〔当HP:目次〕

令和五年三月二十三日

 

〔福田恆存を読む會〕

吉野櫻雲

 

 

再論考:「完成せる統一體としての人格」論(全集六『覺書六』所載)

 

*故安倍元首相が、「戰後レジームからの脱却」を企て、それら、見えるものに對する、各種業績〔アベノミクス・教育基本法・國家安全保障会議(NSC)・國家安全保障局(NSS)・自由で開かれたインド太平洋構想・平和安全法制、等々〕を構築したが、見えぬもの、つまり、近代化適應異常(精神の近代化不全)への對處、及び、傳統・culture〔文化・耕す養ふ・教養=ヒューモア/生き方/言葉遣ひ/國語正統表記/道徳/美意識(倫理代替)等、即ち言葉(F:/人)への距離感(F⇒Eの至大化)〕の復活再生に關しては、實に無念也、志半ばの處で、皮肉にも、野蠻(非文化)の最たる兇彈に仆れてしまつた。

 今般のテーマ「再論考:『完成せる統一體としての人格」論』」は、上文とも、大いに關聯する事項であると言へる。尚、論考するに當たつて、恆存著『教育改革に關し首相に訴ふ』『傳統にたいする心構』『傳統技術保護に關し首相に訴ふ』『教育の普及は浮薄の普及なり』『祝祭日に關し衆參両院議員に訴ふ』等を索引とした。

 レジュメ本文は、相變はらずの生硬文なので、先に「再論考」の結論的なものを此處に記載しておく。詳細は本文にて。

以下「 」内が概ね恆存文。( )〔 〕内は吉野注。

 

*「(戰後の眼に見える絶對者喪失による)相對主義の泥沼」+「(戰後、日本文化の衰退による)美感・美意識(形・樣式)の摩耗・喪失化(Eの至小化)」=「現代日本人の非倫理的性格」。

 

*「愛國心(國への關係)の場合も道徳觀の場合も、その前に先ず物(言葉F)を、それも生きてゐる物(F:心を通はせられる物)を必要とします。人々の求めてゐるものは「期待される人間像」などといふ抽象的理想(C)ではなく、もつと具體的な存在、即ち吾々が手を觸れ、心を通はせる(Eの至大化)事の出來る物(物F⇒Eの至大化)〔とは、言葉(物/人:F)への距離感(Eの至大化):つまり、生き方・仕來り・風習・形・様式・言葉遣ひ・美意識・禮節・祭祀、等(Eの至大化)〕そのものなのです」(『傳統技術保護に關し首相に訴ふ』P42)。

 

*以下は上文と同樣な内容であるが、重要なので「小生注」を附記して記載する。

「民主主義も人権尊重(當論では『愛國心』)も單なるハイカラな概念(F)としてでなく、常識(Eの至大化)として、即ち文化(D1の至大化)として空気の如く(「文化は生き方」の如く)周囲に存在する樣になれば〔とは:形(仕來り/美意識/禮節等)の活性(Eの至大化)=文化の釀成(D1の至大化)の如く、その雰圍氣の周囲に存在する樣になれば〕、たとへ讀み書き算盤だけの知識〔參考文『ローカル電車に乘つてゐた老婆の常識(Eの至大化)』と同意〕でも近代人(△枠)として立派に生きていけるのです」(『教育改革に關し首相に訴ふ』)。

《愛國心(國への關係:D2の至大化)は、形〔物との距離感(Eの至大化)=仕來り/禮節/謙譲/國語正統表記/美意識/祝祭日/祭祀、等(Eの至大化)〕の構築によつて表せられる(つまり:D2の至大化=Eの至大化)》

〔以下は上述三文を論結した「關係論」での記載〕(ツイッター投稿文から轉載)

  #敗戦:絶對(#天皇)喪失⇒からの關係(②:#相對主義の泥沼 #文化荒廢)⇒「③:言葉・物(F)」(②的對立概念)⇒③との距離感喪失(Eの至小化)即ち、#美意識(倫理代替)喪失 # #礼節 等,喪失(Eの至小化)〕⇒#現代日本人の非倫理的性格(△枠)(①への適應異常)⇒④形構築〔手を觸れ心を通はせる形(⑤との距離感獲得:Eの至大化):即ち、仕來り/禮節/謙譲/國語正統表記/美意識/祝祭日/祭祀、等の復活(Eの至大化)」⇒「⑤:物(人・言葉:F)」(⑥的概念F)⇒⑥:文化再生(D1の至大化)・愛國心〔防衞心・保守:國への關係(D2の至大化)形成〕⇒國(C‘)歴史(C)。

 

黄色文を、もつと分かり易く、恆存の文から援用すると以下の樣になる。

*場( C‘:國)から生ずる、「關係(D2の至大化愛國心)と稱する實在物は、潜在的には言葉(物・人:F)によつて表し得る」。故にその言葉(物・人:F)との附合ひ方〔手を觸れ心を通はせる形(物との距離感:Eの至大化)即ち、仕來り/禮節/謙譲/國語正統表記/美意識/祝祭日/祭祀、等(Eの至大化)によつて、人間(現代日本人)は場( C‘:國・C歴史)との關係の適應正常化(D1の至大化)が叶へられる(取り戻される)。

 

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以下「 」内が概ね恆存文。( )〔 〕内は吉野注。

設問①〔「完成せる統一體としての人格」論への思想的経緯〕kanseiseruA.pdf へのリンク

「完成せる統一體としての人格」論は、煮詰まって來ての「思想的到達點」なのか、それとも、ずっと昔から念頭にあつて、『覺書六』の機會があつて、論究したものなのか。

*設問①について、小生思ふらく。以下枠文「傍線部」を檢證かつ再考するに、恆存にとつてはこの問題、『完成せる統一體としての人格』論(全六『覺書六』)は、「自分には解り切つたこと」なのだつた、と推察する。

◎「(前略)――ところが、後になつて何度かこれ(「完成せる統一體としての人格」論に該當)を書き續けようと思つたが、それがどうしてなかなかの難事業である。自分には解り切つたことのやうに思はれる、その概要はほんの數枚で濟むことに過ぎない、せめてそれをこの『覺書』に要約しておかうと思つて、かうして机の前に坐りこみ、毎日五六時間、二十日餘りになるが、一向に埒が明かない。(後略)」(全六『覺書六』P697)。

つまり、煮詰まって來ての「思想的到達點」などではなく、とうの昔から、腦裡に仕舞ひ込んでゐた思想なのである。「完成せる統一體としての人格」論を出さなかったのは、戰後の状況「近代化適應異常の猖獗・相對主義の泥沼⇒現代日本人の非倫理的性格」等への啓蒙に執筆が追はれて、當論を出せる状況下ではなかつたからではなからうか。當論の三角構圖(△)は、かの日本人の相對主義(平面構圖:―)状況下には、「無い物ねだり」でしかなかつたのだ、と想像する。

それを、時を經、今般『覺書六』記述なる恰好の機會を得た、と言ふか、むしろ、病状の惡化に伴ふ遺言的心境に達したが爲に、『獨斷的な餘りに獨斷的な』中斷で果たせなかつた思ひの實現に驅られた、と言ふのが實情なのではあるまいか。

當思想は、卒論『DHロレンスの於ける倫理』(アポカリプス論)で、充分に「煮詰まって」ゐたのでなからうかと小生は推察する〔參照⇒PP《ロレンスの二元論と恆存「完成せる統一體としての人格」論との關聯》kanseiseruA.pdf へのリンク〕。そして、それは「通奏低音」的に息づき、以下の樣に恆存各評論に展開されて行つたのだと。

執筆時期と作品

自分には解り切つたこと」(以下)の評論履歴(抜粋)

無限定性(C:絶對・全體喪失)⇒D1:宿命喪失⇒①宿命的概念(F:道徳規範)缺如。

*「歴史C’⇒文化D1⇒人間(△枠)⇒保守演戯D2」構圖もフィクション(假説)。

S11(25)

DHロレンスの於ける倫理』(アポカリプス論)

〔現物無く探究不可能なれど、當卒論に敢へて以下の展開を想像しようとすれば想像できる〕

〔クリスト教が招いた欺瞞〕kanseiseruA.pdf へのリンク

*神(C)⇒愛(神意D1:實在物)⇒精神主義(F潛在物)⇒「F」へのnot so colled(Eの至小化)。その結果としての「抑壓された我意(A)」が招く「自己欺瞞(A⇒B潜り込み)」即ち「弱者の歪曲された優越意思(A⇒B潜り込み)」(『アポカリプス』論より)。

「吾々は生きて肉(A)のうちにあり、また生々たる實體をもつたコスモス(C)の一部であるといふ歡喜に陶酔すべきではなからうか」「吾々の欲することは、虚僞の非有機的な結合を、殊に金錢と相つらなる結合(A‘⇒Aの相對的結合・横軸)を打ち毀し、コスモス、日輪、大地(いずれもC的概念)との結合(縦軸)、人類、國民、家族との生きた有機的な結合(A)をふたゝびこの世に打ち樹てることにある。まづ日輪(C)と共に始めよ、さうすればほかのことは徐々に、徐々に繼起してくるであらう」(『アポカリプス論』最終章)。⇒PP圖《ロレンスの二元論と恆存「完成せる統一體としての人格」論との關聯》

S13(27)

『シェイクスピア』

西歐近代自我(個人主義F)が持つ「自由(F)」=孤獨(F)(宿命・關係D1喪失による)、と言ふアイロニー。即ち自由(F自我解放)の裏にしのびこむ「解放されて仕へるべき何物(C)をも持たぬ自我(宿命・關係D1喪失)の不安」と言ふ近代が持つ負の側面(P27)。即ち「近代=全體(C)喪失=宿命(關係D1)喪失=自由(F)・孤独(F)・自我の不安(F)」。

S18(32)

『素材について』(鷗外論)

無限定性(絶對・全體喪失:幕府瓦解)⇒から生ずる關係(①宿命喪失)⇒①的概念(旧限定 #儒教 #武士道 #素材)⇒素材探求の形・様式が史傳(#渋江抽斎 #伊沢蘭軒)⇒無限定性からの脱出。

S20(34)

『近代日本文學の系譜』:

「自己絶對視は自己喪失に終る」。

 

『獨斷的な餘りに獨斷的な』

私小説家(明治日本の自然主義作家達)

*「A:現實:非客體的(AA’)不滿⇒B:逃げ處としての個人的自我概念⇒C”:自己主人公化(自己完成:絶對的自己肯定)⇔C2護符・後ろ楯の思想:西歐自然主義小説」⇒D3:自己滿足・自己正當化(似非生き甲斐・似非實在感)⇒自己喪失」。

*「藝術家、知識人が他の職業に比して殆ど社會的に顧みられぬといふ不滿、劣等感」⇒「文學(B)すらも文明開化の出世主義のネガティーブな吐け口になつてゐた」⇒故に「文學が如何に《神聖》な仕事であるかを立證」せんとした⇒作家は聖職者(B)⇒自己に忠實(D2:自己表現)⇒C”:自己完成といふ名の自己絶對視(その自己が作る「新しき小説」)・自己正當化(それ「新しき小説」の後楯となる西歐自然主義小説)⇒自己確認(D3)即ちセルフ・アイデンティフィケイション(虚妄の實感)・似非實在感。自己陶酔・自己滿足・エゴイズム⇒自己喪失。(劣等感即ち後ろめたい利己心は、「本來的には日本の民族性の内に、第二の習性として封建道徳の名殘り」だと恆存は言ふ。それが福沢諭吉等下級武士にもあつたと)

S22(37)

『一匹と九十九匹と』

『一匹(個人的自我B)と九十九匹と(集団的自我A)』

S22(37)

『近代の宿命』

*「支配・被支配の自己(集団的自我A)」と「神に從屬する自己(個人的自我B)」。

*神(C)の死(西歐近代)⇒から生ずる關係(①#近代化:神の解體と變形と抽象化)⇒#民主主義 #個人主義 等(①的概念)⇒への用法(言葉への距離測定・so called  #精神の政治學)で⇒①近代化への適應正常。

 

*『#近代の宿命』#二元論

#イエス〔神と二人きり(個人的自我のみ)〕⇒からの關係。イエスの尻拭ひ(②集團的自我の救濟)⇒②的概念〔二元論 的對應(#ゲルマン民族 #神学 #中世 #教門政治)〕⇒①への適應正常。#西歐 #近代化 の達成

更に續ければ、

S30(44)

『人間・この劇的なるもの』

*「祭日(Eの至大化)とその儀式(Eの至大化)は、人間が自然(C空間的全體)の生理(D1關係)と合致して生きる瞬間を、すなはち日常生活では得られぬ生の充實の瞬間を、演出しようとする欲望から生れたものであり、それを可能(Eの至大化)にするための型(E)なのである」。

* 人間・この劇的なるもの  #ハムレット

無限定性(#神 喪失 #絶対喪失)⇒からの關係(#宿命 喪失)⇒①宿命喪失概念(#孤独感)⇒①の解決化(宿命復元 #復讐 #王権奪還)⇒ハムレットの限定性獲得(#全体感 #必然感)

S31(45)

『劇場への招待』⇒

S56(70)

『演劇入門』にて再出版

*「役者にとつて最も重要なことは自分の演じる人物の性格ではなく劇の主題(全體C)は何であるかを見極める事、そして自分の役がその主題(C)とどういふ關係(D1)にあるかを理解することである」。

(佛閣を例へて言へば)「本堂、五重塔、廻廊等の部分は全體(C)たる七堂伽藍の構成にたいして、緊密な調和を保つていなければなりません。そしてまた、それらの細部である彫刻や柱や屋根なども、本堂は本堂としての、五重塔は五重塔としての全體的調和を保つと同時に、それを通じて七堂伽藍の全體的調和につながつてゐなければならない。劇においても同樣で、各登場人物は、表に現れた形においては主役と端役との別はありませうが、それらが共に仕へる全體(C)としての主題は一つのものであります端役といふのは、主役に對して端役なのではなく、劇の全體(C)的調和に対して端役なのであります。それは主役に仕へるものでもなく、主役の引立役でもない。引立役といへば、主役も端役も、ともに劇の主題の引立役にほかならないのです」

S34(48)

『批評家の手帖』

「いやしくも世に『存在する』と言ひうるもの」があるとすれば、その「在るものは關係(D1)だけである」からと言ふのである(前出:P23上)。

S41(55)

『傳統技術保護に關し首相に訴ふ』

*「愛國心(國への關係)の場合も道徳觀の場合も、その前に先ず物(言葉F)を、それも生きてゐる物(F:心を通はせられる物)を必要とします。人々の求めてゐるものは「期待される人間像」などといふ抽象的理想(C)ではなく、もつと具體的な存在、即ち吾々が手を觸れ、心を通はせる(Eの至大化)事の出來る物(物F⇒Eの至大化)〔とは、言葉(物/人:F)への距離感(Eの至大化):つまり、生き方・仕來り・風習・形・様式・言葉遣ひ・美意識・禮節・祭祀、等(Eの至大化)〕そのものなのです」(『傳統技術保護に關し首相に訴ふ』P42)。

S41(55)

『教育改革に關し首相に訴ふ』

「今更愛國心(D2の至大化)を強調しても始まりません。具體的な『物』(F)としての附合へる(Eの至大化)文化(關係:D1)を失つてしまつた(D1の至小化)のでは、愛國心の手掛り(D2の至大化)は何處にも無くなる」。

S45(59)

『フィクションといふ事』

關係(D1)と言ふ「眞實を生かすために一つのお面をかぶる(役を演ずる・自己劇化)」「演戯なしには人生は成り立たない。つまり假説なしには成り立たない」。「眞實といふのは、ひとつの關係(D1)の中にある。個々の實體よりはその關係(D1)の方が先に存在している」。

*「關係(D1)の無いところでは、個(AB及びF)も全く捉へ處も手掛りも無いものとなる。個(AB及びF)よりも關係(D1)の方が先に存在し、一つ一つの個(AB及びF)は既成の關係(D1)の中に生れて來るのだからである」(P455)。

S50(64)

『獨斷的な餘りに獨斷的な』

著『#獨斷的な餘りに獨斷的な』 #二葉亭四迷

無限定性(絶對・全體喪失:幕府瓦解)⇒から生ずる關係(宿命喪失)⇒宿命喪失概念(#私小説)拒否⇒限定性・宿命復元として國家選擇(國士選擇)⇒#二葉亭四迷(實感依據:安定)

S51(65)

『醒めて踊れ』

*「關係」を、話し手の心とせりふの字面との「距離」の長短操作で「空間に一つの建造物がまざまざと見えて來る」(『醒めて踊れ』)やうに。

S52(66)

『せりふと動き』

*場( 西歐C’)から生ずる、「關係(D1)と稱する實在物(近代化=ハードウェア)は、潜在的には一つのせりふ(F:技術や社會制度的言葉、即ち機械化・組織化・劃一化・合理化等々のハードウェア)によつて表し得る」。故にその言葉(F)との附合ひ方(ソフトウェア「フレイジング・So called」の適應能力:E)即ち「言葉の用法」「自分と言葉との距離測定」によつて、人間は場(C‘)との關係の適應正常化(D1の非沈湎)が叶へられると言ふ事になる。即ち「Eの至大化(適正化)=D1の至大化(適應正常化・非沈湎)」と言ふ事になる。

*「すべてのせりふにおいて、それ自体の意味内容より關係(D1の至大化)の方が先行するといふ事、観客に見せなければならぬのは、何よりもその關係(D1の至大化)なのだといふ事」(P318『せりふと動き』)。

S52(66)

『シェイクスピア劇のせりふ』

「せりふ(F)は語られてゐる意味の傳達を目的とするものではない。一定状況の下(場面C’)において、それを支配し、それに支配されてゐる(D1:宿命・關係)人物の意志や動き(D1の至大化)を表情や仕草と同じく形のある『物』(F)として表出する事(Eの至大化)、それが目的であり、意味の傳達はその爲の手段に過ぎぬ」(P345)。

S55(69)

『防衛論の進め方についての疑問』

*「私が自分を最も信じてゐないのは、最も信じたいからであり、人格としての完成體でありたいからである」。

*『父親』の人格の中には國民としての假面(役・自己劇化)と親としての假面と二つがあり、一人でその二役を演じ分けてゐるだけの事である。そして、その假面の使ひ分けを一つの完成した統一體として為し得るものが人格なのである。『私たちはしつかりしてゐない』といふ自覺が、『私たち』をしつかりさせてくれる別次元のフィクションとしての國家や防衛を要請するのである、要するに人格も法も國家も、すべてはフィクションなのであり、迫持(せりもち)、控へ壁などの備へによつて、その崩壊を防ぎ、努めてその維持を工夫しなければならぬものなのである」。

S55(69)

:『近代日本知識人の典型(清水幾太郎を論ず)』

 

「問題は、すべてはフィクションであり、それを協力して造上げるのに一役買つてゐる國民の一人、公務員の一人、家族の一人といふ何役かを操る自分の中の集團的自己をひとつの堅固なフィクションとしての統一體たらしめる原動力は何かといふ事である。それは純粋な個人的自己であり、それがもし過去の歴史と大自然の生命力(時間的全體・空間的全體:小生注)に繋つてゐなければ、人格は崩壊する。現代の人間に最も欠けているものはその明確な意識ではないか」。

設問①への論考から外れるが、以下は重要な點なので記述する。

前述文「かうして机の前に坐りこみ、毎日五六時間、二十日餘りになるが、一向に埒が明かない」について・・・「一向に埒が明かない」原因は、子息「逸」氏の著『父・福田恆存(章:恆存の晩年、後半)』の以下文を讀むと、その経緯が良く分かつて來る。

◎昭和六十年(七十五歳):『覺書』書く準備。

*逸氏記述「書齋ではなく仕事を茶の間に持ち出して母の援けを借りて必死で挌鬪してゐる。(中略)殊に『覺書六』(七十八歳:平成六十三年~翌年一月記述)は母の援けを借りて繼ぎ接ぎで完成させたもの。(中略)もはや筋道立てた文章が書けなくなり、母の援けも恐らく限界となつて、『箇条書き風』にしか書けなかつたのだらう」。

 

設問②〔「完成せる統一體としての人格」論を、現代人は何故出來ないか?〕

*小生論考・・・約七十年も前、以下枠文(著『個人と社會』項目)の如く、恆存が指摘した「現代日本人の非倫理的性格」〔即ち:B精神⇒C(觀念上の絶對・否定因)の缺如〕が、未だ今日に於いても日本人の性格的基盤となつてゐるのなら(向後は更に惡化してゐるとの、恆存言有り)、その非倫理的性格が内包する「相對主義の泥沼(A’⇒A:平面思考)」に於いては二元論は育たない。そして、二元論を持たぬ現代日本人からは、「完成せる統一體としての人格」論はやはり育たないと思へる。何故なら、「完成せる統一體としての人格」論の構成軸となるものは「二元論」(集團的自己A/個人的自己B。絶對/相對)である。その「二元論」が確立してゐなければ、「完成せる統一體としての人格」論の構築は出來ない。是を構圖的に表せば、「非倫理的性格」は、相對主義の泥沼であるから平面構圖(――)である。對するに「二元論」に基づく「完成せる統一體としての人格」論は三角構圖(△立體構圖)である。故に平面に留まる限り、その造形は困難となる。PP圖文中「現代の人間に最も缺けているものはその明確な意識ではないか」は是にも該當する(以下參照)。 

〔上文に該當する各種「關係論」〕(ツイッター投稿文より)

著『#個人と社會』(#倫理)。

  #敗戰:絶對(#天皇)喪失⇒から生ずる關係(#相對主義の泥沼 #文化荒廢)⇒文化荒廃的概念〔②#美意識(倫理代替)喪失 # #礼節 喪失〕⇒②への非對應が「#現代日本人の非倫理的性格」(①への適應異常)。

 
『私小説的現實について』        

*戰後の、《否定因》即ち絶對概念「神・佛・天 #理想人間像」の缺如⇒からの關係「①相對主義の泥沼」⇒①的概念「現代日本人の非倫理的性格」⇒恆存曰く「更なる惡化 #エゴイズムの惡徳

 
#現代日本人 に,culture(#文化/耕す:養ふ/#教養)が缺如!

  文化(culture)⇒からの關係:耕す養ふ(culture)⇒②:言葉.物⇒教養(#culture)とは②の用法 :#言葉遣ひ #禮儀 丁寧語 #謙譲 ヒューモア⇒#人間


「完成せる統一體としての人格」論

  場〔歴史(時間的全體),自然(空間的全體)〕⇒から生ずる關係(#文化)⇒②文化的概念(假面:#保守 #禮節)⇒②との附合ひ方を場①へ反映⇒#人格成立:①への適應正常。

 

*西歐二元論に對する近代化適應異常アフガン)。

*西歐近代(#二元論)⇒からの關係( #近代化)⇒①的概念(#科学製品③科学精神「#平等 #自由 #民主主義」)⇒②の輸入は出来たが③移植の不能 (言葉への距離感缺如 not so called)#アフガン人 ①適應異常

*西歐近代⇒からの關係( #近代化)⇒①的概念(②法の下の #平等 #自由 #民主主義 #個人主義的 #権利 #義務 #制度 )⇒②用語への理解不能 #距離感缺如(言葉へのnot so called)#アフガン人 ①への適應異常


『劇場への招待』(再出版『演劇入門』)

主題(全體)⇒關係:役⇒せりふ⇒演戯

「役者にとつて最も重要なことは自分の演じる人物の性格ではなく劇の主題(全體)は何であるかを見極める事、そして自分の役がその主題とどういふ關係(D1)にあるかを理解することである」。

*「名女優、必ずしも大女優ではない。巧くもないのに大女優になれるのが日本の演劇界の風土。私は名女優に大女優になることを期待する。自分を殺して役になり切るまでは名女優。が.その殺した自分が役の上に再び伸び上がつてきて初めて大女優といへる」(『せりふと動き』)。

 

著 文化とはなにか

   歴史(時間的全體)⇒から生ずる關係(文化)⇒文化的概念(②言葉・事物等)⇒②との附合ひ方(#教養 生き方・樣式・美意識・禮儀作法・国語正統表記・有機的祝祭日)⇒日本人(①への適應正常)

 

著『人間の生き方、ものの考へ方』の #二元論

#イエス〔神と二人きり(個人的自我のみ)〕⇒からの關係:イエスの尻拭ひ(②集團的自我の救濟)⇒#ゲルマン民族 #神学 #中世 #教門政治〔②的概念(二元論的對應)〕⇒西歐人:①への適應正常。#西歐近代化の達成。

 

人間の生き方、ものの考へ方 

   # # #天 (#絶對)⇒からの關係 ②#道徳 # #慈悲 ⇒③自己犠牲(②的概念)⇒③の捉へ方〔家庭 國家 世界 人類(集團的自我上)に 最高善 を實現〕 ⇒①への適應正常

 

#人間・この劇的なるもの

場⇒から生ずる關係(#意識)⇒①平面を横這ひする日常性 #時間的平板さ⇒①から起き上がる行爲「意識的に部分(現在)としての自己を味はひ尽くす」#演戯⇒時間的#全體感(場への適應正常)#必然感

 

#エゴイズム と #愛 

   神の死(絶對喪失)⇒からの關係(宿命喪失)⇒②#個人主義(宿命喪失概念)⇒②は愛しえない 。

 

著 戰爭と平和と 

#生命第一主義⇒からの關係(#エゴイズム #相対主義)⇒①否定因(①對立概念: #自己犠牲 #理想人間像 # # #)の缺如⇒所詮どんな思想主張もお爲ごかし(①と自己との距離不成立)⇒全體の生命(即ち #国家 )觀喪失。

更に論考を續ける。

*「完成せる統一體としての人格」論を、現代人は何故出來ないか?の理由・・・

PP圖「完成せる統一體としての人格論」文中、「過去の歴史と大自然の生命力(時間的全體・空間的全體)に繋つてゐなければ、人格は崩壊する」云々の箇所には記載してはゐないが、左圖には記載の、「繋り役」である宿命(D1)。そして、その概念(D1)に「文化」は入るのであるが、その「文化」が喪失(D1の至小化)と謂ひ。又「おそらく日本の全歴史を通じて現代ほど文化が薄ぺら(D1の至小化)になり、教養ある階級を失つた(Eの至小化)時代はなかつたらう」(『傳統技術保護に關し首相に訴ふ』)と恆存は言ふ。つまり、歴史(時間的全體C)との扇の要(D1)である文化が「喪失・薄ぺら(D1の至小化)」が故に、現代日本人は、「完成せる統一體としての人格」論(以下關係論)の構築が出来ないと言ふ事なのである。此處に「現代人は何故出來ないか?」の答へがあると言へる。

「完成せる統一體としての人格」論(ツイッター投稿文)kanseiseruA.pdf へのリンク

關係論:①場〔歴史(時間的全體),自然(空間的全體)〕⇒から生ずる關係(#文化)⇒②文化的概念(假面:#保守 #禮節、等々)⇒②との附合ひ方(Eの至大化)を場①へ反映(D1の至大化)⇒「完成せる統一體としての人格」(△枠)成立:①への適應正常。

 そして、「文化喪失・文化が薄ぺら(D1の至小化)」の原因として、「形・樣式の喪失(Eの至小化)を、恆存は以下「各文章」にて擧げてゐるのである。

*「今更愛國心〔「完成せる統一體」圖の防衛(D2の至大化)と同意〕を強調しても始まりません。具體的な『物』(F)としての附合へる文化(關係:D1の至大化)を失つてしまつたのでは、愛國心(國家防衛)の手掛りは何處にも無くなる」(『教育改革に關し首相に訴ふ』)――當文に小生注を附す――文中具體的な『物』(F)としての附合へる」とは、「物(言葉F)⇒附合へるEの至大化)」と言ふ機能の、「形・樣式」(Eの至大化)の存在を示す。つまり「具體的な『物』としての附合へる文化(關係:D1の至大化)を失つてしまつた」とは、「形(樣式:Eの至大化)の喪失=文化(關係:D1の至大化)の喪失」を示す。故に、形(樣式:Eの至大化)=文化(關係:D1の至大化)を、「失つてしまつたのでは、愛國心〔防衞(D2の至大化:への關係)⇒國(場 C‘)⇒歴史(場C)〕の手掛りは何處にも無くなる」といふ事になる。

即ち、愛國心(D2の至大化:國C’への關係)の基盤は文化(關係:D1の至大化)、形(Eの至大化)なのだと。故に「形・文化喪失」は、以下枠文で謂ふ「現代日本人の非倫理的性格」を招來し、それが愛國心(防衛心・保守)缺如と表裏一體、今日的禍ひと化している、と恆存は言ふのである。

此處に明確となって來たのは、「完成せる統一體としての人格」の對立概念は、「相對主義」といふ事なのである。相對主義の平面構圖(―)からは三角構圖(△)は構築され得ない。つまり、「形喪失(物との距離感喪失)+エゴイズム」の相對主義からは、三角圖(「完成せる統一體としての人格」論)は構築され得ないと言ふ事なのである。「相對主義の泥沼」(以下枠文)に棲息する現代人には、「出來ない」理由が此處にある。

〔文化荒廢(D1の至小化)⇒形喪失(Eの至小化)⇒現代日本人の非倫理的性格〕:以下「 」内が恆存文。( )〔 〕内は吉野注。

 *「(戰後の眼に見える絶對者喪失による)相對主義の泥沼」+「戰後、日本文化荒廢(D1の至小化)に據る、美感・美意識(形・樣式)の摩耗・喪失化(Eの至小化)」=「現代日本人の非倫理的性格」。

〔「關係論」での記載〕(ツイッター投稿文から轉載)

#敗戦:絶對(#天皇)喪失⇒からの關係(#相對主義の泥沼 #文化荒廢)⇒文化荒廃的概念〔②#美意識(倫理代替)喪失 # #礼節 喪失〕⇒②への非對應(not so called)⇒#現代日本人の非倫理的性格:①への適應異常。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~上記の詳述~~~~~~~~~~~~~

以下「 」内が恆存文。( )〔 〕内は吉野注。

*「日本人は封建時代に、現實的な絶對者をもつてゐました。それが明治になつてから天皇制に切りかへられた。そして戰後はさういふ絶對者を一氣に投げすててしまつたのです。現在の私たちは單純な相對主義の泥沼のなかにゐる。なほ惡いことに、私たちはそれを泥沼とは感じてゐない。たいていの人が相對主義で解決がつくとおもつてゐます。が、私は戰後の混亂のほとんどすべてが、この平板な相對主義の悪循環から生じてゐるとおもひます。私自身、ものを考へ、判斷するばあひ、これにはまつたく手を焼いてをります。超自然の絶對者(C:否定因)といふ觀念のないところ(即ち相對主義)では、どんな思想も主張も(平和の主張も)、たとへそれが全世界を救ふやうな看板をかかげてゐても、所詮はエゴイズム(相對の産物)にすぎない〔『神(C:否定因)なくして個人(相對)の權利(エゴ)を主張しえない。それをあへてなすことは惡徳である』(『近代の宿命』文と同意)〕といふことを自覺していただきたい」(『日本および日本人』全三P198)

・・・吉野注『所詮はエゴイズムにすぎない』とは、否定因(絶對・神:C)を持たぬ相對主義の中では「エゴイズム否定」ができないと言ふ事。つまり『ある人間のエゴを否定する爲に他の人間のエゴをもちだしてくる』『平板な相對主義の悪循環』となるだけだから。

*〔文化と形の相關關係について〕

《文化と形:各評論からの抜粋》

*〔歴史⇒文化⇒形⇒人間⇒愛國心(防衞:保守)⇒歴史〕(「完成せる統一體としての人格」圖の補足)⇒PP圖參照「完成せる統一體としての人格」圖kanseiseruA.pdf へのリンク

關係論:①歴史(時間的全體C)⇒からの關係:②文化(D1の至大化)⇒「③:物(言葉・人:F)」⇒E:③との附合ひ方(形・型・生き方・様式・仕来り・美意識・禮儀・謙譲・國語正統表記・祝祭日・祭祀)⇒人間(△枠)⇒愛國心・防衞(國・①への關係:D2の至大化)⇒歴史(時間的全體C)。

*恆存は傳統や文化を、「歴史(C:時間的全體)⇒文化・傳統(D1:關係)⇒自我(A集団的・B個人的)⇒保守(D2:自己劇化)⇒全體・絶對(C)⇒實在感・全體感獲得(D3)」と言ふ圖で捉へてゐる。

*「現代の日本には主體的な生き方(Eの至大化)や心の働き(Eの至大化)としての文化(culture)や教養(culture)がないばかりか、文化(D1の至大化)とはそのやうな主體的な精神の型(Eの至大化)だといふ觀念さへないのです。おそらく日本の全歴史を通じて現代ほど文化が薄ぺら(D1の至小化)になり、教養(culture)ある階級を失つた(Eの至小化)時代はなかつたらう。(中略)私たちはまづその自覺に徹すべき」(全五P187『傳統にたいする心構』)。

*「文化(D1の至大化)と教養(Eの至大化)とが一語に結びつくやうな文化(culture)が、また心して栽培(Eの至大化)し、自ら習熟するやうな仕來りや態度(Eの至大化)が、さらにその背景をなす宗教(C)的な生き方(祝祭日・祭祀・儀式:Eの至大化)が、今の日本には無いのだといふことになります。(中略)が、それはあくまでも現代日本文化の姿であつて・・」(『傳統にたいする心構』)。

*「一時代、一民族の生き方が一つの型(E)に結集する處に一つの文化(culture:D1の至大化)が生れる。その同じ物が個人に現れる時、人はそれを教養(culture:Eの至大化)と稱する」(全四P393『文學以前』)。

 

*〔ツイッター投稿文〕

#現代日本人 に,Culture(#文化/耕す:養ふ/#教養)が缺如!

  文化(culture)⇒からの關係:耕す養ふ(culture)⇒②:言葉.物⇒教養(#culture)とは②の用法 (#ヒューモア #言葉遣ひ #礼儀 丁寧語 #謙譲) #人間。

◎『覺書:六』「完成せる統一體としての人格」論

  場〔歴史(時間的全體),自然(空間的全體)〕⇒からの關係(#文化)⇒②文化的概念(假面:#保守 #禮節)⇒②との附合ひ方を場①へ反映⇒#人格成立:①への適應正常。

◎『#傳統技術保護に關し首相に訴ふ』

#歴史(#時間的全體)⇒からの關係(①#傳統 #文化)⇒②言葉・物(①的概念)⇒②との附合ひ方(# #生き方 #様式 #仕来り #美意識 #禮儀 #謙譲 #國語正統表記 #祝祭日)⇒#日本および日本人。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

以下「 」内が恆存文。( )〔 〕内は吉野注。

*「明治以來の國民皆學の教育狂(國家近代化の爲の教育)が日本の文化を破壊して來た」からであり、その國家の近代化(西歐化)が日本文化の崩壊を招いたからである、と恆存は指摘する。「今日の日本人の心に穿たれた空洞は」それが原因であり「近代化の實績を擧げた」犧牲として「日本人固有の文化」の喪失が支払われたのであると。(拙発表文『教育改革に關し首相に訴ふ』から)。

 

設問③〔「完成せる統一體としての人格」論は、どのやうにしたら普通の人が生かせるのか。その手段とは〕

*設問②からの論理的歸結として・・・

「形(物との距離感)即ち、仕來り/美意識/禮節/謙譲/國語正統表記/祝祭日/祭祀等)の復活(Eの至大化)⇒文化復興(D1の至大化)」を企てる事。それが普通の人が、「完成せる統一體としての人格」論を生かす(達成させる)手段となる。

 是については、恆存の以下二文が參考となる。注:以下( )〔 〕内は吉野注。

*「愛國心(國への關係)の場合も道徳觀の場合も、その前に先ず物(言葉F)を、それも生きてゐる物(F:心を通はせられる物)を必要とします。人々の求めてゐるものは「期待される人間像」などといふ抽象的理想(C)ではなく、もつと具體的な存在、即ち吾々が手を觸れ、心を通はせる(Eの至大化)事の出來る物(物F⇒Eの至大化)〔とは、言葉(物/人:F)への距離感(Eの至大化):つまり、生き方/仕來り/禮節/言葉遣ひ/國語正統表記/美意識/祝祭日/祭祀等(Eの至大化)〕そのものなのです」(『傳統技術保護に關し首相に訴ふ』P42)。⇒以下枠文參照。

*以下は上文と同樣な内容であるが、重要なので「小生注」を附記して記載する。

「民主主義も人権尊重(當論では『愛國心』)も單なるハイカラな概念(F)としてでなく、常識(Eの至大化)として、即ち文化(D1の至大化)として空氣の如く周囲に存在する樣になれば〔とは、形(仕來り/美意識/禮節等)の活性(Eの至大化)=文化の釀成(D1の至大化)が、空気の如く周囲に存在する樣になれば〕、たとへ讀み書き算盤だけの知識〔參考例『ローカル電車での老婆の常識(Eの至大化)』〕でも近代人(△枠)として立派に生きていけるのです」(『教育改革に關し首相に訴ふ』)。

 話を分かり易くする爲に、「愛國心」に限つて論を進める。

上記二文には、形に依る、「愛國心」(D2の至大化)の現實的具現化(客體化:Eの至大化)が述べられてゐる。つまり、愛國心(D2の至大化)は、形(Eの至大化)に依つて現實的に具現化されるのである。空氣の如く周囲に存在する樣に」とは、愛國心の地上的様式化(Eの至大化)の事であり、様式化の姿が「生き方/仕來り/禮節/言葉遣ひ/國語正統表記/美意識/祝祭日/祭祀等(Eの至大化)」なのである。國(場 C‘)への關係(D2の至大化)である愛國心が、具體的に、形(Eの至大化)ある物(F)として、現實に客體化〔即ち、仕來り/禮節/言葉遣ひ/國語正統表記/美意識/祝祭日/祭祀等に表現化(Eの至大化)されてゐる事が、生活上必要であり、その状態が常識(Eの至大化)であり文化(D1の至大化)なのだと。 
是を、逆説的に有り體に言ふと、“「仕來り/禮節/言葉遣ひ/祭祀等」に、愛國心が表現化もされてゐない非文化(野蠻)國を、愛せる譯はない”と言ふ事になる。

 

《愛國心(國への關係:D2の至大化)形成は、形〔物との距離感=仕來り/禮節/謙譲/國語正統表記/美意識/祝祭日/祭祀、等(Eの至大化)〕の構築によつて表せられる(つまり:D2の至大化=Eの至大化)》

〔形構築仕來り/禮節等:Eの至大化)で、關係と言ふ眞實を生かす(文化再生・愛國心形成:D1の至大化)が可能〕

關係論:①歴史(場 C)②國(場 C‘)⇒①からの關係:③文化(D1の至大化)⇒「④:物(人・言葉:F)」(③的概念F)⇒「手を觸れ心を通はせる形(④との距離感:Eの至大化):即ち、仕來り/禮節/謙譲/國語正統表記/美意識/祝祭日/祭祀、等(Eの至大化)」⇒人間(△枠)⇒形構築〔手を觸れ心を通はせる形(⑤との距離感獲得:Eの至大化):即ち、仕來り/禮節/謙譲/國語正統表記/美意識/祝祭日/祭祀、等の復活(Eの至大化)」⇒「⑤:物(人・言葉:F)」(⑥的概念F)⇒⑥:文化再生(D1の至大化)・愛國心〔防衞心・保守:國への關係(D2の至大化)形成〕⇒國(C‘)歴史(C)。


 是を、もつと分かり易く、恆存の文から援用すると以下の樣になる。

*場( C‘:國)から生ずる、「關係(D2の至大化愛國心)と稱する實在物は、潜在的には言葉(物・人:F)によつて表し得る」。故にその言葉(物:F)との附合ひ方〔手を觸れ心を通はせる形(物との距離感:Eの至大化)即ち、仕來り/禮節/謙譲/國語正統表記/美意識/祝祭日/祭祀、等(Eの至大化)によつて、人間(△枠)は場( C‘:國)との關係の適應正常化(D1の至大化)が叶へられる(傍線部分小生の説明的加筆)。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~(上文は以下文からの援用)~~~~~~

全七P300『せりふと動き』より 

*場( C‘)から生ずる、「關係(D1)と稱する實在物は、潜在的には一つのせりふ(F:言葉)によつて表し得る」。故にその言葉(F)との附合ひ方(フレイジング・So called:E)によつて、人間は場( C‘)との關係の適應正常化(D1の至大化)が叶へられる(傍線部分小生の説明的加筆)。

◎恆存は、「戰後の日本は文化を喪失してゐる」とも言ひ、「今更愛國心を強調しても始まりません。具體的な『物』としての附合へる文化(關係:D1)を失つてしまつたのでは、愛國心の手掛りは何處にも無くなる」(P59『教育改革に關し首相に訴ふ』)と主張する。しかしさう言ひながらも翻つて、だが「絶望する必要は無い。日本人にはまだ日本の自然(空間的全體:C)があり、國語(文化の最後の砦?としての正假名正漢字E)があり、そして歴史(時間的全體:C)があります。それが今日もなほ私達に殘された最小限の文化(CD1の至大化)です」(全六『教育改革に關し首相に訴ふ』より)と、その樣な現代日本の悲觀的情況の中でも失望せず、「樂觀的觀測」の手を日本人に差しのべる。

即ち、仕へるべき全體(C)とその紐帯(關係:文化)を、最小限とはなつたが、日本人は未だ喪失してはゐないのだと我々に訴へるのである(拙發表文『教育改革に關し首相に訴ふ』より)。その文化再興(D1の至大化)の手だてが、形・樣式の復活(Eの至大化)なのであると。つまり「完成せる統一體としての人格論」(△圖)を構築する土臺となるのは形・樣式(Eの至大化)なのだ、と遺言的に訴へてゐるだと、小生は今般聞き及んだのである。

◎出典は定かならぬが、恆存の文言に「日本は外壓がないと變はらない」がある。是をもつてするなら、中國の野心「臺灣・尖閣諸島侵略」がそれに當たり、設問③(どのやうにしたら普通の人が生かせるのか。その手段とは)の別角度からの答へともなる。

◎是も、出典は定かならぬだが、恆存曰く「國を愛するのは、『美しい國』だから(岡潔の論)ではない。父母と同樣、自分を生んでくれた國だからである」云々。此處に國の爲に戰へる「アイデンティティー」なるものを掴む事が出來る。

◎昨今、TVを賑はしてゐる、ワールドベースボール(WBC)の現象の内にも、「樂觀的觀測」は見えなくもない。彼等日本人(系)プレイヤーは、「國家(日本)の爲に鬪ふ」事に、激しい情熱と喜びを持つてゐるのである。今日死語のなりつつある、對他の爲に生きると言ふ「潛在的無意識」が、場(C‘)と言ふ機會を得て發揚するのである。そして打撃に立つた時、それに火が點く。

 是と同じく、新聞データーに據れば、愛國心の薄い我が國の若者でも、一朝國難(臺灣・尖閣諸島侵略)ともなれば、對他の爲に生きると言ふ「潛在的無意識」に火が點くと想定出来る。

尚、更にかう言ふ例もある。過去戰上で「戰ふ前に、勇壮に息吹いてゐた兵隊より、怯えてゐた者の方が、いざ戰ひとなると力を發揮してゐた」との話が・・。

 

設問④〔恆存の最重要なる本質「關係が全て」「關係と言ふ眞實」とは〕

PP圖文:何役かを操る各場面でそこから發生する、關係の「眞實を生かすために一つのお面をかぶる(役を演ずる・自己劇化)」「演戯なしには人生は成り立たない。つまり假説なしには成り立たない」。「眞實といふのは、ひとつの關係の中にある。個々の實體よりはその關係の方が先に存在している。人生といふものは、關係(目上⇔目下・親⇔子・師⇔弟子・國⇔國民、等々)が眞實なんで、一生涯自分のおかれた關係の中でもつて動いてゐる。いろいろな關係を處理していき、それらの集積された關係がその人の生涯といふもの。それを私は演戯だといふ」。

「關係の無いところでは、個も全く捉へ處も手掛りも無いものとなる。個よりも關係の方が先に存在し、一つ一つの個は既成の關係の中に生まれ來るのだからである。(中略)もともと存在し得ぬ、實體の無い自己(「無限定性の自己」と同意か?)に對して誠實になるとは、何の意味も成さぬはずだ。人生が芝居以上に芝居であるならば、吾々は自己に對してではなく、その芝居に對して誠實でなければならぬ」。

上記二文は何を言はんとしてゐるのであらうか。「吾々は自己に對してではなく、その芝居に對して誠實でなければならぬ」とは、「誠實とは對他的概念」だと恆存は言ふのである。又、上文「關係と言ふ眞實」とは、以下枠文の「關係(D1)と稱する實在物」の事であり、「關係と言ふ眞實」を生かす(D1の至大化)ために一つのお面をかぶる(Eの至大化)」とは、以下の「附合ひ方(so called:Eの至大化)、せりふへの用法(言葉との距離感:Eの至小化)」で、「關係と言ふ眞實(實在物)」を「形のある『物』として見せる」の事である。「宿命的役を演ずる(D1の至大化)」とは、「場( C‘)との關係の適應正常化(D1の至大化)が叶へられる」と言ふ事である。

全七P300『せりふと動き』より 

 

*場( C‘)から生ずる、「關係(D1)と稱する實在物は、潜在的には一つのせりふ(F:言葉)によつて表し得る」。故にその言葉(F)との附合ひ方(フレイジング・So called:E)によつて、人間は場( C‘)との關係の適應正常化(D1の至大化)が叶へられる(傍線部分小生の説明的加筆)。

*著『#せりふと動き』(ツイッター投稿文から)

場面⇒から關係として生ずる「①心の動き」⇒を「せりふと動き」(①的概念)⇒への用法(Eの至小化:#フレイジング #距離測定 So called)で、「形のある『物』として見せる」場面への適應正常(#役者△修業 は #人間△修業)。

場面(C’)から關係(D1)として生ずる「心の動き(D1)を形のある『物』として見せる(Eの至大化)のがせりふの力學(フレイジング:E)」(『せりふと動き』)。

*「すべてのせりふ(F)において、それ自体の意味内容より關係(D1)の方が先行するといふ事、観客に見せなければならぬのは、何よりもその關係(D1)なのだといふ事」(P318『せりふと動き』)。

*『シェイクスピア劇のせりふ』

「せりふ(F)は語られてゐる意味の傳達を目的とするものではない。一定状況の下(場面C’)において、それを支配し、それに支配されてゐる(D1:宿命・關係)人物の意志や動きを表情や仕草と同じく形のある『物』として表出する事(Eの至大化)、それが目的であり、意味の傳達はその爲の手段に過ぎぬ」(P345)。

 であるから、以下『關係論』記載の形構築(一つのお面をかぶる:Eの至大化)で、「眞實を生かす」文化再生(D1の至大化)・愛國心(D2の至大化)形成〕事が可能(「完成せる統一體としての人格」が現成)となるのである。

〔『關係論』:冒頭記載文からの轉載〕

  #敗戦:絶對(#天皇)喪失⇒からの關係(②:#相對主義の泥沼 #文化荒廢)⇒「③:言葉・物(F)」(②的對立概念)⇒③との距離感喪失(Eの至小化)即ち、#美意識(倫理代替)喪失 # #礼節 等,喪失(Eの至小化)〕⇒#現代日本人の非倫理的性格(△枠)(①への適應異常)⇒④形構築〔手を觸れ心を通はせる形(⑤との距離感獲得:Eの至大化):即ち、仕來り/禮節/謙譲/國語正統表記/美意識/祝祭日/祭祀、等の復活(Eの至大化)⇒「⑤:物(人・言葉:F)」(⑥的概念F)⇒⑥:文化再生(D1の至大化)・愛國心〔防衞心・保守:國への關係(D2の至大化)形成〕⇒國(C‘)歴史(C)。

 

設問⑤「西歐は行き詰まつてゐる。日本は昔に還れ、云々」について・・・

二元論即ち「完成せる統一體としての人格論」の未達成の國民は、昔に還れ」ば、昔の一元論(精神主義)の轍を又踏むだけでは。評論『肉體の自律性』記載の愚的現象を取り戻すだけではなからうか。近代化はネセサリーイーブル、進歩は必然惡、及び以下恆存の論を論究すべき。

〔ツイッター投稿文からの轉載〕

#近代の宿命』

#神の死 (近代西歐)⇒から生ずる關係(①#近代化:神の解體と變形と抽象化)⇒②:「民主主義 個人主義 等」(①的概念)⇒への用法(②即ち言葉への距離測定・So called #精神の政治學)で⇒①への適應正常化。

 

#近代の宿命』#二元論

#イエス〔神と二人きり(個人的自我のみ)〕⇒からの關係:①の尻拭ひ(②集團的自我の救濟)⇒②的概念〔二元論的對應(#ゲルマン民族 #神学 #中世 #教門政治)〕⇒①への適應正常。#西歐 #近代化 の達成。

 

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