令和三年十一月
《福田恆存を讀む會》
吉野櫻雲
『私の人間論』福田恆存 覺書
*以下は、浜崎洋介氏「解説文」への感想である。
まずその前に寸感を。
『覺書六』の「フィクション論」(P184~90)は、福田恆存思想の根幹を成すと言へる重要な箇所である。故に解説には充分な注意を要する。
であるのに、浜崎氏「解説文」が、その役目を果たしてをらず、特に「P284」の文章構成については實に粗雑。表現が曖昧かつ論究不十分である、と小生には思へる。爲に、このレジュメはそれを補塡する事を目的に記述した。
繰り返すが、「P284~5」全體の文章には、「フィクション論」に對する、浜崎氏の「淺讀み」「自己滿足」が招く説明不足(不深切)を感じざるを得ない。恆存文とは相反し、表現の對象が多に渉る爲、擴散し文章に求心力が無い。アリストテレスとの關聯も論究不足である。要するに、小生には浜崎文は、雑駁感を禁じ得ないのである。讀書の喜び、「探究の實在感」が小生には得られない。
〔浜崎氏の表現不滿箇所:二例〕「 」内が浜崎文。( )内は吉野注。
① 「複数の『自惚鏡』(場 C‘)を一つの『關係』(D1)へと折り合はせていくための『場』(場 C‘)を用意するもの、それこそが、福田恆存の言ふ『假説(フィクション)』であつた」。
・・・短絡的記述で、論理的整合性が足りず、意味不明なり。
② 「それは、自他のリアリティを整序する時間や空間の觀念として現れることになるが、それが具體化されれば、神、義務、國家、神話、民族、傳統、家族などの觀念(表象)として現れてくることにもなる」。
・・・「それ(時間や空間の觀念)が具體化されれば、神として現れてくる」とは、これも餘りに短絡的表現で理解に苦しむ。⇒以下は補塡的參考文(恆存文)。
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「 」内が浜崎文。( )内は吉野注。 *「クリスト教の神(C)は、西歐人にさういふ性格の強さを教えた。がクリスト教にかぎりますまい。もし私たちが現實(A‘⇒A)をはつきりみつめるならば、なにかそれに似た、自己の一生以上のもの(絶對:C)を、あるいは國や民族の歴史(これも相對物との捉へか?)以上のもの(神C)を信じ(B⇒C)なければ、とても〔相對・平面:(A’⇒A)〕、だけではあほらしくて生きていけないことを知るでありませう」(『少數派と多數派』第四巻P245)。 |
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〔『自然と二人きりで存在する・・』解説文についての感想〕
〔難解又は重要文〕:P284「 」内が浜崎文。( )〔 〕内は吉野注。
*「しかも、『覺書』において興味深いのは、この『自然(C)と二人きり(イエスと同樣:B⇒C)で存在する――いふまでもなく人間もその自然物のひとつとして』といふ言葉が、そのまま『覺書六』で語られてゐた福田恆存のフィクション論にまで、つまり、アリストテレスの『自然學』を引き合ひに出して語られる福田恆存の自然思想にまで一直線に繋がつてゐたことである」。
・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。意味不明分を補塡かつ明確化する爲に一應、小生的「注」を上文中に括弧で入れてみた。その上で以下の見解を記述する。
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( )〔 〕内は吉野注。參照⇒PP圖『近代の宿命』二元論(A集團的自我・B個人的自我)變遷 kindainoshukumei.pdf へのリンク *「一直線に繋がつて」とは、表現が餘りに大雜把と感じられる。「自然(C)と二人・・」文が、アリストテレスの『自然學』を引き合ひにして、フィクション論に到達した、と言ふ「三段論法」的記述では、餘りに短絡的かつ杜撰、讀者には不深切で、解説としての構成になつてゐないと思へる。 「自然(C)と二人・・」云々のどの言葉と、アリストテレスのどの言葉がどう關聯してゐて、それが故の「一直線」なのだ、との説明が足りないので、讀者への行き届いた「解説」としての役割が充分にこなせてゐない。 つまり、「そんな簡單には、一直線には繋がらないのでは?」が小生の認識なのである。故に『近代の宿命』文とアリストテレスの『自然學』文との關聯を、以下、補塡かつ探究してみる事とする。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ① 「自然(C)と二人きりで存在する――いふまでもなく人間もその自然物のひとつとして」。 ・・・上文中の「自然(C)と二人きり」は、評論『近代の宿命』(最下欄に轉載:全二P445・P446・P448)を參照すれば分かる樣に、「大自然(空間的全體:C的)對人間(個人的自我)」の「一對一」を意味する。そして更には、「A:集團的自我の不要」をも意味してゐる。むしろ、こちらの方が蔭ながら重要な論究を要する。 ② 「自然物のひとつ」について・・・この「自然」とは、「自然(C)と二人きり」の自然(C) ではなく、大自然(C)が生み出す「生物の一つ」を指し、更に考察すれば、『近代の宿命』本文中にも展開されてゐる二元論中、人間が持つ「A:集團的自我」(支配=被支配の自己)を指してゐると推測できる。參照⇒PP圖『近代の宿命』 kindainoshukumei.pdf へのリンク
しかしながら、この「A:集團的自我の不要」について、「解説文」には、283頁に若干の記述だけで濟ましてゐる。この解説文は「A:集團的自我」の問題の重要性を少しも捉へてゐない。集團的自我の問題は「一直線」に繋がるのを拒むのである。故にそれを補ふ爲に別紙(最下欄)に、參照文(『近代の宿命』重要文)を記載した。 ③ アリストテレスの『自然學』について・・・『自然學』には、『近代の宿命』でイエスやレ オナルド(聖人賢者)について記述する、「神(C)・大自然(空間的全體:C的)と人間(B個人的自我)」と言ふ「一對一:自然と二人きり」論的記載はないのである。有るのは「大自然(空間的全體:C的)」と、その「自然に對立する言葉として用ゐられて」ゐる技術についてである。つまり、技術は「或る一定の目的を實現する爲の意識的な手段といふ程の意味に解せられ」、かつ「人間(即ち「B:無用の技術」「A:有用の技術」を持つ生き物)を含む大自然とは永遠に技術的なる或物」と言ふ記載なのである(參照P188~9)。 つまり『自然學』では、「純粋なる個人」〔個人の純粋性(B個人的自我)・神(C)に従属する自己(B)〕への特別な論究などは無く、ただ、詩・演劇を「無用の技術」として、「B個人的自我」の範疇で取り上げてゐるだけなのである。 |
*次ぎに上述の「技術」について、『近代の宿命』『自然學』二者の捉へ方を補足する。
〔『近代の宿命』『自然學』に於ける「技術」比較〕
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『近代の宿命』では、「技術」は集團的自我(A)を消去(消滅化)する、と記述。 |
アリストテレス『自然論』では、「A:集團的自我」そのものが「有用の技術A」で、「技術は自然(C)を模倣する」(A⇒C)と。 |
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*「精神(B)はそれ自體〔レオナルド⇒(一對一)⇒自然C〕において充足してをり、自然(大自然C)はそれ自身の法則をもつてゐる。そこに社會(A)が消滅し、科學〔技術(A‘⇒A)〕がその(社會Aの)空白を埋めにやつてくる〔『神の解體と變形と抽象化』で〕といふわけだ」(P446上)。 *「レオナルド(△枠)にとつて個人(B個人的自我)と社會(社會的・集團的自我:A)との聯關の合理化(精神の政治學)が不必要であつたのは、精神の政治學の負ふべき課題を技術(‘A⇒A:科學・實證精神)が引受けた――といつていひすぎならば、技術はそれ自身のうちにさういふ(A集團的自我消去の)可能性をふくんでゐたのである」(P446下)。 〔詳細は、別紙(最下欄):『近代の宿命』重要文を參照されたし〕 |
*「(近代の個人萬歳の思想は)目的が人間の側にあるとすれば、それは抽象的な人間一般の中に宿るのではなく、具體的な個人個人の中に宿るのであつて、その結果、それぞれの個人(A‘)が社會(A)に對して自分の目的に奉仕(客體化:A’⇒A)し、それに役立つ樣(客體化:A‘⇒A)になる事を期待するでせう。そして、その(「客體化:A’⇒A」の)混亂を整理し、抑制する價値觀を吾々は持つてゐない。アリストテレスはそれを自然(C)の意思(D1)のうちに見出し、それに合致する(D2)樣に社會生活を整へる(A‘⇒A)のが政治や道徳の技術(有用A・無用Bの技術)であると考へました。そのばあいにも、『(有用A・無用Bの)技術は自然(C)を模倣(D2)する』のであります。が、今日、吾々は自然(C)の内に意思(D1)や目的(D1)を認めてゐない」(『文學以前』:全四P405)。 |
*次ぎに、上枠文①で論究した「A:集團的自我の不要」を圖表で詳述する。
「自然と二人きり」とは「B⇒(一對一)⇒C(自然・神)」即ち「A集團的自我」の不要を指す
〔表:著作別「A集團的自我の要不要」〕
(以下著作では、「①不要⇒②不要願望⇒③要(有用の技術)⇒④要」で不統一。故に繰り返すが、少しも「一直線に繋がつて」などはゐなく、結構込み入つてゐると捉へるのが妥當)
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以下は著作 |
「自然と二人きり」とは、「大自然(空間的全體:C的)と人間(B個人的自我)」の「一對一〔B⇒(一對一)⇒C〕」の事。つまりは「A:集團的自我の不要」を意味する。 |
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① 『近代の宿 命』(昭和二十二年四月著) |
上記「「A:集團的自我の不要」を強烈に表現 *「B⇒(一對一)⇒C」を「レオナルド・イエス」で詳述。 ・・・即ち「A集團的自我」の不要・消滅。 尚、是についての詳細は、最下欄の〔別紙:『近代の宿命』重要文〕を參照されたし。參照⇒PP圖『近代の宿命』 kindainoshukumei.pdf へのリンク
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② 『ホレイショー日記』・『解つてたまるか!』 |
上記「B⇒(一對一)⇒C」は人間が抱く願望(「本能」とも恆存は表現)。「集團的自我」の不要願望。 *上記〔B⇒(一對一)⇒C〕即ち「自然と二人きり」は人間願望。 ・・・「人間もその無機的な自然物(生物?)のひとつとして、自然(C)と二人きり(B⇒C)で存在したい、さういふ(B⇒C)念願を、(中略)多少を問はず、誰のうちにもあるものではなからうか」(覺書二:『私の人間論』P66)。 *「人間の中には理想や神(C)を求める要求がある。これは本能と言つてもよい」(講演カセット『理想の名に値するもの』より)。 |
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③ アリストテレスの『自然學』 |
〔B⇒(一對一)⇒C〕の記述なし。:A&B(技術)⇒(模倣)⇒自然(C)。「A:集團的自我」は「有用の技術として是認」。 *「人間(A&B)の技術もなければ自然(C)の技術もない。人間(A&B)もまた自然物。人間を含む大自然は永遠に技術的なる或物」〔即ち、A「有用の技術」(集團的自我)もB「無用の技術」(個人的自我)も、「技術は自然を模倣する」〕⇒PP圖參照。 *ただ以下枠文の「關係論」(詳細は上述:『文學以前』全四P405)には、「覺書六」(「フィクション論」即ち「完成せる統一體としての人格」論)に、関聯し「繋がつて」ゐるものを讀み取る事は出來る〔參照:拙發表文『文學以前』(平成十九年『讀む會』)〕。更には、恆存の援用も其處(全四P405)に窺ふ事は可能である。 ⇒PP2圖參照。arisutoteresu2.pdf へのリンク
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④恆存「フィクション論」=「完成せる統一體としての人格」論 |
「A:集團的自我」は必要。「B⇒(一對一)⇒C」願望は現代人に缺如。故に「二元論・關係論」で啓蒙(『覺書六』の「完成せる統一體としての人格」論)。 ⇒參照PP圖「完成せる統一體としての人格」論 new.kanseiseru.pdf へのリンク *上記「B⇒(一對一)⇒C」即ち「自然と二人きり」の願望(B個人的自我)が現代人に缺如・・・ 「それ(B:個人的自己=個人的自我)がもし過去の歴史と大自然の生命力(時間的全體C・空間的全體C)に繋つてゐなければ、人格は崩壊する。現代の人間に最も缺けているものはその明確な意識ではないか」(全集六P703~4 『覺書六』)。 |
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恆存本人 |
*「(三つの暗号は)何か私といふ人間の本質と關はりがありさうなのだが、餘りはつきり言ふと嘘になりかねない」・・・とはつまり、以下の聖人賢者願望が「私といふ人間の本質と關はりがありさう」といふ事では。 *『アポカリプス論:まへがき』apokaripusu.pdf へのリンク 「イエスは――いや、イエスのみならず、多くの聖人賢者(レオナルド含む)たちは、つねに個人であつた。純粋なる個人〔個人の純粋性(B個人的自我)〕にとどまつてゐた。イエスは弟子たちのまへにも、つねに孤獨であり、かれらの肉體的權力者(A:「支配=被支配の自己」)となることをかたく拒絶してゐた」(『ロレンスⅠ』全二P37)。 |
*結論として(「一直線に繋がつて」ではない追加論證)・・・
「フィクション論」の淵源は、此處で特記(P284)の『近代の宿命』(三十六歳:昭和二十二年1947年著)よりももつと早く、二十五歳(昭和十一年1936年)の東京帝大卒論『DHロレンスに於ける倫理の問題』にあつたと思へる。遅くとも、三十歳(昭和十六年1941年)飜譯『アポカリプス論』時期に。そしてその後の、筑摩叢書出版『アポカリプス論』「まへがき」の二つには、「ぼくはこの一書によつて、世界を、歴史を、人間を見る見方を變へさせられた」(昭和二十六年)。「私はこの書によつて眼を開かれ、本質的な物の考へを教り、それからやつと一人歩きが出來る樣になつたのである。そして、この書の表口から旅立ちした私は、その後四半世紀を經た今、その裏口に辿り著かうとしてゐる樣な氣がする」(昭和四十年)との記載がある。
といふ事は、『アポカリプス論』にある「二元論(A集團的自我・B個人的自我)」及び「コスモス(C)との關係論」が、その後(昭和十一年以降)の著作に陰に陽に働き掛けてゐたと推測できる。それを證左するものとして、『覺書二』(P35)には「私自身の課題となつた例の二元論、集團的自我と個人的自我の問題が、亡靈のやうに樣々に姿を變へて私の心に立入り、『ああ、またお前に出遭つたな』といふ思ひを、始終くりかへしてゐた。それは一生私に附纏ふであらう」の文章を讀む事が出來る。
尚、『アポカリプス論』と「フィクション論」との深い繋がりを探究したものとして、以下〔拙發表文『ロレンスⅠ』(平成十八年記)〕を此處に轉載して置く。⇒參照PP圖《ロレンスの二元論apokaripusu.pdf へのリンクと恆存「完成せる統一體としての人格」論との關聯:new.kanseiseru.pdf へのリンク 》
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 《ロレンスの二元論apokaripusu.pdf へのリンクと *DHロレンスの二元的愛とは・・・・「吾々は生きて肉(A)のうちにあり、また生々たる實體をもつたコスモス(C)の一部であるといふ歡喜に陶酔すべきではなからうか」「吾々の欲することは、虚僞の非有機的な結合を、殊に金錢と相つらなる結合を打ち毀し、コスモス、日輪、大地との結合(C)、人類、國民、家族との生きた有機的な結合(A)をふたゝびこの世に打ち樹てることにある。まづ日輪と(C)共に始めよ、さうすればほかのことは徐々に、徐々に繼起してくるであらう」(『アポカリプス論』最終章)。 上文及びロレンス思想要約の『ロレンスⅠ』(全二P40最終部分)「自律性はうちにもとめるべきではない・・・」云々を、恆存の言葉で表現したのが「完成せる統一體としての人格」論と小生は思へるのである。恆存は「前近代」と言ふ日本的桎梏を打破する爲に、日本人への遺言として「全集六『覺書』」に再度それを纏めたのではなからうか。ただ兩者の違ひは、「愛は迂路をとらねばならぬ」と言ひ「その迂路をば宇宙の根源(コスモス:C)を通じること」とロレンスが主張したに對し、恆存は「全體・絶對:C」と言ふに留め、何を選擇するかを各自の判斷に委ねた點である。尚、「完成せる統一體としての人格」論は「全集六P703~4『覺書』」を纏めての小生の用語である。 |
そして、上述「その後四半世紀を經た今、その裏口に辿り著かうとしてゐる」の如く、樣々な評論にて陰に陽に『アポカリプス論』の「二元論・關係論」が展開されて來たのである。
更に特記すべきは、「フィクション論」と演劇、そして權力慾、エゴイズムとの深い繋がりである。『覺書六』(P184~6文)に、以下文章が見事反映されてゐる事に、それを窺ひ知る事が出來るであらう(參照PP圖「完成せる統一體としての人格」new.kanseiseru.pdf へのリンク )。
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 〔著『演劇入門』に於ける「主題(全體)⇒からの關係(役)⇒せりふ⇒演戯」〕 *「役者にとつて最も重要なことは自分の演じる人物の性格ではなく劇の主題(全體)は何であるかを見極める事、そして自分の役がその主題とどういふ關係にあるかを理解することである」(『演劇入門』)。(參照PP圖engekiniokerukankeinoshinjitsuka.pdf へのリンク)
*關係と言ふ「眞實を生かすために一つのお面をかぶる(役を演ずる・自己劇化)」「演戯なしには人生は成り立たない。つまり假説なしには成り立たない」。「眞實といふのは、ひとつの關係の中にある。個々の實體よりはその關係の方が先に存在している。人生といふものは、關係(目上⇔目下・親⇔子・師⇔弟子・國⇔國民、等々)が眞實なんで、一生涯自分のおかれた關係の中でもつて動いてゐる。いろいろな關係を處理していき、それらの集積された關係がその人の生涯といふもの。それを私は演戯だといふ」「われわれがこしらへたものは、相對的であつて絶對ではないといふ原理をちやんと心得て、こいつを絶對化(假説の完璧化・築城の完璧化)しようといふ努力」(單行本『生き甲斐といふ事』中、對談『反近代につひて』P195 ・199)。 *「いはゆる個體(△枠)といふのは關係(D1)のうちにあり、關係(D1)によつて保たれる部分(AB)に過ぎない。が、そのいはゆる個體もそれを構成する部分の關係體に過ぎない。そして、それらの關係體を組合せた究極の關係體を私たちは全體(C)と呼ぶ。その究極の關係體はただ一つしかない。いやしくも世に『存在する』と言ひうるものはそれだけである。それなら、在るものは關係だけである」『批評家の手帖』全七P23)。 〔エゴイズムは、「生の意欲の湧出」「生命力の昂揚(P511)」「すなほな生物の欲望(P507)」(『白く塗りたる墓』全二)〕。 *「エゴイズムは絶對に否定できぬ。それは生そのものであつて、それを否定するとなれば、生そのものすら否定しなくてはならぬ。エゴイズムがつひに否定し扼殺しきれぬものであるとすれば、たとへ自分を苦しめることによつてにしろ、これを否定せんとする身ぶりは、いたづらに相手を脅迫することにしかならない」(『白く塗りたる墓』全二P503)。 *「女を愛し、家庭を愛し、同胞を愛し、自分の階級を愛し、人類を愛すること――すべてはエゴイズムである。だから否定しなければならぬのではなく、だからこそこれを肯定しなければならぬのだ」(『白く塗りたる墓』全二P511)。 *「職業とは集團的自我(A)の生きんとする通路であるが、より重要なことは、この通路が充分に開かれてゐることによつて個人的自我(B)の平静と純粋とが保たれるといふ事実なのである」(『職業としての作家』全一P547)。 *「上から下への權力の流れに沿つて集團的自我(A)を解放してゐた。この秩序に安心してもたれかかつてゐたため、個人的自我(B)はその上に純粋な成長をなしえたのである。しかし、封建的秩序の破壊としての近代自我の覺醒は、この權力(A)の流れを堰きとめてしまつた。堰かれた流れは到るところで逆流し、權力慾(A)と權力慾(A)とが對立し爭執しあつた。集團的自我(A)の通路が塞がれたばあひ、その不滿の吐け口は個人的自我(B)に向けられる(ルサンチマン)。抑壓された權力慾(A)が個人的自我(B)の平成と純粋(個人の純粋性B)とを亂し濁した」(『職業としての作家』全一P547)。 |
上記は一部である。探し出せば他にも該當する文章は著作から幾らでも出て來る筈だ。
結論を端的に表現すれば、「覺書六」の「フィクション論」(「完成せる統一體としての人格論」)は、「A集團的自我・B個人的自我・C絶對全體(空間的・時間的)」三者間の有機的結合を、「日本及び日本人」への遺言としたのだと推測できる。そして、以下二文は、奇しくも見事に符合するのである。
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*「問題は、すべてはフィクションであり、それを協力して造上げるのに一役買つてゐる國民の一人、公務員の一人、家族の一人といふ何役かを操る自分の中の集團的自己をひとつの堅固なフィクションとしての統一體たらしめる原動力は何かといふ事である。それは純粋な個人的自己であり、それがもし過去の歴史と大自然の生命力(時間的全體・空間的全體:小生注)に繋つてゐなければ、人格は崩壊する。現代の人間に最も欠けているものはその明確な意識ではないか」(覺書六:『私の人間論』P186)(全集六P703~4
『覺書六』)。 *「コスモス(C)、日輪(C)、大地(自然的全體C)との結合、人類、國民、家族との生きた有機的な結合(集團的自我上Aの結合)をふたゝびこの世に打ち樹てることにある。まづ日輪(C)と共に始めよ、さうすればほかのことは徐々に、徐々に繼起してくるであらう」(『アポカリプス論』最終章)。apokaripusu.pdf へのリンク |
をはり
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〔別紙:『近代の宿命』重要文(全二:P441・P445・P446・P448)〕
*「自然と二人きり」の對立的概念である「集團的自我・支配=被支配の自己(A)」は、とても「一直線で繋がつて」などと素通り、看過出來る樣な甘い話ではない事が、以下枠文で解る。
尚、「支配=被支配の自己・集團的自我:A」の歴史的變遷は、PP圖『近代の宿命』kindainoshukumei.pdf へのリンク。を參照されたし。
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以下「 」内が恆存文。( )〔 〕内は吉野注。 *イエス・・・「神(C)と二人きりでゐるかれ(イエス)にはもはや政治(支配=被支配の自己・集団的自我:A)すら不要であつた」(P441)。 *ダビンチ・・・「かれにおいて神(C)に従属する自己(B)は、すでに神(C)の支配下を脱し、おのずから個人の純粋性〔B:即ち「B個人的自我」⇒「大自然・空間的全體(C)」の二人きり〕それ自體にまで昇華せんとする」(P445)。 *「個人(即ち:B個人的自我)と社會(A:社會的・集團的自我)との關係(AB△圖)の合理化(精神の政治學)を放棄してゐたレオナルド〔つまり「レオナルド⇒(一對一)⇒自然(C)」〕にとつて當然のことであるが、ぼくたちはもはやかれ(レオナルド)のうちに神學〔集團的自我(A)の穴埋め・イエスの尻拭ひ・教門政治:A‘⇒A〕、形而上學(B哲學)はもとより、倫理學(B⇒C神)的傾向すら看取することができない〔とは、A集團的自我消去による「レオナルド⇒(一對一)⇒自然(C)」であるから〕。が、ほかならぬその點(「A集團的自我」消去)で、かれは神(C)にもつとも近く、イエス〔B⇒(一對一)⇒神(C)〕にもつとも似てゐたのであり、ぼくたち近代人の倫理(B⇒C)的關心の對象たりうるのである。(中略)原始山脈(自然)を睥睨する白髪の巨大漢の姿は神(C:自然を造つた神)の孤獨と寂寥(孤獨は寂寥・「神は沈黙」が故のか?)とを感ぜしめるではないか。神(C絶對者:人格神)にとつて神學〔教門政治:‘A⇒A〕も形而上學(B)も倫理學(B)も(相對は)ことごとく不要である。かれ〔『個人と社會との關係の合理化(精神の政治學)を放棄して』イエスに似たレオナルド〕はただ自然(大自然・空間的全體:C)に對し、自然(C)と二人きり〔イエスと同樣:B⇒(一對一)⇒C〕で存在する――いふまでもなく人間もその自然物のひとつ〔即ち、大自然(C)が生み出す「生物の一つ」〕として。にもかかはらず、そこには神(C)を見失つた十九世紀の不安〔とは、文學の領域(B)に於ける不安と言ふ主題。即ち『神は人體を失つて、完全な精神としての抽象化を受ける。その精神が文學の領域(B)』の不安〕などいささかもみとめられぬ。と同時に、かれの寂寥〔B⇒(一對一)⇒自然C:の孤獨〕は社會(A)に對する十八世紀の樂天的な信頼〔合理・科學・個人主義による客體化(實證精神:A’⇒A)〕を冷たく拒絶する」(P445~6上)⇒續く。 (尚「十八世紀の樂天的な信頼」とは以下參照)
⇒續く「かくしてレオナルドはもつとも眞の意味における科學者(實證精神:A’⇒A)であつた。が、レオナルドは自然(C)に對しながら〔即ち「レオナルド:B⇒(一對一)⇒自然(C)」〕、精神(B)と自然(C)との、あるいは靈(B)と肉(A)との對立に心をわずらはされない。精神(B)はそれ自體「精神(B個人の純粋性)⇒(一對一)⇒自然(C)」において充足してをり、自然(大自然C)はそれ自身の法則をもつてゐる。そこに社會(A集團的自我)が消滅し、科學〔技術(A‘⇒A)〕がその(社會Aの)空白を埋めにやつてくる〔『神の解體と變形と抽象化』で〕といふわけだ」(參照以下文)⇒續く
⇒續く「が、かれにとつて科學(實證精神:A‘⇒A)とはたんに認識する理性の滿足ではない。神(C)が自然(C)をつくるやうに、自然(C)を素材(自然物・客體對象A)として弄びつつ(A’⇒A)、理性が戲れるのである。かれはあくまで技術(art)家であつた――藝術(art)家であつた。ここに重要なことには、技術(A‘⇒A)が社會(A:社會的集團的自我)の空席を埋め、のみならず社會(A:社會的集團的自我)は技術(A’⇒A)に追放される〔A:社會的集團的自我の消滅化、即ち「精神(B個人の純粋性)⇒(一對一:Aの消滅)⇒自然(C)」〕といふことになるのだ。いはば、レオナルド(△枠)にとつて個人(B個人的自我)と社會(社會的・集團的自我:A)との聯關の合理化(精神の政治學)が不必要であつたのは、精神の政治學の負ふべき課題(PP圖:rekisinoikkannsei.pdf へのリンク)を技術(科學・實證精神‘A⇒A)が引受けた――といつていひすぎならば、技術はそれ自身のうちにさういふ(「A:社會的集團的自我」消去の)可能性をふくんでゐたのである」(P446下)。 *「レオナルドについていつたやうに純粋なる個人〔個人の純粋性(B個人的自我)〕と自然(C)〔精神(B個人の純粋性)⇒(一對一:Aの消滅)⇒自然(C)〕と、乃至は純粋なる個性〔個人の純粋性(B個人的自我)〕と自然物(生物)としての人間の肉體(A集團的自我)との直接對立〔『B對A』即ち、科學(⇒A)による社會(A:社會的集團的自我)の消滅化〕によつて、その間に他者とかかはりをもつ人間の集團性(集團的自我A)は脱落してゆくのみならず、科學(‘A⇒A:實證精神)はあへて積極的にその消去を企てる〔『神の解體と變形と抽象化』で〕ものなのである。科學(A‘⇒A:實證精神)は人間を神(C)の支配、自然(C)の呪縛から解放せんとこころみるだけではなく、支配階級の縱の壓迫から、さらにすすんで隣人の強ひる横の規制からすら、人間を解き放たうとする努力する。その結果として個人の純粋性(B)を救ひださうといふわけなのだ」(P448上)。 『アポカリプス論:まへがき』 *「イエスは――いや、イエスのみならず、多くの聖人賢者(レオナルド含む)たちは、つねに個人〔個人の純粋性(B個人的自我)〕であつた。純粋なる個人〔個人の純粋性(B個人的自我)〕にとどまつてゐた。イエスは弟子たちのまへにも、つねに孤獨であり、かれらの肉體的權力者(A:「支配=被支配の自己」)となることをかたく拒絶してゐた」(『ロレンスⅠ』全二P37)。 *「自然」の二解釋(大自然(C)と自然物(生物・肉體=A集團的自我)について・・・以下『唯一語の爲に』(全集六P421)の「nature」を參照されたし。 *「『リア王』の中にnatureといふ語が凡そ四十囘位繰返し出て來る。だが、それを日本語に譯する場合、『自然』の一語を以て押し通す譯には行かない。ドーヴァ・ウイルソンに隨へば、その意味は大體次の七つ分たれる」 (一)森羅萬象(C)を造り出す力を擬人化した女神。 (二)事物のおのづからなる秩序(D1)。 (三)人間性、或は人類。 (四)氣質、性格。 (五)親族間の本能的愛情(A)。 (六)肉體(A)的構造、生命(A)力、及びその機能。 (七)傳統(D1の至大化)、仕來り(Eの至大化)に對するものとしての本能的衝動(A)。 (全集六P421)。 |
以上。