平成二十九年九月七日
恆存評論に内在する「演劇的關係論」(關係圖で讀み解く各評論)
恆存の「演劇的關係論」に基づく以下思想中、その①は簡潔ではあるが實に内容は深く、そして文明論文化論國家論政治論文學論人間論等、多岐に亘りその適用の範囲は擴がつてゐるのを窺ひ知る事が可能である。よつて今般それを圖的に纏めてみた次第である。⇒下欄表Ⅱ及び參照圖「各評論に見られる『演劇的關係論』new.kankeiron.pdf へのリンク」。
さう言へば、恆存は「浅利慶太」との對談で自らの批評方法をかう述べてゐる。今囘の探究の上でも重要だと思へるので此處に紹介する。「僕の批評活動は芝居を書くつもりでやつてゐたのですからね。からかふのも風刺するのも芝居の原理に從つてやつてゐたんです。非常に開き直つて言へば、いままでの批評が劇作家の批評なんだ」と。
] 恆存は、せりふを含め言葉(潛在物:F)の裏(背景)には、關係(D1)と言ふ實在物が存在してゐて、かつ「關係(D1)の方が先行する」又「在るものは關係(D1)だけである」と、その重要性を他の評論も含め以下の樣に記述してゐる。
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 ①場( C’)から生ずる「關係(D1)と稱する實在物(近代化=ハードウェア)は、潜在的には一つのせりふ(F:技術や社會制度的言葉、即ち機械化・組織化・劃一化・合理化等々のハードウェア)によつて表し得る」(全七P300『せりふと動き』(當評論:實記載年は昭和五十二年:六十六歳)。 ②「すべてのせりふ(言葉F)において、それ自體の意味内容より關係(D1)の方が先行するといふ事、觀客に見せなければならぬのは、何よりもその關係(D1)なのだといふ事」(P318『せりふと動き』)。 ③「關係(D1)の無いところでは、個(AB及びFも可能)も全く捉へ處も手掛りも無いものとなる。個よりも關係(D1)の方が先に存在し、一つ一つの個(F)は既成の關係(D1)の中に生れて來るのだからである」(P455『フィクションといふ事』)。 ④「『何(F)を喋るか』ではなく『なぜ(D1)喋るのか』の『なぜD1』を『何F』の裏に見せてくれてこそ芝居の面白味があるのです」(参照戯曲場面:P320上~321『せりふと動き』)。 ⑤「せりふ(F)は語られてゐる意味の傳達を目的とするものではない。一定状況の下(場面C’)において、それを支配し、それに支配されてゐる(D1:宿命・關係)人物の意志や動きを表情や仕草と同じく形のある『物』(Eの至大化)として表出する事、それが目的であり、意味の傳達はその爲の手段に過ぎぬ」(全七P345『シェイクスピア劇のせりふ』)。 ⑥「在るものは關係(D1)だけである」(P23上)が、しかもそれを「言葉(F)は客觀的に描寫しない」(P70下)又はし得ないのである。「言葉(F)は對象を描寫するするためのものではない」(P69下)。何故ならば、「事實は語るべきものではなく、ただ在るもの」(62上『批評家の手帖』:拙發表文から)だから。 |
そして、上記文はそのまま、前囘「讀む會」テーマ評論『日本よ、汝自身を知れ』に於ける、以下枠文に轉載した「日本新聞人」批判にも、當て嵌めて思考する事が可能なのである。
つまり、以下の如く彼等「日本新聞人」は偏見の爲、「借物の言葉(F:軍事政權・文民統制・非民主主義的獨裁制・軍事クーデター等々)」の背景(裏)に、場(C’:西歐近代)から生ずる「關係(D1)と稱する實在物(韓國の近代化D1と言ふ特殊事情)が在るのを良く認識出來てゐない。即ち「何(F)の裏になぜ(D1)」を充分に讀取つてゐない、と恆存は謂はんとしてゐるのである。
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『日本よ、汝自身を知れ』「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 〔韓國への日本新聞人の偏見〕・・・ *「(日本の)新聞人はそれらの言葉(F軍事政權・文民統制・非民主主義的獨裁制・軍事クーデター等々。)を注意深く用ゐて( Eの至大化)」ゐない。 *「日本の新聞は李承晩大統領、及び張勉内閣時代を『民主主義』(F)といふ『借物の言葉』(F)によつて韓國近代化(D1)の黄金時代と見、朴政權下の維新體制を獨裁性(F)といふ同じく『借物の言葉』(F)によつて非難攻撃して止まない」(P336)。 *「(全斗煥氏が斷行した)一見朴正煕氏以上に獨裁的とも見える種々の改革は、軍の權力を笠に着、軍政を布く事を目的とするものではなく、韓國の近代化(D1の至大化)、合理化(F)を達成する爲に必要にして止むを得ざることだつたのである。勿論、それは全軍の支持を得た軍人(一つの有機的な共同體)でなければ出來ぬ事であつた」(P341)。 |
で、冒頭に書いた通り、かかる「演劇的關係論」なる恆存の思想は、その適用範囲は廣く、實際に各評論を探究してみるに、以下表の如く「文明論文化論國家論政治論文學論人間論等」、多岐に亘つてゐる。その淵源を探れば何處まで辿れるかは心許ないが、一應此處に調べてみた。勿論全評論を探究する迄には行かなかつたが、年代別全集別にその所在を知る事で探究の成果はおほよそ摑めたと思ふ。
それだけ恆存にとつて、ロレンスの「二元論(集團的自我A・個人的自我B)」同樣に、この思想の重要性が窺へると言ふものである。尚、それを證左するとも思へる、「關係論」に關聯する重要な文章を、たまたま今般「全集:覺書五」に發見したので以下記載する。
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*「とにかくこの日本の近代化(D1關係)といふ問題が、私がものを書き始めて以來、終始こころのうちに蟠りつづけて來たのである」(全五P623「覺書」)。 |
要するに、「ものを書き始めて以來」(二十一歳初作脚本『或る町の人』含む?)、恆存にとつては近代化も演劇的關係論も、どちらも「C及びC’⇒D1(場との關係)」と言ふセットの問題なのである。⇒參照圖「各評論に見られる『演劇的關係論』new.kankeiron.pdf へのリンク」
この結論を導き出した、恆存評論の「淵源」について先述すると、それは、既に「大學院研究報告『マクベス』」(昭和十三年:二十七歳大學院學生時)に探る事が出來る。更に探究すれば、もう少し遡つて、「東京帝大卒論『DHロレンスに於ける倫理の問題』(昭和十一年:二十五歳)」にもそれは可能かとも思へる。が、その現物が手元には無い。しかし無理をすれば、『ロレンスⅠ』評論(アポカリプス論――』まへがき)でその想像がつく。⇒參照:表Ⅱ「實文章」。
この二つから小生はかく想像する。つまり、シェイクスピア(近代の始まりとしてのルネサンス期)もロレンス(近代)も、二十代の恆存には、どちらも「神C喪失=關係・宿命D1喪失=近代(デクリネイション:衰退)」の問題として捉へられて、その「關係D1喪失」換言すれば「無限定性D1の自己」が恐らく物書きへの起爆劑となつたのである。そして其處から彼の「關係D1と言ふ眞實を生かす」關係論(文學活動)は始まつたのではなからうか、と推測するのである。
それで、冒頭枠文の「演劇的關係論」が内在すると思へる評論を、別圖の△參照圖(F・D1・C・E)を基に以下二つの表で探究してみた次第である。その結果として、各評論には濃淡の差はあれ「演劇的關係論」(關係圖)の内在を窺ひ知る事が出來た。ただ聊か牽強附會の側面も無きにしも非ずである。
〔表Ⅰ〕
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*せりふを含め言葉(潛在物:F)の裏には、關係(D1)と言ふ實在物が存在してゐて、「關係(D1)の方が先行する」「在るものは關係(D1)だけである」と恆存は言ふ(表Ⅱ參照)。しかも、この事が解らぬが爲に、日本は「近代化適應異常(D1の至小化)」を冒したと。「日本の近代史を『近代化に對する適應異常の歴史』として見直す事を提案する」(『適應異常について』)の言も其處から起因してゐると思へる。 以下表Ⅰは、各評論に於けるその「關係論」、つまり、言葉(潛在物F)の裏にある關係(實在物D1)と、實在物たらしめる場(C又は C’)、そして「F・D1」二者を有機的に結び附けるその型(E)とを示したものである。 |
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F(言葉:潛在物) :ハードウェア |
D1(關係:實在物) :ハードウェア |
實在物及び關係(D1)たらしめる場(C又は C’)。 |
E(潛在物Fの裏に實在物D1を際立たせる型) :ソフトウェア(so called) |
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ロレンス (『アポカリプス』論より) |
精神主義(F潛在物) |
愛(神意D1:實在物) |
神(C) |
「F」へのnot so colled(Eの至小化)。その結果としての「抑壓された我意(A)」が招く「自己欺瞞(A⇒B潜り込み)」即ち「弱者の歪曲された優越意思(A⇒B潜り込み)」。 |
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シェイクスピア 「大學院研究報告『マクベス』論」 |
自由(F)=孤独(F)=自我の不安(F) |
宿命(關係D1)喪失 |
神(C)喪失=近代 |
「「危機と戲れるkikitotawamureru.pdf へのリンク」(Eの至大化:出典『飜譯論』) |
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『素材について』(鷗外論) |
素材(F)・・・「堅固な盾(C:天=儒教道徳・武士道)」があるが故に、「混亂してゐない」傳統運命(D1)及び素材(F)。 |
傳統・運命(D1) ・・・「自我の運命(D1)のはかなさを」を見ると同時に、それを「蔽ひ庇ふ(おほひかばふ)堅固な盾(C:天=儒教道徳・武士道)」を持つ人生に安定感を、鷗外は見いだすのである」。 |
歴史(C時間的全體)・・・ C堅固な盾(天=儒教道徳・武士道) |
「かれ(鷗外)は素材(F)以外に文學(E型)はないと考へる」。 |
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『永井荷風』 上項同樣、「素材F」の問題がある。 注:荷風は鷗外を尊敬してゐる(鷗外臨終にも列席:參照『斷腸亭日乘』)。 |
「いま(明治も現代も)の世の中は現實が素材(F)のまま」。 |
傳統・文化(D1) |
歴史(C時間的全體) |
*「人間と外部の風景(F素材)とのあひだに感情の交流が行はれるためには、どうしても固定した(E)風景が必要」。 *「素材Fのままの現實(明治)に樣式(Eの至大化)を與へなければならぬ」。 *「これ(素材F)を整理し、これに衣裳をまとはせる樣式(江戸情緒E)」。 |
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『急進的文學論の位置づけ』 |
「(明治の現實は)なまの素材(F)としては混亂」 |
文化(D1)喪失・衰退 |
歴史(C時間的全體) |
「主題的完成(型E)・美的完成(Eの至大化)」 |
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『近代の宿命』 |
ヨーロッパの近代精神(F)とその政治制度・経済機構(F:民主主義・國際法・資本主義等々) |
宿命(關係D1)喪失=「近代ヨーロッパは神(C)を見失つた」 |
神(C)喪失=近代 |
「神の解體と變形と抽象化(Eの至大化)」。 |
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『文化とはなにか』 |
言葉(F)・物(F)・文化財(F) |
文化(D1)・傳統(D1) |
歴史(C時間的全體) |
生き方(E)・生活の樣式(E)・氣質(E)・くせ(E)教養(E)。 |
以下は更に他評論をも含め、實文章(右項)に同じく「F・D1・C・E」を當て嵌めて「關係論」を調べてみた。⇒參照圖(「各評論に見られる『演劇的關係論』new.kankeiron.pdf へのリンク」)
〔表Ⅱ:年代・全集別、實文章探究〕(表中①②③・・は「參照圖」番号と合一或いは關聯)
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年月日 |
評論名(内容文) |
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昭和七年:二十一歳 |
脚本『或る町の人』(築地座脚本募集:當選作なし、選外傑作) *現物無く探究不可能なれど、演劇脚本ゆゑに演劇的「關係論」を思ひ見る事も可能。
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昭和十一年:二十五歳 |
參照圖① 東京帝大卒論『DHロレンスに於ける倫理(C神・コスモス⇒D1神意・愛せよ)の問題』 〔現物無く探究不可能なれど、當卒論に敢へて以下の展開を想像しようとすれば想像できる〕 〔クリスト教が招いた欺瞞〕 *神(C)⇒愛(神意D1:實在物)⇒精神主義(F潛在物)⇒「F」へのnot so colled(Eの至小化)。その結果としての「抑壓された我意(A)」が招く「自己欺瞞(A⇒B潜り込み)」即ち「弱者の歪曲された優越意思(A⇒B潜り込み)」(『アポカリプス』論より)。 參考「關係論」 恆存評論『チャタレイ夫人の恋人』昭和二十五年:三十九歳著 *「ヒルダは男から沈黙と距離の力(Eの至大化)を感じた。(中略)この男(主人公メラーズ)は決して単純な勞働者ではない。それどころか、演戯してゐる!(フレイジングを含め「Eの至大化」)立派に演戯してゐるのだ」(DHロレンス著『チャタレイ夫人の恋人』)より)。 |
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大學院研究報告(昭和十三年:二十七歳大學院學生時) |
參照圖② 大學院研究報告『マクベス』論を基にした『シェイクスピア』⇒參照圖「危機と戲れるkikitotawamureru.pdf へのリンク」(『飜譯論』から) *既に「大學院研究報告『マクベス』論」時期に、シェイクスピアより、實在物(D1)⇒潛在物(言葉F)⇒「危機と戲れるkikitotawamureru.pdf へのリンク」(Eの至大化:出典『飜譯論』)」なる思考を探り當ててゐたのではないかと言ふ假説が得られる。 拙發表文:『シェイクスピア』より *此處『マクベス』論(卒論に加筆)では恆存の主題の一つ「近代適應異常(D1)」の對象である「西歐近代( C’)」とは何か、の本質を窺ふ事が出來る。その負の側面(一樣相)を。 《當發表文では以下三つの問題を探求する》(文中括弧内は概ね吉野注) 1.『マクベス』に先取されてゐる近代理智の時代的衰退様相・・・戯曲『マクベス』に見る事が出來る、近代理智(自由F・個人主義F)のひとつの態樣。即ちそれは近代が持つ衰退(「デクリネイション」)の一樣相なのではなからうかと言ふ事(P22)。 2.西歐近代自我(個人主義F)が持つ「自由(F)」=孤獨(F)(宿命・關係D1喪失による)、と言ふアイロニー。即ち自由(F自我解放)の裏にしのびこむ「解放されて仕へるべき何物(C)をも持たぬ自我(宿命・關係D1喪失)の不安」と言ふ近代が持つ負の側面(P27)。即ち「近代=全體(C)喪失=宿命(關係D1)喪失=自由(F)・孤独(F)・自我の不安(F)」。 *「王冠や笏(D1:神に與へられた宿命、關係:『王権神授』)を取り去つてみればはたして人は何者であるか。ハムレットにしてデンマークの王子(宿命D1保持者)でなければ、野心家(自由F・個人主義者F=宿命・關係D1喪失)マクベスたらざるをえないではないか」と。 さうしたアイロニカルな性質を持つ、近代自我「開放さるべき個性の實體とは何か」。ただそこに露呈されてゐるものは、「解放されて仕へるべき何物(絶對・全體)をも持たぬ自我の不安(F)」ではなかろうか。近代の負の側面である「近代=全體(C)喪失=宿命(關係D1)喪失=自由(F)=孤独(F)=自我の不安(F)」、が其處にあると恆存は言ふのである(正の側面:西歐近代が持つ實證精神(A’⇒A)=「神に型どれる人間の概念の探究」)。 「全體(C)喪失=宿命(關係D1)喪失」を、恆存は衰退(F:「デクリネイション」)と見た。そしてシェイクスピア自身にも「(ルネッサンスの子としての)昇騰してやまぬ想像力の自由(F)な羽ばたきの影に何か黒い空洞(近代の孤獨感F)があって、恐らく時折はそこを冷たい風がさつと通り抜けるのが感じられたに相違ない」(P27)のだ、と恆存は鋭敏に察知した。そしてその「自我の不安(F)」、それがマクベスの主題であると。 參考 『飜譯論』(昭和三十五年)⇒下項目 ⇒參照圖「危機と戲れるkikitotawamureru.pdf へのリンク」 *「危機的なもの(即ち全體離脱から來る關係D1)がシェイクスピアの中にはあつて、なによりもそれが私の心を引く」。 |
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昭和十六年頃:三十歳 |
參照圖① 初出『アポカリプス論』譯及び初出『アポカリプス論――』まへがき 〔クリスト教が招いた欺瞞〕 *神(C)⇒愛(神意D1:實在物)⇒精神主義(F潛在物)⇒「F」へのnot so colled(Eの至小化)。その結果としての「抑壓された我意(A)」が招く「自己欺瞞(A⇒B潜り込み)」即ち「弱者の歪曲された優越意思(A⇒B潜り込み)」(『アポカリプス』論より)。 |
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全集第一巻 (「文學界」昭和十八年十二月號:三十二歳) |
參照圖③ 『素材について』(鷗外論) 〔難解又は重要文〕P512上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「藝術(B)至上主義の放縱に身をゆだね、そのむなしさのはてになほ強靭な自我を保有しえたものは――いや、それほど強靭な存在をひとはもはや自我とは呼びえまい、放縦と荒廢とのあとに生き殘るものは歴史(C)であり傳統(D1)であるから――このひと(鷗外)にしてはじめて素材(F)のもつなみなみならぬ重要性を自覺しうるのである。かれは素材(F)以外に文學(E型)はないと考へる。なんの苦勞をしておろかしくも手を加へる必要があらう、ただ根氣よく素材(F)を探しあるき、それに隨へばいい、さう考へるのである」。 |
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全集第一巻 昭和二十一年八月 三十五歳著)。 「附『墨東奇譚』について」( 昭和二十六年十二月刊 四十歳著 |
參照圖③⑧ 『永井荷風』(全一『近代日本文學の系譜』から) ⇒參照圖「歴史・文化・型P1-4rekisi.bunka.kata.pdf へのリンク」・ 〔難解又は重要文〕:P220上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「いま(明治も現代も)の世の中は現實が素材(F)のままなまの姿を現してゐるので、これを整理し、これに衣裳をまとはせる樣式(E)といふものが缺けてゐるのです。樣式(E)のないところに眞の人間生活(kahuu.huukei.kteika.pdf へのリンク」右圖)はありえない。――それはたんに動物の生存(同左圖)にほかならない。僕たちはなんとかしてこの素材のままの現實(F)に樣式を與へなければ(Eの至大化)ならぬ。それが現代の政治家、事業家、學者、藝術家、すべての人に課せられた任務なのです。荷風の青少年期をおくつた明治二十年代、三十年代とはまさにかういふ時代であつたといへませう」。 *「人間と外部の風景(F)とのあひだに感情の交流が行はれるためには、どうしても固定した(Eの至大化)風景が必要」。⇒參照圖「荷風・風景kahuu.huukei.kteika.pdf へのリンク」」。 *「風景( F)の固定化(E:様式化)があることによつて、それに反應する情感を錬磨してきた。この固定化(E:様式化)がマナリズム」。 〔荷風の文學〕:江戸情緒に沈湎(「マナリズムに沈湎」P218下)する事で明治への沈湎を免れた。 *荷風は、右圖(上文)の有機的形態を回復せんとして、即ち「素材のままの現實(明治)に樣式(Eの至大化)を與へなければならぬ。それが現代の藝術家に課せられた任務」として、荷風は以下の能動(文學行動kahuu.huukei.kteika.pdf へのリンク」)を取つたのだ、と恆存は謂ふのである。 |
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全集第一巻 (掲載誌不明:昭和二十二年三月中旬執筆)四十七歳】 |
參照圖④⑥⑦關聯 【『現代人の救ひといふこと』「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 「他人(西歐の近代化D1)の問題(F:資本主義・民主主義・個人主義等)にまへのめりに沒入し(Eの至小化=D1の至小化)」(P633)、彼我の差を辧へず(Eの至小化=not so colled)、それをパラレルに(表象・後楯の概念としてkindaikanosetumei.pdf へのリンク)近代化(D1)の一つと安直(距離測定能力欠如)に受け留めて、しかも適應異常(Eの至小化=D1の至小化)してしまふ日本の特質が此處に糺彈されてゐる。 |
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全集第一巻 (「中央公論」昭和二十二年三月號:三十七歳著)。 |
參照圖③⑥關聯 『小説の運命Ⅰ』『小説の運命Ⅱ』 〔難解又は重要文〕:P611上下~614下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「小説の效用は、まず第一に作者自身が口邊に苦笑をうかべる(Eの至大化=so called)ことによつて、現實(場・ C’)の人生に耐へ、みづから(A&B)を救ふことであり、第二に讀者をも同じ境地に誘ひこむことである。異常にして新奇な生活を經驗することを小説に期待するのは、けつして第一級の讀者とはいひがたい。――第一級の名に値する讀者とは、異常にして新奇なる生活を願ふ自分の夢想(BC)が現實の生活(場・C’)でみじめにふみにじめられてゆく(沈湎:D1の至小化)ばあひ、あへてこれに反抗することもなく、といつて無神経にこれに忍從するのでもないひとたちであつて、かれらに殘された唯一の望みといふのはさういふ自分(F桎梏・憂鬱等=沈湎D1の代替語)を笑ふこと(Eの至大化)であり、自分(F桎梏・憂鬱等)を笑ふことによつてわれをもひとをも許し救はん(D1の至大化)がために小説を讀むひとたちなのである これを、恆存の他評論(演劇的關係論)に於ける表現を借りて言ふならば、現實と言ふ「場C’」に沈湎(D1の至小化)してゐる自己(F:桎梏・憂鬱等=沈湎D1の代替語)を、「口邊に苦笑をうかべる」と言ふフレイジング(Eの至大化=so called)的行爲を利かせる事によつて、そのアイロニーを自己所有化(客體化)するのである。さうする事で「言葉(F)と自己との距離測定(Eの至大化)」が出來る。即ち、自己と場( C’)との沈湎關係(D1の至小化)を代替する「桎梏・憂鬱等」と言ふ言葉(F)との距離間隔(E)が、フレイジングによつて開き、それによつて言葉(F桎梏・憂鬱等)の自己所有化が可能となり、結果そのアイロニー的情況(沈湎)を笑ふ事(D1の至大化)が可能となるのである。 ⇒參照圖(「各評論に見られる『演劇的關係論』new.kankeiron.pdf へのリンク」) |
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全集第二巻 昭和二十二年四月:四十七歳 |
參照圖④ 『近代の宿命』 *「近代ヨーロッパは神(C)を見失つた――が、それはただ神の解體と變形と抽象化(Eの至大化)とを意味するに過ぎぬ。まさにそのための手續きであり過程にすぎなかつたヨーロッパの近代精神(F)とその政治制度・経済機構(F:民主主義・國際法・資本主義等々)なのである」(『近代の宿命』全二P466)。 *「萬人をその胸に救ひとる人格神(C)が、その手をその脚を、さらにその胴體をもぎとられ(客體化)、それらが制度化(F:民主主義・國際法・三権分立等)せられ機械化(F)せられる――で、神(C)は人體を失つて、完全な精神(F)としての抽象化(Eの至大化)を受ける。その精神(F)が文學(E)の領域(B領域)として殘されるといふわけだ」(『近代の宿命』全二P463)。⇒別圖參照(西歐近代構圖seioukindaikouzu.pdf へのリンク) *「ヨーロッパが近代の危機(D1:即ち神C喪失⇒關係D1)に直面したとき、日本もまたおなじことば(近代の危機=關係D1)でじぶんたちの現實(F:日本の現實)を理解(Fへのnot so colled)した。――といふのも、ヨーロッパの主題(神C喪失⇒D1近代の危機)を飜譯してそのままに通用してしまふ現實(F)が、海をへだててパラレルに(表象・後楯の概念としてkindaikanosetumei.pdf へのリンク)展開されていたのである。じじつは絶對に通用しえぬのに通用しうるかのごとき錯覺をいだいたことにまちがひがあつたのだ。ぼくたちはまず第一に、ヨーロッパの近代(神C喪失⇒D1近代の危機)を本質的に究明して日本に眞の意味の近代(D1近代化)がなかったこと(日本の現實Fをso colled)を知らねばならぬ。第二に、しかもヨーロッパの近代を索引にしなければならぬ近代日本史をパラレルに(表象・後楯の概念としてkindaikanosetumei.pdf へのリンク)もつたといふ事情も同時に認めなければならない。第三に、この二つの事實を理解しえぬために生ずる混亂(近代化適應異常:D1の至小化)を徹底的に克服せねばならない即ち「日本の近代史を『近代化(D1)に對する適應異常(D1の至小化)の歴史』として見直す事」(『適應異常について』)」(P459『近代の宿命』)だと。 |
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全集第二巻 「展望」昭和二十二年五月號) |
參照圖② 『ロレンスⅠ』(D・H・ロレンス著『現代人は愛しうるか――アポカリプス論――』まへがき)=注:初出は昭和十六年頃『アポカリプス論――』まへがき。 〔クリスト教が招いた欺瞞〕 *神(C)⇒愛(神意D1:實在物)⇒精神主義(F潛在物)⇒「F」へのnot so colled(Eの至小化)。その結果としての「抑壓された我意(A)」が招く「自己欺瞞(A⇒B潜り込み)」即ち「弱者の歪曲された優越意思(A⇒B潜り込み)」(『アポカリプス』論より)。 |
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全集第二巻所收(「花」昭和二十三年一月號:三十七歳著)。 |
參照圖③關聯 『急進的文學論の位置づけ』⇒上項『永井荷風』(全集第一巻昭和二十一年)文參照 參照圖「荷風・風景kahuu.huukei.kteika.pdf へのリンク」 〔難解又は重要文〕:P297下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 ②「(明治の現實は)なまの素材(F)としては混亂してをり、なんの意味をもたぬ現實(F)に主題的完成(型E)を與へるのが文學(E)の意圖であるとすれば、明治日本の現實(F)がその作家たちに美的完成(Eの至大化)を許さぬほど混亂してゐたといふ事實を、ぼくたちはまづみとめてかからねばならない。存在(場 C’)そのものが混亂していたばかりではなく、意識(D1心の動き)も、意識と存在との關聯そのものも、ほとんど收拾つかぬほどの混亂(D1の至小化=沈湎)を呈してゐた。その混亂の樣相を如實に描きだすことこそ今日の歴史學、あるいは社會科學の任務であらう。それらの科學(A’⇒A)が充分にその責任をはたしえないでゐるがために、文學の領域(B)で粗笨(そほん)な公式的イデオロギー(唯物論・唯物史觀?)がいともかんたんに現實を料理し、作品や文學史を裁斷してゐるのだ」。 |
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全集第二巻所收 (「個性」昭和二十三年六月號。三十七歳著) |
參照圖③④⑧關聯 『職業としての批評家』 *エリオット文への恆存補足文・・・「新しい作品、あるいは新しい作家の出現にさいして、そこに破れた均衡を發見し、さらにその破壊された秩序よりも高次な、新しい作品を含む新しい秩序を建てなほすこと、それが批評家の職能だといふのだ。ここにはっきりと意識されてゐるものは、歴史的傳統(D1=關係?)、社會秩序(D1=關係?)、そして文化の観念(D1=關係?)である。(中略)批評家はそのことを明瞭に自覺し、もつぱらそのためにのみかれのしごとを推進させねばならないといふのである」(P316)。 |
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全集第二巻 (昭和二十五年六月、要書房刊。三十九歳著) |
參照圖⑤ 『藝術とはなにか』⇒參照圖「自然とリズムの關係shizentorizumunokankei.pdf へのリンク」 ① 『藝術とはなにか』(假説:本質・核kasetsu.kenshou.pdf へのリンク)⇒②(檢證: 深化・演繹?敷衍?)『人間・この劇的なるもの』⇒③(現象化・實用篇)『せりふと動き』。 *「ことばの藝術である文學(E)は、思想や現實(F)の表現(寫實?)などではけつしてなく、生命の根源(C)からもつとも分枝してしまつた思想と現實(F)とが、その根源(C)に復帰し、自己の生理(D1)を獲得しようとする運動なのだ」(『藝術とはなにか』)。 |
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昭和二十五年 三十九歳 |
參照圖① 恆存評論『チャタレイ夫人の恋人』 *「ヒルダは男から沈黙と距離の力(Eの至大化)を感じた。(中略)この男(主人公メラーズ)は決して単純な勞働者ではない。それどころか、演戯してゐる!(Eの至大化)立派に演戯してゐるのだ」(DHロレンス著『チャタレイ夫人の恋人』)より) |
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全集第二巻 昭和二十七年 四十一歳 |
參照圖⑥⑧關聯 『ことばの二重性』 *言葉(F)は「いはば貨幣のやうに額面どほりにしか通用しない客觀的な效用價値と、同時に、それを喋る人間の性格(D1)や、しかもそのときどきの心理(D1)を傳へる主観的な效用價値」(全二P422下)。 |
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全集第三巻 (「婦人畫報」昭和二十八年一~七月號:四十二歳) |
參照圖③⑥⑧關聯 『戀愛と人生』 *「我々の血(F)の中には、古い情事の意識(D1心の動き)が殘存してゐる。(中略)その(Fへの距離測定欠如が招く)混亂を分析(Eの至大化)しなければ、いつまでたつてもわれわれは不當に惱み、不當に傷つかねばならない(D1の至小化=適應異常)であらう」(當評論P326)。 |
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全集第三巻 (「新潮」昭和三十年七月號――十二月號。昭和三十一年二月號――五月號。四十四~五歳)。 |
參照圖⑤ 『人間・この劇的なるもの』 *「『せりふと動き』は『人間・この劇的なるもの』の『實用篇』であり、兩者を併讀すれば、演技→演戯→人生といふ私の考へ方を理解してもらへると思ふ」と恆存は言つてゐる(『せりふと動き』:あとがきより)。 *「祭日(F)とその儀式(E)は、人間が自然(C空間的全體)の生理(D1關係)と合致して生きる瞬間を、すなはち日常生活では得られぬ生の充實の瞬間を、演出しようとする欲望から生れたものであり、それを可能(Eの至大化)にするための型(E)なのである。私たちが型(E)に頼らなければ生の充實をはかりえぬのは、既に私たち以前に、自然(C)が型(E)によつて動いてゐたからにほかならぬ。生命が周期をもつた型(E)であると云ふ概念を、私たちは、ほかならぬ自然(C)から學び知つたのだ。自然(C)の生成に必然の型(E)があればこそ、私たちはそれにくりかへし慣れ、習熟することが出來る。そして偶然に支配されがちの無意味で不必要な行動から解放される。何故なら、型(E)にしたがつた行動(Eの至大化)は、その一區切り一區切りが必然であり、それぞれが他に從屬しながら、然もそれぞれがみづから目的と成る。一つの行動が他の行動にとつて、たんなる前提と成り、手段と成るやうな日常的因果關係のなかでは、そのときどきの判斷によつて採用された行動は、たいてい無意味で不必要な結果に終る。個人の判斷が、その必然性の一貫にどれほど緻密な計量をはたらかせようとも、それは殆どつねに偶然の手にゆだねられる」。⇒參照圖「自然とリズムの關係shizentorizumunokankei.pdf へのリンク」 |
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全集第三巻 (昭和三十年三月) |
參照圖⑧ 『文化とはなにか』⇒參照圖bunkanitsuite.pdf へのリンク *「人類は性こりもなく戰爭をくりかへしてきたが、それは意識するとしないとにかかはらず、自國の文化(D1)を守るためでありませう。それほどに、自分の氣質(E)とかくせ(E)とかいふものは大事なものなのであります。それは私たちの、いはば生き方(E)であつて、それを變へろといはれるのは自分の生活(生活の樣式E)が否定されるほどに辛いのです」(P233)。 ・・・「文化(D1)とは私たちの生き方(E)であります。生活の樣式(E)」(全集第五巻『傳統にたいする心構』P185と同)。 |
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全集第三巻 (昭和三十年一~十月號) |
參照圖⑦ 『日本および日本人』 〔難解又は重要文〕P191下~2上&194上 *「近代戰(F)に馴れない(not so called=Eの至小化)人間(即ち「和を原理とする」=異質な so called手段を持つ人間)が近代的戰爭(F)に手を出した結果が、殘虐不法な戰爭を招來し(似而非近代性=近代化適應異常=D1の至小化)、國家主義(F)に馴れない(not so called=Eの至小化)國家が國家主義をまなんで超國家主義(似而非近代性=近代化適應異常)になつた。同樣に、権利義務の契約(Eの至大化)にもとづく個人主義(F)に馴れない(not so called=Eの至小化)人間が、その制度(F)や法律(F)を移入すれば、それはたんなる利己主義を助長する(Eの至小化=D1の至小化)にしか役だたぬのです。がその利己主義(Eの至小化=D1の至小化=近代化適應異常)をそのまま日本人の封建的性格と見なすことは誤りですし、さういふ性急さこそ、日本の眞の近代化を妨げてきたのであります」(P192上)。 *「天皇は神であるといふとき、その神は、すでに日本流の神でもなければ、さうかといつてクリスト教的な神でもありません。それが、無意識のうちに、西洋流の神(F)に對抗し、それに牽制されて(Fへのnot so called=Eの至小化)、なんとなく絶對者のやうな色彩をおびてきた(似而非近代性=近代化適應異常)のであります。(中略)、(上述の)國家主義でもないものが超國家主義的相貌を呈してくる(似而非近代性=近代化適應異常=D1の至小化)。それと同樣に絶對者でもないもの(天皇)が、超絶的な風貌(似而非近代性=近代化適應異常=D1の至小化)を呈してくる(即ちクリスト教「絶對神」への適應異常)」(P194上)。 *「明治になつて、絶對者(C)の思想(クリスト教精神)を根柢にひめた西洋の思想、文物、人間にぶつかつてみると、對抗上、どうしても絶對者(C)が必要になつてくる。しかも、日本にはそれがないから、なにか手近なものにそれを求めようとする。天皇制もそれですし、プロレタリアートもそれです。元來、絶對(C)ではないもの(相對物)を絶對と見なさうとする」(P194上)。 ⇒參照圖「ハードウェア&ソフトウェアsoftware.pdf へのリンク」&「祓ひ清めて和に達するharaikiyomete.pdf へのリンク」 *「祓ひ清めること(儀式E)によつて、その支配下から脱するといふ態度からは、いかなる科學(實證精神:A‘⇒A)も發達しなかつたのですが、同樣に、エゴイズム(A)を醜しとして却け、それを(AをF化し)祓ひ清めて和に達する(儀式E:美的潔癖⇒和)といふ態度(非實證精神・非客體化的行爲:NOT「A‘⇒A」)から、道德(B)の問題も、社會(A’⇒A:客體化)の問題も発生する餘地はありませんでした」(『日本および日本人』全三P181)。⇒參照圖「祓ひ清めて和に達するharaikiyomete.pdf へのリンク」。 *「對象との距離感の喪失」P202 (祓ひ清めて和に達する)で、「それぞれの思想(F)がいかに自分と遠い距離あるか見分けがつかず(Eの至小化)、やはり、べたべたとそれに膠着してしまふのです。それらを、自分が欲してゐたものとおなじものだとおもひこんでしまふ。自分とのちがひに氣づき、自分との間に一線を引き、それが自分の肌にべたりと貼りついてくるのを却けながら(Eの至大化)、しかもそれを操る(Eの至大化)といふことを知らない」。 *私たちの祖先にとつて、道德(B⇒C)も、そのもとにあるすべての人間關係(D1)も、けつして精神(B)の問題ではなく、眼に見える物(A&F)の問題であり、儀式(E)によつて律しうる形(E)の問題(Fは儀式Eの至大化で片附ける。相對的處理の問題)だつたのです」。 *〔難解又は重要文〕P189下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 「現代日本の混亂は、かういふふう(「祓ひ清めて和に達する」haraikiyomete.pdf へのリンク)に和合(日本的Eの至大化)と美(日本的Eの至大化)とを生活の原理(儀式樣式Eを生活の原理)とする民族が、能率や権利義務(西歐的Eの至大化)を生活の原理とする西洋人の思想(個人主義F)と制度(F)を受け入れたことから生じてゐるのです」。⇒近代化適應異常。 |
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全集第四巻 昭和四十年二、三、七月號:五十四歳 |
參照圖⑧關聯 『文學以前』 *「一時代、一民族(△枠)の生き方が一つの型(E)に結集する處に一つの文化(D1)が生れる。その同じ物が個人に現れる時、人はそれを教養(E)と稱する」(全四P393『文學以前』)。⇒參照PP圖(「恆存の文化についてbunkanitsuite.pdf へのリンク」P4)(自然とリズムの關係shizentorizumunokankei.pdf へのリンク) |
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全集第四巻 (「文學界」:昭和三十二年一月號)四十七歳著 |
參照圖④⑥⑦關聯 『個人主義からの逃避』 *「なぜ私たちは西歐( C’場⇒近代化D1)の近代文學(F)をまね(Eの至大化)なければならないのか、なぜ個人主義(F)を身につけねばならないのか(Eの至大化)」と言ふよりも、それを「まねようとしたのにまねられなかつた(Eの至小化=D1の至小化:近代化適應異常)」(P202)。 |
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:【全集第五巻所收『批評家の手帖』――言葉の機能に關する文學的考察】 (「新潮」昭和三十四年一月號~七月號、十月號~十二月號:四十八歳) |
參照圖⑥⑧關聯 『批評家の手帖』――言葉の機能に關する文學的考察 拙發表文から「 」内が概ね恆存文。( )内は吉野注。 1.「人間を寫しとらうとするなら、それを物(F)として寫しても始らぬ。その意識(D1)を寫しとらねばならない」(P78上)。 2.「本人の意識(場面 C’から生ずる心の動きD1=關係)を無視して、物(對象F)としての彼をとらへうると言ふ盲信は、實證科學の影響であらう。私たちはまだそれから自由になつてゐない。(中略)すべてを物(對象F)として寫しとり、物としてしか寫しとれぬといふ實證科學は、ただその延長線上に意識を(物Fとして)發見しただけのことなのである」(P78下)⇒「おかげで精神もまた物(F)にされてしまつた(この邊は實證科學を標榜した西歐リアリズム小説=寫實主義小説の事を言つてゐるのである)」(P78下)。 「2」について恆存は、さうではなく、「言葉(F)によつてしか自他の現實をつかみえないにもかかはらず、そんなこと(物として寫しとる事)は言葉(F)には不可能」(75下)と言ひ放つ。「人間いかに生くべき」を自己表現(D2)の眞實的自己と定義し、それを寫實出來るとする西歐リアリズム小説の論は不可能であると見る。何故なら「言葉(F)は客觀的に描寫しない」(P70下)からだと。それ故に、言葉(F)が「寫し」得る對象があるとすれば、それは意識(關係=場から生ずる心の動きD2)以外にはなく、しかも「いやしくも世に『存在する』と言ひうるもの」があるとすれば、その「在るものは關係(D1)だけである」からと言ふのである(前出:P23上)。 是はどう言ふ事かと言へば、恆存はチェーホフの寫實についても「もしそれが寫實と呼びうるものなら」、關係(D1)を重要視してそれを寫實の對象としたと言つてゐるのである。勿論「自己解釋」を人間の眞實的自己として採用してゐるのではなく、願望(場面C’から生ずる心の動き=關係D1)と言ふ名の、「ただ在るもの」(62上)即ち實在物(關係D1)としてそれを採用してゐるのだと。 「在るものは關係(D1)だけである」(P23上)が、しかもそれを「言葉(F)は客觀的に描寫しない」(P70下)又はし得ないのである。「言葉(F)は對象を描寫するするためのものではない」(P69下)。何故ならば、「事實は語るべきものではなく、ただ在るもの」(62上)だから。つまり「願望(自己解釋)」は「ただ在るもの」(場面C’から生ずる心の動き=關係D1)なのである。 この邊の文章は、向後(十八年後)の演劇評論にある以下枠文を想起させる。恆存は言ふ、言葉(F)は寫實ではなく「用途(E)」なのだと。 以下枠文を参考としこの問題をなんとか纏めてみるとかうなる。 「願望(自己解釋)」は「ただ在るもの」(場面C’から生ずる心の動き=關係D1)。言葉(F)はそれを客觀的に寫實し得ないが、「せりふ(言葉F)の力學(型E=フレイジング・so called)」で、その「關係(D1)と稱する實在物」は表し得るのである、と。
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全集第五巻 昭和三十五年七月刊)四十九歳著 |
參照圖⑧關聯 『傳統にたいする心構』 拙發表文から「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「文化(D1)と教養(E)とが一語に結びつくやうな文化が、また心して栽培(Eの至大化)し、自ら習熟(Eの至大化)するやうな仕來りや態度(E)が、さらにその背景をなす宗教的な生き方(BC:「有機體としての統一kanseiseru.pdf へのリンク」)が、今の日本には無いのだといふことになります。(中略)が、それはあくまでも現代日本文化の姿であつて・・」(P185)。 *「現代の日本には主體的な生き方や心の働き(D1)としての文化(D1の至大化)や教養(Eの至大化)がないばかりか、文化(D1の至大化)とはそのやうな主體的な精神の型(Eの至大化)だといふ觀念さへないのです。おそらく日本の全歴史を通じて現代ほど文化が薄ぺら(D1の至小化)になり、教養ある階級を失つた(Eの至小化)時代はなかつたらう。(中略)私たちはまづその自覺に徹すべき」(P187下)。 *「文化(D1)とは私たちの生き方(E)であります。生活の樣式(E)であります。(中略)目の前に客體化しえぬもの、意識的に追求しえぬもの、合理的に説明しえぬもの・・」(P185:エリオットの弁より) *「文化(D1)があり、傳統(D1)があるところでは、社會が、家庭(即ち仕來り:Eの至大化)が、それ(生き方:Eの至大化)を教へてくれる」(P190)。 (以下は小生的纏め) *即ち文化(D1)のある處(換言すれば自國の歴史との「適應正常化=非沈湎」が圖れてゐる國)では、「E」を至大化させる「型・仕來り・様式・儀式」が形成されてゐて、その「E:型・仕來り」が歴史との關係(文化D1)を形ある「物」として生き方に反映(Eを至大化)させてくれるのである。文化(D1)のある國は「仕來り・型E」を持つが故に、「對象・言葉(F)との距離測定不能(Eの至小化:言葉に呪縛)」が原因の、適應異常や狂氣の囘避が可能となるのである。 |
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全集第五巻 (「新潮」昭和三十五年九月號:四十九歳) |
參照圖⑥⑦⑧關聯 『常識に還れ』『常識に還れ・續』 *今囘評論における「日米新安保条約」問題に應用するとかうなる。 「(日米と言ふ)場(D1)から生ずる關係(日本の敗戰:D1)と稱する實在物は潜在的には一つの言葉(新安保条約=軍事同盟:F)によつて表し得る」。それ故に「安保条約=軍事同盟」と言ふ言葉(F)への「socalled=所謂何々:E」の用ゐ方で、日米と言ふ場(C’)との關係(D1)を適應正常化(Eの至大化)させる事が可能となり得るのである」、と言ふ事になる。 それを言ひ換へれば、「常識とは現實(場C’)に從ひ(適應正常し)、現實に教へられる考へ方であり、生き方(E)」、即ち「常識に還れ」とは、「現實と言ふ場( C’場)との關係(D1)を適應正常化(D1の至大化)させる」考へ方、生き方(Eの至大化)をしろ、と言ふ事になるのである。(參照:別紙PP圖jyoushikitoha.pdf へのリンク) |
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全集第五巻(「聲」第九號、昭和三十五年十月刊。第十號、三十六年一月刊。:四十九歳)
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參照圖②關聯 『飜譯論』參照圖:「危機と戲れるkikitotawamureru.pdf へのリンク」 *「危機的なもの(即ち全體離脱から來る關係D1)がシェイクスピアの中にはあつて、なによりもそれが私の心を引く。彼はルネサンス(C’場=中世―神=絶對・全體喪失)といふ誤れる入り口( C’場)に立つてゐるのだが、救ひを求めて觀念(世界觀・藝術觀)に身を賣るやうな愚かさや弱さ、その他いかなる浪漫的自己欺瞞からも免れてゐる。そのため、今の私達の目には、彼が危機(全體離脱から來る關係D1)に見舞はれてゐることすら、とかく見逃されがちである。彼の危機(D1)に救ひがあつたかどうか。いや、それは救ひを必要とするものであつたかどうか。もし彼の危機に救ひが必要であったなら、彼はまず教會(C)へ出かけたらう。少なくとも彼はそれを劇場( C’場)に期待しはしなかつた。彼が劇場( C’場)に期待したことは、危機(全體C離脱から來る關係D1)から自分を救ひ出すことではなく、危機(D1關係)と戲れる(D1の至大化)ことであつた。シェイクスピアのせりふ(F)が詩でありえたのは、そしてその詩がせりふでありえたのは、彼が言葉(F)といふものを危機の表明(傳達)や解決の通路としてではなく(以下枠文參照)、その(F:自由・孤独・自我の不安)中に危機(D1關係)を呼び入れ、それ(危機)と戲れる(D1の至大化)ための場として把握してゐたからである」(P98下)。
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全集第五巻 昭和三十六年三月號:五十歳著作) |
參照圖⑥⑧關聯 『論爭のすすめ』 *『論爭のすすめ』でも、「言葉の使ひ方(E)を完成する術」の必要性として、そのソフトウェア(D1)の効果的發揮の問題が取り上げられてゐる。 |
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全集第五巻 『日本近代化試論』昭和三十八年十月號~六回:五十二歳) |
參照圖④⑥⑦關聯 『適應異常について』・『近代化を阻むもの』他六評論 *「日本の近代史を『近代化(D1)に對する適應異常(D1の至小化)の歴史』として見直す事を提案する」(『適應異常について』)。 |
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全集第五巻 昭和四十年 五十四歳 |
參照圖④⑥⑦關聯 『演劇的文化論』――日本近代化論の爲の覺書:拙發表文から *P413「近代化(D1)によつて受ける傷の深さが演劇(E樣式)における程、強く自覺される分野は他にあるまい」・・・近代化(D1)とは、「關係圖new.kankeiron.pdf へのリンク」の如く個別化、即ち全體C離脱化(「健康・秩序D1・有機性・全一性」離脱化)であるが故。 *實人生・現實の「非So called生活」「言葉の距離測定欠如」「Eの至小化」=舞台上の「非フレイジング演戯(Eの至小化)」に表面化、と言ふ事。 |
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全集第六巻 』(「潮」昭和四十一年四月號:五十五歳)。 |
參照圖⑥⑧關聯 『傳統技術保護に關し首相に訴ふ』(拙發表文から)「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「愛國心(國との場から生ずる關係:D1)の場合も道徳觀(他者愛、等)の場合も、その前に先ず物(對象・言葉F)を、それも生きてゐる物(心を通はせられる物)を必要とします。人々の求めてゐるものは「期待される人間像」などといふ抽象的理想ではなく、もつと具體的な存在、即ち吾々が手を觸れ、心を通はせる事(即ちEの至大化:型・仕來り・生き方・様式・技術・距離測定能力・So called・技術)の出來る物(對象・言葉F)そのものなのです」。 「國家が抽象的な理想(愛國と言ふ概念)としてではなく、具體的な物(心の通つた物、即ち「愛國」と言ふ關係を、形のある『物』としてみせる事が出來る「E型」それ自體)として見えて來、それ(E=型・ソフトウェア)に愛着を覺える樣な教育といふ觀點に立つた時、戰後は固より、明治以來の教育理念も教育制度(即ち「國家近代化」と言ふ、ハードウェアの爲にのみ專心した教育)も、のみならずそれを成立させてゐる文化觀、價値觀(即ち「和魂洋才」及び、物質的近代化のみで「近代化」としてゐる事)も、すべてが間違つてゐるとお思ひになりませんか・・」。 |
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全集第六巻 昭和四十一年六月號:五十五歳) |
參照圖⑧關聯 P59『教育改革に關し首相に訴ふ』 「今更愛國心を強調しても始まりません。具體的な『物』(F)としての附合へる(Eの至大化)文化(關係:D1)を失つてしまつたのでは、愛國心の手掛りは何處にも無くなる」。 |
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全集第六巻 昭和四十五年十一月:五十九歳) |
參照圖⑧關聯 『フィクションといふ事』 *「關係(D1)の無いところでは、個(AB及びF)も全く捉へ處も手掛りも無いものとなる。個(AB及びF)よりも關係(D1)の方が先に存在し、一つ一つの個(AB及びF)は既成の關係(D1)の中に生れて來るのだからである」(P455)。 |
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全集第六巻 (昭和四十六年一月刊:六十歳) |
參照圖全般 『生き甲斐といふ事』 *關係(D1)と言ふ「眞實を生かすために一つのお面をかぶる(役を演ずる・自己劇化)」「演戯なしには人生は成り立たない。つまり假説なしには成り立たない」。「眞實といふのは、ひとつの關係(D1)の中にある。個々の實體よりはその關係(D1)の方が先に存在している。人生といふものは、關係(D1:目上⇔目下・親⇔子・師⇔弟子・國⇔國民、等々)が眞實なんで、一生涯自分のおかれた關係(D1)の中でもつて動いてゐる。いろいろな關係(D1)を處理していき、それらの集積された關係がその人の生涯といふもの。それを私は演戯だといふ」「われわれがこしらへたものは、相對的であつて絶對ではないといふ原理をちやんと心得て、こいつを絶對化(假説の完璧化・築城の完璧化)しようといふ努力」。(單行本『生き甲斐といふ事』中、對談「反近代につひて」P195 ・199)⇒參照圖「完成せる統一體としての人格」論kanseiseru.pdf へのリンク |
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全集第六巻 (昭和四十六年一月刊:六十歳) |
參照圖⑧關聯 『續生き甲斐といふ事』 P321「大衆社會そのものが空虚なのではなく、文化(D1)を失つた大衆社會が空虚なのである。文化(D1)の無い社會は大衆社會であらうがなからうが空虚である事に變はりはない。が、今日のそれは經濟的繁榮(A)と政治理念(A)の喪失から生じたのではなく、明治以來徐々に行はれて來た傳統文化の破壊(D1の至小化)から生じたのである」。 *「生き甲斐とは子供の時からの生き方の様式(E)である。言換へれば文化(D1)」。 |
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全集第七巻 昭和五十一年:六十五歳 |
參照圖⑥ 『醒めて踊れ』全七P393上⇒參照圖「ソフトウェアsoftware.pdf へのリンク」 *「近代化(實在物:D1)の必要條件は技術や社會制度(潜在的言葉:F)など、所謂『ハードウェア』のメカナイゼーション(F機械化)、システマライゼーション(F組織化)、コンフォーマライゼーション(F劃一化)、ラショナライゼーション(F合理化)等々の所謂近代化(潜在的言葉:F)に對處する精神の政治學(Eの至大化)の確立、即ち所謂『ソフトウェア』の適應能力(Eの至大化・ 附合ひ方・So called )にある。 マルクスの言ふ疎外は何も資本主義社會特有のものではなく、共産主義社會、全体主義社會にも生ずるものであり、また有史以來その度を増して來たものである。それ(近代化D1)に對應する方法は言葉や概念(F)に囚れず、逆にこれを利用すること、即ち言葉の用法(E)にすべてが懸つてゐる(言葉の自己所有化?)。自分と言葉との距離が測定(Eの測定=Eの至大化)出來ぬ人間は近代人ではない。いや人間ではない」。 *。「役者の日本人の『意(D1の至小化=沈湎)』が『姿(E)』を裏切る(Eの至小化)」と。(參照『醒めて踊れ』P397・P399) *「關係」を、話し手の心とせりふの字面との「距離」の長短操作で「空間に一つの建造物がまざまざと見えて來る」(『醒めて踊れ』)やうに。 |
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全集第七巻 (當評論:實記載年は昭和五十二年) |
參照圖⑥及び全般 全七P300『せりふと動き』より「 」内が恆存文。( )内は吉野注。傍線部は吉野加筆説明。 *場( 西歐C’)から生ずる、「關係(D1)と稱する實在物(近代化=ハードウェア)は、潜在的には一つのせりふ(F:技術や社會制度的言葉、即ち機械化・組織化・劃一化・合理化等々のハードウェア)によつて表し得る」。 故にその言葉(F)との附合ひ方(ソフトウェア「フレイジング・So called」の適應能力:E)即ち「言葉の用法」「自分と言葉との距離測定」によつて、人間は場との關係の適應正常化(D1の非沈湎)が叶へられる、と言ふ事になる。即ち「Eの至大化(適正化)=D1の至大化(適應正常化・非沈湎)」と言ふ事になる。 *場面(C’)から關係(D1)として生ずる「心の動き(D1)を形のある『物』として見せる(Eの至大化)のがせりふの力學(フレイジング:E)」(『せりふと動き』)。 *「すべてのせりふにおいて、それ自体の意味内容より関係の方が先行するといふ事、観客に見せなければならぬのは、何よりもその関係なのだといふ事」(P318『せりふと動き』)。 *「大事なことはまず相手に掛かつてゐるせりふ(F)一つ一つに鉤を付け、その都度、それを自分の心に引掛けながら言ふ(フレイジング:Eの至大化)、それは必ず動きや姿勢に出る筈のものです(中略)『何Fを喋るか』ではなく『なぜD1喋るのか』の『なぜD1』を『何F』の裏に見せてくれてこそ芝居の面白味があるのです」(參照戯曲場面:p320上~321『せりふと動き」』)。 |
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全集第七巻 昭和五十二年十月刊:六十六歳) |
參照圖②及び全般 『シェイクスピア劇のせりふ』 「せりふ(F)は語られてゐる意味の傳達を目的とするものではない。一定状況の下(場面C’)において、それを支配し、それに支配されてゐる(D1:宿命・關係)人物の意志や動きを表情や仕草と同じく形のある『物』として表出する事(Eの至大化)、それが目的であり、意味の傳達はその爲の手段に過ぎぬ」(P345)。 |
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全集第七巻 昭和五十三年:六十七歳 |
參照圖⑥⑦關聯 人權と人格 *「産業技術(F)などのハードウェアの方は既に西洋を追越すほどの成果を擧げたが、人間關係(D1)を規制し秩序立てる制度や組織(F)、そして道德(E&B)といふソフトウェア(精神の政治學・so called=Eの至大化)の方が急激な變化に對して適應異常(Eの至小化=D1の至小化)を起こしてゐるからである。今、制度や組織(F)と言つたが、譬へば民主主義(F言葉)も自由平等(F)も法律(F)、裁判(F)も、企業(F)、勞組(F)も、個人の心の働きを規制する道德(ソフトウェア:「心の動きD1を形のある『物』として見せる」=Eの至大化)から見れば、やはり舶來のハードウェアに他ならず(即ち以下)、
これに對して日本人の心の奥に沈み眠らされてしまつてゐる深層のソフトウェア(日本的E:「祓ひ清めて和に達するharaikiyomete.pdf へのリンク」)は適應異常の苦しみ(近代化概念Fへの不適應:Eの至小化=D1の至小化:以下枠文參照)に堪へ、それが時折、爆發して、案外氣弱な善人を暴擧に驅り立てる」(P191)。
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全集第七巻 昭和五十四年十一月刊)】 |
參照圖⑥⑦⑧關聯 【『新漢語の問題』――近代化試論 *P459「それが出來なかつたのは近代戰(F)といふハードウェアに對應するソフトウェアの近代化(Eの至大化=精神の近代化=so called)が出來てゐなかつたからである」⇒「精神の近代化」の缺如。 *P459「(ハードウェア)を處理する手段、方法、組織としてのソフトウェアを有機的に機能せしめる(Eの至大化=so called)段になると、吾々は今日まで常に適應異常(Eの至小化=D1の至小化)を起し續けてきた」。 *P461「言葉(F)が文化(D1)を支へ、思考力(E)や道徳(E)や人格(E教養)を支へ(Eの至大化によつて)、その崩壊を食ひ止め得る唯一の財産だといふ自覺の切掛けすら持たぬ人達が多くなつたからである。なほ始末の悪い事に、さういふ人達が自分にも意味不明な死語(Eの至小化によるF)に近い新漢語や外來語を操りながら、しかもそれを死語と自覺せずに物を書き、それを生業とする傾向がひどくなつて來た。これもまた『言論の自由』(F)といふ近代的概念(F)に對する適應異常(Eの至小化)の一種である」。 P462「言葉(F)に對する適應異常(Eの至小化)こそ近代化失敗(D1の至小化)の末期症状である。それを克服する以外に、思考力の衰退や道徳觀の頽廢を食ひ止め、人間回復への緒を見出す方法は他にあるまい」。 *「文化(D1)の根柢は言葉(Fそして言葉の型である「E=正統表記=正假名正漢字」)にある事に氣附いてゐる人が餘りにも少ない。なぜにさうなつたかと言へば、戰後の國語國字改惡(Eの至小化)が徹底した結果、言葉(F)が文化(D1)を支へ、思考力や道徳や人格(いずれもEの至大化)を支へ、その崩壊を食ひ止め得る唯一の財産だといふ自覺の切掛けすら持たぬ人達が多くなつたからである。」(『新漢語の問題』全七P461)。 |
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全集第七巻頃 昭和五十五年十一月號:六十九歳 |
參照圖④⑥⑦關聯 「日本よ、汝自身を知れ」 *「近代化(D1)の土壌の全くない所で、しかも北鮮といふ(中略)共産主義=全體主義に凝り固つた武装集團を前にして、二十年、三十年、軍が直接、間接、 政治に關與したとしても私には少しも不思議とは思へない」(『日本よ、汝自 身を知れ』P3 43)と。 〔韓國への日本メディアの偏見〕⇒參照圖:韓國への偏見=「借物の言葉」化(Eの至小化)」⇒參照圖「韓國への偏見kankokuenohenken.pdf へのリンク」 *「日本の新聞は李承晩大統領、及び張勉内閣時代を『民主主義』(F)といふ『借物の言葉』(Eの至小化)によつて韓國近代化の黄金時代と見、朴政權下の維新體制を獨裁性(F)といふ同じく『借物の言葉』(Eの至小化)によつて非難攻撃して止まない」(P336)。 *「朴正煕大統領を失ひ、朝鮮戰爭以來の危機の中で冷静、沈着、且つ機敏に對處して來た韓國〔即ち、全斗煥氏が斷行した軍事政權は、「韓國の近代化(D1の至大化)、合理化(F)を達成する爲に必要にして止むを得ざることだつた」(P341)〕に對し、日本のジャーナリズムが概ね無理解を通り越して惡意、敵意としか思へぬ態度を示して來た」(P329)。 *「(全斗煥氏が斷行した)一見朴正煕氏以上に獨裁的とも見える種々の改革は、軍の權力を笠に着、軍政を布く事を目的とするものではなく、韓國の近代化(D1の至大化)、合理化(F)を達成する爲に必要にして止むを得ざることだつたのである。勿論、それは全軍の支持を得た軍人(一つの有機的な共同體)でなければ出來ぬ事であつた」(P341)。 |
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全集第七巻 昭和五十五年五月:六十九歳 |
參照圖⑥⑦關聯 『防衛論の進め方についての疑問』((『人間不在の防衛論議』:単行本) *「(森嶋氏の)『威嚴に滿ちた降伏』といふやうな言葉に窺へる道德(B)と政治(A)、經濟(A)との混淆こそ、西洋(C’)の近代的思考(D1近代化)の産物たる防衛(F)といふハードウェア((D1及びF)に對して戰後日本のソフトウェア(E:so called=精神の政治學=心)が適應異常(Eの至小化=D1の至小化)を起した好見本と言へる」(P521)。
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(單行本「文化なき文化國家」) 昭和五十五年十月:六十九歳 或いは昭和三十六年頃? |
參照圖⑧關聯 『「人間國寶」序』 *「大事な事は物(F言葉:○圖) )を生き物として附合ふ((Eの至大化)事である」(『「人間國寶」序』)。 |
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昭和五十六年六月刊:七十歳) |
參照圖冒頭文 演劇入門(單行本)「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「役者にとつて最も重要なことは自分の演じる人物の性格ではなく劇の主題(全體C)は何であるかを見極める事、そして自分の役がその主題(C)とどういふ關係(D1)にあるかを理解することである」(P73)。⇒參照圖「完成せる統一體としての人格」論kanseiseru.pdf へのリンク (佛閣を例へて言へば)「本堂、五重塔、廻廊等の部分は全體(C)たる七堂伽藍の構成にたいして、緊密な調和を保つていなければなりません。そしてまた、それらの細部である彫刻や柱や屋根なども、本堂は本堂としての、五重塔は五重塔としての全體的調和を保つと同時に、それを通じて七堂伽藍の全體的調和につながつてゐなければならない。劇においても同樣で、各登場人物は、表に現れた形においては主役と端役との別はありませうが、それらが共に仕へる全體(C)としての主題は一つのものであります。端役といふのは、主役に對して端役なのではなく、劇の全體(C)的調和に対して端役なのであります。それは主役に仕へるものでもなく、主役の引立役でもない。引立役といへば、主役も端役も、ともに劇の主題の引立役にほかならないのです」(單行本「演劇入門:P72」) ⇒參照圖「完成せる統一體としての人格」論kanseiseru.pdf へのリンク 〔關聯文〕
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全集第七巻 昭和五十六年一月刊:七十歳) |
參照圖③⑧關聯 「小林秀雄の『本居宣長』」
それは詰まる處、恆存流に言ひ換へると「悲しみと言ふ心の動搖(關係D1)を、形のある『物』として見せる(Eの至大化)のが歌(F)の力學」と言へるのではなからうか。 歌は、心の動搖を形のある『物』として見せ、それによつて悲しみ等を「鎭め、整へ、吾が物と化する(Eの至大化)」事を人に可能とさせるくれる。そして心の動搖(D1)に耐え抜く力(D1の至大化)を與へてくれるのだ、と。 |
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「全集六巻:覺書」(昭和六十三年二月刊行七十七歳) |
參照圖全般 (全集六P703~4 『覺書』) *纏め的文章:「完成せる統一體としての人格」論⇒參照圖「完成せる統一體としての人格」論kanseiseru.pdf へのリンク ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ *「日本人の個人主義」の型を以下の如き例への中で展開し、「完成せる統一體としての人格」論として提言するのである。 「一般の日本人は、自分の子供が戰場に驅り立てられ、殺されるのが嫌だからと言つて、戰爭に反對し、軍隊に反撥し、徴兵制度を否定する。が、これは『母親』の感情である。その点は『父親』でも同じであらう、が、『父親』は論理の筋道を立てる。國家(場面C’)といふフィクションを成り立たせるためは、子供が戰場に驅り立てられるのも止むを得ないと考へ、そのための制度もまたフィクションとして認める。が、彼にも感情がある。自分の子供だけは徴兵されないように小細工するかも知れぬ。私はそれもまた可と考へる。『父親』の人格(Eの至大化)の中には國民としての假面(F及び自己劇化D2)と親としての假面(F)と二つがあり、一人でその二役(F)を演じ分けてゐる(Eの至大化)だけの事である。そして、その假面の使ひ分けを一つの完成した統一體として為し得るものが人格なのである。『私たちはしつかりしてゐない』という自覺が、『私たち』をしつかりさせてくれる別次元のフィクションとしての國家や防衛を要請するのである、要するに人格も法も國家も、すべてはフィクションなのであり、迫持(せりもち)、控へ壁などの備へによつて、その崩壊を防ぎ、努めてその維持を工夫しなければならぬものなのである」(P703全6『覺書』) 「問題は、すべてはフィクションであり、それを協力して造上げるのに一役買つてゐる國民の一人、公務員の一人、家族の一人といふ何役かを操る自分の中の集團的自己をひとつの堅固なフィクションとしての統一體たらしめる原動力は何かといふ事である。それは純粋な個人的自己であり、それがもし過去の歴史と大自然の生命力(C:時間的全體・空間的全體)に繫つてゐなければ、人格は崩壊する。現代の人間に最も欠けているものはその明確な意識ではないか」(全集六P703~4『覺書』)と。 二役のみならず何役(國民の一人、公務員の一人、家族の一人)、を操る「自己劇化」が出来得る人格として、「完成せる統一體としての人格」論がそこに登場するのである。 何役かを操る「自己劇化」を別な表現では、各場面場面で關係的眞實を生かしていくのだ、との内容で言つてゐる。その究極が「完成せる統一體としての人格」なのだと。 |
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