在感」についての考察》

 

〔實在感獲得のプロセスを簡略して書くとかうなる〕

「動作や作用、さらに人間の抽象的な營みを名詞化しようといふする働き」。或は「so called=所謂何々」「フレイジング(役者の場合)」、即ち「與へられた條件の中にある自分の肉體と、それを客體として味はふことによつて、その條件のそとに出ようとする意識」。

②其處に介在する「一人二役」性。・・・動作する(行動する・生きる)自己と、それを見る(味はふ)自己。

③「一人二役」には自ずと意識の集中強烈化が必要となる。

④意識の集中強烈化の効果的實行により「意識は、平面を横ばひする歴史(過去・現在・未來といふ時間的繼續)といふものに垂直に交はる」。即ち垂直交叉して「部分(現在)を部分として明確にとらへる」事が可能となる。

  

⑤集中強烈化により、「意識的に部分(現在)としての自己を味はひ尽くす課程において、全體感(時間的全體感)が象徴的に甦る」。何故ならば「過去と未來とから切り放たれた現在だけが、過去・現在・未來といふ全體の象徴として存在してゐる」からである。「前後に暗黒があればこそ、その間の時間を光として感じることができる」即ち「意識は過去・現在・未來の全體を眺めわたせる地位にありながら、しかも限られた枠のなかだけしか見ようとしないから、その間の時間の経過を強烈に味はふことができる」(P532~3)のである。

 

さうした「時間的全體感」の獲得により、「(自分の肉體からそつと足をぬいて)上に脱け出た意識は、足下の現實が時々刻々に動いてゐることを(まざまざと)實感」(P532~3する。即ち「實在感」が其處に成立する。

即ち、動くと同時に見る(或は生きると同時に味はふ)と言ふ「一人二役」が形成する、「時間的全體感(實在感)」の獲得が其處に實現されるのである

そして非常に重要な點だと思ふのだが、死もまた「特權的状態」即ち「時間的全體感」、及び「實在感」を人間に與へてくれるのだと恆存は以下の樣に言ふ。現代人に於いては、死はただただ忌むべきものでしかない今日的風潮の中で、吾々に刮目させる問題を恆存は提示してくれるのである。尚、當評論最終章で再度その問題を取り上げる事になるので、此處ではその理由を簡略な記載に留めておく。

「私たちは生それ自體のなかで生を味はふことはできない。死を背景として、はじめて生を味はふことができる。死と生との全體的な構造の上に立つて、はじめて生命の充實感と、その秘密に參與することができるのだ」(P590)

【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】

 

二 獨歩の文學史的位置について

 

〔難解又は重要文〕:P417下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「(「文學界」一派と自然主義一派)は一口にいへば藝術至上主義にほかなりません。いや、嚴密には藝術家至上主義といふべきかもしれません」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。この事は、次項目の「自分たちは藝術の神に一身を捧げて悔いぬ・・」をも含めて、察するに以下の邊りの消息を物語つてゐるのではなからうか。

拙發表文:『獨斷的な餘りに獨斷的な』より

 

〔難解又は重要文〕追加文「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

P515上:「私小説の定義そのものの改變を要求した。詰り『藝術家、知識人が他の職業に比して殆ど社會的に顧みられぬといふ不滿、劣等感から、それが如何に《神聖》な仕事であるかを立證し、自分がさういふ《聖職者:B》であるといふセルフ・アイデンティフィケイションを確立する爲の作業』を私小説の定義とした方が、明治以後の文學を日本近代化の過程として捉へ易く、・・(中略)當時の作家にとつて何より緊急な事は優れた小説を書く事ではなく、自分がそれをなし得る人間、即ち藝術家(B)である事を、自他共に、いや、他の誰よりも自分に向かつて證明することであつた」云々。・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。それについては以下が參考になるのでは。

 

恆存の言ふ、明治日本の自然主義作家達の末路〕:參照「彼我の差圖higanosa.pdf へのリンク 「日本的精神主義構圖nihontekiseishinshugikouzu.pdf へのリンク

「藝術家、知識人が他の職業に比して殆ど社會的に顧みられぬといふ不滿、劣等感」⇒「文學(B)すらも文明開化の出世主義のネガティーブな吐け口になつてゐた」⇒故に「文學が如何に《神聖》な仕事であるかを立證」せんとした⇒作家は聖職者(B)⇒自己に忠實(D2:自己表現)⇒C”:自己完成といふ名の自己絶對視(その自己が作る「新しき小説」)・自己正當化(「新しき小説」の後楯C2となる西歐自然主義小説)⇒自己確認(D3)即ちセルフ・アイデンティフィケイション(虚妄の實感)・似非實在感。自己陶酔・自己滿足・エゴイズム。

【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】

 

三 藝術と實行

 

〔難解又は重要文〕:P418上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「『文學界』の連中にせよ、自然主義作家たちにせよ、それぞれ『藝術(B)と實行(A)』の矛盾に惱んでゐたにちがひありませんが、その大前提には自分たちは藝術の神(C2)に一身を捧げて悔いぬ覺悟が、妙に――といふのは一種の固定觀念として――早くもでき上がつてをりました。藝術至上、あるいは藝術家至上といふのはその意味であります。美神(C2)への信徒を表だつて謳つた『文學界』一派の浪漫主義はもとより、後年『蒲團』によつて自然主義隆盛の端緒を開いた花袋さへ、さういふ固定觀念から抜け出てはおりません」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。前項目分及び彼我の差圖(左圖)「日本的精神主義構圖」を參照されたい。

【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】

 

〔難解又は重要文〕:P418下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「獨歩は藝術の神(C2)のために實生活(A)を棄てきれなかつたひとであります。獨歩は自己を職業的作家として規定してしまふことができず、そのまへに、なまの人間として、なまの人生にぶつかつていつて、そこに刺戟を――といつてわるければ感動を――求めようとしたのにほかなりません。かれは人生をはじめから作家の眼で見ようとせず、一生活者として人生を生き、その感動を作品に昇華せしめようとしたのであります。(中略)獨歩にとつて文學(B)といふものはそれほどに貴重なものであり、詩人は天職であつて、職業(A)とは考へられなかつたのであります」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「『文學界』の連中、自然主義作家たち」が取る立場即ち、「藝術の神(C2)のために實生活(A)を棄てる」と言ふ以下枠の行爲を獨歩は是認できなかつたと言ふ事であらう。參照「日本的精神主義構圖」

*「現實(A)的不滿⇒B:逃げ處としての個人的自我概念⇒C”自己主人公化(自己完成: 絶對的自己肯定)⇔「詩神・護符・後ろ楯の思想:C2」⇒自己滿足・自己正當化(似非生き甲斐・似非實在感)」

 そして、「一生活者として人生を生き、その感動を作品に昇華せしめようとしたのであります」とは、「漱石も鷗外も實生活(A)の場で解決すべき問題は實生活において處理し、それを作品のうちに持ちこむやうな錯覺を犯さずにすんだのである」(全一P20『近代日本文學の系譜』)、との謂ひにそれは繋がるのであらう。

【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】

 

 

 

四 浪漫主義といふこと

 

〔難解又は重要文〕:P420上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「ロマンティシズムとリアリズムとはかならずしも相反するものではありません。そのことは獨歩の作品において、もつとも適切にいへるのであつて、ワーズワースをはじめとしてイギリスのロマンティックたちを師とした獨歩こそ、わが近代文學史における正統的なロマンティックであり、その延長線に正統的なリアリズム文學が生れる可能性をもつてゐたといへませう」・・・重要文として轉載した。

 

〔難解又は重要文〕:P420下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「獨歩は一茶飯事のうちに時空を絶した生の真相を發見しようとしたのであります」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。察するにそれは、次章の冒頭文「生の充實感」と關聯して、當レジュメ冒頭〔難解又は重要文〕:P414上に記載した、その消息を物語つてゐるのではなからうか。參照⇒〔難解又は重要文〕:P414上及び參照:《恆存の「實在感」についての考察》

【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】

 

五 局外者の文學

 

〔難解又は重要文〕:P420下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「『喫驚したいといふのが僕の願なんです。』このことばは、なにか虚無的なひびきをもつてをりますが、理想家獨歩においては、ただたんに人生倦怠者の自棄的な捨てぜりふであるよりは、もつと積極的な感動への要求、つまり生の充實感の意識を意味してゐると考へるべきでせう。生の充實感とはそれに無意識にひたりきることではなく、同時に生の事實を明確に意識してゐることですから、そこが自然主義や私小説の文學概念と獨歩のそれとちがふところであります。(中略)獨歩のばあいは、表面では歌つてゐるやうにみえながら、作者はつねにその畫面のそとに局外者として立つてをります」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。文中の「局外者として立つ」とは、以下枠文で謂ふ「一人二役」のことではなからうか。そして「生の充實感とはそれに無意識にひたりきることではなく、同時に生の事實を明確に意識してゐること」と書いてゐるのは、以下枠文の「生きると同時に味はふ」との謂ひではなからうか。

拙發表文:《恆存の「實在感」についての考察》より參照:《恆存の「實在感」についての考察》

 

 實在感(「時間的全體感」把捉による)を獲得し、かかる現實を解決する(「無際限な平板さから、起きあがらう」とする)手段として、恆存は以下「Ⅰ」の人間に備はる習性を擧げ、更にそれを活用しての「Ⅱ」の行動を開示するのである。

Ⅰ.「與へられた條件の中にある自分の肉體と、それを客體として味はふことによつて、その條件のそとに出ようとする意識と、そこに役者の二重性(人間の持つ「一人二役」性)がある」(同P527)。

Ⅱ.「そもそも動作や作用、さらに人間の抽象的な營みを名詞化しようといふ働きそのものが、主體である自分を對象から分離し、距離をつくらうとする衝動なのです」(全三P204『日本および日本人』)。

と。即ち役者も人間も「動作や作用、さらに人間の抽象的な營みを名詞化(或は客體化)」する事で、對象から「主體である自分を分離」させる事が可能となる。同類的な言ひ方をすれば、「So called」や「フレイジング(役者の場合)」で、言葉(對象)と自己との距離間隔を至大化する事で、現實的「場」との沈湎に風穴を開ける事が可能となる。「演戯によつて、日常性を拒絶」(日常生活の無際限な平板さから脱出)出來得ると、その樣に恆存は提言するのである。

 

そしてⅡの動作を可能ならしめる必須要項として、意識の集中強烈化の必要性を恆存は以下の樣に謳つてゐる。

即ち、その動作を名詞化せんとする、或は「So called」「フレイジング」に供ふ「一人二役」の行爲には、當然の事として意識の集中強烈化が必要とされる。その集中強烈化が夾雑物(雑念)を交へずに上手く實現できた時初めて、吾々の意識は、平生足をさらはれてゐる樣な現實的平面から立ち上がる事が可能となる。その時「意識は、平面を横ばひする歴史(過去・現在・未來といふ時間的繼續)といふものに垂直に交はる」事が出來るのである(P532『人間・この劇的なるもの』)。即ち、意識が現在に垂直に交叉し、動作する(行動する・生きる)自己と、それを見る(味はふ)自己との「一人二役」の行爲が可能となるのだと。

その「一人二役」の行爲が發揮され、それでどうなるかと言へば、意識が「部分(現在)を部分として明確にとらへることによつて、その中に全體(過去・現在・未來といふ時間的全體)を實感」(P533)する事をそれは意味する。恆存文に據れば「意識的に部分(現在)としての自己を味はひ尽くす課程において、全體感(時間的全體感)が象徴的に甦る」のである。即ち「時間的全體感」を味はふ(獲得する)ことが可能となるのである。その結果として意識は「自分の肉體からそつと足をぬいて、下界を見おろしてゐるやうな感じ」になり、さうして 「上に脱け出た意識は、足下の現實が時々刻々に動いてゐることを實感」(P533)出來るやうになる。換言すれば「時間的全體感」獲得による「實在感」が其處に成立するのである。と恆存はその奧義を吾々に開示してくれる。

 かかる状態を文章で書くと長いが、意識としては一瞬の味はひなので、「上に脱け出た意識は、足下の現實が時々刻々に動いてゐることを實感」しても、また直ぐに無意識の海にそれは埋没しまふ。繼續的實感として意識の淵に留まらない爲、なかなか表現的な傳達は困難となる。(この邊の内容はなかなか理解しにくいと思ふがいかがであらうか)。

 繰り返すと、「名詞化しようといふ働き」によつて、「平面を横ばひする歴史的現實の日常性から、その無際限な平板さから」意識が立ち上がり、もつと生の充實感(實在感)を味はふ事が可能になると、恆存は提示するのである。

*次に「沈殿した生の習慣に反撥して、かへつて新鮮な感動を生きる第二の生をすなはち意識の生活を激しく求めたにさうゐありません。この生の分裂こそ、よかれあしかれ近代理智の出發點であり、また詩人にとつて本質的な條件ではないでせうか。(中略)獨歩のロマンティシズムには」かうした意識の生活の知的な澄明さが一貫してゐることに注意していただきたい」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「この生の分裂」とは、肉體(集團的自我A)と意識(精神:個人的自我B)の分裂と言ふ事ではなからうか。是が「近代理智の出發點」なのだと・・。因みに恆存は、ご本家西歐「近代理智の出發點」(ルネサンス)について以下の樣な文言を殘してゐる。即ちクリスト教(精神B主義)からの肉體(集團的自我A)の救出=「生の分裂」を。

*「ルネサンス人の第二の性向に氣づかざるをえない。それは合理A”⇒Aを貴重とする人間の理性のたくましい力(實證精神)である。あらゆる不合理なるもの、叛逆的なるもの、醜怪なるもの、情慾的なるもの、これら一切(A)を過去の(クリスト教が規定した精神B主義である)人間概念のそと(即ち原罪ではない「肯定的=積極的な生命慾A」として)に發見しながら、その發見と同時にかれらはそれを統一した人間概念の確立にむかひはじめるのである」(『小説の運命Ⅰ』P597)。

【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】

 

 

六 短篇形式について

 

〔難解又は重要文〕:P422下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「そこに描かれてゐるものは――たとへ數日、數年にわたる事件であるにせよ――永遠(C:時間的全體)をになつた一瞬時の人生斷面圖でなければなりません。いや、その作品のなかには――たいてい最後の數行においてでありますが、――さういふ一瞬時がなければならず、數日數年にわたる事件もその一瞬時を形成するための用意にすぎないのです。そしてこの一瞬時において、それまでわずかに動いてゐた時間は完全に停止します。そこに永遠が現れるのです。この停止のゆゑに短編小説は讀者にスタティックな感じを與へるのであります」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。察するに、以下の邊りの消息を物語つてゐるのではなからうか。特に「この一瞬時において、それまでわずかに動いてゐた時間は完全に停止します。そこに永遠が現れるのです」の文は、「意識が部分(現在)を部分として明確にとらへることによつて、その中に全體(過去・現在・未來といふ時間的全體)を實感」(P533)する。「意識的に部分(現在)としての自己を味はひ尽くす課程において、全體感(時間的全體感)が象徴的に甦る」を想起せられる。ついでに言ふと、恆存は何處かの評論でこの事を「時間の空間化」とも書いてゐたやうな記憶がかすかにある。

拙發表文:初囘『人間・この劇的なるもの』より 參照「全體感」についてzentaikan.pdf へのリンク圖)

 

「意識は、平面を横ばひする歴史(過去・現在・未来といふ時間的繼續)といふものに垂直に交る」時、「部分(現在)を部分として明確にとらへることによつて、その中に全體(過去・現在・未来といふ時間的全體C)を実感」する。「私たちが個人の全體性を恢復する唯一の道は、自分が部分に過ぎぬことを覺悟し、意識的に部分としての自己を味はひつくすこと、その味はひの過程において、全體感が象徴的に甦る」。将にその時、生きるといふ日常的平板さから「上に脱け出た意識は、足下の現實が時々刻々に動いてゐることを實感」するのである。

「宿命/自己劇化」による絶對への演戯が、上記の實感、今まさになすべきことをしてゐるといふ實感、「なさねばならぬことをしてゐるといふ實感」を得させるのである。その時「過去と未来とから切り放たれた現在だけが、過去・現在・未来といふ全體の象徴として存在してゐる」のである。そして「前後に暗黒があればこそ、その間の時間を光として感じることができる」のだと・・。

【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】

 

七 『落ち』について:八 『獨歩における短篇形式の意味

 

〔難解又は重要文〕:P423上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

*「『落ち』は、現實的な日常生活(A)、あるいは散文的な事實の世界(A)から一擧にして抽象の領域に飛躍するスプリング・ボードの役割をしてゐるといふことにほかなりません。(中略)眞の短篇小説においては、それはあくまで飛躍でなければなりません。そしてその飛躍を可能ならしめるものは、たえず作品のうらうちをなしてゐる作者の精神であります。それは詩と言つてもよろしい」。

424下「自分と世間のひとびととつながる場所は神(C)といふ抽象地帶を措いて他にないわけであります。獨歩の小説はさいうふ抽象地帶への憧憬であり、作品の『落ち』はそこへの飛躍であつたのです」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。「抽象の領域」とは、「神といふ抽象地帶」と言つてゐる樣に、「精神B⇒神・全體(C)」の事を言つてゐるのであらう。故に「それは詩と言つてもよろしい」とも・・。

【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】

 

九 『欺かざるの記』について

 

〔難解又は重要文〕:P426上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「すでに申しましたやうに、獨歩の文學の主題は生の意識の充實といふことであります。(中略)青年獨歩の心は、(中略)生の意識の純粹な昇華にのみ内面的志向をもつたのであります」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。〔難解又は重要文〕:P420下及び〔難解又は重要文〕:P422下等解説を參照されたし。

【どうであらうか、此の邊についての諸氏のご感想は・・・】

 

〔難解又は重要文〕:P428下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「獨歩はたとへ凡人であつても(中略)英雄と道を通じるものだと信じたのです。生まれながらの特殊人(英雄)ではなく、どんな凡人でも特殊人になりうる道を求めたのです。そしてそれは自己の生を意識して生きることからくる生の充實感といふことにほかなりません」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。既に上述した各項目における、拙發表文:《恆存の「實在感」についての考察》より參照:《恆存の「實在感」についての考察》を參照されたし。

 

〔難解又は重要文〕:P429上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「かれ(獨歩)の作品は自然主義作家や私小説作家のやうに、詩人としての選民意識を拂拭しきつて、あくまで澄みわたつてゐるのです。ぜんぜん作者の自我意識といふものを感じないのです。かれの自我意識は、そしてその實生活は、表現から遠ざかつてゐたこの『欺かざるの記』の時代に完全に抹殺されてしまつたのであります。獨歩は『欺かざるの記』によつて自己を社會化したといへませう」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。自然主義作家や私小説作家の「作者の自我意識」とは、以下枠文中の「自己主人公化(自己完成: 絶對的自己肯定)」に向けての「D2:自己表現・自由意思・如何に生くべき」のことであらう。獨歩の主題「生の意識の充實」(生の充實感)は以下の自己欺瞞から免れてゐると言ふことである。

「現實(A)的不滿⇒B:逃げ處としての個人的自我概念⇒C自己主人公化(自己完成:

絶對的自己肯定)⇔「詩神・護符・後ろ楯の思想:C2」⇒自己滿足・自己正當化(似非生

き甲斐・似非實在感)」

 そして、獨歩は『欺かざるの記』によつて自己を社會化した」とは、「彼我の差圖higanosa.pdf へのリンク」の右圖(西歐近代作家)の如く、或は鷗外漱石の如く實生活(A)の場で解決すべき問題は實生活において處理(A”⇒A) し、それを作品のうちに持ちこむやうな錯覺を犯さずにすんだのである」(全一P20『近代日本文學の系譜』)と言ふことにならう。

                                                                                      

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