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平成十六年十二月五日
吉野櫻雲

《吉野のまとめ》

防衛論の進め方についての疑問』:昭和五十五年五月:七十才著作
(全集七所載)(『人間不在の防衛論議』:単行本)



*外国語への適応異常(即ち、新漢語・外来語使用に内在する言葉の非自己所有化=
非「SO CALLED」)が齎す現象。
 ・・・「同じ言葉であるから同じ意味を有するといふ誤れる前提」が招く混乱と昏迷。  
     (P506)

*例:文民統制・民主主義・資本主義・自然主義と言ふ言葉の彼我の差。
 ・・・即ち、近代西欧精神=「神に型どれる人間の概念の探求」方法論と、日本=只の
   先進国化的方便の模倣、との違ひがそこに存在すると言ふことである。参照:『現 
   代人の救ひといふこと』

・構図(甲)「西欧十九世紀(個人主義)構図」から生じた近代概念(帝国主義・資本主義)
に構図(乙)「日本の精神主義的構図」で適応した「適応異常」の諸相。
 ・・・それが「戦前軍部暴走の『軍旗』と、戦後の『経済鬼』の適応異常の両面」にも顕れ
   てゐると福田恆存は言ふ。


「第四幕:このままでは最大の軍備をしても国は守れない」「第五幕:エピローグ」《日米
国民の防衛意思の差異》

「このままでは最大の軍備をしても国は守れない」


「第五幕:エピローグ:私は人間を信じない、しかもなほ・・・」
の難解点解明の試み(P534)
「私はいちわう、個人としての或る人間は信じる事は出来る。が、人間といふ抽象的存在
を信、不信の対象とする思考法には不慣れなのである。或るアメリカ人、或るソ連人を
信じても、集団としてのアメリカ合州国、ソビエト社会主義共和国連邦や、その政府、そ
の国民についても同様である。(中略)そして、個人として最も信じてゐないのは私自身
である。それに次いで家内、子供、友人と自分から遠くなるに随つて信じる度合が増し、
同時に信じられるか信じられないかといふ二者択一の関心度は薄れ、それぞれ相手を
一人格としてではなく、仕事や利害関係の枠組みにおける一機能として信じておくだけの
事に過ぎなくなる」(中略)
「私が自分を最も信じてゐないのは、最も信じたいからであり、人格としての完成体であ
りたいからである。故に、表に現れた言動としては恰も最も自分を信じてゐるが如く振舞
ふ。その『恰も』といふのは人格としての統一体を仮説としてゐるといふ事を意味する」

とはどう言ふ事を恆存は言はんとしてゐるのか・・・
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《以下、論考に際しての分類及び略号化》・・・恆存の「二元論」的捉へ方。
「支配=被支配の自己」・集団的自我・「九十九匹」・実生活・政治・・・・A
神に従属する自己・個人の純粋性・個人的自我・「一匹」・芸術・文学・・・・B
全体・絶対・神・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・C
場(場面)・自己完成・自己全体化・自己主人公化・個人主義化・・・・・・C"
関係・宿命・神意・天命・秩序・文化・・・・・・・・・・・・・・・D1
自己劇化(附き合ひ方)・演戯・自由意志・自己主張・信仰・・・・・・・・・D2
実在感・必然感・全体感・生き甲斐・充実感・・・・・・・・・D3
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*場(C")と関係(D1)の問題。そしてそれとの附き合ひ方(D2)
場が変化、即ち個人的(自分→家内→子供→友人)・公的にと変化すれば、関係もまた
距離的にも質的にも変化すると言ふ事。
即ち、距離・質を的確に掴み「So called」し「自己所有化」する事によつて、場への沈湎
と言ふ「適応異常」から免れる。その構築の完成が『完成せる統一体としての人格』(別
図参照)

○個人的場における信頼関係・・・「自分→家内→子供→友人」。
左へ戻る程、関係的距離が短く曖昧になり、為に「信頼関係=信ずる」
が怪しくなる。
○公的場における信頼関係・・・「個人的」との相違。(公的場で、信頼
関係をいちいち個人的に構築し「人間附き合ひをしてゐたなら身が
持たない」)。
以下の如く、場によつて関係を個人的にではなく公的に変化させて附き合ふ。即ち「信
頼」の方法論的転換による附き合ひ方。
場(C")・・・「国鉄の改札係」・職業的場(会社・上司・お得意先等)・近所・自治体・国。
場の変化によつて形成される「信頼関係D1」概念の変化(場が変れば関係も変る・・・
「機能的」・「職業的=組織的・機械的・合理的・利害的等」・
「地域的」・「国民的」。

 上記の、場の変化によつて生ずる関係的多様性(様々なD1)を、それぞれ方法論的に
対応解決(自己劇化:D2)し、氏の別な言葉で言へば「(場から生ずる)関係の真実を生
かす」或は「(場から生ずる)関係を形ある『物』にして見せる」と言ふ事が、即ち『完成せ
る統一体としての人格』(別図参照)に繋がる事なのである。

以上の事柄を、もう少し詳しく言ふと以下のやうになる。
同じ「信頼」と言ふ関係でも、相手との場の変化(個人的場・公的場・仕事的場等)で関
係も個人的・公的・仕事的関係と変化する。そして「関係:D1」の変化で対応(附き合ひ:
D2)も変つてくる。

個人的「場」で、
「個人として最も信じてゐないのは私自身である」とは・・・
個人的「場」では、相手(場)との関係の距離が遠い程、意識的緊張度は高くなる。当然
言葉遣ひの意識度は増す。身内よりは友人に対する方が言葉の選択に気を使つてゐる
筈である。(身内に対する程、言葉は無意識的に遣つてゐると言ふ事)
よつて、相手が自分である時は、関係の距離は最短(身近)である為、意識的緊張度は
最も低くなり、当然言葉遣ひの無意識的度合ひはかなり深くなる。
為に、自分と言ふ場との「関係」の緊張度が曖昧になり、其処に「自己満足・自己陶酔・
自家撞着等」の自己欺瞞が介入し易くなる。「満足感」等の証明は、自分で自分にする
「自己証明」となり幾らでも誤魔化しは利く(似非実在感:D3)。故に「私自身」が最も信じ
がたい、といふ事になるのでは。
個人的「信頼」の舞台では、家内→子供→友人と、関係的距離が遠くなるに従つて、意
識的緊張度(意識的言葉遣ひ)が増し、「信ずる」と言ふ仮説的態度の証明の必要性が
其処に出てくる。
個人的関係が遠い程、附き合ふには「信ずる」と言ふ演戯の度合、態度的表明を「せり
ふと動き」に見せる事が要求されてくる。当然信頼的言質には神経質になる。個人的に
附き合ふには、信ずると言ふ演戯(自己劇化)の必要の度合が深まる、と言ふ事では。
朋友には「朋友相信じ」の演戯の必要性が迫られる。家内・子供より距離が遠い分、「関
係(心の動き)を形ある物に見せる」演戯が必要とされてくる。
もつと遠い関係(例:「国鉄の改札係」・会社・自治体・国等)、即ち個人的ではなく公的な
関係では、それも望むなら個人的関係も可能ではあるが、信頼関係をいちいち個人的
に構築し、「人間附き合ひをしてゐたなら身が持たない」と言ふ事になるので、別な関係
を構築し信頼関係を解決する必要性に迫られてくる。
故に、「信頼関係」が「個人的に」から公的にへと変化し、質的にも「機能的」・「職業的=
組織的・機械的・合理的・利害的等」・「地域的」・「国民的」にへと変化する。
よつて「国家愛:国を愛せよ」と言ふ、国からの宿命(関係:D1)に対しての自己劇化(適
応:D2)は質的に変化し、個人的ではなくなり「防衛・国防」と言ふ「国民的」適応(自己
劇化)となる。
そして米国(場:C")に対しては、自国に対するやうな「国防・ナショナリズム」の質的適
応だけでは済まなくなり、自由主義陣営と言ふ名の宿命・関係(D1)に対しての、「国際
的同胞愛(安保条約による集団的自衛権)」と言ふ別質的な自己劇化(適応:D2)が必
要となるのである。
さうした様々な場との様々な関係に応じた、方法論的転換による「信頼」の附き合ひ方が
出来るのが「適応正常」であり、その究極な型が「完成せる統一体としての人格」なので
ある、と恆存は言つてゐるのではなからうか。

「私が自分を最も信じてゐないのは、最も信じたいからであり、人格としての完成体であ
りたいからである」とはどう言ふ事か・・・
即ち現実と理想(希望)と言ふ事では
「私が自分を最も信じてゐない」とは、現実的観測であり、未だ「人格としての完成体」で
あらずと言ふ事である。故に希望的観測として「人格としての完成体でありたい」と言ふ
事になる。

「表に現れた言動としては恰も最も自分を信じてゐるが如く振舞ふ」とはどう言ふこと
か・・・
最も信じがたい自分を「信じてゐるが如く振る舞ふ」とは、「人格としての完成体」と言ふ
仮説(別図:『完成せる統一体としての人格』)を信じ、それを自己劇化しようと言ふ事で
ある。氏の別な言葉で言へば「(場から生ずる)関係の真実を生かす」或は「(場から生
ずる)関係を形ある『物』にして見せる」と言ふ事である。
「恰も最も自分を信じてゐるが如く振舞ふ」とは、「人格としての完成体」と言ふ仮説を理
想に近づけんと「形ある『物』にして見せる」と言ふ自己劇化の行為を指すのである。理
想が『完成せる統一体としての人格』(別図参照)なのである。
その図を構築させるべく「私たちをしつかりさせてくれる」のが「別次元のフィクション(場:
C")としての国家」等なのである。
とそのやうに小生(吉野)は、恆存の上記難解文を解釈するのであるが・・・。

参考:《他の評論での同質的問題の展開》

《他の評論での同質的問題の展開》

以上



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