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令和四年三月三十一日

〔福田恆存を讀む會〕

吉野櫻雲

 

 

『少數派と多數派』:全集第四巻所收(「政治公論」昭和三十二年二月號:四十六歳)

 

*今般のテーマは時期を得た選擇と言へる。當評論『少數派と多數派』の本質論は、二月末勃發、ロシアの「ウクライナ侵略」と言ふ国際問題(現象)の考察に際して、適切かつ重要な手掛かりを與へてくれた。

 尚、私見として、〔難解又は重要文〕P246の内容(以下。詳細は本文)は、所謂「覺悟」といふ觀念を、見事にかつ審らかに言ひ表してゐるやに思へる。。

*〔第二段階〕「行動に論理の筋を通す」(前段P245内容⇒PP圖參照『少數派と多數派』)

關係論①神(觀念上の絶對:C)⇒からの關係:①に「②信頼してゐる」〔即ち神の「救ひ・罰」をも神意(D1)として信じてゐる(D1の至大化)事〕⇒③行動(②的概念:F)⇒③に論理の筋を通す(Eの至大化)〔とは、神(C絶對)との黙契(D1の至大化)は、行動の結果「救罰即ち相對」を不問かつ享受、意に介さず。:③との距離獲得(Eの至大化)〕⇒少數派(△枠) :①への適應正常。

 

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*と言ふ事で、以下項目を探究していく。

 

〔一 少數派の絶望感〕

〔難解又は重要文〕P240上「 」内が恆存文。( )〔 〕内は吉野注。

*「私の立場は、つねに『理想』(C)と『現實』(A)との二元論にあるからです。そして、この二元論的な生きかたは、ひとり私ばかりではなく、誰しも身につけなければならぬものだと思ひます。といふより、誰でも多少とも、意識、無意識のうちに、それを身につけてゐる。ただ、このさい、そのことをはつきり自覺することが必要だといふだけのことにすぎません。國際政治(A現實)、国内問題(A現實)の別を問はず、また全く個人的な倫理(B精神⇒C神佛)問題においても、この『理想』(C)と『現實』(A)との兩面にわたる二元論的な生きかたが、今後ますます強調されなければならないと思ひます。一口にいへば、それは近代西歐の考へかた(近代化適應)であり、生きかたであります」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして更には以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。

〔上文「近代西歐の考へかた(近代化適應)であり、生きかた」については、以下を參考にされたし〕

 

*「萬人をその胸に救ひとる人格神が、その手をその脚を、さらにその胴體をもぎとられ、それらが制度化せられ機械化(A)せられる――で、神は人體を失つて、完全な精神としての抽象化を受ける。その精神が文學の領域(B)として殘されるといふわけだ」。

*「近代ヨーロッパは神を見失つた――が、それはただ神の解體と變形と抽象化とを意味するに過ぎぬ。まさにそのための手續きであり過程にすぎなかつたヨーロッパの近代精神とその政治制度・経済機構(A)」(『近代の宿命』全二P463P466)。

 

關係論⇒PP圖參照「神の解體と變形と抽象化kaminokaitaitohenkei.pdf へのリンク

*神(C)の死(西歐近代:C’)からの關係〔近代化(D1の至大化:神の解體と變形と抽象化)〕ヒューマニズム・民主主義・個人主義 等」(的概念F)⇒②への用法「言葉への距離測定・so called ・ソフトウェア・精神の政治學:Eの至大化」國及び國民(枠):への適應正常。

 

〔二 楽天主義的な政治觀と道徳觀〕

〔難解又は重要文〕P241「 」内が恆存文。( )〔 〕内は吉野注。

  「戰爭がひとまづ終つたことは、それだけで充分に平和がやつてきたことを意味するのです。いくら破れる危險があつても、平和は平和です。いや、元來、平和といふものは、その程度のものでしかないのです。この現實(A)世界では、絶對(C)的平和などどいふものはありえない。(中略)平和とは、戰爭の終つたあとか、あるいは戰爭の始まるまへにすぎない。その程度のことでしかない」。(中略)

「したがつて、平和を守らうとする意思も、また『平和共存』といふ言葉の意味も、その平和觀〔「現實(A)世界では、絶對(C)的平和などどいふものはありえない」〕を前提として、いひかへれば、その裏では、いまにも平和がくつがへされるかもしれぬといふことを覺悟のまへで、はじめて成立しうるものであります。それほどせちがらく、きびしいものなのであります。したがつて、ハンガリーやエジプトの問題で、日本の知識人ほど、あわてふためきはしない。世界史が逆轉したなどとは思はない。起るべきことが起つた(即ち「元來、平和といふものは、その程度のもの」)にすぎないのです」。

  「國家(A)と國家(A)との間柄〔即ち、國際政治(A)〕は、まだそこまで理性(B)の支配下にはない。いや、意地わるくいへば、個人(A)と個人(A)との間においても、私たち人間(A&B)は、それほど理性(B)的でありうるか。道德(B)的でありうるか。(中略)ソ聯(A)や英佛(A)にたいするかれら(日本の知識人)の絶望的な批難を見ると、その裏には、善には善をといふ道德(B)的楽天主義がひそんでゐるとしか思はれません」・・・上文①②とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして、更には以下内容に關しても物語つてゐるのではなからうかと思へる。

〔例:國家の近代化への關係論〕(參照『醒めて踊れ』)

*①場(西歐近代)⇒①からの關係「②近代化」⇒「③言葉(關係②的概念:技術や社會制度的言葉、即ち機械化・組織化・劃一化・合理化等々)」⇒③の用法「言葉への距離測定・so called・ソフトウェア・精神の政治學(Eの至大化)」國及び國民:①への適應正常(場への非沈湎、即ち近代化適應正常)。

 

*恆存の上記「關係論」を基に、前項〔難解又は重要文〕P240上の、「『理想』(C)と『現實』(A)との二元論」文と上文①②とを考へ併せると、以下の關係論(西歐人の近代化適應正常)で、當文を捉へる事が出來る。
⇒PP圖參照「神の解體と變形と抽象化」kaminokaitaitohenkei.pdf へのリンク

 前説すると、近代化概念(F)の一部である「暴力(戰爭)・平和・國際化・國際政治(國家と國家)」を、二元論(理想C/現實A)と言ふ「言葉への用法(so called・ソフトウェア・精神の政治學・言葉への距離測定:Eの至大化)」で、それを捉へろと言ふ事である。さうする事で、理想(C)ではともかく「現實(A相對)世界では、絶對(C)的平和(F)などどいふものはありえない」と言ふ、二元論的「so called・ソフトウェア・精神の政治學・言葉への距離測定(Eの至大化)」の考察が可能となる。又、「平和(F)とは常に暫定的なもの。戰爭の終つた後、或は始まる前に過ぎない。その程度の事」「國際政治の現實(A)は理性(B)の支配下にあらず。道德(B)的楽天主義の拂底」との、同じく二元論的「so called・以下同」の考察が可能となる。

關係論(西歐人の近代化適應正常)
⇒PP圖參照「神の解體と變形と抽象化」
kaminokaitaitohenkei.pdf へのリンク

*神(C)の死(西歐近代:場C‘)⇒からの關係〔①近代化(D1の至大化):神の解體と變形と抽象化〕⇒「②暴力(戰爭)・平和・國際化・國際政治」(①的概念:F)⇒②への用法〔二元論・必然惡的用法(so called・ソフトウェア・精神の政治學・言葉への距離測定:Eの至大化)〕。即ち、現實と理想の二元論的對應(Eの至大化)としての「平和(F)とは常に暫定的なもの。戰爭の終つた後、或は始まる前に過ぎない。その程度の事」と言ふ用法(Eの至大化)。「國際政治(F)の現實(A)は理性(B)の支配下にあらず。道德(B)的楽天主義の拂底」と言ふ用法(Eの至大化)⇒西歐人(△枠):①への適應正常(D1の至大化)。

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*といふ事で、更に考察を擴げると、今般のロシアによるウクライナ侵略も、上記「關係論」の、國際政治(F)への二元論と言ふ「距離測定・so called・ソフトウェア・精神の政治學(Eの至大化)」、具體的には「國際政治(F)の現實(A)は理性(B)の支配下にあらず」との捉へ方〔so called(Eの至大化)〕が、妥當とされる。そして、「法律的制裁」(P242上)役の國聯(F)も、現状に於いては、缺陥商品(常任理事國の選定方法・拒否権等)につき機能不全、が二元論に據る現實的見方(so called・言葉への距離測定:Eの至大化)と言へる。

 

〔三 必然惡としての暴力〕⇒PP圖參照「神の解體と變形と抽象化」kaminokaitaitohenkei.pdf へのリンク

〔難解又は重要文〕P242上~P243「 」内が恆存文。( )〔 〕内は吉野注。

  「強者である多數派の暴力を、それでいいといつてゐるのではない。ただ現實(A)と理想(C)とを混同してはならぬ〔即ち、二元論(Eの至大化)で見ろ〕といつてゐるのです」。(中略)  「私たちのなしうることは、現實論として、兩者(少數派・多數派)ともに認めなければならないといふことです。兩者〔社會黨(少數派)自民黨(多數派)〕の暴力(F)を肯定して、それを承知のうへで、いづれかを支持政黨として選ぶ(Eの至大化)といふことです。そのうへでの批判でなければなりません。つまり、暴力(F)そのものでなく、暴力の程度(E)が問題になる(Eの至大化)のであります。ここで當然、必然惡(Eの至大化)といふ問題が出てまゐります。必然惡(Eの至大化)といふ觀念なしには、私たち人間(△枠)は、自分(△枠)も生きられなくなるし、他人も許せなくなるでせう」。

〔四 潛在的多數派としての少數派〕⇒PP圖參照「神の解體と變形と抽象化」kaminokaitaitohenkei.pdf へのリンク

〔難解又は重要文〕P243~4「 」内が恆存文。( )〔 〕内は吉野注。

  「ところで、その必然惡(Eの至大化)といふ觀念が存在を認められるのは、一方に理想(C)があるからです。必然惡といふと、ばかに現實(A‘⇒A)主義的になりますが、現實(A’⇒A)主義一本でいけば、なんでも必然惡になつてしまふ〔相對(A‘⇒A)主義の泥沼〕。必然惡を眞の必然惡にとどまらしめるものは、他の極(C)に、強い理想(C)追求の念(B)があるからです(即ち:B⇒C)。その強い理想追求の念(即ち:B⇒C)が、私たちにあるかどうか。それが問題であります。少數派である社會黨に、またその暴力を非難するさらに少數派の知識人に、はたしてどんな理想(C)があるか。少數派(△枠)の生きかたといふことは、その問題と關聯して考へられねばなりません」(⇒PP圖參照『少數派と多數派』)。(中略)

「將來、現實化(A‘⇒A)しない、理想(C)を誰(△枠)が信じるものか(D1の至小化)。いづれは勝利者になり、多數派になることを願はずに、誰が少數派に甘んじられるか。大抵の人(△枠)がさういふ。絶對(C)的な〔即ち,相對主義(A’⇒A)ではなく〕少數派でゐられるのは、特に選ばれた精神的強(D1の至大化)者(△枠)だけで、それを民衆に強要するのはまちがひだといふ。つい最近、私は大宅壮一さんから『精神的貴族』(絶對C的な少數派)といふ名稱を頂戴した。もちろん、私は自分でそれほどのものとは思つてゐませんが、やはりさうなりたいと思つてゐることだけはたしかです。自分だけではない。私たちはそれを目ざさなければならないと思つてゐます。民衆にそれを求めなければならないと思つてゐます」・・・上記①②とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして、當文を索引として、此處でも、ロシアの「ウクライナ侵略」を考へてみる事とする。

*上文①の「暴力(F)そのものでなく、暴力(F)の程度(E)が問題になる(Eの至大化)のであります。ここで當然、必然惡(Eの至大化)といふ問題が出てまゐります」について・・・

上記①②の内容(本質論)は、将に「ウクライナ侵略」なる現象での説明が可能と思へる。

「ウクライナ侵略」問題は、恆存が謂ふ「神に型どれる人間の概念の探究」である、近代化(以下枠文參照)への蠻行・逆行・叛逆として、多數派(ロシア)に少數派(ウクライナ)が侵されてゐるのだ、と想定できる。

ロシア(プーチン)の「暴力(戰爭)の程度」は、相對(多數派/少數派)と言ふ平面上に於ける、ただの「國家的エゴイズム・惡徳」でしかない。上記「必然惡を眞の必然惡にとどまらしめるものは、他の極(C)に、強い理想(觀念上の絶對:C)追求の念(B)があるから」と言ふ、眞の必然惡には到底相當しない。此處にも「暴力(F)の現實論(Eの至大化)」(P243)的視點、即ち暴力(F)への「現實と理想の二元論的對應(so called・言葉への距離測定:Eの至大化)」が可能なのである。

その意味で、プーチンは「近代化適應異常」病を患つてゐると言へる。つまり「精神の近代化」が圖れなかつた結果が侵略の蠻行に露呈してゐる。飜つてウクライナ國家は、以下枠文で謂ふ「神(C)に型どれる人間の概念の探究」(強い理想C)としての、「近代精神」護持が爲に戰つてゐる、との想定が可能となる。

「神(C)に型どれる人間の概念の探究」とは「 」内が恆存文。( )〔 〕内は吉野注。

⇒PP圖參照「神の解體と變形と抽象化」kaminokaitaitohenkei.pdf へのリンク

 

*「萬人をその胸に救ひとる人格神が、その手をその脚を、さらにその胴體をもぎとられ、それらが制度化せられ機械化(A)せられる――で、神は人體を失つて、完全な精神としての抽象化を受ける。その精神が文學の領域(B)として殘されるといふわけだ」。

*「近代ヨーロッパは神を見失つた――が、それはただ神の解體と變形と抽象化とを意味するに過ぎぬ。まさにそのための手續きであり過程にすぎなかつたヨーロッパの近代精神とその政治制度・経済機構(A)」(『近代の宿命』全二P463P466)。

「神(絶對C)なくして個人(相對)の權利(エゴ)を主張しえない(眞の必然惡たり得ない)。それをあへてなすことは惡徳である」(『近代の宿命』)。

關係論:神(C)の死(西歐近代:C’) ⇒からの關係〔①近代化(D1の至大化:神の解體と變形と抽象化)〕⇒「②:ヒューマニズム・民主主義・個人主義 等」(①的概念F)⇒②への用法〔③:言葉への距離測定・so called ・ソフトウェア・精神の政治學:Eの至大化〕⇒國及び國民(△枠):①への適應正常。

 

*「フランスのレジスタンス(中略)の自我の強烈さの底には援軍を信じてゐる人々の強さがあつた。フランスの市民もさうですが、自分をも市民をもひつくるめて、ひとつの絶對(C)に支へられてゐるといふことです。それはクリスト教(C)です。(中略)そのクリスト教から習慣づけられた永遠(C)なるもの、絶對(C)的なるものへの信仰であります。私たちにとつて重要なことは、それが國家意識、あるいは愛國心〔神(C)に型どれる人間の概念〕と結びつくといふことです。國家も社會もじつはそれ〔ひとつの絶對(C)〕によつて支へられてゐるのです」(全三P77『個人と社會』)。

*「アメリカを筆頭とする自由主義諸國は、たとへ現状では國際間にまで倫理が通用しなくても、本質的には個人倫理の延長に社會や政治を考へてゐる國です。兩者は永遠に一致しないかもしれない。しかし、いや、それゆゑに、個人倫理の次元を、根源的には宗權を國權の上位に置く、すくなくとも同位に置く、人間觀にもとづいてをります。間違ひは犯しませうが、本質な生きかたについては、昔から何の變更もありません。が、ソ聯(即ちプーチン野望は舊ソ聯囘歸)は國家目的、社會目的、階級目的を個人倫理の上に置きます。後者は前者によつて規定されます。私は躊躇なく、自由主義諸國に共感をおぼえる」(全三P79『個人と社會』)。

*しかし、現實問題として、NATO、米國、日本を含むG7、西側自由主義諸國は、ウクライナ國家を救出できるのか。逆説的に、俱に天(C)即ち「神(C)に型どれる人間の概念」としての近代化を抱く、同胞「ウクライナ」を、是等西側諸國は見捨てる事が出來るのであらうか。「最大多數の最大幸福」を選擇せざるを得ない政治の現實論は、結局、ウクライナ國家を「フィンランド化・衞星國化」で、ロシアとの妥協策として、手を打たざるをえないのではなからうか。

言葉を換へていへば、先述關係論(西歐人の近代化適應正常)(以下に再掲載)の、「二元論(現實/理想)」的用法(言葉への距離測定)に、ウクライナ「放棄」をも「歐洲平和(F)」の近似概念として適用し得るのかと言ふ事。即ち、「神に型どれる人間の概念」客體化なる近代化(D1の至大化)として、「ウクライナ放棄(F)⇒眞の必然惡(二元論的選擇:Eの至大化)」の圖式が成立すると言ふのであらうか。「放棄(F)」は、政治の冷嚴たる現實論「九十九匹」(最大多數)選擇、との理窟で大手を振つて天下を罷り通るのか。

關係論(西歐人の近代化適應正常)

*神(C)の死(西歐近代:C‘)⇒からの關係〔①近代化(D1の至大化):神の解體と變形と抽象化〕⇒「②暴力(戰爭)・平和・國際化・國際政治」(①的概念:F)⇒②への用法〔二元論・必然惡的用法(so called・ソフトウェア・精神の政治學・言葉への距離測定:Eの至大化)〕、即ち、現實と理想の二元論的對應(Eの至大化)としての「平和(F)とは常に暫定的なもの。戰爭の終つた後、或は始まる前に過ぎない。その程度の事」と言ふ用法(Eの至大化)。「國際政治(F)の現實(A)は理性(B)の支配下にあらず。道德(B)的楽天主義の拂底」と言ふ用法(Eの至大化)⇒西歐人(△枠):①への適應正常(D1の至大化)。

 

*「必然惡を眞の必然惡にとどまらしめるものは、他の極(C)に、強い理想(C)追求の念(B)があるからです〔即ち:二元論(現實/理想)〕」(243)。

しかし、その場合、側面支援で體よく見捨てられたウクライナ國家は、結局「少數派」としての宿命、次項『絶望ののちに』の選擇へと赴かざるを得ない、と言ふ事になるのではなからうか。

此處に、NATO・米國(延いては西側諸國)には、「強い理想(C)追求」が故の「眞の必然惡」選擇として、幾つかの選擇肢(以下)が考へられて來る。だが、策謀家プーチンは、バイデンの弱腰を當に見抜いて、以下①選擇を見越してゐるのでは。

〔「神(C)に型どれる人間の概念」(強い理想C)追求が故の「眞の必然惡」選擇とは〕

 

  ウクライナ「放棄(F)」を「歐洲平和(F)」概念(歐洲的エゴイズム)として適用。即ち、ロシアとの妥協策として、ウクライナを「フィンランド化・衞星國化・中立化」で手を打つ。

  ウクライナ「平和(F)」の爲、暴力(戰爭軍備:F)支援を、飽くまで側面援助として續ける⇒少數派ウクライナは敗北し、次項『絶望ののちに』を選擇⇒上述「フランス的レジスタンス」化として泥沼化。

  暴力(戰爭軍備:F)側面支援と「經濟金融制裁」效果で、希望的観測として、將來的ロシア撤退か?

  ウクライナ戰線は、普遍的價値「自由民主主義」の橋頭堡として、NATO・米國の前戰參加⇒第三次世界大戰突入のリスク。

  他には?

假説として、上記①②③の結末で、NATO・米國は、ロシアの「國家的エゴイズム」を批判出來るのか。それでは、『ブダペスト覺書』(ウクライナ核放棄と引き換への米英露による安全保障:1994年)を、ロシア同樣、米英は踏みにじった上での黙殺となる。つまりは、重複するが、NATO・米國も歐洲(最大多數)戰爭に波及するを恐れて、ロシア同樣の『國家(歐米多數派)的エゴイズム』でウクライナ(少數派)に對處した事に他ならない。「放棄(F)は必然惡(二元論的選擇)なり」は、逃げ口上にしか過ぎない。自己瞞着・自己欺瞞、即ち、暴君プーチンと同じ穴の狢である。

とどのつまり、歐米は、ウクライナへの軍備物資側面援助でお茶を濁しての、下手な「必然惡」演技とロシアへの「兵糧攻め」。それで、前場の幕は降りると言ふ事になるか。

否!「目(暴力)には目(暴力)を」で、「JFケネデイ的覺悟(キューバ危機)」を踏襲してでも④を選擇し、同じ普遍的價値を仰ぐ、民主主義國家「ウクライナ」を救出しなければならぬ。NATO・米國・西側自由主義陣營の總力で、「神に型どれる人間の概念」(即ち「神の解體と變形と抽象化」)の近代化に叛逆する、プーチンの野望野心(スターリニズム)を、完膚なきまで打ち砕き、葬り去らなければならない。それこそが暴力(參戰:F)への「眞の必然惡」(so called:二元論的選擇)なのではなからうか。⇒以下枠文參照

〔評論『戰爭と平和と』:全三P56〕

*「力の政治は力によつてしかおさへられません。原水爆をおさへうるのは、おそらく署名運動ではありますまい。私たちにできることは、徹底的に敗けるか徹底的に勝つか、この二つのどちらかであります。それが西洋の文明のありかただと私は信じてゐます。『カイゼル(A)のものはカイゼル(A)へ』といつたイエスは、さういふ文明のアイロニーを的確に感じてゐたのです」。

“野心ばかりが飛び跳ねたがる。飛び乘つたがいいが、鞍の向う側に落ちるのが關の山か”(マクベス科白)の、苦い悔恨を、プーチンにもこの際タップリと味ははせるのだ。他の全體主義國家、専制主義者共の腦裡にも、この「叛逆者末路」の映像をしつかり焼き付ける。さもなければ、「習近平」等、第二プーチンの登場を世界は招く事となる。


 

〔五 絶望ののちに〕

PP圖『少數派と多數派』參照shousuha.pdf へのリンク

〔難解又は重要文〕P245「 」内が恆存文。( )〔 〕内は吉野注。

*「眞の意味の少數派(△枠)は、自分が少數派か多数派かといふ勘定を、さうは氣にしないはずであります。かれ(△枠)にとつて最大の問題は、自分の行動(D2)に論理の筋(B精神⇒C絶對的概念)を通すといふことにあるのです。その結果、敗けても勝つても、しかたはない〔相對(A‘⇒A)は意に介さず〕。今は敗けても、いつかは、あるいは、自分の死後にでも、自分の主張が容れられるときがくるかもしれない。それとも、永遠に自分の敗北に終るかもしれない。自分がまちがひを犯したのかもしれない。それでもいい(結果は問はない)、まちがひはまちがひなりに、自分の行動に筋が通つてゐれば〔とは、神(絶對C)との黙契(B精神⇒C絶對的概念)に據る行動との確信があれば〕、さう考へるはずです」・・・文中「自分の行動(D2)に論理の筋(B精神⇒C絶對的概念)を通す」云々、とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして更には以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。

PP圖『少數派と多數派』參照 shousuha.pdf へのリンク

 

*「行動(D1)に論理の筋(B精神⇒C絶對的概念)を通す」とはつまり、上述注の、神(絶對C)との黙契(B精神⇒C絶對的概念)に據る行動との確信があれば、「敗けても勝つても」の相對(A‘⇒A)不安や孤立感に惑はされず、以下文(『日本および日本人』)に於ける「連帶感」を獲得できる事を、それは示す・・・

*「(相對主義の世界では)隣人との縁が切れれば、その向うにゐる多數者である赤の他人とは、どうにもつながりやうがないのです。さうなれば、個人はそれぞれ孤立します。さびしくてたまらない。それに反して、もし上空の一點(C:觀念上の絶對)とのつながりを得(B精神⇒C絶對的概念)さへすれば、各個人(△枠)は、それぞれの隣人〔價値觀非共有者(△枠)〕を飛び越えて、遠く廣く、他の多くの人間(BC共有者・共同體:別△枠)とつながる。もちろん、その一點(C:觀念上の絶對)が萬人共有のもの(C:神・天・空・全體)で、ひとりひとりがその點(C)に結びつけられてゐる(B⇒C)といふ前提のもとにおいてであります。さうすれば、めいめいの個人の間に直接の線が引けなくても、上空の一點(C)を經て、どこにでもつながる(人類愛・博愛:B)可能性が出てきます。個人は平面上(A‘⇒A)では孤立しても、間接(B精神)には孤立してゐない(B⇒C)といふことになります。個人主義が發生しうるわけであり、また個人主義(孤獨の思想)にたへうるわけでもあります(『日本および日本人』全三P201)

 

〔難解又は重要文〕P245「 」内が恆存文。( )〔 〕内は小生注。

*「それでは救ひがないといふ人が出てきませう。が、當人は、神の救ひを信じてゐるでせうし、また、神の罰を信じてゐるでせう。救つてくれるにせよ、罰するにせよ、かれはその神に信頼してゐるでせう」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。つまり、以下の( )〔 〕小生注を恆存は謂はんとしてゐるのではなからうかと判斷する。

「それでは救ひがないといふ人が出てきませう。が、當人は、神(絶對C)の救ひを〔神(絶對C)との黙契(B精神⇒C絶對的概念)に據る行動への救ひとして〕信じてゐるでせうし、また、神(絶對C)の罰を〔やはり、神との黙契(B精神⇒C絶對的概念)に據る行動への罰として〕信じてゐるでせう。救つてくれるにせよ、罰するにせよ(さういふ相對を絶したものとして)、かれはその神(絶對C)に信頼してゐるでせう〔即ち、絶對(神C)との黙契とは、行動結果の「救罰=相對」は問はず、それを享受する事であり、信ずる(D1の至大化)とは、「救罰」を神(絶對C)の神意(D1)として兩方とも受け容れるといふ事〕」。

 

〔難解又は重要文〕P245「 」内が恆存文。( )〔 〕内は小生注。

*「クリスト教の神(絶對:物:C)は、西歐人にさういふ性格の強さを教えた。がクリスト教にかぎりますまい。もし私たちが現實(A‘⇒A)をはつきりみつめるならば、なにかそれに似た、自己の一生以上のもの(絶對C)を、あるいは國や民族の歴史(相對)以上のもの(絶對C)を信じなければ(D1の至大化)、とても(相對・平面:A‘⇒A、だけでは)あほらしくて生きていけないことを知るでありませう」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして更には以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。      

*參照⇒「國家も社會もじつはそれ(ひとつの絶對:C)によつて支へられてゐるのです」(『個人と社會』:全三P77)

 

*上述の論究を「關係論」で捉へると以下の樣になる。

(PP圖『少數派と多數派』參照shousuha.pdf へのリンク

 

關係論

*①神(絶對概念:物:C)⇒からの關係:①に「②信頼してゐる」〔即ち神の「救ひ&罰」をも神意(D1)として信じてゐる(D1の至大化)事〕⇒③行動(②的概念:F)⇒③に筋が通つてゐる〔絶對神を信じ相對を問はず(③との距離獲得:Eの至大化)〕⇒少數派(△枠):①への適應正常。

 

〔難解又は重要文〕P246「 」内が恆存文。( )〔 〕内は吉野注。

*「諸君が國際間(F)の緊張に絶望感を抱いた(Eの至小化)なら、いや、本當に絶望感をいだいた(Eの至小化)なら、むしろ、それこそ好機(Eの至大化)といふべきで、そこから弱者=少數派(△枠)にとつて、なに(物:場 C)が必要か(前段P245内容)を學びとるべきです。『神も佛(觀念上の絶對:C)もないものか』といふ事態〔即ち『物質で解決できぬ精神の惱み』(以下枠文參照)〕に直面して(D1の至小化)、はじめて私たち(△枠)は神や佛(觀念上の絶對:C)を必要とする條件〔即ち『物質で解決できぬ精神の惱み』〕を具備(D1の至大化)したといへるのですから。その絶望感(D1の至小化)を乘りこえた(D1の至大化)もの(△枠)にして、はじめて平和や愛の理想〔相對(A‘⇒A)概念を脱出したものとしての(C)〕を語りうる(D1の至大化)のです」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして更には以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。

《神佛(觀念上の絶對:C)と「絶望感」(第一段階)及び「行動」(第二段階)との關係》

 

*〔第一段階〕「絶望感こそ好機」
(⇒PP圖參照「神の解體と變形と抽象化」kaminokaitaitohenkei.pdf へのリンク

關係論:①神佛(觀念上の絶對:C)⇒からの關係:①を前にしてはじめて「②:平和や愛の理想〔相對概念を脱出したものとしての(C)〕を語りうる」(D1の至大化)⇒とは即ち「③:國際間(F)の緊張(暴力:②的對立概念F)⇒E:③に妥協し「眞の必然惡」選擇(so called:二元論的選擇)も出來ず「④:本當に絶望感〔即ち『物質で解決できぬ精神の惱み』〕をいだいた(Eの至小化)なら、むしろ、それこそ好機。その絶望感を乘りこえてこそ(Eの至大化)、なに(物:場 C)が必要か(以下「第二段階」)を學びとる」(Eの至大化)(③への距離獲得:Eの至大化)⇒弱者(少數派:△枠):①への適應正常。

*〔第二段階〕「行動に論理の筋を通す」(前段P245内容⇒PP圖參照『少數派と多數派』)

關係論①神(觀念上の絶對:C)⇒からの關係:①に「②信頼してゐる」〔即ち神の「救ひ・罰」をも神意(D1)として信じてゐる(D1の至大化)事〕⇒③行動(②的概念:F)⇒③に論理の筋を通す(Eの至大化)〔とは、神(C絶對)との黙契(D1の至大化)は、行動の結果「救罰即ち相對」を不問かつ享受、意に介さず。:③との距離獲得(Eの至大化)〕⇒少數派(△枠) :①への適應正常。

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《參照文》

*「ぼくたち(日本人)のうちのなんぴとが物質で解決できぬ精神の惱みをもつてゐるだらうか」(P632『現代人の救ひといふこと』)。

*「ぼくたちがそこから救はるべきいかなる地獄をももたぬ(とは上項「物質で解決でき」る問題しか抱へてゐないと言ふ事)」(P633『現代人の救ひといふこと』)。

*「眞に絶望しえぬことの悲しみは、じつはぼくたち(日本人)が神(C)をもたず、ゆめ(C)をももちえぬこと〔即ち、相對主義(A‘⇒A)の泥沼に徘徊してゐる〕」(P637『現代人の救ひといふこと』)。

 

*〔絶望について〕(恆存著作『人間の生き方、ものの考へ方』より)

〔難解又は重要文〕P104「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

「私は絶望といふものがあらゆるものの出發點(場 C‘)だと思ふのです。人間(△枠)といふのは絶對孤獨〔『個人(△枠)はついに愛し得ない(D1の至小化)』(DHロレンス)〕であつて、人と人との間(關係:D1)に最終的には架ける橋はない(D1の至小化)といふのが私(恆存)の人間觀(物:場 C‘)です。人間(△枠)はエゴイスティック〔(D1の至小化)&(A)〕なもので、本當は自分のこと(物:場 C‘)だけしか考へてゐない(D1の至小化)のだといふことを、一度痛切に見つめる(D1の至大化)ことが大切です。さうすると、人間(△枠)といふものは非常に惡いもの(D1の至小化)のやうに思はれますが、私はそのエゴイズム(A:集團的自我)といふものが、生きる力、生命のエネルギー(A)だと思ひます。(中略)人間(△枠)の中に潛むエゴイズム(A:集團的自我)をもう一度見直し(D1の至大化)た方がよいのです。(中略)人間(△枠)の中に潛んでゐる利己心(A:集團的自我)をじつとみつめる目がないオプティミズム(D1の至小化)が、すべての僞善(ルサンチマン「弱者の歪曲された優越意思」:A⇒Bすり替へ)の源になると思ふのです。プラトンが「意識(B)してやる僞善よりも意識しない(A無意識)でやる僞善の方が惡い。意識(B)してつく嘘より意識しない(A無意識)でつく嘘の方が惡い」といつたのは本當だと思ひます。(中略)人間(△枠)と人間(物:場 C‘)の間(關係:D1)に架ける橋はない(D1の至小化)と考へます。(中略)人間(△枠)はどんなこと(物:場 C‘)を仕出かす(D1の至小化)か分らないのだといふところ(場 C‘)から出發して、始めて自己(物:場 C‘)と戰ふといふ工夫(D1の至大化)が出て來るわけです。本當の意味で人(物:場 C‘)を愛しよう(D1の至大化)といふ氣持ち(他者愛・隣人愛:個人的自我B)も出て來る。言葉による傳達は不可能(D1の至小化)だと痛感〔とは、前出『(關係D1を形のある物にして見せる)言葉(F)には傳達可能(D1の至大化)な領域(五感で認知出來る部分)と、孤獨(關係D1缺如)な相互に連絡のない(D1の至小化)部分がある』と言ふ事〕する時、始めて言葉(F)に心をこめる〔關係(D1の至大化)を形のある物にして見せる(Eの至大化)〕やうな眞劍な努力(Eの至大化)が出て來るのだと思ひます。私が絶望(D1の至小化)だと言ふ時にはこれで終り(D1の至小化)だといふのではなく、これから何かやり甲斐のある(B⇒C的)仕事をはじめる(D1の至大化)といふ出發點(場 C‘)を意味してゐる(D1の至大化)のです」。

 

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