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平成十五年五月二十五日
発表者 吉野櫻雲
注:以下、文中(P000)は全集第3巻「人間・この劇的なるもの」P000をさす。他、「単」 は単行本を示す。 「近代」とは何か。・・・・福田恆存は、「近代」に衰退(デクリネイション)の一様相があると 見た。(単:マクベス解題P151、全2:シェイクスピアP22) そして、「近代化をネセサリー・イーブル(必要悪)」と考へた。(単:「生き甲斐といふ事」 対談:近代化について P172) 1.「マクベス」に見る、「近代理智(自由・個人主義:吉野注)、その衰退の一様相」 「マクベス」に先取される近代理智の時代的衰退様相。・・・・宿命(関係)不在、即ち「解 放されて仕へるべき何をも持たぬ自我の不安」と言ふ事。(全2:シェイクスピアP27) 「あすが来、あすが去り、さうして一日一日とこきざみに、時の階を滑り落ちて行く、この 世の終りに辿り着くまで。いつも、きのうといふ日が、愚か者の塵にまみれて死ぬ道筋を 照らしてきたのだ。消えろ、消えろ、つかの間の灯火!人の生涯は動きまはる影にすぎ ぬ。あはれな役者だ、ほんの自分の出場のときだけ、舞台の上で、みえを切つたり、喚 いたり、そしてとどのつまりは消へてなくなる。白痴のおしゃべり同然、がやがやわやわ や、すさまじいばかり、何のとりとめもありはしない」(単「マクベス」:P118) ―――――――――――――――――――――― 「王冠や笏(『王権神授』による、神に与へられた宿命・関係:吉野注)を取り去つてみれ ば果たして人は何者であるか」 「開放さるべき個性の実体とは何か」 ・・・・ただそこに露呈されてゐるものは、「解放されて仕へるべき何物(絶対・全体:吉野 注)をも持たぬ自我の不安」ではなかろうか。 近代=宿命(関係)不在=自由=孤独=自我の不安、であると。 それを、福田恆存は衰退と見た。そしてシェイクスピアにも「昇騰してやまぬ想像力の自 由な羽ばたきの(ルネッサンスの子としての:吉野注)影に何か黒い空洞(近代の孤独 感:吉野注)があって、恐らく時折はそこを冷たい風がさつと通り抜けるのが感じられた に相違ない」(全2:シェイクスピアP27)のだと。 そしてその「自我の不安」、それがマクベスの主題であると。 自由(ルネサンス・近代の別名)、とは「動きまはる影」、そして個人主義とは「あはれな 役者」ではなかろうか。 「動きまはる影」とは、仕へるべき全体・絶対(神)を喪つた近代人の姿。 (ルネサンス = 中世 ― 神)〔露思想家:ベルジャーエフ?〕 「宿命(関係)不在=自由=孤独=自我の不安」から取る人の行動とは、「ほんの自分 の出場のときだけ、舞台の上で、みえを切つたり、喚いたり、そしてとどのつまりは消へ てなくなる。白痴のおしゃべり同然、がやがやわやわや、すさまじいばかり、何のとりとめ もありはしない」(単「マクベス」:P118)に過ぎぬのではなかろうか。さうした「関係」を喪 失した、ただの「動きまはる影、あはれな役者」が「自由」・「個人主義」の実体なのでは なかろうかと。 「自由を内に求めれば(宿命・関係喪失:吉野注)孤独になる。それを外に求めれば、特 権階級への昇格(自己全体化・マクベス化:吉野注)を目ざさざるをえない」(「人間・こ の」P561)。その「特権階級」なるものこそ、なんのことはない、「動きまはる影、あはれ な役者」なのである。ただその実体がナルシズムが糊塗してゐるため見へない。 「近代の目標とした個性の尊厳(自由・個人主義:吉野注)といふ事が凡人に教へた夢の 内容とは、そんなことだったのか。そして彼等の最後に辿りつく慰藉と休息とは、『人の 生涯は動きまはる影にすぎぬといふ諦め』以外に何も無いのであろうか。シェイクスピア が、『マクベス』を書いた時から三百年後の我々現代人にとつても、いまだ回答は保留さ れたままなのであらうか」(全2:シェイクスピアP28)と。 そして更に我々は、「シェイクスピア劇」から個人主義の限界、衰退の近代理智の様相を 知る事ができると福田恆存は言ふ。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 その前に、上記について、発表者(吉野)の追論的展開をさせて頂きます。 「開放され仕へるべきもの」を見失つた人間は何をなすか。・・・・ 自己主張・自由意志(マクベス的に言えば「野心」、もうひとつ別の言葉で言えば「ボブァ リズム:自己美化」)による自己主人公化(自己全体化)を画策するのでは。 かつて在つた神(全体者・絶対者)の代はりに、自己をその場に祀り上げるとも言へる。 さうしなくては、人は気が済まぬのでは。 (個人主義的に言へば、神の代はりに自己の手による自己の完成化を図る。とも言ふこ とができる) ・・・・しかしそれは所詮、自己満足に堕する事ではなかろうか。 自己を目的格として舞台上に祀り上げ、ほんのいつとき自分の出場で見得を切つての 自己満足・ナルシズムに浸つている、ただの「動きまはる影、あはれな役者」に過ぎぬの ではあるまいか。 「意は似せやすく形は似せ難し」。自己を全体化し絶対化すれば「気持ちなどといふもの は眼に見へぬ」から、幾らでも思ひ込みの「自己完成」と言ふ自己陶酔ができる。個人主 義が味はふ自己証明(幸福感・生き甲斐)とは、そのナルシズムに過ぎぬのではと言ふ 事。 それは、自己が作る自己への関係(宿命)なのであるから、その関係からもたらされる自 己証明(幸福感・生き甲斐)はいくらでも誤魔化しはきく。よつて、自己満足とナルシズム (似非幸福感)に帰結する。(別図:《個人主義の構図》参照) 個人主義とは、畢竟ナルシズム・エゴイズムに帰結する、と言ふ事なのでは。 「オセローは最後に自分自身をだまさずには、死んでいけなかつたのだ」(ボブァリズム) (P555) その死を覆ふものは、自己満足、ナルシズム。即ち「ひとつの断片に過ぎぬ個人が全体 の必然性を選び司るという論理的矛盾」(P557)、によらしむるものと言ふ事か。自己を 目的格とした「ボブァリズム」はその結末としてナルシズム(独り合点)にとどまる。シェイ クスピアは近代人の持つ特性、ボブァリズム(さうありたい自己)を描き、チェーホフは 「独り合点」(全5「批評家の手帳」P75〜83)を戯曲で描いた。「チェーホフはやや意識 的シェイクスピアの裏返しをもくろんだ」(全5「批評家の手帳」P76)と、恆存は述べてゐ る。どちらも近代人の宿癬なのか。 人は芝居懸かれてゐる(一応自己劇化されている)時、「絶対/演戯」ではなくたとへ対象 が自己であらうが、得意絶頂感があり気分がよく、生き甲斐的実感を感じる事ができる。 ただそれが自己主人公化から来る、似非必然感・似非実在感のナルシズムであること に気がつかないだけである。自己欺瞞の無意識的操作の介入がおこなわれてゐるから であらうか。 そこでは、真の実在感、必然感、生き甲斐との見分けが難しくなる。気分とは形が無く 「意は似せ易し」で幾らでも誤魔化しがきくが故であらうか。 自己美化(ボブァリズム)から来るナルシズム・自己満足か、「宿命/自己劇化」による真 の必然感・実在感かの見分けが難しい。特権階級化・自己主人公化の欲求が、幅を利 かす道理がここにある。 それだけ人は、「物事を実際とはちがつた風に見ようとする願望」(P553)が常に強くあ る。「ただ野心だけが飛びはねたがる」(単「マクベス」:P31)と、『マクベス』上で近代人 のイメージを眼前にとらへたシェイクスピアの言葉は蓋し名言である。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上の事柄を、福田恆存は別の評論で言葉を変へてこのやうに言つてゐる。 「関係のないところでは個も全く捉へ処も手掛りも無いものとなる。個よりも関係のほうが 先に存在し、一つ一つの個は既成の関係の中に生れて来る」(全6覚書:P700)と。即 ち、関係不在(自由の別名)が自我の不安をもたらすのであると。(参照:単「生き甲斐と いふ事」対談p195) そして、かかる「衰退」様相からの脱出口として自己劇化(宿命演戯)を説くのである。 が、その前にもう少しお待ちを。我々は、福田評論より近代の衰退様相でもある「個人主 義の限界」なるものを「シェイクスピア劇」に探求しなければならない。 @@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@ @ 2.「シェイクスピア劇から知りうる個人主義の限界」(P557) (参考)個人主義(「新辞林 」三省堂より)・・・(1)個々の人格を至上のものとして個人の 良心と自由による思想・行為を重視し,そこに義務と責任の発現を考える立場。(「至 上」とは、中世では神であつた。その代はりに近代は自己をと言う事。:吉野注) (2)個人の考えや利益を貫く自分勝手な態度。(「動きまはる影」:吉野補) 福田恆存、曰く。以下、「シェイクスピア劇から知りうる個人主義の限界」を。 個人主義は「自由意思によつて宿命を選ぶ」(P555)・・・・ ・本来「宿命は人間の側で選びとるものでなく、神々(全体:吉野注)の側から人間に与 へるものである。が、もし、個人がそれを選びとらねばならぬものなら、その最後の仕上 げも個人が自分の手でやつてのけねばならぬといふことになる。かうして、オセローは最 後に自分自身をだまさずには、死んでいけなかつたのだ(ボバリズム・自己美化:吉野 注)。宿命にたいして信頼感をもちえなかつた」「自分を滅ぼすものの正体(死・全体:吉 野注)をはつきり見きはめ、その上に自分を押しあげ、壮大に祀りあげること、この強烈 な個人主義のうちにエリオットはストイズムを見た」(P555)。とは即ち、オセローは「ひ とつの断片に過ぎぬ個人が全体の必然性を選び司るといふ論理的矛盾」(P557)を冒 したと言ふ事である。 「自分が自分を認める以外、どこにも生きるよすがは求められぬ(ストイズム:吉野注)。 シェイクスピア劇の主人公たちが置かれた環境がまさにそれ」(P556) 「自由を内に求めれば孤独になる(ストイズム=全体離脱による宿命・関係喪失: 吉野注)。それを外に求めれば、特権階級への昇格(自己全体化・マクベス化:吉野注) を目ざさざるをえない」(P561) 「個人が個人の手で生き方を探求すれば、それはただ全体的な生き方への反逆に 終るだけのことだ」(P572) 個人主義者は、全体離脱の孤独を「禁欲と克己」のストイズムでそれに耐へるか、さもな くば自己を全体(特権階級)にのし上げるしかない。しかし「なんぴとも孤立した自己を信 ずることはできない」(P565)が故に、又「だれしも孤独であることを嫌ふ。だれもが特 権階級になりたがる」(P562)から、その階級へとのし上がらうとする。 しかし「特権階級へののしあがりを試みるものは、つひにふたたび全体(真の全体:吉野 注)へ道を発見しえぬ」(P562)。・・・とは何故か。量的全体化(特権階級)を企てた者 は、断片(個人)とは別次元の質的全体化を図れないと言ふことである。(参照:P562 前後) 個人主義者は自己の手(自己全体化・自己主人公化による自己演出)によつて宿命の 演出(必然性の演出)をしなければならない。としたならば、そこからもたらされるものは 自己満足とナルシズムといふ事では。(吉野補) 即ち「個人は全体を自己に奉仕せしめることはできず、自己を全体に奉仕せしめくては ならない。必然性といふものは個人の側になくつねに全体の側にある」のであるから、そ れを敢えて「ひとつの断片に過ぎぬ個人が全体の必然性を選び司る」とすれば、そこか ら得られるものは似非必然感(似非全体感・似非実在感・似非生き甲斐・似非幸福感) =自己満足・ナルシズムと言う事になるのではなかろうか。(吉野補) 「個人が、個人の手で全体性を造りあげようとすれば、自分がその中心になり(自己主 人公化・自己全体化:吉野注)、相手を自分の前に膝まづかせるまではとどまることを知 らぬ」(参照:《個人主義の構図》) 「生(個人:吉野注)がそれ自身によってのみ全体を構成しうるとすれば、それはあらゆ る名目のもとに自己を正当化しその極限においては、他の死をも、自己正当化のために 利用せずにはすまなくなる」(P576) 即ち自己劇化は、その仕へる対象が質的別次元の全体(絶対)にではなく自己(自己全 体化・自己主人化=個人主義))である場合、そこから齎されるものは「全体感・必然感」 ではなく、「自己正当化」・「独り合点」・自己満足・ナルシズム(錯覚された全体感、或い は似非全体感)といふことになる。個人主義とは、畢竟ナルシズム・エゴイズムに帰結す る、と言ふ事なのでは。(吉野補) また福田恆存は、「近代の宿命」の中でかうも言つてゐる。 「神(絶対・全体:吉野注)なくして個人の権利を主張しえない。それをあへてなすことは 悪徳である」(全2「近代の宿命」P463)と。エゴイズムの陥穽が待ち受けてゐるのであ る。 即ち、「個人が、個人の手で全体性を造りあげよう」といふ事。その意識からは幾らでも 自己弁護、自己弁解は可能なのである。「相対主義の泥沼」に落ち込む。そして幾らでも 自己正当化による自己満足・ナルシズムに浸れるのである。 そしてそれは「自意識」の過剰がもたらす陥穽とも言へる事なのであらうか。 恆存は言ふ。「(自己全体化を謀った:吉野注)マクベスこそは想像力の源泉そのものを 涸す自意識」過剰の所有者であると。観念と自意識の過剰は想像力(自己劇化の力と言 つてもいいのでは:吉野注)そのものを涸すのである。 又このやうにも、シェイクスピアは想像力によつて、「ルネサンスの子として、見事に自ら 予感した危機(黒い空洞・近代の孤独、自我の不安:吉野注)を乗越へている」と。(全2: シェイクスピアP28) 故に我々は、到底シェイクスピアには及びもないが、自己劇化(想像力)によつて近代の 一様相「衰退」から脱出し、「自己の超近代」を遂げなくてはならない。(吉野補) それはどのやうに。自己劇化をどのやうにしたら、近代の迷妄からの脱出が可能なの か。 @@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@ @ 3.自己劇化による「衰退」「個人主義の迷妄」「自我の不安」からの脱出 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以下、論究に必要な語句的解釈(図解:「完成せる統一体としての人格」参照) 《人間が持つ二つの領域》 個人的自我・・・「個人の純粋性」(「近代の宿命」)。「他と絶縁し自己のうちに閉じこ もることによつて己れを完成せしめんとする個人的自我」(全1「職業としての作家」(P5 46)「孤独と諦念と瞑想と自意識とにふける純粋に個人的な面」《単:D・Hロレンス「現 代人は愛しうるか(アポカリプス論)」まへがきP10》 集団的自我・・・「支配・被支配の自己」(「近代の宿命」)「すすんで他とかかはりあ ひ、他を支配したり支配されたりすることをとほして自己を生かさうとする集団的自我」 (全1「職業としての作家」(P546)「他人を支配し、その存在を左右し、あるいは英雄を みとめてこれに讃仰をささげ臣従せんとする集団的側面」《単:D・Hロレンス「現代人は 愛しうるか(アポカリプス論)」まへがきP10》 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 福田恆存は、かかる「衰退」様相からの、又「個人主義の限界」からの脱出口として自己 劇化(宿命・関係演戯)を以下のやうに説くのである。そしてそこに幸福感・生き甲斐・実 在感・全体感(必然感)が現成されるのであると。(図解:「完成せる統一体としての人格」: 参照」) *実在感・全体感(必然感)・・・今まさになすべきことをしてゐるといふ実感。「なさねば ならぬことをしてゐるといふ実感」(P525)〈参照:「全体感獲得の構図」〉 *関係(宿命)への自己劇化から齎される全体感の把握。(時間的・空間的全体感) *個性の発現としての宿命(宿命のうちにありながら『自己の歴史を自己のうちに内在 する力によって書く』〔全2:シェイクスピアP22〕) 宿命(関係)があるが故に、それとの 闘ひの内に個性が発現されるのだといふ事であらう。(吉野補) *「自己劇化は自己より大いなるものの存在(全体・絶対:吉野注)を前提として、はじめ て存在する。自己は自己を表現しきれぬばかりでなく、自己は自己を劇化しきれない。 (何を敵〔仕へる対象、即ち全体・絶対か個人か:吉野注〕として選んだかによつて、そし てそれといかにたたかふかによつて、はじめて自己は表現せられる:吉野注)――この 意識が、われわれをしてはてしなき自己劇化に駆りやる衝動ともなり、また自己劇化か らさらに脱出しようとする衝動ともなる。(個人的自我による仕へるべき「全体」への自己 劇化の衝動と、表現せられる場としての集団的自我への衝動といふことか:吉野注)」此 処の文章は重要である。(「自己劇化と告白」昭和27年著:全2:P415) (図解:「完成せる統一体としての人格」:参照」) *「無限定の自己」の問題・・・恆存は「無限定の自己」といふ言葉を、ハムレットに適用 し、二葉亭四迷、鴎外、漱石の明治維新後の作家たちの「実感依拠」に対してもこの問 題を展開してゐる。(p555:全6「独断的な、あまりに独断的な」) 無限定の自己といふ名の、江戸幕府瓦解が招いた「規範喪失」は、二葉亭四迷、鴎外、 漱石、彼ら明治人を苦しめた。彼らの人生或はその創作の主題にそれは大きく関係し た。維新後の精神的空白が齎す、集団的自我上への表現せられるべきものの不在(敵 である「全体」を喪失したがための:吉野注)に繋がつたのである。それが、鴎外を歴史 小説へと向かはせ、漱石をして「自己本位(私の個人主義)」の主題に結実化させていつ た。「かれらは封建道徳の背後に道徳そのものを見てゐた」(「自己劇化と告白」P417) からであると。そしてそれは四迷をして「国家,つまり国事に参加直接参加するといふ行 動によつて、枠を失つた自己(無限定の自己:吉野注)の歪みを匡さう」とさせたと。上記 他の評論で恆存はそのやうに述べてゐたと記憶するが。(参照:全集六「独断的な、あま りに独断的な」他) この二つに共通してゐる事は、どちらも「統一体を形つくつていた一つの世界の崩壊期」 での登場人物といふことだ。そして恆存は、かうも言つてゐる。「ルネサンス以来の近代 市民社会(自由・個人主義・民主主義といふことか:吉野注)が、ふたたび崩壊期に直面 してゐる現在」(P560)がここにあるのだと。 といふ事は、現代(特に戦後日本:「戦後の日本は精神的空白」)をも「無限定の自己」に 晒されてゐる時代と捉へてゐる事になるのではなからうか。 ここに『無限定の自己=「解放されて仕へるべき何をも持たぬ自我の不安」=統一体を 形つくつていた一つの世界の崩壊期』といふ図式が成り立つのである。 そして、「解放されて仕へるべき何をも持たぬ自我の不安」とは、個人的自我の喪失、し ひては集団的自我の喪失をも意味し、結果として「自我喪失」をそれは意味するのでは なからうか。 恆存はその「無限定の自己」を解決する手段に上記「自己劇化」のことを説いてゐるの である。戦後の日本を「精神的空白」(出典不明:吉野注)と定義する氏は、そこに維新 後と同じ「無限定の自己」を時代的宿命と見たのであらうか。そしてその超克の方法論と して「宿命/自己劇化」を以下の如く晩年の著作及び覚書(全六)に展開させていく。 *演戯(自己劇化と言つてもよいのでは)・・・「演戯とは、絶対的なものに迫つて、自我 の枠を見いだすことだ」「何とかして絶対なものを見いださうとすること」( 注:但し相対 である人間は「絶対」に成る事は出来ない。とも恆存は言つてゐる。到達できぬ究極の 理想に迫ろうとする行為、それが演戯。そのプロセスの重要性) *絶対 / 演戯・・・宿命/自己劇化=真の自由=実在感・全体感(必然感)=幸福感 *「関係のないところでは個も全く捉へ処も手掛りも無いものとなる。個よりも関係のほう が先に存在し、一つ一つの個は既成の関係の中に生れて来る」(全6覚書:P700)即 ち、関係不在(自由の別名)が自我の不安をもたらすのであると。 *完成せる統一体としての人格。(別図� Щ仮函廖法� *誠実とは対他的概念。・・・「人生が芝居以上に芝居であるならば、吾々は自己に対し てではなく、その芝居(場面から齎される関係・宿命:吉野注)に対して誠実でなければな らない」(p456全6:「フイクションといふ事」)(別図�´�:参照」) *関係の真実を生かす《単「生き甲斐といふ事」内対談「反近代につひて」(P195・19 9)》(別図�´�:参照」) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 上記の事柄について小生の追論的展開をしていきます。(別図� Щ仮函廖� 即ち、各場面場面(国・企業・夫婦・親子・家庭・兄弟・師弟・友達・他者・等)から生ずる 関係の真実(宿命としての「誠実」:吉野注)を生かしていく(各場面展開の関係的真実を 生かす:吉野的表現)行動の中に、それが典型として別図�,稜,�果たせられた場合 に、「完成せる統一体としての人格」が現成する。そしてそれは又、かうも言ひ代へること ができる。宿命(関係)といふ誠実を、集団的自我の舞台において、職業上に「形ある 『物』として」演戯して見せる事ができた場合に、とも。(次頁:参照) そしてその行為(宿命/自己劇化)の内に、「真の自由=実在感・全体感(必然感)=幸 福感」が齎される。さうした演戯のプロセスの内に、演劇(時間芸術)と同じく、今なすべ きことをしてゐる、「なさねばならぬことをしてゐる」と言ふ必然感、時間的全体感が味は へるのである。 真の自己劇化とは、「何とかして絶対なものを見いださう」とする行為である。即ち、その 熱情で関係の真実を生かしながら、人格を別図�,稜,�「完成せる統一体」として築城し ていく行為と言へるのではなからうか。 福田先生の文章を借りれば、「ハムレットは、これが宿命であると納得のいく行為の連続 によつて、自己の生涯を満たしたいと欲して」(P541)ゐたといふことになる。(氏の生き 方にも、将にこれが貫道してゐたと思ふのは小生の読み過ぎであらうか) そしてそれは、役者の演戯に通じる。(人間論と演劇論の一致) 役者の場合は、各場面を通してさうした演戯が典型として演じられた時に、名演を果た せたことになる。場面から生ずる「心の動き(関係・宿命:吉野注)を形ある『物』として (せりふ上に)見せる〔せりふの力学:全7「シェイクスピア劇のせりふ」〕P345」。見事に さうした好演が、せりふのみならず表情やしぐさに演じ続けられた時に「名演」が叶ふの である。(全7「せりふと動き」参照)又かうも言つてゐる。「せりふは語られてゐる意味の 伝達を目的とするものではない。一定状況の下(場面:吉野注)において、それを支配 し、それに支配されてゐる(宿命・関係:吉野注)人物の意志や動きを表情や仕草と同じ く形のある『物』として表出する(自己劇化:吉野注)事。それが目的であり、意味の伝達 はその為の手段に過ぎぬ」と。(全7「シェイクスピア劇のせりふ」P359) 《図解:「完成せる統一体としての人格」:図解:「演劇における関係の真実化」参照》 「宿命/自己劇化=真の自由=実在感・全体感(必然感)=幸福感」の問題について・・・ 本来文化が持つ「型」とは、日常性に埋没した人の心をそこから脱出せしめて、上記の やうな「実在感:全体感(時間的・空間的」を味ははせるものなのである。が、戦後の日 本は文化が喪失してゐるが故に型も喪失し、時間的「無際限な平板さ」の中に日本人を 放擲し、意識的にも叉無意識的にも苦痛を強いてきた。祭祀、儀式的有機性を喪失した 戦後の国民的祝日が、顕著にそれを物語つてゐるのである。切れ目のない無窮な時間 上に投げ出された無意識的苦痛を、日本人は強いられてきたと言へる。「人は生きる。 同時に、それを味はふこと、それを欲してゐる」(P527)。その味はふと言ふ実在感が 奪はれてゐるのである。そのやうに恆存は述べてゐる。〔参照:下図及び「文化とはなに か」〕 将に、マクベスに「野心だけが飛びはねたがる」と唆した、実在感のない自由、言葉を変 へて言へば「あすが来、あすが去り、さうして一日一日と小きざみに、時の階を滑り落ち て行く、この世の終りに辿り着くまで。いつもきのふといふ日が、愚か者の塵にまみれて 死ぬ道筋を照らしてきたのだ」(マクベス)といふ、無際限な時間的平板さが、「ほんの一 時、自分の出場の時だけ」でもの自己主人公化の夢に、現代人をも誘ひ込むのである。 上記のやうな時間的「無際限な平板さ」の世界に耐へられぬが故に、「生きる。と同時に 味はひたい」(P527)といふ本性的人間の願望が、開放されて仕へるべきもの(全体) を喪つた「相対主義の泥沼」の世界の内で、自己主人公化といふナルシズム的夢をまど ろませるのである。 マクベス劇の冒頭、魔女のせりふ「きれいは穢い、穢いはきれい」とは、開放されて仕え るべきもの(全体)を喪つた「相対主義の泥沼」の世界を謳つた言葉にも聞こへる。 かうした中に日本国民は落とし込まれ、そしてそれから起き上がらうとしてあがいてゐ る。文中の言葉を借りれば、「私たちの意識は平面を横ばいする歴史的現実(過去・現 在・未来といふ時間的継続:吉野注)の日常性からその無際限な平板さから起き上がら うとしてたへずあがいてゐる」といふことになる。「その(起き上がるための)行為が演戯 (型=祭祀・儀式)」(P532)であり、かつ「儀式は、人間が個人であることをやめて、生 命のもつとも根源的なものに帰つていくための通路」(P588)なのであつた。だが、その 要素としての祝日を戦後は換骨奪胎化してしまつたと言ふことなのである。(5.「実在 感:時間的全体感・空間的全体感について」「全体感獲得の構図」:参照) 演戯(型=祭祀・儀式)」といふ、「型にしたがつた行動は、その一区切り一区切りが必 然であり、(中略)行動をそれ自体として純粋に味はひうるやうにしむけてくれる。そのと きにおいてのみ、私たちは、すべてがとめどない因果のなかに埋れた日常生活の、末梢 的な部分品としての存在から脱却し、それ自身において完全な、生命そのものの根源に つながることができるのだ」。("ああそれなのに、それなのに・・・・"といふ事である。:吉 野補) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ その様に恆存は説き、更に全集6:覚書の「仮説論(フィクション)」で関係こそが真実、 或は大事(拙論P11:第4参照)だと、以下のやうに論を展開していく。 *「一般の日本人は、自分の子供が戦場に駆り立てられ、殺されるのが嫌だからと言つ て、戦争に反対し、軍隊に反発し、徴兵制度を否定する。が、これは『母親』の感情であ る。その点は『父親』でも同じであらう、が、『父親』は論理の筋道を立てる。国家(場面: 吉野注)といふフィクションを成り立たせるためは、子供が戦場に駆り立てられるのも止 むを得ないと考へ、そのための制度もまたフィクションとして認める。が、彼にも感情が ある。自分の子供だけは徴兵されないように小細工するかも知れぬ。私はそれもまた可 と考へる。『父親』の人格の中には国民としての仮面(役・自己劇化:吉野注)と親として の仮面と二つがあり、一人でその二役を演じ分けてゐるだけの事である。そして、その 仮面の使ひ分けを一つの完成した統一体として為し得るものが人格なのである。『私た ちはしつかりしてゐない』という自覚が、『私たち』をしつかりさせてくれる別次元のフィク ションとしての国家や防衛を要請するのである、要するに人格も法も国家も、すべてはフ ィクションなのであり、迫持(せりもち)、控へ壁などの備へによつて、その崩壊を防ぎ、 努めてその維持を工夫しなければならぬものなのである」(P703全6「覚書」)・ (図解:「完成せる統一体としての人格」:参照」) 「問題は、すべてはフィクションであり、それを協力して造上げるのに一役買つてゐる国 民の一人、公務員の一人、家族の一人といふ何役かを操る自分の中の集団的自己をひ とつの堅固なフィクションとしての統一体たらしめる原動力は何かといふ事である。それ は純粋な個人的自己であり、それがもし過去の歴史と大自然の生命力(時間的・空間的 全体:吉野注)に繋つてゐなければ、人格は崩壊する。現代の人間に最も欠けているも のはその明確な意識ではないか」(P704全6「覚書」):(上図:参照」) @@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@ 4.福田思想に見る人間論と演劇論の一致 ・・・・「役者修業は人間修業」といふ事。 人間論・・・「要するに人格も法も国家も、すべてはフィクションなのであり、迫持(せりも ち)、控へ壁などの備へによつて、その崩壊を防ぎ、努めてその維持を工夫しなければ ならぬものなのである」 「(関係の)真実を生かすために1つのお面をかぶる(役を演ずる・自己劇化:吉野注)」 「演戯なしには人生は成り立たない。つまり仮説なしには成り立たない」「真実といふの は、ひとつの関係の中にある。個々の実体よりはその関係の方が先に存在している。人 生といふものは、関係が真実なんで、一生涯自分のおかれた関係の中でもつて動いて ゐる。いろいろな関係を処理していき、それらの集積された関係がその人の生涯といふ もの。それを私は演戯だといふ」「われわれがこしらへたものは、相対的であつて絶対で はないといふ原理をちやんと心得て、こいつを絶対化(仮説の完璧化・築城の完璧化: 吉野注)しようといふ努力」。これは又「結婚生活も演戯し通す(結婚といふ仮説、関係の 完璧化:吉野注)」といふ男女間の問題の同一性にもつながる。《単「生き甲斐といふ事」 対談「反近代につひて」(P195・199)》 【将に、シェイクスピア「全世界は1つの舞台。そこでは男女を問はぬ、人間はすべて役 者に過ぎぬ。それぞれ出があり引込みあり、しかも生涯にいろいろな役を演じ分けてい るのだ」(お気に召すまま)との一致を此処に見る思ひがする:吉野注】(参照:上図) 演劇論・・・「(前略)かうして、本堂、五重塔、廻廊等の部分は全体たる七堂伽藍の構成 にたいして、緊密な調和を保つていなければなりません。そしてまた、それらの細部であ る彫刻や柱や屋根なども、本堂は本堂としての、五重塔は五重塔としての全体的調和を 保つと同時に、それを通じて七堂伽藍の全体的調和につながつてゐなければならない。 劇においても同様で、各登場人物は、表に現れた形においては主役と端役との別はあり ませうが、それらが共に仕へる全体としての主題は1つのものであります。端役といふの は、主役に対して端役なのではなく、劇の全体的調和に対して端役なのであります。そ れは主役に仕へるものでもなく、主役の引立役でもない。引立役といへば、主役も端役 も、ともに劇の主題の引立役にほかならないのです」(単「演劇入門:P72」) (参照:図解:「演劇における関係の真実化」) @@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@ 5.実在感・全体感(時間的・空間的)・「特権的状態」について・・・「生命のもつとも根源 的なものに帰つていくための通路」「生の充実感にひたるための方式」(P588)「部分に して全体、瞬間にして永遠」「限られた枠のなかに全体が出現しうるもの。自然における さういふ時期は、季節の折目、季節の冬から春への変り目」(P590)「奥儀の啓示と は、全体感の獲得をうながすもの」(P575)それにひきかへ「日常的な現実は平面(時 間の無際限な平板さ:吉野注)に引き倒さうとして、常に寝技をしかけてくる」(P532) *空間的全体感獲得の方法論・・・空間芸術(彫刻・建築・絵画?他)・祭祀(儀式)・山 歩き(注:吉野経験論) 例:「路傍の花を眺めいるとき、私たちの感じる喜び。 私たちは小さな花を通じて、季節のうちに、自然のうちに、全体のうちに復帰しう るのを喜んでゐるのである。私たちの祖先は、泉や若芽に神がやどるのを見た。ミステ ィズムといふのは、元来、それほどの意味に過ぎない」(P575) ロレンスの文「日々の太陽の息づくリズム。それをわれわれは種々の祭日のう ちにも感じとる・・・」(P589) ロレンスは、男女の交流の中に空間的・時間的両方の全体感の獲得を見、そこを現代 人の「最後の砦」とも書いた。 *時間的全体感獲得の方法論(以下図参照)・・・ 「宿命(関係)/自己劇化」・時間芸術(演劇・詩文創作、etc)・読書・祭祀 (儀式)・《座禅・剣道・山歩き(注:吉野経験論)、尚剣道については、 演劇論と剣道型との関連拙論あり。ご希望の方には送信又はプリントアウト します》 *時間的全体感とは何か・・・・「必然感」。今まさになすべきことをしてゐるといふ実感。 「なさねばならぬことをしてゐるといふ実感」(P525)宿命を演じてゐるといふ実在感。 「この世の関節がはずれてしまつたぞ。何の因果だ、それを直す役割を押しつけられる とは!」「宿命!復讐!」。とハムレットは独白した。その時、必然感・実在感をハムレッ トは感じてゐたのである。 図挿入:時間的「全体感獲得の構図」 「意識は、平面を横ばひする歴史(過去・現在・未来といふ時間的継続:吉野注)といふ ものに垂直に交る」(P532)時、「部分(現在:吉野注)を部分として明確にとらへること によつて、その中に全体(過去・現在・未来といふ時間的全体:吉野注)を実感」(P53 3)する。「私たちが個人の全体性を恢復する唯一の道は、自分が部分に過ぎぬことを 覚悟し、意識的に部分としての自己を味はひつくすこと、その味はひの過程において、全 体感が象徴的に甦る」。将にその時、生きるといふ日常的平板さから「上に脱け出た意 識は、足下の現実が時々刻々に動いてゐることを実感」するのである。「宿命/自己劇 化」による絶対への演戯が、上記の実感、今まさになすべきことをしてゐるといふ実感、 「なさねばならぬことをしてゐるといふ実感」を得させるのである。その時「過去と未来と から切り放たれた現在だけが、過去・現在・未来といふ全体の象徴として存在してゐる」 のである。そして「前後に暗黒があればこそ、その間の時間を光として感じることができ る」。 大事なことは、さうした劇的時間を味はふには、人は一時的に「時間の流れをせきとめ なければならない(非日常的場面の設定化:吉野注)」(P534)といふことなのである。 「私たちは自分の能力を無視して、あまりにも多くの偶然に身をゆだねすぎる(集団的自 我上における、場面・関係設定の乱発:吉野注)。したがつて、私たちの意識は、いつに なつても現実の平面から直立しえない」(P534)。いつも現実に足をさらはれている状 態なのである。 (関連及び参考評論:「醒めて踊れ」「せりふと動き」 ) @@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@ 6最後に・・・・ 関係こそが大事。関係がすべて。(仮説論:全6覚書)「真実といふのは、ひとつの関係 の中にある」。とは、そこにこそ、福田恆存の「近代超克」への示唆が含まれてゐるので はなからうか。 近代化による衰退。即ち、 � 峅鯤�されて仕へるべき何物をも」喪つたことからくる、個人的自我の徒手空拳化とそ れが齎す集団的自我の空白化(自我喪失・無限定の自己)。 �⊆他收鎖澄焚奮慍宗�合理化)による集団的自我の更なる希薄化。 恆存は「絶対/演戯」「宿命(関係)/自己劇化」によつて、その空白化した集団的自我上 に「人間相互の信頼関係」を再構築することを説いた。必要悪として走つた近代化がそ の為に自ら喪失したものを。そして、それが取りも直さず「自己の近代化」なのであると。 をはり
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