平成二十七年七月九日
〔福田恆存を讀む會〕
吉野櫻雲
〔恆存評論『人間の生き方、ものの考へ方(價値について)』他を參考に、自己犠牲・最高善を考へる〕
参照:『少數派と多數派』
その檢證に役立つと思へる、恆存評論及び講演は以下の通りである。
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『人間の生き方、ものの考へ方』(昭和四十一年講演)より「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 〔價値について〕 *「道徳の基本は絶對に變はらない。なぜなら、最高善と言ふものは、洋の東西を問はず、自己犠牲、自己放棄と言ふ事にあるからです。自己を他人の爲、或いは自己よりも大いなるものの爲、小は家庭から、大は國家、世界、人類等の爲に捨てる事です。此處までは、道徳の段階ですが、 宗教的にはもつと高い次元である神と言ふ樣な抽象的なものに對する信仰が在る譯です」(P113)。參照⇒PP圖「道徳の基本」jikogisei.pdf へのリンク *「宗教は進歩と言ふものを否定するのではありませんが、さう言ふものに對して(宗教は)精神の高さを維持する役割を果す。そして道徳的には自己犠牲と言ふ最高善を果すものです」(P114)。參照⇒PP圖「道徳の基本」jikogisei.pdf へのリンク *「人命が尊いといふのは、(中略)自己犧牲の精神を發揮しうる動物だからでせう。人間は豚を食つたり肉を食つたりしてゐますが、人間が他の動物より尊いと言ふのは、人間が他人の爲に或いは共同體の爲に自己を犠牲にすると言ふ精神を持ち得る動物だからです」(P129)。 評論:『平和の理念』『理想人間像について』『日本および日本人』他から「 」内が恆存文。( )内は吉野注。 *「平和といふのは生命保存の本能といふ言葉の代用品だからです。もともと自分達には命に替へても守りたいもの、或は守るに値するものは何も無い事を(占領軍及び進歩的知識人達から)教へられたからこそ、平和が最高價値になつたのです。命に替へても守りたいもの、或は守るに値するものと言へば、それは各々の民族の歴史のうちにある固有の生き方であり、そこから生じた文化的價値でありませう。その全部とは言はないまでも、その根幹を成すものをすべて不要のもの、乃至は惡いものと(占領軍及び進歩的知識人達から)否定されれば、殘るものは生物としての命しかありますまい。平和が最高價値と言ふのは、生命が最高價値といふ事です。その意味でもエゴイズムとヒューマニズムとの擦り替へ、或いは混同が生じてをります」(『平和の理念』全五P325)。 *恆存はかく言ふ。 參照⇒PP圖「道徳の基本」 相對を絶した「觀念上の絶對(C)」を持たぬ日本人、即ち「理想人間像(C)のないぼくたちはどんな人間になつてもいいのである、どんな生きかたをしようと大した問題ではない」(『私小説的現實について』全一P574)と。 「自然的な、物質的な、あるいは肉體的な慾望(いずれもA領域の相對主義的慾望)の充足を求め、しかもそれ(相對物)以外のなにものをも慾求しない個體(即ち相對主義の泥沼)にとつて、いかなる道義も倫理(B⇒C)もなりたたず、それはなにをしてもいいし、なにをしなくてもいいのだ」(全二P472『理想人間像について』)と。「要するに、負けなければいい、死ななければいい、行きづまらなければいい(いずれも相對的概念)――さういふことになります」(全三P75『個人と社會』)。「理想人間像(C)のないぼくたち(相對主義的人間)はどんな人間になつてもいいのである、どんな生きかたをしようと大した問題ではないのである」(『私小説的現實について』全一P574)と。 *「社會(相對)といふ觀念は個人(相對)を否定しえない。それは有限(相對)といふおなじ系列、同じ次元にあるからである。同樣にして進歩(相對:平和も然り)の觀念も個人の慾望(相對)を否定しえない」((全二P473『理想人間像について』)。 *「なにが惡でも、なにが善でもないといふ現代日本人の非倫理的性格(相對主義A⇔A’)――私の仕事のすべてはその究明に集中されてきたといつていい。平和問題も、この日本人の非倫理的性格(相對主義A⇔A’)から發してゐるのです。(中略)平和といふことの華やかなことばのかげには倫理(C)の陰翳がすこしもない(即ち相對主義の世界の話と言ふこと)。ただ命が大事だといふだけです。こつちの命が大事なら向うの命も大事です。向うも生き殘るつもりでやつてゐる。なにをかいはんやであります。個人の生命より大事なものはないといふ生きかたは、究極には自他のエゴイズムを容認することになる。個人が死ぬにたるもの(C)がなくては、個人の生(A+B)の喜びすらないのです。相對主義の考へかた(個人の生命より大事なものはないといふ生きかた)では、どうしても、そこ(自他のエゴイズムを容認すること)から脱け出られません。それが積極的な理想にまで高まるには、個人倫理の絶對性(B⇒C)と相ふれなければならぬのです。(中略)さらにまづいのは倫理感の稀薄さ(B⇒C缺如即ちA⇔A’)と平和論(相對主義A⇔A’)がなれあひになるといふ事實です。」(全三P78『個人と社會』) *「超自然の絶對者(C)といふ觀念のないところでは、どんな思想も主張も(平和の主張も)、たとへそれが全世界を救ふやうな看板をかかげてゐても、所詮はエゴイズムにすぎない」(『日本および日本人』全三P198)。 *「個人の生命より大事なものはないといふ考へかたは、大變な危險思想であつて、それは裏がへしにすれば、任意に他人の生命を奪つてもいいといふことのなるのです。平和論とか再軍備反對とかいふものが青年一般に支持されてゐる根柢には、生命尊重の考へかたがあります。(中略)日本以外には、ほとんどどこの國にも通じない思想であります。昔は(中略)祖國のためには死ぬことを辞さなかつたのです。(中略)國や民族の生きかたを守らうといふ氣もちは是認できます。個人の生命より全體の生命を大事にするのが當然でせう。が、戰後、その全體の生命としての國家といふ觀念が失はれてしまつた。ですから、個人の生命より大事なものはなくなつたのです。(中略)個人の生命より大事なものはないといふのは変態だ」(全集第三巻所收『戰爭と平和と』)。 追加分 *passion の語源はpassive 。(『シェイクスピアの魅力』からの要旨。) 「情熱」は「受動」。それに身を委ねるは惡しき事と言ふのが聖書の思想(「肉=感情に従ふは罪。肉は神意を遂げる處」參照『聖書事典』)。「情熱・肉」に相對するのが精神(能動的概念)。肉體の受難に対して精神はそれに打かつもの。イエスが「神の子」であるのは肉體の受難に打かつ精神を持つてゐた事。それによつて神と繋がつてゐた。「受難:passion 」とはさうした能動的・積極的概念の象徴。 |
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