〔当HP:目次〕

『小説の運命�供�『理想人間像について』『チェーホフ』『批評家の手帳』 『告白といふこと』
『自己劇化と告白』『近代日本文學の系譜』『獨斷的な、餘りに獨斷的な』
等から探究。
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《此處が解りにくい福田恆存》編:第二彈

平成十七年八月

吉野櫻雲:論考


《「口邊に苦笑をうかべる」東西文人:その時代的差異》
(恆存評論を索引にして)


〔アイロニー(二律背反)があらはになる時代〕
「人生はつねにアイロニー(二律背反)をその底にひめてゐる。ただそれがたまたま他の時代よりも現象的にあらはになる時代があり、またさういふ場合がある」と恆存は言ふ。(全五P44『批評家の手帖』)。
そして「あらはになる時代」には、文人の「口邊に苦笑をうかべる」行爲も、やはり際だつ
て其處に讀み取れるのである。・・・
「あらはになる時代」とは、理想(C:絶對・全體)或いは個人的自我(B)と、現實(A:集
団的自我)の強烈な對立的時期と言ふ事であらうか。
即ち、
� ゥ襯優汽鵐拘�・・・自由と宿命の對立(アイロニー・二律背反)期。即ち「解放されて仕へるべきものを失つた自我の不安」の到來(ルネサンス=中世―神=自由)。
�◆ダ象振畭紂辺蜍�精神)・・・集團的自我(A至大)>個人的自我(B縮小)の構圖。
��.日本:「?外(明治)の時代」・・・西歐近代(��參照)と、前近代明治(精神主義)の對
立。がそれに當たる。

恆存は言ふ。�△寮象振畭紂兵鷹�主義時代)に於いて、選澤せざるを得なかつた方法論
が、「いはば苦しまぎれの方法」としてのリアリズムだつたのだと。
その苦しまぎれの十九世紀的方法論が、フローベール・チェーホフをして、やはり近代が
抱へる事となつたとも言へる、時代的アイロニー(二律背反)としての「ボヴァリズム」「獨り合點」(いずれも本能の萎縮形態)を、彼等に命題として描かせたと考へられるのである。
何故「ボヴァリズム・獨り合點」が「本能の萎縮形態」であるかは、「チェーホフ(當論P8)」の項目で述べる。(參照:P614:全一『小説の運命�供戞�
以下これより、さうした事柄を各文人に通ずる「キーワード」、即ち「夢想」・「現實」・「アイ
ロニー」等を用ゐて、恆存はどのやうに捉へたかを此處に探求してみる事とする。

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《以下、テキスト活用に際しての分類及び略号化》・・・恆存の「二元論」的捉へ方。
「支配=被支配の自己」・集団的自我・「九十九匹」・實生活・政治・・・・・・・・・・A
神に從属する自己・個人の純粋性・個人的自我・「一匹」・芸術・文學・・・・・・・・B
全体・絶對・神・「自然」(自己を超えたるものの何か)・「夢想」・・・・・・・・・・C
場(場面)・自己完成・自己全体化・自己主人公化・個人主義化・・・・・・・・・・・C"
詩神(自己への肯定因・「C":自己完成」の後盾・自家撞着として)・・・・・・・・・C2
關係・宿命・神意・天命・秩序・文化・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・D1
自己劇化(附き合ひ方)・演戯・自由意志・自己主張・信仰・・・・・・・・・・・・D2
實在感・必然感・全体感・生き甲斐・充實感・・・・・・・・・・・・・・・・・・D3
言葉と話し手との間の距離(把握手段:フレイジング・So called)・・・・・・・・・E
 注:(Eの至大化=D1の至大化=適応正常)
言葉・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・F
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《恆存は上記「二元論」的概念で以下の文人及び作品登場人物をかう捉へた》彼等にお
けるCとは、Bとは、Aとは、そしてその對立から現出するアイロニーとは・・・。(フローベ
ール以下、各項目の詳細説明は下欄)

      表:二元論的概念を基にした各文人別比較touzaibujinhikakuzu.1.pdf へのリンク

《注意》
以下文中、括弧内(A)(D2)(甲・乙圖)等は、「『福田恆存を讀む會』テキスト」をご參照
下さい。 尚( )内の殆どは小生の「注」であります。
「『福田恆存を讀む會』テキスト」
 http://www.geocities.jp/sakuhinron/yomukaitekisuto.pdf
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上表:【アイロニー的情況と「口邊に苦笑をうかべる」事の効用
では、「口邊に苦笑をうかべる」或いは「笑ひ」は何處より来たるか。それはアイロニーを
視る處から發生する。人生における、夢想(C)を追ふ自己(B:個人的自我)と現實に堪
へる自己(A:集団的自我)と、その間隙に生ずるアイロニーが、客觀視せられる處から
それが發生するのでは。恆存は言ふ「精神的と物質的」「自由と機械的動作」「夢想と常
識」なるものの對立からそれらは惹き起こされると。(參照:P615:全一『小説の運命
�供戞�
日本の「私小説作家」のやうに現實(A)から逃げるのではなく、「實生活(A)の場で解決
すべき問題は實生活において處理」(全一P20『近代日本文學の系譜』)せんとして、現
實のしがらみに堪へ、かつ自己の「夢想が現實の生活でみじめにふみにじめられてゆ
く」危機にも直面しながら、それにも堪へてゐる。さうした桎梏に晒されてゐる自分を客
觀視せられる時、「口邊に苦笑をうかべる」或いは「笑ひ」が發生するのでは。さうした時
笑ふ事によつて、作者もそして讀者も「現実の人生に耐へみずからを救ふ」のである。
恆存の他評論(演劇關係)に於ける表現を借りて言ふならば、現實と言ふ「場」に沈湎
(癒着)してゐる自己を、「口邊に苦笑をうかべる」と言ふフレイジング(或いはSO 
CALLED )的行爲を利かせる事によつて、そのアイロニーを自己所有化(客體化)する
のである。さうする事で「言葉(及び場)と自己との距離測定」が出來る。即ち、自己と場
との沈湎(癒着)關係を代言する「桎梏」と言ふ言葉との距離間隔が、フレイジングによ
つて開き、それによつて言葉(「桎梏」)の自己所有化が可能となり、結果そのアイロニー
的情況(場との關係)を笑ふ事が可能となるのである。
しひては自分の心に風穴を開け「心の強張りを解く」事が可能となる。さうした救ひの効
用が「口邊に苦笑をうかべる」事にはある、といふ事であらう。さう言へば、恆存はユーモ
ア(humor)について書いた文に、「心の風穴を開け心の強張りを解く」效果がそれには
ある、と言つてゐた記憶がある。 
それを恆存の「演劇論と人生論の一致(役者修業は人間修業)」の側面から言つてみれ
ば、「口邊に苦笑をうかべる」或いは「笑ひ」の行爲は、ジレンマに藻?き捉はれてゐる現
實(場面)との關係を、自分に客體的に「形ある『物』として見せる」事を可能とする。上記
現實との關係を代言する「桎梏」と言ふ言葉と自己との間に、「口邊に苦笑をうかべる」と
言ふフレイジング(SO CALLED )を入れて間隙を大きく開ける事で、それと比例して場
面(現實)との癒着關係も大きく間隙が開く事に繋がるのである。ユーモア(humor)が持
つ救ひの効用が「口邊に苦笑をうかべる」行爲で、そこに發揮されると言ふ事になる。
「桎梏」に捉はれてゐる「心に風穴を開け、心の強張りを解き」、場面との沈湎から免れ
る。言葉との距離に風穴を開ける事が、沈湎關係にも風穴を開け、心にも風穴を開け
る。演劇論から言ふと、「口邊に苦笑をうかべる」と言ふフレイジングによつて、何(「桎
梏」)の裏にある潜在物としての何故(無意識的「沈湎・捉はれ」)を「形ある『物』として」
意識上に浮き上がらせて見せる事が出來たのである。(参照:『醒めて踊れ』『せりふと
動き』)
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と言ふ事で、「口邊に苦笑をうかべる」効用を、以下各文人別に比較してみる。
《フローベールにおける以下の項目》:「C・B・A・アイロニー」
かの「セルバンテス」の騎士道(C)・ドンキホーテ(B)のやうには、「フローベール」では、
夢想(C)も個人的自我(B)も作品には登場しない。
ただそれら(C・B)は「作品の裏がはからあのリアリスティックな無表情の記述の保證に
立つてゐるにほかならない」、と恆存は言ふ。(參照:全一P611『小説の運命�供戞�
上表:【フローベールの夢想(C)或いは夢想的要素】
*世紀末の天才達は「個人の純粋性(B:個人的自我・精神)」を「集団的自我(A)」に移
行し實證科学の對象になどしなかつたと言ふ事だ。あくまで個人の純粋性は「一匹(B)」
としての静謐を保ち「C(夢想:絶對・全體)」に繋いだ。フロベールもチェーホフもドストエ
フスキーもロレンスもニーチェもそしてボードレールも。

*夢想(C)が「一片の虚妄にすぎぬと承知してゐればこそ」とは、別な言ひ方をすれば、
神(夢想C)の存在證明(不在證明も)は實證主義(リアリズム)では結局出來ないから、
恆存が言ふ處の「かれは自己の理想人間像(C:夢想)を語りはしなかつた」と言ふ事で
はなからうか。(參照:全二P475『理想人間像について』)

上表:【夢想(C)を追ふ自己:個人的自我(B)】
フローベールの夢想とは・・・
「十九世紀末葉から現代にかけて、かれらの精神が『現代人の救ひ』を求めつつ漂泊を
つづけてゐるとすれば、それは實證主義がかれらの自我のうちから追放した神に型どれ
る人間の概念の探求でなくしてなんであらうか」。(全一『現代人の救ひといふこと』)
「フローベールのリアリズムとはまさにそれである。―― 一片の虚妄にすぎぬと承知し
てゐればこそ、かれは自己の理想人間像(C:夢想)を語りはしなかつたのであるが、同
時に、その理想人間像があつたればこそ實證精神をしてあれほどまでに自我(代理「A」
としてのボヴァリー夫人)を斬りさいなむことを許したのである」(全一P475『理想人間
像について』)
「かれらの夢想してゐた自我の内容の高さと深さとに想ひいたらねばならず、その背景
に発見されるものは神(C)」なのである。と恆存は言ふ。(參照:全一P637『現代人の
救ひといふこと』)しかし、作品には登場しない。ただそれら(C・B)は「作品の裏がはから
あのリアリスティックな無表情の記述の保證に立つてゐるにほかならない」と。故に「素
朴な讀者は、ドン・キホーテ(B)とサンチョ(A:常識)とを竝列してくれなければ笑ふすべ
を知らず、しかたなく人生訓を抽出して氣をよくしてゐるといふしまつ」なのが、フローベ
ール讀者の現實なのである。(參照:全一P614『小説の運命�供戞�


上表:【現實(A):集団的自我(クリティックな場)】
〔リアリズム小説〕・・・
「かれの實證主義的な批評精神はその作品からあらゆる夢想(C)を放逐した」。(P61
1『小説の運命�供戞�
「理想人間像(C:夢想)があつたればこそ實證精神をしてあれほどまでに自我(ボヴァリ
ー夫人=代理A)を斬りさいなむことを許したのである」(『理想人間像について』P475)

彼等は甘んじて、「十九世紀の個人主義的リアリズム」による自我の否定にさらされなが
らも、「つひに否定し扼殺しきれない個人の純粋性(B)を發見することを念じて」ゐた。
(全二P269『作品のリアリティーについて』)「かれらの夢想してゐた自我の内容の高さ
と深さとに想ひいたらねばならず、その背景に発見されるものは神(C)」なのである。
(全一P637『現代人の救ひといふこと』)

上表:【アイロニー的情況(「口邊に苦笑」・笑ひを惹起する内容:具體的情況)】
*フローベール小説の「ドンキホーテ(B)のゐないサンチョ(A:常識)ばかりの世界で
は、讀者はただあくびの誘惑を感ずるだけの話である」。「あの異常を排したプロゼイッ
ク(平凡)な作品に苦笑を讀みとる」には、彼の「夢想(C)を索引とするときにのみ、そこ
に笑ひが登場する」のだと恆存は言ふ。「フローベールほど激しい夢想家(B→C)はゐ
ない」と。(P614〜5『小説の運命�供戞�

*十九世紀實證精神により、かつてBの領域であつたものが、尚更にA上に移行した。
フローベールは、その自我(「ボヴァリー夫人」=代理「A」)が獲得できた個人主義の自
由を、「現実世界で獲得できた自由のいかにつまらなく、それがあまりにつまらぬために
自由でもなんでもない」と斬りさいなみ、ボヴァリー夫人をして「個人の敗北を身をもつて
敗北」させてみせる。其處にフローベールのアイロニー的情況が現出するのである、と恆
存は言ふ。
フローベールは「あらゆる夢想(C)を放逐した」作品を書いてしまつたが
爲に、『ボヴァリー夫人』でA上に転移させた「自分の夢想(C)が現實(A)の生活でみじ
めにふみにじめられてゆくばあひ、あへてこれに反抗することもなく、といつて無神経に
これに忍從するのでもなく、(中略)残された唯一の望みといふのはさういふ自分(即ち、
リアリズムの爲に、個人的自我が『一分の隙もない天窓』に追ひつめられた情況になつ
た自分:吉野注)を笑ふ」しかなくなるのである。
それは何故か。「一分の隙もない天窓」に追ひつめられたアイロニー的情況に閉じ籠もり
ながら、しかも「つひに否定し扼殺しきれない個人の純粋性(B)を發見することを」ひた
すらに念じるが爲なのである。
かかるコントラストが明確な、そしてアイロニーが極め付きな情況であればあるほど、そ
れが「口邊に苦笑をうかべる」の好個の對象となりうる。將にアイロニーが「たまたま他
の時代よりも現象的にあらはになる時代」の形として、其處に際立つて現出してゐたの
である。
自分を笑ふことによつて「われをもひとをも許し救はん」と。さうすることで人は「現實の
人生に耐へ、みずからを救ふ」のだ、と恆存は言ふ。(P614:全一『小説の運命�供戞�

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《チェーホフにおける以下の項目》:「C・B・A・アイロニー」
上表:【夢想(C)或いは夢想的要素】
「無執着」「底意のない眼」はその意か、即ち夢想(C)的要素として・・・
十九世紀「個人主義の限界」、「実證主義からの脱皮」がチェーホフにはあると言ふ事で
あらうか。
「トルストイがかれを『空家』にして去つた」、その空家(神不在)に、クリスト教の代はりに
「教養ある自由人の観念」「無執着」が引越してきたと恆存は言ふ。(全二P179『チェー
ホフ』)

とは、チェーホフは、個人の純粋性(B:個人的自我・精神)を、A(集団的自我・合理の
世界)に移行し、實證科学の對象にはしたが、実證主義の限界(「現実を正しく認識しよ
う」)を超えて、「個人の純粋性」を賣り渡しなどしなかつたと言ふ事だ。チェーホフを含め
世紀末の天才達は、「現実のうちに正しく生きよう」といふ問題の優先性を見抜き、あくま
で個人の純粋性は個人的自我(B)としての静謐を保ち、絶對・全體(C)に繋いだ。チェ
ーホフのみならずフロベールもドストエフスキーもロレンスもニーチェもそしてボードレー
ルも。と言ふ事では。(參照:全二P266〜『作品のリアリティーについて』)


上表:【夢想(C)を追ふ自己:個人的自我(B)】
リアリズム小説の特徴である、「本人の意識を無視して、物としての彼をとらへうるといふ
盲信は、實證科学からの影響であらう。私たちはまだそれから自由になつてはゐない」。
しかしチェーホフには其處からの脱皮がある、と恆存はいつてゐるやうである。
かやうに言ふ。
「寫實を口にする資格があるのは、さういふ底意のない眼だけである。人間を寫しとらう
とするなら、それを物として寫しても始らぬ。その意識を寫しとらねばならない」と。
その事は何を意味するかと言へば、チェーホフはトルストイが去つた精神(B)の「空家
(神不在)」に耐へ、「精神を物として捉へる」實證科学に「空き家」を賣り渡すのではな
く、創作的方法論としてはフローベールと同じくリアリズム的手法を用ゐながら、個人的
自我(B)はフローベールの夢想(クリスト教)ではなく、それを無執着(C)へと繋いだと言
ふ事であらう。
即ち、実證主義は精神を合理(A)の世界に引き出し、「その意識を寫しとらず」それを物
として捉へ分析する愚を冒した。さうした十九世紀個人主義が突き当たつた実證主義の
限界(「現実を正しく認識しよう」)を超えて、チェーホフは精神を物としてではなく、意識
(「自分はさうありたい」といふ意識:自己解釈するもの:D3)としてそれを捉へたのだ。と
恆存は言ふのである。

その意識(「自分はさうありたい」といふ意識:自己解釈する意識:D3)は、
実證主義の限界である「現実を正しく認識しよう」ではなく、「現実のうちに正しく生きよ
う」即ち、「真実を知ることではなく、真実にゐようとする僕たちの素朴な欲求は――それ
が今日においてもなほ消滅しないものであるかぎり――もはやいかなる学問によつても
應へられぬのである」と言ふ「近代自我(個人主義)の限界」と關聯してくるのである。
(『作品のリアリティーについて』)

其處からチェーホフの「寫實」は發してゐて、その爲に「精神を物としてとらへる」のでは
なく、精神の働きである意識の動きを對象とした、と言ふ事になるのである。チェーホフ
が言ふ「在るがままに描いた」は、「D3:自己解釈」と言ふ意識を「在るがままに描いた」
と言ふ事なのである。
それをA上(合理の世界)に物として描いてゐると、當時の批評家や讀者が錯覚して、チ
ェーホフの寫實の意味と方法を理解が出來なかつた、と恆存は言つてゐる。(全五:P7
7『批評家の手帳』)
叉このやうにも、「チェーホフ戯曲の登場人物はほとんどすべて自己解釈(獨り合點:
D3)を行つてゐる。劇の始めから終りまで自己解釈だけしかしてゐない。それだけが自
分の生甲斐(D3)だとでも言つてゐるかのやうだ」と。(同上)
チェーホフは「底意のない眼」を持つてそれを描いたのである。

注:
人間の精神が持つ二つの意識(D2とD3)の特徴を、恆存は諸評論にて強調してゐ
る。・・・
◎自己劇化(D2)=「物事を實際とは違つたふうに見ようとする願望(ボヴァリズム)」
◎自己解釈(D3)=「自分はさうありたい」即ち「自分が下した自己解釈を模倣しそれに
辻褄を合せたい」
さうした二つの意識が精神にはあるのだと。
そして前者を、アリストテレスの『詩學』の物まね論(參照:『人間・この劇的なるもの』)も
含めて、シェークスピア・セルバンテス・フローベール等が顕し、後者をチェーホフが顕し
たと。更に續けて恆存は言ふ、「チェーホフはやや意識的にシェイクスピアの裏返しをも
くろんだ」と。(參照:全五P76『批評家の手帳』)
精神(「おのれを完成せしめんとする個人的自我(B)」)は、絶對・全體(C:夢想)との繋
がりを持つが爲、それとの關係で「能動・上昇」的意識としての「演戯」と、絶對・全體か
ら得られる「受動・下降」的意識としての全體感(実在感・必然感)が生ずる。
そして、個人主義(近代自我)の時代は、自己を超えたるものとしての絶對(C)を喪失し
てゐるが爲に、絶對の代はりに自己(C")が演出する處の、「受動・下降」的意識として
の「自己解釈」(獨り合点)が成立するのである。
何故なら精神(意識)はその習性として、生きる型を「歴史や周囲に、物語や劇や小説に
探し求め、自分が下した自己解釈を模倣しそれに辻褄を合せやうとする」(同上評論)特
質を持つからである。
精神を、模倣・辻褄を合せる「自己解釈・独り合点(D3)」する意識として、チェーホフは
捉へたと恆存は言ふのである。
とはかう言ふ事であらう。
精神には、自己劇化(D2)と自己解釈(D3)の「ものとしては寫しがたく」、かつ捨て去る
事の出來がたい、二つの意識が儼然として在る、と言ふことになる。
そして、シェークスピアは悲劇で「解放されて仕へるべきもの(神)を喪つた」近代人の自
己劇化(D2)の意識を描き、チェーホフはもうひとつの側面、自己解釈(D3:獨り合點)
の意識を描いた、と恆存は書いてゐる。「チェーホフはやや意識的にシェイクスピアの裏
返しをもくろんだ」と。(P76『批評家の手帳』)
叉このやうにも恆存は言つてゐる。これはかなり重要な點である。
「人間の中には理想や神を求める要求がある。これは本能と言つてもよい」(講演カセッ
ト『理想の名に値するもの』より)と。更に別評論では「何とかして絶對なるものに迫らうと
する行爲を『演戯』」とも言つてゐる。
であるから、神(絶對)を求める要求を「演戯」と言ひ換へる事が可能である。即ち恆存
は「演戯」心を、肉体が持つ本能とは別の「精神の本能」と見たのである。
と言ふ事は、「演戯」によつて得られる全體感(実在感・必然感)への希求をも本能的欲
求と見た事になるのでは。むしろ全體感(実在感・必然感)への本能的欲求があるが爲
に「演戯」の本能があるとも言ふ事が出來る。この二つは「演戯」⇒絶對⇒全體感(實在
感・必然感)の有機的聯關として、表裏一對の本能と言ふ事が可能なのではなからう
か。

《そして其處から類推できる點は以下の通りである》
精神は本能として、絶對・全體への演戯欲求と、その帰結としての全體感(實在感・必然
感)獲得欲求と言ふ、二つのと言ふより表裏一對の欲求を持つ。そして近代人は神(絶
對・全體)を喪つたが爲に、その両者の萎縮變容の形態として、「ボヴァリズム(D2)」即
ち「物事を實際(現實)とは違つたふうに見ようとする願望」と、「自己解釈(D3:獨り合
點)」との意識を持つに到つた、と言ふ事が出來るのである。
叉恆存は「自己劇化」を「演戯」と同位に置いてゐるのが分かる。即ち「自己劇化は自己
より大いなるものの存在(全體・絶對:吉野注)を前提として、はじめて存在する。自己は
自己を表現しきれぬばかりでなく、自己は自己を劇化しきれない」と書いてゐるのであ
る。故に「ボヴァリズム」は自己劇化・演戯の異形と言へるのである。(參照:『自己劇化
と告白』全二:P415)
 そして以上の事からこのやうに言ふ事が出來る。
近現代人は「解放されて仕へるべきもの(神)を喪つた」結果、「衰退」様相としての個人
主義に陥り、上記二つの演戯欲求(D2)と全體感(D3:實在感・必然感)欲求と言ふ、精
神が持つ本能的要素は、その最終目的(全體・絶對)の喪失により萎縮し、その結果とし
てボヴァリズム(D2)と自己解釈(D3)へと變容せざるを餘儀なくされてしまつたのだと。
それを、世紀末及び二十世紀初頭の二人の作家(フローベルとチェーホフ)は、近代實
證精神がもたらすリアリズムの方法論で描いた、と言ふ事になるである。
十九世紀リアリズムの時代では、自分の夢(夢想:C)をフローベールはそんな形でしか
提出しえなかつたのである。そしてチェーホフも。(參照:『福田恆存を讀む會』テキスト:
P9「甲圖」)
恆存は言ふ、
「フローベールは『マダム・ボヴァリーはわたしだ』といつたが、(中略)ここに重要な事實
は、フローベールは自分の夢(夢想:C)をそんな形(即ち「現實(A)の醜悪を素材として
美を志向する創作方法」)でしか提出しえなかつたといふことだ」。
その時代(個人主義時代)の萎縮した演戯本能(「ボヴァリズム」)で「獲得できた自由の
いかにつまらなく、それがあまりにつまらぬために自由でもなんでもない」事を、フローベ
ールは其處に描いたのである。神(絶對)喪失が故の、演戯本能の萎縮變容した形態
「ボヴァリズム」。その時代的帰結を描いたと言へる。近代が抱へ持つ病的なるものの一
側面(D2)を。
そしてチェーホフは、やはり個人主義時代のもう一つの側面、全體感(實在感・必然感)
欲求本能の萎縮變容の形態を、自己解釈(D3:獨り合點)として描いたのである。まる
でそれらは、二人とも時代から預託されて書いたかのやうにも見える。
チェーホフもやはり、「無執着」と言ふ自分の夢(夢想:C)を「底意のない眼」で、フロー
ベールと同じくそんな形(「現實の醜悪を素材として美を志向する創作方法」)でしか提出
しえなかつたのではなからうか。
恆存の各著作から連想しそれが誤讀でなければ、以上の如く恆存が言つてゐるやうに、
小生は受け取れるのである。(參照:P617『小説の運命�供拌勝�
二人の天才作家が證明した近代人の本能萎縮形態は、将に恆存が言ふ處の、近代が
抱へる「デクリネイション(衰退)の様相」(參照:全二:『シェイクスピア』P22)を示してゐ
ると見る事が出來る。そして我々現代人は、それを更に病膏肓の域に趨かせてゐるの
を、諸處の現實的現象に見る事が出來るのである。

上表:【現實(A):集団的自我(クリティックな場)】
医者としての實證精神(A)が持つ監視の眼。それと「空き家(神不在)」に堪へる個人的
自我(B)の拮抗。
 
上表:【アイロニー的情況(「口邊に苦笑」・笑ひを惹起する内容:具體的情況)】
1.チェーホフが言ふ「在るがままに描いた」は、「D3:自己解釈」の意識を「在るがまま
に」と言ふ事になる。
それを實證科学の對象(A上)に物として描いてゐると、批評家や讀者が錯覚して、チェ
ーホフの寫實の意味と方法を理解が出來なかつた。(P77『批評家の手帳』)と恆存は
言つてゐる。そこに「口邊に苦笑をうかべる」チェーホフの顔が覗へるのである。
2.「解放されて仕へるべきもの(C)を喪つた」近代人がその爲に自分自身で「自己解
釈・獨り合点:D3」するしかない(在るがままの)意識がもたらすアイロニーの可笑しさ
か。(宿命・關係を喪失したが爲に自己解釈せざるを得ない近代人の、と言つた處か)。
やはりチェーホフの「プロゼイック(平凡)な作品に苦笑を讀みとる」には、「無執着(C)」
「底意のない眼」と言ふ、その「夢想(C)を索引とするときにのみ、そこに笑ひが登場す
る」と言ふ事がチェーホフにも通用する事になるか。

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《森鴎外における以下の項目》:「C・B・A・アイロニー」
上表:【夢想(C)或いは夢想的要素】
 鴎外の夢想(C)・・・儒教道徳・武士道・自然觀
上表:【夢想(C)を追ふ自己:個人的自我(B)】
江戸幕府瓦解が招いた「規範喪失」。そしてそれが齎す維新後の精神的空白(「實感:
C」喪失)とレジグネイション(諦念)・・・「鴎外にも社會、人間、自己に對する諦念はあつ
た」。爲に「自己を作品(B)から閉め出すことを徐々に覺えていつた」。即ち實生活(A)と
文學(B)の峻別をしたと言ふ事。文學(B)は「儒教道徳・武士道・自然」と言ふ夢想(C)
へと繋いだ。(參照:全一P22『近代日本文學の系譜』)

上表:【現實(A):集団的自我(クリティックな場)】
江戸幕府瓦解が招いた「規範喪失」が齎す、「無限定性の自己(宿命喪失)」と言ふ明治
の舞臺。そこに「新限定」を確立しなければならぬクリティック的情況。故に公人として?
外は「職業を通じて社会との間に緩衝地帯をこしらへ」ねばならなかつたのである。

上表:【アイロニー的情況(「口邊に苦笑」・笑ひを惹起する内容:具體的情況)】
自己の夢想と對峙するアイロニカルな能動に現實的に晒されてゐる時、人は「口邊に苦
笑を浮かべる」が、鴎外の場合にもやはりそれが当て嵌まる。
〔鴎外の「口邊に苦笑をうかべる」二要素〕
� ヌ声�の非近代性への苦笑〔(乙構図:P9)への諦念〕・・・
鴎外は書く「西學の東漸するや、初その物を傳へてその心を傳へず、學は則格物窮理、
術は則方技兵法、世を擧げて西人の機智の民たるを知りて、その徳義の民たるを知ら
ず。況やその風雅の民たるや。是においてや、世の西學を奉ずるものは、唯利を是圖
り、財にあらでは喜ばず」(『しがらみ草紙の本領を論ず』より)(注:漱石の「外發による
上滑りの文明開化」批判と相似)
恆存は言ふ。
「鴎外にも社會、人間、自己に對する諦念はあつた」。鴎外の初期から中期の
作品にある「自己主張も(中略)それをいふ作者の口邊には苦笑が漂つてゐる。(中略)
自己を作品から閉め出すことを徐々に覺えていつたからだ」と。
即ち實生活(A)と文學(B)の峻別をしたと言ふ事である。故に實生活の
事は實生活でと、公人の生活(A)を旧規範に晒す事が可能となつたのでは。
鴎外の「口邊に苦笑をうかべる」は、當時の社會への冷淡・無関心(非近代への諦念)
から。爲に鴎外は、「職業を通じて社会との間に緩衝地帯をこしらへてゐた」。さうせざる
を得なかつたのである。
何故か。明治は「ヨーロッパの近代社會(甲図P8)と日本のそれ(実際は「非近代」:乙
図P9)とは、その概念において根本的にことなるものが」あつたからである。と恆存は言
つてゐる。(圖參照:「『福田恆存を讀む會』テキスト」)
故に西歐近代(甲図P8)の頭腦を持つ?外は、非近代の日本(乙図P9)
によつて小倉に左遷されなければならなかつた。その爲、公人の生活をもう一つの自我
(A)に持つ鴎外は、當時社會の非近代に對しての身の處し方も、しなければならなかつ
たと言ふことなのである。(參照『近代日本文學の系譜』全一p22)

�◆ァ垉豸堕蠅房�己を晒す處からくる「口邊の苦笑」》:即ち激しい夢想(C)を持ちながら
集団的自我上(A)の旧規範(A←A')に堪へてゐる時に浮かぶ「口邊の苦笑」。・・・
これについても恆存が「フローベール」で書いてゐる、以下の二つの事が言へる。
その内の一つは、「夢想(C)を索引とするときにのみ、そこに笑ひが登場する。フローベ
ールほど激しい夢想家(B)はゐない」。「ドンキホーテ(夢想家:B)のゐないサンチョ
(「プロゼイック・平凡」:A常識)ばかりの世界では、讀者はただあくびの誘惑を感ずるだ
けの話である」と言ふ事である。(參照:全一P614〜5『小説の運命�供戞�
とすれば、鴎外の「史傳」がさうではないか。かの史傳もサンチョ(「プロゼイック」)ばかり
であくびの誘惑を禁じ得ない。
恆存が言ふ處の、あの「現實の調整も構成も意に介しない。あるがままに見、あるがま
まに語らうとする、(中略)一蘭学者が某月某日、某職の辞令を拝した事実」(參照『近代
日本文學の系譜』)のプロゼイックな記述に、あへて笑ひを讀みとる事が出來るとすれ
ば、やはり背景に激しい鴎外の夢想(儒教精神・武士道)があるのを觀るからではなから
うか。
 上記の文の後に、更に重要な恆存の文章が以下のやうに續く。
「某職の辞令を拝した事実のはうが、はるかに大切なのである。このささやかな事実のう
ちに鴎外の自我はかへつて安定の場所を得る。そこに彼は人間、自我の運命のはかな
さを蔽ひ庇ふ堅固な盾を見いだす。これは自己主張といふがごときものではない。鴎外
は自己の保證を求めて平凡な實生活上の事実に縋つたのである」(『近代日本文学の
系譜』全一P23)。
即ち本論一頁の「二元論的分類」上における符牒、「C(儒教精神)→D1(宿命)→A→B
→D2→C(全體・絶對)→D3(全体感・實在感)」、と言ふ流れに「安定の場所」と「自己の
保證」を鴎外は得たのである。その事を恆存は別評論(『獨斷的な、餘りに獨斷的な』全
六P561)でかう評してゐる。「鴎外は歴史を文學にしたと言へよう」と。そして更に、さう
した文學となつた史傳に「歴史の、或は人生の重みを感じる」(同上)事が出來ると恆存
は言ふのである。
 恆存は「文學(芸術)」の定義を、「芸術とは演戯である」と言ふ。そして「何とかして絶
對なるものに迫らうとするもの、それが演戯」だとも。
かく言ふ處から導き出されることは、鴎外は歴史を書くことによつて、「演戯→絶對→實
在感」と言ふ藝術の必然を其處に獲得した、と言ふ事になる。(叉、何を敵(夢想)とする
かによつて自己は表現せられるとも、恆存は言ふ)
 そして「演戯→絶對→實在感」と言ふ藝術の必然とは、恆存が言ふところのかかる文
にその所在があると思ふのである。「歴史に附合へば附合ふ程、首尾一貫した因果の
直線は曖昧薄弱になり、遂には崩壊し去る。そして吾々の目の前に残されたのは點の
連續であり、その間を結び附ける線を設定する事が困難になる。(中略)が、歴史家はこ
の殆ど無意味な點の羅列にまで迫らなければならぬ。その時、時間はずしりと音を立て
て流れ、運命の重みが吾々に感じられるであらう」。(『乃木将軍と旅順攻略戦』P116)
 その、「歴史家はこの殆ど無意味な點の羅列にまで迫らなければならぬ。その時、時
間はずしりと音を立てて流れ、運命の重みが吾々に感じられる」と言ふ部分。それは別
な恆存の表現を簡略して書けば、以下の内容と通ずる事なのである。
「意識は、平面を横ばひする歴史(過去・現在・未來といふ時間的繼續:吉野注)といふ
ものに垂直に交る」時、「部分(現在:吉野注)を部分として明確にとらへることによつて、
その中に全體(過去・現在・未來といふ時間的全體:吉野注)を実感」する。「私たちが個
人の全體性を恢復する唯一の道は、自分が部分に過ぎぬことを覚悟し、意識的に部分
としての自己を味はひつくすこと、その味はひの過程において、全體感が象徴的に甦
る」。将にその時、生きるといふ日常的平板さから「上に脱け出た意識は、足下の現實
が時々刻々に動いてゐることを實感」する。(参照:全三P532『人間・この劇的なるも
の』)
即ち、點(部分)に迫る事によつて、鴎外の精神に全體感が象徴的に甦つたのである。
其處に鴎外は藝術的實在感を感得する事が出來たのである。文學が持つ「時間藝術」
の實在感獲得の方法論(部分徹底=前後暗黒化→全體感・實在感獲得)を、歴史を書く
事(史傳)によつて鴎外は得たのである。「鴎外は歴史を文學にしたと言へよう」とは、將
にその事を指すのである。
史傳上で「友人の楊庵が、杖を掌の上に立てて歩いてゐる無意味な描写、少くとも主人
公の人生行路において何の因果關係も無い、この樣な些事を」?外が見いだし書き留め
る時に、さうした「點」に迫る事による、藝術的實在感を其處に感得する事が出來たので
はなからうか。(全六P561『獨斷的な、餘りに獨斷的な』)叉、「抽斎歿後の第三年は文
久一年である」と書き、翌年も叉その翌年もその書き出しで筆を執る時、その時「時間は
ずしりと音を立てて流れ、運命の重みが」?外には把握されたのではなからうか。
かうした、鴎外によつてもたらされた「史傳」と言ふ獨特な文學は、「キーンやサイデンス
テッカーの如き優れた日本文學研究者にも」解り得なかつた、と恆存は述べてゐる。
そして鴎外と同樣の實在感を、恆存も「旅順」にて得た。そしてやはり「歴史を文學にし
た」のである。以下の文章はそれを證左してゐると思ふ。
「(乃木)将軍は己の不幸をそれと知らず、頑なにじつと堪へてゐたのである。自己の苦
しみを方法論で解決することを知らぬ愚かさであり、馬鹿正直さである。(中略)かれは
逃げ道を見いだせぬまま、ひたすら時間の経過をまつよりほかに方法をしらない。その
男の運命が顔を覗かせるのはこの瞬間である。前方をみつめ背伸びして浮きあがつた
前のめりの姿勢を、運命が肩越しにそつと乗り越してゆく。この一途の求道なくして、僕
たちは運命を語る資格を持たない。将軍の運命とともに明治日本の国運が、遼東半島
の先端を一過したのである」(全一P525 『國運』)。「その時私は感じたのです。あたかも
明治以後の日本の歴史が眼前を、といふよりは自分の身内を、一瞬のうちに通り過ぎる
のを。そして、私はつくづく思ひ知りました、あれ以來、吾々は同じ事をやつてゐるので
はないか、ここに血を流した父祖の絶望的な慘めさは、そのまま今(太平洋戰争中)の
吾々のものではないかと」。(P385 『軍の獨走について』)
歴史は文學であると言ふ事について、叉、恆存は以下の樣にも言つてゐる。
歴史を書くには「如何に學者であらうと、歴史上の人物と共に生き、共に迷ひながら描か
なかつたなら、吾々の前に歴史はその姿を現しはしないでせう。しかし、史上の人物と共
に生き、共に迷ひながら描くとすれば、それは當然、フィクション、即ち嘘になる。(中略)
歴史家が時代や人物と共に生き、共に迷ふ心の持主でなければならぬのは、言ふまで
もなく歴史上の人物が、歴史そのものが、迷ひながら生きてゐるからです」。故に「歴史
は社會科學を利用はしても、社會科學そのものではなく、それは依然として文學なので
す」と。
その意味からしても、「歴史を文學にした」鴎外の史傳は、「吾々の前に歴史はその姿を
現す」ものとして、「歴史の、或は人生の重みを感じる」事が出來ると、「歴史は文學」と
の謂ひを籠めて、同じやうに恆存は述べてゐるのである。(參照:全五P380『人間不在
の歴史觀』)
上述の「時間藝術」の實在感獲得の方法論と関聨して、見逃しては置けない、附記すべ
き以下の恆存の文章がある。「言葉を書きつけてゐるとき、私は自分の頭の中で、ほん
の針の先ほどの微かな一點しか火が點つてゐない。(中略)その周囲は完全な暗闇に領
せられてゐる。(中略)光源だけを残して、一様の暗さをもつた闇が擴がつてゐる」と言
ふ文がそれである。(參照:全五P25『批評家の手帖』)此處に恆存評論の「時間藝術」を
小生は見るのである。

《旧限定に自己を晒す處からくる「口邊の苦笑」》:その2として、恆存が「フローベール」
で書いてゐる内容の、鴎外にも言へる事はかうである。
鴎外は「妥協した(傍觀者になつた)のではない。新思想の先端を歩みながら、封建時代
の傳統の重みに堪へてゐたのである(明治に残存する『いはゆる封建制度』の背後に道
徳そのものを鴎外は見る爲に)」。(參照:全六P560『獨斷的な、餘りに獨斷的な』)
此処にも「口邊に苦笑を浮かべ」てゐる鴎外を讀み取る事が出來るのでは、と言ふ事で
ある。鴎外はさうすることで、「現實の人生に耐へ、みずからを救ふ」姿が。個人的自我
(B)では藝術的實在感を得ながらも集団的自我(A)では、その二つを「峻別」するが爲
に「口邊に苦笑を浮かべ」ながら耐へてゐるのである。
即ち「自分の夢想が現實(A)の生活でみじめにふみにじめられてゆくばあひ、あへてこ
れ(鴎外においては「旧規範・旧道徳」:吉野注)に反抗することもなく、といつて無神経に
これに忍從するのでもなく、(中略)残された唯一の望みといふのはさういふ自分(とは、
集団的自我の側面を旧規範に晒し身を切り刻ませるが爲に、個人的自我が「一分の隙
もない天窓」になつた情況:吉野注)を笑ふことであり、自分を笑ふことによつてわれをも
ひとをも許し救」ひ、そのアイロニー的情況に鴎外も耐へんとした。と言ふ事である。
「フローベール」の處で恆存が言つた、そのパターンが鴎外にも通用するのである。(參
照:P614:全一『小説の運命�供戞�
自己の夢想(C:儒教道徳・武士道)が激しいと同時に、かつ明治に未だ残る「いはゆる
封建制度」の背後に道徳そのものを?外は見る爲に耐へてゐる。別な言ひ方をすれば、
「個人を否定してくる社會機構(A)」と言ふ「自我の對立者の極限概念に眞や無(C)を
探り當て」るが故に、自己の激しい夢想と對峙する、當時の社會機構が強ひるアイロニ
カルな能動に、鴎外は敵對することもなく「從順であつた」のである。
その事は何を意味するか。當時の社会機構の方法論で自己を裁く事を潔しとしたと言ふ
事である。かのフローベールが當時の実證主義で「一分の隙もない天窓」になるくらゐに
迄、「B」のものを「A」に移せるだけ移し、最大限自己を裁いた事にそれは通ずる。(さう
したアイロニカルな能動。それはフローベールにとつては、自己の代理Aとしての「マダ
ム・ボヴァリー」を冷徹に描く事であつたのであるが)
恆存は言ふ。鴎外は「建設(D2)や生産(A←A'の實生活的客體化) にともなふ社会
悪、國家悪、人間悪に」「手をそめ、みずからそれを隠蔽することによつて無視し、それ
にたへてゐた」と。
しかも、日本の自然主義作家の様には「文明開化の出世主義(A)のネガティーブな吐け
口」として文學(B)へ逃げもせずに、あへて「個人を否定してくる社會機構(A)」に晒され
てゐる時、そこに自ずと「口邊に苦笑を浮かべる」行爲が出て來るのではなからうか。時
代の社会機構(前近代)の現實に身を切らせ(A←A')ながら、しかもかつてはあつて今
は失はれた夢想(C:儒教道徳・武士道)に激しく胸を焦がしてゐる時、人は自ずと「口邊
に苦笑を浮かべる」事になるのでは。(參照:全二P417『自己劇化と告白』。同P407
『告白といふこと』)。
恆存の言ふ、「人生はつねにアイロニーをその底にひめてゐる。ただそれがたまたま他
の時代よりも現象的にあらはになる時代があり、またさういふ場合がある」が、將に其處
に当て嵌まるのである。
旧規範・旧限定と矛を交へる事なく、公人としてするべき事(A←A')をし
ながら、「たえず自己を限定し捕捉しようとして迫つてくる規範の監視の眼から逃れる」や
うに鴎外は堪へた。公人として「(建設と生産の)悪に手をそめ、みずからそれを隠蔽す
ることによつて無視し、それにたへてゐた」のである。自己を晒しながら判斷保留し、「選
ばれてあるものの責任であり、渦中にあつて生きるものの意志的行爲」として義務を果
たす。それによりかへつて「矛を交へる事なく」(旧規範・旧限定から)自己が隠蔽される
のである。公人の生活(A)を旧規範に晒しながら、しかも「自己(個人的自我:B)を秘め
なければならない。可能性を大切にするからだ」。「なぜなら表現しようとする自己(B)
は、つねに世間道徳や、宗教や観念によつて限定され、それに膝を屈しようと用意して
ゐるから」であると恆存は言ふ。(參照:全二P405〜413『告白といふこと』及び『自己
劇化と告白』)
同評論上で「告白の眞實性は生活(A←A')を通じて(悪を)隠しとほすことによつて保た
れる。藝術は悪から汚水を吸いあげて美しい花を咲かす」(P407)、とも恆存は言つて
ゐるのである。

更に言ふ。以下の事は前述で小生が論考した、「部分徹底=前後暗黒化→全體感・實
在感獲得」による「藝術的實在感」とは別個の、しかも實在感に相當する事柄と言へる。
(括弧内は吉野注)
「鴎外の眼には人間もまた自然(C的要素)の一部であり、(西歐の如き)相互に主張と
否定とをもつて向ひあふ對立物ではなかつた」と。(全一P21『近代日本文学の系譜』)
自然(C的要素)に「彼は人間、自我の運命のはかなさを蔽ひ庇ふ堅固な盾(C:自己を
超えたるものと同意か)を見いだす。これは自己主張(C"自己主人公化=個人主義・近
代自我の表相)といふがごときものではない」。叉、フローベールの夢想(神C)とも違
ふ。「鴎外は自己の保證を求めて平凡な實生活上の事実に縋つたのである」と。
「自己の保證」即ち、その謂ひは別評論で恆存が言ふ處の「セルフアイデンティティー」で
あり、かつ「實在感・實感:D3」と同質的な概念で恆存はそれを用ゐてゐるのである。(參
照:全六P484『獨斷的な、餘りに獨斷的な』)
とは何を意味するかと言へば、かう言ふ事になる。
集団的自我上で鴎外は、その時代に「口邊に苦笑を浮かべ」ながらも、もう一方の個人
的自我(文學)では、あの「現實の調整も構成も意に介しない。あるがままに見、あるが
ままに語らうとする、(中略)一蘭学者が某月某日、某職の辞令を拝した事実」の記述
や、「抽斎歿後の第三年は文久一年である」等と淡々と繰り返す、いずれも「平凡な實生
活上の事實」記述に、鴎外は自然が持つてゐる「人間、自我の運命のはかなさを蔽ひ庇
ふ堅固な盾」を見い出し、其處に自己の保證(「セルフアイデンティティー」・實在感・實
感)を感得してゐた、と言ふ事なのである。(參照:『近代日本文學の系譜』他)
言ひ換へれば、この事と前述の〔「部分徹底=前後暗黒化」→「全體感・實在感獲得」〕
による「藝術的實在感」は、以下のやうに書き顕す事が可能である。

(C =歴史・儒教道徳・武士道)→D1(宿命)→A(實生活:「公人」)→B(個人的自我:文
學)→D2(演戯)→C(自然・全體)→D3(全體感・實在感獲得)

以上から推測するに、恆存の言はんとする處はかう言ふ事なのであらう。
明治の「無限定性の自己(宿命喪失)」から出発した鴎外は、夢想(儒教道徳・武士道)
を見出した事によつて表現せらるべき自己を發見した(「敵としてなにを選んだかによつ
て、そしてそれといかにたたかふかによつて、はじめて自己は表現せられる」)。そして遂
には上記の有機的環流に鴎外は安定感を感得した、と言ふ事になるのではあるまい
か。(參照:全一P547『職業としての作家』・全一P23『近代日本文学の系譜』・P412『自
己劇化と告白』)
言ふまでもないが、現在の日本にはその安定感はない。恆存が言ふ處の「型の喪失=
文化の喪失」がそれに當たるのであるから。しかし恆存はかかる情況に諦めず、その再
構築にと「完成せる統一體としての人格」論を、我々に提言するのであつた。(參照:全
六巻末『覺書』)
                                             をはり




第二彈:《「口邊に苦笑をうかべる」東西文人:その時代的差異》



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