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4. 演劇論と人生論の一致・・・・「役者修業は人間修業」 の2
(以下のことはかなり難しい領域に入ることなのではなからうか。とほりいつぺん読んだ
だけでは理解が難く、又説明も難しい分野) ・・・各自の意見・不明点を聞きながら展開して行きたいと思ひます。
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《演技→演戯→人生》
福田恆存いはく。
「演劇とは時間芸術である」
「芸術とは演戯である」
「演戯とは、何とかして絶対的なものを見いださうとすること」
とは何を言はんとしてゐるのか。
*「役者にとつて最も重要なことは自分の演じる人物の性格ではなく劇の主題(全体)は
何であるかを見極める事、そして自分の役がその主題とどういふ関係にあるかを理解す ることである」(演劇入門:P73)別図参照 仏閣を例へて言へば、「本堂、五重塔、廻廊等の部分は全体たる七堂伽藍の構成にた
いして、緊密な調和を保つていなければなりません。そしてまた、それらの細部である彫 刻や柱や屋根なども、本堂は本堂としての、五重塔は五重塔としての全体的調和を保つ と同時に、それを通じて七堂伽藍の全体的調和につながつてゐなければならない。劇に おいても同様で、各登場人物は、表に現れた形においては主役と端役との別はありませ うが、それらが共に仕へる全体としての主題は一つのものであります。端役といふのは、 主役に対して端役なのではなく、劇の全体的調和に対して端役なのであります。それは 主役に仕へるものでもなく、主役の引立役でもない。引立役といへば、主役も端役も、と もに劇の主題の引立役にほかならないのです」(単「演劇入門:P72」) (参照:図解:演劇における関係の真実化)
* 場面から関係として生ずる、「心の動きを形のある『物』として見せるのがせりふの
力学」(「せりふと動き」) *「せりふは語られてゐる意味の伝達を目的とするものではない。一定状況の下(場面:
吉野注)において、それを支配し、それに支配されてゐる(宿命・関係:吉野注)人物の 意志や動きを表情や仕草と同じく形のある『物』として表出する(自己劇化:吉野注)事。 それが目的であり、意味の伝達はその為の手段に過ぎぬ」(全7「シェイクスピア劇のせ りふ」P359)・《実人生と演劇との相似。(図解:「完成せる統一体としての人格」: 図解:「演劇における関係の真実化」参照)》 *形ある「物」として見せるとは・・・話し手の心とせりふの字面との「距離」の長短をみせ
る(参照戯曲場面:p320上〜321)といふこと。 ・・・重要:評論『醒めて踊れ』へ続く問題。
*「すべてのせりふにおいて、それ自体の意味内容より関係の方が先行するといふ事、
観客に見せなければならぬのは、何よりもその関係なのだといふ事」 *「関係」を、話し手の心とせりふの字面との「距離」の長短操作で「空間に一つの建造
物がまざまざと見えて来る」やうに(評論『醒めて踊れ』)・・・とは。 *「大事なことはまず相手に掛かつてゐるせりふ一つ一つに鉤を付け、その都度、それ
を自分の心に引掛けながら言ふ、それは必ず動きや姿勢に出る筈のものです(中略) 『何を喋るか』ではなく『なぜ喋るのか』の『なぜ』を『何』の裏に見せてくれてこそ芝居の 面白味があるのです。 そしてそれはせりふの言ひ方ばかりでなく、それを言ふ位置、間合、姿勢、動きに
大きく懸つてをります」(「せりふと動き」) 以上についての質疑応答
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演劇論・人生論・国家論のキーワード・・・「醒めて踊れ」・「フレイジング」・
「So called」(「So called」は講演カセットに初出)
「醒めて踊れ」(P277)とはどういふことか。(以下各員の談論風発を期待する所であ
ります) 「根本は精神の問題である。名女優、必ずしも大女優ではない。巧くもないのに大女
優になれるのが日本の演劇界の風土だが、私は名女優に大女優になることを期待す る。自分を殺して役になり切るまでは名女優である。が、その殺した自分が役の上に再 び伸び上がつてきて初めて大女優といへる。(中略)自分の心は自分にしか解らない、自 分が一番解つてゐるのは自分だといふのは本当か、むしろ自分に一番解らぬ存在は自 分自身なのではないか。だからこそ、人々はとかく自己欺瞞に陥るのではないか。私は 芝居の役造りだけでなく、人間修業においても自己陶酔を好まない。やはり醒めて踊つ てもらひたい。さもないと、人はとかく自己欺瞞に陥る。しょせん、役者修業は人間修業 である」 「せりふと動き:p276」
〜〜〜〜以下、評論「醒めて踊れ」(全7:p391〜399)及び、講演カセット「日本の近
代化とその自立」より〜〜〜〜 「言葉とその話し手との間には距離があり、会話の中でも文章の中でもその距離は絶へ
ず変化する」 「日本の近代化の難しさが芝居の世界で解る。
芝居の中の適応異常=実人生における適応異常の証拠立て」
「日本は物質面における近代化は行はれたが、物質面に対しての、精神の面での『精神
の政治学』としての近代化は行はれてゐない」・・・とはどういふ事を言はんとしてゐるの か。(重要項目) 「科学製品は輸入できても科学精神は移植できなかつた」(「近代日本文学の系
譜」)・・・とは。(同上:重要項目) 「近代化といふのは私達がその過程の中に在り、それが何処へ到達するのか、また到
達しようとしてゐるのか、行方の全く解らぬものである以上、それに定義を与へる事は誰 にも出来る筈は無い」 「近代化の必要条件は技術や社会制度など、所謂『ハードウェア』のメカナイゼイション
(機械化)、システマライゼイション(組織化)、コンフォーマライゼイション(画一化)、ラシ ョナライゼイション(合理化)等々の所謂近代化に対処する精神の政治学の確立、即ち 所謂『ソフトウェア』の適応能力に在る。・・・(中略)・・・それに対応する方法は言葉や概 念に囚れず、逆にこれを利用すること、即ち言葉の用法にすべてが懸つてゐる。自分と 言葉との距離が測定出来ぬ人間は近代人ではない。いや人間ではない」 ・・・・とは何を言はんとしてゐるのか。
以上についての質疑応答
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言葉の用法について
「自分と言葉との距離の測定が出来る」とは「言葉を自己所有化する」と言ふ事。即ち、
意識度を高くし、言葉の用法に細心の注意をし、 「言葉を自分から遠く離す事によつて、逆にその言葉を精神化し、支配、操作する事が
出来る様になる」。さうする事によつて「自分に近付け、言葉を物そのものから離して自 分の所有にする事が可能になる」のである。 自分と言葉との距離の至大化=言葉の自己所有化 と言ふ事。
以下文も含めて(図解:言葉の自己所有化:参照)
その「自分と言葉との距離の至大化(距離を絶え間なく変化させられる技術)」する手
段として・・・ So called(所謂「・・・」)の能力の必要性=精神の近代化(p399)=演劇の場合:フレイ
ジング(句節法・文節の折目)の活用能力p400 といふ式が成り立つ。
(「フレイジングが正しく出来る為には話し手が自分と言葉との距離や場と自分との関係
を意識してゐる精神の働きが無ければならない」) *(注)フレイジングはphrasingでありphrase(句)の粒立てを意味する。せりふの美学、
力学の根幹を成す。 せりふは目に見える物体であり、力学の法則にしたがつて動くもの。
フレイジングとは、平面図を立体的な三次元の世界に見せる遠近法の技術。その典型
がシェークスピアの作詩法「ブランクバース(弱強五歩格の律文)」である。(「シェークス ピア劇のせりふ」より要旨) 「言葉と話し手との間に距離を保ち、その距離を絶え間なく変化させねばならぬのと同様
に、相手と共に造り上げた場と自分との間にも距離を保たねばならず、その距離を絶え ず変化させ得る能力がなければいけない。さういふ能力こそ、精神の政治学としての近 代化といふものなのである」(p398) ・・・・精神の政治学とは何を意味してゐるのか。この言葉は「近代の宿命」
のメインテーマでもある。
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以上の事から要約するに、「醒めて踊れ」とは、
言葉をその物から離し、自己所有化し行動しろと言ふことでは。
「近代化」なら、近代と言ふ言葉に呑み込まれず、メカナイゼイション(機械化)、ラショ
ナライゼイション(合理化)等々の言葉をSo called(所謂:「・・・」)で捉へ、さうすることに よつて「場と自己とを冷静に眺め得る目を持つこと」。即ち西欧(近代)と日本との距離を 明確に捉へる事。別な言葉で言へば、必要悪として近代化につきあふと言ふ事では。 個人を確立(強靭化)し場面に沈湎せず、フレイジング・So called で言葉(観念)を自
己所有化し、近代化を操る精神(関係の適応正常化)を持つ事、それが日本人の精神 の近代化。(講演カセット「日本の近代化とその自立」より) 「醒めて踊れ」
――>役者の場合:意識を強度にし、フレイジングでせりふを自己所有化。
「意識が強度になればなるほど、話し手と言葉との距離は大になる。・・・話し手
とその言葉との距離が観客の目に見える様に喋れ。・・・口にしてゐる一つ一つの言葉を どの程度に意識してゐるか、その度合ひを役者として明確に把へろ」(「せりふと動き」P 300) 「大事な事はまず相手に掛つてゐるせりふ一つ一つに鉤を附け、その都度、それを自分
の心に引掛けながら言ふ、それは必ず動きや姿勢に出る筈のもの」。それは「何を喋る かではなく、なぜ喋るかを『何』の裏に見せる」と同意。その方法論がフレイジング。(P3 21)〔好演例、内田稔:吉野注。又「フレイジング無しの好見本」として氏は仲代達矢を 上げてゐる〕。 即ち、強烈な意識でどれだけその距離を把へてゐるか、その意識の度合ひを観客に見
せろ、(距離の大=意識の大)と言ふ事か。 ――>実人生の場合:意識を強度にし、言葉との距離を把握。即ちSo called で言
葉(観念)を自己所有化。 とは・・・「機械化・合理化・組織化」等々と言ふ近代化の観念(何)の裏に、それ
に呑み込まれず、強烈な意識で「必要悪、或は歴史的必然」とSo calledすることによつ て、近代化(関係)に「なぜ」と言ふ必然性を持たせて、把へて見せる事が出来る。 (図解:言葉の自己所有化参照)
又、恆存はすでに昭和二十三年にかうも言つてゐる。
「文学者とは、(中略)たんなる現実の素材に意味的連関を与へるやう強烈な意識を持
つて(素材を自己所有化する事か:吉野注)、その生活を主題的に統一して生きぬかうと する人間にほかならない」(「急進的文学論の位置づけ」P297) と言ふ事では。(即ち役者も、精神の近代化も、共に「強度の意識を持たねばならない」)
上記の二つの内容は曰く言ひ表しがたく、もう少し説明を要するやうに思ふ。・・・以下
「シェークスピア劇のせりふ」(言葉は行動する)を参照しつつ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「フレイジングと言ふ言葉に、日頃から私は節は固より、句、文の粒立て、区切り、ある
いはそれを果たし得た後での連結、並列、抑揚等のすべてを含めて用ゐてゐる」(p35 0) 「何」の裏に「なぜ(必然性)」を見せるための方法論が「フレイジング・So called」・・・「フ
レイジングはphrasingでありphrase(句)の粒立てを意味する。フレイジングとは、平面 図を立体的な三次元の世界に見せる遠近法の技術」。・・・即ち、話し手とせりふとの距 離を、その方法論で至大化させることによつて、関係も至大化し場面への沈湎から免れ る。場面から発生する「心の動き(関係)」が寝そべることなく、「なぜ」と言ふ強い必然性 が生まれる。・・・関係の必然性を見せる事が可能となり、せりふに意志と行動性を持た せることが出来る。「ハムレットは今、この時、なぜ、かういふ言葉で、かういふ事を言ふ のか、その気持ち・必然性が目に見える様に伝へる」事が可能となるのである。「言葉は 行動する」その行動性を、強い必然性を。・・・何をではなく、方法論(フレイジング・So called)で人物の意志や心の動き、即ち「なぜ」をリアルに表せる。・・・意味の伝達(な に)よりも目的達成の為の効果の方(なぜ=関係の必然性)を重要した方が・・・。何より 大事なのは、その言葉の背後にある心の動きを声の形に出す事。・・・平易な意味伝達 (なに)よりも心の表情(なぜ)を。(要旨:P339から) とは、
言葉は写実ではなく用途(講演カセット「シェークスピアの魅力」より要旨)
・・・「言葉とは、意味の伝達以上に「用途」の役割を持つてゐるといふ事。写実(何)より
も用途(なぜ)を。人間を目的・行動に駆り遣る為の鞭的用途(スプリングボード)の役割 を持つ」。言葉は物を指し示す物の影(写実)ではなく「実在物=関係」を目に見える様に伝へる用途を持つてゐるものなのである。 故に「言葉(せりふ)は行動する」。フレイジングが言葉からその内奥にある行動性(関
係)を引き出す役目を果たす。「なぜ」が際立つ。即ち、関係を行動(自己劇化)へと転化 させる、「スプリングボード」としての役割・方法論がフレイジングでありSo calledなので は。 「芝居は造形美術。台本は設計図、それにしたがひ、一つ一つのせりふ、一つ一つ場
面、登場人物一人一人の役割、さういふものの積み重ねによつて土台、柱が、正面入口 が、窓が造られて行き、一晩の芝居を見終わつ後、装置を排除した舞台空間に配置よ ろしく堂塔が聳え立つて見えるかどうか、それが見えねばならぬ筈だが、それを見せる 事が芝居の目的ではない。芝居は造形美術であるが、いはゆる造形美術と異る点は造 形する過程、すなはち工程そのもののリズムを楽しませる事にある。その演劇建築術の 基本がせりふの力学、フレイジング。・・・過去の新劇に最も欠けてゐた事は、実はリアリ ズムなのである、せりふの物理学的リアリティーなのである。・・・」(要旨:「シェークスピ ア劇のせりふ」よりp359) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
結局、以下の事に繋がつて来るのである。
フレイジング・So called で言葉(せりふ)と自己との距離を、「形ある『物』にして把握
し、それを目に見える様に見せる」ことによつて、場との関係をそこに具現するといふこ とに。即ち、話し手の心とせりふの字面との「距離」の長短を測定し、長短の表現(言葉 の用法)で関係性を表す。といふことに。 別な言ひ方をすれば、せりふの力学(距離の長短操作=フレイジング・So called)で、
心の動き(関係)を的確に把握(適応正常化)すると言ふ事である。 要するに、「場との関係と言ふ実在物を潜在物であるせりふ(言葉)を使ひ、そのしゃ
べり方(せりふ廻し)・フレイジング・So called で形化して見せる」と言ふことに他ならな い。「なぜなら関係と称する実在物は潜在的には一つのせりふ(問答・対話・独白)によ つて表し得るものだから」。(図解:言葉の自己所有化参照) 「距離」の長短操作=フレイジング・So called・・・・とは「動作や作用、さらに人間の抽
象的な営みを名詞化(「・・・すること」)しようといふ働き」と同意であり、名詞化とは、「主 体である自分を対象から分離し、距離をつくらうとする衝動」である。 日本語にさういふ性格が乏しいことは、日本人にさういふ心理がかけてゐることの表れ」
(「日本および日本人」より)。為に期せずしてその短所が「近代化適応異常」として顕れ たといふ事になるのでは。 「醒めて踊れ」とは、So called で言葉との距離を的確に保持し、さうすることによつて場
に沈湎せず居つかないようにする事。 近代化で言へば、メカナイゼイション(機械化)、システマライゼイション(組織化)、コンフ
ォーマライゼイション(画一化)、ラショナライゼイション(合理化)等々を、「・・・」でSo called し距離を的確に保持し、近代といふ場に無闇に居つかないと言ふ事。 ・・・とは、上記の近代化手段の観念は功罪半ば、罪として人間的関係の希薄化・孤立化
を齎す。制度化に際しての適応異常がそれを齎すのである。即ちさうならない為には「醒 めて踊れ」、必要悪として近代化につきあふといふことになる。 「醒めて踊れ」とは、言葉(観念)を自己所有化し、場との関係を言葉の用法(自分と言
葉との距離:「So called」)で、形ある『物』として把握して、それを表現して見せるといふ こと。 さうした、別の言葉で言へば、「場との関係の真実を生かす」といふ行為によつてしか、
定義不能の個人及び国の「近代化」と言ふものをはかることは出来ないといふこと。 ところが日本は、場への適応異常の為それが出来なかつた。(日本は、物質的には近
代化が出来たが、精神の面では近代化が出来なかつた) 言葉(観念)を自己所有化し、近代化を操る精神(場との関係の適応正常化)を持つ事、
即ち必要悪として距離をおいて近代化を捉へられる精神、それが日本人の精神の近代 化である。 「あらゆる分野の中で芸術が一番近代化が遅れてゐる。演劇でそれが実現出来れば日
本の文化は安心。日本は精神の近代化が出来た事になる」。と福田恆存は述べてゐ る。(講演カセット「日本の近代化とその自立」より) 洵に見事に氏は、「言葉(観念)の自己所有化」による場及び関係への適応正常化を、
国家・個人・役者へと展開してゐる。演劇論と人生論・国家論の一致、「役者修業は人間 修業」の件りを将に見事に・・・。(しかし、この奥意を理解することの、何といふ難しい事 か。はつきり申し上げて小生は此処まで書き進めるにかなりの疲れを生じたのである。 無論読解力の悪さの為ではあるが) ・・・・上記の事は非常に難しい問題だと小生は思ふのであります。
よつて以上の問題について、各自の感想及び不明点を・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・
以下意味不明点?どなたか奥意を教へて下されたし。
「一つのせりふを発する前に話し手の脳裏にあつた想念は、その思いの丈を言ひ尽くさ
うとして最初の一語を発した瞬間から、言葉が言葉を喚び、言葉が想念を支配し始め る。そしてその一つのせりふを言ひ終わつた時、彼は話し始める前に脳裏にあつた想念 を十分に表出し得たとは決して思つてゐないばかりか、時には言葉によつて裏切られた と思ふ事がある。いずれにせよ、一つのせりふはそれだけでは不十分である。同様にそ のせりふを発せしめた想念が、彼の過去に支へられてゐながらそのすべてを表してゐる のではなく、限定されたその場の状況によつて刺激され、喚起されただけのものに過ぎ ない以上、その想念自体が、すでに彼の全生活にとつて不十分であり、往々にして彼自 身を裏切る。が不十分であつても、裏切られても彼の存在は揺るがない、深化し、無限 に完成に近附く、さういふ人生があり、さういふ人物の登場する芝居がある。シェークス ピア劇の優れたものはすべてそのやうに書かれてゐる。・・・(中略)・・・彼等は自分の想 念に、そこから生じた言葉や行動に裏切られなかつたら、決して到達し得なかつた自分 を獲得する」(「シェークスピア劇のせりふ」)p349・・・とはどういふ事をいつてゐるの か。 それは「言葉(せりふ)は行動する」と言ふ事を言つてゐるのではなからうか。(発表者の
見解) ・・・「自分の想念に、そこから生じた言葉や行動に、往々にして裏切られる事がある」の
は止むを得ない。にも拘らず、「存在は揺るぐ事はなく、彼の存在を深化し無限に完成に 近附けて行く」と言ふのは、「言葉とは、意味の伝達以上に「用途」の役割を持つてゐる からでは。写実(何)よりも用途(なぜ)の役割を。人間を目的・行動に駆り遣る為の鞭的 用途(スプリングボード)の役割を持つ為に、存在を深化し無限に完成に近附けて行くの では。 言葉が「何」の他に、場からの関係の伝達「なぜ」の意を強く持つてゐると言ふ事は、関
係の内に強く潜在する意志性(「言霊」とも言へるのか)を言葉は含み持つてゐると言へ る。それが時に存在を裏切りながらも存在を完成に近付ける原動力になる。「何とかして 絶対なるものに迫らうとする演戯」への「スプリングボード」或は鞭的役割を果たすので ある。将に、「言葉(せりふ)は行動する」の意がここにあるのでは・・・。 @@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
「自己を隠し預ける場所」について(「醒めて踊れ」P399)
「個人を確立(強靭化)し場面に沈湎せず、フレイジング・So called で言葉(観念)を自
己所有化し、近代化を操る精神(関係の適応正常)を持つ事、それが日本人の精神の 近代化」 上記文中で、「個人を確立(強靭化)し場面に沈湎せず」、即ち居つかない為には、と氏
は言ひ。 或は、
「場を構成しながら、或は場によつて自己を変貌させながら、しかも一貫した人格を保ち
続ける為には、場と自己とを冷静に眺め得る目を持たなければならない。或は現実の場 と自己とを超えた何処かに(絶対・全体にといふ事か。:吉野注)自己を隠し預ける場所 を持たなければならない」 と言ふ。
その「自己を隠し預ける場所」とは何を意味し、どう言ふ事を言はんとしてゐるのか。「自
分自身からもっと自由に」(「せりふと動き」P276)の意もその中に含まれてゐると小生 は思ふのではありますが。そして当然「個人主義の限界」への適応正常化の問題に も・・・。 上記の事柄は、,「完成せる統一体としての人格」・「何を敵としたかによつて表現せら
れるもの」の問題に通じていくのでは・・・。下文1・2及び「完成せる統一体としての人格 の図」参照。 この件は是非各員の意見を伺ひたい処であります。
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《参照文》
1.「何を敵としたかによつて表現せられるもの」
「自己劇化は自己より大いなるものの存在(全体・絶対:吉野注)を前提として、はじめて
存在する。自己は自己を表現しきれぬばかりでなく、自己は自己を劇化しきれない。(何 を敵〔仕へる対象、即ち全体・絶対か個人かと言ふ事:吉野注〕として選んだかによつ て、そしてそれといかにたたかふかによつて、はじめて自己は表現せられる:吉野注) (「自己劇化と告白」昭和27年著:全2:P415)(別図:参照」) 2.「完成せる統一体としての人格」図解:「完成せる統一体としての人格」
(全集6:覚書の「仮説(フィクション)論」より)
「一般の日本人は、自分の子供が戦場に駆り立てられ、殺されるのが嫌だからと言つ
て、戦争に反対し、軍隊に反発し、徴兵制度を否定する。が、これは『母親』の感情であ る。その点は『父親』でも同じであらう、が、『父親』は論理の筋道を立てる。国家(場面: 吉野注)といふフィクションを成り立たせるためは、子供が戦場に駆り立てられるのも止 むを得ないと考へ、そのための制度もまたフィクションとして認める。が、彼にも感情が ある。自分の子供だけは徴兵されないように小細工するかも知れぬ。私はそれもまた可 と考へる。『父親』の人格の中には国民としての仮面(役・自己劇化:吉野注)と親として の仮面と二つがあり、一人でその二役を演じ分けてゐるだけの事である。そして、その 仮面の使ひ分けを一つの完成した統一体として為し得るものが人格なのである。『私た ちはしつかりしてゐない』という自覚が、『私たち』をしつかりさせてくれる別次元のフィク ションとしての国家や防衛を要請するのである、要するに人格も法も国家も、すべてはフ ィクションなのであり、迫持(せりもち)、控へ壁などの備へによつて、その崩壊を防ぎ、 努めてその維持を工夫しなければならぬものなのである」(P703全6「覚書」)(別図:参 照」) 「問題は、すべてはフィクションであり、それを協力して造上げるのに一役買つてゐる国
民の一人、公務員の一人、家族の一人といふ何役かを操る自分の中の集団的自己をひ とつの堅固なフィクションとしての統一体たらしめる原動力は何かといふ事である。それ は純粋な個人的自己であり、それがもし過去の歴史と大自然の生命力(時間的・空間的 全体:吉野注)に繋つてゐなければ、人格は崩壊する。現代の人間に最も欠けているも のはその明確な意識ではないか」(P704全6「覚書」):(別図1:参照」) 「要するに人格も法も国家も、すべてはフィクションなのであり、迫持(せりもち)、控へ壁
などの備へによつて、その崩壊を防ぎ、努めてその維持を工夫しなければならぬものな のである」 「(関係の)真実を生かすために1つのお面をかぶる(役を演ずる・自己劇化:吉野注)」
「演戯なしには人生は成り立たない。つまり仮説なしには成り立たない」「真実といふの は、ひとつの関係の中にある。個々の実体よりはその関係の方が先に存在している。人 生といふものは、関係が真実なんで、一生涯自分のおかれた関係の中でもつて動いて ゐる。いろいろな関係を処理していき、それらの集積された関係がその人の生涯といふ もの。それを私は演戯だといふ」「われわれがこしらへたものは、相対的であつて絶対で はないといふ原理をちやんと心得て、こいつを絶対化(仮説の完璧化・築城の完璧化: 吉野注)しようといふ努力」。これは又「結婚生活も演戯し通す(結婚といふ仮説、関係の 完璧化:吉野注)」といふ男女間の問題の同一性にもつながる。《単「生き甲斐といふ事」 対談「反近代につひて」(P195・199)》 「関係の真実を生かすといふ事」=自己劇化(宿命・関係演戯)
(図解:「完成せる統一体としての人格」:参照」)
絶対 / 演戯・・・宿命/自己劇化=真の自由=実在感・全体感(必然感)=幸福感
福田恆存は、「近代の衰退」様相からの、又西欧「個人主義の限界」からの脱出口とし
て、自己劇化(宿命・関係演戯)を上述のやうに説くのである。《ある意味では、適応正常 化としての「日本型近代自我(個人主義)」の思ひも込めてゐるのではと小生は思ふので あるが。又、「宿命/自己劇化」の中に宿命愛として、ニーチェの運命愛(アモールファー ティー)に繋がるものをも感じるのであるが・・・》。 そしてそこに幸福感・生き甲斐・実在感・全体感(必然感)が現成されるのであると。(別
図:参照」) 上記の事柄を、氏の以下の文章に的確に知ることが出来る。
「西欧の生きかたと私たちの間の距離を認識しろ。・・・中略・・・異質のものとしてとら
へ、位置づけすること、さうすることによつて、『日本及び日本人』の独立が可能になる。 それを日本人の個人主義の成立と見なす」と。(「日本及び日本人」より) 《以上討論》
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「芸術とは演戯である」
「演戯とは、何とかして絶対的なものを見いださうとすること」
上記の文と福田氏の文作活動(一点しか見へない)との照合。禅的な世界?(中村保男:
「絶対の探求」より) ・・・・「前後暗黒化」による全体感獲得、と関連した問題。
以下、なぜ演劇によつて「全体感」が得られるかの追求。(各自の感想及び不明点)
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設問: 「部分を部分として明確にとらへることによつて、その中に全体(過去・現在・未
来といふ時間的全体:吉野注)を実感する」。その時、「過去と未来とから切り放たれた 現在だけが、過去・現在・未来といふ全体の象徴として存在してゐる」 ・・・・とはどう言ふ意味か。(理解できさうで理解できにくい問題)
―――福田氏の文作活動(「微かな一点しか火が点つてゐない」・・・「批評家の手帖」第
43節より)との照合―――。禅的な世界?(土屋道雄の指摘。中村保男著「絶対の探 求」P52より)。 ・・・・例:座禅(数息観)・禅語「前後際断」(「前後暗黒化」)に通ずる問題。
「演劇とは時間芸術である」:(演劇による時間的全体感・実在感の獲得。かつ絶対への
希求) *時間的全体感とは何か・・・・「必然感」。今まさになすべきことをしてゐるといふ実感。
「なさねばならぬことをしてゐるといふ実感」。即ち宿命を演じてゐるといふ実在感。 《実在感・時間的全体感獲得の構図》
図は、《実在感・時間的全体感獲得の構図》を参照
「意識は、平面を横ばひする歴史(過去・現在・未来といふ時間的継続:吉野注)とい
ふものに垂直に交る」時、「部分(現在:吉野注)を部分として明確にとらへることによつ て、その中に全体(過去・現在・未来といふ時間的全体:吉野注)を実感」する。「私たち が個人の全体性を恢復する唯一の道は、自分が部分に過ぎぬことを覚悟し、意識的に 部分としての自己を味はひつくすこと、その味はひの過程において、全体感が象徴的に 甦る」。将にその時、生きるといふ日常的平板さから「上に脱け出た意識は、足下の現 実が時々刻々に動いてゐることを実感」するのである。「宿命/自己劇化」による絶対へ の演戯が、上記の実感、今まさになすべきことをしてゐるといふ実感、「なさねばならぬ ことをしてゐるといふ実感」を得させるのである。その時「過去と未来とから切り放たれた 現在だけが、過去・現在・未来といふ全体の象徴として存在してゐる」のである。そして 「前後に暗黒があればこそ、その間の時間を光として感じることができる」。 参照:[全3「人間・この・・・」(P532)(P533)]、(関連及び参考評論:「醒めて踊れ」
「せりふと動き」 ) 以上の問題について、各自の感想及び不明点を・・・・
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《シェークスピア:名せりふ》
「あすが来、あすが去り、さうして一日一日とこきざみに、時の階を滑り落ちて行く、この
世の終りに辿り着くまで。いつも、きのうといふ日が、愚か者の塵にまみれて死ぬ道筋を 照らしてきたのだ。消えろ、消えろ、つかの間の灯火!人の生涯は動きまはる影にすぎ ぬ。あはれな役者だ、ほんの自分の出場のときだけ、舞台の上で、みえを切つたり、喚 いたり、そしてとどのつまりは消へてなくなる。白痴のおしゃべり同然、がやがやわやわ や、すさまじいばかり、何のとりとめもありはしない」(「マクベス」) 「全世界は1つの舞台。そこでは男女を問はぬ、人間はすべて役者に過ぎぬ。それぞれ
出があり引込みあり、しかも生涯にいろいろな役を演じ分けているのだ」(「お気に召すま ま」) 注:上記二つのせりふには似てゐながら、明確なる違いがある。それはどう言ふ事か。
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以下の問題は時間があれば・・・
《関連的緊急設問》
精神の政治学とは・・・「カエサルのものはカエサルに聞け」と同意では。
その意味では、松原正氏は福田氏の論を更に追つてゐるものと見る事が出来る。
――>西尾幹二・松原正のどちらが氏の正統を継ぐものかの問題。
西尾幹二サイト、「インターネット日録」で取り上げられた福田氏との見解の相違の問
題。 (西尾幹二の文)
一例をあげれば、私は「平等」に対する考え方が先生と違っている。日本の国民の強さ
は太平楽めいた民衆の平等意識にあると私は思っている。先生は階級意識を欠くから 日本人はダメだというような意味のことをよくユーモアをこめて語っていたが、イギリス社 会をモデルにして日本を見ているように思えて、私には理解しがたかった。 外からどんどん新しい文明を入れ、古い自分を捨てていく日本人の一見軽薄なあり方
に、福田先生はいつも懐疑的だったが、私はそこに日本人のバイタリティを発見し、期待 していた。私は経済繁栄を目指した日本の選択を肯定さえしていた。先生とはたぶんこ の点が決定的に違っていた。 古い文明を大事に保守するヨーロッパと、新しい文明を矢継早に取り入れる日本との
比較で、先生は大体前者に軍配を上げ、日本の西洋にとうてい及ばぬ所以を説かれた が、私はヨーロッパの古い文明にある種の硬直を感じ、しかも日本の方がヨーロッパより ある意味で古く、ヨーロッパに新しさと底の浅さがあることも少しづつ意識するようになっ た。 対象との距離感の喪失=日本人の弱点(p52日本および日本人:単参照)・・・・福田・
西尾の見解の相違の追及が読書会では必要なのでは。 福田の論・・・推論ではあるが。・・・・精神の政治学(「処世術」と講演カセットでは言ひか
へてゐるやうだが)によつて「集団的自我」のものは「集団的自我」に「個人的自我」のも のは「個人的自我」にと徹底していく。その方法論上から、自己欺瞞を抉り出し、言葉 (観念)の自己所有化による場及び関係への適応正常化を図る。それが取りも直さず 「対象との距離感の獲得」であると。 「何にでもべたべたと彼我の差を捉へずに吸い付いて行く、日本の『自他未分の神道的
生活態度』」(p51「日本および日本人」:単参照) ・・・とは言葉の自己所有化の不在=距離の見えなさ。と言ひ換へられるのでは。
またかうも氏は言つてゐる。
・・・「どこの民族でも長所がそのまま短所になる」(p54)と。
「集団的自我」と「個人的自我」との混同の問題なのか。
「個人的自我」の問題を「集団的自我」的(金銭的問題)問題に解決してきた日本の歴
史。 そしてそれは、かたや「集団的自我」の問題を「個人的自我」的側面に引きずりこんだ、
所謂自己欺瞞にも換言されるテーマとも言へるのでは。自己欺瞞の陥穽に落ち易い日 本人の民族性と言ふことか。 それを西尾はイエスと捉へ、福田は糾弾したといふ事か。または西尾は長所の側面を
のみ強調してゐると言ふ事か・・・・。 上記の「何でも金に」といふ問題は・・・それを引き継いでゐるのは松原正である。その
意味での継承的お弟子さんと言へるのでは。(参照:松原正著「夏目漱石」)」) 以上の問題について、各自の感想及び不明点を・・・・
をはり
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