平成二十六年七月十七日

吉野櫻雲

 

 

精神の政治學としての近代化」について


  以下枠文は、重要文である。しかし含蓄がありながらも、なかなか難解とも思しき文章と言へる。以前當文を何囘讀んでも、圖解(⇒PP圖參照kankeitoshousurujituzaibutsu1.2.pdf へのリンク)が出來上がるまでは小生には意味が判然としなかつた。今でも不明な部分が多少殘つてゐる樣な氣がする。

過去に『讀む會』で何度かレジュメに取り上げてみたが、今囘はその再考と、加へるに、文中にある「所謂『ソフトウェア』の適應能力」で、現實に於ける「實踐的應用」をも試みに追つてみる(下欄)。

『醒めて踊れ』(全七P393上)

*「近代化の必要條件は技術や社會制度など、所謂『ハードウェア』のメカナイゼーション(機械化)、システマライゼーション(組織化)、コンフォーマライゼーション(劃一化)、ラショナライゼーション(合理化)等々の所謂近代化に對處する精神の政治學の確立、即ち所謂『ソフトウェア』の適應能力にある。マルクスの言ふ疎外は何も資本主義社會特有のものではなく、共産主義社會、全体主義社會にも生ずるものであり、また有史以來その度を増して來たものである。それに對應する方法は言葉や概念に囚れず、逆にこれを利用すること、即ち言葉の用法にすべてが懸つてゐる。自分と言葉との距離が測定出來ぬ人間は近代人ではない。いや人間ではない」。

 上記は、特に傍線部分は何を言はんとしてゐるのであらうか。恆存は、以下の演劇論を此處に適用(敷衍?)してゐるかに思へる。(さう言へば恆存は「自分の評論は演劇的方法を應用してゐる」云々の樣な文を何處かで書いてゐた樣な記憶がある。不確かだが。)

全七P300『せりふと動き』より 「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

*場( C”)から生ずる、「關係(D1)と稱する實在物は、潜在的には一つのせりふ(F:言葉)によつて表し得る」。故にその言葉との附合ひ方(フレイジング・So calledE)によつて、人間は場との關係の適應正常化が叶へられる(傍線部分小生の説明的加筆)。

よつて前文を此處に當て嵌めるとかうなる。

*場( 西歐C”)から生ずる、「關係(D1)と稱する實在物(近代化=ハードウェアは、潜在的には一つのせりふ(F:技術や社會制度言葉、即ち機械化・組織化・劃一化・合理化等々のハードウェア)によつて表し得る」。故にその言葉(F)との附合ひ方(ソフトウェアフレイジング・So calledの適應能力E)即ち言葉の用法」「自分と言葉との距離測定によつて、人間は場との關係の適應正常化(D1の非沈湎)が叶へられる、と言ふ事になる。即ち「Eの至大化(適正化)=D1の至大化(適應正常化・非沈湎)」と言ふ事になる。

尚、逆にすると、以下の通り。

「近代化實在物:D1)の必要條件は技術や社會制度潜在的言葉:F)など、所謂『ハードウェア』のメカナイゼーション(機械化)、システマライゼーション(組織化)、コンフォーマライゼーション(劃一化)、ラショナライゼーション(合理化)等々の所謂近代化潜在的言葉:F)に對處する精神の政治學の確立(E)、即ち所謂『ソフトウェア』附合ひ方E:フレイジング・So calledの適應能力(Eの至大化)にある。

即ち、西歐(場C”)との關係(宿命D)として齎された「近代化D」への適應を、新漢語・外來語(F)の用法(E:So called)で、適應正常的關係に「形ある『物』として見せる」(Eの至大化)。それがハードウェアとしての近代化(D1及びF:機械化・組織化・劃一化・合理化等々)に對するソフトウェア(精神の政治學)としての對處方法なのであると(⇒PP圖參照kankeitoshousurujituzaibutsu1.2.pdf へのリンク

正しく恆存文に從ふと「言葉と話し手との間に距離を保ち、距離を絶えず變化させ得る能力(Eの至大化適正化がなければいけない。さういふ能力(フレイジング・So calledによる適應能力)こそ、精神の政治學としての近代化といふものなのである」。であるからして、それが「出來ぬ人間は近代人ではない」と言ふ事になる。參照:下欄發表文A)(「形ある『物』として見せる」云々は⇒參照:下欄「演劇論D

更に恆存は、「それ(近代化や疎外)に對應する方法は(機械化・組織化等々の)言葉や概念に囚れず、逆にこれを利用すること、即ち言葉の用法にすべてが懸つてゐる。自分と言葉との距離が測定出來」る樣にする事と述べてゐる。つまり距離測定と言ふ「言葉の用法=So called」で、「近代化や疎外」と言ふ關係(D1)への適應を、適應正常的關係に「形ある『物』として見せる」と言ふ事である(即ち、Eの至大化でD1の至大化を圖る事)。「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

 是を小生は以下の樣に纏めてみた。

何故日本は、近代化の技術や社會制度としての「資本主義化・民主主義化・個人主義化」「機械化・組織化・劃一化・合理化」等々を選擇するのか。西歐が近代でそれら概念に客體化して見せた「神に型どれる人間の概念の探究」を、日本も「形ある『物』として(それら新漢語の裏に)見せる」と言ふ事が「So called」なのである。(拙發表文『シェイクスピア劇のせりふ』より。赤字加筆)

 

*******************************************

 

 では、上述的方法論を、現實としてはどの樣に「實踐的應用」をしたらよからうか。

 と、此處まで考察して來たら、過去の小生發表文に以下の樣な文章があるのを思ひ出した。是では詰まる處「二番煎じ」となり、なにも今囘のテーマに敢へて持ち出さなくてもよかつたものをと、慚愧の思ひであります。

 

〔「精神の政治學の確立」「精神の政治學としての近代化」について〕

拙發表文シェイクスピア劇のせりふ』よりPP圖參照kankeitoshousurujituzaibutsu1.2.pdf へのリンク

的確に「言葉との距離測定」をし、各場面場面に沈湎せず適應正常していく(即ちEの至大化=D1の至大化)などと言ふ藝當は、個人の強靱性(個人主義)を保持して初めてそれが可能となるのである。

その爲には、以下枠記載の「逆プロセス」が緊要であると、恆存は此處で言ひかつ諸處の評論でもそれを謳つてゐる。日本人には不得手な、現象としての「鮮やかな場の轉換(場に沈湎しない)」は、その本質「精神の政治學としての近代化(AB分割線の最下降化)」をもつてそれが可能となるのである。要するに恆存は以下枠文の「本質から現象への逆プロセス」の能動について、それら全てを含めて「精神の政治學としての近代化」と言つてゐるのではなからうか。現象(左端)の實現は本質(右端)が極められなければ不可能事であると。

 

〔場(西歐近代)に適應正常する爲に=鮮やかな場の轉換(D1の至大化:場に沈湎しない)〕

場(西歐近代)に適應正常鮮やかな場の轉換(D1の至大化:場に沈湎しない)←「言葉との距離測定能力(Eの至大化)」←個人の強靱性←個人主義の確立(「精神の近代化」)←精神の政治學による「AB分割線の最下降化」(近代化:P8圖化)←日本の精神主義(前近代:P9圖)からの脱皮。

 

 「二番煎じ」の誹りは免れないながらも、しかし今般、世間に喧しく論じられてゐる「集團的自衛権」や「憲法改正」については、現實問題として「實踐的應用」を考へるのは役に立つのではと、以下に取り上げてみる。

 小生が思ふ處は、以下枠文の方法論を活用する事で、近代化が招く諸問題への「適應異常」が免れるのではなからうか、と言ふ事なのである。

「近代化實在物:D1)の必要條件は技術や社會制度潜在的言葉:F)など、所謂『ハードウェア』のメカナイゼーション(機械化)、システマライゼーション(組織化)、コンフォーマライゼーション(劃一化)、ラショナライゼーション(合理化)等々の所謂近代化潜在的言葉:F)に對處する精神の政治學の確立(E)、即ち所謂『ソフトウェア』附合ひ方E:So calledの適應能力にある。(中略)

「それ(近代化や疎外)に對應する方法は言葉や概念に囚れず、逆にこれを利用すること、即ち言葉の用法にすべてが懸つてゐる。自分と言葉との距離が測定出來So called」る樣にする事。

 

*場( 西歐C”)から生ずる、「關係(D1)と稱する實在物(近代化=ハードウェアは、潜在的には一つのせりふ(F:技術や社會制度言葉、即ち機械化・組織化・劃一化・合理化等々のハードウェア)によつて表し得る」。故にその言葉(F)との附合ひ方(ソフトウェアSo calledの適應能力E)即ち言葉の用法」「自分と言葉との距離測定によつて、人間は場との關係の適應正常化(D1の非沈湎)が叶へられる、と言ふ事になる。

 

 で、どの樣に現實的に上記「方法論」が客體化されるかと言へば、この樣になる。

現實に於ける「實踐的應用」 

「近代化」と言ふハードウェア。

實在物:場との關係D1)

近代化の「技術や社會制度など」(ハードウェア)。

それは潜在的には言葉(F)で表せられる⇒以下

ソフトウェア(E)=「精神の政治學」「So called」「フレイジング」。

言葉の用法=自分と言葉との距離が測定出來

現實での實踐的展開(應用的展開)

近代化(ハードウェア)

近代化の「技術や社會制度」の一つ=國防(F:個別的自衞權・集團的自衞權)

 

(ハードウェア)

「近代化」といふ關係(D1)、それを表する「国防(個別的自衞權・集團的自衞權)」の言葉(F)を、それら新漢語に對する用法(「So called」)で、正常な關係に「形ある『物』として見せる」と言ふ、「ソフトウェア:E」の藝當 ⇒

前述文參照

西歐が近代で「資本主義」等に客體化して見せた「神に型どれる人間の概念の探究」と同樣、「集團的自衞權」もやはり「神に型どれる人間の概念の探究」の一つである。それが故に現實的客體化として、國際(國連)の場で、各國の「集團的自衞權の行使」は認知されたのである。故に今般の日本の「容認」は遅きに失した事だ、と。⇒即ち「容認」が近代化への適應正常。

近代化(ハードウェア)

近代憲法

(憲法改正)

同上:

黄色枠文を「近代憲法(憲法改正)」に變更。

前述文參照:西歐が近代で「資本主義」等に客體化して見せた「神に型どれる人間の概念の探究」云々。

*「憲法は不磨典」は適應異常。絶對物ではなく相對物故に「改正可能」が近代化への適應正常。戦後「独逸憲法との差。

近代化(ハードウェア)

資本主義化

(ハードウェア)

同上:

黄色枠文を「資本主義化」に變更。

前述文參照:西歐が近代で「資本主義」等に客體化して見せた「神に型どれる人間の概念の探究」云々。參照:下欄發表文B 

*「ただ神の解體と變形と抽象化」(『近代の宿命』)參照:下欄發表文C 

近代化(ハードウェア)

(西歐)自然主義

(ハードウェア)

同上:

黄色枠文を「(西歐)自然主義」に變更。

西歐が近代で「自然主義」に客體化して見せた「神に型どれる人間の概念の探究」云々⇒參照:下欄發表文@ 

「萬人をその胸に救ひとる人格神が、その手をその脚を、さらにその胴體をもぎとられ、それらが制度化せられ機械化(A)せられる――で、神は人體を失つて、完全な精神としての抽象化を受ける。その精神が文學の領域(B)として残される」(『近代の宿命』)

參照:下欄發表文C 

近代化(ハードウェア)

民主主義化

(ハードウェア)

同上:

黄色枠文を「民主主義化」に變更。

西歐が近代で「民主主義化」に客體化して見せた「神に型どれる人間の概念の探究」云々。

*「ただ神の解體と變形と抽象化」(『近代の宿命』)參照:下欄發表文C 

近代化(ハードウェア)

個人主義化

(ハードウェア)

同上:

黄色枠文を「個人主義化」に變更。

西歐が近代で「個人主義化」に客體化して見せた「神に型どれる人間の概念の探究」云々。

*「ただ神の解體と變形と抽象化」(『近代の宿命』)參照:下欄發表文C 

近代化(ハードウェア)

機械化・組織化・合理化

(ハードウェア)

同上:

黄色枠文を「機械化・組織化・合理化」に變更。

*自分と言葉(機械化・組織化・合理化)との距離が測定出來So called」る樣にする事。

西歐が近代で「機械化・組織化・合理化」に客體化して見せた「神に型どれる人間の概念の探究」云々。

「萬人をその胸に救ひとる人格神が、その手をその脚を、さらにその胴體をもぎとられ、それらが制度化せられ機械化(A)せられる」(『近代の宿命』)

參照:下欄發表文C 

近代化(ハードウェア)

その他

「自由・平等・博愛・平和」等々・・・

「西歐近代適應異常」現象の数々(ハードウェア)。

同上的對處

 

同上的對處

 

 
*******************************************

 〔參照:「發表文」@〕

〔ハードウェア「西歐自然主義」への對處(ソフトウェア)〕

拙發表文『獨斷的な餘りに獨斷的な』より 「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

P527上「何の爲に現實を在るがままに描寫(寫實)しなければならないのか」について「ハードウェア・ソフトウェア」論を適用する。 

「關係(D1)と称する實在物は潜在的には一つのせりふ(言葉)によつて表し得る」。その恆存の言に從ふならば、西歐近代との關係(實在物)である「近代化」を表しうる言葉の一つとして「(西歐)自然主義」が上げられる。そして明治日本は前近代であるが故に、その西歐自然主義を當然「ハードウェア」として受け止めざるを得なかつた。

換言すると、「近代化」といふ關係、それを表する「(西歐)自然主義」の言葉を、それら新漢語に對する用法(「So called」)で、正常な關係に「形ある『物』として見せる」と言ふ、「ソフトウェア」の藝當が明治日本では出來なかつた、と言ふ事に繋がるのである。具體的にはどう言ふ事を示すかと言へばかうなる。

(西歐)自然主義は、たとへ唯物論に歸因するとしても、より本質的には『神に型どれる人間の概念の探究』と言ふ近代化の一形態であつて、その背景には觀念論としてのクリスト教(洋魂)がある。

故に、西歐が近代で「自然主義」に客體化して見せた「神に型どれる人間の概念の探究」を、やはり明治日本も近代化を移植するに當たつて、同じく「形ある物として(日本自然主義の裏に)見せる」必要があつた。その藝當が「ソフトウェア」としての「So called」なのである。が、現實的可能性としてはそれが出來なかつた。「觀念論⇒唯物論」経緯の不理解は勿論の事、それが故に「自然主義」を單なる「寫實」としてしか移植出來なかつたのである。恆存流に言へば、上記「ハードウェア」に對する精神の政治學としての「ソフトウェア」を持つ事が出來なかつた事にそれは繋がり、此處に西歐近代への文學上「適應異常」が明確に示されていると言へるのである。そして更にそれは今日も(P535上:最終文も同意)と、言ふ事に。(參照:『醒めて踊れ』・『せりふと動き』)


〔參照:「發表文」A〕「精神の政治學としての近代化」

《小生應答文:〔精神の政治學、何故「最下降」なのか〕:恆存文を索引にして》より。「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

*「言葉と話し手との間に距離を保ち、その距離を絶え間なく變化させねばならぬのと同様に、相手と共に造り上げた場と自分との間にも距離を保たねばならず、その距離を絶えず變化させ得る能力がなければいけない。さういふ能力こそ、精神の政治學としての近代化といふものなのである」『醒めて踊れ』全七P398)。

・・・@「さういふ能力こそ、精神の政治學」とは言つてなく「近代化」と言つているのが重要。「精神の政治學」ではなく「精神の政治學としての近代化」と言ふ事。「近代化」とは最下降を意味し、九圖(「最上昇圖」の日本人にはそれがなく、八圖の構圖でなくてはそれが出來ないと。

・・・A「距離を絶えず變化させ得る能力」を持つ爲には、「精神の近代化」即ち個人主義の構圖(テキスト八頁「最下降」圖)を持つべき、と恆存は言つてゐるのでは。九圖の構圖(「最上昇」:日本の精神主義)ではそれはできないと。「精神の政治學としての近代化」の近代化の言葉が曲者。精神の政治學を「近代化」=最下降させる、といふことなのでは・・・。(參照:「エラスムスは、ほとんど近代精神の政治學を完成せしめた」(『近代の宿命』から)(參照:恆存は評論『日本の知識階級』で、「精神の近代化」とは「個人主義」を理解する事なのだと論じてゐる)。

*「日本は物質面における近代化は行はれたが、物質面に対しての、精神の面での『精神の政治學』としての近代化は行はれてゐない」。

 更に録音を再現すると、「(日本は近代化を)物質面においてだけやつた。その物質面で行われた近代化に対する、適應能力としての、『精神の政治學』としての近代化。これはまだ行われてゐない」「(講演カセット「日本の近代化とその自立」より)(注:同講演で「まず精神面での西洋化云々」的表現をしてゐる)。

・・・とは、上記で言ふ「精神の政治學」の分割線が下まで下がつてないと言ふ事では(甲・乙圖參照)。物質面における近代化は行はれたとは「乙構圖:日本的精神主義構圖(前近代)」のままでの物質面(A上のみ)での近代化であつたと言ふ事。「甲圖」から創出された近代圖西歐製品を、「乙圖」状態のままで先進國化と言ふ模倣(輸入)をした事によつて生じた適應異常。「科學製品は輸入できても科學精神は移植できなかつた」(『近代日本文學の系譜』)とはその事を指す。西歐近代の各種概念や觀念(言葉)の「自己所有化」ができなかつたのである。

 その歪んだ日本の近代化(適應異常)を修正する手段として、「精神の政治學」分割線の最下降を示唆するのである。そしてその手段として「處世術(A)的概念)」で解決できるものは「處世術」で、と恆存は説くのである。「カエサルのものはカエサルで」と同じ謂ひである。

 日本は物質面のみの模倣(客體化)で済まして、精神(個人的自我:B)から、そこに潜在する「カエサル(A)」的部分を搾り出して、集團的自我(A)に押し出して行くと言ふ西歐的能動がなかつた。故に「精神の政治學」ラインが下降しなかつた、と言ふ事に繋がるのでは。

*「それに對處し得る精神の近代化」(P398)とは、我々日本人は人格を統一するところの質的別次元の「全體」を所持して、「完成せる統一體としての人格」のフィクション(假説)を構築すること。と恆存は言つてゐるのだと思ふのである。(別圖参照)  

 

〔武士道では、もはややつて行けない云々〕について

 恆存は日本人について、現代人も含めて要約すれば「テキスト九圖」だと各評論で言つてゐるのであり、其處に「武士道」を持ち込めば、やはり「和魂洋才」の上塗り(上書き)となり、それは「テキスト九圖」の「B」項に武士道を持ち込んだだけの構圖になつてしまふ。

 恆存の言はんとしてゐる事は、八圖「個人主義構圖」の上に、西歐個人主義の陥穽に落ち込まず、其の上に更に「完成せる統一體としての人格」構圖(テキスト十圖)を描き、統率するものとして「全體」「絶對」の必要を説くのである。その全體(C)的概念として「天(儒教)」「空(仏教)」「八百萬の神(神道)」といつてゐるのでは。

 であるから、武士道(儒教:天至誠)を持ち出すなら、九圖ではなく「完成せる統一體としての人格」構圖構築の上に「全體C」概念としてその内の一つとして招來されるのではなからうか。


〔參照:「發表文」B〕

拙發表文:『獨斷的な餘りに獨斷的な』より「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

*明治日本は、宗教改革の神に先導された西歐の資本主義と異なり、「近代日本(明治)は資本主義をはじめから利己的な惡徳として發展せしめる以外に道はなかつた(經濟的適應異常)。天皇と國家とのためにといふ名目を除外しては。(中略)近代日本の帝國主義は自己を限界づけるなにもの(國際主義)ももたなかつた(政治的適應異常)。のみならず、天皇や國家の権威は強者の惡徳を正當化した」。

 

〔參照:「發表文」C〕

制度による具體化・・・・

*「萬人をその胸に救ひとる人格神が、その手をその脚を、さらにその胴體をもぎとられ、それらが制度化せられ機械化(A)せられる――で、神は人體を失つて、完全な精神としての抽象化を受ける。その精神が文學の領域(B)として残されるといふわけだ」。

*「近代ヨーロッパは神を見失つた――が、それはただ神の解體と變形と抽象化とを意味するに過ぎぬ。まさにそのための手續きであり過程にすぎなかつたヨーロッパの近代精神とその政治制度・經濟機構(A)」。(參照『近代の宿命』全二P463P466

 

〔參照:演劇論D〕

「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

場面(C”)から關係(D1)として生ずる「心の動き(D1)を形のある『物』として見せる(Eの至大化)のがせりふの力學(フレイジング:E)」(『せりふと動き』)

せりふは語られてゐる意味の傳達を目的とするものではない。一定状況の下(場面)において、それを支配し、それに支配(宿命・關係D1)されてゐる人物の意志や動き(D1)を表情や仕草と同じく形のある『物』として表出する(Eの至大化)、それが目的であり、意味の傳達はその爲の手段に過ぎぬ」(『シェイクスピア劇のせりふ』全七P345)

 

                                              をはり