平成二十九年三月九日
『福田恆存を讀む會』
吉野櫻雲 發表文
三月選擇テーマ「近代化とは何か」:單行本『人間の生き方、ものの考へ方』P70より(昭和五十五年:六十九歳)。
取り急ぎのご案内につき、まへがきは割愛します。
*拙發表文:「精神の政治學としての近代化」についてを副讀的に參考とされたし。
以下は參考文
*西尾幹二「 正論」。
⇒「中国とイスラムの暴力での文明争奪戦が始まった。日本は「近代」を蹂躙する勢力と戦え」http://www.sankei.com/column/news/161017/clm1610170008-n1.html
*「正論」 :古田博司 『近代完遂の日本と失敗の周辺国』
http://www.sankei.com/column/news/170119/clm1701190008-n1.html
*山内昌之他鼎談「いま最も聞きたい評論家の言葉」。
http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/1245?page=2
*****************以下は「發表文」****************
テーマ評論:【講義「近代化とは何か」(單行本『人間の生き方、ものの考へ方』P70より)(昭和四十一年八月六日:五十五歳)】
〔序にかへて〕
〔難解又は重要文〕P71~2「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「表音派の人達が、言葉は人間相互の意思傳達の道具だ。あるいは道具に過ぎない・・」云々。
*「私は言葉は道具であつて結構だと思ひます。結構だといふより、道具であればこそ大事だといふ考へ方を持つてをります」。
・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。
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拙發表文:「演劇論と人生論の一致:『役者修業は人間修業』」他から「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「大事な事は物(F言葉・道具 )を生き物として附合ふ事(Eの至大化)である」(『「人間國寶」序』より)。即ち、「生き物として」と言ふ、「So called」化、「Eの至大化=自分と言葉(物)との距離の測定」が出來てゐる状態。 *「距離の測定(Eの長短操作)=フレイジング・So called・・・・とは「動作や作用、さらに人間の抽象的な営みを名詞化(「・・・すること」)しようといふ働き」と同意であり、名詞化とは、「主體である自分を對象(F)から分離し、距離をつくらう(Eの至大化)とする衝動」である。「日本語にさういふ性格が乏しいことは、日本人にさういふ心理がかけてゐること(なあなあ意識)の表れ」(『日本および日本人』より)。爲に期せずしてその短所(Eの至小化)が「近代化適應異常(D1の至小化)」として顕れたといふ事になるのでは。 ⇒參照:PP圖「歴史・文化・型」についてrekishi.bunka.kata.pdf へのリンク。 *「せりふは語られてゐる意味の傳達を目的とするものではない。一定状況の下(場面C’)において、それを支配し、それに支配されてゐる(宿命・關係D1)人物の意志や動きを表情や仕草と同じく形のある『物』として表出(Eの至大化)する事。それが目的であり、意味の傳達はその爲の手段に過ぎぬ」(全7「シェイクスピア劇のせりふ」P359)。 *言葉は寫實ではなく用途(講演カセット「シェークスピアの魅力」より要旨) ・・・「言葉とは、意味の傳達以上に「用途」の役割を持つてゐるといふ事。寫實(何)よりも用途(なぜ:關係D1)を、人間を目的・行動に驅り遣る爲の鞭的用途(スプリングボード)の役割を持つ」。言葉は物を指し示す物の影(潜在物)ではなく「實在物=關係D1」であると。 故に「言葉(せりふ)は行動する」。フレイジングが言葉からその内奥にある行動性(關係D1)を引き出す役目を果たす。「なぜ」が際立つ。即ち、關係を行動(自己劇化D2)へと轉化させる、「スプリングボード」としての役割・方法論がフレイジングであり「So called」なのでは。 *フレイジングとは、平面圖を立體的な三次元の世界に見せる遠近法の技術。その典型がシェイクスピアの作詩法「ブランクバース(弱強五歩格の律文)」である。(『シェイクスピア劇のせりふ』より要旨) |
〔難解又は重要文〕P73「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
①「抽象的な言葉(民主主義・平和・自由・平等、等)になりますと、その抽象度の強さに應じて、重なり合ふ部分が次第に小さくなつて來る。それが小さくなつたといふ自覺がないところに大きな問題が生じてくるわけです」。
②「で、なにより大事なことは言葉には傳達可能な領域(五感で認知出來る部分)と、孤獨な相互に連絡のない部分があるのだといふ自覺だといふことになりませう」。
・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 ①の「抽象度の強さに應じて」云々は、以下と同質な内容を言つてゐると思はれる。 *「論理學上の一般原則でありますが、概念の外延が増大する(=抽象度が強になる)につれて、内包は希薄になり(即ち民主主義・平和・平等・自由等の抽象語)、内包が充實する(五感で認知出來る部分)につれて外延は縮小する」(『日本人の思想的態度』)。 ②の「孤獨な相互に連絡のない部分がある」は、詳細は後述〔難解又は重要文〕P75に譲るが、以下の事を言つてゐるのではなからうか。 *「私達は人間の心と心がそのやうに完全に一致することがありうるか。あり得ないのではないかといふ一つの絶望感――傳達不能、愛の不可能といふ一つの絶望」。 |
〔難解又は重要文〕P74「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「今日の思想(B)の混亂、あるいは道徳(D1)の混亂といふやうな根本的な問題は、因をただせば、すべて言葉(F)の混亂から生じてきたと言へませう。もつとも逆に言へば、道徳(D1)の混亂、思想(B)の混亂(どちらも「西歐近代への適應異常」が原因?)が起こつたからこそ、言葉が混亂して來たとも言へます」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。更には以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。(道德の混亂⇒參照PP圖「道德の基本」doutokunokihon.pdf へのリンク)
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「文化(D1)の根柢は言葉(F)にある事に氣附いてゐる人が餘りにも少ない。なぜにさうなつたかと言へば、戰後の國語國字改惡(型Eの喪失)が徹底した結果、言葉(F)が文化(D1)を支へ、思考力(E:so called)や道徳(E:型)や人格(E:型)を支へ、その崩壊(Eの至小化)を食ひ止め得る唯一の財産だといふ自覺の切掛けすら持たぬ人達が多くなつたからである」(『新漢誤の問題』全七)。參照PP圖⇒「個人の強靱化:P2」kojinnokyoujinka.pdf へのリンク 〔道徳(D1)の混亂について〕 『人間の生き方、ものの考へ方』昭和五十年講演:P112より) *「道徳(D1)の基本は絶對に變はらない(C⇒D1)。なぜなら、最高善と言ふものは、洋の東西を問はず、自己犠牲、自己放棄と言ふ事にあるからです。自己を他人の爲、或いは自己よりも大いなるものの爲、小は家庭から、大は國家、世界、人類等の爲に捨てる事です。此處までは、道徳の段階ですが、宗教的にはもつと高い次元である神(C)と言ふ樣な抽象的なものに對する信仰(C⇒D1⇒D2信仰・自己劇化)が在る譯です」(P113)。 *「宗教は進歩と言ふものを否定するのではありませんが、さう言ふものに對して精神の高さを維持する役割を果す。そして道徳的には自己犠牲と言ふ最高善を果すものです」(P114)。 *「人命が尊いといふのは、(中略)自己犧牲の精神を發揮しうる動物だからでせう。人間は豚を食つたり肉を食つたりしてゐますが、人間が他の動物より尊いと言ふのは、人間が他人の爲に或いは共同體の爲に自己を犠牲にすると言ふ精神を持ち得る動物だからです」(P129)。 |
〔難解又は重要文〕P75「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「私達は人間の心と心がそのやうに完全に一致することがありうるか。あり得ないのではないかといふ一つの絶望感――傳達不能、愛の不可能(ロレンス「個人はついに愛し得ない」)といふ一つの絶望から出發しなければならぬと思ひます」云々・・・この邊の文章は何を言はんとしてゐるのであらうか。以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *DHロレンスの二元的愛とは・・・・「吾々は生きて肉(A)のうちにあり、また生々たる實體をもつたコスモス(C)の一部であるといふ歡喜に陶酔すべきではなからうか」「吾々の欲することは、虚僞の非有機的な結合を、殊に金錢と相つらなる結合(A‘⇒Aの相對的結合・横軸)を打ち毀し、コスモス、日輪、大地(いずれもC的概念)との結合(縦軸)、人類、國民、家族との生きた有機的な結合(A)をふたゝびこの世に打ち樹てることにある。まづ日輪(C)と共に始めよ、さうすればほかのことは徐々に、徐々に繼起してくるであらう」(『アポカリプス論』最終章)。 參照PP圖⇒《ロレンスの二元論と恆存「完成せる統一體としての人格」論との關聯》P2 |
〔歴史と傳統と文化〕
〔難解又は重要文〕P76~7 「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
①「歴史のやうに人間の行動を對象にした時、人間の心を抜きにして考へることができるだらうか。自然科學、物理學のやうに、人間の心を全部抜き去つて考へていくことができるかといふと實際にはさうはいきません。歴史學は最もそれが出來ない學問と言つてもいい。だから科學にはなり得ない學問」。
②「歴史(C:時間的全體)は親みたいなもので、私達は日本の歴史の子供なのであります。その子供の立場から過去の歴史を裁いていかうといふものの考へ方が既に間違つてゐる。歴史をして私達に仕へせしめてはならない。私達が歴史に仕へなければならないのです。ところが、今の歴史學者はすべて歴史を私達に、すなはち現代に都合のいいやうに仕へさせるといふやうなことをやつているわけです」。
③「あらゆる時代にとつて一寸先は闇であつた。このやうに人々が一寸先は闇といふ中で生きてゐたといふことを今の歴史家は忘れてゐるのです」。
④「歴史といふものは、その當時の人たちの中に入つて見なければ分からない。要するにわれわれは自分(A&B)を歴史(C:時間的全體・「自己を超えたるものの何か」)の方につき合はせねばならないのです。歴史をわれわれにつき合はせてはならない」。
・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして更には以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。
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拙發表文:『乃木将軍と旅順攻略戰』から「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「歴史、殊に戰史に對して斷定は禁物と信じてゐる。(中略)司馬、福岡両氏に対する疑問は、両氏共に恰も旅順攻略戰に加つた者の如く、しかも乃木将軍の戰略を責め、福岡氏の如きは『愚将』とまで決め附けてゐる點である。が、歴史に對しては私達は飽くまで謙虚でなくてはならぬ。結果から是非を論ずるのは易しい」(P114) *當評論主題:「歴史家が最も自戒せねばならぬ事は過去に對する現在の優位である。吾々は二本の道を同時に辿る事は出來ない。とすれば、現在に集中する一本の道を現在から見透かし、ああすれば良かつた、かうすれば良かつたと論じる位、愚かな事はない。(中略)當事者はすべて博打をうつてゐたのである。丁と出るか半と出るか一寸先は闇であつた。それを現在の『見える目で』で裁いてはならぬ。歴史家は當事者と同じ『見えぬ眼』を先ず持たねばならない」(P115)。 *「歴史に附合へば附合ふ程、首尾一貫した因果の直線は曖昧薄弱になり、遂には崩壊し去る。そして吾々の目の前に残されたのは點の連續であり、その間を結び附ける線を設定する事が困難になる。(中略)が、歴史家はこの殆ど無意味な點の羅列にまで迫らなければならぬ。その時、時間はずしりと音を立てて流れ、運命の重みが吾々に感じられるであらう」(P116)。 *「合鍵を以て矛盾を解決した歴史(即ち司馬、福岡の餘りにも筋道だつた旅順攻略戰史)といふものにほとほと愛想を尽かしてゐる」(P116)。 |
更に④の「歴史(C:時間的全體・「自己を超えたるものの何か」)の方につき合はせねばならないのです」とは、向後(約十年後頃)の評論『醒めて踊れ』『せりふと動き』や講演『日本の近代化とその自立』を索引にすると、以下の消息を物語つてゐるのではなからうかと思はれる
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 ①「文化(D1)とは私たちの生き方であります。生活の樣式(E)であります」(『傳統にたいする心構』P185下:エリオットの弁より)。 「文化(D1)があり、傳統(D1)があるところでは、社會が、家庭(即ち仕來りE)が、それ(生き方:Eの至大化)を教へてくれる」(『傳統にたいする心構』P190)。⇒參照:PP圖「歴史・文化・型」についてrekishi.bunka.kata.pdf へのリンク 恆存は文化を「歴史(C:時間的全體)⇒文化・傳統(D1:關係)⇒(E)制度・仕來り・儀式・藝術・風俗・思想・道徳等々(集團的自我上・個人的自我上)への現象化」と言ふ圖で捉へてゐる。そして「文化(D1)とは生き方(對象・言葉に對する距離測定能力確保:Eの至大化)」に反映されるものと見てゐる(『傳統にたいする心構』から)。 ②又、恆存は、傳統や文化を「歴史(C:時間的全體)⇒文化・傳統(D1:關係)⇒自我(A集団的・B個人的)⇒保守(D2:自己劇化)⇒全體・絶對(C)⇒實在感・全體感獲得(D3)」と言ふ圖で捉へてゐる、と小生は理解してゐる。參照PP圖「完成せる統一體としての人格」論kanseiseru.pdf へのリンク ③場( C’)から生ずる、「關係(D1)と稱する實在物は潜在的には一つのせりふ(言葉F)によつて表し得る」。故にその言葉(F)との附合ひ方、扱ひ方(型・Eの形成=「型にしたがつた行動」)によつて、人間は場( C’)との關係(D1)の適應正常化(D1の至大化)が叶へられる」と言ふ事になる。 であるから、「歴史(C)の方につき合はせねばならない」とは、それを具體的に顯はすと、歴史(C)との關係である「文化・傳統(D1:關係)」。そしてその反映である「F:對象・物・言葉」との附合ひ方(即ちE:型・仕來り・生き方・様式・儀式・技術)を、生き物(F)に對する如く附合ふ(Eの至大化)と言ふ事になる。その生き物(F)として附合ふ(Eの至大化)手段として必要なのが、「So called」「フレイジング」「ソフトウェア=精神の政治學」「精神の近代化」と言ふ事になる。「Eの至大化=D1の至大化」つまり型・仕來り・生き方(E)があれば文化(D1)は存在すると言ふ圖である。これを逆に言へば、歴史と言ふ場(C)への沈湎(D1の至小化=文化混亂・喪失)が、言葉(F生活・物・對象)への距離測定能力(E)の缺如(Eの至小化)を引き起こすのである。 故に以下の樣に恆存理論の言ひ換へが可能となると思へる。⇒參照: PP圖「歴史・文化・型」についてrekishi.bunka.kata.pdf へのリンク(右圖) PP圖恆存の「文化について」bunkanituite.pdf へのリンク2頁。 *《拙發表文:『傳統にたいする心構』より。恆存理論のPP圖的言ひ換へ》 *文化(D1)のある處(換言すれば自國の歴史Cとの「適應正常化=非沈湎」が圖れてゐる國)では、「E」を至大化させる「型・仕來り・様式・儀式」が形成されてゐて、その「型・仕來り」が歴史との關係(D1文化)を形ある「物」として生き方に反映(Eを至大化)させてくれるのである。文化(D1)のある國は「樣式・仕來りE」を持つが故に、「對象・言葉との距離測定不能(言葉に呪縛)」が原因の、適應異常や狂氣の囘避が可能となるのである。その事柄を「PP右圖」及び「2頁圖」で言へば、「D1の至大化=Eの至大化」と言ふ事になる。「型・仕來り・様式・儀式」は生活・言葉・物への囚はれから人を救出してくれるのである。更に換言すれば、平生足をさらはれてゐる樣な現實的平面から意識を立ち上がらせてくれる。なぜにそれが可能となるかと言へば、「型・仕來り・様式・儀式」に内在する働き、恆存の文章に從へば、以下枠文のダイナミズムをそれは宿してゐるからなのであると理解する。
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〔「近代化」の歴史的必然性〕
〔難解又は重要文〕P83~ 「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「近代化(D1)といふのは單なる歴史的必然だと思ふのです。進歩といふ場合も同じことで、これも同じことで、これはいいも惡いもない、その中に價値は絶對に含まれない(つまり近代化は「善惡といふ價値の問題ではない」と言ふ事。P113)。(中略)價値ではなく歴史的な一つの必然性に過ぎない。それに對して過大な夢を抱くことが大きな誤りである」。
*「(近代化とは)價値(理想C:P112參照)とは關係のない單なる事實であると言ふのです。進歩といふ言葉についても同じことが言へます」。
*「文化といふものは質の差であつて、決して量で優劣をはかることは出來ないものです。後進國、先進國といふやうな分け方は、あくまで近代化といふものを基準にした量による分類法です。(中略)後進國であるから文化的に劣ってゐる、先進國であるから文化的に進んでゐると言ふのは間違ひです。ただ西洋(場C’)の文化(D1:クリスト教文化)が今の近代化(場・西歐近代C’⇒D1近代化)といふ一つの歴史的必然性を生み出してゐるのです。東洋の文化(D1:佛教・ヒンズー教・イスラム教文化)からは近代化といふものは出て來なかつた。従つて、われわれは後進國になつた。これも歴史的必然性に過ぎないと思ふのです。(中略)後進國、先進國といふ言葉を文化の面で適用することはできないのです」(P83)。
*「文化(D1)といふのは、それぞれの民族なり時代(歴史C)なりが持つた生き方の様式(E)であります(先述「文化とは私たちの生き方であります。生活の樣式であります」)。それには優劣は全くないのです。もつと美學的な問題であり、あるいは哲學的・宗教的な問題であつて、廣い意味での技術に係はる近代化の問題とは自ずから別個のものであります」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして更には以下が參考になるのではなからうか。
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拙發表文:『人間・この劇的なるもの』より「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「近代」とは何か。・・・福田恆存は、「近代」に衰退(デクリネイション)の一様相があると見た。(參照⇒單:マクベス解題P151。『シェイクスピア』全二P22)。 *即ち、「王冠や笏(『王權神授』による、神に與へられた宿命・關係D1)を取り去つてみれば果たして人は何者であるか」。 |
〔「近代化」の精神史的意義〕
〔難解又は重要文〕P86~「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「日本は明治以來近代化といふものを非常に大きな價値(理想C:P112參照)にまつり上げるといふ過ちを犯し續けて來ました。これも私たち後進國の歴史的必然性であり、宿命的なことがらであると思ひます。先進、後進だけでものを考へることが殆んど日本人の價値觀になつてしまつたと思はれる」。
*「後進國ほどではないにしても、世界中が近代化、あるいは進歩といふものを一つの價値にまでまつり上げつつあるといふ時代はきびしく反省されねばなりません」。
・・・此處でも前項と同樣、「近代化といふのは價値(理想C:P112參照)ではなく歴史的な一つの必然性に過ぎない」(以下枠文參照)と言つてゐるが、此處でふと小生の頭は混亂し立ち止まつてしまふのである。
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*「近代化といふのは單なる歴史的必然だと思ふのです。進歩といふ場合も同じことで、これも同じことで、これはいいも惡いもない、その中に價値(理想C:P112參照)は絶對に含まれない(つまり近代化は「善惡といふ價値の問題ではない」と言ふ事。P113)。(中略)價値(理想C:P112參照)ではなく歴史的な一つの必然性に過ぎない。それに對して過大な夢を抱くことが大きな誤りである」(P83)。 |
では、以下枠で書かれてゐる文章群、つまり西歐文化が生み出した「西歐の近代化」内容は、ただの歴史的必然性であつて、やはり「價値(理想C:P112參照)」ではないのであらうか。恆存は以下を「價値」と捉へてゐる樣にも思へるのではあるが・・。それでは「近代化」は價値となり矛盾が生じてしまふ。それとも、恆存は以下の近代化内容を「善惡といふ價値(理想C:P112參照)の問題」ではなく「單なる歴史的必然」と捉へてゐるのであらうか。さてどちらか?此處は下手をすると誤讀してしまひさうな重要な點だと小生には思へる。
ついては、この問題を探究して見ることとする。
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以下は西歐「二元論文化」が生み出した、歴史的必然性(近代化)の諸相「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「萬人をその胸に救ひとる人格神が、その手をその脚を、さらにその胴體をもぎとられ、それらが制度化せられ機械化(A)せられる――で、神は人體を失つて、完全な精神としての抽象化を受ける。その精神が文學の領域(B)として殘されるといふわけだ」。 *「近代ヨーロッパは神を見失つた――が、それはただ神の解體と變形と抽象化とを意味するに過ぎぬ。まさにそのための手續きであり過程にすぎなかつたヨーロッパの近代精神とその政治制度・経済機構(A)」。(『近代の宿命』全二P463・P466) *「現實といふ概念こそは、さらに自己にたいする抵抗として現實をとらへる習慣は、あくまでヨーロッパ的なものであり、ゲルマン的なものであることを承知してかからねばなるまい・・」(全二P352『文學史觀の是正』) *「この(相對世界の)否定と絶望を肯定と希望とに切りかへたのがクリストであり、ゲルマン民族のカトリシズムでありませう」(P197『日本および日本人』)。 *「文明の進歩(近代化もそれ)の擔ひ手は、絶對者を信じたゲルマン民族(の生き方・生活の樣式E=文化D1)だつた。平面的な相對主義(の生き方・生活の樣式E=文化D1)からは進歩は出てまゐりません」(P198『日本および日本人』)。 *「かういふ(相對と絶對:現實と理想)二元論的人生態度(生き方E=文化D1)は、中世のカトリシズムによつて完成されたものでせう。その源であるユダヤ教にはもちろん無かつたものですし、イエスの思想そのものにも充分に現れてゐたとは言へない。それはあくまでゲルマン民族によつて完成された世界觀(生き方・生活の樣式E=文化D1)であります」(全三P199『日本および日本人』) 參考文1〈クリスト教の「連續性、一貫性」と歴史〉 歴史の意識(西歐)・・・「絶對者のないところに歴史はありえない」。 *クリスト教の絶對神による「統一性と一貫性との意識が人間の生活に歴史を賦與」した。⇒そしてその神(絶對者)そのものが「近代を過去のアンチテーゼとして成立せしめる歴史的一貫性」を形作つた。即ち西歐近代は「反逆すべき神」として中世を持つことが出來たのである。「神への叛逆も、じつは千年にわたるながいあいだの神への凝視と沒入とから習得し免許をあたへられた理想人間像にもとづいておこなはれたものである」(P599『小説の運命Ⅰ』)⇒「なぜなら神と言ふ統一原理はその叛逆において効力を失ふものではなく、それどころか叛逆者の群れと型とを統一しさへする」⇒どのやうに統一していつたかと言へば、近代西歐精神を「神に型どれる人間の概念の探究」と言ふ形で統一していつたのである。(參照:『近代の宿命』P462、及び同小生發表文中「西歐歴史的統一性:圖解」及び『現代人の救ひといふこと』) *「絶對者のないところに歴史はありえない」・・・クリスト教の絶對神による「統一性と一貫性との意識が人間の生活に歴史を賦與」したとすれば、ぼくたち日本人がヨーロッパに羨望するものこそ、ほかならぬ近代日本における歴史性の缺如以外のなにものであらうか」(『近代の宿命』)。 *「美意識といふ立場から見れば、日本人には統一があつた。一時代としての横の統一もまた歴史をとほしてみた縦の統一も、ちやんとあつた。(中略)しかし統一があるが、横にも縦にも、積み重ねといふものがない。(中略)嚴密に言へば、西洋流の『歴史』といふ觀念が稀薄。連續がない(「絶對者を信じたゲルマン民族」との違ひ)」(全三P178『日本および日本人』)(參照:テキストP5~8:西洋流の『歴史』の連續性・統一性・一貫性)。 *「連續性のない文化はつねに一時代で完成する。完成してしまふから、つぎの時代に手渡しするものがない。次代に受けついでもらふ未完成のものをもたない」(『傳統にたいする心構』P179)。 『醒めて踊れ』(全七P393上)(傍線部分「型:Eの至大化」は、文化D1なのだと言ふ事) *「近代化の必要條件は技術や社會制度など、所謂『ハードウェア』のメカナイゼーション(機械化)、システマライゼーション(組織化)、コンフォーマライゼーション(劃一化)、ラショナライゼーション(合理化)等々の所謂近代化に對處する精神の政治學の確立、即ち所謂『ソフトウェア』の適應能力にある。マルクスの言ふ疎外は何も資本主義社會特有のものではなく、共産主義社會、全体主義社會にも生ずるものであり、また有史以來その度を増して來たものである。それに對應する方法は言葉や概念に囚れず、逆にこれを利用すること、即ち言葉の用法(言葉の自己所有化?)にすべてが懸つてゐる。自分と言葉との距離が測定出來ぬ人間は近代人ではない。いや人間ではない」。 |
つらつら考へるに、上枠文の内容については、〔難解又は重要文〕P83~ で言ふ、「西洋(場C’)の文化(D1:クリスト教文化)が今の近代化といふ一つの歴史的必然性を生み出してゐる」と讀む事が可能である。「西洋の文化(D1)=(E)西歐の生き方・生活の樣式(即ち二元論)」と言ふ、「質の差」そのものが形成した歴史的必然性と言へる。恆存が上述する「クリスト教の絶對神による『統一性と一貫性との意識が人間の生活に歴史を賦與』した」がそれを物語つてゐると思ふ。つまり西歐の「二元論文化(D1)」が生んだ歴史的必然性としての近代化なのである。對するに、東洋文化・イスラム教文化には「二元論文化(D1)」が育たなかつた爲、「西洋流の『歴史』の連續性・統一性・一貫性」rekisinoikkannsei.pdf へのリンク(上枠文參照)も缺如し、故に、近代化を生み出す「歴史的必然性」を持たなかつたのである。であるから、上枠文の内容「近代化」は「價値」ではないのだ。二元論が生んだ「歴史的必然性」なのである、とその樣に小生は解釋する。
*尚、以下表は上記「問題探究」の爲の手立てとして記載した。
〔東西文化と近代化:彼我の差〕
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西洋の文化(D1:クリスト教文化) |
東洋の文化(D1:佛教・ヒンズー教) |
イスラム教文化 |
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近代化(進歩)・・・ 「後進國、先進國といふやうな分け方は近代化といふものを基準にした量による分類法」。 |
近代化達成(先進國)・・・「量による分類法」「價値とは關係のない單なる事實」。 |
近代化未達成(後進國)・・・「量による分類法」「價値とは關係のない單なる事實」。 |
近代化未達成(後進國)・・・「量による分類法」「價値とは關係のない單なる事實」。 |
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近代化(進歩)の價値。 「近代化(進歩)は價値ではなく歴史的必然性」。 |
無し:「いいも惡いもない、その中に價値は絶對に含まれない」。 |
無し:「いいも惡いもない、その中に價値は絶對に含まれない」。 |
無し:「いいも惡いもない、その中に價値は絶對に含まれない」。 |
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文化に優劣無し・・・ 「文化といふものは質の差で優劣無し」。 「生き方の様式(E)であります。それには優劣は全くない」。 |
「質の差」で優劣無し・・・「文化的に進んでゐると言ふのは間違ひ」。 |
「質の差」で優劣無し。 |
「質の差」で優劣無し。 |
〔言葉の混亂〕
〔難解又は重要文〕P93「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「文化(D1)とは一つの民族の生き方の樣式(E)であると思ひます。すなはち常識的な意味で文化(D1)といふものを定義すれば、それは私たちの生活が無意識のうちに目ざし、また無意識のうちに、それによつて支へられてゐる一つの秩序(E)、あるいは様式(E)といふものであります」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。更に詳しくはPP圖恆存の「文化について」1~4頁bunkanituite.pdf へのリンクを參照されたし。
〔難解又は重要文〕P94「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「われわれの使ふ言葉(F)が、西洋の飜譯語で、傳統(D1:歴史との關係)が一つもないからです。(中略)言葉(F)が固定してをりません。(中略)近代化(D1)が急務(D1の至小化=適應異常)であつたから言葉(F)が混亂(Eの至小化)したのか、言葉(F)の混亂(Eの至小化)のために自由な近代化(Eの至大化=D1の至大化)ができないのか、それは鷄と卵の關係のやうなものでせうが、ともかくわれわれは言葉の使ひ方(Eの至大化)を嚴密にし、慎んで使はねばならない」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。更に詳しくは以下枠文及びPP圖【個人の強靱化(精神の近代化)】2~3頁kojinnokyoujinka.pdf へのリンク(言葉との附合ひ方)を參照されたし。
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「文化(D1)の根柢は言葉(F)にある事に氣附いてゐる人が餘りにも少ない。なぜにさうなつたかと言へば、戰後の國語國字改惡(型Eの喪失)が徹底した結果、言葉(F)が文化(D1)を支へ、思考力(E:so called)や道徳(E:型)や人格(=教養E:型)を支へ、その崩壊を食ひ止め得る唯一の財産だといふ自覺の切掛けすら持たぬ人達が多くなつたからである」(『新漢語の問題』全七) |
〔未來からの革新〕
〔難解又は重要文〕P95「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「私は明治の人間の中では乃木大将が一番好きですが、その理由の一半は將軍があの當時の歴史の尖端に立たされていた人なのに指導者として日本を將來かういふ方向に持つて行かう(「未來からの革新」)といふやうな意識がなかつたからです。歴史の尖端を歩くといふのはお先まつ暗といふことであります。日本はどうなるか分からない、お先まつ暗なところを、何も分からず歩いてゐたところに魅力があるのです」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。
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拙發表文:《乃木將軍と旅順攻略戰》から「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *乃木將軍に「自分が歴史のどこを歩かされてゐるのか何も識らずにゐる一人の人間を見出す」(全五P384 『軍の獨走について』)。 *「將軍は己の不幸をそれと知らず、頑なにじつと堪へてゐたのである。自己の苦しみを方法論で解決することを知らぬ愚かさであり、馬鹿正直さである。(中略)かれは逃げ道を見いだせぬまま、ひたすら時間の経過をまつよりほかに方法をしらない。その男の運命が顔を覗かせるのはこの瞬間である。前方をみつめ背伸びして浮きあがつた前のめりの姿勢を、運命が肩越しにそつと乗り越してゆく。(中略)將軍の運命とともに明治日本の國運が、遼東半島の先端を一過したのである」(全一P525 『國運』)。 *「明治の精神のあらゆるいとなみは、つねにそのひたむきな姿勢にわが國運を背負つてゐた。(中略)およそ運命とは、事の成否を問はず、方法の適否を考へぬぎりぎりの精神に、そのすがたを現すものである。(中略)運命といふものは、そのやうな究極にまで身を沈めたときにこそ、はじめて現出するものである」。 *「方法論の外で不可能と頑強に對決(即ち旅順攻略戰)し、國運の波が自分の身體を流し運んでくれるのを待つてゐたかれらの心事のいさぎよさを想ふ」(P525 『國運』)。 上の四点をもう少し解かり易く纏めると、「逃げ道を見いだせぬまま、ひたすら時間の経過をまつよりほかに方法をしらない」或は、「事の成否を問はず、方法の適否を考へぬぎりぎりの精神。即ち「方法論の与り知らぬ無意識の仕事」と言ふものが、「個人の生涯にせよ、民族の歴史にせよ、その必然の線(運命・歴史の力)を描き出す」のだと、恆存は言ふのである。旅順攻略戰にその精神があつた。その時、「將軍の運命とともに明治日本の國運が、遼東半島の先端を一過したのである」と。 |
〔難解又は重要文〕P96「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「『未來からの革新』といふのは歴史に對する斷罪であります。歴史につき合つてゆくことをしないで、いつでも未來から歴史を切り捨てていくことです。このやうに未來はかうなるであらうといふことで、過去を否定していくといふ生き方(「お手本が次々に現はれて」來た爲)を、近代化の過程で日本はずつと取り續けて來たわけです。(中略)過去の必然性から帰納的に話を進めていくのではなしに、未來像といふ一つの觀念の方へ歴史を近付けようとする。さうなれば歴史が邪魔になり、錘になつて手枷、足枷になつて來ます。それをどんどん切り捨てる。これは實におかしいことです。人間は放つておいても進歩するものです。だから、むしろ歴史につき従つてゆくことを前提として、そこに革新といふことが起るのです」・・・此處は重要文として擧げた。そして以下項目文も參照されたし。
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參照:〔難解又は重要文〕P76~7 「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 「歴史(C)の方につき合はせねばならない」とは、それを具體的に顯はすと、歴史との關係である文化・傳統(D1:關係)。そしてその反映である「E:型・仕來り・生き方・様式・儀式・技術」に生き物として附合ふ(Eの至大化)と言ふ事になる。その生き物として附合ふ(Eの至大化)手段として必要なのが、「So called」「フレイジング」「ソフトウェア=精神の政治學」と言ふ事になる。「Eの至大化=D1の至大化」つまり型・仕來り・生き方(E)があれば文化(D1)は存在すると言ふ圖である。これを逆に言へば、歴史と言ふ場(C)への沈湎(D1の至小化=文化喪失)が、言葉(F生活・對象)への距離測定能力(E)の缺如(Eの至小化)を引き起こすのである。 |
〔適應異常の閉鎖性〕
〔難解又は重要文〕P97「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「近代化に絶大の期待をする人とそれに反撥する人がゐる。これは兩方とも近代化といふ一つの歴史的必然性に對する適應異常(西歐近代と言ふ場C’への沈湎=D1の至小化)であらうとおもひます。近代化は歴史的事實であつて價値(理想C:P112參照)ではない」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして更には以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。尚、拙發表文:「精神の政治學としての近代化」についてを副讀的に參考とされたし。
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拙發表文:「『精神の政治學としての近代化』について」から「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 小生が思ふ處は、以下枠文の方法論を活用する事で、近代化が招く諸問題への「適應異常」が免れるのではなからうか、と言ふ事なのである。
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〔難解又は重要文〕P99「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「(政治思想・法律・醫學・音樂・文學・演劇等)それぞれの手本とする先進國を定めて近代化のスタートが切られたのです。そこに二つの問題が生じます。その一つはそれぞれにバラバラの目標を抱いたといふこと、もう一つは各分野に非常な不均衡が生じたといふことです。すなはち國防(富國強兵)といふことが重大だから、國家は軍に力を注いだが、他は犠牲になつてしまつたのです」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして更には以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。つまり、國防(富國強兵)⇒「國民皆學の教育狂(國家近代化の爲の教育)が日本の文化を破壊して來た」。と言ふ圖である。
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拙發表文:『教育改革に關し首相に訴ふ』より「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *恆存は、「明治以來の國民皆學の教育狂(國家近代化の爲の教育)が日本の文化を破壊して來た」からであり、その國家の近代化(西歐化)が日本文化の崩壊を招いたからであると指摘する。「今日の日本人の心に穿たれた空洞は」それが原因であり、「近代化の實績を擧げた」犧牲として「日本人固有の文化」の喪失が支拂はれたのであると。 此の事を恆存の論法、「場⇒關係(宿命)⇒適應(自己劇化)⇒適應異常(自己劇化破綻)」 で言ふと以下の通りになる。
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〔難解又は重要文〕P99「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「(短所長所は)その國の文化(D1)の特質であり、あらゆるものに優れるといふことはできない。つまり個人にせよ、民族や國家にせよ、その短所は同時に長所であります。政治や軍事(A)に長けてゐる國では、藝術(B)はあまり發達しない。藝術(B)で優れた物を殘す時代は軍事的(A)には駄目であるといふこともありうるのです。時代、民族、國家は弱點と長所を一つにしながら、一つの文化(D1)といふものを形作つてゐるのです。(中略)未來の完成した先進國といふやうなものを手本にして(『未來からの革新』即ち「いつでも未來から歴史を切り捨てていくこと」)、それに追ひつかうといふことで、日本をミス・ワールドに仕立てあげようとした。だから、繪畫と音樂との間に一つの統一した文化を形成してゐないし、政治(A)と文學(B)との間にも一つの統一した、文化秩序といふものを持つてゐないといふことが起つたのです。世界一の陸軍、海軍を持ちながら何故戰爭に負けたかといふと、やはり軍だけでは戰爭はできないといふことです。日本の經濟力、政治力、資源、工業力(いずれもA)といふやうなものが、そしてそれらを統一する精神(B)そのものが近代化をなし遂げねば駄目なのだと思ひます」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして文中「政治(A)と文學(B)との間にも一つの統一した、文化秩序」及び「(經濟力、政治力、資源、工業力:A)を統一する精神(B)」で言ふ統一とは、以下の消息(PP右圖「近代化=西歐近代」の説明kindaikanosetumei.pdf へのリンク:參照)を物語つてゐるのではなからうか。
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「萬人をその胸に救ひとる人格神が、その手をその脚を、さらにその胴體をもぎとられ、それらが制度化せられ機械化(A)せられる――で、神は人體を失つて、完全な精神としての抽象化を受ける。その精神が文學の領域(B)として殘されるといふわけだ」。 *「近代ヨーロッパは神を見失つた――が、それはただ神の解體と變形と抽象化とを意味するに過ぎぬ。まさにそのための手續きであり過程にすぎなかつたヨーロッパの近代精神とその政治制度・経済機構(A)」。(『近代の宿命』全二P463・P466) |
〔難解又は重要文〕P102「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
「不均衡の問題」・・・
*「社會がいろいろな分野に分裂して近代化が行はれますと、相互の間(各場C’各場間)にどうしても阻隔(近代化D1適應に對する不均衡の問題=技術A・藝術Bに於ける近代化の長短)が生じて來ます。さうなると最も生きやすい方法は、文學(藝術B)なら文壇といふ一つの閉鎖的世界(場C’)を作ること(「リージョナリズム」下欄枠文參照)です。温室(場C’)の中に閉じこもる(居附き=沈湎)ことによつて、自分たちだけが肌を温め合つてすごすといふこと(なあなあの自己欺瞞)になります。軍とか官とかいふところの近代化(D1の至大化)についてゆけない落伍者が、閉鎖的な世界(場C’)にとじこもる(D1の至小化=沈湎)やうな現象が生じて來たのだと思ひます。これも分斷された近代化(「社會がいろいろな分野に分裂して近代化」したが、精神の近代化は出來なかつた)のもたらした一つの必然であります」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして更には以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。
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『醒めて踊れ』全七P399より「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「近代化の鋒先を躱(かは)し(即ち、非近代化=D1の至小化=沈湎)、怠慢にもそれぞれ自分の、或は自分達の穴倉(場C’)に閉じ籠つてゐる(沈湎)。しかも同業者間の附合ひ(なあなあ)に過ぎない、この自分達だけの穴倉(場C’)を唯一の共通の場(C’)と心得(自己欺瞞による自己滿足)、或は風潮といふ名の場(C’)しか目に映らず、そこからの離脱を虞れ、ひたすらそれに忠誠ならん(居附き=沈湎)としてゐる。(中略)一度穴倉(場C’)の奥深く潛入(自己陶酔)してしまへば、公の人目には附かずに、仲間と仲間同樣の演劇青年達とだけ手を組んで(なあなあ・平面・横軸)、幾らでも自己欺瞞(相對主義の泥沼)が可能なのである。そこでは共通の場(C’)が忽ちにして出來上り、他の場をすべて排除する事によつて自分を最も前衛的な個性の持主(個人主義病=「自由意思なる自己實現」の誇大錯覺)と思込む事が出來る(所詮は、只の『さうありたい自己がする、手本⇒願望⇒模倣⇒自己滿足』でしかないのに、さう思込んでしまふ。:參照『批評家の手帖』全七P81)」。 拙發表文:修正:『人間・この劇的なるもの』より 〔難解又は重要文〕:P529 Ⅱ.當文中「私たちの潔癖(美的潔癖・和の精神)は、自己表現や自己主張(論理的潔癖)を、そしてあらゆる「芝居氣」といふものを本能的に嫌つてきた。平穩な仲間うちの社會においては、ほとんどその必要性がなかつたからだ。そこでは自己は外部の現實とともに、そのなかに埋没してゐて、最初からそして最後まで、それと過不足なく一致してゐた」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして更には以下の内容を物語つてゐるのではなからうか。
尚、その「平穩な仲間うちの社會」への沈湎については以下の文が參考になるのでは。
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〔克服への道〕
〔難解又は重要文〕P103「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「克服の道もかうすればいいといふ妙法があるわけではありません。あるとすれば、それは今私が言つたやうな問題を全部自覺することといふことです。現在自分たちがどこに立つてゐるのか(彼我の差)といふことを徹底的に考へる。過去を顧みて現在の位置を確めるといふことが一番大事なことであると思ひます。(中略)近代化といふものに徒に夢を抱かないで現實を十分に直視する。そこから克服への道といふものを考へる手立てが出て來ると思ひます。すべて精神的な問題の場合は、混亂なら混亂の現状を自覺することにしか、その克服の道はありません。克服などといふ安易な道はありえないと悟らざるをえないほどの絶望的な混亂を痛感することから出直さねばなりません。(中略)近代化の過程におけるわれわれの立地點を十分に自覺すること、それが克服への道であり、解決の道である」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして更には以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。
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評論『近代の宿命』から「 」内が恆存文。( )内は吉野注。參照圖⇒近代化の説明(彼我の差)kindaikanosetumei.pdf へのリンク *「彼我の差に踏み留まる」(『近代の宿命』出典不明)。 *「いまはなにより眼をうちにむけることが肝要である――ひとたび静止することのみが、そして静止したものの眼にのみ、ぼくたちの近代の宿命がありありと浮かびあがつてくるであらう」(全二P466)。 *「ヨーロッパの主題を飜譯してそのままに通用してしまふ現實が、海をへだててパラレルに展開されていたのである。じじつは絶對に通用しえぬのに通用しうるかのごとき錯覺をいだいたことにまちがひがあつたのだ。ぼくたちはまづ第一にヨーロッパの近代を本質的に究明して日本に眞の意味の近代がなかつたことを知らねばならぬ。第二に、しかもヨーロッパの近代を索引にしなければならぬ近代日本史をパラレルに持つたといふ實情も同時に認めねばならない。第三に、この二つの實情を理解しえぬために生ずる混亂(近代化適應異常)を徹底的に克服せねばならない。もし今日において近代の超克といふものがありうるとすれば、この方向において他に求められようはずもあるまい。(中略)ぼくたちは、まづなによりも今日ただいまにおいて立ちどまることこそ必要なのである」(『近代の宿命』全二P459) *「すなはち文學者としてのぼくたちにとつて、この絶望と希望との交錯のうちにただ静止する以外に方法のないことを」(『近代の宿命』全二P468)。 |
學生との對話
〔言葉について〕
〔難解又は重要文〕P104「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「道具とは心と心の出合ふ場所」「言葉が道具だといふ時、それはまた心と心が出會ふ通路」とは・・・參照PP圖⇒「個人の強靱化:P2~3kojinnokyoujinka.pdf へのリンク」 「恆存の『文化について』P3bunkanituite.pdf へのリンク」。
〔絶望について〕
〔難解又は重要文〕P104「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「私は絶望といふものがあらゆるものの出發點だと思ふのです。人間といふのは絶對孤獨(ロレンス「個人はついに愛し得ない」⇒下枠文參照)であつて、人と人との間に最終的には架ける橋はないといふのが私の人間觀です。人間はエゴイスティック(A)なもので、本當は自分のことだけしか考へてゐないのだといふことを、一度痛切に見つめることが大切です。さうすると、人間といふものは非常に惡いもののやうに思はれますが、私はそのエゴイズム(A集團的自我)といふものが、生きる力、生命のエネルギー(A)だと思ひます。(中略)人間の中に潛むエゴイズム(A)をもう一度見直した方がよいのです。(中略)人間の中に潛んでゐる利己心(A)をじつとみつめる目がないオプティミズムが、すべての僞善(ルサンチマン:「弱者の歪曲された優越意思」:A⇒Bすり替へ)の源になると思ふのです。プラトンが「意識してやる僞善よりも意識しないでやる僞善の方が惡い。意識してつく嘘より意識しないでつく嘘の方が惡い」といつたのは本當だと思ひます。(中略)人間と人間の間に架ける橋はないと考へます。(中略)人間はどんなことを仕出かすか分らないのだといふところから出發して、始めて自己と戰ふといふ工夫が出て來るわけです。本當の意味で人を愛しようといふ氣持ち(他者愛隣人愛:個人的自我B)も出て來る。言葉による傳達は不可能だと痛感〔とは前出「言葉には傳達可能な領域(五感で認知出來る部分)と、孤獨な相互に連絡のない部分がある」と言ふ事〕する時、始めて言葉(F)に心をこめる(Eの至大化)やうな眞劍な努力が出て來るのだと思ひます。私が絶望だと言ふ時にはこれで終りだといふのではなく、これから何かやり甲斐のある仕事をはじめるといふ出發點を意味してゐるのです」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして更には以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。
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前出〔難解又は重要文〕P75「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「私達は人間の心と心がそのやうに完全に一致することがありうるか。あり得ないのではないかといふ一つの絶望感――傳達不能、愛の不可能(ロレンス「個人はついに愛し得ない」)といふ一つの絶望から出發しなければならぬと思ひます」。 拙發表文:『ロレンスⅠ』より「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 1.「抑壓された我意(A)はゆがんだ權力慾へと噴出口を求める」について *「ロレンスがぼくたちに提供した問ひはかうである――現代人ははたして他者を愛しうるか。(中略)個人(個人主義者と同意と見る)はついに愛することができぬ。個人は、クリスト教徒は、ついに他者を愛しえない。こころみに女を、隣人を愛してみよ――ぼくたちが肌と肌とをぢかに押しつけるやうにしてたがひに愛しあはうとするならば、そのむくつけき努力のうちにしだいに洗はれ露出してくるものは、他人を支配しようとする我意(A)であり、それは純粋なる個人(B)などといふものでは毛頭ない」。 *「スペイド(A我意)をスペイド(A我意)とはつきり宣言しないで、自分たちのうちの我意(A)を愛他思想(B)のうちにひつくるめてしまはうとするからこそ、抑壓された我意(A)はゆがんだ權力慾(「弱者の歪曲された優越意思」即ちA⇒Bすり替へ)へと噴出口を求めるのである」(『ロレンスⅠ』全二P39~40)。 これは恆存の「ロレンス著『アポカリプス論』まへがき」であるが、加へて別評論ではこの樣にも言つてゐる。 *「もし神(C)に從屬する自己(B個人的自我)といふものの存在する餘地を残しておかなければ、支配する相手も、仕へる對象もない(個人主義の)世界では、支配=被支配の自己(A)はいたづらに髀肉の嘆をかこつのみで、やがては醜い權力慾の吐け口に轉じはしないだらうか。いや、これはたんなる豫測ではない――個人の純粋性(B個人的自我)が社會の合理化に追ひ詰められて詰め腹を切らされたとき、個人主義は權力思想として登場せざるをえなくなつた」(『近代の宿命』全二P458)。 2.「ロレンスの指摘する近代人の病根が、はたして近代以前にある日本人の心理を支配してゐないかどうか」の檢證。(P31) * 恆存は近代以前にある日本人の心理をも、「近代人の病根」即ち「抑壓された我意はゆがんだ 權力慾へと噴出口を求める」が支配してゐると、以下の樣に鋭く指摘する。 「肉體の自律性は當然その反面に精神の自律性を前提とする。肉體(A)、あるいは物質で解決すべき事を、精神(B)の重荷とするなかれ――精神には精神のみの解決しうる問題をあてがひ、その領域と大權とを縮小せしめるにしくはない。そのときはじめて精神は自律し、その権威は輝くであらう。 が、ぼくたちは今日までなんと精神(B)を神聖化し、さうすることによつて精神の負荷を重からしめ、結果として精神を侮辱してきたことか。肉體(A)の自律性が確立してゐなかつたからである。明治以降の日本人はあらゆる物質的(A)なこと、肉體的(A)なことに、すべて精神(B)のべールをかぶせ、それをことごとく精神の發動として自己満足してきた。かれらは肉慾を肉慾として是認することをおそれ、それに精神的な衣をかぶせた。物慾を物慾として是認することをおそれ、それに藝術愛(B)や愛國心(B自己犧牲と言ふ名の)や愛他心(B)や、その他の主種雑多な大義名分をかぶせた。・・・」(P479全二『肉體の自律性』)。 |
〔歴史について〕⇒參照前出〔歴史と傳統と文化〕:〔難解又は重要文〕P76~7
〔難解又は重要文〕P108「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「人間關係のつき合ひ(場C’⇒D1關係)といふものをはつきり私たちに教へてくれるのは、歴史(C時間的全體)につき合ふ(場C⇒D1關係)のが一番いいと思ひます」。
*「歴史ばかりではないのです。友人關係でも、夫婦でも、親子(各場各場C’ ⇒D1關係)でもさうです。日本がほかの國とくらべていいとか惡いとか言はないで、われわれは、日本人だから、日本の國家につき合ふことをやつたらどうかと思ひます(良くても惡くても親は親、子は子と言ふ事)」。
・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして更には以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。
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前項〔難解又は重要文〕P76~7文への小生探究文 「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 ⇒參照:PP圖「歴史・文化・型」について(右圖)rekishi.bunka.kata.pdf へのリンク。 *「歴史(C)の方につき合はせねばならない」とは、それを具體的に顯はすと、歴史(C)との關係である「文化・傳統(D1:關係)」。そしてその反映である「F:對象・物・言葉」との附合ひ方(即ちE:型・仕來り・生き方・様式・儀式・技術)を、生き物(F)に對する如く附合ふ(Eの至大化)と言ふ事になる。その生き物(F)として附合ふ(Eの至大化)手段として必要なのが、「So called」「フレイジング」「ソフトウェア=精神の政治學」「精神の近代化」と言ふ事になる。「Eの至大化=D1の至大化」つまり型・仕來り・生き方(E)があれば文化(D1)は存在すると言ふ圖である。これを逆に言へば、歴史と言ふ場(C)への沈湎(D1の至小化=文化混亂・喪失)が、言葉(F生活・物・對象)への距離測定能力(E)の缺如(Eの至小化)を引き起こすのである。 故に以下の樣に恆存理論の言ひ換へが可能となると思へる。⇒參照:PP圖「歴史・文化・型」についてrekishi.bunka.kata.pdf へのリンク(右圖)PP圖恆存の「文化について」2頁bunkanituite.pdf へのリンク。 *《拙發表文:『傳統にたいする心構』より。恆存理論のPP圖的言ひ換へ》 *文化(D1)のある處(換言すれば自國の歴史Cとの「適應正常化=非沈湎」が圖れてゐる國)では、「E」を至大化させる「型・仕來り・様式・儀式」が形成されてゐて、その「型・仕來り」が歴史との關係(D1文化)を形ある「物」として生き方に反映(Eを至大化)させてくれるのである。文化(D1)のある國は「樣式・仕來りE」を持つが故に、「對象・言葉との距離測定不能(言葉に呪縛)」が原因の、適應異常や狂氣の囘避が可能となるのである。その事柄を「PP右圖」及び「2頁圖」で言へば、「D1の至大化=Eの至大化」と言ふ事になる。「型・仕來り・様式・儀式」は生活・言葉・物への囚はれから人を救出してくれるのである。更に換言すれば、平生足をさらはれてゐる樣な現實的平面から意識を立ち上がらせてくれる。なぜにそれが可能となるかと言へば、「型・仕來り・様式・儀式」に内在する働き、恆存の文章に從へば、以下枠文のダイナミズムをそれは宿してゐるからなのであると理解する。
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〔難解又は重要文〕P109~10「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「自分で自分(場C’)を理解してゐる(適應正常化=D1の至大化)と考へるのは傲慢です。他人(場C’)を理解し切つた(適應正常化=D1の至大化)といふのと同じ傲慢であります。だから、自分に對して(場C’⇒D1關係)も、他人に對して(場C’ ⇒D1關係)も歴史に對する(C時間的全體⇒D1關係)ごとく謙虚につき合へ(即ち、Eの至大化=D1の至大化)といふのです。さうすれば判斷が固定化(沈湎)するどころか、ますます融通無碍(以下枠文參照)に流動化してくるわけです。逆に歴史を自分流に判斷していくと對象の歴史はもとより自分も固定してしまふ(前出「現在の『見える目で』で裁いてはならぬ。歴史家は當事者と同じ『見えぬ眼』を先ず持たねばならない」)。歴史といふ巨大なもの他人といふ自分でないもの、さういふものに謙虚につき合ふこと(即ち、Eの至大化=D1の至大化)によつて自分の器は大きくなり、伸縮自在(以下枠文參照)になるのです」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして更には以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。
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「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「言葉(F)と話し手との間に距離(E)を保ち、その距離を絶え間なく変化させねばならぬのと同様に、相手と共に造り上げた場と自分との間(D1)にも距離を保たねばならず、その距離を絶えず変化させ得る能力がなければいけない。さういふ能力こそ、精神の政治学としての近代化といふものなのである」(『醒めて踊れ』)と。 *「自分と言葉(物)との距離の測定が出來る」とは「言葉(物)を自己所有化する」と言ふ事。即ち、意識度を高くし、言葉(物)の用法に細心の注意をし、「言葉(物)を自分から遠く離す事によつて、逆にその言葉を精神化し、支配、操作する事が出来る様になる」(『醒めて踊れ』全七P391)。さうする事によつて「自分に近付け、言葉を物そのものから離して自分の所有にする事が可能になる(同)」。 參照PP圖⇒「個人の強靱化:kojinnokyoujinka.pdf へのリンクP2~3」「恆存の『文化について』bunkanituite.pdf へのリンクP3」。 |
〔難解又は重要文〕P110「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「歴史に對する場合、それを單なる事實として認めるだけならば、歴史に對する自己の意志が薄れることはないかといふ質問が出されてゐます。しかしこの人も自己の意志(個人主義病)といふやうな言葉に捉はれてゐるのではないでせうか。(中略)己を空しくして歴史的事實に仕へるといふその仕へ方のうちにのみ事實は自らその姿を現はす」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして吉野注を附した「この人も自己の意志(個人主義病)」とは以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。
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拙發表文:『フィクションといふ事』から。一部加筆「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 ビランテルロ文~下6行目「人生は悲しい芝居である。といふのは、吾々は自分自身のうちに、なぜ、どうしてかは解らぬものの、一つは實在(リアリティー)を造り出す事(自己實現・自己表現)によつて絶えず己を欺かうといふ慾求(ボヴァリズム)を持つてゐる(つまり、自由意思・意志に基づく「人間いかに生くべき」の自己實現⇒自己完成⇒似非實在感・自惚鏡と言ふプロセス)。(中略)十九世紀小説が信じてゐた自己の實在とそれに對する誠實(自己實現⇒自己完成⇒似非實在感・自惚鏡)といふものを、もはやビランテルロは信じてゐない。 *まさしく個人主義とは「淋(寂)しい思想」と言へる。 當評論文中にそれを探してみると、(P453)「十九世紀小説(個人主義小説)が信じてゐた自己の實在とそれに對する誠實といふものを、もはやビランテルロは信じてゐない。誠實といふものも、少くとも自分が自分に對して誠實であると思ひこむのも、これまた一種の自己欺瞞に過ぎまい。いや、誠實こそ寧ろ最大の自己欺瞞かもしれぬ」にそれが窺へる。 個人主義とは「自己への誠實」であつて、相手の「自惚鏡」に附き合はない。それは當り前である。何故なら個人主義は、神の代はりに自己が舞台の前面に出ての「自己主人公化・自己全體化」なのであるから・・・。 その邊の事をいち早く、既に近代の曙「ルネサンス」の時點で、天才「シェイクスピア」は見事喝破し、かくの如きせりふにそれを殘してゐるのである。以下文で言ふ「人」とは全體離脱の近代人、そしてその代表「マクベス」の事を言つてゐるのであらう。 「人の生涯は動きまはる影にすぎぬ。あはれな役者だ、ほんの自分の出場のときだけ、舞台の上で、みえを切つたり、喚いたり、そしてとどのつまりは消へてなくなる。白痴のおしゃべり同然、がやがやわやわや、すさまじいばかり、何のとりとめもありはしない」(『マクベス』獨白)。 そう近現代人は、「自分の出場」(自分の自惚鏡)のときだけ、「みえを切つたり、喚いたり」「がやがやわやわや、すさまじいばかり」、只ひたすら自己主張に終始するのである。 そして吾等日本人も同樣。否、もつと自惚鏡への執着は強いかも知れない。日本人はその個人主義を、恆存の論に據れば「確立出來ない」まま、かと言つて手を拱いてゐる譯にもいかず、結局お手の物の「換骨奪胎」、個人主義に名を借りての斷片主義(利己主義)へと仕立て上げてしまつた。そして、其處に更に、戰後の文化喪失⇒型喪失⇒自己と言ふ場(C’)への適應異常(自惚鏡C’への沈湎)が加算されたのである。 |
〔價値について〕參照⇒PP圖「道徳の基本」doutokunokihon.pdf へのリンク
〔難解又は重要文〕P112~4「 」内が恆存文。( )内は吉野注。
*「近代化は價値ではないといふことに關聯して『價値』とは何かといふ質問がありました。價値とは常識的には何が善か何が惡かといふ判斷の基準(「羅針盤」Cと同意か?)であります。あるいは理想(C)といつてもよろしい。近代化といふものは、さういふ善惡といふ價値の問題ではない(道德・宗教・信仰のC的概念とは別次元のもの。即ち歴史的必然性=進歩。前出P83「近代化はいいも惡いもない、その中に價値は絶對に含まれない」)と申し上げたのです。その價値といふものは必ず體系を持つてゐて、善のうちの最高善といふのが必ずあります。(中略)道徳の基本(C)は絶對に變はらない。なぜなら、最高善と言ふものは、洋の東西を問はず、自己犠牲、自己放棄と言ふ事にあるからです。自己を他人の爲、或いは自己よりも大いなるものの爲、小は家庭から、大は國家、世界、人類等の爲に捨てる事です(參照「完成せる統一體としての人格」論kanseiseru.pdf へのリンク)。此處までは、道徳の段階ですが、宗教的にはもつと高い次元である神(C)と言ふ樣な抽象的なものに對する信仰(D2)があるわけです。近代化(進歩・歴史的必然性)といふものは、さういふ次元(道德・宗教・信仰のC的概念)とは全く異つた世界のもの」。
*「宗教は進歩と言ふものを否定するのではありませんが、さう言ふものに對して(宗教は)精神の高さを維持する役割を果す。そして道徳的には自己犠牲と言ふ最高善を果すものです。近代化とは一種の人間のエゴイズム(A)の發現(實證精神:A‘⇒A)ですが宗教がその行きすぎを食ひ止める力を失ひつつあるといふ事實を指摘しておきたいと思ひます(『神なくして個人の權利を主張しえない。それをあへてなすことは惡徳である』『近代の宿命』全二P463)」。
・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。參照⇒PP圖「道徳の基本」doutokunokihon.pdf へのリンク
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