令和四年十一月十七日

〔福田恆存を讀む會〕

吉野櫻雲 發表文

 

 

『文學に固執する心』:全集第二巻所收(『新文學』昭和二十二年三月號)

 

 

〔難解又は重要文〕P234上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

*「文學(B)の社會性(A)とはなにか。文學者(B)の社會(A)的關心とはなにを意味するのか。私小説、乃至は心境小説を本道とする日本の近代文學が社會性(A)の缺如によつてその非を責められ、文學者(B)が一人前の社會人(A)としての識見と資格とをもちあはせてゐないことに輕蔑を買つてゐるにしても、その罪(「日本の近代文學が社會性(A)の缺如」の罪)はどこにあるのか。いふまでもなくすべては近代日本の歴史が追はねばならなかつた必然である。(中略)ぼくたちは依然としてぼくたちの父祖を支配してゐた現實の中にあり、この現實の必然は新しい政治理想の登場とともに消滅するといふやうな單純なものではない」・・・文中以下①②③は何を言はんとしてゐるのであらうか。

①「文學(B)の社會性(A)とはなにか。文學者(B)の社會(A)的關心とはなにを意味するのか」。

②「私小説、乃至は心境小説を本道とする日本の近代文學が社會性(A)の缺如によつてその非を責められ、文學者(B)が一人前の社會人(A)としての識見と資格とをもちあはせてゐない」。

「その罪(「日本の近代文學が社會性(A)の缺如」の罪)はどこにあるのか。いふまでもなくすべて近代日本の歴史が追はねばならなかつた必然である」。

尚、明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。更に以下枠にて説明を試みる。

「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

  「文學(B)の社會性(A)とはなにか。文學者(B)の社會(A)的關心とはなにを意味するのか」について・・・『小説の運命Ⅰ』(昭和二十二年著)から。

*「個人主義の凋落(それが故の「個人主義の超克」)とともに、たしかに個人(B)の権威はおびやかされ、否定されようとしてゐる。ひとびとは社會(A)的價値の名のもとに一切の個人的なものを否定しようとしてゐる。社會(A)的價値を通じて以外に個人(B)の存在はみとめられない。これが二十世紀の理想であり、そのかぎりにおいて人類は進歩の段階をふみしめつつある。ぼくはそれを疑はない。が、それはあくまで政治(A)の理想であり、文學(B)の道ではない。ぼくたちのうちに――ぼくたちひとりひとりの内部に、政治(A)的=集團的自我(A)があり、また文學(B)的=個人的自我(B)がある。個人主義の線にそつての個人(B)の権威は没落しても、個人(B)の存在は永遠に失はれぬであらうし、文學(B)は――文學(B)が存續しうるかぎり、この存在を見うしなつてはならない。(中略)

 社會(A)が個人(B)を否定して抹殺してかかるならば、まさにその對立と矛盾とこそ好個の題材ではないか。(中略)前世紀においてこの(社會と個人の)對立は個人(個人主義)の勝利からその敗北へ、その自意識(「人間如何に生くべき:D2」)の發見とその虚妄(結局自己陶酔と言ふ:D3)とにをはつた。が、今日、個人(B)は敗北と自我喪失(個人主義は畢竟エゴイズム)とから、この危機におそはれてふたたび個人(B)と社會(A)との對立に直面してゐる。ひとびとは性急に個人(B)の廢棄によつてその解決がもたらされうると信じこんでゐるかにみえる。が、文學(B)者とは自己のうちの個人(B)を廢棄しえぬ人間ではなかつたか。とすれば、いかなるイデオロギーのまへにも、なんの氣がねもなく個人(B)に執着し、社會(A)との葛藤を通じていかにしてでも個人(B)を確立しなければならない。それはけつして社會(A)の否定へと道を通じてゐてはならない。社會(B)を肯定し、現代の政治(A)理想を肯定すればこそ、今日の個人の苦惱があり、この切實な苦惱を地盤として小説がなりたたぬはずはない」(P601全一『小説の運命Ⅰ』)。

 

  「私小説、乃至は心境小説を本道とする日本の近代文學(B)が社會性(A)の缺如によつてその非を責められ、文學者(B)が一人前の社會人(A)としての識見と資格とをもちあはせてゐない」について・・・〔著 『近代の宿命』から。

關係論神の死(近代西歐)⇒から生ずる關係(①近代化:神の解體と變形と抽象化)⇒自然主義文學・民主主義 ・個人主義 等(①的概念)⇒への用法(言葉への距離測定・so called  #精神の政治學)で⇒①西歐近代化への適應正常(日本は出來なかつた:近代化適應異常)。

 

拙發表文『獨斷的な餘りに獨斷的な』から。

西歐近代文學に對する近代化適應異常〕

關係論:①西歐近代文學と後進國日本文學と言ふ場(C‘)⇒から生ずる關係:②日本文學近代化(D1)⇒③「新しき小説(F)」「近代小説=自然主義小説といふ二十八糎砲の作成(F)」(②的概念)⇒E:③への用法不足(③への距離非測定・not so called ・精神の政治學未熟:Eの至小化)⇒①西歐近代文學への適應異常(日本)。

とは、とどのつまりは、「藝術家(B)である事の保證を目的とする私小説」家への顚落と言ふ事。換言すれば、A(實生活)的問題の解決忌避⇒B(文學)への逃避」(參照:P513上)。

 

〔難解又は重要文〕追加文「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

P515上:「私小説(B)の定義そのものの改變を要求した。詰り『藝術家(B)、知識人が他の職業に比して殆ど社會(A)的に顧みられぬといふ不滿、劣等感から、それ(私小説B)が如何に《神聖》な仕事であるかを立證し、自分がさういふ《聖職者:B》であるといふセルフ・アイデンティフィケイションを確立する爲の作業』を私小説(B)の定義とした方が、明治以後の文學を日本近代化の過程として捉へ易く、・・(中略)當時の作家にとつて何より緊急な事は優れた小説(藝術B)を書く事ではなく、自分がそれをなし得る人間、即ち藝術家(B)である事を、自他共に、いや、他の誰よりも自分に向かつて證明することであつた」云々。・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。それについては以下が參考になるのでは。

恆存の言ふ、明治日本の自然主義作家達の末路〕

*「藝術家、知識人が他の職業に比して殆ど社會的に顧みられぬといふ不滿、劣等感」⇒「文學(B)すらも文明開化の出世主義(A‘⇒A)のネガティーブな吐け口になつてゐた」⇒故に「文學(B)が如何に《神聖:B⇒C》な仕事であるかを立證」せんとした⇒作家は聖職者(B)⇒自己に忠實(D2:自己表現)⇒C”:自己完成といふ名の自己絶對視(その自己が作る「新しき小説」)・自己正當化(それ「新しき小説」の後楯(C2)となる西歐自然主義小説)⇒自己確認(D3)即ちセルフ・アイデンティフィケイション(虚妄の實感)・似非實在感。自己陶酔・自己滿足・エゴイズム⇒自己喪失。(劣等感即ち後ろめたい利己心は、「本來的には日本の民族性の内に、第二の習性として封建道徳の名殘り」だと恆存は言ふ。それが福沢諭吉等下級武士にもあつたと)

〔恆存が書く「自然主義作家・私小説家」に至る流れ。及びその似非實在感

江戸幕府瓦解(文化政策的な儒教倫理C‘の崩壊)⇒規範(D1)喪失⇒無限定性の自己(D1・關係・宿命喪失)⇒明治日本は、宗教改革の神に先導された西歐の資本主義と異なり、「日本の資本主義の擔ひ手はその出發點からなんの指導原理をもつてゐなかつた。その個人的な利潤追求はいかなる善意によつても裏づけられてゐない。近代日本(明治)は資本主義をはじめから利己的な惡徳として發展せしめる以外に道はなかつた(經濟的適應異常)。天皇と國家とのためにといふ名目を除外しては。(中略)近代日本の帝國主義は自己を限界づけるなにもの(國際主義)ももたなかつた(政治的適應異常)。のみならず、天皇や國家の権威は強者の惡徳を正當化した」(中略)⇒したがつて「明治の知識階級は政治活動(A)や社會活動(A)のうちに自己を生かすことを惡と見なさざるを得なかつた」『近代の宿命』全二P463)のである⇒加へるに利己心に對する後ろめたさ(日本人の習俗性と封建道徳の残滓)⇒爲に、「完全に私を放棄して政治に身を挺するか(「下級武士の和魂洋才」)、さもなければ頑強に私を固執(自己C‘絶對視)して一點に立ちすくむか(自然主義作家)」の二者擇一⇒それが故の、自然主義作家がした實生活(A)から文學(B)への逃避。即ち「文學(B)すらも文明開化の出世主義(A‘⇒A)のネガティーブな吐け口になつてゐた」。(と同時に和魂(B)は下級武士(福沢諭吉等)のアクティーブな吐け口と言ふ事なのでは)⇒自己に忠實(D2:自己表現)⇒C”:自己完成といふ名の自己絶對視・自己正當化⇒D3:自分でする自己確認即ちセルフ・アイデンティフィケイション(虚妄の實感)・似非實在感。

「テキストP9圖」參照及び『近代の宿命』(全二P463)『私小説的現實について』(全一P571~3)

~~~~~~~~以上は拙發表文『獨斷的な餘りに獨斷的な』から~~~~~~~~

 

著『適應異常について』他から。

*「日本の近代史を『近代化(D1)に對する適應異常(D1の至小化)の歴史』として見直す事を提案する」(著『適應異常について』)。⇒PP圖參照「彼我の差」higanosa.sozai.pdf へのリンク

關係論:①場(C‘:西歐近代)⇒から生ずる關係(近代化適應異常:D1の至小化)⇒②言葉(F:關係的概念)〔技術や社會制度的言葉、・民主主義・個人主義(文學)・自然主義文學・資本主義、即ち機械化・組織化・劃一化・合理化等々〕⇒②の用法(so called:フレイジングと同意)不成立(Eの至小化)・自分と言葉との距離測定の不成立(Eの至小化)⇒近代日本:①との關係の適應異常化(場への沈湎)。

關係論:近代西歐⇒からの關係(①:近代化)⇒①的概念(②個人主義的:権利義務・制度 ・法律)⇒②用語への日本人的距離感缺如(言葉へのnot so called・安直解釋)⇒①への適應異常。

 

  「その罪(「日本の近代文學が社會性(A)の缺如」の罪)はどこにあるのか。いふまでもなくすべて近代日本の歴史が追はねばならなかつた必然である」について・・・『近代の宿命』から(『②について』説明文と一部重複)。

⇒PP圖參照「彼我の差」higanosa.sozai.pdf へのリンク

*(明治日本は、宗教改革の神に先導された西歐の資本主義と異なり)「日本の資本主義の擔ひ手はその出發點からなんの指導原理をもつてゐなかつた。その個人的な利潤追求はいかなる善意によつても裏づけられてゐない。近代日本(明治)は資本主義をはじめから利己的な惡徳として發展せしめる以外に道はなかつた(經濟的適應異常)。天皇と國家とのためにといふ名目を除外しては。(中略)近代日本の帝國主義は自己(A:國家的エゴイズム)を限界づけるなにもの(國際主義:B)ももたなかつた(政治的適應異常)。のみならず、天皇や國家の権威は強者の惡徳を正當化した。(中略)したがつて「明治の知識階級は政治活動(A)や社會活動(A)のうちに自己を生かすことを惡と見なさざるを得なかつた。その知識階級を救ったのが文學(B)に他ならない。(中略)知識階級は現實社會(A)において世間的出世(A‘⇒A)をすることをいさぎよしとしなかつた。が、もし社會關係(A)において支配=被支配の自己(集團的自我:A)が滿足せしめられないとすれば、それはどこかに吐け口を求めずにはゐられない(A⇒B滑り込み:ルサンチマン)。當然それは純粋なる個人の領域(個人的自我:B)へと侵入しはじめたのである。神(C)の棲まぬこの領域(否定因CのないB)は容易に支配=被支配の自己(集團的自我:A)の奪取するところ(『弱者の歪曲された優越意志』A⇒B滑り込み:ルサンチマン)となつた。ここに明治の文學(B)は支配=被支配の自己(集團的自我:A)をもつてしては割り切れぬ個人の純粋性(個人的自我:B)を守るものとしてではなく、外部において抑壓された支配=被支配の自己(集團的自我:A)を曲がりなりにも生かす(A⇒B滑り込みの)手段として出發したのである。しかも、それはあくまで純粋なる個人(個人的自我:B)の假面をかぶり、その領域(個人の純粋性=個人的自我:B)の問題として自己を表現せんとしてゐる(自己欺瞞、即ち『弱者の歪曲された優越意志』A⇒B滑り込み:ルサンチマン)。なぜなら、近代日本の知識階級が直面した自我の眞態といふのはじつは個人の純粋性(B)ではなく、たんなるその特殊性〔とは『支配=被支配の自己(集團的自我:A)だけが露骨に自己主張』の意:自己主張のエゴイズム〕以外のなにものでもない(以下參照)。

神(C)無くしての個人の特殊性(參照:P458全二『近代の宿命』)。

 

*「(西歐)個人主義は個人の純粋性(B)を擁護せんとした」が、結局C(絶對・神)無くしての「個人の純粋性(B)」は、その特質を發揮し得ず、単なる「個人の特殊性」にと轉落せざるを得なかつた(參照:P458全二『近代の宿命』)。

とはつまり、「神(C)に從屬せぬ個人の純粋性(B)といふがごときものがつひにその特殊性以外のなにものでもなく、いひかへれば、支配=被支配の自己(集團的自我:A)を蔽ひ美化してゐた(A⇒B滑り込みの)ヴェイルが剥落してしまひ、人間完成(C‘)などといつてもそこに目標とすべきなんの理想人間像(C)もない。支配=被支配の自己(集團的自我:A)だけが露骨に自己主張をしてゐる(參照:P465全二『近代の宿命』)その情態を言ふ。

*關係論:西歐近代=「神Cの死」即ち「神意(D1宿命)喪失」からの關係:「神の代はりに自己の手による宿命(D1)演出⇒「D2:自己主張(表現)・自由意思(人間如何に生くべき)⇒「C‘:自己完成(自己主人公化・自己全體化・自惚鏡)⇒「D3:自己陶酔・自己滿足・自己絶對視・自己證明による「似非實在感」⇒「自己喪失(自己への、距離感喪失・適應異常)。

續く⇒(中略)當時の知識階級は世間的出世(A’⇒A)をいさぎよしとせずして、惡徳のともなはぬ出世法(A‘⇒A)、乃至は處世法(A’⇒A)として文學(B)をとりあげた(A⇒B滑り込み:ルサンチマン)のであつた。したがつて明治の知識階級にとつて、もしかれらの輕蔑する俗物に轉落したくないならば、文學(B)によつて自己を生かす(A⇒B滑り込み:ルサンチマン)以外に方法はなかつた」(『近代の宿命』全二P463~4)。

 

〔難解又は重要文〕P234下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

*「なるほどヨーロッパにおいては、この理想(「政治理想」=民主主義・自由主義)は一時代の人間努力の價値を表現する集約的概念でもあらう。が、ぼくたち日本人の現實に照して、それは絶對にさうではなく、努力のまへにまづ概念があるのである。(中略)間隙が容易に埋められるものとしてしか映じないのだ。ぼくたちの歴史は明治以來さうだつた。(中略)それゆゑにひずみはいつになつてもひずみのままに殘されて(PP圖參照「彼我の差」)今日に至つたた」・・・文中以下①②は何を言はんとしてゐるのであらうか。

①「ヨーロッパにおいては、この理想(「政治理想」=民主主義・自由主義)は一時代の人間努力の價値を表現する集約的概念でもあらう」。

②「が、ぼくたち日本人の現實に照して、それは絶對にさうではなく、努力のまへにまづ概念があるのである」。

尚、明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして更には以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。

  「ヨーロッパにおいては、この理想(「政治理想」=民主主義・自由主義)は一時代の人間努力の價値を表現する集約的概念でもあらう」について・・・〔著 『近代の宿命』他から。

*「この理想」(「政治理想」=民主主義・自由主義)は一時代の人間努力の價値を表現する集約的概念」とは、以下文章群を意味するのであらう。(集約的概念⇒PP右圖「彼我の差」參照)。

*「近代ヨーロッパは神を見失つた――が、それはただ神の解體と變形と抽象化とを意味するに過ぎぬ。まさにそのための手續きであり過程にすぎなかつたヨーロッパの近代精神とその政治制度・経済機構(A)」(『近代の宿命』全二P466)。

關係論:神の死 (近代西歐)⇒から生ずる關係(①近代化:神の解體と變形と抽象化)⇒民主主義・個人主義 等(①的概念)⇒への用法(言葉への距離測定・so called・精神の政治學)で⇒近代ヨーロッパ(①近代化への適應正常)。

*「萬人をその胸に救ひとる人格神が、その手をその脚を、さらにその胴體をもぎとられ、それらが制度化せられ機械化(A)せられる――で、神(C)は人體を失つて、完全な精神としての抽象化を受けるその精神が文學の領域(B)として殘されるといふわけだ」(『近代の宿命』全二P463)。

(尚、上記傍線部分の説明は以下傍線文を參照)
*「(西歐)十九世紀後半の自然主義作家にとつて、資本主義社會(A)は彼等の自我(A’)を實生活(A)において拒絶し扼殺するほどに堕落し硬化したのであり、しかもこの社會(A)的事實を彼等ははつきり凝視し、さらにこれを自己(A’)のものとして――いはば社會(A)の醜惡と痼疾とを自己(A’)のそれとして受け容れたのであつた。またそれゆゑの嚴しい自己否定(B⇒C:理想人間像)でもあつた(とは、A=A’として、即ちAの醜惡と痼疾、堕落と硬化を自己のもの、換言すれば「エゴイズムと虚榮と俗惡とのかたまり:P20」として受け容れたと言ふ事である)。彼等の自我(A’)はもはや作品(B)以外に主張と正當化との場所(B⇒C:理想人間像)を見いだしえなかつたのである」(『近代日本文學の系譜』全一P19)。

*「ヨーロッパの作家たちが自己(A’)をあへて作品(B)のうちに扼殺したのは、(「社會の醜惡と痼疾とを自己のそれとして受け容れた」爲に)、それ(A’)がすでに實生活(A)においても生きる道をもたなかつたからであり、彼等はさういふ自己(A’)を作品(B)のうちに甘やかすことを徹底的に嫌つたからであつた。いや、彼等は自己(A’)のうちに甘やかしうる餘地を見いだしえなかつた――(リアリズム=西歐自然主義によつて)それ(A)はエゴイズムと虚榮と俗惡とのかたまり以外のなにものでもなかつた」(『近代日本文學の系譜』P20)のを徹底的に思ひ知らされたからである。「實證主義は近代ヨーロッパに自我の平板さと無内容とをおもひしらせた。が、リアリストたちがさういふ近代自我に幻滅と絶望を感じたとすれば、ぼくたちはその絶望を可能ならしめたものとして、かれらの夢想してゐた自我の内容の高さと深さとに想ひいたらねばならず、その背景に發見されるものは神(C)でなくしてなんであつたらうか。そして十九世紀末葉から現代にかけて、かれらの精神が「現代人の救ひ」を求めつつ漂泊をつづけてゐるとすれば、それは實證主義がかれらの自我のうちから追放した神(C)に型どれる人間の概念の探究でなくしてなんであらうか」(全一P637『現代人の救ひといふこと』)。

  「が、ぼくたち日本人の現實に照して、それ〔この理想は一時代の人間努力の價値を表現する集約的概念」〕は絶對にさうではなく、努力のまへにまづ概念があるのである」について・・・拙發表文『「私小説家」「近代日本知識人」「清水幾太郎」の相似形』から

*「努力のまへにまづ概念がある」とは、〔表象(後楯)の概念⇒PP左圖「彼我の差」參照〕を參照されたし。そして更には以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。

「 」内が恆存文。( )内は吉野注

*恆存は、「日本の知識階級は言はば絶對的自己肯定者(C‘自己主人公化)として終始してきた」と看破し、「私小説家・近代日本知識人、その典型としての清水幾太郎」の三者を、いずれもパターンは「テキストP9」の「日本精神主義構圖」だと言つてゐる。即ち

「現實(A)的不滿⇒B:逃げ處としての個人的自我概念⇒C‘自己主人公化(自己完成:絶對的自己肯定)・安全地帶⇔左項「安全地帶」への後楯・護符(C2)として「詩神・外來思想(プラグマティズム等)や上位概念(世界・社會・階級」を持つ⇒それを強みに自己滿足・自己正當化(似非生き甲斐・似非實在感)」:自己確認(D3)即ちセルフ・アイデンティフィケイション(虚妄の實感)

だと。

そして彼等「絶對的自己肯定者はあらゆるものを自己の手中に収めようとして、その結果、自己の不滿(A:現實的不滿)を處理する能力だけを失つた人間である。(中略)不滿の原因は現實といふ客観的對象のうちにのみあるのではないのに、彼等はそれをそこ(A的不滿)にのみ見出さうとする。いや、さうする以外に能力も無く、方法も知らぬのであります」と上記三者を當該評論で鋭く指摘してゐるのである。(『日本の知識階級』全5P369)

そして「絶對的自己肯定」の爲に、その肯定因として「C2:護符・後楯)」を上位概念「世界・社會・階級、大思想」に求めようとするのだと。さうなる理由として、西歐近代が否定因としての神を背景に持つに對して、前近代日本はそれを持たないが故にである。

 

〔難解又は重要文〕P235上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

*「ぼくたちの近代文學に社會(A)性が缺如してゐるとしても、それはひとり文學(B)の罪ではない。近代日本の社會そのものの缺陷である。いや、日本には正しい意味における近代の市民社會なるものが存在しなかつた。これは今日では完全な常識である」・・・文中以下①②は何を言はんとしてゐるのであらうか。

①「ぼくたちの近代文學に社會(A)性が缺如してゐるとしても、それはひとり文學(B)の罪ではない。近代日本の社會(A)そのものの缺陷である」。

②「日本には正しい意味における近代の市民社會なるものが存在しなかつた」。

尚、明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして更には以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。

  「ぼくたちの近代文學に社會性が缺如してゐるとしても、それはひとり文學の罪ではない。近代日本の社會(A)そのものの缺陷である」について・・・

*前項、〔難解又は重要文〕P234上の、③「その罪(「日本の近代文學が社會性(A)の缺如」の罪)はどこにあるのか」で大かた記述してみたが、足りない部分がある樣な氣がするので、以下記載する。

拙發表文:「個人の危機」(參照:P65全一『現代日本文學の諸問題』他)から。

〔日本の特殊性〕:(PP圖「彼我の差」參照・・・

①神(C)否定による個人の優位性追求(C‘化)とその敗北。

*「近代自我(個人主義)の限界(とは、自己主張⇒自己主人公化⇒自己陶酔:畢竟エゴイズム)」⇒個人の敗北⇒個人の権威の否定⇒「社會的價値の名のもとに一切の個人的なものを否定」⇒個人は「社會にたいする有用性」としての價値へ轉落。

即ち「自我の必然」として浮かび上がつたエゴイズムによつて、個人(B)は「社會(A)の有用性」としてしか、その生き延びる道を見出し得なかつた、と言ふ事になる。

②社會(A)に對する、個人(B)價値の追求とその敗北:(注:社會=肉體A。個人=精神B。と恆存は見てゐる)

*「精神(B)は肉體(A)の保證なくしてその眞實性を自己確認しえぬ」・「物質(A)によつて支へられなければ、その所在も眞實性も保證しえぬ精神(B)のあいまいさ」⇒肉體(A:社會・物質)の優位性⇒精神(個人)の問題は物質でけりがつく⇒積極的承認:唯物論・社會主義へ。消極的承認:「個人は社會にたいする有用性」へ。(參照:P58・62~3全一『現代日本文學の諸問題』:P458全二『近代の宿命』)。

*この「個人の敗北」①②の説明について、恆存が言つてゐる、更に重要な點を見逃す事は出來ない。

それは何かと言ふと、西歐の場合、個人(B)が「社會(A)にたいする有用性」として價値轉落の理由は、①②の二つとも當て嵌るが、日本の場合は②しか當て嵌らないと言ふ事なのである。

「個人主義を経験しない(日本)國民が個人の限界(①)を口にするといふことは言語道斷」であると。そして戦後知識人がその欺瞞をしてゐるのだと。即ち彼等は、戰爭中の個人(B)敗北の後ろめたさを隠蔽すべく、外來思想(新漢語:「個人主義」)の権威を「自己保存の後楯・護符(C2化)」にした、と恆存は指摘(參照:『近代日本知識人の典型』他)する。そして、戰爭中の日本人の「個人の敗北」は、②の「物質(A:暴力・ファシズム)に對する個人(B)の敗北」でしかなく、「①近代自我(個人主義)の敗北」などとは關係ないのだと自己欺瞞を鋭く剔抉するのである(參照:P602全一『小説の運命Ⅰ』・P61全一『現代日本文學の諸問題』)。

 この西歐との彼我の差を、堪へず見逃しさうになる缺點を日本人は持つてゐるのである。

 恆存は評論中で、常に西歐的限界と日本的限界を「パラレル」に描き、その彼我の差を明示してゐる。しかし惜しむべきかな、我々日本人はそれを理解できない。

 

  「日本には正しい意味における近代の市民社會なるものが存在しなかつた」について・・・

是に該當する適切な恆存評論が、今の處想ひ浮かばないので、お分かりであれば教へて戴きたい。で、小生推察するに、日本は、以下「關係論」の如き「近代化適應異常」國なのであるから、其處に於ける社會は、「近代の市民社會なるもの」ではないのは當然なる論理的帰結と考へるのである。

關係論:近代西歐⇒からの關係(①:近代化)⇒①的概念(②個人主義的:権利義務・制度 ・法律)⇒②用語への日本人的距離感缺如(言葉へのnot so called・安直解釋)⇒①への適應異常。

關係論:神の死 (近代西歐)⇒から生ずる關係(①近代化:神の解體と變形と抽象化)⇒民主主義・個人主義 等(①的概念)⇒への用法(言葉への距離測定・so called・精神の政治學)で⇒近代ヨーロッパ(①近代化への適應正常:日本はさに非ず)。

 

〔難解又は重要文〕P235下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

*「その〔『文學(B)と政治(A)との乖離、文學(B)者の社會(A)的關心の稀薄』の〕非をすべて文學(B)の側に、そして作家(B)の側に歸してゐる。が、じじつは政治(A)がすべての責任を負はねばならぬのである。(中略)近代日本文學がリアリズム文學として正統的な發展を許されず、私小説としてのずれとひずみ(PP左圖「彼我の差」參照higanosa.sozai.pdf へのリンク)とをもたなければならなかつたのは、ことごとくが政治(A)の罪であるといふほかはない。(中略)

このばあひ〔近代ヨーロッパのリアリズム文學(B)において〕ぼくたちの見のがしてはならぬ事實は、個人(B)と社會(A)との對立といふ心理的、倫理(B⇒C)的な主題が、制度(A)や法律(A)におけるおなじ主題のうへに、あるいはそれと接續して存在してゐたといふことである。ゆゑに、近代ヨーロッパ文學(B)における自我は完全に純粋な形相において、神(C)のまへにその本質をくりひろげることができたのだ。これをいひかへれば、政治(A)は制度や法律の改革(A‘⇒A)をおこなひつつそのはたすべき役割を充分にはたしてきたたのである。政治(A)が自己の頑迷と無力と怠惰をそのままに、もしそこから生ずる惡結果(A’⇒Aの非客體)をすべて文學(B)の肩に負はせた(A⇒B責任轉化)ならば、文學(B)は絶對に自我の確立と純粋化〔個人の純粋性(B)の静謐〕とを遂行しえなかつたにさうゐない」・・・文中以下①②は何を言はんとしてゐるのであらうか。

①「このばあひ〔近代ヨーロッパのリアリズム文學(B)において〕ぼくたちの見のがしてはならぬ事實は、個人(B)と社會(A)との對立といふ心理的、倫理(B⇒C)的な主題が、制度(A)や法律(A)におけるおなじ主題のうへに、あるいはそれと接續して存在してゐたといふことである」「近代ヨーロッパ文學(B)における自我(個人的自我B)は完全に純粋な形相において、神(C)のまへにその本質をくりひろげることができたのだ。これをいひかへれば、政治(A)は制度や法律の改革(A‘⇒A)をおこなひつつそのはたすべき役割を充分にはたしてきたたのである」。

②「ゆゑに、近代ヨーロッパ文學における自我は完全に純粋な形相において、神のまへにその本質をくりひろげることができた」。「文學(B)は自我の確立と純粋化〔個人の純粋性(B)の静謐〕とを遂行(しえた)」。

・・・尚、明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして更には以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。

*上記文章〔『ことごとくが政治(A)の罪』〕は、〔難解又は重要文〕P234上、③「その罪(「日本の近代文學が社會性(A)の缺如」の罪)はどこにあるのか。いふまでもなくすべて近代日本の歴史が追はねばならなかつた必然である」での説明に、歸する處がかなりある。で、その不足部分を以下にて探究する。

 

①「このばあひ〔近代ヨーロッパのリアリズム文學(B)において〕ぼくたちの見のがしてはならぬ事實は、個人(B)と社會(A)との對立といふ心理的、倫理(B⇒C)的な主題が、制度(A)や法律(A)におけるおなじ主題のうへに、あるいはそれと接續して存在してゐたといふことである」。「いひかへれば、政治(A)は制度や法律の改革(A‘⇒A)をおこなひつつそのはたすべき役割を充分にはたしてきたのである」について・・・〔著 『近代の宿命』から。

*上記傍線文は、以下文「それらが制度化(A:民主主義・國際法・三権分立等)せられ機械化(産業革命等)せられる」を想起させる。

「萬人をその胸に救ひとる人格神が、その手をその脚を、さらにその胴體をもぎとられ、それらが制度化(A:民主主義・國際法・三権分立等)せられ機械化(産業革命等)せられる――で、神は人體を失つて、完全な精神としての抽象化を受ける。その精神が文學の領域(B領域:個人主義文學等)として殘されるといふわけだ」 (『近代の宿命』全二P463

 

②「ゆゑに、近代ヨーロッパ文學(B)における自我(個人的自我B)は完全に純粋な形相(個人の純粋性)において、神(C)のまへにその本質をくりひろげることができた」及び「文學(B)は自我の確立と純粋化〔個人の純粋性(B)の静謐〕とを遂行(しえた)」について・・・

*上記傍線文は、前文中の――で、神(C)は人體を失つて、完全な精神(B)としての抽象化を受ける。その精神(B)が文學の領域(B領域:リアリズム文學・個人主義文學)として殘されるといふわけだ」に相當する。更に「自我(個人的自我B)は完全に純粋な形相(個人の純粋性)において、神(C)のまへにその本質をくりひろげる」詳しく言へば、以下枠文内容となる。

*「ヨーロッパの作家たちが自己(A’)をあへて作品(B)のうちに扼殺したのは、(「社會の醜惡と痼疾とを自己のそれとして受け容れた」爲に)、それ(自己A’)がすでに實生活(A)においても生きる道をもたなかつたからであり、彼等はさういふ自己(A’)を作品(B)のうちに甘やかす(A⇒B滑り込み)ことを徹底的に嫌つたからであつた。いや、彼等は自己(A’)のうちに甘やかしうる餘地を見いだしえなかつた(つまり、個人の純粋性の静謐化)――(リアリズム=西歐自然主義と言ふ手段によつて、)それ(自己A)はエゴイズムと虚榮と俗惡とのかたまり(自我の必然としてのエゴイズム)以外のなにものでもなかつたからである」(『近代日本文學の系譜』P20)。

「實證主義は近代ヨーロッパに自我の平板さと無内容とをおもひしらせた。が、リアリストたちがさういふ近代自我に幻滅と絶望を感じたとすれば、ぼくたちはその絶望を可能ならしめたものとして、かれらの夢想してゐた自我の内容の高さと深さとに想ひいたらねばならず、その背景に發見されるものは神(C)でなくしてなんであつたらうか。そして十九世紀末葉から現代にかけて、かれらの精神が「現代人の救ひ」を求めつつ漂泊をつづけてゐるとすれば、それは實證主義がかれらの自我のうちから追放した神(C)に型どれる人間の概念の探究でなくしてなんであらうか」(P637『現代人の救ひといふこと』)。

~~~以下は「自己(A’)をあへて作品(B)のうちに扼殺した」についての參考文~~~

拙發表文『現代日本文學の諸問題』から・・・

〔難解又は重要文〕P60上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

*「フローベールも俗人(A)を蔑視して象牙の塔(B)に閉ぢこもらうと決意した。が、かれは個人(B)の概念をあくまで俗人(A)のうちに沈めようと覺悟してゐたのだ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。捕捉すると、「かれは個人(B)の概念をあくまで俗人(A)のうちに沈めようと覺悟してゐたのだ」とは、端的に言へば「かれの實證主義的(A’⇒A)な批評精神はその作品からあらゆる夢想(C)を放逐し、『ボヴァリー夫人』や『感情教育』を完璧に合理と必然との網目(A’⇒A)にぬりこめつてしまつた」と言ふ事であらう。

「フローベールは個人(B)の概念をあくまで俗人(A)のうちに沈めようと覺悟してゐたのだ」について「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

*「個人(B)の敗北を身をもつて敗北してみせること、可能性の天窓は一分のすきもなく完全にとざされ(B―夾雑物=B狭小化)、現實世界(A)で獲得できた自由(A’⇒A客體化)のいかにつまらなく、それがあまりにつまらぬために自由でもなんでもない(自我の必然=エゴイズム)といふことを、克明に描寫し證明してやること(それが小説『マダム ボヴァリー』)」であつたと(參照『現代日本文學の諸問題』全一P59)。

*「フローベールにおけるリアリズム(A)の完成(A’⇒A)とは、ロマネスク(B)なもの、びつくりするやうな事件、夢想(B⇒C)や情熱、これらすべてに死を宣告することであり、その役割を買つて出たのがかれの批評精神にほかならない。(中略)たしかにかれの實證主義的(A’⇒A)な批評精神はその作品からあらゆる夢想(B⇒C)を放逐し、『ボヴァリー夫人』や『感情教育』を完璧に合理と必然との網目(A’⇒A)にぬりこめつてしまつた。(中略)さきに追放されたはずのロマネスク(B)や夢想(B⇒C)こそが、作品の裏がはからあのリアリスティックな無表情の記述の保證に立つてゐるにほかならない」(『小説の運命Ⅱ』P611PP圖「ロマネスクとリアリズム」)。

*フローベールは「現實の醜惡を素材(A)として、美(B夢想家⇒C理想人間像)を志向する創作方法」と言ふ、その「主張と正當化との場所」を見いだす事で、「リアリズムによる自己(A)否定」を完遂する事が出來たのである、と恆存は言ふ。ただそれら美(B夢想家⇒C理想人間像)は、「作品の裏がはからあのリアリスティックな無表情の記述の保證に立つてゐるにほかならない」(『小説の運命P611下)と。そして、何處にも神(C)を語つてゐないあの小説スタイルこそが「神に型どれる人間の概念(理想人間像C)の探究」なのだと、恆存は言つてゐるのである。

*「(西歐)十九世紀後半の自然主義作家にとつて、資本主義社會(A)は彼等の自我(A’)を實生活(A)において拒絶し扼殺するほどに堕落し硬化したのであり、しかもこの社會(A)的事實を彼等ははつきり凝視し、さらにこれを自己(A’)のものとして――いはば社會(A)の醜惡と痼疾とを自己(A’)のそれとして受け容れたのであつた。またそれゆゑの嚴しい自己否定(B⇒C:理想人間像)でもあつた(とは、A=A’として、即ちAの醜惡と痼疾、堕落と硬化を自己のもの、換言すれば「エゴイズムと虚榮と俗惡とのかたまり:P20」として受け容れたと言ふ事である)。彼等の自我(A’)はもはや作品(B)以外に主張と正當化との場所(B⇒C:理想人間像)を見いだしえなかつたのである」(『近代日本文學の系譜』P19)。

 

〔難解又は重要文〕P236下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

*「政治(A)が個人(A‘)の解放におのが職分をつくしえぬところ(A‘⇔A:離反)にあつては、精神(B)はその(個人A‘の)自由をめざしながら、じじつは政治(A)的、社會(A)的な自由の充分にあたへられてゐぬ(A‘⇔A:離反の)苦澀を訴へ、その苦澀にわが身を投じて、しかもそれ(A‘⇔A:離反)に堪へぬくといふ、いはばはなはだあてつけがましい形においてしか自由への希求を表現しえぬことになる。ここに文學(B)は政治(A)の無力(A‘⇔A:離反)の尻ぬぐい(B構築、即ち:A⇒B滑り込み)をさせられるのだ。このばあひ文學(B)は政治(A)と離反したのではない――まさに政治(A)のとばつちり(「精神の政治學ライン」未下降)を受け、逆説的ではあるが、政治(A)の安全瓣(B構築:下支へ)としてまことに政治(A)的な機能をはたしてゐるのである〔政治(A)の安全瓣(B構築:下支へ)と言ふ「PP左圖」の長所的側面〕。これが近代日本文學(B)における政治(A)性、あるいは社會(A)性の缺如(A⇒B:滑り込み)の眞相である」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。詳しくは、以下プロセスを物語つてゐるのであらう。

*「政治(A)の安全瓣(B構築:下支へ)と言ふ「PP左圖」の逆説的(長所的)側面が、近代日本文學(B)における政治(A)性、あるいは社會(A)性の缺如(A⇒B:滑り込み)の眞相」・・・とは、以下のプロセス。つまり、別紙「彼我の差:PP左圖」(近代化適應異常圖)の逆説的(長所的)明示を言ふ(參照)。

 

*「PP左圖」上部(個人A‘⇔政治A:離反)⇒政治(A)の無力(A‘⇔A:離反)⇒即ち「精神の政治學ライン」未下降(右圖「西歐近代」との大差)⇒逆説的安全瓣(B構築・下支へ)として、その尻ぬぐい(A⇒B滑り込み)。

 

〔難解又は重要文〕P238下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

*「ぼくはかさねて問ふであらう――ぼくたちのあまりに封建的な現實(「彼我の差:PP左圖」の事であらう:參照)のうちにあつて、眞によき隣人〔とは(A‘):〔難解又は重要文〕P235上記載「個人(B)は社會(A)にたいする有用性」の事では〕であり、よき社會人(A‘)であらうとするならば、ひとはいかにして文學(B)者たるの職業と資格とを保持しえようか。いや、ことは、文學(B)に限らぬ。このゆがんだ現實(「彼我の差:PP左圖」の事であらう)のうちにあつては、よき隣人(A‘)、よき社會人(A‘)であることは生活的敗北(A‘⇔A:離反)を意味するにすぎぬ」(傍線:以下參照)

〔難解又は重要文〕P235上:記載「日本の特殊性」から・・・

②社會(A)に對する、個人(B)價値の追求とその敗北:(注:社會=肉體A。個人=精神B。と恆存は見てゐる)。

*「精神(B)は肉體(A)の保證なくしてその眞實性を自己確認しえぬ」・「物質(A)によつて支へられなければ、その所在も眞實性も保證しえぬ精神(B)のあいまいさ」⇒肉體(A:社會・物質)の優位性⇒精神(個人)の問題は物質でけりがつく⇒積極的承認:唯物論・社會主義へ。消極的承認:「個人(B)は社會(A)にたいする有用性」へ(參照:P58・62~3全一『現代日本文學の諸問題』:P458全二『近代の宿命』)。

續く⇒「貧乏國日本の反封建的資本主義(「彼我の差:PP左圖」)は社會(A)的成功のかげにつねに惡事を隱しもつてきた(先述參照)。が、文學(B)は良心(個人の純粋性B)と批判精神とを缺いては存立しえぬ。とすれば、ぼくたちの良心(個人の純粋性B)のまへに突きつけられる二者擇一は、文學(B)者として社會(A)にそむくか、政治(A)家としてそのやうに文學(B)者を非社會的(A⇒B:滑り込み)、反社會的(A⇒B:滑り込み)ならしめた現實(A‘⇔A:離反)を改變しよう(A⇒A’、即ち「彼我の差PP右圖:西歐」的に)と努力するか、そのいづれかである」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみたが、いかがであらうか。

 

〔難解又は重要文〕P239上「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

*「いや、そこにはまた別の道があつた。文學(B)と政治(A)との中間に、良心(個人の純粋性B)にかけて没落〔とは後述(P240上)、『ぼくたちの生活(A)を犠牲(A⇒B文學:滑り込み)に供せねばならぬ』といふ事では〕を敢行することである。啓蒙家(進歩的啓蒙家)は近代日本の作家の反社會性(A⇒B:滑り込み)をいふが、じじつはぼくたちのすぐれた先輩のうちに、社會(A)を敵(A‘⇔A:離反)としたものなどひとりもゐはしない。かれらはことごとく善良な社會人(A‘)であつた(例:鷗外・漱石)。かれらの文學(B)は、かれら自身の意識するとしないとにかかはらず、その社會的關心(A’⇒A:客體化的意思)の重荷にうちひしがれてゆがんでゐる。その作品の額面から近代日本文學の非社會性(A‘⇔A:離反)を結論する啓蒙家は所詮、作品(B)の生れてくる心理的過程【參照⇒〔難解又は重要文〕P234上記載〔恆存が書く「自然主義作家・私小説家」に至る流れ〕】に盲目な徒輩であるといはねばならぬ。ぼくたちの先輩は作品(B)の非社會性(A‘⇔A:離反)、ときにはその文學(B)性をすら犠牲にしてまで、その社會(A)的現實に忠實〔とは「彼我の差:PP左圖」の逆説的安全瓣性(B構築・下支へ)に忠實であつたではないか」。

 「ぼくたちの近代文學(B)は眞の意味において近代の文學(「PP右圖:西歐」)ではない――いや、ときに文學(B)ですらない。悲劇でなくしてなんであらうか。が、この悲劇は政治(A)と文學(B)との乖離、乃至は文學(B)者の社會(A)的無關心から起つたものではなく、政治(A)の無力と惡とを文學(B)の領域にもちこんだこと(A⇒B:滑り込み)によつて生じたものである〔先述〔難解又は重要文〕P234上③『その罪はどこにあるのか』參照〕。とすれば、文學(B)の社會(A)性とはいつたいなにか。文學(B)者の社會(A)的關心とはいつたいなにか。ぼくたちはいつまでそのやうに文學(B)に固執するのか。批評がなにものにも囚はれぬ精神(B)を必要とするなら、文藝批評といへども、ときに文學(B)への執着をたち、その領域(B)をとびすさつて事態を冷静に眺めてみてもよいではないか

・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。尚、以下文については、下項〔難解又は重要文〕P239下で探究する。

*「いや、そこにはまた別の道があつた。文學(B)と政治(A)との中間に、良心(個人の純粋性B)にかけて没落〔とは後述(P240上)、『ぼくたちの生活(A)を犠牲(A⇒B文學:滑り込み)に供せねばならぬ』といふ事では〕を敢行することである」。

文藝批評といへども、ときに文學(B)への執着をたち、その領域(B)をとびすさつて事態を冷静に眺めてみてもよいではないか」。

 

〔難解又は重要文〕P239下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

*「結論ははなはだ平凡である。ぼくたちは文學(B)に社會(A)性を囘復せんとつとめるまへに、まづ現實(A)に社會性(A‘⇒A)を與へねばならない〔とは『彼我の差:PP左圖』の上部(集團的自我:A)を『右圖:近代西歐』の態様に構築する事では〕。私小説作家に構成力と想像力との缺如を批難するまへに、現代日本の社會(A)にダイナミックな構成性(A‘⇒A:『右圖:近代西歐』の態様)を與へ、そのなかに棲むぼくたちに未來と空白とに對する可能性を實感せしめることが必要である(傍線部はつまり、以下枠「PP圖:歴史の一貫性」の「精神の政治學ライン」下降の可能性の事を謳つてゐるのでは。そして以下内容も)。

參照⇒「歴史の一貫性」rekisinoikkannsei.pdf へのリンク

 

《「統一性と一貫性との意識が人間の生活に歴史を賦與」》

*歴史の意識(西歐)・・・「歴史を持つ社會は、自ら囘復しえぬやうな病ひをけつして背負ひこまない。歴史の意識をヨーロッパにはじめて植ゑつけたものが中世であり、そのクリスト教にほかならなかつた。ギリシャに歴史はない。――絶對者のないところに歴史はありえないのである。統一性と一貫性との意識が人間の生活に歴史を付与する。(即ちPP圖「精神の政治學ライン」下降)とすれば、ぼくたち日本人がヨーロッパに羨望するものこそ、ほかならぬ近代日本における歴史性の缺如以外のなにものであらうか」(『近代の宿命』全二P460)。

〔詳細説明〕

*クリスト教の絶對神による「統一性と一貫性との意識が人間の生活に歴史を賦與」した⇒そしてその神(絶對者)そのものが「近代を過去のアンチテーゼとして成立せしめる歴史的一貫性」を形作つた。即ち西歐近代は「反逆すべき神」として中世を持つことが出來たのである。「神への叛逆も、じつは千年にわたるながいあいだの神への凝視と沒入とから習得し免許をあたへられた理想人間像にもとづいておこなはれたものである」(P599『小説の運命Ⅰ』)⇒「なぜなら神と言ふ統一原理はその反逆において効力を失ふものではなく、それどころか反逆者の群れと型とを統一しさへする」⇒どのやうに統一していつたかと言へば、近代西歐精神を「神に型どれる人間の概念の探究」と言ふ形で統一していつたのである。(參照:『近代の宿命』P462、及び同小生發表文中「西歐歴史的統一性:圖解」及び『現代人の救ひといふこと』)。

續く⇒「が、そこ〔『現實(A)に社會性(A‘⇒A)を與へねばならない』云々〕までいふなら、良心的な現代人(A‘)は文學(B)と絶縁(B⇒A:復歸)し、政治(A)にむかはなければならない(A‘⇒A客體化に)。あるいはよき社會人(A‘)として積極的に經濟(A)秩序の再建(A‘⇒A)に從はなければならない。ぼくたちはまづなによりも生産(A‘⇒A)に――生活必需品の生産に従事しなければならない(「個人(B)は社會(A)にたいする有用性」と同意か?)・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。

 

〔難解又は重要文〕P239下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

*「にもかかはらず、ぼくたちは、――すくなくともぼくは――文學(B)に固執する。そしてぼくたちの良心的な先輩たちは、おなじやうな懐疑〔とは『良心的な現代人(A‘)は文學(B)と絶縁(B⇒A:復歸)し、政治(A)にむかはなければならない(A‘⇒A)。あるいはよき社會人(A‘)として積極的に經濟(A)秩序の再建(A‘⇒A)に從はなければならない』と言ふ事〕に苦しめられながら、おなじやう(A⇒B:滑り込み)にして、文學(B)に固執してきたのである」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。

尚、文中「懐疑(即ち、政治經濟再建:A‘⇒Aの後ろめたさ。後述『良心の呵責』)に苦しめられながら、文學(B)に固執」とは以下の事を指す。

先述項目〔難解又は重要文〕P236下

*「政治(A)が個人(A‘)の解放におのが職分をつくしえぬところ(A‘⇔A:離反)にあつては、精神(B)はその(個人A‘の)自由をめざしながら、じじつは政治(A)的、社會(A)的な自由の充分にあたへられてゐぬ(A‘⇔A:離反の)苦澀を訴へ、その苦澀にわが身を投じて、しかもそれ(A‘⇔A:離反)に堪へぬく(後述『良心の呵責』)といふ、いはばはなはだあてつけがましい形においてしか自由への希求を表現しえぬことになる。ここに文學(B)は政治(A)の無力(A‘⇔A:離反)の尻ぬぐい(B構築、即ち:A⇒B滑り込み)をさせられるのだ」。

續く⇒「かれらは――近代日本(參照「彼我の差「素材」:PP左圖」 higanosa1.s)は文學(B)などにかかづらつてゐる(同圖:A⇒B:滑り込み)べきではなかつたのだ(即ち、PP右圖化=近代國家、を志向すべきだつたと)。(中略)明治の知識階級は――文學(B)に政治(A)的關心をとりいれるべきだつたなどと反省〔とは『良心的な現代人(A‘)は文學(B)と絶縁(B⇒A:復歸)し、政治(A)にむかはなければならない(A‘⇒A)・・』と言ふ『懐疑』の事〕ではなく――(そんな懐疑反省なんぞに振り向くのではなく)なぜ文學(B)を棄てて政治(A)に打ちこんでくれなかつたのか」。

 「が、ぼくの本心はここまできて立ちどまる。ぼくはあへて政治(A)と文學(B)とのあひだに没落するであらう〔『没落』とは、(前出P239下)『文藝批評といへども、ときに文學(B)への執着をたち、その領域(B)をとびすさつて事態を冷静に眺めてみてもよいではないか』の思索により、『ぼくたちの生活(A)を犠牲(A⇒B文學:滑り込み)に供せねばならぬ』(P240上)といふ事では〕。しかし逆説〔とは『近代日本文學の逆説』即ち『文學(B)を棄てて政治(A)に打ちこむ』(本家還りの假説)〕がひとつの眞實たるためには、そのひとの生涯〔とは、「PP左圖」が招いた『(A‘⇔A:離反・政治放棄の)苦澀にわが身を投じて、しかもそれ(A‘⇔A:離反・政治放棄)に堪へぬいた』、『明治:先輩』の良心の呵責(B後述)的生涯の事を指す〕が犠牲にされなければならない。その(良心の呵責B的生涯の)苦惱Bが逆説〔即ち『文學(B)を棄てて政治(A)に打ちこむ』(本家還りの假説)〕に切實な悲しみを添へる。近代日本文學の逆説〔とは『文學(B)を棄てて政治(A)に打ちこむ』(本家還りの假説)〕は、文學(B)を棄てるべき時代にこれ(文學B)に固執したもの(作家)の當然あがなはねばならなかつた悲しみ(良心の呵責:以下枠文傍線)に色どられて、はじめて眞實の光を放つてゐる」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして更には以下を物語つてゐるのではなからうか。

*上文中の「文學〔即ち『近代の文學(B「PP右圖:西歐」)ではない、ときに文學(B)ですらない』もの〕を棄てるべき時代に、これ(文學B)に固執したものの當然あがなはねばならなかつた悲しみ〔とは「A‘⇔A:離反・政治放棄」の苦澀(良心の呵責)〕に色どられて、はじめて眞實の光を放つてゐる」・・・とは、「文學(B)を棄てて政治(A)に打ちこむ』(本家還りの假説)が、ひとつの眞實たるためには」、『明治:先輩』の良心の呵責(B)が犠牲にされると言ふ事(とは、良心の呵責が「B領域」に取り殘される事)を意味する。

⇒參照PP圖:「近代日本文學の逆説」bungakunikoshitsu.pdf へのリンク

續く⇒(P240上)「もし今日においても、なほおなじ宿命〔とは『文學(B)を棄てるべき時代にこれ(B)に固執』〕の流れに棹さすとするならば、ぼくたちはまづぼくたちの生活(A)を犠牲(A⇒B文學:滑り込み)に供せねばならぬ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして更には以下の事を物語つてゐるのではなからうか。

*「今日においても、なほおなじ宿命(即ち『文學(B)を棄てるべき時代に文學(B)に固執』)の流れに棹さすとするならば、ぼくたちはまづぼくたちの生活(A)を犠牲(A⇒B文學:滑り込み)に供せねばならぬ」とはつまり、「今日の現實をまへにして、文學(B)に固執するなら」、良心の呵責(「政治經濟再建:A‘⇒A」放棄の後ろめたさ)を、(「個人の純粋性B」として)今後も保持しなければならない、この(今後も保持の)宿命に據る以外に、現代文學(B)は存立しえぬ」(P240)と言ふ事では?

⇒參照PP圖:「近代日本文學の逆説」bungakunikoshitsu.pdf へのリンク

尚、上文「『明治:先輩』の良心の呵責(B後述)的生涯の事を指す〕が犠牲」を理解するには、先述項目:〔難解又は重要文〕P236下の以下説明文が必要となると思ふ。

先述項目:〔難解又は重要文〕P236下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

*「政治(A)が個人(A‘)の解放におのが職分をつくしえぬところ(A‘⇔A:離反)にあつては、精神(B)はその(個人A‘の)自由をめざしながら、じじつは政治(A)的、社會(A)的な自由の充分にあたへられてゐぬ(A‘⇔A:離反の)苦澀を訴へ、その苦澀にわが身を投じて、しかもそれ(A‘⇔A:離反)に堪へぬくといふ、いはばはなはだあてつけがましい形においてしか自由への希求を表現しえぬことになる。ここに文學(B)は政治(A)の無力(A‘⇔A:離反)の尻ぬぐい(B構築、即ち:A⇒B滑り込み)をさせられるのだ。このばあひ文學(B)は政治(A)と離反したのではない――まさに政治(A)のとばつちり(「精神の政治學ライン」未下降)を受け、逆説的ではあるが、政治(A)の安全瓣(B構築:下支へ)としてまことに政治(A)的な機能〔つまり(A‘⇔A:離反)に堪へぬく苦澀〕をはたしてゐるのである。これ〔逆説的安全瓣(B構築:下支へ)〕が近代日本文學(B)における政治(A)性、あるいは社會(A)性の缺如(A⇒B:滑り込み)の眞相である」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。詳しくは、以下プロセスを物語つてゐるのであらう。

*「政治(A)の安全瓣(B構築:下支へ)と言ふ「PP左圖」の逆説的(長所的)側面が、近代日本文學(B)における政治(A)性、あるいは社會(A)性の缺如(A⇒B:滑り込み)の眞相」・・・とは、以下のプロセス。つまり、別紙「彼我の差:PP左圖」(近代化適應異常圖)の逆説的(長所的)明示を言ふ(參照higanosa1.sozai.pdf)。

 

*「PP左圖」上部(個人A‘⇔政治A:離反)⇒政治(A)の無力(A‘⇔A:離反)⇒即ち「精神の政治學ライン」未下降(右圖「西歐近代」との大差)⇒逆説的安全瓣(B構築・下支へ)として、その尻ぬぐい(A⇒B滑り込み)。

續く⇒そしてこの否定的逆説〔とは『文學(B)を棄てるべき時代に文學(B)に固執するなら』、『ぼくたちの生活(A)を犠牲(A⇒B文學:滑り込み)に供せねばならぬ』〕を意識するところ(實行ではなく)に現代がある。が、問題はそれだけではない――逆説の意識〔生活(A)を犠牲(A⇒B文學:滑り込み)〕がなにを生みうるか、いかなる美(BC:藝術)を定着しうるか。もしそれが不可能ならばぼくたちのことば(藝術B・文學B的手段)も生活(A)もすべて抹殺されなければならぬ(有るのは只の肉體的棲息)。自己欺瞞や自慰のうちから出でて、すなほに自分の心をのぞいてみるがよい――よりよき社會(A)といふ概念と文學(B)とが、この現代において、いつたいどこで結びつくのか〔とは先述、日本の特殊性:『②社會(A)に對する、個人(B)價値の追求とその敗北』の事〕。(中略)文學(B)などは社會(A)の進歩や改善のためになんの役にも立ちはせぬ。が、ほかならぬ今日の現實をまへにして、そのやうな文學(B)に固執するとすれば、それは良心の呵責〔とは『それ(政治放棄:A‘⇔A)に堪へぬ』いた良心の呵責(B)〕なくしてはありえない。ぼくたちはこの〔政治放棄(A‘⇔A)の〕呵責(B)を明治の先輩から引繼いだ」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。

尚、文中「引繼いだ良心の呵責」とは以下傍線の事を示す。

前述〔難解又は重要文〕P239下「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

*「ぼくたちの良心的な先輩たちは、おなじやうな懐疑に苦しめられながら〔とは『良心的な現代人(A‘)は文學(B)と絶縁(B⇒A:復歸)し、政治(A)にむかはなければならない(A‘⇒A)。あるいはよき社會人(A‘)として積極的に經濟(A)秩序の再建(A‘⇒A)に從はなければならない』(政治經濟再建:A‘⇒Aの後ろめたさ)〕、おなじやうに〔とは『A⇒B:滑り込み、即ち逆説的安全瓣(B構築・下支へ)』と〕して、文學(B)に固執してきたのである」。

續く⇒「――そしてこれ〔とは『A⇒B:滑り込み、即ち逆説的安全瓣(B構築・下支へ)』に伴ふ良心の呵責(B、即ち「政治經濟再建:A‘⇒A」の後ろめたさ)〕を今後も保持しつづけねばならない。それがぼくたち(「PP左圖」構圖)の宿命であり、この宿命に據る以外に、現代文學(の「個人の純粋性B」静謐)は存立しえぬし、文學(B)者の社會(A)的關心もその形においてしか正しい表現をもちえぬのである」・・・とは何を言はんとしてゐるのであらうか。明確化する爲に一應、小生的見解を上文中に括弧で入れてみた。そして更には以下の消息を物語つてゐるのではなからうか。

「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

 

〔「良心の呵責を今後も保持」について〕

*上文中「ぼくたちはこの〔政治放棄(A‘⇔A)の〕呵責(B)を明治の先輩から引繼いだ――そしてこれ〔とは『A⇒B:滑り込み、即ち逆説的安全瓣(B構築・下支へ)』に伴ふ良心の呵責(B、即ち「政治經濟再建:A‘⇒A」の後ろめたさ)〕を今後も保持しつづけねばならない。それがぼくたち(「PP左圖」構圖)の宿命」とは、他評論中の以下文章(各傍線部分)に深く關聯してくるのではなからうか。

 つまり、上文「ぼくたちはこの〔政治放棄(A‘⇔A)の良心の〕呵責を明治の先輩から引繼いだ――そしてこれ〔とは『A⇒B:滑り込み、即ち逆説的安全瓣(B構築・下支へ)』に伴ふ良心(B)の呵責(B、即ち「政治經濟再建:A‘⇒A」放棄の後ろめたさ)〕を今後も保持しつづけねばならない」と言ふ、意味的重要性は、評論中の以下①②③を果たさなければならないからである。そして、それ(①②③)を果たすには、それを吊り上げる、④の「理想人間像(C)」が必須となる。①②③が「なにを生みうるか、いかなる美(C)を定着しうるか」の、『羅針盤(C)』役が「理想人間像(C)」なのである。もしそれ(美Cを定着=『羅針盤・理想人間像:C』構築)が不可能ならばぼくたちのことば(藝術B・文學B的手段)も生活(A)もすべて抹殺(相對主義の泥沼化?)されなければならぬ」。

換言すると、明治の先輩の「政治放棄(A‘⇔A)」なる良心の呵責(B)が、悲しみに色どられて、近代日本文學の逆説〔『文學(B)を棄てて政治(A)に打ちこむ』(本家還りの假説)〕が、「はじめて眞實の光」を放つ樣になるには、現代人は理想人間像(C)を持つ事が必須になる、と言ふ事なのでは。詳しくは、以下文及び「關係論」を參照されたし。

P240「現代文學(B)存立の爲に」》「 」内が恆存文。( )内は吉野注

⇒參照PP圖:「近代日本文學の逆説」bungakunikoshitsu.pdf へのリンク

 

*「もし今日においても、なほおなじ宿命〔とは『文學(B)を棄てるべき時代にこれ(B)に固執』〕の流れに棹さすとするならば、(『明治の先輩』の犠牲と同樣)ぼくたちはまづぼくたちの生活(A)を犠牲(A⇒B文學:滑り込み)に供せねばならぬ。そしてこの否定的逆説〔とは『文學(B)を棄てるべき時代に文學(B)に固執するなら』、『ぼくたちの生活(A)を犠牲(A⇒B文學:滑り込み)に供せねばならぬ』〕を意識するところ(實行ではなく)に現代がある。が、問題はそれだけではない――逆説の意識〔生活(A)を犠牲(A⇒B文學:滑り込み)〕がなにを生みうるか、いかなる美(B⇒C:藝術)を定着しうるか。もしそれが不可能ならばぼくたちのことば(藝術B・文學B的手段)も生活(A)もすべて抹殺されなければならぬ(有るのは只の肉體的棲息)。(中略)「今日の現實をまへにして、文學(B)に固執するなら」、(『明治先輩』の)良心の呵責(即ち「政治經濟再建:A‘⇒A」放棄の後ろめたさ)を、(「個人の純粋性B」として)今後も保持しなければならない、この(今後も保持の)宿命に據る以外に、現代文學(B)は存立しえぬ」(『文學(B)に固執する心』全二P240:抜粋及び簡略文)〕。

 

關係論:①理想人間像(C)⇒からの關係:①を抱きつつ、④(恆存)は「:『文學(B)に固執しながら、生活(A)を犠牲(AB文學:滑り込み)に供せねばならぬ』を意識する(實行ではなく)」⇒「③『明治先輩の良心の呵責(B)』(➋的概念F)⇒E:③が悲しみに色どられて(Eの至大化)、近代日本文學の逆説が「はじめて眞實の光」を放つ」(③への距離獲得:Eの至大化)⇒④恆存(及び現代人△枠):①への適應正常。

 

 

  別な脱却方法:個人價値の再構築(恆存の主張):「社會(A)との葛藤を通じて個人(B)の確立」。

  社會(A)が個人(B)を否定して抹殺してかかるならば、まさにその對立と矛盾とこそ好個の題材ではないか。(中略)文學(B)者とは自己のうちの個人(B)を廢棄しえぬ人間ではなかつたか。とすれば、いかなるイデオロギーのまへにも、なんの氣がねもなく個人(B)に執着し、社會(A)との葛藤を通じていかにしてでも個人(B)を確立しなければならない」。

  私(恆存)にとつては、文學(B)より生活(A)の方が優先する。人間や社會(A)の方が優先する」。

  理想人間像(C)なくして沒落することすら不可能である」。

拙發表文『現代日本文學の諸問題』から。

 

そして西歐十九世紀「近代自我=個人主義」の結論は以下の通りに。

*近代自我の必然としてのエゴイズム(個人主義は畢竟エゴイズム)⇒個人の敗北⇒近代自我(個人主義)の限界と凋落⇒個人の権威の否定⇒個人主義の超克⇒「個人的價値に對する社會的價値の優位」⇒個人は社會への有用性としての価値へ轉落。

それを二十世紀は「二十世紀の理想」として引き継ぐ。(下欄「重要」文參照)

①B(個人・藝術)のA(社會)への奉仕。社會革命に奉仕(民主主義文學=プロレタリア文學の延長として)。(P63全一『現代日本文學の諸問題』)

②社會(物質)的解決で個人(精神)の問題は解決。

*自由は精神(B)の問題でなくなる。社會的物質的(A)自由にて解決(物質主義)。

*社會(A)的平和があれば個人の問題は解決(平和の最高價値化。絶對平和主義へ)。

 

別な脱却方法:個人價値の再構築(恆存の主張)

*「一匹(B)と九十九匹(A)」の峻別。即ち「文學(B)的=個人的自我(B)」の追求。「個人(B)は社會(A)にたいする有用性」としての價値へ轉落させるのではなく、「社會(A)との葛藤を通じて個人(B)の確立」を。

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拙發表文『小説の運命Ⅰ』から。

 

「個人主義の凋落(それが故の「個人主義の超克」)とともに、たしかに個人の権威はおびやかされ、否定されようとしてゐる。ひとびとは社會的價値の名のもとに一切の個人的なものを否定しようとしてゐる。社會的價値を通じて以外に個人の存在はみとめられない。これが二十世紀の理想であり、そのかぎりにおいて人類は進歩の段階をふみしめつつある。ぼくはそれを疑はない。が、それはあくまで政治の理想であり、文學の道ではない。ぼくたちのうちに――ぼくたちひとりひとりの内部に、政治的=集団的自我があり、また文學的=個人的自我がある。個人主義の線にそつての個人の権威は没落しても、個人の存在は永遠に失はれぬであらうし、文學は――文學が存續しうるかぎり、この存在を見うしなつてはならない。(中略)

社會が個人を否定して抹殺してかかるならば、まさにその對立と矛盾とこそ好個の題材ではないか。(中略)前世紀においてこの(社會と個人の)對立は個人(個人主義)の勝利からその敗北へ、その自意識(「人間如何に生くべき:D2」)の發見とその虚妄(結局自己陶酔と言ふ:D3)とにをはつた。が、今日、個人は敗北と自我喪失(個人主義は畢竟エゴイズム)とから、この危機におそはれてふたたび個人と社會との對立に直面してゐる。ひとびとは性急に個人の廢棄によつてその解決がもたらされうると信じこんでゐるかにみえる。が、文學者とは自己のうちの個人を廢棄しえぬ人間ではなかつたか。とすれば、いかなるイデオロギーのまへにも、なんの氣がねもなく個人に執着し、社會との葛藤を通じていかにしてでも個人を確立しなければならない」(P601全一『小説の運命Ⅰ』)

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『獨斷的な餘りに獨斷的な』(P513上)から。

「私(恆存)は一個の常識人として『破戒』を通じ、近代日本における小説の、いや、文學の在り方を社會的、道徳的に否定してゐるのに過ぎない。私にとつては、文學(B)より生活(A)の方が優先する。人間や社會(A)の方が優先する」。

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拙發表文『私小説的現實について』から。

 

*「神(C)の魔力なくして理想人間像(C)を樹立すること――もちろんぼくたちはその(A上の相對主義的解決の)ほかに方法をもたないとしても、またその宣言がいかにいさぎよいものであるにしても、はたして、またいかにしてそれは可能であるかまづ沒落すること、いや、理想人間像(C)なくして沒落することすら不可能であること、そのこと(相對主義の泥沼)の苦しさを苦しむこと―― 一切はそれからである」(全二P477『理想人間像について』昭和二十二年九月)。

 

(參考)拙發表文【講義「近代化とは何か」(單行本『人間の生き方、ものの考へ方』P70より)(昭和四十一年八月六日:五十五歳)】から。

〔克服への道〕

〔難解又は重要文〕P103「 」内が恆存文。( )内は吉野注。

*「克服の道もかうすればいいといふ妙法があるわけではありません。あるとすれば、それは今私が言つたやうな問題を全部自覺することといふことです。現在自分たちがどこに立つてゐるのか(彼我の差)といふことを徹底的に考へる。過去を顧みて現在の位置を確めるといふことが一番大事なことであると思ひます。(中略)近代化といふものに徒に夢を抱かないで現實を十分に直視する。そこから克服への道といふものを考へる手立てが出て來ると思ひます。すべて精神的な問題の場合は、混亂なら混亂の現状を自覺することにしか、その克服の道はありません。克服などといふ安易な道はありえないと悟らざるをえないほどの絶望的な混亂を痛感することから出直さねばなりません。(中略)近代化の過程におけるわれわれの立地點を十分に自覺すること、それが克服への道であり、解決の道である」。

 

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